第4部第6章(第2巻385〜404ページ)
(108)
ここまでで最も短い章です。
前の章でポルフィーリーが謎めいた言動でラスコーリニコフを散々いらつかせましたが、この章ではその種明かしがなされます。
その内容とは
ラスコーリニコフの怪しい行動を目撃した町人が警察に出頭してきた。
ポルフィーリーは彼をあたかも重要証人のように見せかけてラスコーリニコフの不安をあおるつもりだった。
精神的にもろいラスコーリニコフは、町人の登場を待たず破綻寸前まで追い込まれた。
ところが真犯人を名乗る第三者が乱入してポルフィーリーの狙いは崩れた。
重要証人と思われた町人も真犯人の登場に驚き、ラスコーリニコフに謝罪した。
ポルフィーリーが実は何もつかんでいなかったことを知ったラスコーリニコフは再び精神的に生き返る。
普段は無駄口ばかり叩くドストエフスキーのキャラクターたちが、この章では要点しかしゃべりません。
内容も簡潔です。
そのせいでこの章は短くなったのでしょう。
(2014年9月10日)
(109)
前回「簡潔なので短い」と書きました。
しかし簡潔だからと言って理解しやすいわけではありません。
逆です。
この章は「罪と罰」全篇中最も訳が分からないところです。
まず、「おれが犯人です!」と叫びながら飛び込んできたミコライ。
第1巻の321ページから、ミコライ逮捕の顛末とミコライの証言についてラズミーヒンが詳しく説明してくれています。
327ページにはこう書かれています。
絞って絞りぬかれて、とうとう白状しちまった。
一体何を自白したのかと言うと、ペンキ塗り作業をしていた部屋でイヤリングを拾ったと白状したのです。
また第2巻の179ページではポルフィーリーはミコライについて「シロだ」と断言しています。
さらにラズミーヒンによるとポルフィーリーは証拠主義者ですから拷問で自白を迫ったりはしないでしょう。
つまり当初は「イヤリングを拾っただけ」と供述していたミコライが、誰にも強要されることなく「老婆を殺した」と自白したことになります。
(2014年9月12日)
(110)
つまりこの章では
真犯人は別にいると思っている捜査員による、さほど厳しくない取り調べで、何の関係もない参考人が突然犯行を自供してしまう
という事態が発生したわけです。
刑事ドラマなどでは若手の刑事が暴走して容疑者に自白を迫るシーンがよくあります。
この場面でももしかするとポルフィーリーが知らないところで「火薬中尉」とかが暴力に訴えた場面があったのかもしれません。
海外のミステリでは「自白マニア」に新人捜査官が振り回されるシーンがよくあります。
アメリカなどでは注目を集める殺人事件が発生すると「自白マニア」がうようよ現れるらしいです。
ミコライの自供の理由はここではよく分かりません。
しかしミコライについてはあとでもう一度本篇中で語られるはずです。
そこですっきり解決すると信じていったん置いておくことにしましょう(期待薄)。
(2014年9月17日)
(111)
もっと訳が分からないのは謎の町人です。
彼が出てくるのはまず第1巻の405ページからのくだり。
ふらふらと引き寄せられるように殺人現場を訪れたラスコーリニコフはハイ状態になります。
部屋で作業していた職人に絡み、部屋を出ると今度は庭番に絡みます。
職人たちはスルーしますが、一人「警察に突き出せ」と主張していたのがその町人でした。
次に登場するのは第2巻の190ページから。
部屋を出てきたラスコーリニコフに「おまえが人殺しだ」と言い放ちます。
第1巻では迷妄状態だったために、庭番たちの間にその町人がいたことをラスコーリニコフは憶えていません。
そのせいでラスコーリニコフはトチ狂ってしまうのです。
「あの男はだれなんだ? 地中から湧いて出たみたいな、あいつは何者だ?」
そして第2巻398ページで再登場した町人はラスコーリニコフに謝罪して、いきさつを打ち明けます。
ラスコーリニコフを「人殺し」呼ばわりしたのも警察に訴え出たのも、「なんとしても腹が立ってしかた」なかったからだったようです。
(2014年9月19日)
(112)
4、5日前に殺人事件が起きた現場に学生風の男が現れて、訳の分からないことを言って通りかかりの人々にしつこく絡みます。
さあ、その場に居合わせたあなたはどう思うでしょうか。
150年前のロシアではなく現代に日本に置き換えて考えれば想像しやすいと思います。
まず普通はこうです。
酒に酔った勢いで現場を見物に来たのか、悪趣味で困った奴だ。
携帯カメラで現場写真を撮って不謹慎なコメントを付けてツイッターで流す、そういう人は現代日本でもいそうです。
こういう人を見ると確かに腹立たしくなるかもしれません。
もしくは、彼が被害者の悪口を叫んでいたらどうでしょう。
「あの強欲婆あは死んで当然だった、殺されてせいせいする!」
わざわざ現場にやって来てそんなこと言う人がいれば、それを見てきっとあなたは猛烈に腹を立てるでしょう。
しかし普通はその男を警察に突き出そうとは思いません。
無思慮なツイッターなどは一部警察沙汰に至ることもあるようです。
だからと言って彼に向って「人殺し!」とは言いません。
(2014年9月22日)
(113)
いろいろ考えたのですが、腹を立てて、本人の家まで行って「人殺し!」となじって、さらに警察に駆け込む状況は一つしか思いつきません。
ラスコーリニコフが庭番たちに
「どうだ、俺は見るからに怪しいだろう。そう思ったら警察に突き出してみろよ、どうせ証拠不十分ですぐ釈放だけどな!」
と絡んだ場合です。
挑発的な言葉で「俺が犯人かもよ」とにおわせ、でも証拠がないから警察も手が出せないと強がる。
こういう輩を見ればあなたは町人と同じ行動をとる可能性があります。
と言うか、この場合のみ町人の行動は理解できます。
しかし現実にはラスコーリニコフはそうは言っていません。
態度は挑発的ですが、警察に対して挑戦的なわけではありません。ただ支離滅裂なだけです。
この章は短いです。
ですがこの章で主役を演じる二人の行動が理解不能です。
ドストエフスキーも「頼むからあんまり深く考えないでくれ」と願って、それで短くなってしまったのかもしれません。
(2014年9月24日)
(114)
もしかするとずるいことかもしれません。
普段私は「ドストエフスキーがそう書いているのだから、書いてある通りに読みましょう」と主張してきました。
まず、本文中に書かれていないことに基づいて解釈するのは嫌です。
「ゴロフ王」とか「イズレル」など、ドストエフスキーと同時代の読者にしか分からない言葉を説明してくれるのはいいのです。
問題は「ドストエフスキーの父親はこういう人物でドストエフスキーとはどういう関係であったか」とか「この当時ドストエフスキーは誰と恋愛関係にあったか」とか、作者評伝に基づいての解釈です。
評伝というのは結局は誰かの恣意的な姿勢によってまとめられたものです。嘘は書かれていないにしても記述の濃淡はあります。
同じ出来事でも受け取り方が変わってくることもあります。
評伝重視の解釈を見ると、マヨネーズをどばどばかけた千切りキャベツを食べてキャベツの味を語っているのと同じように思えて仕方ありません(ちなみに私はどばどばマヨネーズをかける派ですが)。
……というのはあとになってこじつけた理由です。
(2014年9月26日)
(115)
評伝重視の解釈が生理的に嫌なのは、「ドストエフスキーじゃなくて自分を語りたい」というのが透けて見えるからだと思います。
たとえばドストエフスキーを読んで強く感銘を受けた人が、感動の核心部分を人に語りたいと思ったとします。
ところがドストエフスキーの原文はその感動をはぐらかすような書き方をしていることが多い。
もどかしくなったその人は自分の感動を代弁してくれそうな記述を探し求めます。
評伝とか、高名な作家の手になる評論とか、あるいは自分の宗教的体験を持ち出してくる場合もあります。
そういう文章はたいていの場合非常に高い文章力で書かれています。感動的であったり崇高だったりします。
しかし私は思ってしまうのです。
この人はきっとスーパーの安売り広告を見ても感動的な文章を書けるんだろうなあ、この人にとってはドストエフスキーは自分語りの材料なんだろうなあ、と。
その根底にあるのは「ドストエフスキーはそんなこと書いてないんだけど……」という違和感です。
評伝を重視する解釈が嫌なのは、原典よりも評伝を、ドストエフスキーよりも自分を、重視しているように思えて仕方がないからなのです。