第4部第2章(第2巻246〜275ページ)
(79)
この章を読むとほっとします。
「罪と罰」はとても難解な小説ですが、その一番の理由は登場人物が何を言っているかよく分からないことです。
ポルフィーリーとラスコーリニコフの対話は哲学的過ぎるし、スヴィドリガイロフは鼻っから理解されようと思っていません。
一番やっかいなのはラズミーヒンです。よくしゃべる割に、何を言っているかよく分かりません。
わけの分からないことばかりしゃべりまくる登場人物たちの中にあって、セリフの要旨が非常に明瞭な人物が二人、います。
ルージンとプリヘーリヤです。
彼らは他のキャラクターとは桁違いに底の浅い人物として設定されています。
そしてこの章ではこの二人のセリフがかなりの重心を占めます。
ですからこの章はあまり難しいことを考えずに読むことができるのです。
(2013年2月20日)
(80)
この章はドラマ的にも分かりやすいです。
優位な立場からドゥーニャと婚約したはずのルージンが、真意を見抜かれてドゥーニャの部屋から叩き出される、痛快な場面です。
ところがこんな単純な筋立ての中でも、会話の中だけで扱われるスヴィドリガイロフが異彩を放ちます。
2件の自殺に何らかの関係があったことが、不確かな情報としてですが、語られるのです。
8年前の少女の自殺については今の段階では情報が少なすぎて何も判断できません。
6年前の、下男フィーリカの自殺については断片的ながらいくつか情報があります。
「フィーリカは心気症のようなものにかかっていて、哲学者ぶっているようなことがあったらしい」
「周りの召使からは本の読み過ぎで変になったと思われていた」
「直前にスヴィドリガイロフと大喧嘩をして、そこで殴られたらしい」
「それが一部の人からは拷問のせいだと受け取られている」
「その一方で、彼が死んだのはスヴィドリガイロフに冷やかされたせいだと言う人もいる」
これは一体どういうことなのでしょう?
(2013年2月22日)
(81)
スヴィドリガイロフがフィーリカに対して暴力をふるったのは間違いなさそうです。
しかし「大喧嘩」であれば突発的なものです。「拷問」という言葉は持続的ニュアンスを伴います。
暴力によって死に追い込まれる、というのは何となく理解できます。
しかしその同じ行為が人によっては「冷やかされたから首をくくった」とも見えたらしい。
これらの矛盾した記述を並べてみると、思い出すことがあります。
スヴィドリガイロフとドゥーニャの関係です。
第三者からはドゥーニャは継続的に辱めを受けていたように見えた。しかしドゥーニャ自身はそう受け取っていなかった。
類似点を感じるのは私だけでしょうか。
以下仮説です。
フィーリカは自分を傷つけることによって神に救われるというマゾヒスティックな信仰心を持っていた。
嘲りつつも、完全に無視することができないスヴィドリガイロフはフィーリカを観察し続けた。
時にはフィーリカの「自分を傷つける」ことにも加担した。
次にスヴィドリガイロフはフィーリカに究極のマゾヒズムを提示して見せた。
「究極の自傷行為である自殺によって、人は神ををも乗り越えられるのではないか」という人神論。
激しく困惑するフィーリカを、スヴィドリガイロフは冷やかし、自殺に追い込んだ。
(2013年2月25日)
(82)
仮説と言うよりも思いつき程度と言った方が正確です。
しかしフィーリカが狂信的な立場に陥っていたこと、その教義が「自虐」に絡んでいたこと、スヴィドリガイロフがフィーリカの宗教に興味を抱いていたことは間違いないと思います。
ドストエフスキーの「悪霊」にキリーロフという人物が登場します。
私はこの二人に同じ臭いを感じます。
いや、「この二人に同じ臭いを感じる」以外の道筋では、フィーリカという人物は全く解釈できません。
それはそうと、この章を読んでからもう一度前の章を読むとスヴィドリガイロフの巨大さが際立ちます。
すっかり「小物のわき役」に堕してしまったラスコーリニコフが、主役の座に返り咲くことはできるのでしょうか。