神戸元町ダイアリー2014年(4)

スタッフが先日台湾でこんな写真を撮ってもらったそうです。



衣裳から小物から化粧から至れり尽くせりでお手軽にモデル気分が味わえる、という趣旨のようです。
「クリニックのブログにアップしてもいいです」というほのめかしが最近「早くアップしろ」という圧力に変わってきたのでアップしておきます。


 (2014年10月15日)

3種類のコスチュームで撮影してくれたようです。
あと2種類がこれ。



記念アルバムとデータディスク込みで2万円程度だそうです。



興味のある方は受付で直接おたずねください。


(2014年10月17日)

ベルリオーズ作曲の序曲「リア王」という曲があります。

「序曲」とは銘打たれていますが本体に当たるオペラは存在していません。
おそらくは「演奏会用序曲」として構想されて単独に書かれたものなのでしょう。
「序曲」なので必ずしも筋書きに沿った描写音楽ではありませんが、冒頭のメロディーはリア王を、続く美しいメロディーはコーディリアを、速い部分は翻弄されるリア王の運命を表しているのでしょう。

一般的には。

今回この曲を演奏するにあたって「リア王」を読み直してみました。
やはり興味深いのは「リア王をいつからどう狂わせるのか」というところです。この解釈によって三人娘との場面もいろいろ楽しめます。
それから感じたのは、今までは存在の意味がよく分からなかった「道化」というシステムのすごさ。

そして今回気づかされたのは、登場人物の中で一番頭がおかしいのはコーディリアであるということです。

コーディリアは不器用だけれども優しい父親思いの娘であるというのが一般的な読み方です。
私もその先入観を持って読み始めたのですが、それにしては言動がいろいろおかしいです。
登場人物のほとんどが死んでしまうという究極の悲劇をもたらしたのは一体何でしょうか。
「長女と次女の貪欲さとリア王の狂気」ではあまりにも弱すぎます。
リア王の狂気をもっとも強く受け継いだのは三女だった、と解釈して初めて悲劇と殺戮の連鎖が腑に落ちるような気がします。

とすると、冒頭のメロディーはリア王でいいとして、10小節目からの繰り返しはコーディリアで、美しいメロディーはケントではないか、などと考えたりもするのです。


(2014年11月5日)

デュカスの「魔法使いの弟子」はディズニーのアニメーションで有名になった曲です。

順番としては、紀元1世紀の風刺作家ルキアノスの作品に登場する小エピソードをゲーテが物語詩に翻案。
それにインスパイヤされたデュカスが曲を書く。
その曲を聴いてディズニーがアニメーション化、という流れです。

興味深いのは、それぞれが元ネタを忠実になぞっているところです。
伝言ゲームであれば最初と最後で話が大幅に変わっていてもおかしくありませんが、この場合ルキアノスの作品とアニメを比べてもさほど食い違い感はありません。

一つだけ大きな改変があります。

 

(2014年11月7日)

「魔法使いの弟子」をミッキーマウスが演じている点です。

デュカスの曲を純粋に音楽として聴くと、かなりグロテスクです。
おそらくディズニーもそのグロテスクさを敏感に聴き取ったのでしょう。
それでアニメ化に際して主人公を可愛いキャラクターに演じさせて残酷さを薄めることにしたのではないでしょうか。

ディズニーの狙いは成功しました。
「ファンタジア」の映像を思い浮かべながら聴くと、デュカスの曲は気の利いたBGMのように聞こえます。
曲本来の先鋭さが損なわれたということです。
ディズニーが優れた聴き手だったがゆえにデュカスの意図をゆがめてしまった、と言ってもいいかもしれません。

デュカスの「魔法使いの弟子」に接する時には「ファンタジア」の映像を思い浮かべるよりも、この曲をディズニーがどう聴いたか、を想像しながら聴くのがいいかもしれません。


(2014年11月10日)

シェーンベルクの「ペリアスとメリザンド」は難曲です。
演奏者するのが難しいだけではなく聴き手にも多大な忍耐力を要求します。
私の場合、何べん聴いても最初の3分で寝てしまいました。

これを何とか最後まで聴き通す方法はないかと考えて、試しに作ってみました。
1分ごとのあらすじです。
左の数字が「分」を表します。

第1部 出会い

000 鬱蒼とした森。日が傾く時間でもないのに夜のように暗い。
時折差し込んでくる木漏れ日。
001 疲れ果てた白馬とアルモンド城主ゴロー。
獲物を見失ったゴローの表情は暗く、馬の歩みは重い。
002 木々の隙間から何かが見えては隠れる。
一瞬差し込んだ日差しに女性の白い衣装が浮かび上がる。
003 恐る恐る近づくゴロー。やはり女性だ。
若い娘が老木に身をもたせかけている。
004 娘の美しい顔を見て心ときめかせるゴロー。
ゴローは馬を飛び降り娘に駆け寄る。
005 ゴローの想いは嵐のようにつのる。
しかしそれは悲劇の始まりでもあった。
006 メリザンドという名前は聞き出せたが、それ以外の
問いかけには「追われている」とだけ繰り返す娘。
007 ゴローは娘を自分の城にいざなう。
ゴローとメリザンドは結ばれるがそこにペレアスが登場。
008 戦場から帰還したペレアスはゴローの異母弟。
快活な青年ながら眼差しに宿る憂愁の影。
009 ペレアスの登場で古色蒼然としたアルモンド城はぱっと華やぐ。
010 ペレアスはメリザンドを見て心を揺さぶられる。
それはメリザンドも同じだった。
011 ゴローの束縛の下で月見草のように暮らしていたメリザンドに
生命力が吹き込まれる。

 

(2014年11月12日)

第2部 悲劇の始まり

012 古井戸のそばに並んで腰かけるペレアスとメリザンド。
きらきらと輝く水面、さらさらと流れる泉。
二人は子どものようにふざけ合っている。
城の中では沈鬱なメリザンドがここでは屈託ない。
もてあそんでいた結婚指輪が井戸に落ちる。
013 時を同じくして森で狩猟中のゴローが落馬して傷を負った。
ゴローを看病するメリザンド。その指には指輪がなかった。
014 夫の心に猜疑の芽が宿る。
どす黒い疑いはたちまち膨れ上がってゴローを苦しめた。
015 若い二人はそれを知らない。
バルコニーから身を乗り出したメリザンドをペレアスは見上げる。
016 垂れ下がってきた長い髪の毛を愛しむペレアス。
まるでメリザンドそのものを愛撫するように。
そこにゴローが現れる。
017 ゴローの疑念は現実のものとなった。荒れ狂う嫉妬の炎。
018 ゴローはペレアスを地下の洞穴に呼び出した。
不気味な闇。
ゴローは弟に城から出ていくように命じる。

ここで曲はほぼ折り返し点となります。

 

(2014年11月14日)

シェーンベルクとメーテルランクを冒涜するような暴挙、第三弾です。

第3部 愛の死

019 ペレアスはメリザンドに静かに別れを告げる。
その言葉は徐々に熱を帯びて最後には愛の奔流となる。
020 今宵泉の傍でもう一度逢おう、そう約束する二人だった。
密会。
021 抱き合い愛の言葉を語り合う二人。
愛を伝えるのに言葉では追いつかなくなる。
022 官能の波に身を任せる二人。
023 何度も高みに到達する若い二人。
いっときの静寂も終着ではない。
二人は見つめ合いなおも愛し合う。
024 さらに荒らぶる官能の嵐。
025 絶頂、そこでは余韻すらもが激しい。
026 幸福の頂点でゴローが飛び込んでくる。
嫉妬に狂ったゴローはペレアスを刺し殺す。

 

(2014年11月17日)

第4部 おわり

027 ゴローはメリザンドとの出会いを思い出している。
森は暗かったがあの時、二人の未来は明るかった。
028 ペレアスを目の前で殺されてメリザンドは昏睡状態に陥っている。
衰弱しながらもメリザンドは美しい。
029 時折メリザンドの口元に微笑が宿る。
彼女の脳裏に映えているのはゴローかそれとも少女時代の思い出か。
030 あるいはペレアスか。
その表情を見てゴローの呼吸が苦しくなる。
031 この苦悶は愛のせいなのか嫉妬のせいか。
ゴローは懸命に自分の感情を押しとどめようとする。
032 しかし激情を抑える事はできない。
ゴローはメリザンドを揺り動かす。
033 抱き起こして叫び続ける。
「お前が愛していたのは俺だったのか、ペレアスだったのか」
034 ゴローはメリザンドを横たえ嗚咽する。
彼女の口から息が漏れる。
かすかに聞き取れる声。「私が愛したのは……」
035 しかし彼女の言葉はそこで途切れた。
036 こと切れるメリザンド。
その口元には微笑が浮かんでいる。
037 立ち尽くすゴロー。
彼の心を幸福な過去が満たす。
038 城主としての日々、ペレアスや家族たちとの日々。
それからメリザンドとの思い出。
039 最初はゴローの心を幸福で満たしたその思い出はすぐ荊となって胸を突き刺す。
040 その場に崩れ落ち昏倒するゴロー。
041 夕陽に浮かび上がるアルモンドの城。
ゴローは静かに息を引き取る。

 

(2014年11月19日)

シェーンベルクの音楽をたどってみると、第3部はメーテルランクの原作よりもかなり生々しくなっています。

第4部でゴローがメリザンドに「ペレアスと関係があったか」問いただすのですが、シェーンベルクの音楽ではあきらかに二人は関係を持っています。あくまでも「音楽では」ですが。
さらに「音楽では」、二人が関係を持っている最中にゴローは乱入しています。
ですので第4部でのゴローの問いかけは意味を失ってしまいます。
それで私のあらすじではゴローは「関係を持ったかどうか」ではなく「誰を愛しているのか」と問いかけたことにしました。
シェーンベルクもそんなことは分かっていたはずです。
しかしそれでもあえて書きたかった第3部だったのでしょう。

ベルリオーズ「リア王」、デュカス「魔法使いの弟子」、シェーンベルク「ペレアスとメリザンド」、今回のコンサートのテーマは「物語と音楽」です。



お暇ならどうぞ。

 

(2014年11月21日)

いよいよ今年も残すところあとわずかとなってしまいました。
皆さま、年末年始はどのようなご予定でしょうか?

お正月で一番困るのは面白いTV番組がないことです。
バラエティはうるさいだけだし、お笑いはどれも年末に見たネタばかりだし、スポーツのイベントは2日からだし。
レンタルビデオショップに行ってもめぼしい作品はことごとくレンタル中です。

そこで提唱したいのが三都元旦駅伝です。
神戸→大阪→京都の推定110キロ、所要時間6時間の大イベントです。
正月だからもともと道路も空いているし、もしかすると交通規制も必要ないかもしれません(暴論)。
知らない学校ばかりが走る箱根駅伝だって年々ヒートアップしているようです。
身近な大学が競う関西駅伝はもっと盛り上がるのではないでしょうか。
ぜひサンテレビ、テレビ大阪、京都テレビの3局ネットでお願いします。

というわけで松本胃腸科クリニックは12月27日(土)から1月4日(日)まで休診です。
インフルエンザが猛威を振るっているようですが体調管理にはくれぐれも気をつけてよい年をお迎えください。

 

(2014年12月26日)

神戸元町ダイアリー2014年(3)本当のニュータイプ<main>神戸元町ダイアリー2015年(1)イジメ、ダメ、ゼッタイ
 


海外の長篇小説ベスト100(第26位〜第30位)

第26位 

F.スコット フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」(光文社古典新訳文庫) 

去年野崎版を読んで、かなり原作に忠実なディカプリオ版映画も見た上での再読なのに、やっぱり相当読みにくい。 

ブツ切れで衝動的な文章。「で、今何をしてるの?」的不親切な描写の数々。話がどこに向かっているかさっぱり分からないモヤモヤ感。意味不明の会話に無駄に多い登場人物。 
よく分からないから半分読んだところでもう一度最初から読み直したけれども、やっぱりよく分からない。 

結局はフィッツジェラルドがわざと分かりにくく書いてるわけだから分かりにくく読むのが正解なんでしょう。 

後半、というか物語が終わってから、というか300ページ中の250ページ以降の文章はとっても素敵。
初読の人は「目指せ250ページ!」です。

 

(2014年12月24日)

第27位

ミハイル・A・ブルガーコフ「巨匠とマルガリータ」
(河出書房新社池澤夏樹個人編集世界文学全集第5巻)

6年ぶりの再読です。初読の時にはスケールの大きさと残酷描写の切れの良さや得体のしれない登場人物たち(人間以外も含まれる)にただひたすら圧倒されて、わけの分からないまま「すごい!」と思わされました。
二回目読むとそれほど難解ではなく、むしろ軽い感じのファンタジーのように思えてきました。
「軽い」というのは文字通り「軽く」て、「まるでライトノベルのような」と言ってもいいかもしれません。
深夜時間帯でアニメ化でもすればヒットしそうなお話しでした。


(2014年12月22日)

第28位

スタンダール「パルムの僧院」(新潮文庫)

主人公の若者がナポレオンにあこがれて戦場に向かったり、怪我したり、女優に恋をしたり、その愛人を殺してしまったり、その罪で牢屋に入れられたりするお話。
波乱万丈でどきどきわくわくしてもよさそうなものだけれど、この主人公がたんまりお金を持っている上に一切努力をしないと来てる。こういう主人公にどう共感しろって言うんだろう?
19世紀のヨーロッパは数多くの大作家を生み出したけれど、実は当たりハズレが多いような気も。
当たりはユゴー。
ハズレはバルザック、スタンダール、オースティン、ディケンズ、ホーソーンとか。
ぎゃっ、ハズレばっかり。

 

(2014年10月29日)

第29位

「千夜一夜物語」(ちくま文庫)

この果てしない企画もいよいよゴールが見えてきたような気がします。
しかしここに立ちはだかるのがあの超・超・長篇。
さすがにこれはズルして9年前の感想を再掲させてもらいます。

「ウィットの利いた2、3ページのショートショートから600ページにも及ぶ親子三代の超大河ドラマまで、
信仰の尊さを訴えるありがたいお話からイソップ物語を彷彿とさせる動物寓話まで、
描写も赤裸々なエロティックコメディーから、感涙必至の純愛悲恋ものまで、何でもありのおもちゃ箱のようなお話です。
登場する男はどいつもこいつも意気地がなくて嘘つきで怠け者。
それに比べて女性はみな美しく賢くて、ちょっとH。
イスラム教やアラブ人のイメージが大きく変わりそうです」

私が読んだのはちくま文庫のバートン版です。
他の版との違いはよく分かりませんが、バートン版でのお薦めは第1巻。
「ドン・キホーテ」や「トリストラム・シャンディ」も裸足で逃げ出すメタメタ小説です。

 

(2014年8月4日)

第30位

ジェーン・オースティン「高慢と偏見」

前半は「どうしてこんな女子中学生の恋愛相談みたいな話を読まされないといけないんだろう?」と思いながら読みましたが、後半は少しましになって「女性週刊誌の人生相談コーナー」レベルにはなったでしょうか。
いずれにしても「どうしてこんな話を読まないといけないんだ?」というイライラ感はこの間読んだ「紅楼夢」に通じます。
あちらは全7冊、こちらは全2冊。さあ、選ぶのは貴方です!

 

(2014年7月30日)

「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<第31位〜第35位<main>第21位〜第25位


間違いだらけの病院選び〜「病院でのコミュニケーション術」篇(上)

コープカルチャーの講座が終わりました。

今回は初めての方を対象にした第1回目講座でした。
「大病院の外来担当表の見方」や「ぽっくり往くのも楽じゃない」などのお話をしましたが、それよりも皆様の興味を引いたのは「医者に自分の気持ちを伝える方法」だったようです。
講座のあとの質問コーナーでも多くの方が「かかりつけ医とのコミュニケーション」に対する不満を訴えておられました。

どんな医者にでも通用する方法があればいいのですが、医者の性格も診察のシステムも病院によってさまざまです。
医者としての立場、それから最近自分も患者の立場になることが多くなってきたので、患者としての立場から「自分の思ったことをうまく伝える方法」を考えてみたいと思います。

「病院でのコミュニケーション術」、不定期掲載になると思われますがお見逃しなく。

 

(2014年10月31日)

間違いだらけの病院選び〜「病院でのコミュニケーション術」篇

(1)

どんな名医でもヤブ医者になる時があります。

たとえば夜中まで大きな手術をして、そのまま当直で寝ずに救急診療を続けているところに救急車がやってきたとします。
重症患者優先のルールに従って搬送患者を先に診察室に運びいれます。
待合室で「順番を飛ばされた!」と怒鳴っている患者もいますが、クレームの相手をする時間もないので医師としては先にするべきことを先におこなうしかありません。
ようやく処置が終わってクレームをつけていた患者の順番がきました。
それが朝の5時過ぎ。
で、聞いてみると「今からゴルフだけど何となく身体がだるいから栄養剤の注射を打て」とのお言葉。

こういう時に名医であり続けるのは難しいです。
「こういう患者を叱りつける医師こそが名医だ」と言う人がいるかもしれませんが、診察をしてこその名医です。
もし名医の診察を受けたいと思えば、私たちは名医が名医でいられる状況を選ばなくてはなりません。


(2014年11月26日)

(2)

はい、結論です。
空いている時間に受診しましょう。

「馬鹿なことを言うな! 名医の外来はいつも大混雑で空いている時間などない!」
という反論が聞こえてきそうです。
そのとおりです。

ここで私たちは一度「名医とは何か」という問題に立ちかえらなくてはなりません。
予約がなかなか取れないのが名医なのか、マスコミに「神の手」と言われているのが名医なのか。

あなたにとっての「名医」とは何でしょうか?
「病院でのコミュニケーション術」というタイトルに引かれてきた皆さんにとっての「名医」とは、まずじっくりと話を聞いてくれる医者のことではないでしょうか?

「じっくり話を聞いてくれても治療技術が劣っていれば役に立たない」と思われるかもしれません。
逆に考えてみましょう。
「じっくり話を聞かないで治療できるほどの名医がいるだろうか?」

いません。占い師のように「黙って座ればぴたりと当たる」、そんな医者はいないのです。
技術的な「名医」というのはいます。
が、それと診断の「名医」とは全然別です。
格闘技と格闘ゲームくらい違います。

今、皆さんが必要としているのは、診察の「名医」です。
手術が抜群に上手だという評判に引かれて患者さんが行列をなしている外来もあります。
しかし皆さんが並ぶべきなのはその行列ではありません。


(2014年11月28日)

(3)

さて、取りにくい予約を頑張って取って、いざ診断の「名医」の診察を受けることになりました。
外来は大混雑です。
あなたも受付してからもう2時間近く待っています。
周りの人たちも殺気立っています。
こういう時に果たして名医ならではの診察を受けることができるでしょうか?

結論から言うと、非常に難しいです。
名医でも、いや逆に名医だからこそ問診にはかなりゆったりとした時間が必要です。
ところが今そんな状況ではありません。
空気が読める人であれば気持ちが焦るでしょうし、空気が読めない「名医」というのも微妙な感じです。

それでは大混雑の外来で「名医」らしい診察を効率よく受けるためにはどうすればいいのでしょうか?

 

(2014年12月1日)

(4)

話は変わるのですが、最近、症状をインターネットで調べて自分なりに診断をつけて来られる患者さんが増えてきました。
当たっている場合もありますし、はずれている場合もあります。
それから当たってないことはないけれどもニュアンスが違うと言うか、ピントがずれていると言うか、そういう場合も多くあります。
それについては皆さんもご自分の専門領域について専門外の人が語るのを聞く時によく感じられるのではないでしょうか。
「うーん、ちょっとずれている」というもどかしい感じ。

つまり診断をつける時、医者は皆さんがインターネットで調べるのとは違う道筋で考えているということです。
咳の原因の多くは風邪だし、下痢の原因の多くはウイルス性腸炎と呼ぶと大げさですが、いわゆる胃腸カゼだし、お尻からの出血の原因の多くは痔です。
そして医者がこういう症状に接した時に心がけるのは、正しい診断名にいたることではなく、第一に症状を取り除くこと、第二に重大な病気を見逃さないことです。

あなたが発熱と咳があるので病院に行ったとします。
診察を受けて最後に「これは風邪ですか?」と質問すると、医者はちょっと変な反応を見せると思います。
医者はそれが風邪かどうかさほど重要な問題と考えていないからです。

 

(2014年12月3日)

(5)

最近「ヤブ医者を見分ける方法」なるものがよく取り上げられますが、その中に「風邪に抗生物質を出す」という項目があります。
風邪はウイルス疾患だから抗生物質は効かない。効かない薬を出すのはヤブ医者だ、という論法です。
理屈自体はまったく正しいです。
ただし、その正しさは「教科書的に」という意味ですし、あるいは「インターネット上にまことしやかに流れている情報的に」と言い換えてもいいかもしれません。
医者は、あなたが風邪かどうか確定診断をつけたい、そんなことを思って診察しているわけではありません。
そういう立場から見ると「風邪に抗生剤を出すのはヤブ医者だ」という文章を見ると、ちょっとずれてるなあと思うわけです。

インターネット情報で自己診断して来られた患者さんによく訊ねられるのは「これは癌でしょうか?」という質問です。
下痢と下血という症状から病名を検索すると「大腸癌」という病名が間違いなくヒットしますから、当然の心配であり当然の質問です。
で、患者さん本人も分かって質問しているとは思うのですが、検査をしないと癌であるかどうかは分かりません。
分からないけれどもたいていの場合ピンと来ます。
大至急大腸の精密検査をした方がいいのか、それともしばらく痔の治療を続けて様子を見てもいいのか。
その「ピンと来る」感じを研ぎ澄ませるために医者は修練を続けているのです。


(2014年12月5日)

(6)

咳の原因はたいてい風邪だ、と書きました。
そして実際の診察の場で何が最初におこなわれるかと言うと、「とりあえず風邪と考えて話を進めても大丈夫そうだ」ということを確認しているわけです。
それは名医でも同じです。
いきなり難病奇病を疑ってかかったりはしません。
最初はまず、ありふれた病気と考えていいかどうかの確認から入ります。

ここまで長々と寄り道をしましたが、結論はこれです。
「問診の最初の10分は確認作業」
名医の診察を効率よく受けるコツはこのへんにありそうです。

 

(2014年12月8日)

(7)

ここでまた話が脱線するのですが医者の間では「後医は名医」という言葉があります。

つまり診察においてはちょっとでもあとに診た医者が有利なのです。
「ちょっと」というのがどのくらいレベルかと言うと、一日は当たり前、数時間でも、極端に言えば10分でもあとに診た方が有利です。
わずか10分間でもその間の経過は重要な手掛かりになり得ます。
もし24時間あれば、痛みの場所、種類、持続時間、好発時間帯、食事や便通、体勢、動作との関連などなど、得られる情報は莫大です。
中でも一番役に立つのは「どの薬が効いてどの薬が効かなかったか」ということです。
「先医」が処方した薬を見ると医者は大体分かります、「先医」がどういう道筋でその処方に至ったか。
いくつかの選択肢がある中で「先医」がどの病気の可能性が最も高いと考えたかが分かるわけです。
そしてその薬が効かなかったならば選択肢の幅はかなり狭まります。

言い換えると薬が効かなかった時点で正しい診断に相当近づいているのです。

時々「あの病院はヤブだ」という話を耳にしますが、よくよく聞いてみるとほとんどがこれです。
「病院の薬が効かなかったので次の日に違う病院に行った。別の薬をもらってすっきりよくなった。だから前の病院はヤブだ」
それはちょっと違うのです。
次の日に同じ病院にもう一度かかったとします。
薬が全然効かなかったと聞けば当然医者は別の薬を処方します。
そうしたら別の病院に行ったのと同じようにすっきりよくなっていたと思うのです。


(2014年12月10日)

(8)

それから病気はたいていの場合、最初は漠然とした軽い症状から始まって、徐々に典型的な症状に変化していくものです。

朝から何となくだるかったのが昼になって咳が出始めて夜には熱が出た。
そこで「ああ、風邪だったのか」と分かる。
皆さんも日常的によく経験されることだと思います。

急性虫垂炎、いわゆる盲腸もしばしば胃の痛みから始まります。
胃痛以外の症状がない時点で病院にかかれば胃薬で様子を見ようということになります。
ところが二三日するうちに痛みが少しずつ右下に移動して痛み方も強くなってきたので違う病院にかかった。
そうしたら今度は何と!「盲腸」と診断された。
あなたは当然「前の病院は盲腸を見逃した」と思うでしょう。

それは違うのです。
二日前の段階ではどの病院に行っても「盲腸」とは診断されなかったと思うのです。
普通の医者であればこういう場合必ず説明します。
盲腸はしばしば胃痛で始まって、そのタイミングで診断をつけるのは難しい。
その段階で診たらおそらく自分でも分からなかったろう、と。

「後医」がその説明を怠ると患者は「先医」がヤブ医者だと思いこみます。
まれに「どうしてこんなのが診断できなかったのかなあ」などと患者に聞こえるように言う非常識な医者もいます。

「先医」がヤブ医者呼ばわりされる時、実は「先医」よりむしろ「後医」に問題がある場合が多いから要注意です。


(2014年12月12日)

(9)

先医が得た情報を最大限に生かし、名医の名医たるすぐれた診断能力を最大限に発揮させる方法はあるでしょうか。
あります。

「紹介状を書いてもらう」

あなたが名医の診断を必要としているのはあなたの症状が「ありふれた病気」ではないからです。
しかし「ありふれた病気」を否定するのには時間と手間がかかります。
先医がその手順をきちんと踏んでいれば後医の負担はぐっと軽減されます。
紹介状に「○○という疾患を疑って検査をしたが違っていた」「XXという疾患を想定して治療を開始したが改善しなかった」と書いてあれば診断の選択肢は大幅に狭まります。
問診の最初の10分間が必要でなくなるのです。

問診が短くて済む以外にもう一つ大きなメリットがあります。
説明が倍になるのです。

 

(2014年12月15日)

(10)

知人から相談されることがあります。
「病院でこう言われたんだけれど、どういう意味なんだろう?」
これに対して「分からなかったのならその場で訊ねればよかったのに」と言うのは簡単です。
しかしそれは果たして現実的でしょうか。

先日携帯電話の販売店で料金プランの説明を受けました。
その場では何となく分かったような気になったものの、店を一歩出ると頭の中が真っ白になっている自分がいました。
店員さんは道筋に乗って説明して、こちらもその流れに乗っている間は理解できているけれど、いったんその道筋を取り払われてしまうとその説明を頭の中で再現することができなくなる……という現象が発生しているのではないかと推測しているのですが、診察室でもまったく同じ現象が起きているのでしょう。
別に医者が怖いから、とか理解力が低いと思われるのが癪だから、とかそんな理由で質問を遠慮しているのではないと思うのです。
その時には分かったつもりになっているから質問しないのです。
そして分からないのであればもう一度説明を受けるのが一番いいのですが、それこそ現実的ではありません。

こういう時こそ先医の出番です。
紹介状を持って診察を受けると後日先医のもとには返事が届けられます。
その返事を読んで先医はあなたにもう一度(あるいはもっと)同じことを説明することができるのです。
説明時間が倍になると言ってもいいし、二人の医者が説明してくれると言ってもいい。
専門医の説明を聞いてから新たに浮かんだ質問をぶつけることもできます。

紹介状はもちろん大切なものです。
しかしあなたにとってもっとも価値があるのは実は「紹介状の返事」なのです。


(2014年12月17日)

(11)

医者の仲間内での笑えない笑い話があります。

高血圧の患者さんに降圧剤の必要性を訴えるけれど納得してくれない。
その患者さんはどう説明しても薬はいやだと言い張るのです。
最後には医者も根負けして「そこまで言うのなら薬なしでもうちょっと様子を見ましょう」と言ってしまう。
その患者さんがある時脳卒中を起こして別の病院に運ばれました。
そこで担当医に「どうしてこんな高血圧を放置していたのか」と聞かれた患者が言うには
「前の医者が薬を飲まずに様子を見ようと言った」

現実によくある話だけに本当に笑えません。
「塩分の摂り過ぎは喫煙以上に危険」という言葉を「喫煙は大して危険じゃない」と解釈したり、「入院できなければインシュリン治療を始めるのは難しい」という説明を「インシュリンは必要ない」と受け取ったり、人間とは聞きたい言葉だけ聞くようにできているものだとつくづく思います。
そうした人間の本質に基づくエラーを防ぐためにも紹介状という仕組みは非常に有効です。

……と紹介状の有用性についてここまで長々と書いてきたのですが、実は皆さんもそんなことは十分に分かっていると思うのです。
皆さんのお悩みはもっと手前の、もっと初歩的なところにあるんですよね。つまり、

紹介状を頼めるくらいなら苦労はしない。

 

(2014年12月19日)


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