「罪と罰」を読む(第4部第6章)(下)

第4部第6章(第2巻385〜404ページ)

(116)

それからもう一つ嫌なのは、書いてあるのに無視してしまうやり方です。

たとえば、最も気になるのはソーニャの最初の仕事のくだりです。
第1部第2章、47ページあたりの描写、5年前にも(!)書きましたが、流れとは関係のない描写が無造作に放り込まれていて、激しい不協和音を響かせている箇所です。

困窮の極みに追い込まれた家族のためにソーニャは初めての仕事に向かいます。
家族思いのソーニャが苦悩の末に自己犠牲の道を選ぶ、感動的な場面です。
ところがそこになくもがなの文章が差し挟まれています。
「黄の鑑札」がどうしただの、「しかるべき挨拶」がどうしただの、一見、本筋とは関係なさそうな言葉の数々です。
完全に本筋と関係がなければ酔っ払いのたわごととして無視できたのかもしれません、ところが微妙に関係があるから始末に困ります。

マルメラードフが語るにはソーニャは「しかるべき挨拶」を怠ったから「黄の鑑札」を受ける羽目になったらしい。
「黄の鑑札」は売春の許可証のようです。「しかるべき挨拶」とは最も一般的な解釈としては仲介料のことでしょう。
普通なら、売春婦が顔役に仲介料を払わなかったから仕事を続けることができなくなった、という流れのはずです。
ところがマルメラードフの台詞ではそれとは逆の順番で物事が起こったようです。

そしてどうして逆なのかを考え始めると、「家族のために自分を犠牲にする可哀想なソーニャ」という王道的解釈が突然軋み始めます。


(2014年10月1日)

(117)

天国的に美しい第3楽章が終わり、いよいよ壮大な終楽章に突入します。
ところがその冒頭で耳障りな不協和音が鳴り響く……あまりにも有名なベートーヴェンの交響曲第9番です。

レ・ファ・ラの和音とは相容れない「シ♭」がぶつけられているために不快な絶叫になってしまうのです。

問題は、よく分からないから、あるいは不快だから、という理由で「シ♭」を鳴らさないというやり方が許されるのか、ということです。
ありとあらゆる音楽注釈書を読んでベートーヴェンの伝記を通して彼の苦悩を分かち合ったはずの人が、管楽器に「シ♭」を吹かせない。そういう音楽の世界ではありえないことがドストエフスキーでは許されるのか、ということです。

前回取り上げた箇所も本当はドストエフスキーの頭の中にはちゃんとした「裏設定」があったはずです。
それを全部説明するとわずらわしいからか、文章のテンポ感の問題か、あるいは書きたくなかったからか、いずれにしてもドストエフスキーは全部は書かず、「裏設定」がありそうな形跡だけ残しておいた、それがこの部分の「シ♭」だと思います。
それなのに「シ♭」が聴こえない評論の多いこと……。


(2014年10月3日)

(118)

で、話が4回前の記事に戻ります。

「書いてある通りに読もう」と言いながら、実は私はこの部分だけはドストエフスキーはあんまり考えていなかったような気がしてならないのです。
つまり町人がラスコーリニコフに腹を立てて、下宿まで押しかけて「人殺し」と決めつけた、一連の流れです。
でも一か所でも「この部分はドストエフスキーの書き損じだろう」と切り捨ててしまうと収拾がつかなくなります。
人には「書いてある通りに読め」と言いながら自分では「ここは書き損じ」と考える身勝手さが、我ながら「ずるいなあ」と思うわけです。

それにしても「解釈」には「どこまで解釈するか判断する」行為も含まれているのだと最近つくづく思います。

文学は抽象的なので判断が難しいところがあります。
前々回書いたソーニャに関する文章でも、人によっては全然違和感を覚えないかもしれないのです。
その人からすると、私がやっていることは「深読みしすぎの揚げ足取りのこじつけ」に見えるでしょう。
そしてそこから先議論がかみ合うことはありません。

その点音楽は、一般的には文学よりもさらに抽象的のように思われていますが、結構具体的です。


(2014年10月6日)

(119)

ちょうど今聴いている曲なのですが、



こーんな楽譜です。
シェーンベルク作曲の「ペレアスとメリザンド」という曲の10、11小節目。
フルートもトランペットもヴァイオリンも登場していないのに15段、19声!
見ているだけで頭がくらくらしそうな神経質で神経症的な譜面です。

ところがチェロ奏者の立場から見ると11小節目の冒頭に、他のパートには記入されている「mf(メゾフォルテ)」が抜けているのに気づきます。

10小節目の頭が「mf」で、そこからクレッシェンド(段々大きく)しているので、11小節目の直前では「mf」よりも大きくなっているはずです。
ヴィオラは11小節目の頭でいったん「mf」まで音量を落とします。
イングリッシュホルンと3番クラリネットは前の小節が「p(ピアノ)」からのクレッシェンドですので落とす必要はありません。
さて、チェロはどう弾くべきでしょうか。
ヴィオラにならって、つまり「mf」の記入漏れと解釈して、いったん音量を落とすべきか、それともクレッシェンドし続けるべきか。

(2014年10月8日)

(120)

ここで他のパートをじっくり見てみると、

小節のまたぎ目でファゴットとコントラバスのスラーのかかり方が違う
11小節目の4拍目から8拍目にかけてイングリッシュホルン、クラリネットとヴィオラ、チェロでスラーのかかり方が違う
10拍目にクレッシェンドがある楽器とない楽器が混在している

ということに気がつきます。
これらを総合的によくよく考えてみると、11小節目の頭のチェロから「mf」が抜け落ちているのはミスである、とほぼ断言できます。

音楽の方が文学よりも抽象的で、論理的解釈に向いていないと思われがちです。
しかし実際には、楽譜は文字よりも論理的な分析に耐えうる表現方法のようです。

 

(2014年10月10日)

(121)

どうして解釈についての話を長々と続けてきたかと言うと、これです。



高野史緒の「カラマーゾフの妹」がようやく文庫化されたのです。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は光文社文庫だと全5冊の大長編で、それなりに完結しているように思えます。
ところが作者の構想によると、もっと巨大な作品の前半部分にすぎないのだそうです。
後半を執筆することなくドストエフスキーが亡くなってしまったために全体像はよく分かっていません。

その後半部分を完成させるという、あまりにも畏れ多い試みに挑んだのがこの作品です。
ポイントは二つあって、一つは前半に散りばめられた伏線を回収しつつ続編を完成させること、もう一つはフョードル殺しの真犯人を見つけること、です。

 

(2014年10月20日)

(122)

「罪と罰」でも、思わせぶりに提示されたままその後何の回収もされなかった「伏線」がいろいろありました。
ですから「カラマーゾフ」でもどこまで伏線を拾い上げるべきかは微妙なところです。

高野史緒氏は「線路での度胸試し」や「犬に曲芸を躾けること」などを材料にして皇帝暗殺方法を推理してみせました。

ただし彼女はこの試案を人工衛星やコンピュータなどスチームパンク風の小道具で彩ります。
大真面目な考察と身構えると肩すかしをくらいます。
彼女は「カラマーゾフの楽しみ方」そのものを提案してくれた、と受け取るべきなのでしょう。

 

(2014年10月22日)

(123)

一方フョードル殺しの真犯人捜しについてはかなり緻密です。
緻密、と言うかミステリ読みにとってはごく当り前なレベルの読み方です。
「大審問官」については声高に論じる人たちが「フョードルが殺される」という「カラマーゾフ」の基本プロットについてはどうしていい加減な読み方しかしないのか、そっちの方が逆に不思議だったりします。

本音を言えば、自称ドストエフスキーファンが「大審問官」について語りたがるのは、あまり考えなくてもいいからだと私は思っています。

普通に読めばスメルジャコフが犯人であるはずがないのに。
ようやくそのことを指摘した考察が登場したわけです。

しかし問題がないわけではありません。
彼女は真犯人の動機を説明するために、前半部分では登場しなかった人物を創作しました。
これが余計でした。
この創作が、前回触れたスチームパンク風の彩りとごっちゃになって、せっかくの考察の真面目さが損なわれてしまったように思えます。
そんなことをしなくても第三編に動機ははっきり書かれているのに。

 

(2014年10月24日)

プロローグ<第4部第6章(上)<main>第5部第1章


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