(10)
第6回配本は第11巻です。
〇神と人との間
小説冒頭から漂う「行き当たりばったり」感。
語り手が毒を盛って葬ったのは添田ではなくこの小説そのものだった、と言いたいくらいです。
〇痴人の愛
これも同じく振り回される主人公。
ただし「神と人の間」の穂積が何に振り回されているのかもう一つよく分からないのに対して、こちらはとことんナオミ。
このナオミが魅力的かどうかはさておき、この作品で「ナオミ」が一つの代名詞になったのは間違いありません。
「どんなに好きになっても溺れてはいけない」と「どうせなら溺れるほどの恋愛をしてみたい」が必ずしも対義語ではないと感じる今日この頃。
(2016年2月24日)
(11)
その他にエッセイがいくつか収載されています。
そこから神戸の飲食店が登場する部分を。
〇上方の食ひもの
神戸の三輪は有名なばかりで決して「おきな」ほど旨くはない。それに三輪では豆腐や白滝を持つて来ない。「牛鍋の味がうすくなるから」と云うのだが、それほど旨い肉でもないのに、有名なのをいゝ事にして見識ぶつていゐるのである。こんなのは生意気で面が憎い。
その外日本料理では奈良の月日亭、京都の伊勢長、支那料理では神戸の南京町にある第一楼などであるが、先づ此のくらゐにしておかう。
〇洋食の話
此の間独逸から帰って来た土方君に六甲ホテルで会つたら「近頃の独逸の料理に比べると、此のホテルの方がまだ優しですよ」と云ふことだつたが、恐らくそれが本当なのだろう。
京都にも大坂にも洋食らしい洋食は殆んどない。堂々たるホテルの料理でも、東京の一品洋食よりまづいのが多い。少しキタナイ喩へだが、まるでゲロのやうにまづまづしいのがある。神戸でさへも横浜よりは劣ってゐる。
* * * * * *
今から80年前の話ですのでご注意ください。
(2016年2月26日)
(12)
第7回配本の第4巻です。
〇鬼の面
行き当たりばったりで始まり行き当たりばったりで進む物語。
行き当たりばったりの主人公を描くのにはちょうどいいのかもしれませんが。
谷崎の自伝的な側面もあるらしいですが、それを知ったから突然面白くなるわけでもなく。
〇人魚の嘆き、魔術師、鶯姫
ほどよい幻想趣味と磨き上げられた語彙。
ストーリーをもっともっと磨き上げてくれれば傑作群の仲間入りできたのに。
〇異端者の悲しみ
これも自伝的作品。こちらは「鬼の面」に比べると行き当たりばっかり感が少ないです。
主人公は行き当たりばっかりですが。
(2016年5月25日)
(13)
続いて第8回配本の第6巻です。
〇小さな王国、少年の脅迫
マゾヒスト谷崎がかしずきたいのは美女ばかりではない、というお話。
〇魚の李太白
谷崎っぽくない、可愛らしい小品。この巻の中では一番きれいにまとまってるかも。
〇柳湯の事件、呪われた戯曲
これまでのミステリ小説よりはずいぶんよく出来ています。
〇富美子の足
これぞ谷崎。
(2016年5月27日)
(14)
この巻を読んでいやでも気づかされるのは翻訳小説の出来の悪さです。
芥川との共同訳(?)「クラリモンド」は冗長でぱっとしないし、「アツシヤア家の覆滅」は途中で放り出されてしまいます。
ワイルドの「ウヰンダミーヤ夫人の扇」では、実は自分はワイルド党ではない、と但し書きを付けた上でこんなことを書いています。
此の戯曲には割り合ひに俗悪な分子が少く、腰のうはついた所がなく、しんみりした、品のいゝ、落ち着きのある喜劇だと云ふ感じがする
谷崎はワイルドの中ではこの作品がお気に入りだったようです。
しかし読んでみると話はいい加減だし、リアリティもへったくれもないし、まあひどいもんです。
やっぱり普通に有名な作品の方がはるかによくできています。
(2016年5月30日)