夢見る映画〜20世紀の100本(6本目〜10本目)

さあ、第6作目は「恐怖の報酬」、1953年制作のアンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督の作品です。

 

 

結論から先に言いましょう、はっきり言ってあんまり面白くありません。

プロットはシンプルです。

職にあぶれた男たちに危険な仕事が回ってきます。

ちょっとした振動ですぐ爆発するニトログリセリンの輸送です。

この危険な仕事に四人の男たちが立候補しました。

 

こう書くと面白そうです。

しかし、この単純な物語になぜか149分が費やされます。

特に前半の退屈な事!

 

恐怖の運搬が始まるまでにたっぷり1時間。しかもこの1時間の間に、主人公たちへの共感を誘う描写があるわけでなく、金を必要とする切羽詰った理由を指し示してくれるわけでもなく。

ただただ彼らは飲んだくれて、真面目に働いている連中をからかったり、因縁を吹っ掛けたりして過ごしています。

「登場人物に感情移入した方が、よりハラハラできる」と信じ込んでいましたが、「そんなの迷信、そんなの単なる都市伝説」とばっさり否定されたような感じです。

 

後半のサスペンスは、まあまあ見せてくれます。

しかしこれも、「五十年前にしてはドキドキさせてくれるね」程度です。

「シン・ゴジラ」と「キングコング〜髑髏島の巨神」と「グレートウォール」と「恐怖の報酬」の中から、もう一度見たい三本を選べと言われたら、一瞬も迷わず即答できます。

 

逆に、「『恐怖の報酬』は今の映画なんかと比べ物にならないくらいけた違いにすごいわー」と言っている人の脳みその中身は、見てみたいような気もします。

 

(2017年5月8日)

 

7本目は1953年製作、小津安二郎監督の「東京物語」です。

 

 

大好きというわけではないのに、不思議と何度も見たくなる映画です。

こういう映画を評価するのは難しいです。

見たい気分の時に見るので、基本的にネガティブな感想にはならないからです。

 

今回見直して感じたのは

1)尾道には行きたくなる、東京には行きたくならない

2)子どもたちの家は東京のはずれにあって、東京らしい景色も映らない、それなのになぜかこのタイトル

3)とみの病気が何かがよく分からない

4)とみの物忘れを病気に関連づけることは不可能ではないが、冒頭では周吉も物忘れする

5)とみのいびきを病気に関連づけるのは、いくら何でも行き過ぎかも

 

すごく精緻に作られた映画とは解釈すべきではないように感じました。 谷崎でいうと「猫と庄造と二人のをんな」のような。

 

鍵を握るのは、冒頭のシーンとラストのシーンを、続けて撮ったのか、それとも日を改めて撮ったのか、という点だと思います。

 

(2017年7月31日)

 

8本目は1953年製作、ウィリアム・ワイラー監督の「ローマの休日」です。

 

 

(1)

 

誰が何と言おうと、ありとあらゆる映画の中で最高の一本です。 「最高の映画の一つ」ではありません、「最高の映画」です。

 

二十世紀の名作映画を100作紹介する「夢見る映画」企画ですが、「ローマの休日」は、それ以外の99本を足したよりもはるかに価値があります。

ローマ遺跡も、この映画のために存在したのかと思うほどです。

 

何と言ってもオードリー・ヘプバーンです。

小学生の頃に観た時には

 

 

こちらの髪型の方が可愛いと思いました。
髪の毛を切るシーンではがっかりしたものです。

 

でも、今はやっぱり

 

 

こっちです。

 

「ローマの休日」を観て、美容院のシーンでがっかりするのが子ども、ときめくのが大人。
そう定義づけることにしました。

 

(2017年9月1日)

 

(2)

 

ここまで完璧な映画だと逆に書くことがありません。

 

思い出すことが一つあります。 大昔、この映画がゴールデン洋画劇場で放映された時に、家族そろって観ました。 最後に、解説の高島忠夫さんが確かこんなことを言ったと思います。

 

「続編を作ってはどうでしょう? 国に戻ったアン王女が、新聞記者ジョーとカメラマンアーヴィングをパーティーに招待するんです!」

 

私の父がそれを聞いて「ほおっ、それは素晴らしい」とうなりました。 普段テレビを見て感想を口にするような人ではないので、とても印象に残りました。

 

ただ、その続編構想が子どもの頃の私には全然面白いとは思えませんでした。 自分も大人になったらそのアイデアを面白いと感じられるようになるんだろうか、と思ったものです。

 

さてさて、それから数十年が経って、私もその時の父よりも大人になってしまいました。 しかしやっぱり高島さんのアイデアが面白いとは、とても思えないままです。

 

どうでしょう、皆さんはこの続編が面白いと思いますか?

 

(2017年9月4日)

 

9本目は1954年製作のアルフレッド・ヒッチコック監督の「裏窓」です。

 

 

 

(1)

 

足を骨折して自宅療養中のカメラマンが主人公です。 彼は退屈なので裏窓から向かい側の建物の住人を観察して一日過ごしています。 物語は彼の目線を通して進行します。

 

何か「接待」的な仕事をしているらしいセクシーな女性がいます。

曲作りに行き詰った作曲家がいます。

前衛彫刻家がいます。

新婚夫婦がいます。

寂しい独身女性がいます。

 

それから夫婦喧嘩の絶えない宝石商がいます。

 

ある嵐の夜です。

宝石商は大雨の中、大きな荷物を抱えて外出し、それ以降奥さんの姿が見えなくなりました。

主人公はぴんと来ました。

 

「あいつは奥さんを殺したんだ!」

 

(2017年10月6日)

 

 

(2)

 

ぴんと来たのはいいのですが、一人で歩くこともかなわぬ不自由な身です。

その後も不審な行動をとる宝石商を見張り続けますが、証拠をつかむことができません。

 

そこで彼を助けてくれるのが恋人グレース・ケリーです。

 

 

彼女は大胆にも宝石商の部屋に忍びこみます。 そこで殺人の証拠を手に入れたのでした。

 

といういかにもヒッチコックらしい気の利いたサスペンスです。

 

ただ、彼女が手に入れた証拠がそれほど決定的でなかったり、いろいろ詰めの甘いところはあります。

宝石商無罪説を主張する人もいるほどです。

ですがまあ、リアリティという点では、グレース・ケリーが毎日豪華なドレス姿で押しかけてきて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれて、手料理まで作ってくれて、どんなに厳しく拒絶しても結婚を望み続けてくれて、これほど非現実的なことはありません。

「恋人がグレース・ケリー」の時点で全てファンタジーなわけです。

グレース・ケリーが指輪を手に入れたらそれは動かぬ証拠なのです。

彼女が犯人だと言ったら、宝石商が犯人なのです。

 

大正義グレース・ケリー、という見方が正しいのでしょう。

 

(2017年10月11日)

 

(3)

 

こんな動画がありました。

 

 

裏窓から見える風景を合成して一枚の画面にしたものです。

 

冒頭に合成の仕方がちらりと映っていますが、それでもやっぱり驚かされる不思議な映像です。

 

(2017年10月13日)

 

10本目は1954年製作、ビリー・ワイルダー監督の「麗しのサブリナ」です。

何とワイルダー監督作品3本目のランクインです。

 

 

雇われ運転手の娘が大富豪と結ばれる、典型的なシンデレラストーリーです。

が、その娘はジバンシィを着こなし、パリに留学して料理の勉強をします。

結構お金持ちのお嬢さん、というか、初期設定が無茶苦茶です。

 

相手役はハンフリー・ボガード。

見た目も今イチですし、演技も下手です。

 

ごちゃごちゃ言わず、黙ってヘプバーンを見ておけ、そういう映画みたいです。

 

(2018年4月18日)


「罪と罰」を読む(第6部第7章)

「罪と罰」を読む〜第6部第7章(第3巻376〜398ページ)

 

(175)

 

第4部第4章で「もう、あのふたりのところには行かない。あそこで、全部の縁を切ってきた」と宣言したラスコーリニコフが、母妹にのこのこと会いに行くところから始まります。

 

我ながら悪意のこもった書き方ですが、悪意があるのはドストエフスキーも同じです。

続く母親の台詞など、相当ひどいです。

ただしこの悪意には仕掛けがあります。

 

ドストエフスキーが母親の台詞に込めた「母親というのは愚かな生き物である」というニュアンスを、我らがラスコーリニコフも当然感じています。

それなのにラスコーリニコフは彼女の台詞を真摯に、素直に受け止めます。

同じレベルに立って会話を続けようとは、決してしませんが、母親に対する態度は立派です。

 

作者の悪意ある描写があるからこそ、このシーンはものすごく感動的なものになったと思うのです。

 

(2018年4月9日)

 

(176)

 

ラスコーリニコフが部屋に戻るとドゥーニャが待っていました。

 

ドゥーニャはスヴィドリガイロフとの一件のあと、自室に戻り、眠れない夜を過ごし、朝になってから兄を探しに外出しました。

向かったのがソーニャの部屋です。

おそらく兄の部屋を一度訪ねてからなのでしょうが、とにかく朝のうちにはドゥーニャはソーニャの部屋を訪れています。

そこで彼女はソーニャと一緒に夕方まで兄を待ちました。

 

ソーニャもドゥーニャも、兄の部屋よりもソーニャの部屋の方が、兄に会える可能性が高いと判断したのでしょう。

 

兄を待ちながらの半日間、二人の間でどういう会話がなされたのか興味深いところですが、次の章を読むとあまり建設的な会話はされなかったようです。

ただ、「ラスコーリニコフが現れるならここだ」、と確信させる何かを二人の女性は感じていたのでしょう。

 

夕方になり、ドゥーニャは兄の部屋に戻ります。

待ち疲れて考えが変わったようです。

「もしかすると兄はここよりも先に自分の部屋に戻るかもしれない」と。

 

「罪と罰」を読んでいて、分かったようで分からないのがドゥーニャのキャラクターです。

母親とは異なり、自立しているし、知的でもある。

ところがスヴィドリガイロフやルージンとの絡みにおいて、どこかこう、合理的でない行動を取ることも多いです。

この日の彼女もそうです。

 

ドゥーニャは、見た目ほどは合理的ではない、むしろ直感的、そういうキャラクター設定のようです。

 

(2018年4月11日)

 

(177)

 

ドゥーニャの勘は当たります。

兄の部屋で待っていると、どろどろになったラスコーリニコフが戻ってきました。

 

ラスコーリニコフは妹にいろいろ素直に告白します。

殺人のことも。

それを罪だとは全然思っていないことも。

金貸しばあさんなんか殺されて当然だと思っていることも。

ただ、自分はばあさんを殺す器でなかった、ということも。

そして自分がその器でなかったという事実のために、罰を受けるのだ、と。

 

最後に彼は妹に一枚のポートレートを手渡します。

それは病気で死んだ婚約者のものでした。

 

なかなか感動的な場面です。

それと同時に、私たちはその娘の存在がラスコーリニコフの心に深く刻み込まれていたことに強く驚かされます。

だって、基本的情緒に欠けた、あのラスコーリニコフですよ。

それがこの章では突然母親に素直になり、妹に告解し、死んだ婚約者の思い出を語ります。

 

ここまで書いて一つ思いつきました。

 

婚約者の死とともにラスコーリニコフは人間らしい感情も喪(うしな)ったのではないか。

 

仮説としては面白いです。

でも正しくはありません。

この章にいたるまでの筆致が、そうではないことを語っています。

 

ドストエフスキーがここに来て、使えるものは何でも使え、と考えたというのが正解でしょう。

 

(2018年4月13日)

 

(178)

 

今回(と言っても9年前ですが)、「罪と罰」を読み直そうと思ったのには理由があります。

その前に読んだ時に、深く脳裏に刻まれた場面があります。

そのシーンが、自分が勝手にでっちあげたものなのか、それともドストエフスキーがちゃんと書いたものなのか、確かめたかったのです。

 

その場面とは、

 

ドゥーニャに拒絶されて生きる意味を見失ってしまったスヴィドリガイロフ。

ポルフィーリーによって、自首か自殺かというところまで追い詰められたラスコーリニコフ。

この二人が夜遅く、すさまじい豪雨の中、川を挟んで向き合います。

二人はしばらく見つめ合い、やがて言葉を交わすことなく別の道を進みます。

そしてスヴィドリガイロフは自殺し、ラスコーリニコフは自首をします。

 

実際の文章ではどうなっているでしょうか。

 

389ページです。

妹に一晩中どこに行っていたのか訊かれたラスコーリニコフはこう答えます。

 

ちゃんとは覚えていない。そう、ドゥーニャ、ぼくはね、最後の決断を下そうと思って、何度もネヴァ川のほとりを歩きまわっていたんだ。そのことは覚えている。あそこで、けりをつけちまおうって思ってたんだ

 

396ページではこう言っています。

 

今日、明け方にネヴァの川岸に立っていたとき、ぼくはね、自分が卑怯者だってことがよくわかったんだ!

 

次にスヴィドリガイロフです。

356ページです。

 

いっぽうスヴィドリガイロフは、ちょうど夜中の十二時に**橋をペテルブルグ区に向かって渡っていった。雨はやんでいたが、風が鳴っていた。がくがくと震えにおそわれ、何か特別な好奇心と、何かいぶかしい思いをいだきながら、少しのあいだ小ネヴァ川の黒い水面に見入った。しかしやがて、こうして川の上に立っていると体がひどく冷えてくることに気づいた。そこで彼は向きを変え、**通りのほうに歩きだした。

 

うーん、こうしてみると、私が抱いたイメージは完全に私が作り上げたものだったようです。

まず、雨は上がっています。

川の名前も、時間帯も微妙に違います。

ただ、ラスコーリニコフは一晩中あてもなくうろついていました。

明け方にはネヴァ川のほとりに立っていましたが、十二時ちょうどには小ネヴァ川にいた可能性も否定はできません。

 

しかしドストエフスキーは、意識して準備した伏線はそれと分かるようにはっきり書く人です。

 

二人は同じ日の夜中、それぞれ暗く重い気持ちで川面を眺めていた……。

 

文章によって描かれているのはこれだけでした。

 

(2018年4月16日)

 

プロローグ<第6部第6章<main>第6部第8章


潤一郎全集あれこれ第9回〜谷崎潤一郎全小説全あらすじ第7巻

(52)

 

第19回配本は第7巻、読むのは18冊目です。

 

 

まずはこの小説です。

題名がすっごいです。

読んでみるとタイトルとあんまり関係ありません。

タイトルだけ適当に決めて書き始めたのでしょうね。

 

〇女人神聖

 

美男美女兄妹として評判だった澤崎由太郎と光子は父親の死後、裕福な叔母の家に預けられていた。怠惰な由太郎は芸者に入り浸り、落第してしまう。こっぴどく叱られた由太郎は、復讐として叔母の娘雪子をかどわかそうとする。駆け落ちの企みは雪子の兄啓太郎の密告によって未遂に終わった。吉太郎は芸者にも追い出され、雪子本人にも拒絶され、その後行方不明となった。一方光子は啓太郎と結婚し、美貌の貴婦人として有名になった。

 

(53)


これも有名な作品です。

谷崎の美食ぶりを表すのによく引き合いに出されますが、私は初めて読みました。

 

〇美食倶楽部

 

美食倶楽部とは美食のためなら金、時間、労力を惜しまぬ金満家の集まりだった。美食を求めて日本中を駆け巡る彼らだったが、最近感激の薄らぎが否めなかった。会員のG伯爵もその一人だった。彼はある日看板の出ていない支那料理の店を発見する。彼はその店に潜入した。そこで彼が何を体験したのかは誰にも分からない。しかしそれ以降、彼が提供する料理を食べた者は感じた。自分は味わっているのではなく、狂っているのだ、と。

 

放っておいても筆が走った、谷崎30代の作品です。

奇想天外な料理がいろいろ出てきて、絢爛な文章技法で描かれます。

 

が、やっぱり、暗闇で食べる料理が美味しいとは思えませんけど……。


(2018年3月19日)

 

(54)

 

さて次に収載されているのはタイトルもおどろおどろしい「恐怖時代」。

北野監督の「アウトレイジ」もびっくりの、騙し合い、殺し合いの、血しぶき率200%の戯曲です。

 

登場人物がばたばた死んでいきます。

そうと分かっていても途中あっと驚く場面があります。

「最後の1ページであなたは驚愕する!」みたいな売り文句に辟易している人、ぜひこの戯曲で驚いてみてください。
 

〇恐怖時代

 

春藤家太守の嬖妾(へいしょう)お銀の方は女中梅野の知恵を借りて太守の奥方を暗殺しようとしていた。自分に想いを寄せる太守の家臣靱負(ゆきえ)と侍医玄澤を操り、毒薬を手に入れ、臆病な茶坊主珍斎を脅迫して、奥方に毒を盛らせる計画だった。そこに現れる美しい剣士伊織之介。彼こそがお銀の方の本当の愛人だった。二人の策略と太守の狂乱によって人々は死んでいく。太守も死に、お銀の方と伊織之介も自害する。最後に珍斎だけが残された。

 

(2018年3月23日)

 

(55)

 

〇或る少年の怯れ

 

芳雄は年の離れた兄嫁になついていた。しかし兄嫁は病気がちで、医者である兄の治療も及ばず死んでしまった。それ以来芳雄は兄が兄嫁を殺したのではないかという妄想に取りつかれた。夢の中では何度も兄を問い詰めるが、現実には疑いを口にすることすらできなかった。やがて芳雄は熱病に倒れ、ますます夢と現実の区別がつかなくなった。彼は兄の治療も拒み、死にかけていた。その時になってすべてを許したくなった芳雄であった。

 

「谷崎潤一郎全小説全あらすじ」を始めるに当たって、「結末まですべて書く」と決めました。

この小説の場合、芳雄はこのあと死ぬと思います。

ですが、実際に兄嫁が兄に殺されたのかどうか、あるいは芳雄の死に兄がどう関与しているかはよく分からないので、あらすじでは触れませんでした。

 

兄が兄嫁と芳雄を殺した、という解釈も成り立ちます。

個人的には、どちらにも兄は関与していないと解釈しました。

根拠は薄弱です。

 

注射をした翌日から兄嫁は「急に容体が悪い方へ向いて行った。それも、まるでコレラにでもかかったように幾度も幾度も激しい下痢をして、真白な牛乳のようなものを口から吐きつづけて、三日目の晩には危篤と」なりました。

私がそういう注射を思いつかないからです。


(2018年3月26日)


(56)

 

〇秋風

 

朝起きると私は二階の縁側に出て空を見上げた。塩原温泉はこの日も雨だった。せっかく秋晴れの空を楽しみに湯治旅を長引かせたのに、雨はやむ気配が無かった。交通も滞り新聞が来なくなり、食糧も乏しくなった。妻の妹S子が、何日か遅れてS子の彼Tも来た。やっと雨が上がった。私はS子とTを連れて散歩に出た。歩きながら歌を歌い、温泉に入り、栗を拾った。あけびの実を手で持ったTは言った。「ばかに冷たいもんですね。」

 

これも、読んだ人は分かると思いますが「あらすじ化」超困難作です。

ポイントは、S子の人魚の場面を入れるかどうかです。とても印象的な場面ですから。

ものすごく迷った末に、私は入れませんでした。

単純に、やましさの裏返しです。

 

ちなみに「水島君の挿絵」というのはこんな感じです。

 

 

やはりあらすじに含めるべきだったでしょうか……。


(2018年3月28日)

 

次に収められている「嘆きの門」は未完なので、あらすじはありません。

 

ほっ。

 

謎めいた少女に主人公が振り回される第1章は面白いです。

ところが第2章で無理にストーリーを動かそうとして、谷崎は失敗します。

それを挽回しようと第3章で別方向からのアプローチを試みますが、収拾がつかなくなり、とうとう投げ出してしまった……、そんな感じです。

 

〇或る漂泊者の俤(おもかげ)

 

天津租界のまるで欧州の都会のような街を一人の男が歩いていた。歳は五十前後。乞食のような格好だったがその顔立ちにはどことなく気品があった。男は道端の煉瓦に腰を下ろし、パイプを口にくわえて川を見つめた。可動式の万国橋が騒々しい音を立てて回転し始めた。大勢の人々が橋の手前でせき止められた。ようやく回転が終わり人々は橋を渡り始めた。しかし男はその喧噪には目もくれず、川の濁った流れを見続けているのだった。

 

舞台は埃っぽい租界、描かれるのは浮浪者。物語的には何も起こりません。

なのにこの凝縮された小説世界!

書き上げた瞬間の、谷崎の、してやったりという笑顔が思い浮かぶようです。


(2018年3月30日)

 

(58)


○天鵞絨(びろうど)の夢

 

上海の大富豪の温夫婦は杭州の別荘に大勢の奴隷を集めて放恣で残虐な生活を恣(ほしいまま)にしていた。たとえば温夫人の阿片部屋。その部屋は池の下に造られていた。夫人は若い男奴隷にかしずかれながら硝子天井を見上げて阿片を楽しんでいた。池では魚の群れと一人の若い女奴隷が泳いでいた。やがて男女の奴隷は、硝子越しに意識し合うようになった。夫人は女に毒を盛った。少女は夫人と少年が見守る中、水の中で美しい死体となるのだった。

 

この小説は本当は未完作です。

 

本来ならばこのあと温夫婦の裁判や、冒頭に登場した謎の美少女の正体が語られるはずですが、谷崎はここで飽きてしまったようです。

ですが、伏線が回収されない小説は山のようにあります。

一応最後にはとってつけたようなエンディングもあります。

そこで一応完結作として扱い、あらすじをつけてあげました(なぜか上から目線)。

 

とはいえ、フォーカスを「私と謎の少女」に合わせるのか、それとも「美少女の美しい死」に合わせるのかによって、あらすじもがらりと変わってきます。

「私が杭州を旅していた時……」で始まるあらすじがあっても不思議ではありません。


(2018年4月4日)

 

(59)

 

○真夏の夜の恋

二人の少年が浅草の女優夢子に会いに行きます。二人は恋敵です。

つかみはばっちりです。

二人のキャラクターの書き分けも上手い。

 

でも谷崎は続きをなーんにも考えてませんでした。

連載一回目にして未完です。

 

この巻には、他にボードレールの詩と「或る時の日記」が収載されています。


(2018年4月6日)


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