「罪と罰」を読む(第4部第1章)

第4部第1章(第2巻211〜245ページ)

(72)

いよいよスヴィドリガイロフの登場です。

「罪と罰」で最も謎に満ちた、しかし同時に最も魅力的なキャラクターです。
生・スヴィドリガイロフが登場するのは、物語のちょうど折り返し点ですが、その名前だけは初めの方からちょくちょく顔を出していました。
最初はラスコーリニコフの母の手紙の中です。

そこではスヴィドリガイロフはセクハラおやじとして描かれています。
破廉恥にドゥーニャに言い寄って、金にまかせて駆け落ちを迫るけれども、ぴしりとはねつけられる、哀れな中年おやじ。
もちろん母親の描写なので客観的とは言えません。
しかしセクハラの件については、スヴィドリガイロフ自身も自分の非を認めているのです。
どんなにばっさり切り捨てても、どんなにスヴィドリガイロフをひどく扱ってもいいはずです。
たとえばこんな風に。

「じっさい、スヴィドリガイロフ氏は、はじめ、あの子にとても横暴な態度をとり、食事どきにもいろいろ失礼なふるまいに出たり、もの笑いのたねにしたそうです……」

ところがなぜかそのスヴィドリガイロフの態度に母親が注釈を加えます。

「もう前々からドゥーニャにつよい恋心を寄せていて、それを押しかくすために」
「もしかすると(中略)、そういう軽はずみな野心を抱いたことを恥じ、そのことを怖ろしくも感じ」たから
「でも、もしかすると(中略)、自分のもろもろの心の秘密を他人の目から隠そうとして」、粗暴な態度をとったりもの笑いの種にしたのかもしれない、と。

このスヴィドリガイロフの心理分析はかなり興味深いです。緻密ですが、同時に近視眼的で粘着質的です。
母親プリヘーリヤに与えられたキャラクターとは相いれません。

そうです、この分析は誰かの受け売りなのです。


(2012年7月27日)

(73)

言うまでもなく、プリヘーリヤによるスヴィドリガイロフの心理分析はマルファの受け売りです。
そしてプリヘーリヤは、物事を表面的にしか捉えられない人です。

つまり「この心理分析は間違っていると思った方がいいですよ」とドストエフスキーは言っているのだと思うのです。

ドゥーニャへの思いを隠すためにスヴィドリガイロフは彼女に辛く当たった、とマルファは分析し、ドストエフスキーはそれを信じるなと言う。
「思いを隠すために」以外の理由で人が誰かに辛く当たるのはどういう場合でしょうか。
ここでスヴィドリガイロフ自身がどう言ってるか見てみましょう。
第2巻の212ページです。

要するに、わたしだって人並みに惑わされもすれば、愛することもできる(中略)、そう考えれば、なにもかもごく自然に説明されるわけですよ。で、問題がここにあるわけです。つまり、わたしが人でなしなのか、それともわたしのほうが犠牲者なのか? それでは、犠牲者とはどういうことか、ね?

そのあとに彼は「理性なんてものは、情熱の奴隷にすぎません。わたしのほうが、かえって被害者かもしれないんですよ」と続けます。
スヴィドリガイロフが「自分の屋敷で無力な娘さんを追いまわ」すようなセクハラおやじだという前提で読めば、上のセリフは単なるいいわけです。
「私が悪いんじゃない、私の邪念が悪いんだ」のような。
しかし、ここでもし、もし、スヴィドリガイロフが単に事実だけ語ったとすればどうでしょうか。


(2012年7月30日)

(74) 

ドゥーニャとスヴィドリガイロフの間に何があったのか、時間を追って見てみましょう。(ちなみに物語が進行している「今」は7月です)

昨年:

ドゥーニャがスヴィドリガイロフの屋敷に家庭教師として住みこみ始める。
スヴィドリガイロフは、はじめ、ドゥーニャにとても横暴な態度をとり、食事どきにもいろいろ失礼なふるまいに出たり、もの笑いのたねにした。


3か月前(1か月半前の6週間前):

スヴィドリガイロフがドゥーニャに駆け落ちをもちかける。
ドゥーニャはしょっちゅう便りをかわしていながら、母親にはその件については何ひとつ書かなかった。


2か月前:

ドゥーニャがスヴィドリガイロフからいろいろひどい仕打ちを受けているという話を人づてに聞いたとして、ラスコーリニコフが母親に手紙で問い合わせる。


1か月半前:

スヴィドリガイロフがドゥーニャを庭先でしきりに口説いているところをマルファに見つかる。

最初の問題は2か月前、ラスコーリニコフがスヴィドリガイロフの話を誰から聞いたかという点です。
もちろんドゥーニャ自身以外には考えられません。
しかし母親への手紙には何も書かなかったドゥーニャが、兄にだけ何かを訴えるなどということがあるでしょうか?
しかもその兄とは、洗いざらいぶちまけていたら何もかもなげうって駆けつけかねないラスコーリニコフです。
兄に対してはドゥーニャは婉曲にも触れなかったと思います。 

とすると可能性は、ドゥーニャ自身は全くそう思っていなかったけれど、周りからはひどい仕打ちのように見えた、という場合しかありえないと思うのです。
ここで「横暴な態度をとり、食事どきにもいろいろ失礼なふるまいに出たり、もの笑いのたねにした」という部分を考えます。
ドストエフスキー作品の登場人物で、確か、似た人がいました。

 

(2012年8月1日) 

 (75)

「横暴な態度をとり、食事どきにもいろいろ失礼なふるまいに出たり、もの笑いのたねに」するような人物。

そうです、フョードル・カラマーゾフです。
「カラマーゾフの兄弟」の冒頭(と言っても長い長い人物紹介のあとですが)、ゾシマとの対面の場面で見せるフョードルの破廉恥な振る舞い。
あれこそがスヴィドリガイロフの「横暴な態度をとり、食事どきにもいろいろ失礼なふるまいに出たり、もの笑いのたねにした」場面そのものだったと思うのです。

その横暴や侮辱の対象はドゥーニャではありません。
彼女の信仰であり、彼女の信ずる神です。
マルファにはそれが区別できませんでした。
彼女にはスヴィドリガイロフの態度を、ドゥーニャ自身への侮辱としか解釈できませんでした。
ラスコーリニコフの母親もマルファの判断を受け入れます。
当のドゥーニャにはそういう態度をとるスヴィドリガイロフが哀れに見えていました。
7年間、自分を罰し続ける(これについてはあとで考察しますが)スヴィドリガイロフが何かにすがろうとして、もがき苦しんでいるのがドゥーニャには分かっていました。
だからドゥーニャは彼の横暴な態度を侮辱とは受け取りません。
自分がひどい仕打ちを受けているとは思っていませんから母親に告げることもありませんし、実際、彼の悪口を言う母親をたしなめたりもします。
ただ、兄への手紙では「時に自暴自棄な態度をとる雇い主」についてうっかり書いてしまったのでしょう。
そこに漠とした不安を感じたラスコーリニコフが念のために母親に問い合わせた、という流れだとすればいろいろなことがすっきりと理解できると思うのです。 

それではスヴィドリガイロフの言う「犠牲者」とはどういう意味なのでしょうか?

 

(2012年8月3日)

(76) 

小説のこの段階では、スヴィドリガイロフがどんな罪を背負っているかはよく分かりません。
何となく想像されるのは、

彼は何かの罰に対する流刑のつもりで丸7年の間マルファの元に引きこもっていた。
そこに、しきりと神の救いを説くドゥーニャが現れる。
最初はそうした信心話を馬鹿にしていたスヴィドリガイロフだったが、やがて「これは流刑中の俺を救い上げてくれる神の使いなのかもしれない」と思い始める。
彼はついにドゥーニャにひざまずく。
彼女は態度ではスヴィドリガイロフを撥ねつけるが、時をおかずしてマルファが死ぬ。

という流れです。 
こうまとめてみると、スヴィドリガイロフがドゥーニャを追いかけてペテルブルグまで追いかけてきたのは当然だと思えます。
もしかするとドゥーニャはスヴィドリガイロフを8年の流刑から解放してくれた存在かもしれないのです。


(2012年8月6日)

(77) 

よく分からないのは213ページのラスコーリニコフのセリフです。

「なんといっても、あなたがいやなんです。あなたが正しかろうが、正しくなかろうが、とにかくあなたとは知りあいたくもない、うんざりなんです」 

スヴィドリガイロフはドゥーニャの一連の騒動の原因ですから、ラスコーリニコフがいやがるのは当然です。
しかしこの言い方は、少なくともある程度の時間接して、ある程度会話を交わした相手に対してのものです。
これまでは、顔を見た瞬間に湧きあがってきた本能的な嫌悪感が言わせた言葉と解釈してきましたが、自分でも納得できてはいませんでした。
あと、221ページのラスコーリニコフの「聞くところだと、あなたはこの町にたくさんの知り合いをお持ちだそうじゃないですか」という台詞にもひっかります。
そういう描写はないのです。 

いろいろな解釈が考えられますが、この時点ではラスコーリニコフの中でルージンとスヴィドリガイロフがごっちゃになっていたと考えれば二つとも理解できます。
ルージンとはさんざんやりあったので、もう「いや」で「うんざり」なのです。
この章ではスヴィドリガイロフがわけの分からないことをしゃべりまくります。
なぜかそうした世迷言に、ラスコーリニコフは興味を示します。幽霊のくだりでは身を乗り出しさえします。この流れは、ラスコーリニコフが最初スヴィドリガイロフに対して「嫌悪・拒絶」を感じていたと考えると、かなり不自然です。
「嫌悪・拒絶」ではなく、「無関心」からスタートしたと考えると、図式的にぐっと見通しがよくなります。

 

(2012年8月8日)

(78) 

面白いのは217ページのスヴィドリガイロフの言葉です。 

マルファとの7年間の結婚生活で、鞭を使ったのはたった3回だと彼は言います。
最初は結婚して2か月後、田舎に着いてすぐでした。もっとも単純に解釈すれば、勝手に田舎に連れて来られたので腹を立てたからでしょう。
しかしその後彼は村から一歩も出ません。
腹は立てたが運命は受け入れた、と読めます。
二度目は、時期は書いてありませんが「特殊なケース」だそうです。
鞭を用いる特殊なケースというのがどういうものか、私にはよく分かりませんが、DVの範疇には含まれない「特殊なケース」だったのでしょう。
三度目が今回です。
理由は明らかです。マルファがドゥーニャにルージンを紹介したからです。 
伝聞と本人の冗談めいた言葉から想像されるスヴィドリガイロフのキャラクターは、暴力的で淫蕩な堕落貴族風です。
しかし本人の言葉をよく吟味してみると、彼は実は理性的で抑制的です。
言葉遣いは自堕落だが、内容はかなり計算されている。
このあたりの描写力は、ドストエフスキー、さすがだと思うのです。

 

(2012年8月10日) 

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