神戸元町ダイアリー2014年(2)

「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」というDVDを見ました。

オリバー・ストーンは「プラトーン」や「ウォール街」などで知られる社会派映画監督です。
DVDにして全5枚というボリュームですが、社会派とは言ってもハリウッドの第一線で活躍し続けている監督の作品ですからエンターテインメントの要素も忘れません。
過去の映画からの引用も巧みに用いながら600分に及ぶ長さを退屈させずに見せてくれます。
アメリカ人にとってはかなり辛辣な内容です。
第二次大戦への参戦、原爆投下、日本全土への空襲などが、必ずしも正義ではなかったことが語られます。
その後のベトナム戦争、キューバ危機、イラク侵攻なども全て否定的に扱われます。
リベラルよりもさらに左寄りのスタンスと言えるでしょう。

目を引いたのは第二次大戦の巻です。その論旨としては、
大戦中には様々な国が様々なところで様々な虐殺行為をおこなったが、原爆投下も日本空襲も同様の虐殺行為であるというものです。
その趣旨自体には私も同意見なのですが、驚いたのは大戦中の様々な虐殺行為の中に「南京虐殺30万人」が含まれていることです。

 

(2014年4月2日)

さあ、困ったことになりました。
南京で30万人が虐殺されたとする意見に対して、相手が中国人であれば私たちは反論することができます。
あるいは、原爆投下によって結果的に多くの人が救われたとする「おめでたいアメリカ万歳史観」の人が相手でも反論できます。
しかし「アメリカは世界中で多くの虐殺をおこなってきた」と反省する人に対して、私たちは何をどう語ればいいでしょうか?
「南京虐殺は歴史捏造なんです!」と叫んでみても、「あのね、今はそういうレベルの話をしてるんじゃないの」とたしなめられるでしょう。
私たちは勇ましい右派論客たちの活躍を見て、てっきり南京虐殺論争では中国の主張を圧倒しているものと思っていました。
実際には違ったようです。
アメリカも中国も信用しないという立場を貫くリベラル派でさえも、日本軍が南京で30万人を虐殺したと認識しているのです。

 

(2014年4月4日)

雄弁な右派論客たちが、突然いじめられっ子のように見えてきてしまいました。
顔に青あざを作って帰ってきた子どもにわけを訊いたら「喧嘩を売られたけど殴り返してやった!」と胸を張って答えます。
しかしその場に居合わせた人に訊くと「一方的に殴られて、泣きながら帰って行った」らしい。
そんな状況が思い浮かんで仕方がありません。
評論家は国内向けの週刊誌には「中国のウソを暴く」みたいな勇ましい記事を書いていますが、世界的には全く認められていなかったのです。
「誤認されている」レベルではないのです。
議論自体の存在が認識されていないのです。
ねえねえ、勇ましい人たち。
たまには外に向かって吠えてみましょうよ。

 

(2014年4月7日)

私自身は南京での数万人規模の虐殺はなかったと思っています。
もしかすると心が病んでいるのかもしれませんが、私は群衆を見るとなぜか「これだけの人を数週間で殺すことは可能だろうか」と考えてしまいます。
甲子園の三万人とか、神戸マラソンで須磨の海岸通りを埋め尽くす一万人とか……。
はい、確かに病んでいますね。
しかし結論としては「不可能」だと思います。
虐殺の最大のリスクは感染症です。自軍の兵士を感染症から守りつつ虐殺をおこなうとすれば

1)アメリカのように大量虐殺兵器を用いる、か
2)ナチスドイツのホロコーストや中国の文化大革命のように国家を挙げてのシステムを構築する、か
3)アフリカ奥地のように虐殺後の集落を放置する、か
いずれかだと思います。

兵站という発想のない日本軍には無理です。
日本軍には占領予定地の原住民を虐殺できるたけの立案能力も遂行能力も、残念ながら(?)なかったと思います。

 

(2014年4月9日)

とは言うものの、そんなことを声高に叫んでみても世界から相手にされないのは分かり切っています。
それに国際会議の席で議論の流れを打ち切ってだらだらと主張を繰り返す、中国みたいなやり方は非文明的で見苦しいです。
主張するためには根回しが必要です。
今すぐ日本は「戦争での民間人被害を調査し被害者を救済する国際組織」を立ち上げましょう。
その中で「性被害者」は特別の部会を作って重視しましょう。
南京虐殺も従軍慰安婦も「疑わしきは被害者の有利に」という原則で補償を開始しましょう。
ただし政府の見解としては「調査結果が確定した時点で加害状況に応じて謝罪なり遺憾の意の表明なりおこなうが、その前に被害者保護の観点から補償は前倒しで開始する」と発表しましょう。
民間人被害の調査はすぐ第二次大戦以外にも波及するはずです。
占領統治下の日本や、朝鮮戦争やベトナム戦争などで、従軍慰安婦どころではない人数の性被害の事実が次々と露呈するでしょう。
それらの加害者はアメリカ人であり、中国人であり、韓国人であったりします。
賠償額はとてつもない額となります。
そんな額を彼らが払うわけがありません。
結果的に「日本だけが戦争での民間人被害に真面目に向き合った国である」という前提ができあがるわけです。
国内プレス向けに「慰安婦などいなかった」などと息巻いても全く無意味です。
まず「真剣に向き合う姿勢」を世界に見せましょう。
それと同時に一方的に攻め立ててくる連中の非人道的なおこないも晒し出しましょう。
これからの日本は、世界にどう見せるか、を考えてずる賢く行動するべきです。

 

(2014年4月11日)

世界への主張と言えば、ずっと引っかかっていたのは「調査捕鯨」という言葉です。

捕鯨文化の大切さを訴えたいならそう主張するべきだ。
「調査」という名目を選んだ時点で、捕鯨文化を守りたいという姿勢を放棄したのに等しいのではないか。

そう思えて仕方がなかったのです。
それはさらにもう一歩進めると、捕鯨文化よりも捕鯨関連業者を守った、ということにもなります。
いずれにしても現在の捕鯨には「伝統の尊重と文化の保存」という意味合いが含まれていないのですから、「調査の意味の有無」に基づいた今回の判決は至極まともです。
日本は30年近く前にすでに負けていたと言えるかもしれません。

 

(2014年4月14日)

ところで「調査捕鯨の半数が南極海でおこなわれている」のを知らなかったのは私だけでしょうか?

てっきり日本沿岸か、せいぜい北太平洋でおこなわれているものと思っていました。
私は捕鯨とは守るべき食文化であると信じていましたが、もし日本が南極海で鯨を捕りまくっているとすれば少し感じ方が変わってきます。

「日本がやっていることは他人の裏山のマツタケを勝手に採りまくるのとは一線を画す行為である」と、どなたか私に納得させてくれないでしょうか。

 

(2014年4月16日)

小保方さんの会見の模様をTVで見ました。
繰り返される「無知と不勉強」というキーワードが印象的でした。

しかし全くそのとおりだと思います。

彼女は雑誌「Nature」なんかに発表せず、新聞や雑誌にインチキ広告を出せばよかったのです。
「STAP細胞でアトピーが治った!」とか「余命3か月の癌がSTAP細胞で消えた!」とか。
それなら誰も突っ込まなかったのに。
彼女はまじめに論文なんか書かないで詐欺医療本を書けばよかったのです。
「医者に殺されないためのSTAP細胞」とか「薬を飲まずにSTAP細胞で健康生活」とか。
それなら大儲けできたのに。

本当に無知で不勉強な小保方さんでした。

 

(2014年4月18日)

雑誌「Nature」が興味深いのは化学、物理、生理学、地学などなど「科学」の全てのジャンルを扱っているところです。
ジャンルを狭めて高い水準を保つのは容易ですが、それを敢えて間口を広げて、なおかつ高水準を保ちたい。
そのためには独自の編集方針が必要です。
平たく言うと「すでに知られている現象を地道に検証する」論文よりも「常識をひっくり返すような命題を提示する」論文を重要視するような姿勢。
もちろん提示に当たっては最低限の科学的検証が必要ですが、最終的に採用の決め手になるのは「ロマン」と「実証」のバランスなのだと思います。
「Nature」がどうして小保方氏によるあのレベルの論文を採用したか、いろいろ論じられていますが考え方としては逆かもしれません。
あの論文を掲載しようと決断したのが、まさに「Nature」の「Nature」たるスタンスなのだと。

真面目にこつこつ研究して細心の注意を払って仕上げた論文なのに、「Nature」に門前払いを食わされる。
そんな目に遭った多くの研究者は文句の一つも言いたくなるでしょう。
しかし「Nature」は「そういうことを求めているのではない」ということです。

新聞などで専門家のコメントを読むと、まるでタイピングコンテストの出場者がショパンコンクール優勝者のピアノタッチを論評しているような、そんな的外れ感を感じてしまうのです。

 

(2014年4月21日)

不思議な話、三連発です。

ふと「クローズZERO」という映画が観たくなってレンタルして帰ってくると、地上波で同じ映画が流れていました。

これは、考えてみると不思議でも何でもありません。
劇場版新作の広告を、私は無意識のうちにどこかで目にしていたのでしょう。
それがサブリミナルに「あの映画、面白かったからもう一回観よう」と私に思わせたのだと思います。
そして劇場版プロモーションの旧作放送とたまたま、というより必然的に、重なったということです。

「クローズZERO」は高校生たちがひたすら殴り合うだけの映画なのですが、時々見直したくなります。
これは不思議です。

さて今シーズンのTVドラマは、逢坂剛の「MOZU」を見ようと思っていました。
ところが見ていると気分が悪くなってきます。
喫煙シーンが多いから、みたいです。
しかし登場人物がタバコを吸いまくる映画なんていっぱいあるし、現に「クローズZERO」だってみんなタバコを吸うわ、ポイ捨てするわ、しかも高校生だわ、なのですが別に気分が悪くなったりはしません。

どうも気分を悪くさせる喫煙シーンと、悪くさせない喫煙シーンがあるみたいです。
これはすごく不思議です。

 

(2014年4月23日)

ドラマを観ていて感じる気持ち悪さと言えば……、

この間「刑事コロンボ」一気放送というのがあったのでまとめ録りして、暇な時にちびちび観ています。
懐かしくもあり、さすがに時代を感じさせるトリックや演出には苦笑したりしつつ、いい暇つぶしになっています。

コロンボも喫煙者です。
彼が吸うのは葉巻ですが、「マッチある?」というのが登場シーンの決まり文句でしたね。
そして彼は場所も立場も考えず吸いまくります。
犯行現場の大邸宅に行っては、ふかふかの高級カーペットに葉巻をくわえたまま四つん這いになって遺留品を探したりします。
観ているこっちがひやひやするシーンですが、時代の差なのか、それとも当時もひやひやしていたのかはよく分かりません。
しかしコロンボが葉巻を吸ったからと言って気分が悪くはなりません。

被害者の奥さんを慰めようとコロンボが彼女の手を握る。
気持ち悪いのはこういうシーンです。
もちろんコロンボにセクハラの意図がないのは分かっています。
しかし理由はともかく女性の手を握るというのが生理的に受け付けない自分がいます。
今のドラマであればそもそもこんなシーンはありません。
もっと古い映画なら無意識のうちにフィルターをかけているのでしょう、男性が女性の手を取っても何にも感じません。
「刑事コロンボ」という微妙な近さ故の気持ち悪さということでしょうか。

というわけで、「MOZU」は喫煙シーンだらけで気分悪くなるから観ない方がいいですよ、という結論でした。

 

(2014年4月25日)

せっかくの連休なので普段じっくり聴けないオペラでも聴こう……、

と思いましたが、家でオペラを楽しむのはなかなか難しいです。
劇場に放り込まれて逃げ道がない状態ならともかく、自宅で何時間も音楽に集中するのは事実上無理ではないでしょうか。
ちなみにオペラの長さを調べてみました。
小学館から「魅惑のオペラ」というシリーズが出版されていますが、その第一期のラインナップがおそらくオペラのベスト10と考えていいと思います。

1:モーツァルト「フィガロの結婚」189分
2:ヴェルティ「椿姫」130分
3:ビゼー「カルメン」174分
4:プッチーニ「トゥーランドット」154分
5:モーツァルト「魔笛」154分
6:ヴェルディ「アイーダ」154分
7:シュトラウス2世「こうもり」176分
8:プッチーニ「蝶々夫人」144分
9:ロッシーニ「セビリャの理髪師」154分
10:R・シュトラウス「薔薇の騎士」197分

なぜか10作中4作が154分ですが、DVDのフォーマットか何かの都合でしょうか。
それはともかくオペラとはだいたい2時間半から3時間かかるものと考えて良さそうです。

 

(2014年5月2日)

ついでに第二期の10作も書いておきましょう。

11:モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」177分
12:プッチーニ「トスカ」124分
13:ヴェルディ「ドン・カルロス」211分
14:モーツァルト「コシ・ファン・トゥッテ」185分
15:プッチーニ「ラ・ボエーム」117分
16:レハール「メリー・ウィドウ」133分
17:モーツァルト「後宮からの逃走」142分
18:オッフェンバック「ホフマン物語」150分
19:チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」154分
20:ワーグナー「ローエングリン」200分

20位まで範囲を広げると2時間未満の作品も登場してきました。
その一方で恐怖の200分超作品も2作入ってきましたが・・・・・・。

プッチーニは「短いオペラ書き」と認定してよさそうです。

 

(2014年5月7日)

悪ノリついでに30位まで。

21:プッチーニ「マノン・レスコー」126分
22:ヴェルディ「オテロ」140分
23:ドニゼッティ「愛の妙薬」135分
24:ベートーヴェン「フィデリオ」128分
25:ヴェルディ「リゴレット」129分
26:ワーグナー「タンホイザー」188分
27:ジョルダーノ「アンドレア・シェニエ」127分
28:ヘンデル「セルセ」156分
29:ベルク「ヴォツェック」97分
30:モーツァルト「皇帝ティートの慈悲」143分

ここまで広げると100分未満の曲も登場です。
「ヴォツェック」は97分でも970分くらいの重さがありますが。

30作を眺めてみると、
さすがのモーツァルトが6作ランクインでトップ。
「ザ・オペラ作曲家」ヴェルディとプッチーニが5作でそれに続きます。
その次にはワーグナーの2作品がエントリーしていますが2作とも超弩級の188分。
実質3作品くらいの長さです。
それにワーグナーについては別巻があるので出版社サイドとしても特別扱いのようです。
ランキング評価不能と言ったところでしょうか。(2014年5月9日)


長々とオペラの時間を書いてきて何が言いたかったかと言うと、これです。

マスカーニ作曲のオペラ「友人フリッツ」。
これが最高に素晴らしいのです。
まず、30分ずつの3幕ものという手頃な短さ。
晩ご飯のあと、お酒を飲みながら聴き始めても睡魔に襲われることなく最後まで楽しめます。
そしてそこに綿々と織り込まれた美旋律の数々。
「どこを切ってもメロディーがほとばしってくる」というのはこの曲のためにある表現だと思います。
オーケストレーションも巧みだし、どうしてこれがレパートリーとして定着していないのか不思議です。

オペラは概して人間関係がややこしくてすじを追うのが難しいのですが、これは「独身主義の男主人公が魅力的な女性と恋に落ちる」というシンプルそのもののお話。
しかもそんなストーリーなど気にしなくても、メロディーに身を任せるだけでただただ幸せになれます。

ゴールデンウィークは終わってしまいましたが、この曲なら平日でも大丈夫です。
ぜひどうぞ。

 

(2014年5月12日)

先日「魅惑のオペラ」には特別編があると書きました。
それがワーグナーの四作品です。

特別版1:ニーベルングの指輪〜序夜「ラインの黄金」154分
特別版2:ニーベルングの指輪〜第一夜「ワルキューレ」237分
特別版3:ニーベルングの指輪〜第二夜「ジークフリート」243分
特別版4:ニーベルングの指輪〜第三夜「神々の黄昏」270分

ベスト30の中での最長作品はヴェルディ「ドン・カルロス」の211分でしたが、何と特別版の三作品がその記録を軽く飛び越えています。
四作品を続けて見るとちょうど15時間!
脳みそが溶けてしまいそうな長さです。

 

(2014年5月14日)

で、15時間かけて何をやっているかと言うと、世界を支配する力を持つ「ニーベルングの指輪」の争奪戦がその大筋です。
神々や人間族やいろいろな種族が指輪をめぐって争うと言えば、ピーター・ジャクソン監督の「ロード・オブ・ザ・リング」を思い出しますが、まあ、あんな感じのものです。

ストーリーは壮大ですが、それにしても15時間は長いです。
「ワルキューレの騎行」や「ジークフリートの葬送行進曲」など聴きどころが多い一方で、だらだらと状況を説明するシーンやこれまでのあらすじを延々とおさらいする場面にうんざりさせられるのも事実です。

そう思っていたらこんなのがありました。

聴きどころはそのまま、誰が聞いても退屈な場面をばっさりカットして、何と6時間半に圧縮した「指輪」です。
試しにざっと聴いてみましたが驚くほど違和感がありません。
私が「指輪」に求めているものの95%くらいは含まれているのではないでしょうか。
(残りの5%は15時間という長さそのものという気もしますし……)

次は「トリスタンとイゾルデ」の90分ヴァージョンの登場を希望します。

上記のディスクは「コロンリング」で検索するとヒットします。
興味のある方はどうぞ。

 

(2014年5月16日)

本屋で「この本、読んだっけ?」と考え込むことがあります。

小難しい本や全然面白くなかった本など、苦労して読んだ本なら忘れないのですが、警察モノや本格推理系などは危険です。
特に警察モノは言ってみればどれも「組織から浮いた存在である主人公が難事件に挑む」というプロットなので、裏表紙のあらすじ紹介を見てもあまり役に立ちません。

最近はバーコードを読み取るだけで簡単に読書記録を入力できるアプリもあります。
これは便利そうです。

 

(2014年5月23日)

前回「便利そうです」と書きましたが、正直言うと全然便利と思っていない自分がいます。

読書記録なんて作者名、タイトル、出版社、読了年月日が分かればそれで十分です。
バーコード入力でそれほど手間が変わるとは思えません。
それよりも入力したデータをどう並べて、携帯機器にどう映し出させるか、というところが一番の問題です。

それからもう一つ。
入力は大した手間ではないと書きましたが、それは小説の場合です。
コミックは違います。
詳しく説明しなくても分かっていただけると思うのですが、コミックを一冊読み終わるたびに何かをちまちま入力するのはとても面倒です。
バーコード入力でも同じです。

しかし現実問題として、「どこまで読んだっけ」と一番困るのが、長編のコミックです。

 

(2014年5月26日)

これを解決するのは眼鏡型ウェアラブルPCしかないと思います。

裏表紙を見ながら「読了」と言えば、本のデータが読書記録に取りこまれるようにすればどうでしょう。
「読了」と口にするくらいならコミックでも面倒がらずにできそうです。
そして裏表紙を見ながら「チェック」と言えば、読了したかどうかすぐ判断してくれるわけです。

この眼鏡さえあれば、本屋で長時間悩んだり、包装のビニールを少しだけ破ってこっそり中を見たり(私はしませんが)というような無駄な手間から解放されそうです。

 

(2014年5月28日)

集団的自衛権についての記事を読むともどかしくて仕方がありません。

国益のために集団的自衛が必要と政府は主張しますが、肝心の「国益」が何かがさっぱり分かりません。
我ながらあさましい根性ですが、どういう見返りがあるか分からないのに負担の話をされても困ってしまうのです。

「中国が尖閣に上陸すれば直ちに誘導ミサイルで上陸部隊を殲滅する!」とアメリカが約束してくれるなら、北朝鮮の長距離弾道弾の迎撃システムの一翼を担いましょう。ミサイル基地空爆部隊の後方支援をしてもいい。
しかしアメリカが弱腰で、中国に遺憾の意しか表明できないのであれば、そんなアメリカのために何かを負担をするのはお断りです。
輸送船の一隻だって送りたくないです。
アラブ諸国の反感を買いながらホルムズ海峡に掃海艇を派遣するくらいなら、「アラブ政策に関しては日本はアメリカのやり方には反対」と表明する方がましに思えます。

国益のためには武力行使もやむをえず! という立場の人たちに限って「集団的自衛権によって獲得される国益とは何か」について語ってくれないのはどうしてなのでしょうか。


(2014年6月2日)

よく分からないのは、アメリカが中東において何をやろうとしているか、という点です。
頼まれもしないのに安倍首相が軍を中東に送りたがるわけがありません。
イラクやアフガニスタンから敗退するアメリカがまだ中東で何かをやらかそうとしている、と考えるべきなのでしょう。
私たちはアメリカが中東や東アジアで何かやるたびに泥沼に入りこんできたことを知っています。
今アメリカが企んでいるのも、100%ろくでもないことでしょう。

とすれば安倍さんは盲目的に追随するのではなく「もういい加減にした方がええんちゃう?」と言ってあげる方がアメリカのためになるような気がします。

 

(2014年6月4日)

文民による制御は当然必要ですが、紛争地に行ったこともなく、今後も行く予定もない連中が、起きてもいない、起きるかどうかも分からない事態について、ああでもないこうでもないと言い合っているのは滑稽に思えます。 

国会議員にはアフガニスタンの米軍基地に視察に行って欲しいものです。 
普段勇ましいことを言っているタカ派議員が仮病でドタキャンしたり、近視眼的反戦論をヒステリックに叫んでいる議員が命の危険をかえりみず現地の生の声を拾ったり、そういうドラマを期待します。 

実際、携行武器や発砲の要件を細かく決めるよりも、条文に「自衛隊海外派遣の際には無作為に選ばれた国会議員が発言権を持たないオブザーバーとして同行する義務を負う」という一文を入れた方が暴走の歯止めになるのではないでしょうか。 
いや、歯止めどころか自衛権発動法自体が自然消滅する可能性が高いと思います。 護憲派議員のみなさん、戦術転換するなら今が最後のチャンスです。


(2014年6月9日)

自ら最前線に立つ覚悟のない者による派兵議論には虫酸が走りますか、それに反論するよすがとしていまだに憲法を振りかざすのもどうかと思います。 
9条ばかりがクローズアップされますが個人的に引っかかるのは25条、27条です。 

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 
同第2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 
第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 

ポイントは「権利」という言葉です。 
「発言する権利を持つ」とは「発言しても罰されない」ということです。 
政府がお立ち台とマイクと聴衆を用意してくれるわけではありません。発言の機会は自分で用意する必要があります。
同じように考えれば、憲法に書かれているのは「誰にも邪魔されず最低限の生活を送ることができて、それで罰されることはない」ということであって、「最低限の生活をさせてもらえる」ということではありません。 

一方勤労については一切の但し書き抜きで「勤労の義務を負う」とあります。 
但し書きがないということは、「疾病や障害などやむを得ない場合を除き」などの勝手な解釈を許さないということです。
ところが実際には「やむを得ない理由で働けない人でも最低限の生活が保障されている」という憲法解釈がまかり通っています。 

9条の解釈変更が気になる人がどうして25条の勝手な解釈が気にならないのか、私はすごく気になります。

 

(2014年6月11日)

さらに第21条第2項では「検閲は、これをしてはならない」とずばり書いてあるのに、現実は違います。
性的表現があると明示してあって、それを了承した人だけが訪れるはずの映画館で、どうしてモザイクだらけの画面を見せられるのか、理解できません。
9条改正反対を叫んでいる方々が、ついでに映画館前で「モザイクつけるな!」と叫んでくれたら個人的にはうれしいのですが。

結局日本人にとっての憲法とは、都合のいい時だけ持ち出される「女の子の門限」みたいなものなのでしょう。
そしてどうせ単なる方便なのであれば、もっと美しい日本語で書いて欲しいと思います。
護憲派の人はこの文章を読んで死にたくならないのでしょうか?
「源氏物語」を生みだした日本人がこんな悪文の憲法をありがたがっているなんて、私は外国の人に知られたくないです。

 

(2014年6月13日)

献血ルームに行ったらこんなポスターをくれました。
せっかくなので待合室に飾ってます。

期間限定の予定ですが。

 

(2014年6月30日)

神戸元町ダイアリー2014年(1)ゴーストライター<main>神戸元町ダイアリー2014年(3)本当のニュータイプ


健康ディクショナリー2014年(2)

最近「血圧やコレステロールの基準が変わったのですか」とよく訊かれます。
人間ドック学会の発表に基づいたマスコミの記事に惑わされたのだと思いますが、結論から言えば、

基準は変わっていません。

今回ドック学会から発表されたのは、今後5〜10年に及ぶメガスタディのための基礎データにすぎません。
……ということを、診察の合間に、一分程度の時間で納得してもらえるように説明する方法を今、考えているところです。
それまでは週刊誌やアドバイス好きの知り合いの言葉に惑わされず、薬を勝手にやめないで飲み続けましょう。

 

(2014年5月30日)

血圧が高めの人もいれば低めの人もいます。
一体どのくらいの血圧が理想なのでしょうか?

理想の血圧を導き出すのは結構大変です。
まず「今現在健康な人を大勢集める」ところから始めなくてはなりません。
これまで大きな病気を患ったことがなく、今も何らかの自覚症状がない人。
さらに喫煙などの明らかなリスクにさらされていないことが条件になります。
こういう人をとにかく大勢集めます。

そして次にその人たちをとにかく長く追跡します。
病気になる時期に最適も最悪もありませんが、個人レベルでも社会レベルでも一番影響が大きいのは働き盛りの年齢層での急病です。
結婚して子どもが生まれた。今は元気だけれどこのままの不摂生を続けていて、子ども関連の出費が増える10年後から20年後にこのまま健康でい続けられるんだろうか?
今は激務もばりばりこなしている新入社員。連日の残業、接待も体力で何とかカバーしているけれども、今後大切なプロジェクトを担う10年後、20年後にまだその体力はあるんだろうか?
今元気であれば何となく来年も元気なんだろうな、というのは分かります。
しかし自分では想像もできず、しかも最も大切なのは「10年後、20年後の健康状態」です。

つまり追跡期間は最低でも10年は必要ということです。

 

(2014年6月20日)

たとえば血圧の調査はいろいろおこなわれていますが、ほとんどが高血圧の人を対象にした調査です。
高血圧の人を集めて、一方には降圧剤を飲んでもらい、一方はそのまま。
そして数年間追いかけて脳梗塞や心筋梗塞の発生率に変化があるかどうか見極めようという種類の調査方法です。

これはこれで大変ですが、前回書いた
「できるだけ大勢の健康な人を、最低でも10年追いかける」
に比べると普遍性に欠けます。

日本でおこなわれた唯一の大規模調査が「久山町研究」です。
これは人口8400人の久山町という町で50年前から続けられている健康追跡調査です。
対象者の数から言っても追跡期間の長さから言っても日本ではナンバーワン・アンド・オンリーワンの調査です。
ちなみにこの調査では、「血圧140以上の人は120以下の人に比べて脳卒中の発生率が高い」という結果が出ています。

つまり「血圧は140以下に押さえた方がいい」というのが、今、日本で唯一の医学的真理です。

 

(2014年6月23日)

先日、日本人間ドック学会があらたな大規模調査のための基礎データを発表しました。
ドック受診者150万人の中から現時点で健康そうな人を34万人選び出して追跡調査していこうというものです。
「今健康そうに見える人」ですから当然その中には「血圧が高めなのに薬を飲んでいない人」も含まれます。
その人たちと「今血圧が低めの人」との間に今後差が出てくるのかどうか長期的に調べるわけです。

この研究が実を結ぶと久山町研究より普遍的な結論が得られるかもしれません。
しかし成果が出るのは10年、20年先です。
(1年程度で結論が出てしまう可能性もあります。つまり未治療高血圧の人が1年以内にバタバタ倒れた場合ですが)

今回発表されたのは「20年後に向けて準備が整った」という報告です。
それを大々的に発表してしまったのは勇み足だったと思いますが、20年後への思いの強さを慮ると、意気込みを隠しきれなかったのだろうと同情したくもなります。

というわけで血圧の基準値は何も変わっていません。
一緒に20年間データの蓄積を見守りましょう。

 

(2014年6月25日)

「基準値が変わったわけではない」と長々と書いてきましたが、これを診察の現場で簡潔に説明するのは難しいです。

結局は、いろいろはしょって
「あれは誤報です。基準値は変わっていません」
と言ってしまうかもしれません。
ご了承ください。

 

(2014年6月27日)

健康ディクショナリー2014年(1)まともな医者が近藤誠に反論しない訳<main>健康ディクショナリー2015年(1)医者の陰謀


海外の長篇小説ベスト100(第31位〜第35位)

第31位

ロレンス・スターン「トリストラム・シャンディ」(岩波文庫)

この小説を紹介するのはとても難しいです。

できれば一切の紹介文やレビューを読まず、第1巻の冒頭についている訳者の解説も読まないで読み始めた方が楽しめると思います。
しかしそういうのが難しいんですよね。
解説だけでなく表紙裏にもそれっぽいことが書かれているし、amazonで注文しようと思えばどうしても読者レビューが目に入ってきます。
ない方がいい情報が入ってきてしまうのが現代社会の困ったところ。
金曜日朝のサッカーの試合も、録画をしておいて情報をシャットアウトして夜ゆっくりと見る、ということができればいいのですが、それが不可能なのが現代日本です。

もしあなたが「トリストラム・シャンディ」について何も知らなければ、あなたにはユニークな読書を体験するチャンスがあります。
ただし、表紙裏のコピーを読まず、巻頭の解説を読まず、amazonその他の説明・感想欄を見ないという条件付きですが。

 

(2014年6月18日)

第32位

J・D・サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(白水社)

ありとあらゆることに不平不満をこぼしつつ全てから逃げまくっている、ダメ青年のお話。
ところがそんなクズみたいな話でも文体のリズム感が合えばぐっと来るから不思議。
私は線香花火のようなストーリーだと解釈しました。

単なる化学反応が、人によっては美しい火花に見え、人によっては硫黄の臭いだけが鼻につく。
最後には誰の目にも美しい火の玉を形作るんだけれども、それは燃え尽きる直前の最後のきらめきにしか過ぎない。
燃えかすがぽとりと落ちるように、語り手も精神を崩壊させる……。

もちろんこんな理屈っぽい解釈を必要とする文章ではないし、発狂へのプロセスという解釈も強引すぎるかもしれません。
語り手のダメっぷりを笑い飛ばすだけで十分なような気もします。

 

(2014年6月16日)

第33位

ジョナサン・スウィフト「ガリバー旅行記」(角川文庫)

初読です。
今まで読まなかったのには理由があります。
紹介文に必ずついてくる「優れた風刺」という言葉がいやだったのです。
そうなんです。私は「風刺」という言葉が大嫌いなのです。

読んでみると確かに「優れた風刺」と言いたくなるような内容でした。
しかし意外と面白かったです。
正直言うと、最も有名な「小人の国」が一番つまらない。
ラピュタの次に行った「発明の国」が一番面白い。
そうそう、「ラピュタ」とか「ヤフー」という言葉はこの小説が起源のようです。
それにガリヴァーは日本にも来てるんですね。

「風刺」とか関係なく普通に面白い、紹介文としてはこれでいいのではないでしょうか。

 

(2014年5月21日)

第34位

チャールズ・ディケンズ「デイヴィッド・コパフィールド」(岩波文庫)

8年ぶりの再読です。その時の感想は

ディケンズを読むのは全く初めてだったのですがこういう作風の人だったのですね。
一言で言うと「軽い」です。
「レ・ミゼラブル」のようながっちりとした構成があるわけでもなく、思いついたように次々と奇妙な登場人物が現れ次々と事件を起こしていきます。 
そう、まさに「思いついたように」というのが正直な感想です。
もとは新聞小説だったらしいのですが、毎日毎日読者の反応をうかがってはそれに応えて書き進めていく、そんなディケンズの姿が思い浮かぶようです。(2006年6月9日)

この時はディケンズそのものが初めてだったのでこういう感想でした。
このあと「大いなる遺産」と「二都物語」を読んでディケンズの作風が分かった今となっては、

ディケンズにしては行き当たりばったり感がまだまし

という印象です。
二匹目にすっごくワルいネコがやってきたので、最初はおてんばに思えた一匹目のネコがおしとやかに思えてきた、
それと同じ感じでしょうか。

 

(2014年5月19日)

第35位

ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」(河出書房新社池澤夏樹個人編集世界文学全集第24巻)

4年ぶり3度目のひもとき。

馬の首の鰻、喉に突き刺さる党員章の針、ライ麦畑の女の薬指。
執拗に繰り返される残酷で畸形なイメージ。
呪われたニオベ像、水のないプール、イエス像の奇跡。
容赦なく襲ってくる攻撃的な美しさ。

どうして3歳児なのか、いろいろ語られるけれど、3歳児ゆえの感受性のためではなく、3歳児ゆえの鈍感さが必要だったからなのだろうと今では思う。

 

(2014年3月31日)

「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<第36位〜第40位<main>第26位〜第30位


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