第16位
トーマス・マン「魔の山」(新潮文庫)
この小説のことを考えると胸が苦しくなります。
実は9年ぶりの再再読なのですが、9年前の感想が無茶苦茶なのです。
何か分かったようなことを偉そうに書いていますが、書いてあるほとんど全てが間違っているのです。
このコラムの9年前あたりを探せばその記事が出てきます。
あまりに恥ずかしいのでリンクはしません。
どうか探さないでください。
ところで今回読んで、後半の方が面白いということに初めて気がつきました。
特にセテムブリーニとナフタの論争。
二人の会話はぞくぞくするほど刺激的です。
しかし、しかしです。
ものすごく正直に言うと、トーマス・マンはこの会話において自分で自分が何を書いているかほとんど分かってなかったのではないかと思いました。全体の流れは面白い。でも言葉一つ一つの使い方はとっても不正確ではないか、と。
こんなことを書くとまた9年後の自分に突っこまれそうですが。
(2016年3月11日)
第17位
アルベール・カミュ「異邦人」(新潮文庫)
「きょう、ママンが死んだ」から「それは太陽のせいだ」そしてエンディングの一文。
薄っぺらい本なのにヤング(死語)のハートをがっつりつかむ言葉に満ちた一冊。
なるほど50年代のヤングアダルト、それから70年代の中高生に受けそうな小説……、と今までは思ってました。
ニヒル病をこじらせた自己愛小説だと簡単に片づけていました。
ところが今読み直すとちょっと違います。
書評の多くはカトリックとの関係を重視していますが、それも違うと思います。
これが書かれたのは1942年。
パリがナチスドイツに占領されていた、まさにその時。
敵国に蹂躙されているフランスで、何となく人を殺し、あらがわず弁明せず反省しないという小説を書く。これは一体どういうことなのでしょう。
太陽がまぶしい南国で自分を見失っちゃいました、なんて話であるわけがありません。
宗教に抑圧された自分を解放させるのは死のみ、なんて話であるわけがありません。
分かりにくいのはカミュが自分でも危険すぎると思ったせいだと思います。
(2016年2月22日)
第18位
ドストエフスキー「白痴」(新潮文庫)
14年ぶり、何度目かの読了。
これも作者自身の言葉に騙されてしまった作品です。
巻末の解説に書いてあります、ドストエフスキーはこの小説で「無条件に美しい人間」が書きたかった、と。
私もこれまでこの言葉を信じて読んできました。
確かにその解釈に従って読めば大変面白いのです。
第1編は。
第1編。
普通の長篇小説の分量に匹敵する300ページ。
しかしそこに描かれているのはムイシュキンとロゴージンが汽車の中で出会う場面から、ナスターシャの家でのドタバタまでの、たった一日の出来事です。
そしてこの凝縮したドラマの推進力となるのが「無条件に美しい人間」ムイシュキンでした。
私はこの第1編こそドストエフスキーが書いた最も完璧な作品だと思っていました。
(2016年1月22日)
しかしその読み方では第2編以降で壁にぶち当たります。
ムイシュキンはナスターシャとアグラーヤの二人に結婚を申し込みます。
きっと純粋な愛情や哀れみや同情に基づいての求愛ではあるのでしょうが、二股は二股です。
やってることは盛りのついたサルと同じです(盛りのついたサルがどんなのか知りませんが)。
これを「無条件に美しい人間」の所業と自分を納得させるのはとっても難しいです。
ドストエフスキーの恋愛倫理観がおかしいのでしょうか?
「虐げられた人々」にも同じような登場人物がいます。
アリョーシャです。
彼のエピソードを読むと、ドストエフスキーは彼のやってることをいいとは思っていません。
倫理観に縛られてはいないけれども、屁とも思っていないわけでもなさそうです。
ドストエフスキーがムイシュキンを「無条件に美しい人間」と構想したのは、せいぜい第一編までだったのではないでしょうか。
(2016年1月25日)
それからムイシュキンが「無条件に美しい人間」だとすると、イヴォルギン将軍がどうもうまく枠組みに収まってくれません。
イヴォルギンの果てしなく続く与太話にムイシュキンは気長に付き合います。
彼は忍耐強く優しい。
しかしその態度は決して「無条件に美しい人間」のものではありません。
あくまでも寛容なだけです。
むしろ将軍の方が「無条件に美しい人間」に近いのではないかと思ってしまうほどです。
そこでようやく気づくのです。
「ムイシュキンを通して無条件に美しい人間を描きたい」という言葉がそもそも与太話ではないか、と。
大都会ペテルブルグに現れたムイシュキンは、当初「無条件に美しい人間」第一候補でした。
そして確かに一日目はみんな(作者も読者も含めて)の期待に答えてみせます。
でも神通力が通用したのもたった一日でした。
次に現れた時彼は、純粋かもしれないけれども美しい人間ではありませんでした。
二人の美しい女性の尻を見境もなく追い掛け回すだけのサルでした。
優しい、確かに優しい。
そのためにみんなが彼にすがろうとする。
しかし彼はそれに答えることはできません。
なぜなら彼は「無条件に美しい人間」ではないから。
(2016年1月27日)
じゃあ一体誰が「無条件に美しい人間」なのか?
イヴォルギン? イポリート?
ナスターシャ? ロゴージン?
最後のどんでん返しでアグラーヤ?
あるいは大穴でリザヴェータ?
……、実はそれこそが第2編以降の推進力ではないかと思ったりもします。
ムイシュキンを「無条件で美しい人間」と思い込んで読むと第2編以降は全く面白くありません。
ですがムイシュキンを優勝候補のくせに二回戦で早々と敗退した選手と考えると、俄然面白くなってきます。
これまでドストエフスキーが書いた最も完璧な作品と信じていた第1編が、頭でっかちの単なる状況説明の章に思えてくるほどです。
というわけでこれが海外の長編第18位。
ただし新潮文庫のあとがきを真に受けなければ、という条件でということにはなりますが。
ところでエヴゲーニイ・パーヴロヴィチという登場人物がいます。
あんまり目立たない人ですが、名前は頻繁に出てきます。
重要な鍵を握りそうで、いや、握っているのですがなぜか表面上はその鍵は明らかにされません。
本当は「無条件に美しい人間」の最も意外な候補として挙げたいくらいです。
今までこの人物の存在意義が分からず、それも第2編以降の「白痴」が面白くない理由の一つでした。
今回やっと気がつきました。
エヴゲーニイがこの物語の語り手だったのですね。
(2016年1月29日)
第19位
ヴィクトル・ユーゴー「レ・ミゼラブル」(岩波文庫)
9年ぶりの再読。
再読なので精神的に楽に読めるかと思ったら、ファンティーヌを襲う不幸はいよいよつらく、テナルディエはいよいよ悪辣で、ジャヴェールはいよいよしつこい。
最初に読んだ時よりも数倍厳しかったです。
その分エンディングのカタルシスもすさまじくて。
私はうっかり最終巻の最後を電車の中で読んでしまいました。
あわててマスクをして季節外れの花粉症ということにしました(まあ、そもそも誰も私のことなんか見てないのですが)。
「レ・ミゼラブル」をこれから読む人は、「このあと1時間は誰にも会わない」という状況で読み終えましょう。
(2015年11月20日)
「レ・ミゼラブル」を振り返ってみるとよく分かります。
最初から最後まで完璧に構想してからユーゴーが書き始めたということが。
冒頭の一文字を書き記した瞬間、彼の頭の中には最後の一文字まで揺るぎなく組み上がっていたのでしょう。
一見当たり前のようなことですが、これまで海外の名作を80作読んできて、それがとんでもないことだとやっと気がつきました。
最初から最後まできっちりと構成されていたことが明らかに分かる大長篇は、実はそれほど多くありません。
きっちりと構成された作品が、そうでない作品よりも文学的価値が高いとは、必ずしも思いません。
ユーゴーのジャン・ヴァルジャン並みの精神的強固さにただただ驚くだけです。
海外の長篇小説ベスト100も残すところ18作です。
ここまで来ると「小説とは何か」ということをついつい考えてしまいます。
ベスト100の中には「千夜一夜物語」や「人間喜劇」のように中・長篇小説の集合体のような体裁のものも含まれていますし、「冷血」のような実録風のものもあります。
不条理なものもあれば、どうひいき目に見ても行き当たりばったりに書かれたとしか思われない作品もあります。
その中で自分が「これぞ小説だ」と思うものとは何か考えてみると、答えははっきりしています。
「レ・ミゼラブル」こそが私が思う「小説」だと。
(2015年11月25日)
たとえばがっちりとした構成力を誇る小説はいろいろあります。
「風と共に去りぬ」とか「大地」とか。
登場人物の描写を通して作者の意志の強さが感じられる作品もいろいろあります。
「灯台へ」とか「存在の耐えられない軽さ」とか。
すさまじいアクションシーンで読む者を震え上がらせる小説もあります。
「悪童日記」とか「ブリキの太鼓」とか。
しかしその三つがそろった作品はそうそうありません。
「オデュッセイア」か「モンテ・クリスト伯」あたりでしょうか。
その二つと比べても「レ・ミゼラブル」の巨大さは際立っています。
……と、そこまで書いてようやく自分で気がつきます。
やっぱり私は小説を「ミステリ」として読んでいるのでした。
(2015年11月27日)
ここでまたもやミステリの定義の話になるのですが、ずいぶん以前にこのコラムで書いたことがあります。
……ある人が定義付けるには、「ミステリ」とは絶対に言えないもの以外の全てを「ミステリ」と呼ぶ、のだそうです……、
私の考えも大体そんな感じですが、今はもう少しだけ定義が狭まっています。
「ミステリ的要素が物語の推進力に寄与している小説」
「フョードルを殺したのは誰か?」「ラスコーリーニコフは逮捕されるのか?」
ドストエフスキーの物語推進力はかなりの部分、ミステリ的要素に負っています。
ところが純文学と言われるジャンルの中にはそういう部分にまったく関心のないものもあって、そういうのは「海外の長篇小説ベスト100」の企画が終わったら二度と読まずにすませたいと思っているところです。
「レ・ミゼラブル」の場合、物語後半の鍵はマリユスにかかっています。
「マリユスはいつテナルディエの本性に気づくのか」「マリユスは命の恩人の正体をどうやって知るのか」
これは心憎い仕掛けです。
大長篇小説の中盤から突然現れた男主人公。
彼はこの二つの謎に苛まれます。しかしそうすることによって読者のシンパシーをぐっとつかみ寄せるのです。
そしてその二つの謎が物語の最後の最後に快刀乱麻に解き明かされます。
ボンクラな推理小説は謎解き篇がもたつくものですが、ユーゴーは見事です。
ばさっとばさっと秒殺です。
(2015年11月30日)
第20位
マーク・トゥエイン「ハックルベリー・フィンの冒険」(岩波文庫)
今、この瞬間、夏休みの読書感想文の宿題で困っている全国数十万人の小学生、中学生の諸君。
私もまったく同じ悩みを抱えております。
ハックは時々悪いこともするけど、黒人のジムには優しいし、勇気もあるし、よかったと思います。
冗談抜きでこれくらいの感想しか思い浮かびません。
これをどう水増しして格好をつけましょうか。
とりあえずこの小説が書かれた時代背景を調べて黒人差別についてもっともらしいことを書けばある程度の分量にはなるでしょう。
しかし国語の先生は同じような感想文を何百も読まされてきたはずです。
「この小説の舞台となった1940年ごろアメリカは〜」という文章が出てきた瞬間に先生はおそらく作文用紙を3ページはめくってしまうでしょう。
グーグルマップでハックがたどった道筋を図示すれば「斬新な感想文」と先生は喜んでくれるかもしれません。
現代の倫理観や科学的知識を持った自分が突然ハックと入れ替わったとしたら? という想定で書くのも面白いかもしれません。
ただ、感想文の最後に「もう一度読んでみたいです」と書くのはやめた方がいいです。
「もう一度読んでみたい」と書く人がもう一度読んだためしがないのを先生はよく知っているからです。
(2015年8月7日)
「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<第21位〜第25位<main>第13位〜第15位