第4部第4章(第2巻295〜335ページ)
(88)
老婆殺害のシーンを「罪と罰」のアクションとしてのクライマックスとすれば、この章はドラマとしてのクライマックスです。
ラスコーリニコフがソーニャの部屋を訪れた1時間の顛末がこの章の全てです。
その間にラスコーリニコフはソーニャの足元にひざまずき、ソーニャは彼に聖書を読んで聞かせます。
「ぼくはきみに頭を下げたんじゃない、人類のすべての苦悩に頭を下げたんだ」というかっこいい名セリフもあります。
聖書のエピソード、ラザロの劇的な復活も語られます。
とにかくドラマティックな展開や謎めいた暗喩に満ちていて、深読みしたい人はどんなにでも深読みできるし、語りたい人はいくらでも語ることができる、そんな宝の山のような章です。
しかし、たとえばさっきのセリフです。
ラスコーリニコフは、「きみ」にではなく「人類のすべての苦悩」に頭を下げたと言っただけです。
どうしてそれが「ソーニャが人類の苦悩すべてを背負っている」ことになるのか、私にはよく分かりません。
深く読むのは結構だけれど、書いてないことまで読み取ってしまうのはいかがでしょうか。
もしかして純文学では許されるのでしょうか。
「この当時緑のショールは聖母を意味していた」など、作品内で提示されていない前提を持ち出して解釈する人もよく見かけます。
これはミステリならルール違反です。
おいおい、作品が描かれた背景を知りもしないでどうやって作品を分析するんだ? という反論が当然あるでしょう。
背景ならいいと思います。
たとえば福音書を読む時、当時の社会情勢を知っておくと理解が深まるのは確かです。
一方、福音書のひとつひとつの言葉を旧約聖書と対比させようという神学的研究が、福音書の読解に意味があるとは思えません。
私には「緑のショール」云々の評論は、ドストエフスキー学の論評ではなく、ドストエフスキー教のおまじないに思えて仕方ないのです。
(2014年2月12日)
(89)
専門家の評論を読んで最もいらいらするのは、こちらの知りたいことを何にも説明してくれないところです。
たとえば295ページからの4、5ページ、ラスコーリニコフがソーニャの部屋を訪れるシーンです。
部屋のドアをノックしてたラスコーリニコフをソーニャが迎え入れる……というのであれば理解しやすいのですが、書かれているのはそうではありません。
ラスコーリニコフが暗い廊下を歩いていると、ドアが開く。
彼がそのドアをつかむと、そのドアを開けたのはソーニャだった。
ソーニャはラスコーリニコフの来訪に驚く。
ラスコーリニコフは彼女を押しのけるようにして玄関口に入り込む。
「あなたの部屋はどこです?」と訊ね、その返事も待たず部屋に入り込む。
それから1分ほどしてソーニャも部屋に入ってくる。
普通じゃないことだらけです。
ラスコーリニコフを待っていたかのように開けられたドア。
しかしソーニャは彼の顔を見て驚くのです。
さらにラスコーリニコフが入ったあと、ソーニャが入ってきたのは1分もしてからです。
この場面、一体何が起きているのでしょう?
(2014年2月14日)
(90)
まずは金銭面を整理してみましょう。
出来事が凝縮しているので大昔のことのように思えますが、実はマルメラードフが死んだのはこの前の日のことです。
臨終の場に居合わせたラスコーリニコフはカテリーナに葬式費用として20ルーブリを渡しました。
これは質素な葬式であればぎりぎり出せる額でした。
ところがカテリーナはその金で追善の供養もおこなおうとします。
ラスコーリニコフですら「追善の供養、なさるんですか?」と思わず訊き返してしまうような、想定外の事態でした。
さらにこの日の朝方にはカテリーナはポーレンカとリーダの靴を買いに行き、お金が足りなくて店先で泣き出してしまいます。
家賃を滞納しているくらいですからカテリーナに貯金などあるわけがありません。
ソーニャもラスコーリニコフの質問に対して、貯金をしようとしたが挫折した、と答えています。
カテリーナにもソーニャにもお金がない。
しかしカテリーナは分不相応な供養をおこなおうとしている。
ソーニャが置かれていたのはそういう状況でした。
(2014年2月17日)
(91)
ここでラスコーリニコフは突っ込みを入れます。
継母のわがままにこれ以上付き合う必要はないのではないか、と。
それに対してソーニャは、ヒステリックに叫びます。
カテリーナは悪くない、自分の方こそ家族への献身が足りないのだ、と。
その流れで出てきたのがマルメラードフの亡霊の話でした。
夜9時ごろ、通りにいたソーニャの前をマルメラードフそっくりの人が歩いていったと言うのです。
ソーニャはマルメラードフに対する心ない仕打ちを告白します。
続いてかつてカテリーナを冷たくあしらったことも懺悔します。
ソーニャは、だからこそ自分はあの人たちに身を捧げる必要がある、と言いたかったのでしょう。
しかしラスコーリニコフはソーニャの言葉の、別の面に引っかかりました。
(2014年2月19日)
(92)
「父です。通りを歩いていましたの」
というソーニャの言葉に、ラスコーリニコフはこう突っ込みます。
「通りに出ていたんですね?」
それに対してソーニャは「うろたえてうなだれ」ます。
工藤清一郎の訳ではこのソーニャのセリフが
「あなたは散歩していたんですか?」
となっています。
「散歩」では、うろたえてうなだれる理由が分かりません。
ロシア語の表現はともかく、ラスコーリニコフの質問の意図はこうです。
「あなたは客を拾っていたんですね、夜の9時に?」
これならソーニャの反応もうなずけます。
その後のラスコーリニコフの貯金の話や「毎日、お金が入るわけじゃないんですね?」という質問の意味も分かります。
そして、ここまで未解決だったいくつかの疑問点に対する答えも。
(2014年2月21日)
(93)
ソーニャは明日の供養の費用を捻出しなければなりませんでした。
彼女がお金を稼ぐ方法はたった一つ、「通りに立つこと」だけです。
それを思えば122ページのソーニャの恐れも分かります。
夜の9時に通りに立っていたことも、さらに、その時にマルメラードフの亡霊を見たことも理解できるような気がします。
ラスコーリニコフが来たあとの1分間の空白も、それに関係する何かに必要な時間だったのでしょう。
ラスコーリニコフが彼女の部屋を訪れた時、廊下の足音に気づいたソーニャは誰何することなく扉を開けます。
若い女性が夜中に、相手を確かめることもなくドアを開くなど、普通ではありえないことです。
しかも彼女は来客がラスコーリニコフとは思っていなかったようなのです。
とすると、彼女は夜中にまだ誰かの訪れを待っていたと考えるしかありません。
ラスコーリニコフの「毎日お金が入るわけじゃないんですね?」という問いはおそらく「今日もお金が手に入らなかったのですね?」という意味なのでしょう。
「だから夜中になってもまだ客を待って廊下の物音に耳を澄ませていたのですね?」という意味なのでしょう。
ラスコーリニコフの疑問は膨らみます。
(2014年2月24日)
(94)
ソーニャはそこまでして何のためにお金を得ようとしていたのでしょう。
カテリーナの見栄のための供養、それに子どもたちの可愛らしい靴のためでした。
困窮を何にも解決しない、むしろ悪化させるだけの出費です。
そもそもソーニャが肩代わりする義理もありません。
その理由を訊ねてもソーニャの答えは要領を得ません。
かつてカテリーナがソーニャの服を欲しがったことがある、しかしソーニャはそれを拒絶した、
そのことが、ソーニャを苦しめているようです。
もしこの悩みをネット上の「相談コーナー」にアップすればどういう返事が返ってくるでしょう。
ほとんどは「そりゃあカテリーナが悪い、あんたが悩む必要はない」というものでしょう。
中には「どっちもどっち」と書き込むへそ曲がりがいるかもしれません。
しかし「そんなにひどいことをしたのならしっかりつぐないなさい」と答える人は絶対にいません。
ソーニャもそれを知っている可能性があります。
ラスコーリニコフの「どうしてそこまでカテリーナに尽くすのだ?」という質問に対して、ソーニャはこう答えているわけです。
「カテリーナは尽くすに値する人間ではない、だけど私は尽くす」
さらにラスコーニコフはソーニャの援助が二人の子どもに全く役立っていないことを指摘します。
カテリーナを中途半端に助けていたら子どもたちはどん底に落ちるだけだと主張します。
しかしソーニャは「神さまがそんなことは許さない」と言い張り、聞く耳を持ちません。
ただでさえ逆転困難な構造的貧困に加えて、本人に逆転の意思がないのです。
究極の負のスパイラルに直面してラスコーリニコフは眩暈を覚えます。
それと同時にますます訳が分からなくなります。
「子どもたちを助けようと積極的に思っているわけでもないのに、一体この女は何の犠牲になろうとしているのか」
(2014年2月26日)
(95)
ここでよく分からない描写にぶち当たります。
315ページの5行目からの1段落です。
ここでラスコーリニコフは、ソーニャの中でカテリーナやポーレンカが大きな位置を占めていることに初めて気がつくのです。
え、それでは今までのやり取りは一体何だったのでしょう!
302ページからのラスコーリニコフの心理の動きはてっきりこうだと思っていました。
家族は大切だろうけれど、向こうはそう思ってないじゃないか。
しかもあんたが少々頑張っても彼女たちが救われる見込みはない。
家族というものに縛られて、あんたがそこまで犠牲になる必要があるのか?
しかし家族の大切さに気付いたのが315ページだとすると、彼の考えはこうだったのではないでしょうか。
どうしてそこまで犠牲になるんだ?
何、家族だから?
えっ、家族って、そういうものだったっけ?
ラスコーリニコフには家族を守りたいという基本的感情が抜け落ちていたと解釈しなくては、この文は成り立たないと思うのです。
ところでマルメラードフは何のために現れたのでしょうか?
ドストエフスキーの世界観では、何らかのやましさを覚えた時に幽霊が現れるようです。
この場合、ソーニャが何かをやましく感じているとすればそれは、「身体を売っている」というおこない以外にはありえません。
「義理の家族のためという名目で、お父さん、あなたの実の娘である私はあなたから授かったこの身を穢しています」
ソーニャは心の奥底ではそう叫んでいるのです。
家族観そのものに乏しいラスコーリニコフと、自分の受難欲のために家族観をねじ曲げているソーニャ。
類似のような、対比のような、面白いところです。
(2014年2月28日)
(96)
この章ではリザヴェータについて三度言及されます。
まずは307ページ。
この前後はおそらく意図的なのでしょう、ラスコーリニコフの心理描写が全くありません。
表情や口調の説明もなく
「その、リザヴェータという行商人、ご存じだったんですか?」
という台詞が無造作に挿入されるだけです。
次は320ページ。
ここではラスコーリニコフの心情が語られます。
《 リザヴェータだって! へんだぞ! 》
この台詞には以下の描写が続きます。
「彼は考え込んだ。
ソーニャの部屋にある何もかもが、刻一刻と、彼にとっては何か奇妙な、ありえないことのように思えてきた」
そして322ページ。
「きみはリザヴェータと親しかったのかい?」
この質問には以下の独白が続きます。
《 こんなところにいたら、こっちまで神がかりになっちまう! 伝染性だぞ! 》
ソーニャにひざまずくシーンよりも、私にとってはこの一連の反応が衝撃的だったりします。
そこに居合わせたというだけの理由で惨殺した女性が、ソーニャの親しい友人だったと聞いての反応がこれなのです。
三度の描写の積み重ね方もなかなか憎いです。
最初は心理描写を加えず、読み手は「もしかするとラスコーリニコフはリザヴェータ殺しを後悔しているかもしれない」と想像することができます。
二回目で少し違和感を覚えます。
そして三度目で私たちは確実に知らされるのです。
彼が後悔も反省もしていないことを。
(2014年3月3日)
(97)
ソーニャにひざまずいたのは真っ当な人間ではありません。
基本的感情が抜け落ちた欠落者です。
普通であれば「敬虔」とか「心服」などを思わせる「ひざまずく」という行為に、通常のイメージを重ねてはいけないと思います。
まかり間違っても
ソーニャは全人類の苦悩を背負って、自分一人が犠牲になろうとしている聖女なのだ。
ラスコーリニコフはそう考えて悔い改めた。
などと誤読しないように、ドストエフスキーはいくつもいくつも予防線を張ったのです。
リザヴェータの死に何の感情も催さないラスコーリニコフの欠落ぶりも衝撃的ですが、ドストエフスキーはさらに衝撃的な場面をたたみかけてきます。
周到に用意されたラスコーリニコフのダメ人間ぶりさえもが、続く描写と対比させるための伏線だったのです。
(2014年3月5日)
(98)
イエスの奇跡物語を、ソーニャがラスコーリニコフに語って聞かせます。
輝かしい奇跡の記録と、それを語るソーニャの気持ちの高ぶりが同時に進行します。
それにしてもこのシーンのセクシーなこと!
これは間違いなく、ドストエフスキーが書いた中で最もエロティックな場面だと思います。
かつて江川卓が「謎とき『罪と罰』」で「ラスコーリニコフとソーニャに肉体関係はあったのか?」という命題を提示しました。
その箇所がここです。
その命題自体を「けがらわしい!」と拒絶する神格ソーニャ主義者もいますが、ソーニャのエクスタシーに性的なものを感じることなく読み進めるのは不可能です。
そしてラスコーリニコフがもし健常男子であれば、同様に考えたことでしょう。
「今やらなくて、いつやる?」と。
江川卓の命題は決して突拍子ではないと思います。
問題はドストエフスキーが性的なニュアンスをどこまで意識していたか、ですが「明らかに意識していた」と考えるべきでしょう。
聖書を読みながら性的高まりを感じるソーニャを見て、ラスコーリニコフは確信します。
逆も同じではないか、すなわち、性的な犠牲を払いながら宗教的陶酔を感じていたのではないか、と。
この対比を踏まえなければ、このシーンのラスコーリニコフの得心は理解できません。
さらに言えば、聖書を読みながらエクスタシーに至るという、とてつもなく危ないシーンに挑んだドストエフスキーの鼻息も文章からは伝わってきます。
ソーニャの清らかさにひれ伏し、ありがたい聖書の一節を聞いて改心する、そんな表面的な場面ではないのです。
(2014年3月7日)
(99)
もう一つ、この章では大きな問題があります。
どうして「ラザロ」なのか、です。
数々の奇跡を成したイエス。
多くの人の病気を治し、何人もの命を蘇らせたイエス。
その中からどうしてドストエフスキーはこの「ラザロの蘇り」を選んだのでしょう。
福音書に登場するイエスには3種類のキャラクターが重なっているように感じられます。
まずは旧来の教会主義に反発する革命家としてのイエス。
暴力行使も破壊活動も厭わない「あらぶるイエス」、なかなか興味深い存在です。
次が教条主義からの解放を静かに説いたイエス。
慈愛に満ちた「穏やかなイエス」、個人的に最も魅力を感じるキャラクターです。
そして最後が奇跡大盤振る舞いのイエス。
私にとってはどうでもいい「あと付けのイエス」です。
最近、福音書の中からイエスが本当に言ったり、おこなったりしたことだけを抽出しようという試みが始まりました。
教典としてではなく、書物として読んだ場合に当然感じる欲求だと思います。
複数のキャラクターがいて、互いに大きく矛盾し、魅力の度合いも全く違う。
最も魅力的で最も真正なイエス像を取りだしたい、私もそう感じます。
そうした時真っ先に除外されるのが「奇跡をおこなうイエス」です。
それは「奇跡が非現実的でない」からではありません。
奇跡をおこなうイエスに人間的魅力を感じないからです。
「非現実的」以前に「心理的リアリティ」がないからです。
(2014年3月10日)
(100)
ところが「ラザロの蘇り」には、他の奇跡と違う、何らかの「リアリティ」が感じられます。
ラザロ、マルタ、マリアともにルカ福音書に既出の人物であるということもそのリアルさの一因でしょう。
それに加えてイエスを含めた登場人物たちの感情の振幅も大きく、グロテスクさをいとわない表現のリアルさも他の奇跡物語とはけた違いです。
個人的には「ラザロの蘇り」はイエスがただ一回だけ「利己的感情」のためにおこなった奇跡だと思っています。
さらに言えば「おこなうべきではなかった奇跡」ではなかったか、とも考えています。
が、これは全く根拠のない「印象」ですので、いったん置いておきましょう。
確実なのはドストエフスキーも「ラザロの蘇り」に、その他の奇跡とは全く違う「何か」を感じたことだと思います。
「信仰心があれば死者も蘇る」などという「ありがたいお話」以上のものを感じたことだと思います。
聖書を読むソーニャはこの時エクスタシーを感じています。
ラスコーリニコフはその姿を冷やかに見ています。
しかしそれでもなお、この物語に強い印象を受けたのです。
とするとやはりラスコーリニコフは「奇跡の内容」以外の部分に強く心を揺り動かされたと考えるべきではないでしょうか。
「ありがたい奇跡」ではなく、奇跡をもたらしたイエスの苦悩を感じ取ったと考えるべきではないでしょうか。
(2014年3月12日)
(101)
さて、最後に江川卓の命題についても考えてみようと思って、数十年ぶりに「謎とき『罪と罰』」を読んでみました。
何と、ラスコーリニコフとソーニャが結ばれたと彼が提示したのはこの部分ではありませんでした。
何という勘違い!
と同時に、念のために読み直しておいてよかった、とほっとしたりしたりしています。
(2014年3月14日)
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