「罪と罰」を読む(第6部第3章)

「罪と罰」を読む〜第6部第3章(第3巻257〜281ページ)

 

(155)

 

ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフに会いに行きます。

二つ用件があります。

 

一つ目は、老婆殺しの犯人である事をポルフィーリーには言うなと伝える件。

二つ目は、ドゥーニャに関わらないで欲しいと頼む件。

 

どれだけ身勝手な依頼でしょう。

人を二人も殺しておいて警察には黙っておいてくれ。

自分では働く気は一切ないくせに、姉が経済力のある男性と結婚するのはいや。

さすがにばつが悪くなったラスコーリニコフはスヴィドリガイロフにこう言います。

 

「いやあ、ぶらぶら歩いてたらたまたま出くわしちゃって〜。僕たち何かの縁でしょうかねえ」

ラスコーリニコフはこの「奇跡」を本気で不思議がっているようです。

しかしスヴィドリガイロフにこう切り返されてしまいます。

「たいていここで酒を飲んでるから、ここに来れば会えるって言ったはずですよ」

 

単にラスコーリニコフがぼんやりしていただけなのでした。

ドストエフスキーは完全にこのお坊ちゃんを見捨てたようです。

 

(2017年5月19日)

 

(156)

 

ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフの会話がじっくり描かれるのは、実は二度目です。

もっとたくさんしゃべったような気がしますが、二度目です。

前回は第2巻の211ページ、今から4日ほど前のことです。

 

前回も今回も、二人の会話は噛み合いません(そもそも「罪と罰」自体、噛み合っている会話の少ない小説ですが)。

前回は、訳の分からないことを並べ立てるスヴィドリガイロフに、ラスコーリニコフが振り回されているような印象でした。

今回、スヴィドリガイロフは比較的まともで普通です。

彼の言葉の端々に、ラスコーリニコフが脊髄反射的に噛みつきます。

今回会話を邪魔しているのはラスコーリニコフの方です。

 

ラスコーリニコフ、ソーニャ一家、ドゥーニャ、全ての人々の運命はスヴィドリガイロフに握られています。

ラスコーリニコフに与えられた選択肢はスヴィドリガイロフを殺すか、自首するか、です。

しかし前回の殺人で発狂寸前まで追い込まれたラスコーリニコフに「殺人力」など残っているはずがありません。

選択肢は、殺すか、自首するか、ではありません。

いつ自首するか、だけです。

 

この小説で、ラスコーリニコフの役割は、スヴィドリガイロフの相槌を打つくらいしか残されていないのです。

 

(2017年5月22日)

 

プロローグ<第6部第2章<main>第6部第4章


谷崎潤一郎全集あれこれ第6回

(24)

 

次に読むのは第18巻です。第13回配本で、読むのは11冊目です。

 

 

〇文章読本

論理的思考がそれほど得意でない谷崎によるハウツー本。

「文章読本」というよりは「文章雑感」みたいな印象で、あんまり面白くありません。

唯一興味深いのは過去の自作「蘆刈」を添削する部分くらいでしょうか。

 

(2017年4月17日)

 

(25)

 

〇聞書抄

「盲目物語」の姉妹編のような作品。

秀次は暴君ではあったが秀吉に歯向かう気はなかった。それにも関わらず理不尽な切腹に追い込まれた。

その不条理な仕打ちは秀次の切腹にとどまらず大勢の家臣や妻子たちにも悲劇をもたらした……というお話。

 

この物語が悲劇として成立する前提条件として、刀の試し切りで人々を殺すのはよくても、殿様に逆らうのはだめ、という価値観があって、そこに私はいやーな感じを覚えてしまいます。

お家のために、あるいはお国のために自分を犠牲にするという考え自体は、私も否定しません。

問題は、お国の、どの部分のために命を賭けるのか? という部分です。

日本の国土(領土ではなく、国土)は守りたいです。文化は守りたいです。日本語も守りたいです。

しかし保守的な人たちの主張を聞くと、どうも彼らが守りたいのは、政治家、因習、既得権益、選挙の支持母体のようです。

 

おっと、ここで一つ朗報が飛び込んできました。

 

(2017年4月19日)

 

(26)

 

「教育勅語を学校の教材として使うことを否定しない」と閣議で決まりました。

 

これは画期的な決定です。

つまり、その文章の成立背景や、時代に与えた影響、後世から評価などとは関係なく、断片的にでも正しいことが書かれていれば教材として使ってもいい、と政府がお墨付きを与えてくれたわけです。

九割が嘘で、不道徳で、反国的であっても、真実がほんのちょっとでも混じっていれば、教材として扱えるのです。

 

十八歳で投票できるようになった際に、政府は偏向教育を問題視しました。

憲法や、憲法解説本などを教材として用いて「九条」について議論することを危険視しました。

しかし偏向という点では、教育勅語以上にあっち向いている文書は他にありません。

教育勅語を使ってもいい、というのはすなわち、何を使ってもいい、ということです。

教育の場で何を使おうが、今後は政府は口出ししないということです。

あるいは「教育勅語を読んで大笑いしようぜ」みたいな授業をおこなっても、国は文句を言わないということです。

 

学校教育の場から一切の政治的縛りが取り払われた歴史的なターニングポイントと私は受け取りました。

これは朗報です……よね?

 

(2017年4月21日)

 

(27)

 

谷崎自身は、「春琴抄」「盲目物語」とあわせて「盲目三部作」と呼ぼうかなあ、と冗談っぽく語っていますが、三部作の中で一つ読むとすれば断然「春琴抄」です。

その上で「どうしてももう一つ読みたい」とおっしゃるなら「盲目物語」を、どうぞ。

 

〇猫と庄造と二人のおんな

名人がそこらへんの筆に適当に墨をつけてそこらへんの紙に適当に〇を書いただけなのに、これが何ともすごい、みたいな小説。

批評しようと身構えると手の中からすり抜けてしまうし、放っておこうと思うといつの間にか膝に乗ってくるし、まさに猫みたいな小説。

お話としては、いろんなことにだらしのないダメなおっさんが(まだ三十前ですが)、猫が気になって気になって、阪神芦屋から芦屋川沿いに二号線まで北に上がって、業平橋を渡って西に向かって森市場、小路の停留所を越えて阪急の六甲登山口まで自転車で行くだけ。

そんな話が面白いんだから困ってしまいます。

 

(2017年4月24日)

 

(28)

 

少し予定を変更して第9巻を先に読みました。

本来なら第22回配本予定の巻です。

この巻は戯曲集です。

 

 

〇愛すればこそ

第一幕はいきなりぐだぐだなやり取りから始まります。

DV男から離れられない女性の悩み相談です。

周囲の人々は説得して何とか別れさせようとするのですが、女性は「でもでもだって」と煮え切りません。

戯曲としても無駄な台詞が多いし、先が思いやられます。

ところが第二幕以降、意外な展開を見せます。戯曲としても引き締まってきます。

第一幕を我慢すれば、それなりに面白いです。

 

(2017年5月10日)

 

(29)

 

〇永遠の偶像

美女とかしずく男性のペア、2.5組の洒落たコント。

 

発表後、上演が企画されたけれど警視庁の検閲室からストップがかかった、という話が同巻収載の「『永遠の偶像』の上演禁止」に詳しく書かれています。

検閲官と谷崎のやり取りは三谷幸喜の「笑の大学」を思わせます。

検閲官の無茶な要求に我慢強く対応する制作側。

検閲官に「あの脚本は面白くないからお止しになつたらどうですか」と言われたりもします。

最後には、上演させたくないという私の気持ちを汲み取って欲しい、と迫られます。今流行りの「忖度」ですね。

そこで谷崎は、それならはっきり禁止しろ! と切れてしまいます。

 

戯曲そのものよりも裏話の方が興味深かったりするのですが、検閲官の「面白くない」と言葉が引っかかって、もう一度読んでみました。

冒頭セミヌードの女性が登場して、男性主人公によって女性美の魅力が語られます。

その後いろいろあって、後半は女にめろめろの男二人の会話となります。

文字で読む分には十分に楽しいのですが、これを実演で見たとしたらどうでしょう。

セミヌードの女性はやがて服を着て、しばらくして退場。

そのあとは男二人の会話が続きます。

視覚的に刺激的なのは冒頭だけ。

まるで「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」です。

「面白くない」という感想は案外当たってたりして、などと思ってしまいました。

 

(2017年5月12日)

 

(30)

 

〇彼女の夫

駄目な女にすがりつく駄目な男、そこに捨てられた妻がやってくる、というお話です。

未練がましい女の相手なんかしたくない駄目男は逃げ回りますが、妻が来たのは大切な要件を伝えるためでした。

谷崎の戯曲って一つ一つの台詞が長くないですか?

 

〇或る調書の一節

これも駄目男の話です。

男は殺人、強姦、強盗までやらかしているので「駄目」というレベルをはるかに超えていますが。

男には、すさまじいDVにも関わらず寄り添ってくれる妻がいました。

 

〇お国と五平

これは駄目人間が出てこないので、精神的に読みやすいです。

夫を殺した友之丞を追って仇討の旅を続けるお国と、付き添いの五平。

しかし友之丞は意外なところにいました。

 

(2017年5月15日)

 

(31)

 

〇本牧夜話

本牧を舞台としたバタ臭い恋愛サスペンス。

本牧は谷崎お気に入りの地ですし、谷崎が大好きな白人女性も登場します。

どろどろした恋愛模様も谷崎の得意とするところ。

でも、できあがったものは谷崎らしくない、ガスの抜けた炭酸水みたいな代物でした。

 

〇白狐の湯

これぞ谷崎風のエロティック幻想譚!

と思いましたが、谷崎は、実はこういうジャンルの作品はあんまり書いていません。

この作品の最大の功績は、本牧や神戸よりも、山奥の温泉宿でこそ白人女性の肌はよく映える、ということを実証した点だと思います。

谷崎自身がそれに気づいたかどうかは疑問ですが。

 

〇愛なき人々

これも駄目な男のお話です。

この巻は駄目男濃度が高いです。

読み比べてみると、駄目男が駄目なまま愚図愚図する話だとまあまあ面白い、人殺しまで至ってしまうとあんまり面白くない、そんな印象です。

 

〇藝術一家言

あとはエッセイがいくつか。

先にちょっと触れた「『永遠の偶像』の上演禁止」なども収められています。

興味深いのは「藝術一家言」。谷崎はここで漱石の「明暗」をけなしまくります。

漱石が嫌いなのは日本で私だけかと思っていたので非常に面白かったです。

 

(2017年5月17日)

 


夢見る映画〜20世紀の100本(1本目〜5本目)

夢見る映画〜20世紀の100本


(1)

近所のレンタルビデオ屋がなくなったので、宅配タイプのレンタルビデオを利用しています。

いいところも悪いところもあるシステムですが、最大の短所は見終わったディスクを返却してから次のディスクが来るまでのインターバルです。
それを解消するために「DISCUS」と「ぽすれん」を併用することにしました。
返却のタイミングをうまく組み合わせれば、「いつでも見たいディスクが手元にある状態」にすることが可能です。

実際に2社を利用してみるとかなり使い勝手が違います。
最新作でもほぼ問題なくレンタルできる「DISCUS」に比べると、「ぽすれん」では新作を見ることは事実上不可能です。
人気作品はずーっとレンタル中なので。

よっぽど解約しようかと思いましたが、せっかくなので「ぽすれん」は「過去の名作を見る」用に使うことにしました。
名作と言われているのに見たことのない作品、大昔に見たけれど印象が薄れてきている作品、などなど。

 

(2016年12月2日)

(2)

過去の名作を系統立てて観よう! と思いついたのはいいのですが、手ごろなリストがありません。
海外の評論家が選んだ「洋画ベスト100」はあります。日本の評論家が選んだ「邦画ベスト100」もあります。
しかし洋画と邦画をほどよく混ぜたリストはなかなか見つかりません。

早逝のアニメ作家、今敏(こん・さとし)が選んだ100本が私の求めているリストに最も近いようです。
問題は、21世紀の作品が何本か入っているところです。
これについては完全に独断で「世間の評価は低いけれど個人的にむっちゃ好き」な映画と入れ替えました。
この時点で客観性も何もなくなってしまった「ベスト100」です。
実際、その入れ替えのせいで不自然な片寄りも生じました。

しかし娯楽大作から難解な芸術映画まで、全てをひっくるめた中からの100本です。
誰が選んでも多少の片寄りは出てくるはず! と自分に言い聞かせることにしました。
細かいことは気にせず、どんどん観ていきましょう。
題して

夢見る映画〜20世紀の100本

です。

 

(2016年12月5日)

夢見る映画〜20世紀の100本の1本目「風と共に去りぬ」(1939年ヴィクター・フレミング監督)

 



製作は1939年。
太平洋戦争前夜。日本では食糧品が配給になっていた頃です。
その時代にアメリカはこんな超豪華な作品を作っていたのでした。

まず映像が素晴らしい。
どういう方式なのかよく分かりませんが、今の映画と全然違う発色です。
まさに「総天然色」と言いたくなるような派手でゴージャスで、それでいてエレガントで自然な色合い。
夕暮れのシーンなど失禁しそうになります。

マーガレット・ミッチェルの大長編小説を手際よくまとめたシナリオも驚異的です。
波乱万丈の大河ドラマが一切停滞することなくがんがん前向きに進行します。
猛烈なスピードでストーリーは展開するのですが、役者は与えられた尺の中で自分のキャラクターを完璧に演じ切ります。
その中でも飛び抜けて際立つ、クラーク・ゲーブルの圧倒的な存在感。

そしてこれは「原作よりも面白い」という意味で、罪作りな映画でもあります。
この映画が存在しなければ、誰も「映画は原作を越えられる」という夢物語に囚われなかったのではないでしょうか。

いろんな意味で桁外れの一本。
誰もが認める、ナンバー1にしてベスト1の映画です。

 

(2016年12月7日)

夢見る映画〜20世紀の100本の2本目「素晴らしき哉、人生!」(1946年フランク・キャプラ監督)


 

終戦直後の映画だし、名前も仰々しいし、品行方正な人情モノかと思って観始めました。
すると、実にシュールなオープニング。
ネタバレになりますが、最後にはパラレルワールドの要素も取り入れてナウい展開です。

めでたしめでたし、と言いたいところですが、罰を受けるべき人や謝罪されてしかるべき人が放置されたまま終わってしまうので、個人的には素直に感動できませんでした。
アメリカでは毎年クリスマスの時期にテレビ放映されるとwikiさんは言っていますが、トトロでも放映されるのは2年に1回ですからさすがに眉唾でしょう。

 

(2016年12月9日)

 

夢見る映画〜20世紀の100本の3本目「サンセット大通り」

 

前回眉唾っぽいと書いた「クリスマスには毎年『素晴らしき哉、人生!』が放映される」という話ですが、アメリカ在住の知人に聞くと「そんな話は知らない」とのことでした。

 

あんまりテレビも映画も見なさそうな人なので参考にはなりませんが、一応。

 

さて、3本目は1950年にビリー・ワイルダーが撮った「サンセット大通り」です。

 

 

コメディ映画の脚本・監督としてあまりにも有名なビリー・ワイルダーですが、初期はサスペンスを得意としていたようです。

 

この作品も緻密な脚本と意外な展開でぐいぐい見せてくれます。

こういう脚本が書けるからこそ面白いコメディも書ける、ということなのでしょう。

それにしてもかなりの意欲作です。

映画にしかできない表現を、すでにこの時代にこれだけ極めていたわけです。

 

物語としては完結した、そのあとに映画のクライマックスをもってくる、アクロバティックな手法には驚かされます。

 

(2017年1月16日)

 

4本目は1950年制作、黒澤明の「羅生門」です。

 

 

(1)

 

原作は芥川龍之介の「藪の中」。

語り手ごとにそれぞれ異なる真実があるというマルチアングル小説の元祖のような作品です。

最近はこの形式が大流行で、湊かなえ「告白」、秋吉里香子「暗黒女子」、藤崎翔「神様の裏の顔」などなど、「本屋に行けばマルチアングルに当たる」状態です。

どれもそれぞれ、読んで損はない程度には面白いです(これはかなりの褒め言葉です)。

 

タイトルの「羅生門」も芥川の小説ですが、殺伐とした時代背景や朽ち果てた羅生門の描写など、エッセンス程度の扱いです。

 

……と書くとテキトー過ぎると怒られるかもしれません。

小説「羅生門」は短い中に「善」とか「悪」とか「死」とか「生」とか、難しいテーマをぎゅっと詰め込んだ小説なので。

 

(2017年2月8日)

 

(2)

 

基本的枠組みとしては、小説「藪の中」の前と後ろに小説「羅生門」的なものを加えたような恰好になっています。

 

この「『羅生門』的」というところが問題です。

 

狙いは分かりやすいくらい分かります。

「藪の中」だけでは尺が足りないのです。

何かで水増ししなくては体裁が整わないので、強引に「羅生門」をくっつけたのでしょう。

 

しかしそれはあくまでも「羅生門」的というか「羅生門」風のものです。

だって小説「羅生門」はそんなお話じゃないですから。

 

これは思想的とか、哲学的とか、そんな小難しい話ではなくて、単純に、そんな話じゃないのです。

広島カープ「15」と「25」のスペシャルトークショー! に行ってみたら新井さん一人が15番の帽子をかぶって出てきたようなものです。

 

映画「羅生門」は小説「藪の中」と小説「羅生門」を組み合わせたものではありません。

小説「藪の中」に小説「羅生門」ふりかけをふりかけただけのものです。

 

(2017年2月10日)

 

(3)

 

それ以外にもいろいろツッコミどころの多い映画です。

 

まず、台詞が全然聴こえません。

これは日本映画では今に始まったことではないので全然驚きませんが、驚かされるのは(結局驚いている)、アフレコなのに台詞が聴き取れないところです。

台詞の聴き取れない日本映画は、現場音重視の結果、そうなっていることが多いです。

平たく言うと、録音係に、現場音を上手く録って、それをスタジオで上手く調整する技術がないということです。

もっと平たく言うと、現場で撮影する技量がないくせに現場にこだわっているということです。

もっと平たく言うと、こだわるべきところを根本的に間違えているということです。

 

これはしかしまあ、許せませんが、理解はできます。

しかしアフレコで録っているのに台詞が聴き取れないというのはどういうことなのでしょうか。

これは完全に私の理解を超える現象です。

 

(2017年2月13日)

 

(4)

 

あと、叫び声や泣き声がきんきん響きすぎるのもものすごく耳障りですが、これは前回の録音に関する問題と一括りにしておきましょう。

 

次にどうしても避けて通れないのが、劇中に登場する「ボレロ」風の音楽です。

ラヴェルの「ボレロ」の初演が1928年、この映画が1950年。

この時代、「ボレロ」の人口への膾炙度はどうだったのでしょうか。

 

法律的な著作権も大切ですが、作曲家の矜持として「有名な曲をアレンジする」のと「まだ知られていない曲をアレンジする」のとでは全然違うと思います。

1950年、道行く人がみんな「ボレロ」を口ずさんでいたなら、このアレンジはOKです。

勇敢なチャレンジだと思います。

しかしこの時点で「隠れた名曲」であったとすればこれは「盗作といっていいレベル」ではないでしょうか。

 

そういうわけでこの映画を見るといつも心がざわざわしてしまうのです。

 

(2017年2月15日)

 

(5)

 

前回「叫び声や泣き声がきんきん響きすぎるのもものすごく耳障り」と書きました。

 

あれから実はもう一度見直したのですが、叫び声は「ものすごく耳障り」ではなく、「映画史上最低最悪に耳障り」でした。

訂正してお詫びいたします。

 

他にもツッコミどころはありますが、この映画の最大の問題はシナリオです。

そりゃあそうです、全然関係のない二つの小説をくっつけたのですから。

しかもそのくっつけ方が強引というか、ずさんというか、とっても稚拙なのです。

 

稚拙なのはくっつけ方だけではありません。

台詞自体も中学二年生が書いたような(中学二年生の皆さん、ごめんなさい)下手くそさで身震いします。

私は初め、その青臭い台詞はてっきり小説「藪の中」からそのまま引用したせいだと思っていました。

今回ついでに「藪の中」を読んでみると、間違いでした。

青臭い台詞は映画のオリジナルでした。芥川さん、ごめんなさい。

 

もう、この映画のおかげで私は各方面に謝ってばかりです。

 

(2017年2月17日)

 

(6)

 

この映画は二人の男が「分からん」「分からん」「何が何だか分からん」と悩んでいるところから始まります。

 

一体どんな奇々怪々の出来事があったのかと思えば、ある殺人事件に関係する三人の証言がそれぞれ異なっているというのです。

 

しかし、それってそんなに不思議なことでしょうか。

久しぶりに会う友人と思い出話をすると、一緒に体験したはずなのに記憶の内容に微妙にずれがあったりします。

そしてそのずれを私たちはそれほど不思議とも思いません。

 

居酒屋でおっさんが遠い目をしながら「昔はやんちゃでさ」と言おうが、上司が「部長には何度もかけあったんだけどな」と言おうが、普通はスルーしますよね。

わざわざ「いや、あんたが犯した最大の犯罪は中学生の頃、親の財布から千円くすねたことでしょ」とか、「いや、あんた部長の前ではいつも水飲み鳥状態じゃないですか」などと突っ込む人はいません。

悪質な嘘だとも思いません。この人はそうだと思い込んでいるんだろうなあ、この人にとってはそれが真実なんだろうなあ、と思うだけです、普通は。

 

平安時代の人々はそれほど正直だったのでしょうか?

いやいや、光源氏なんて、初めて会う女性に「ずっと前から愛しておりました」って平気で言ってるし、しかも結構本気で言ってます。

 

フロイトさんに言われるまでもなく、記憶は人の頭の中でどんどん都合よく加工されていくものです。

 

(2017年2月20日)

 

(7)

 

記憶の加工と言えば、フロイトの研究で印象的だったものがあります。

 

夜中に夢を見ていた。

しばらく会っていない親戚の叔母さんの夢だった。

ちょうどそこに電話がかかってくる。

それは叔母さんが亡くなったことを知らせる電話だった。

 

よく耳にする話です。

ただ不思議なだけではなく、「最後の瞬間に私に会いに来てくれたんだなあ」と感動させられたりもする、いいお話だったりもします。

 

しかしフロイトがよくよく聞き取り調査をしてみると、夢の中に出てきた叔母さんは、普段叔母さんが着ないような服を着ています。会っていた場所も、あまり叔母さんが立ち寄らない場所だったりします。

場所や服装や所持品などから総合的に判断すると、先週、商店街で近所のおばさんとばったり出くわした状況とまったく同じようなのです。夢の中で会っていた人物は、どうやら親戚の叔母さんではなく、近所のおばさんみたいです。

 

とすると、一体どういうことなのでしょう。

 

叔母さんの死を知らされた瞬間に夢の記憶が加工された、としか考えられません。

その加工の理由は「叔母さんのことは忘れたことがありませんよ」と自分に言い聞かせるためです。

そしてどうして自分に言い聞かせる必要があったかというと、本当はすっかり忘れていたからです。

 

「不思議だけれどいいお話」かと思ったら、「不思議でもなんでもない単なる不義理なお話」だったというわけです。

 

(2017年2月22日)

 

(8)

 

ちなみに芥川の原作では複数の証言が並べられているだけです。

 

それぞれの証言が食い違って不思議だなあ、なんて感想を漏らす人物は登場しません。

「不思議だ」と頭を悩ましているのは映画だけのオリジナル設定です。

しかもネタバレになりますが、この人物は実は顛末を陰からこっそり見ていたことになっています。

 

こうなってくるともはや何が不思議かもよく分かりません。

 

そしてそのやりとりのあとの「羅生門」的なとってつけたようなエンディング。

 

黒澤を褒める言葉はいくらでもあります。

しかし数ある褒め言葉の中には見当違いのすっとこどっこいのものもあって。

それは「完全主義者」という言葉です。

 

これだけ悪口を書きまくっておいて言うのも何ですが、「羅生門」は私にとって気になって気になって仕方のない作品です。

「好きなんですね」と聞かれれば即座に「大嫌いです」と答えます。

「嫌いなんですね」と聞かれれば、しかし、はにかみながら「実は、好き……です」と白状しちゃいます。

 

(2017年2月24日)

 

(9)

 

自分がどういう褒め言葉を信じるかと言えば、本好き芸人の言葉は信じます、本屋大賞は信じます、このミスも結構信じます。

 

しかし直木賞、乱歩賞は信じる信じない以前のものです。

馬鹿にしているのではなく、野球で言うならシーズンを経験しての新人賞ではなく、ドラフト順位です。

まずはレギュラーを目指してね、くらいな感じのものです。

 

芥川賞にいたっては純文学の新人賞です。私にとっては完全にジャンル外、たとえばヒップホップの新人賞と同じです。

みなさんもそうでしょう?

浪曲のすごい新人が登場したから聴いて! とCDを渡されても困りますよね。

他に聴きたい(読みたい)ものがいっぱいあるのでごめんなさい、みたいな感じです。

 

映画ファンがよく「アカデミー賞の権威は地に堕ちた」などと嘆いたりしていますが、アカデミー賞はそもそも内輪の功労賞だったはずです。

内輪の持ち上げ合いには興味もないし、口も出さないし、どんな結果だろうとがっかりなんてしません。

個人的に一番信頼できるのは「映画秘宝」のランキングです。

もちろん自分の感性とは多少ブレがあります。

しかし2012年の第1位は「ザ・レイド」ですよ!

 

逆に、「ザ・レイド」とか「マッド・マックス〜怒りのデス・ロード」とか「ピラニア3D」とかが入ってないランキングなんて、選び手も選んでいて楽しいのでしょうか?

 

(2017年2月27日)

 

(10)

 

ランキングと言えば、避けて通れないのが「ミシュラン」です。

 

私はフランス料理よりもラーメンの方が好きなので、幸いなことにミシュランとはあんまり縁がありません。

食通の人に会うたびに「一つ星と三つ星はどっちが上なのか?」と質問して、しかも聞いた瞬間に忘れてしまうタイプです。

 

ですからあんまり大きなことは言いません。

たとえば「ミシュランなんていい加減だ」とか「どの店で修行したかとか関係ない」とか「食材の仕入れの苦労話をする店にろくな店はない」とか、そんな大それたことは絶対に言いません。

 

100%確実なことだけを、ものすごく控えめに、小声でそっと言わせていただくなら、「有名人の常連ぶりを自慢する店はダメ」です。

 

有名人自慢をする理由を、私は

「有名人が喜んで食べるんだから、一般庶民のお前はごちゃごちゃ言わずにありがたがって食え」

という以外に思いつきません。

あるいは「有名人と同じものが食べられて幸せに思え」でしょうか。

 

ごく普通の感覚の持ち主からすると、聞いていやーな気分になる言葉です。

 

ところがそれを受け売りする自称食通がいるんですよね。

すみません、かつての私です。

 

「ここはイチローが帰国するたびに食べに来る店なんだ」

 

恥ずかしくて死にたくなります。

そんなわけで文章も脈絡も無茶苦茶ですが、結論はこうです。

 

「黒澤を完全主義だと言うやつを信じるな」

 

(2017年3月1日)

 

(11)

 

「羅生門」のすごいところは一にも二にも映像です。

 

で、どこがすごいかと言うと、物語的にどうでもいいところがすごいんです。

「藪の中」だけでは尺が足りない。

じゃあ無理矢理何かをくっつけよう、とくっつけたところの映像がすごいんです。

蛇足なのに、その足の方がすごいんです。

 

黒澤の完全主義ぶりを表すエピソードとして、雨の質感を出すために墨汁を降らせた、という話がよく引き合いに出されますが、完全主義者ならまずシナリオに心を砕いたはずです。

私が好きなのは黒澤が完全主義から逸脱した部分です。

 

これ以上は「完全主義とは何か」という定義論になってきますが、もう一度だけ断言させてください。

 

「黒澤が完全主義だというやつを信用するな」

 

(2017年3月3日)

 

(12)

 

「羅生門」を見ていて思うのは「いっそ台詞が全然分からなければよかったのに」ということです。

 

ほとんど聞こえないかと思えば、断片的に聞こえる部分は壊滅的に青臭いです。

どうせなら全く分からない言葉で吹き替えて、それに字幕を付けてくれたら、安心して黒澤の映像美にひたれたのに、と思ってしまいます。

 

そこまで考えると、海外での評価が高い理由も分かります。

まさに、「全く分からない言語の台詞+字幕」ですから、評価が高くなるのも当たり前なのでした。

 

今回私が見たのは画質も音質も悪いDVDです。

今は画質をブラッシュアップさせたBlu-Ray版もあって、これには字幕機能もついているようです。

せっかくならハンガリー語吹替え版とかも選択できれば最高だと思います。

 

(2017年3月6日)

 

(13)

 

映画版「羅生門」で面白いのは、芥川の小説の「藪の中」の謎に対して一つの解答を出しているところです。

小説「藪の中」自体が謎めいた作品です。

一切余分な説明がなく、複数の証言が並べられただけです。

が、それとは別に、最後の最後にもう一つ大きな謎があります。

 

被害者、金沢の武弘の証言によると、正確に言うと巫女に召喚された武弘の死霊の証言によると、武弘が死ぬ直前、彼の胸に突き刺さった小刀を抜いた人物がいるのです。

武弘はその人物の正体を確かめる前に死んでしまいます。

 

私はこれまでこの描写をあまり気に留めずに読んでいました。

ところが映画版「羅生門」ではそれに対してちゃんと向き合っています。

少しアレンジは加えてありますが、少なくともその謎から逃げていません。

 

これはすごいことだと思うのです。

 

(2017年3月27日)

 

(14)

 

とすると「羅生門」の悪口をここまで書いた私としては、自分なりの「藪の中」の真相を考察しなくては格好がつきません。

 

最初にひらめいたのは、多襄丸が殺したのは金沢の武弘ではなかった、というアイデアです。

男女二人組の盗賊が金沢の武弘を殺し、その二人組を多襄丸が襲ったとすれば証言の食い違いが説明できるのでは?

 

真砂の母親が言うには武弘は「優しい気立」だったそうです。

ところが殺された男は多襄丸の、お宝を安く売ってやるという嘘に簡単に騙されます。

また真砂も母親が言うには「色の浅黒い」はずですが、多襄丸が襲った女性は菩薩のような女です。

キャラクター設定の微妙な違和感がこの説なら説明できると思ったわけです。

 

しかしこれでも矛盾は解決しません。

当然です、登場人物三人がそれぞれ「自分がやった」と告白しています。

三人とも真実を語っているなら殺人事件は三件発生したことになります。

架空の二人組強盗を引っ張り出して、犯行件数を一件増やしても、まだ足りないのです。

 

(2017年3月29日)

 

(15)

 

さらに登場人物を増やして殺人事件が三件あったことにすれば解決できないこともありません。

しかし美しくないです。

 

ネットで検索してみると、少なからずの人が自分なりの真相を考察しています。

ですがそもそも「三人がそれぞれ自分がやったと告白している」という大前提があるのです。

矛盾なく、しかも美しく解決できる方法などあるはずがありません。

「〇〇が嘘をついた、あるいは勘違いしたとすれば最も齟齬を少なくすることができる」という論法を取らざるを得ないのです。

 

ここまで書いてもう一つの可能性を思いつきました。

 

多襄丸と真砂がかつて好き合っていたという設定です。

二人が山道で偶然再会し、愛が再燃します。

舞い上がった真砂は夫の武弘を捨てて逃避行に走りますが、やがて冷静になり、夫のもとに帰ることを決断します。

ところが真砂を失った武弘は自殺していました。

これを真砂は多襄丸に殺されたものと思い込みます。

一方多襄丸は真砂を失った悲しみで苦しんでいるところを捕縛され、真砂の夫が何者かに殺されたことを知る。

二人はそれぞれ相手がやったと思い込み、その罪を自分がかぶろうと嘘をついた……。

 

と考えれば(やっぱりいろいろ矛盾は生じるのですが)、嘘の説明はついて、しかも物語として美しいかもしれません。

 

(2017年3月31日)

 

(16)

 

今度こそ終わっただろうと油断していた皆さん、「羅生門」、まだ続きます。

 

恥ずかしい思い出があります。

 

中学生の現国の時間に、芥川「羅生門」の読書感想文を書かされました。

優秀作品の一つに選ばれたのか、あるいはたまたまか、クラスの前で朗読させられました。

そしてそのあと、国語の先生に質問されたのです。

「下人はこのあとどうなったと思う?」

 

皆さんご想像の通り、中学時代の松本君は「羅生門」を真面目に読んで真面目に感想文を書いたわけではありませんでした。

テキトーにあらすじを書き写して、最後に「下人がこのあとどうなったか気になるところだ」などと書いて締めくくったのでしょう。

ちなみに「羅生門」とはこんな話です。

 

時は平安時代、京の町は地震や飢饉のために荒廃のどん底にあります。

主人公「下人」も雇い主から解雇されてしまいました。

他に働き口があるわけでもなく「こうなったら盗人になるしかない」と漠然と考えつつ、しかし決心もつかず、羅生門で雨宿りをしています。

羅生門は今や荒れ果てた廃墟です。

上の階には身寄りのない死体が捨て置かれています。

下人が人の気配を感じて階段を上がってみると、老婆が死体の髪の毛を抜いています。

下人が問い詰めると「鬘(かつら)にして売るためだ」と答えます、そうでもしないと飢え死にするから、とも。

そこで下人はこう言います。

「なるほど、じゃあお前も俺を恨むなよ、俺も飢え死にしそうなんだから」

下人は老婆の身ぐるみをはぎ取り、羅生門から夜の京に飛び出していきます。

 

そして最後の文章がこうです。

 

下人の行方(ゆくえ)は、誰も知らない。

 

(2017年4月5日)

 

(17)

 

下人の今後ですが、選択肢としては二つです。

盗人になるか、ならないか。

 

今思うに、国語の先生が中学生に正解を求めていたはずがありません。

中学生らしい答えを期待していたのではないでしょうか。

つまり

 

下人は死者の尊厳を踏みにじる老婆の行為に直感的に「怒り」を感じた。

これは下人に正義感が残っている証拠だ。

今回は怒りに任せて老婆の着物をはぎ取ったけれど、雨に打たれて冷静になれば彼本来の正義感がよみがえってくるのではないだろうか。

だから彼は盗人の道には進まないと、僕は信じたいです。

 

おお、何と若々しくて正義感と希望に満ちた中学生らしい解答でしょう!

 

(2017年4月7日)

 

(18)

 

実は、初めて雑誌に発表された時には「羅生門」のラストはこうでした。

 

下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあつた。

 

盗人になる事がはっきりと書かれていたわけです。

国語の先生の思惑は何となく想像できます。

 

「羅生門」を題材にして中学生に議論させるとまず「下人は盗人にはならなかったと信じたい」という意見が出されるでしょう。

そこで先生は衝撃的な事実を提示します。つまり、初出時には『盗人になる』と書かれていたという事実。

純朴な中学生はその事実にびっくりするに違いありません。

しかしもう一歩考えを深めて、「だけどよく考えてみると、芥川自身がその結末に不満を感じたからこそラストを変えたわけで。とするとやっぱり芥川も下人の正義を信じたかったのではないか」と考えてくれる生徒もきっといる事でしょう。

で、ここまで踏み込んでくれれば、授業としては成功です。

あとはそれぞれの瑞々しい感受性や若々しい人生観に基づいて何時間でも議論させればいいと思うのです。

 

ところが私のクラスではこうなりませんでした。

「下人はどうなると思う?」と質問された生徒が「いや、あの……」と、全然煮え切らなかったのです。

先生が「君の感じた通りでいいから」と助け船を出してくれたのに、「でも、それは、あの……」とぼそぼそ言うだけです。

さんざん促されてやっと言ったのが、「あえてぼかす事によって読者の想像に任せたのだと思います」という言葉。

それで先生がもう一度たずねます。

「じゃあ、君はどう想像した?」

それに対して松本君が答えたのが、「いや、それはあえてぼかしているので……」

 

馬鹿です。

この時のやりとりを思い出すと死にたくなります。

 

(2017年4月10日)

 

(19)

 

それから40年経った立場からすると、それなりに考えることがあります。

 

老婆が言うには、死体の女はろくでもないやつでした。

蛇の肉を干し魚と偽って売り歩いていたらしいです。

それに比べたら死体の髪の毛を引っこ抜くことがさほど悪いとは思えない、と老婆は言います。

 

ここで二つの罪を天秤にかけてみましょう。

食品偽装と死体損壊、ただし傷つけたのは髪の毛。

これに優劣をつけるのは難しいです。

この時代に食品偽装がどの程度悪いと思われていたのかはよく分かりません。

被害に遭った人に被害者意識はありません。

しかし少なからずの被害者が、法的には、存在しています。

一方の死体の髪の毛を引っこ抜くのはどうでしょうか。

被害者の被害者意識という点では、食品偽装の被害者の被害者意識とどっこいどっこいのような気がします。

一方は騙された事を知らず、一方はもう死んでいるわけですから。

被害者が存在するかどうかという点についても、私にはよく分かりません。

 

老婆の言い訳を論破するだけの倫理的基準を持ち合わせていない私としては

「一理あるね、お婆ちゃん」

と言うしかありません。

 

(2017年4月12日)

 

(20)

 

死体の髪の毛を引っこ抜くのと、老婆の服を剥ぎ取るのとどっちが悪いかと問われれば、生きている人間から衣服を強奪する方が悪いと私は思います。

死者の尊厳も大切ですが、裸で放り出されては尊厳もへったくれもありません。

尊厳以前に、老婆はたちまち困ってしまいます。

 

下人は言いました。

「お前のやったことが許されるのなら、俺の犯罪も許されるはずだ」

しかし彼が実際に犯したのは、「死体損壊」より悪質な「強盗」という犯罪でした。

彼は勘違いで一線を踏み越えてしまったわけです。

そしてそれが許されるならば、強盗よりも悪質な犯罪、たとえば「殺人」が自分に降りかかっても文句は言えません。

「強盗」という罪を弁護すれば、今度は「殺人」も許容せざるを得ないわけです。

さあ引き返すべきか、突き進むべきか。

 

私たちは物語の最初で、下人が非常に優柔不断であるのを知らされています。

下人は下のような考えの中をぐるぐると一生さまよい続けるのでしょう。

 

月曜日は盗人になるべきかどうか迷い

火曜日は老婆の行いに激怒し

水曜日は老婆の身ぐるみを剥ぎ

木曜日はそれが自分の判断ミスであったことに気がつき

金曜日は強盗したことを悔い

土曜日はしかしいったん踏み越えてしまったんだからやっぱり盗人の道を突き進もうかとも考え

日曜日はでも、それだと自分が殺されることも許容せざるを得ないのに気づき、殺されるのはいやだなあと思う

 

答えは

 

「週に二日ぐらいは強盗を働く、優柔不断な盗人になる」

 

だと思います。

 

(2017年4月14日)

 

5本目は1953年製作、ビリー・ワイルダー監督の「第十七捕虜収容所」です。

 

 

(1)

 

ドイツ軍の捕虜収容所のお話です。

ドンパチど派手なアクションはなく、収容所内の悲喜こもごものエピソードが点描的に描かれます。

スパイ探しや脱走の話も出てきますが、基本的には地味で渋い展開です。

 

興味深いのは、思っていたよりも捕虜が自由であるところ。

収容所と聞くとついつい、ユダヤ人収容所をイメージしてしまいますが、それと比べると桁違いに自由です。

舞台になっているのが下士官向けの収容所であるからかもしれません。

ある程度の私物の所有が認められていて、捕虜同士はもちろん、捕虜と兵士の間でも商取引がおこなわれていたようです。

終戦後8年という時期の映画ですから、これが「現実」なのでしょう。

 

(2017年4月26日)

 

(2)

 

映画自体が面白いのかどうかは、実はよく分かりません。

 

収容所に抱くイメージが違いすぎて、そもそも「何が許されて何が許されないのか」の基準がよく分からなくて。

つまり「それをやったら殺される!」みたいなハラハラ感がもう一つ味わえないのです。

 

それから、そこそこ待遇が保たれている収容所からどうして脱走しなくてはならないのかがピンときません。

(輸送列車爆破のノウハウを知っている兵士を脱走させるのは、まあ理解できますが)

脱走計画に反対する登場人物が言う「脱走して軍隊に戻っても、次は太平洋に送られて今度は日本軍の捕虜になるんだぞ」という台詞の方が、私には説得力があります。

再び戦場に駆り出されるよりも収容所で細々と生き延びようよ、と思ってしまうのはきっと私が平和ボケしているからなのでしょう。

 

この映画が今イチ面白くないもう一つの理由は、登場人物の区別がつかないところです。

舞台となる棟には十人以上の捕虜が収容されていますが、二度観て、やっと三人までは区別がつくようになりました。

が、同じ服を着て、同じように無精ひげを伸ばした白人を見分けるのは昭和人間の私には無理です。

できれば一人はものすごい肥満体にしてほしい、スキンヘッドの人もいてほしい、ポパイみたいなパイプをくわえている人もほしいです。

それから行き過ぎたポリティカルコレクトネスと言われようが、史実と違うと言われようが、やっぱり黒人が参加してくれたら、これで七人は区別がつけられたのに……。

 

全然話は変わりますが「宇宙戦艦ヤマト2199」の第21話が「第十七収容所惑星」というサブタイトルでした。

 

 

クリエイター的にはこの映画は基本的教養だったみたいです。

 

(2017年4月28日)

 

(3)

 

このコラムを読んでいる方はお気づきでしょうが、「昔はよかった」という言葉が大嫌いです。

 

「昔の政治家は偉大だった」

「昔のアイドルは歌が上手かった」

「昔のお笑いはすごかった」

「昔のいじめはもっとさばさばしていた」

「昔の教育方法の方が正しかった」

「昔の日本の方がよかった」

 

全部ぜーんぶ大嘘です。

「昔はよかった」という言葉の存在価値は、このセリフをしゃべる人物のボケ具合を判定するのに役に立つという、その一点に尽きます。

 

さて、この特集が始まってまだ5作ですが、映画はどうでしょうか。

正直言うと、これまでに見て5作のうち、今でも圧倒されるのは「風と共に去りぬ」1作で、もう1作がちょっと気になる程度、残りの3作は「どうでもいい」感じです。

50年という時を経て、時代の波に洗い流され、選びに選ばれて、これです。


ここで断言します。「昔の映画はすごかった」というのは大嘘です。

わざわざ昔の映画のディスクを見るよりも、去年の話題作のディスクを見た方が満足度は高いです。

ですが、ここまで昔の映画の悪口を言っておいて何ですが、この企画は何事もなかったかのように続きます。

相変わらず宅配レンタル「ぽすれん」が役立たずなので新作が借りられないのです。

 

次なる第6作目は「恐怖の報酬」です。

 

(2017年5月1日)


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