谷崎潤一郎全集あれこれ第3回

(5)

 

海外の長篇小説シリーズも残り20作を切りました。

​こうなってくるとどうしても考えてしまうのが「自分なりのベスト10」です。

文句なくベスト10入り間違いなしの作品もあれば、好きではないけれども気になって気になって仕方がない作品もあったりして、悩みながらも楽しい作業です。

 

そんな時にとんでもない作品に出くわしました。

「春琴抄」です。
 
あらすじだけは知っていて、自分でもすっかり読んだ気になっていましたが、実際に読むのは初めてでした。

そうしたら何と! あまりにも完璧な小説世界。

これまでに読んできた海外の長篇の80冊を足したよりもさらに深く、さらに高い感動!
ぎりぎりまで削ぎ落とされて、ぎりぎりまで研ぎ澄まされた描写。
こんな小説が存在しうるなんて。

 

(2016年1月8日)

 

(6)

 

「春琴抄」が収められているのが第5回配本の全集第17巻です。

 

 

〇蘆刈​
謎めいた男が語る、美女お遊と彼女に魅せられた男女の不思議な恋愛譚。

 

〇陰翳礼讃
暗がりにこそ映える美がある、と。
​谷崎のエッセイにしてはちゃんとしています。

 

〇文房具漫談
​原稿用紙とか筆記用具とか、潤一郎ファンなのでありがたく読みますが、まあ、どうでもいい話。

 
〇東京をおもふ
果てしなく続く東京の悪口。

最後には「いろいろ言ったけど本当は東京が好きで……」みたいなオチになるのかと思いきや、最後の最後までとことん悪口。

このしつこさはかえってあっぱれ。
 
概して潤一郎のエッセイは退屈です。

でもこの人が「春琴抄」を書いたのですから不思議です。

 

(2016年1月13日)

 

(7)

 

それにしても「春琴抄」の浄化された世界を一体どのように表現すればいいいでしょう。

​私の乏しい語彙と拙い文章力で表現するのはとっととあきらめて、他の人たちの感想をWEBでいろいろ探してみました。
​びっくりしたことがあります、「春琴抄」には二つの謎があるという説があるのです。
 
春琴の子どもの親は誰か? という謎と、春琴に熱湯をかけたのは誰か? という謎です。

一つ目の謎は、小説の最後ではっきり説明されているので厳密には「謎」ではありません。

しかし子どもが生まれる場面は確かに謎めいた書き方がなされています。

どうしてこんな書き方をするのか? そもそもこの懐妊に物語的意味があるのか? ということも含めると十分「謎」かもしれません。

二つ目についてはこれは明らかに作者によって「謎」として提示されています。

谷崎は探偵小説に興味がある作家でした。

その彼が「謎」を提示した以上、それは解かれるべき「謎」であると解釈するのは当然かもしれません。

しかし私にはその発想は思い浮かびませんでした。
普段から「ミステリ的要素を重視する!」と偉そうに言っておきながらこの謎には全然反応しなかったわけです。

 

(2016年1月15日)

 

(8)

 

自分の鈍感さには呆れ返ってしまいます。

 

​しかし、しかし、あくまでも言い訳ですが、謎の中には作者自身がどうでもいいと思っているものもあります。​

コーネル・ウールリッチの「喪服のランデヴー」は大好きなミステリですが、犯人がどうやって被害者に接近してどうやって犯行に及んだか、についてはあまり詳しく描写されません。
書き手も読み手もそんなことはどうでもいいのです。

 

小説ではありませんがフランソワ・オゾン監督の映画もミステリアスな雰囲気が特徴です。
が、ミステリアスな雰囲気だけ満載しておいて、謎を解決する気はいっさいありません。
あ、わざわざフランス映画を引き合いに出さなくてももっと身近に典型的な例がありました。
「エヴァンゲリオン」。
これなんか謎を解決するどころか物語という枠組みさえ存続が危ぶまれる状況で、おっと「エヴァンゲリオン」が出てくると話が途方もなく脱線してしまうのでこの辺でやめておきましょう。
 
「春琴抄」の場合、作者自身によって容疑者が何人か挙げられています。
エラリー・クイーンならここで「読者への挑戦状」が差し挟まれるところです。
「さあ、真犯人は誰でしょうか?」という風な。
 
でも私は挑戦状とは正反対のものとして受け取りました。
「この件についてはもうこれ以上考えなくてもいいんですよ」
いわば打ち切り宣言。

 

(2016年1月18日)

 

(9)

 

面白いと思うのは、春琴に熱湯をかけたのは誰か? という謎に対して「春琴狂言説」や「佐助犯人説」を主張する人がいることです。

それでは究極の純愛が台無しになるように私には思えます。
しかし「狂言の方が純愛度が高まる」と言われれば、それに対する論理的な反論も思い浮かびません。
「春琴抄」という物語がそういう説を許容しないように思える、という頼りない主観でしか抗弁できない自分がいます。

しかもこういう議論の際にややこしいのは、作者の考えが必ずしも正しくはない、という点です。
仮に新発見の谷崎書簡の中で「誰が犯人かなんてどうでもええじゃろ」と書かれていたとしても、逆に「あれは実は佐助がやったんじゃ」と書かれていたとしても、それによって解釈が変わることはないと思います。

右脳で書かれた小説と左脳で書かれたエッセイの質が、谷崎の場合極端に違っていて、私には谷崎の左脳では自分の作品が理解できないように思えるのです。


(2016年1月20日)


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