神戸元町ダイアリー2015年(3)

安全保障関連法案についての質疑を見ていて思うのは、「まあよくここまで話が噛み合わないものだ」ということです。
そもそも対立し合っている者同士が、そもそもお互いに経験したことのない事態について、そもそも用語の定義づけすら共有されていない状況で、議論が噛み合うわけがないとは思っていましたが、それにしてもここまでとは思っていませんでした。

こういう噛み合わない事への歯がゆさを一番味わわせてくれるのはカフカの小説です。
カフカの登場人物は主人公の問いに対して普通には答えてくれません。
真剣に答えようとしてくれてはいるのですが、ちょっとずれています。
起点が同じで角度が違うのでもなく、平行に走っているのでもなく、ねじれの位置にあるのです。
単語一つ一つの意味は分かるのに、文章として頭に入ってきません。

私は(「変身」以外の)カフカを読むと、だからすごーく嫌な気持ちになります。

ところがこのカフカをもてはやす人がいるのもまた事実です。
分からないなりに勝手に想像するに、噛み合わなさとか、もどかしさとか、先行きの不透明感がカフカファンには魅惑的なのでしょう。
私には今の国会の議論はものすごく「カフカ的」に思えます。
同時通訳をつけて全世界に発信すれば世界中のカフカファンが熱狂してくれるに違いありません。


(2015年7月3日)

政治に対する理念が違う、支持母体や支援者の階層も違う、理想とする国のあり方も違う。
そういった人たちが議論をすり合わせるのは大変です。

せめて現場となる地域の空気感でも共有できないでしょうか。

安保法制特別委員会はホルムズ海峡の掃海艇の甲板でおこなうべきだと思います。
海峡の地形や、そこを航行する巨大タンカーのスケール感や、イランとの距離感などは実際にそこに行かないと絶対に分からないと思います。
せめてその空気感くらいは共通認識した上で、つまり、そこで機雷を撤去するとはどういうことなのか皮膚感覚で感じた上でいろんな議論をしてもらいたいです。


(2015年7月6日)

憲法審査会で3人の憲法学者が安保法制を違憲と決めつけたというニュースが流れました。
3人とも自民党に招致された学者たちです。
これを自民党のチョンボと捉えるか、開き直りと受け取るか、それとももっと深い策略と勘繰るべきなのかよく分かりませんが、もっとよく分からないのは「憲法学者とは何をする人か」という問題です。

川に古びた橋がかかっていて「渡るな危険」という立札が立っています。
看板の文言をまったく無視するのは論外として、文言を尊重するのにもいろんなレベルがあります。

1)渡るなと書いてあるんだから渡らない
2)「この橋は危険だから渡るな」という意味だから他の橋は通ってもよいと解釈して他の橋を探す
3)危険でないように橋を補強して立て看板を撤去する

憲法学者とは憲法についてどういうスタンスで研究している人たちなのでしょうか。


(2015年7月8日)

そういう意味では国会の場で参考人として招致すべきなのは憲法学者ではなく、アメリカ大統領か国防長官だったと思います。

全然話は変わりますが、アイドルの人気投票のために、熱心なファンはCDを何十枚、何百枚と買って投票券を手に入れるらしいです(間違いだったらごめんなさい)。
すごいですね。
握手をしてくれるわけでもなく、「あなたのために歌います」と言ってくれるわけでもない。
それなのにそんな遠くの存在のアイドルに無償の愛を捧げるのです。

自分のために何をしてくれるか言明したことがなく、おそらく何もしてくれなさそうな人に対して、多額のお金(と、もしかしたら命までも)を貢ぐわけです。
私にはできないことだし、本当に素晴らしいことだと思います。

アイドルの世界でなら、ですが。


(2015年7月10日)

この欄でも繰り返し書いてきましたが、昔の方がよかったものなんて一つもないと思います。

「最近のTVは面白くない」と言う人がいますが、昔の名作ドラマの再放送を見るとあまりの退屈さに愕然とします。
お笑い番組もそうです。
時々お笑いの大御所が最近の芸人のつまらなさに苦言を呈したりしていますが、はっきり言って30年前の大御所の漫才よりも10年前の若手漫才の方が面白いし、それよりも今の新人芸人の方がもっと面白いです。

政治家もそうです。
昔の政治家の方がスケールが大きくてよかったなどという話を聞くと耳を疑ってしまいます。
金や権力に物を言わせてゴリ押しをする今の中国のようなやり方をよしとする人にはかつての政治家が「スケールが大きくてよかった」ように見えるかもしれません。
今の日本はそんな国ではないし、今の日本人はそんな国民ではありません(と信じたいです)。
安倍首相や岡田代表が殊更いい政治家とも思いませんが、昔の政治家の方がよかったかと聞かれれば、答えは「断じてNO」です。

昔からイジメはあったけれど今の方が陰湿だと言う人もいます。
大嘘もいい加減にして欲しいです。
今のイジメが陰湿なら昔のイジメは陰湿プラス暴力的プラス差別的でした。

政治にしても教育にしても生活にしても娯楽にしても今の方が絶対いいです。
一つだけ例外があります。

この暑さ。

これは昔の方がよかったと思います。


(2015年7月13日)

昔のアイドルの方が歌が上手かった、などと知ったげに言う人もいます。

20年経っても30年経っても名前が残っている人はその時代の100人のアイドルのうちのたった一人です。
その時代のアイドル100人と今のアイドル100人を比べると、今の方が歌もダンスも上手です。

今の若者には冒険心がないと嘆く年寄りもいます。

自分の年金を1年分若者に託してみてはどうでしょうか。

「これで1年間好きに冒険してみろ」と。
若者はちゃんと冒険します。
若者が冒険しないのは年寄りが若者の可能性よりも自分の既得権を優先したせいです。

新入社員の質が年々落ちていると愚痴る人も多いです。

もしかするとそうかもしれません。
しかし、もし本当にそうだとするとそれは、新入社員の質が落ちているというよりもむしろ社会の中でのあなたの職業の価値が低下していると考えるべきかもしれません。
優秀な新入社員は他に行っていると考えるべきなのでしょう。


(2015年7月15日)

自分のことを振り返ってもつくづくそう思います。

私が医者を目指していた時代、インターネットもなく、携帯電話もなく、TVゲームもありませんでした。
(インベーダーゲームはあった!)
つまり他に誘惑がない状況での受験勉強でした。

今の若者は違います。
ありとあらゆる誘惑があり、それをはねつけたりスルーしたりつまみ食いしたりしての受験勉強です。

もし今から30数年前に「バイオハザード」があったら私は間違いなく医者にはなれなかったと思います。
それに対して今の若手の医者は「バイオハザード」など簡単に(きっと攻略本にも頼らず!)軽くクリアした上で医学部に合格しているわけです。

自分のことを振り返ると言えば、もう一つ世代的に恥ずかしいことがあります。

たとえばコンビニで従業員に対して無礼な態度を取っている客、店で理不尽なクレームをつけている客、くわえタバコや吸殻をポイ捨てする人、スーパーで買い物かごを片付けない客、電車で割り込みする人、そのほとんどが私と同世代かそれ以上です。

選挙権を18歳以上に繰り上げよう、という主張に対して「自分たちはそれほど成熟していない」と謙遜する若者がいます。

君たちは1週間でもコンビニでバイトしてみるといい。

日本をダメにしているのは君たちではないということが実感できると思います。


(2015年7月17日)

どうして突然若者の弁護を始めたかと言うと、先日こういうコンサートで学生コーラスのお手伝いをしたのでした。

神戸大学、大阪大学、奈良女子大学の合唱団によるジョイントコンサートです。
学生たちは真剣で向上心があって礼儀正しくて賢くて本当に感心しました。

問題は、一緒に話しているとこちらの未熟さや無知さがばれてしまうところです。

まあそれは今さら隠しても仕方がないのですが。


(2015年7月22日)

彼らが合唱団のメンバーであったというのが好印象の大きな要因だったかもしれません。

合唱で一番大切なのはハーモニーだと思います。
いいハーモニーを作るためには一体感が必要ですが、個性のないものがどんなにたくさん束なってもいいハーモニーにはなりません。
それぞれ主張がある者たちが一体となって初めてハーモニーが生まれます。

そういう意味では合唱団には、個性もなく人と溶け合いたくもない人や、個性がないゆえに徒党を組みたい人や、個性はあるけれど協調心がない人は基本的に含まれていないわけです。
これは大きいです。


(2015年7月24日)

それでは若者たちをみんな合唱団に放り込めばみんなが個性と強調心を併せ持つようになるんじゃないか、とついつい思ってしまうのが私たち大人のダメなところです。

大人が陥りがちな「十把一絡げ(じっぱひとからげ)」現象です。

小学生から英語を教えるべきか、という問題に対してお偉い先生方がいろいろ発言していますがこれなどその典型です。
好奇心が旺盛でコミュニケーションに興味がある子どもは早い段階で外国語に接した方がいいでしょう。
日本語での挨拶すら満足にできない子に英語教育なんてもっての外です。
ところが偉い先生に限ってそんな当たり前のことが分からなかったりします。

理由は簡単です。
現場で子どもを見ていないからです。
大学の先生が相手をするのはある程度賢い学生たちだけです。
高校生になっても日本語すらまともにしゃべることができない生徒の存在なんて想像もしたことがないのでしょう。


(2015年7月27日)

これと同じ現象は医療でも見られます。

患者さんの仕事内容やライフスタイルや人生観をまったく考慮せず、検査値だけで判断する医師は多いです。
しかし検査の標準値とは標準的な生活をしている標準的な体質の人にとっての標準です。
場合によってはその人だけの標準値だってあります。
「他の人はどうあれあなたはこの値を目指しましょう」という値があっても全然おかしくありません。

しかし糖尿病などは目標値が数字で示せるのでまだましかもしれません。
便秘については決まった目標すらありません。
1日4、5回の便通が身体に合っている人もいれば1週間に1回がベストの人もいます。
その人が目指すべき方向を数字で表すことができないのです。

ところが大学の偉い先生は得てして「朝食をしっかり食べて1日1回のお通じを!」などと簡単に言います。
自前の便秘解消レシピを本にしたりする人もいます。
そういう医者やそれに振り回される人を見ると「ああ、十把一絡げ現象だ」とため息をつきたくなります。


(2015年7月29日)

そんなこんなをまとめてお話ししたいと思います。

神戸新聞文化センター「暮らしいきいき講座」
8月17日(月)14:00〜15:30
ミント神戸17階神戸新聞文化センター

予約は締め切られていますがクリニック経由で申し込めば入れるかもしれません。
お問い合わせください。


(2015年8月3日)

少し前ですがTV特別企画で「水戸黄門スペシャル」というのを放送していました。

怖いもの見たさで少しだけチャンネルを合わせたのですが、まあひどいこと、ひどいこと。

新しいものを生み出そうという気概がまったく見られない凡庸なシナリオ。
見る者を馬鹿にした底の浅い人物設定、おざなりのプロット。
そして旧態依然の古臭い殺陣。

視聴者は時代劇に飢えているはずだからやっつけ仕事の時代劇でも飛びついてくるはずだ、という視聴者を舐めまくった姿勢が丸見えの最悪のドラマでした。

彼らは藤沢周平原作の数々の映画のヒットの原因を「飢餓感」と解釈しました。
考えてみればこれは藤沢映画と観客、両方を馬鹿にした話です。
きっと彼らはジブリやディズニーのヒットも「ガキ相手だから」としか理解していないのでしょう。
実写版「るろうに剣心」の成功も、「人気漫画が原作だから頭の悪いファンが飛びついた」くらいにしか思っていないのでしょう。

そんな風に考えられるためには二つの条件が必要です。

一つは、いい映画を見て「いい」と思えない。
二つ目は、観客を馬鹿だと思っている。

こんな人種がTV時代劇を作っているということです。


(2015年9月11日)

旧態依然の殺陣と書きましたが、昔だって凄まじい殺陣はありました。
「七人の侍」とか「椿三十郎」とか。

その流れを受け継ぐのが藤沢時代劇です。
物語の中心は人間ドラマですから殺陣もリアルで不器用だったり人間臭かったりします。
殺陣師が自分の仕事内容を理解しているわけです。

一方で新感覚派の監督はちゃんと新しい殺陣を見せてくれます。
「座頭市」とか「あずみ」がそうでした。
そしてその最先端が「るろうに剣心」でしょう。
スピーディーでスリリングで、目を見張る新時代の殺陣でした。

ところがそのせっかくの前向きの流れに背を向けた守旧派がいるようです。

たとえば「切られ役」福本清三を主役に抜擢した「太秦ライムライト」という映画がありました。

これは古き良き時代の時代劇を懐かしむという趣向の映画なので仕方ないかもしれませんが、殺陣があまりにも古臭くてあきれ返ってしまいます。
シナリオも凡庸で、これでは「時代劇は滅び去ってもやむなし」と思われても仕方ありません。
狙い自体はよかったのに実にもったいない映画でした。


(2015年9月14日)

時代劇そのものが基本的に懐古的なものですから、そこに新風を求めるのは自己矛盾かもしれません。
新しい感覚の監督やスタッフを単純にほめるべきなのでしょう。

クラシックの世界もそうです。
何せ「クラシック」です。
新風? 何それ? みたいな世界です。

でもそんな世界にも異端児はいて、



ピアノのHJリムもその一人です。
先日ベートーヴェンのソナタを4曲並べたコンサートを聴きに行きましたが、黒髪を振り乱してペダルを踏み鳴らして爆音で突き進む、破壊力満点のベートーヴェンでした。

少々体勢が乱れていても果敢に四回転ジャンプにチャレンジするフィギュアスケーターや、ノーガードで打ちまくるボクサーの姿を思い浮かべながら、スリリングなひと時を楽しませてもらいました。

実演に比べるとインパクトは落ちますがソナタ全集の録音も出ています。
次の来日まで待てない人はそちらをどうぞ。


(2015年9月16日)

明日から5連休です。

私の皮算用では連休明けまでに福井くんが念願の10勝目を挙げ、カープは首位に1.5ゲーム差まで迫っているはずなのですが、実際はどうでしょうか。

朝晩はかなり肌寒くなってきました。
体調に気をつけて連休をお楽しみください。


(2015年9月18日)
 

 ちなみにその5連休、カープは1勝4敗で逆に首位戦線から完全に脱落、福井くんも1試合に登板、6回2失点で試合を作ったものの中継ぎ陣が崩れて勝ち星つかず、結局シーズン9勝止まりであった。

神戸元町ダイアリー2015年(2)待合室雑誌事情<main>神戸元町ダイアリー2015年(4)国益つれづれ


健康講座で教えられたこと

神戸新聞カルチャースクールが無事に終了しました。

何度かこういう講座を担当させてもらいましたが、こちらの勝手な思い込みに気づかされることがよくあります。

1)ほとんどの人は「医療不要論」など信じていない。

街を歩けば書店の店頭やコンビニのマガジンラックなどに並ぶ医療不要論本の数々が、いやでも目に飛び込んできます。
そのたびに思います。
健康講座を開くことがあればとにかく真っ先にこういうデマをきっちり否定しよう! と。

そして意気込んで「医療不要論」の話を始めるのですが、たいていの場合みなさんきょとんとされています。
そうなのです、そもそもみなさん「医療不要論」など相手にしていないのです。
「コレステロールの基準値を低めに設定しているのは製薬会社の陰謀だ」という雑誌記事を見て、ほとんどの人は「そんなことを言ってどうせまた変な健康食品を売りつけようとしているんでしょ」と冷静に判断しているようなのです。

そう、ほとんどの人は。


(2015年8月21日)

それから前回の記事とほとんど重なるのですが、

2)ほとんどの人は近藤誠など相手にしていない。

これにも驚かされます。
最初はトンデモ理論としてスルーを決め込んでいた医者たちですが、近藤がマスコミで派手に扱われるのを見て危機感を感じてきたようです。
雑誌などで反論コメントを見かけることが多くなってきました。
私も危機感を感じている一人です。

ところが講演で近藤誠の名前を出しても、みなさんの反応は限りなく薄いです。
「がんもどき」という名前を出してもほとんどの人は「そう言えばそんなことを言っている人がいたっけ」程度の反応です。
マスコミでのもてはやされぶりに焦っている私たちが拍子抜けするほどの冷静さです。

そうなのです。
ほとんどの人は。
(2015年8月24日)

それでは医療不要論や近藤誠をもてはやしているのは一体誰なのでしょう?

前回「ほとんどの人は医療不要論も近藤誠も相手にしていない」と書きました。

しかし安くもない受講料を払って健康講座に来られるのは、よく考えてみると限られた階層の方々です。
意識が高く、所得も高い人たち。
この人たちはちまたにあふれる情報の洪水から正しくて有用なものだけを選択することができます。
マスコミの扇動にも簡単には踊らされたりしません。
医者たちが医療不要論の隆盛に危機感を感じていると言いましたが、その言い方に従うなら、心配に及ばない人たちです。

医療不要論や近藤誠理論はこの人たちとは違う階層をターゲットにしています。
マスコミに操られてこの理屈に飛びついた人は、受けられるはずの医療を拒んで寿命を縮めます。

つまり医療不要論は、意識と所得が低い人を選択的にむしばむ、悪辣で卑劣な心の伝染病なのです。


(2015年8月26日)

子どもばかり狙うような犯罪者は許せない、と私は思います。

それはもしかするとあまり論理的な発想ではないかもしれません。
「大人を狙う犯罪者なら許せるのか?」と反論された時に上手く答える自信がありませんから。
感じたまま「卑劣だから許せない」と答えたいところですが、「卑劣」という言葉にどれほどの論理性があるのかもよく分かりません。

ここは逆に「人は、子どもばかり狙うような犯罪を卑劣と感じる生き物である」と考えるべきかもしれません。
我ながら詭弁そのものですが。

しかし自分の気持ちをよくよく観察してみると「卑劣なものに対する許せなさ」が、大脳の表面ではなく、もっと奥底に根差している事だけは感じられます。

そしてその「許せなさ」がざわざわ騒ぐことが最近多いのです。


(2015年8月28日)

かつて持てる者も持たざる者も同じようにタバコを吸っていました。
その時代であればタバコは人の健康を「均等に」にむしばむ薬物と言ってよかったと思います。

しかし今は違います。
持てる者の喫煙率は下がり、一方持たざる者は今なお高い割合でタバコを吸い続けています。
タバコは人の健康を「選択的に」にむしばむ物質となってしまいました。
タバコは持たざる者から、かろうじて残された健康をむしり取ってしまう毒物なのです。
そこに「卑劣さ」を感じるのは間違っているでしょうか?

所得の高い人は近藤理論を相手にせず、所得の低い人は近藤理論を信じる。
近藤理論は所得の低い人から貴い命を奪い取る洗脳商法です。
それを許せないと感じるのはおかしいことでしょうか?


(2015年8月31日)

ずいぶん前にこのコラムで、タバコは健康格差を広げるから反対だ、と書きました。

貧しい人だけが年貢を納めるような体制は間違っています。
貧しい人だけがどんどん病気になるような社会はそれ以上に間違っていると思います。

タバコは健康の「逆進税制」です。

経済的な「最低限の生活」であれば福祉によってある程度補うことができます。
健康面での「最低限の生活」はどうでしょうか。
いったん大病をわずらってしまうと、医療費が免除されようが、税金が控除されようが、元通りの身体には戻れません。
経済的な「逆進制」よりも健康面の「逆進制」の方がはるかに深刻で恐ろしいのです。

だから「逆進税制」の様相を呈してきたタバコを社会は厳しく制限するべきだ、という論法だったと思います。


(2015年9月2日)

今の気持ちは少し違います。

「逆進税制」とか「健康格差」とか、そういう理論的な発想ではありません。
とにかく許せないのです。
弱いものからさらに大切なものを奪い取るやり方そのものが。

子どもばかり狙う犯罪者とか。
所得に低い人から金と健康をふんだくるタバコやパチンコとか。
健康意識の低い人につけこむ近藤理論とか。

健康講座で近藤理論を相手にしない人たちを見て、かえって近藤理論への憎しみを増した私なのでした。


(2015年9月4日)

健康講座で感じたこと、まだ続きがあります。

3)ダイエットにそれほど興味がない。

すべての人がダイエットに興味があるものと、何となく、思っていましたが、全然そんなことはありませんでした。
ダイエットを実践できるのは30代まで
必要性は感じてもなかなか実践できないのが40代
もう必要性すら無きものにしたい50代
そして60代になると基礎代謝も食欲も落ち着いて、その人なりの体型に自然収束する
という感じでしょうか。

筋力維持や心肺能力アップのためのトレーニングには関心があってもダイエットには興味が薄い、というのが受講者みなさんの特徴のようです。


(2015年9月7日)

最後です。

4)嫁姑問題に悩んでいない。

詳細は省きますが、そういうことみたいです。

で、こうして書いてみると、いかに自分がステレオタイプの世代イメージに捕らわれていたかよく分かります。

若い世代に「お年寄りの好きなTV番組は?」と聞くと大多数の人が「時代劇」と答えるけれど、実際にお年寄りの方に聞くと答えは圧倒的に「ニュース番組」だった……というのは以前からよく言われてきたことです。
自分勝手な思い込みを捨てて、十把一絡げな決めつけもやめて、今後は柔軟な姿勢で健康講座に臨まないといけないなあ、と思った次第です。

そこでまたまた脱線なのですが、TV業界も10年ほど前になってようやく「実はお年寄りは時代劇よりもニュースの方が好き」ということに気づいたようで、その後TV時代劇は完全に消え去りました。
ところがその一方で時代劇映画は安定した興行成績を上げ続けます。
この矛盾をTV業界は「TVで時代劇を放送しなくなったことによる飢餓感」と解釈したようです。

これがまた大いなる「勝手な思い込み」だったわけです。


(2015年9月9日)

病院にかかる時に知っておけば得をする、いくつかのこと<main> その薬飲むべきか、否か?


calendar
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<< September 2015 >>
selected entries
categories
archives
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM