神戸元町ダイアリー2012年(3)

「マニフェストにない政策をおこなうのであれば、解散して民意を問い直すべき」
とか
「党の方針に従わないのであれば離党すべき」
とか
「比例代表で当選した議員は離党するなら議員も辞職すべき」
とか、理屈を聞くといちいちもっともで説得力があります。
一方でそれぞれに対する反対意見にも同等の説得力があって、しばしば議論は平行線をたどり、こちらも判断に困ってしまいます。

「議会制民主主義とは何であるか」という大前提が人によって異なるのが理由だと思います。
憲法に「投票とは候補者に対する白紙委任である」とでも書いてあれば分かりやすいのですが、選挙人と代議士のあり方についての規定はありません。
憲法は「選挙人が議会制民主主義に対する勝手な思い込みに基づいて投票する」自由と「代議士が投票の結果を都合よく解釈する」自由を容認していると考えるべきかもしれません。

とすると代議士のあり方についての議論は、神学論争と同じく、国会の場ですべきことでないような気がして仕方ありません。

 

(2012年7月2日)

前回記事のために日本国憲法を読み直してみました。

憲法前文が名文だと言う人がいます。
名文かどうかは読み手の感性に委ねられる部分が多いので、その点については議論しません。
議論の余地もなく確かなのは、さっぱり意味が分からないことです。
いきなり頭の文章です。

日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、
ここに主権が国民に存することを宣言し、
この憲法を確定する。

勝手に改行しましたが、この2行目の「行動し」にまず、戸惑います。
「行動する」という動詞は、普通、単独では意味をなさない言葉です。
「蟻は集団で行動する」とか「責任をもって行動しなさい」とか、「どのように行動するか」に重点を置かれた場合に限られます。
そして上の文章で「どのように」の部分がどうなっているかを見てみると
「代表者を通じて」、つまり「間接的に」と書いてあるのです。
そうなのです、これが違和感の大元です。

自発的行為をあらわす「行動する」と、あんまり自発性の感じられない、下手をすると無責任な丸投げをも感じさせる「代表者を通じて」という言葉の並列、ここにまず引っかかってしまうのです。

 

(2012年7月4日)

3行目の「われらとわれらの子孫のために」は、これまで何となく7行目にかかると思ってきました。
しかしこのように改行してみると、4行目を修飾する言葉であることが分かります。

われらとわれらの子孫のために憲法を定めたのではなく、われらとわれらの子孫に成果と恵沢を確保するために憲法を作った、と解釈するのが正しそうです。
さてその「成果」と「恵沢」ですが、これも難しいです。

ここも今までは「諸国民と協和するために」「全国土で自由であるために」憲法を確定する、と何となく読んできました。
しかし、素直に文面に当たると、そんなことは書いてありません。
書いてあるのは「諸国民との協和による成果を確保し」、「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し」、です。
確保するために憲法を作ったのではなく、確保したうえで憲法を作った、のです。

つまり「成果」も「恵沢」も、この時点で達成されているということです。

この時点で達成されている「諸国民との協和による成果」が何であるかを考えてみると、それは敗戦に伴う不戦状態、あるいは講和条約そのもの以外には考えられません。
これはまだ分かりやすい。
次の「恵沢」は難物です。
「わが国全土にわたる」という空間を表す言葉と、「自由」という言葉が上手く噛み合ってくれないのです。
「わが国民すべてに自由がもたらす恵沢」なら理解できます。
「出版、報道、信教、すべての表現活動に自由が保障される恵沢」でもいいです。
しかし自由がもたらされているのは、「国民」でもなく「行動」でもなく、「国土」と書いてあります。

これは「日本の国土がひとつ、自由主義によって治められている状況」と解釈するしかないと思うのです。
具体的に「自由主義的政治体制のもと、統一を維持した状態で」と言い替えることもできますし、そこまでくると、もう一歩踏み込んで「米ソで分割されることもなく、アメリカ単独に守られた状態で」というニュアンスを感じ取る人がいてもおかしくはありません。

理想論的に「協和を重んじ、自由を守るために」と書いてあればよかったのですが、この4行目はちょっときな臭いです。

 

(2012年7月6日)

ここで前回ちょっとだけ触れた3行目の文章が問題になってきます。

「われらとわれらの子孫のために」おこなうのは、「憲法の確定」ではなく、「成果と恵沢の確保」です。
もし前者であれば、文字どおりの解釈で何の不都合もありません。
われらとわれらの子孫の明るい未来を祈って憲法を定める、のです。
ところが後者であれば一筋縄では運びません。

たとえば「将来のために貯金をする」という文章があったとします。
貯金も大切ですが、この文章で読み取れるのは「将来あってこその貯金」というニュアンスです。
一番大切なのは「将来」であって、「貯金」はその付随的なものです。
ところが「将来の収入のために年金に入る」という文章だとどうでしょう。
先ほどの「将来」という言葉に込められていたさまざまな意味合いが削り取られて、時間的な意味の「将来」に単純化されます。
そしてこの場合最も大切なのは「将来」でも「年金」でもなく、「収入」です。

そんなことを考えながらもう一度、憲法前文の3、4行目を読み直します。
書き手にとって大切なのは「われらとわれらの子孫」でしょうか、「成果と恵沢の確保」でしょうか。
とても微妙だと思うのです。
そしてその違和感が5行目に続きます。

5行目を読んでいつも感じていたのは、どうして「政府の行為によつて」という語句をわざわざ挿入したのかという疑問でした。
政府の行為以外の戦争は容認されるという意味なのか? と思ったものの、具体的な事例を思いつかず、何となくもやもやしていたわけです。

ところが4行目が「自由主義陣営にとどまり続けること」という意味であれば、これまでの疑問は氷解します。
「自由主義陣営」の要請であれば政府の行為ではありませんから、5行目の理念には反しないわけです。
「政府の行為」という文言を加えたのは、「日本政府より高位の立場が決定した場合はその限りにあらず」と意味を含めたかったからかもしれません。
さらにそこまで考えると、違和感のもとになった最初の文章の意味合いが変わってきます。
日本国民は間接的・無責任な統治、すなわち自国政府よりも同盟国の意向を重んじる政治体制を、「主体的」に選択した、という宣言のように思えてきます。

 

(2012年7月9日)

まさか「憲法」の話でこんなに長くなるとは……。

さてそのちょっと先にはこういう文章があります。
一つの段落に「平和」という言葉が4回も登場します。

日本国民は、
恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、
平和を維持し、
専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、
名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、
全世界の国民が、
ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

読み間違いやすいのは2行目と3行目の関係です。
うっかりすると「平和を念願し」「理想を自覚し」と、並列の意味合いに解釈してしまいそうです。
しかしそうではありません。
平和を念願しているのは日本国民ではなく崇高な理想です。
そしてこの理想とは「人間相互の関係を支配する」理想なのだそうです。
人間相互の関係を支配する理想とは、つまりイデオロギーです。
2、3行目を書き直すとすれば「どのイデオロギーが平和をもたらすのか、よーく考えた上で」ということになります。

4行目もうっかりすると「信頼して」と「決意した」が並立のように読めてしまいます。
しかしよく読むと「信頼して」が修飾するのは「保持し」です。

7行目も少しトリッキーです。
「平和を維持」が9行目の「思う」と並列のようにも見えますが、「平和」を維持しようと努めているのは「国際社会」です。

最後の「平和のうちに生存する権利を有する」のは「全世界の国民」です。

つまりこの段落、一見「平和」という文字の大盤振る舞いですが実は、「日本国民は主体的に平和を目指す」、という意味合いを巧妙に避けて書かれています。
日本人は、「平和をもたらすイデオロギーのもとで」、「平和を愛する人々の正義感に依存し」、「平和を維持しようとする国際社会で認められたく」、「全世界の人が平和に生存する権利を確認」する、と書いてあるのです。

こうして「憲法前文」を素直に読み解いてみると、書き手がこの時点で、日本が近い将来東西対立によって国土を二分する戦争状態に巻き込まれることも想定していたということがよく分かります。
「憲法前文」に強い意志の力を感じる人もいます。
しかしそれは平和への誓いがもたらす強さではなく、自由主義陣営の最前線に立つ覚悟が感じさせる強さだと思うのです。


(2012年7月11日)

スーパーで買い物を済ませて商品を袋に詰めていると、置きっぱなしにされたカートやかごが目につきます。

どんな人が置きっぱなしにしているのでしょうか。

いかにもな感じのヤンママでしょうか、日常ルールには無頓着なサラリーマンでしょうか、見るからにおばちゃん風の人でしょうか、あるいは意外なところで身なりのいい年配のご婦人でしょうか。
いつも回りを見回しながら品物を詰めているのですが、残念なことに置きっぱなしの現場に遭遇したことはありません。
かと言って何十分も観察し続けるほど時間のゆとりもありません。

そこで考えました。
小学生のみんな、夏休みの自由研究でスーパーのレジ観察はいかがでしょうか?
題して「本当にマナーが悪いのは誰か?」

とっても面白いと思うのですが……。

 

(2012年7月13日)

NHK学園の会場配布用のチラシができました。

医師が語る上手な病院とのつきあい方〜あなたの健康と生活を守る7つの方法

1:ぽっくり逝くのも難しい
2:病院たらい回しを防ぐ秘策とは
3:その薬、必要ですか?
4:「大病院なら安心」ウソ
5:「神の手」の危険性
6:病院とドクターを使いこなす
7:みんなだまされて賢くなった

盛りだくさんすぎるほど盛りだくさんの内容です。

第1回目は7月24日(火)14:00から
会場はフレンテ西宮4階のNHK学園西日本センターです。

 

(2012年7月18日)

羽をたたんだオスプレイの写真を初めて見ました。

何だか海の底にいる不気味な生き物みたいです。
そのうち見慣れるのでしょうか。

 

(2012年7月23日)

NHK学園、第1回目の講座が終わりました。

次回はいよいよ「その薬、必要ですか?」のテーマが佳境に突入します。
主催者には「あんまり悪口を言ってくれるな」と釘を刺されていますが、あの薬、あの健康食品、あのダイエット法、ばっさばっさと切りまくる予定です。

8月28日(火)14:00開催です。
全3回シリーズですが2回目からの受講も可能とのことです。
興味があればぜひどうぞ。

 

(2012年7月25日)

2年前にこの欄でこんなことを書きました。

8月15日になるといつも不思議に思うことがあります。
「玉音放送」と呼ばれる終戦詔書の放送です。
私の頭には、全国民がラジオに耳を傾け、互いに抱き合って涙を流しながら天皇の言葉に聞き入っている、そんな映像が強く植えつけられています。
しかしかなり(というか最高に)難解な文語文を、音質もよくないであろうラジオで聞いて、当時の人は放送の意味が分かったのでしょうか? 
ドラマや映画だと、放送を聞いた主人公が「戦争が終わった!」と叫びながら家から駆け出すシーンが続きそうですが、実際は放送を聞き終わってもみんなしばらくきょとんとして、とりあえず役場に行ってみると徐々に「戦争が終わったらしい」という情報が伝わってきた……みたいな感じだったのではないかと勝手に想像しています。
実際はどうだったのでしょう? 
おっと、そんなことはお盆で帰省した際に親に聞けばいいのでした。
今度聞いてみます。

というわけで今回両親に聞いてきました。

 

(2012年8月17日)

父は学校の校庭で、母は本家で、それぞれ大勢で放送に聞き入ったそうです。

内容が全然聴き取れなかったということと、放送のあとすぐ誰かが「戦争が終わったのだ」と解説してくれたということは、二人に共通しています。
父は「校長にはあらかじめ放送の内容が伝達されていたのではないか」と言い、母は「そんなことはないだろう」と言っている点が食い違いますが、いずれにしても天皇が自ら語りかけた、という時点で、ある程度は内容が想像できていたようです。

戦争末期の雰囲気について訊ねると、家庭から鍋を供出させられ、固いグランドを耕して芋を植えさせられた時点で、敗戦を覚悟したそうです。 
昭和20年の「鍋を取り上げられ、グランドを掘り返させられる」に匹敵するのは、今ならどんなことでしょうか。
そんな時代が二度と来ないことを祈るばかりです。

 

(2012年8月20日)

雑誌やバラエティで時々「ヘンな校則」という特集が組まれることがあります。

よく登場するのが「トイレットペーパーは○○センチ以上使ってはならない」という校則です。
手あかのつきすぎた例えで、「猫電子レンジ訴訟」と同様に、本当にあった校則なのか限りなく疑わしいです。
しかし「ヘンな校則はどうしてできるか?」を考える上ではとても分かりやすい実例だと思います。 
生徒がふざけてトイレットペーパーを投げたり、ミイラ男のようにぐるぐる巻きにしたりして遊んでいる。
それを見た教師が「そんなことをしてはいけない」とたしなめるが、生徒は従わない。
「だって、トイレットペーパーで遊ぶなという校則はないもん」。
それに対応するために、ヘンな校則の一丁上がりです。 
校則がヘンということはつまり、常識的にものごとを判断できないくせに屁理屈ばかり言う生徒が多い、ということだと思います。
だから「うちの学校にはヘンな校則がある」などと自慢する生徒を見ると、「おいおい」と思ってしまうのです。

そして、これと同じような流れを感じるのが、煙草の副流煙です。(続きます)

 

(2012年8月22日)

最近になって、副流煙の害に関する調査結果が数多く報告されるようになりました。

喫煙の喫煙者に対する害を調べるのは比較的簡単です。
それに比べると受動喫煙の害を立証するのはある意味「絶望的に」難しいです。
そんな「絶望的な」調査に、どうしてこれだけ多くの人が真剣に取り組んでいるのでしょうか。 
「ヘンな校則」と同じ動機づけが働いているように思えます。

トイレットペーパーを遊びで無駄使いするな、と注意しても言うことを聞かない生徒がいる。
だから仕方なく校則で禁止する。
煙草の煙が苦手だと訴えても、「煙くらい我慢しろ」と言われる。
だから副流煙の害を証明するかしない。

時々副流煙に関する調査の信憑性を疑う意見を目にします。
ヘンな校則の場合、悪いのは校則そのものではなく、屁理屈屋の生徒です。
副流煙に関しても同じだと思います。
本当に突っ込むべきなのは「調査の信頼性」ではなく、「そんな調査をせざるを得なくなるほど受動喫煙者を追いこんだ、喫煙者のマナー」と考えるべきでしょう。 
私には、副流煙調査を否定する喫煙者が「うちの学校にはヘンな校則がある」とふれ回っている中学生に重なって見えてしまうのです。

 

(2012年8月24日)

本を読んだり音楽を聴いたりする楽しみに、「人に迷惑をかける」という要素は含まれていません。
読書や音楽鑑賞自体が人に迷惑をかけることはありませんし、迷惑をかけるかけないでそこから得られる喜びの量に違いはありません。 
ところがいじめや車の暴走は、人に迷惑をかけるということ自体に目的があります。
人への迷惑の量が、自分の喜びに比例します。
世の中にはさまざまな種類の趣味があるのに、こういう快楽を選択せざるを得ないのは一種の精神病理的状態にあると言えます。 
問題は、「自分の趣味のためには他人への迷惑もやむなし」という考え方です。
音楽鑑賞自体が人に迷惑をかけることはないと書きましたが、電車の中でのシャカシャカ音は迷惑です。
音漏れを注意すると、大抵の人は素直に音量を下げてくれます。
音が漏れていることに気がついていなかったのです。
しかし中にはそうでない人もいます。
大音量で音楽を楽しむという快楽の前には、周囲の人たちへの迷惑などどうでもいいのです。 
この人たちの精神は、健常状態と病理的状態と、どちらに近いと言えるでしょう?

煙草の煙も全く同じです。
煙草を吸いたいから少々煙たいのは我慢してくれ、というのは病的思考過程だと思うのです。

 

(2012年8月27日)

NHK講座の第2回目が終了しました。

3回目だけの受講も可能です。よろしければどうぞ。

 

(2012年8月29日)

TV番組などで、成功者の苦労話が紹介されることがあります。

よく使われるのが「眠れない日々が続いた」などの、あまりにも手垢のつきすぎた表現です。 
そういう言葉を聞く時、頭の中で自動翻訳ソフトが働くのがよく分かります。
みなさんもこういう言葉を聞く時、無意識のうちに意味を置き替えているのではないでしょうか。
「いつもあそこの信号にひっかかる」(週に1、2回ひっかかる)
「みんなが言っている」(言っているのは自分とあともう二人、しかもその内の一人は無理やり同意させた)
「一睡もできなかった」(やや寝つきが悪かった)

こういう言葉はツッコミねらいのギャグとして使う方がいいと思います。

 

(2012年9月10日)

最近は高級ホテルのロビーも中国からのお客さんであふれています。

それはいいことだと思うのですが、マナーがもう一つなのが困ったところです。
列に並んでくれないし、並んだら並んだで後ろからぎゅうぎゅう押してくるのはどうしてなのでしょう。 
中国の人がきちんと行列のマナーを守ると約束してくれたら尖閣諸島くらいあげてもいいと思ったりもします。 

ところでCNNを見ても今回の領有権問題は全く扱われていません。
世界的視点からすれば、極東の領土争いなどカープとスワローズの3位争い程度のニュースバリューしかないのでしょう。

 

(2012年9月12日)

ここで少し脱線しますが、夏ごろ一瞬調子が良かったカープの打線がまたもやぼろぼろです。 
開幕直後は全く打てなかった若手たちが、実戦を積み重ねてコツをつかんできたのが7月。
その後対策を講じてきた各チームに若手が再び封じ込まれて、その結果での打線低迷なのだと思います。 
つまりはコーチとスコアラーの差なのでしょう。強いチームは選手が強いだけではなく、スタッフも強いんだなあ、と最近つくづく思うのでした。

 

(2012年9月14日)

以前も書いたことがありますが、歴史的真正さをどんなに訴えても国際社会は相手にしてくれないと思います。

南オセチア紛争の際に私たち自身がどう考え、どう動いたかを思い出すとよく分かります。
グルジア、ロシアのどちらの言い分が正しいかなど、私たちは全く考えませんでしたし、行動も全く起こしませんでした。

 
そもそも莫大な用心棒料を払って駐留させているアメリカだって尖閣諸島のためには一向に動いてくれないのです。
古文書を持ちだそうが、過去の条約を引っ張り出そうが、日本のために動いてくれる国があるわけがありません。

しかし世界中の一人ひとりの心を動かすことは可能です。 
気持ちを動かすのは歴史的真正さではありません。
その島を治めるのに、どちらがふさわしいか、という点だと思います。 
日本政府はまず新聞に一面広告を出しましょう。
「国家間の紛争とは関係なく、日本国内の韓国の人々の安全や活動や財産は、文明国家の尊厳にかけて守ります」と。
仮に日本が竹島を実効支配するとすれば、どう運営するかというプランも発表しましょう。
全ての動力源は自然エネルギーから得て、一切の廃棄物は投棄、焼却せず、漁場はもちろん植生や、極端に言えば虫一匹たりとも殺さない、究極の自然保護姿勢をアピールしましょう。
国権としての領土を守るのではなく、自然としての竹島を守りたい。
それには韓国よりも日本の方がふさわしい、と主張するのです。 
この方が、世界の知識層には浸透しやすいと思います。

 

(2012年9月19日)

NHK学園の講座、いよいよ明日が最終回です。 
ますます過激になる内容。
「神の手の危険性」「みんな騙されて賢くなった」などなど、盛りだくさんの内容です。 ぜひどうぞ。

 

(2012年9月24日)

NHK学園の講座、無事に終了しました。 
第2シーズンに続くそうです。
内容はさらに過激になります。
あまりに過激すぎてかえって身体に悪いかもしれません。

 

(2012年9月26日)

2年前、こういうことを書きました。

*****

真保裕一の「栄光なき凱旋」という本を読むと、戦争の悲惨さは戦場だけにあるのではないことがよく分かります。
戦争が始まったら、敵国人や敵国人の血を引いた人たちに対する差別や虐待がそこら中で起きるでしょう。
その時に、群衆の前に立ちはだかって「やめろ、この人たちに罪はない!」と叫ぶ勇気が、自分にあるとはとても思えません。
「いじめ」でもそうですが、愚かで醜い行為を止めないのは、手を貸しているのと同じです。
国内の敵国人を迫害する自分を想像するのはとても辛いです。
しかし戦争が始まれば100%私はそういう愚劣な人間の仲間入りをしてしまうのです。
できればそんな立場に立たなくてすみますように。

*****

今は少し考え方が違ってきています。
日本人はもしかすると、戦時中でも敵国人を迫害しない、誇り高い民族かもしれない。
そんなことを思ったりもする昨今です。

 

(2012年9月28日)

神戸元町ダイアリー2012年(2)100年前の有名人<main>神戸元町ダイアリー2012年(4)日本映画がダメなわけ


calendar
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< September 2012 >>
selected entries
categories
archives
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM