神戸元町ダイアリー2012年(2)

昨日の爆弾低気圧には驚かされました。
暴風雨にもびっくりしましたが、もっと驚いたのは前の日に天気予報で「台風並みの嵐になる」と言っていたことです。

気象のプロだから当たり前なのかもしれませんが、予報士は気圧配置図を見ただけで「すごいのが来る」と分かっていたわけです。
そういう時、予報室(というのがあるのかどうか知りませんが)はどんな雰囲気なのでしょう。

「チーフ、見てください。とんでもないのが来そうです!」
「おい、ウソだろ。観測計エラーじゃないのか」
「何べんもやり直したんですが、間違いないです」
「まさか、こんなの見たことないぞ、これは最悪だ。至急各方面に連絡っ!」

という風に緊迫しているのでしょうか? それとも

「明日は嵐になりそうです」
「ほお、この時期には珍しい。でも花見の前でよかったな」
「そう言えば土曜日の花見、やっぱり僕が場所取りですか?」
「仕方ないだろ、今年は新採用ないんだから」

という風に普段のノリなんでしょうか?

 

(2012年4月4日)

ちょっと前にこの欄で取り上げたのですが、ロアルド・ダールの「オズワルド叔父さん」という小説があります。
内容はお下品で軽い、大人向けファンタジーなのですが、その中に有名人一覧表が出てきます。
1919年の時点での有名人で、将来もネームバリューが保てそうな人々、を1980年のロアルド・ダールがリストアップしたものです。
知っている人もいるし、知らない人もいます。
社会勉強がてら書き写してみます。全48人のうち、まず12人。

アレクサンダー・グラハム・ベル
電話の発明者ですね。

ピエール・ボナール
確か画家ですよね。画像検索すると、そう言えばこの絵は見たことがあるような。


ウィンストン・チャーチル
第二次大戦中のイギリス首相。

ジョゼフ・コンラッド
作家。この間「ロード・ジム」を読みました。

アーサー・コナン・ドイル
名探偵ホームズ生みの親です。

アルベルト・アインシュタイン
「相対性理論」の科学者。

ヘンリー・フォード
自動車の大量生産システムを作った人。

ジグムント・フロイト
今全集を読んでいるところです。「精神分析学」で有名な精神医学学者。

ラドヤード・キプリング
詩人でしたっけ? 調べてみると「ジャングル・ブック」の作者でもあるようです。あまりよく知りません。

デイヴィッド・ハーバート・ローレンス
初めて聞く名前です。と思ったら「D・H・ロレンス」のことでした。「チャタレー夫人の恋人」の作者ですね。

トマス・エドワード・ローレンス
こちらも初めて聞きました。と思ったら「アラビアのロレンス」のことだそうです。
恥ずかしながらこの映画は観ていないのです。アラブの解放運動を指導した人でしたっけ?

ウラジミール・イリッチ・レーニン
ロシア革命の指導者、ソ連の創設者。

 

(2012年4月6日)

トーマス・マン
小説家、「魔の山」が有名です。

グリエルモ・マルコーニ
初めて聞く名前です。無線通信の開発者だそうです。

アンリ・マチス
画家ですね、この絵が一番有名でしょうか。


クロード・モネ
「睡蓮」の絵ですね。


エイドヴァード・ムンク
普通はエドヴァルドと表記されます。やっぱり「叫び」でしょう。


マルセル・プルースト
超長篇「失われた時を求めて」の作家です。

ジャコモ・プッチーニ
「トスカ」、「蝶々夫人」で有名なオペラ作曲家。

セルゲイ・ラフマニノフ
甘いメロディーの「ピアノ協奏曲第2番」が代表作でしょうか。

オーギュスト・ルノワール
70年代からあと、最も人気があった画家ではないでしょうか。

今はもしかするとフェルメールに首位の座を譲ったかもしれませんが。

ジョージ・バーナード・ショー
多方面に渡る評論は有名ですが、代表作はと訊かれると思い浮かびません。
「ピグマリオン」という小説はミュージカル「マイ・フェア・レディ」の原作だそうです。

ジャン・シベリウス
フィンランドの作曲家。「フィンランディア」が最も有名でしょうか。

リヒャルト・シュトラウス
個人的には大好きなオペラ作曲家です。
しかし一番有名なのは「ツァラトゥストラかく語りき」のオープニングだと思います。

 

(2012年4月9日)

イゴール・ストラヴィンスキー
「春の祭典」が代表作です。
聴き手にとっても演奏者にとっても難曲の代名詞でしたが、今ではすっかりポピュラー名曲になってしまいました。

ウィリアム・バルター・イェーツ
バルターはバトラーの誤りです。
詩人、というところまでは知っているのですが、読んだことはありません。

ローアル・アムンセン
ロアルド・アムンゼンという呼び名の方が通りがいいかもしれません。
初めて南極点に到達した探検家です。

ジョルジュ・ブラック
画家。こんな絵を描く人です。


エンリコ・カルーゾ
カルーソーですね、テノール歌手です。

パブロ・カザルス
チェリスト。バッハの無伴奏組曲を現代に蘇らせた人です。

ジョルジュ・クレマンソー
初めて聞く名前です。第一次大戦中のフランスの政治家だそうです。

フレデリック・ディリアス
作曲家です。大学時代の友人が好きでしたが、私はよく知りません。

マレシャル・フェルディナンド・フォッシュ
全く聞いたことがありません。第一次大戦で連合国を勝利に導いた軍人らしいです。

モウハンダース・ガンジー
マハトマ・ガンジーのことですね。非暴力主義で知られるインド独立の立役者です。

サー・ダグラス・ヘイグ元帥
第一次大戦中のイギリスの軍人だそうです。

ジェイムズ・ジョイス
アイルランドの小説家。「ユリシーズ」が代表作でしょうか。
20世紀の小説家ベスト10を選ぶと必ず上位に入ってくる人です。

 

(2012年4月11日)

ワシリー・カンディンスキー
画家です。一時期クリニックの待合室にもポスターを貼ってました。


デイヴィッド・ロイド・ジョージ
多分政治家でしたね、調べてみると第一次大戦中のイギリス首相でした。

ヴァツラフ・ニジンスキー
バレエダンサー、振付家。前回登場した「春の祭典」の初演時の振り付けを担当したそうです。

ジョージ・パーシング将軍
軍人関係は疎いです。第一次大戦中のアメリカの軍人だそうです。

パブロ・ピカソ
説明は不要ですね。


モーリス・ラベル
作曲家。一番有名なのは「ボレロ」でしょう。

バートランド・ラッセル
哲学者だったような気がしますが、どういう考え方の人かはWikipediaを読んでもよく分かりません。

アーノルド・シェーンベルク
作曲家。いわゆる前衛の人です。代表作といって人に薦められる曲があるのかどうか……。

ラピーンドラナート・タゴール
全く知りませんでした。インドの詩人、思想家だそうです。

レヴ・ダヴィダヴィッチ・トロツキー
ロシア革命に関係した活動家だと思います。
調べてみると革命時にはレーニンの右腕的存在として活躍、レーニンの死後は失脚して亡命したそうです。

ルドルフ・ヴァレンチノ
初代イケメン俳優。

若くして死んだ時にはファンの後追い自殺もあったとのことですが、真偽のほどは定かではありません。

ウッドロー・ウィルソン
1919年の時点のアメリカ大統領だそうです。
アメリカ大統領なら名前くらい聞いたことがあるかと思いましたが、印象の薄い人もいたようです。

100年前の有名人48人を取り上げたわけですが、芸術家はほぼ今も名声を保ち続けています。
軍人はネームバリューの賞味期限が短め、政治家、思想家は「革命」や「独立」に絡むと名前が残りやすいようです。
名前を残したければまず芸術家を目指せ、という結論でした。

 

(2012年4月13日)

1919年の有名人を見て何となく感じることがあります。

社会の硬直度の問題です。

金持ちの子どもしか金持ちになれない、というのが硬直した社会です。
その問題についてはこの欄でも何度も取り上げてきました。
福祉の仕組みは進歩しているはずなのに、なぜか格差が進み、今や学力にも健康にも所得による格差が進んでいます。
そしてこれまでであれば親の所得には関係なかったはずの種類の職業選択にも格差が生まれつつあります。

たとえばスポーツです。
私と同世代であればまだ一発大逆転はありました。
近所の空き地で野球ごっこをしていたそこらへんの子どもが、何となく受かった高校で野球を始めて、甲子園で大活躍してプロ野球の選手になる、などということがまだ普通だった時代です。
ところが今や小学生の頃から毎週のように試合をして、中学になれば遠征試合をして、高校は野球留学です。
お母さんも休日のたびにユニフォームを整えて、チームの食事の手配をして、応援をして、これはもうある程度裕福で生活にゆとりがないとできないことだと思うのです。

サッカーでもゴルフでもフィギュアスケートでもそうです。
本来は格差逆転の定番コースであったはずのスポーツでも、最近は「成り上がる」ことが難しくなってきました。

 

(2012年4月18日)

そしてまさかまさか、芸能界にも経済格差の波が押し寄せてくると思うのです。

スポーツ選手と同じく、芸能人を目指すには小さい頃から歌やダンスのトレーニングや全国股にかけてのオーディションが必要という事情もあります。それとは別に今後予想されるのが、容姿格差です。
親の所得と子どもの容姿とは関係がない、というのがこれまでの常識でした。
ところが所得の違いが3世代に渡って広がり続けるとそうも言っておられなくなってきます。
傾向として、他の条件が同一であれば、女性は所得の高い男性を選び、男性は見栄えのいい女性を選びます。
もちろん中には金銭的なことに興味のない女性もいますし、容貌に関心のない男性もいます。
しかし仮に適齢期人口の55%にその傾向があるとすれば、3回分積み重なると歴然とした差を生んできます。

この仮説に従えば、そのうち偏差値の高い大学の学生は美男美女ばかりになるでしょうし、アイドルグループの親の所得が平均値をかなり上回る時代になるでしょう。

 

(2012年4月20日)

ここで話題が1919年の有名人リストに戻ってきます。

革命が身近にあった時代であれば、政治家も「成り上がり」の可能性の高い職業でした。
しかし今(少なくともマスコミに)求められているのは、クリーンで失言の少ない政治家です。
激しい自己主張よりも党内融和が第一とされます。
また、本来政治家とは最大多数の幸福のために自分と自分の支持者の主義主張を微調整していく存在だと思うのですが、「ブレない」ことが求められます。
それはつまり「最初から何も主張しない」ということです。
マスコミによると、どうやら私たちが求めているのは官僚的政治家らしいです。
とすれば所得の低い人が政治家になるのもかなり困難そうです。

軍人として成り上がるということ自体が日本では憲法違反ですから、軍人と言う選択肢は問題外です。
とすると日本で所得格差が挽回できるのは格闘技系のスポーツと芸術だけということになります。
自由競争主義をベースに、結果的に落ちこぼれた貧困層を福祉で助けるという仕組みは、理想的で合理的に思えます。
しかし現実には格差は広がる一方です。
この考え方にはどこか間違っている部分があるということなのでしょう。

いずれにせよ間違いないのは、日本が「自由主義」という旗を掲げているにも関わらず、平安貴族社会よりも江戸武士社会よりも硬直した社会に向かっているということです。

 

(2012年4月23日)

発展途上国を援助するにはいくつかの段階があります。

手っ取り早いのは食料品や医薬品を直接届けることです。
物資が人々に届いてからの効果は最も確実ですが、貧困の構造を変えることはできません。
ODA利権商社や現地特権階級による中間搾取も問題です。
次のステップは産業を輸出することです。時間はかかりますがその国の経済的自立を助けるにはいい方法です。
劣悪な労働条件や公害が問題となります。

人々の自立を促すには教育が必要です。
第2のステップよりもさらに時間がかかりますが、ここで獲得された自立こそが真の自立です。
全ての人々が分け隔てなく教育を受けられるようにすること、これは援助の方法でもあり、最終目標でもあるわけです。

ここで日本のセーフティーネットについて考えてみると、生活保護は上記の第1段階に当たります。
ハローワークなどの就業支援は第2段階に相当します。
問題は第3段階です。

 

(2012年4月25日)

建前では日本は中学まで義務教育です。
実際には多くの子どもたちが中学卒業程度のレベルに達しないまま社会に放り出されます。

学力をカバーできる特殊能力がある人ならいいと思うのです。
しかしこれまで考察してきたように、その能力のジャンルははなはだ限られています。
ほとんどの人は、基礎学力抜きに現場の技能だけを教え込まれて社会に出ることになります。
こうした上っ面の技術には応用力などありません。
歯車になって単純作業に甘んじるしかありません。

単純作業に耐えられない人もいます。
そうした人は社会の仕組みからこぼれ落ちるしかありません。
労働の意欲も技能もないまま福祉に頼り続けるか、犯罪の道に進むか、です。

こう考えると最低限の学力を与えないまま中学を卒業させることが、どれだけその人の可能性を損なっているかよく分かります。
橋下大阪市長が小中学の留年制度について言及して、一部の反発を受けていました。
しかし人生は中学を卒業してからの方がはるかに長いのです。
留年させるとプライドが傷つくから、などという感傷的発想で子どもの未来を奪ってはいけないと思います。

格差を拡大させないためには新しい学力補填システムが必要です。
子どもの気持ちが気になる人は、そこで子どものプライドを傷つけないような方法をいくらでも考えればいい。
しかし何らかの強制力は絶対に必要です。
強制力のない学力のばらまきは格差を広げる一方です。

子どもの人権について声高に叫んでいる人が、私には「子どもが嫌がるからチャイルドシートに乗せない親」や「子どもが泣くから予防接種を打たせない親」に重なって見えてしまうのです。

 

(2012年4月27日)

橋下改革によって大阪市音楽団が廃止の危機に瀕しているそうです。

実は私もこのニュースに接するまで大阪音楽団というものの存在を知らなかったのですが、調べてみても大阪市音楽団が一体どういうものなのかよく分からなくて困っています。
歴史と実力を兼ね備えたプロの吹奏楽団らしいのですが、公務員という身分でもあるらしいです。
36人のメンバーが年に100回近くコンサートを開いて、それに対して大阪市が4億3千万円の補助をおこなっている……、どうもそれ以上の情報が伝わってきません。

メンバーが公務員であれば4億3千万にはメンバーの人件費が含まれないことになりますが、そんな根本的な大前提も与えられないまま私たちは情報砂漠に放り出されているわけです。
橋下サイドから与えられた情報だけを垂れ流して、追加取材を全くしていないマスコミも最低ですが、楽団員から必要経費についての説明がないのも不思議なところです。

 

(2012年5月7日)

一連のニュースに接してまず強烈に感じたのは、芸術家に公務員という身分はそぐわないのではないか? という違和感です。

教師として雇用して、教育活動以外に自主的な演奏活動も認める、というやり方なら理解できます。
しかし演奏者としての雇用となると話は別です。
スポーツ選手にありえないのと同様に芸術家にも終身雇用などありえないと思います。
自治体が演奏団体を運営するなら、メンバーは数年契約での採用として、契約更新時にはオーディションを行うべきでしょう。
メンバーは一方的な解雇に抵抗するためにユニオンを組織しなくてはなりません。
この「厳しいオーディション」VS「ユニオン」という対立構造が、芸術団体における最も真っ当なシステムだと思います。
実のところ、大阪市音楽団がどういう雇用形態を取っているのか分かりませんが、それ以外にも事務方のトップにどこかの訳の分からない天下りが就いていないか、とか、4億3千万は一体何に使われているのか、とか大切な情報が全く出てきていません。
意外と大阪人はお金に無頓着のようです。

ここで思いついたのですが、共産主義の下での芸術家、スポーツ選手の雇用はどうなっているのでしょう。
いかに共産主義とはいえ、ムラヴィンスキーがレニングラードフィルのメンバーの安定雇用を容認したはずがないし、キューバの野球選手でも終身雇用など絶対にありえないでしょう。
共産主義国家でも取らなかったような雇用形態は、日本でも採用しない方がいいと思います。

 

(2012年5月9日)

今年から広島カープを応援することにしたのですが、ひいきの福井投手は四球連発で2軍落ち。
打線も振るわず、好投を見せる投手陣を何度も見殺しにして現在5位と低迷中です。

しかし考えてみれば当たり前の話です。戦力が全く違うのですから。
チーム打率を見るとドラゴンズとの差は3分。
打率がこれだけ違うと1試合当たりの得点も1点近く変わってきます。
勝つためにはチーム防御率でそれ以上の差をつけなければなりませんが、逆に1点差をつけられているのが現実です。
打率も防御率も気合いや根性でどうなるものでないし、貧乏球団ですから補強もままなりません。

伸びる余地があるのはピッチャーの打率だけだと思います。
ピッチャーはもともと運動神経がいいはずです。
真剣に打撃練習をすれば打率を1割台に乗せられるのではないでしょうか。
もし1割台の後半までアップできればチーム打率で上位3チームに食い込むことも可能です。

144試合も戦うのですから最終順位はデータを忠実に反映するはずです。
データ的には今のカープに監督の采配や打順変更でどうにかなるようなチーム力はありません。
せめてピッチャーの打率を1割台にしてチーム打率を1分アップしてから出直して欲しいと思います。

 

(2012年5月11日)

ヴェーベルンという作曲家がいます。

作品番号1番の曲が書かれたのが1908年。ドイツを占領していたアメリカ兵に誤って射殺されたのが1945年。
この38年の間に書かれた番号付きの作品が31曲という、超寡作の作曲家です。

ヴェーベルンの特徴を3つの言葉で表すとすれば「無調」「静寂」「短い」だと思いますが、作品番号1の「パッサカリア」はまだ後期ロマン派の香りを残した、長さも10分程度の「普通」の曲です。
ブラームスの交響曲第4番の終楽章を枝から腐り落ちる直前まで熟成させたという感じでしょうか。
初めて聴いた時には容赦のない不協和音に耳を覆いたくなりましたが、よく聴くと複雑に絡み合ったメロディーが重なって刺激的な響きを作り上げているのでした。
阿鼻叫喚の中で、ある者は笑い、ある者は嘆き、ある者は歌い、ある者は叫んでいるような。

技術的な話になりますが、こうした曲の場合全ての音形を旋律として弾かなくてはなりません。
しかしヴェーベルンの楽譜はエキセントリックな跳躍やハイポジションでのアルペジオだらけで、メロディーとして弾きこなすのはかなり難しいです。
美しさへの共感でもって技術的な難度をどれだけ乗り越えられるか、というのがこの曲を演奏するポイントになると思います。

そんな「痛いほど美しい」曲の実演がこちら。5月19日大阪シンフォニーホールで19時からです。

 

(2012年5月14日)

19日のコンサートのプログラム2曲目はリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン〜23の独奏弦楽器のための習作」です。

「習作」とありますが、書かれたのは作曲家が81歳の時です。
オーケストレーションの天才リヒャルト・シュトラウスが自らの作曲技術の進化、深化を待って、満を持してモノカラーの楽器編成に挑んだ「習作」と考えるべきなのでしょう。

23段のスコアは壮観ですが、見ているとリヒャルト・シュトラウスがそれぞれのパートを特定のプレーヤーにあて書きしていることが分かります。
どのオーケストラの誰を思い浮かべて書いたのか気になるところですが、間違いなく言えるのは23人のプレーヤー全てに高い技術が要求されるということです。
メンバー間の力量の差が大きいアマチュアオーケストラ向きの曲ではありません。
スリリングな演奏になるのは確実ですが、曲の最後、20分頃からの静かな部分は心落ち着けて味わってほしいと思います。
チェロのシンコペーションの、はるか上空を舞うヴァイオリンのメロディ。

滅びていく何か巨大なるものを悼む、あまりに切ない鎮魂曲です。

 

(2012年5月16日)

19日のコンサートのメインプログラムはショスタコーヴィチの交響曲第5番です。

これは文句なしにかっこいい曲です。
第1楽章の血沸き肉踊る展開、第2楽章のエスプリに満ちたユーモア、第3楽章の厳しい抒情、そして終楽章の怒涛の迫力。
クラシックを聴き始めの頃は、この曲がこの世の中で一番かっこいい曲だと思っていました。

昨年の佐渡裕のベルリンフィルデビューでの演目でもあります。
佐渡裕のダイナミックな指揮に応えて、ベルリンフィル奏者たちがゴリゴリに弾きまくっていました。
世界ナンバー1のプレーヤーたちが世界一激しく弾いているのです、それだけで号泣モノでした。
私を含めてアマチュア音楽家が「情熱ではプロに負けない」などとうそぶくこともありますが、ウソです。
世界一のプロはやっぱり世界一の情熱を持っているということがよく分かる演奏でした。

おっと、これでは演奏会の宣伝になりません。
ショスタコーヴィチの第5番、とことんかっこいい曲です。

 

(2012年5月18日)

日食を見ると思うのですが、どうして太陽と月の見た目の大きさは同じなのでしょう。

いろいろ調べてみましたが、月の質量や地球と太陽の重力の釣り合いなどから導かれる物理的必然、というわけではなさそうです。
答えは「たまたま」ということのようですが、地球に最も大きく関係する二つの天体の見た目がほとんど同じという偶然が、私にはものすごく気持ち悪いです。
気持ち悪いことはもう一つあって、日食が終わっても月は太陽のすぐそばにいます。でもそれが全く見えないのです。
太陽がまぶしすぎるから、という理由で自分を納得させようとするのですが、どうしても上手く説得し切れません。
昼間に星が見えないのはまだぼんやりと理解できます。でも月は太陽の手前にあります。
太陽がまぶしければまぶしいほど逆光で真っ黒になりそうにも思うのですが、そこに浮かんでいるはずの直径3,500キロの巨大な物体が全然見えないという現実が、これまた気持ち悪くて仕方ありません。

 

(2012年5月21日)

いろいろ考えてみると何となく分かってきたことがあります。

私たちがてっきり宇宙だと思って眺めている「青空」は、地表30キロをおおっている大気の色なのだと思います。
夜、部屋の中から外を見ているつもりなのに、実は見えているのは窓にかかっているカーテンだった、というのと同じです。
太陽は明るさが強力なのでカーテン越しに見えますが、星や月の陰の部分は見えません。
部屋を暗くして外の方が明るくなるとカーテンの向こう側の景色が見えてきます。
それと同じ現象が「夜空」です。

ただ、これですっきりするかと言うとそうでもありません。
まず、部屋の例えに従えば、部屋を明るく照らしているのは室内の照明です。
しかし昼間、地球を照らしているのは大気の外側の太陽です。
光源がカーテンの外側にあるのに、部屋の外よりも中の方が明るいという現象が起きているわけです。
大気が光を散乱しやすく、大気中に光が満ち溢れている状態だとすれば少しは納得できるかもしれません。
しかしそうなると今度は、そんなカーテンをどうして微弱な星の光が透過できるのか? という疑問が湧いてきます。

 

(2012年5月23日)

光源が部屋の外にあるのにどうして部屋の中の方が明るいのか? という疑問に対しては「太陽が超絶的に明るい」というのが答えになりそうです。
日光が30キロの大気の層を通過する時にどれくらい減弱するかというのは、光の波長によって減衰率が極端に違うために、一概には言えないようです。
減弱したものの一部は宇宙空間にはじき出され、一部は空気の分子に熱を与え、また一部は散乱します。
仮に1%が散乱すると仮定しましょう。
日光の1%が空気分子に当たって向きを変えます。
さらにその1%が進路上の空気分子に当たって向きを変えます。
この反射を3、4回も繰り返せば光は「最初とは全然違う方向から飛んでくる」状態になると思います。4軒もはしごするとどの店で飲み始めたか分からなくなるのと同じです(?)。
つまり「昼」というのは、「直射日光の100万分の1から1億分の1の明るさが空のあちこちから降り注いでいる状態」と言えると思います。

月は太陽の40万分の1の明るさだそうです。星は1000億分の1だそうです。
とすると昼間、星が見えないのは当たり前です。散乱している日光の方がはるかにまぶしいですから。
しかし月は散乱光よりやや明るいので昼間でも見ることができるわけです。

物体が逆光で黒く見えるのは、背景が明るいからです。
宇宙空間から新月を見ると、満天の星を遮る丸い陰として見えるはずです。
しかし地球上から見ると、散乱光のまぶしさのせいで「満天の星」自体が見えません。逆光の月は全く見えなくなるわけです。

 

(2012年5月25日)

ふと思い出しました。

高校の頃、物理の先生が「はるかかなたの星が見えるのは、光が波ではなく粒子だから」というのを数式を使って説明してくれました。
今となってはどんな数式だったのか全く思い出せません。
普段は怖い先生でしたが、その証明の時だけ嬉しそうだったのを憶えています。
物理や数学の授業は、今だったらもっと面白く受講できそうな気がします。

国語もそうです。
担任の先生は教科書は無視して、自分が最高だと認める文章だけ選りすぐって教材として与えてくれました。
「銀の匙」の橋本先生はもちろんすごいですが、授業のたびに最高の作品を見せてくれた、その先生の引き出しの多さにもびっくりです。
しかしそのすごさは高校生の私には分からなかったのでした。 
仮に今、私が高校生に国語を教えるとすれば、どの作品を教材に採用するでしょうか。
1年間に30回授業があるとして、評論、短詩形文学、戯曲、小説というジャンルから何をどういう風に選ぶでしょうか。 
これはいい暇つぶしになりそうです。

 

(2012年5月28日)

具体的に考え始めると、自分の文学の知識が偏っていることに気づかされます。

小説は多少分かりますが、それ以外のジャンルについてほとんど知識がないことに自分でびっくりしています。 
詩はいっさい分かりません。
戯曲は日本人では三島しか読んだことがありません。
評論も多少でもコメントできるのは小林秀雄と吉田秀和くらいでしょうか。

と思っていると吉田氏死去のニュースが飛び込んできました。
氏の「LP300選」はクラシック初心者にとってはバイブルのような存在でした。
私も最初のうちはディスクを買う時はこの本を読み返して曲や演奏者を選んだものです。
この本をいちいち開かなくなった時が、一人前のクラシックファンになった時だったような気がします。
とは言え、いまだに吉田氏の演奏評は気になります。他の評論家のレビューは全く気にしませんが、やはり氏は別格です。

しかし思うのです。
それでは吉田秀和の文章を教材として取り上げる時に、彼の著作の中から、氏に特徴的で、しかも最高級の文章で、論理的にも面白い、そういう箇所をプリント1枚に収まる分量で取り出せる力量があるかと自問すると、私にはありません。
優れた文学者を30人リストアップするのは比較的簡単です。
しかし教材として文章をピックアップするには、それとは全く別次元で別水準の能力が必要です。

国語教師とはとんでもなく大変な仕事のようです。

 

(2012年5月30日)

毎年読んだ本の数を一応数えています。

1か月に1冊しか読めないこともあったりするのに、1年を通すと毎年ほぼ110冊です。 
20年間ずっとこの値ですから、今後もずっとこのペースなのでしょう。 
そこでふと思いました。あと何年本が読めるのか分かりませんが、今後私が読めるのはせいぜい3、4千冊なのです。
ペースが決まっているというのは、読める本の数も決まっているということなんですね。
もしかするとペースなんか知らない方がよかったのかも知れません。

 

(2012年6月8日)

小さい頃、近所に駄菓子屋があって、そこでよくくじを引いていました。
1回5円で、当たると大きくて美味しそうなお菓子がもらえて、はずれると小さな飴玉しかもらえない、そんな仕組みでした。
当時お小遣いが1日10円で、くじを2回引くのが毎日の楽しみでした。

ある日、その店に行ってみると、一等賞のお菓子が残っているのに、くじも10枚くらいしか残っていません。
あわてて家に戻って小遣いを1週間分前借りしてまた店に戻りました。
わくわくしながらくじを1枚ずつ引きました。
ところが最後の1枚を引いても一等くじが出てきません。 
呆然としていると、駄菓子屋のお婆さんが「これを引いてごらん」と、引き出しからくじを1枚出してくれました。
めくってみると「1等賞」です。 
とっても嬉しくなった私は「ありがとう!」と素直に感謝して家に帰ったのでした。

この45年でいろいろ素直な気持ちを失ってしまったものよ、というお話でした。

 

(2012年6月13日)

生レバーが食べられなくなってしまいます。

実は小学生のころはレバーが苦手で、給食に出るとずっと居残りでレバーとにらめっこさせられていました。
それがある時ふっと美味しいと思うようになり、焼肉屋では欠かせないメニューとなりました。
生レバーを美味しいと思うようになった時には、大人になったような気がしたものです。

ところで今回のニュースを聞いて誰もが思う疑問は、牛肉「生産」「卸」「小売」「飲食店」」というかなり大きな規模を持つ業界が、どうして政治的影響を及ぼすことができなかったのか、という点だと思います。

製造業の鍵を握る電力会社に政治がひきずられるのは分かります。
現実に多くの健康被害者を出しているタバコだって、税収によって財務省を取りこみ、広告費によってマスコミを取りこみ、事実上放置状態です。 
放射線やタバコに比べてリスクが高いとは思えない生レバーを規制することに対して、どうして業界として反論しないのでしょうか? 
と、ここまで書いて思い到りました。
食肉に関して、規制と業界からの反発という構図がもう一つありました。

そう、BSE問題で厳しくなった牛肉輸入条件を緩和しようとするアメリカからの圧力です。 
もし、日本の業界がその気になれば生レバーのリスクなど「自己責任の範囲内」で封じ込めることは可能だったと思います。
ところがそうなると今やリスクがほぼ0となっているアメリカ牛と正面から戦わなくてはなりません。
それならば生レバー程度はあきらめよう、と考えたとすれば今回の業界の沈黙は理解できます。
仮にそうだとすれば、我々から生レバーを奪ったのは「リスクを恐れる国」ではなく「アメリカを恐れる業界」だったということになってしまいます。

肉食人種としてはちょっぴり悲しい事態です。

 

(2012年6月15日)

ずいぶん久しぶりにシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を読み返してみました。 

ジュリエットがものすごく若いとか、展開がジェットコースター並みとか、何となく印象としては残っていたのですが、今回はその部分をもっと具体的に把握したかったのです。 
まずジュリエットは「あと2週間余りで14歳」です。
父親が「花嫁となるには2年ほど早い」と言うシーンもありますので、当時としてもかなり若い設定だったようです。
二人の死にいたるまでの時系列はどうでしょうか。

日曜日の夜:舞踏会で出会う。深夜には有名なバルコニーの場面。
月曜の午後:ロレンス修道士の立ち合いで結婚。その直後ロミオはティボルトを殺してしまう。
動揺する二人だが、その夜を共にする。
火曜の早朝:ヴェローナから追放されたロミオはマンチュアに逃亡。
ロレンスから偽装自殺の計画と仮死薬を授かったジュリエットは、深夜に服薬。
その効果は42時間。
水曜の朝:ジュリエットの葬儀。偽装自殺の計画を伝えるはずの伝令はアクシデントでロミオに会えず。
木曜の夜:ジュリエットの死を聞いたロミオはヴェローナに駆けつけ、自殺。
夜、仮死から冷めたジュリエットもあとを追う。

最初の3日間のドストエフスキー的凝縮ストーリーに比べると、水、木はやや間延び(!)していますが、それでも出会ってから5日目での心中なのでした。

 

(2012年6月18日)

このタイムテーブルも不思議です。

第5幕第1場、ロミオがジュリエットの死を知らされる場面は、普通に読めば水曜日の出来事のように思えます。
しかしロミオがそこから毒薬を手に入れて早馬でジュリエットの墓に駆けつけたのが木曜の夜。
マンチュア(今のマントヴァ)からヴェローナまで馬だとせいぜい数時間です。
そう考えるとこの場面は木曜日でないと辻褄が合いません。
火曜の未明から木曜の昼まで、丸々二日間、ロミオについての描写がないことになります。 
ジュリエットは水曜の朝から木曜の夜まで「死んでいた」わけですから描写がないのは当然としても、「ロミオとジュリエット」には水曜の午後から木曜の午後にかけての描写がすっぽりと抜け落ちています。

ジュリエットとパリスの結婚式を最初から水曜日に、薬の効果を24時間に設定しておけばいろいろなことがすっきりしたと思うのです。
そんなことはシェイクスピアも分かっていたはずです。
ところが彼はそうしなかった。 
その作劇意図がよく分かりません。

 

(2012年6月20日)

作劇上の意味が分からないと言えば、もっとも分からないのはロミオの惚れっぽさです。

第1幕第1場。ロミオは恋に悩みながら登場します。
お相手はキャピレットの姪、ロザライン。
実はロミオがキャピレット家の舞踏会に忍び込んだのは、ロザラインが目当てだったのでした。
ところがそこでジュリエットと出会い、たちまち乗り換えてしまいます。 
翌朝ロミオから結婚の相談を受けた修道士ロレンスは呆れます。 
「驚いたものだ、なんという気の変りようだ、かわいいロザラインをあれほど思いつめていたに、もう忘れたか」

私はロミオとジュリエットの純愛に疑いを差し挟むつもりはありませんが、もしかするとシェイクスピア自身はロミオの恋を冷めた目で見ていたかもしれません。

 

(2012年6月22日)

最近街を歩いていて困るのが、人の流れに乗らず、左右にふらふらと揺れながら歩いている人々です。

そう、スマホを操作しながら歩いている人たちです。 
ゆっくり歩くこと自体はいいのですが、追い越すのが難しいのが困りものです。
たとえば道路の右寄りを歩いている人を追い越そうとする場合、当然左からアプローチします。
ところがこういう人たちは画面に専念するために、無意識に自分の左右のスペースを同程度に広めに取ろうとします。
右よりも左の方がスペースが空いていると感じると、その人は無意識に左に寄ってくるのです。
こうして「ゆっくり歩いているのになぜか追い越しにくい」という現象が発生してしまうわけです。

スマホは便利だと思うのですが、スマホウォーカーのせいで経済の0.5%くらいは損しているのではないかと思ったりします。

 

(2012年6月25日)

その言葉を使ったらその専門家は信用できない、そんな言葉があります。

前回のコラムで使おうと思ってあやうく思いとどまった「経済効果」という言葉も、そうです。 
1985年のタイガース優勝の頃から使われ始めたと思うのですが、実態を伴わないにもかかわらずワイドショーなどでは扱いやすいのでしょう。なかなか消滅してくれない言葉です。

「ここは大事な場面です」という野球評論家も信用できませんが、野球評論家については話し始めると切りがないのでやめておきましょう。

闘病記などでは「余命○か月と言われた」というくだりをよく目にしますが、現実にそういうことを言う医者がいるとは信じられません。
同業者としては、病状を丁寧に説明しようとして用いた表現が誤って伝わった、と信じたいところです。
もし無思慮に「余命」などと言う言葉を使う医者がいるとすれば、即刻主治医を替えた方がいいと思います。

 

(2012年6月27日)

消費税アップの法案が衆議院を通過した日、TVや新聞が第一に報道したのは小沢氏と造反議員の動向でした。

「国民の生活をほったらかしで権力争いに興じる政治家たち」を批判する論調だったと思います。 
しかし消費税増税に関して私がまず知りたいのは「いつから、どれだけ上がるのか」と「どれだけ生活に影響があるのか」の2点です。
ところが肝心の法案の内容の説明は「小沢氏関連」の報道のあとでした。
「国民の生活をほったらかしで権力争いに興じる政治家たち」を国民の生活をほったらかして追いかけるマスコミ、という図式のようです。

私は民主党の分裂を「政局ではない、政策による政界再編」への一過程として歓迎します。
しかしマスコミが政局大好き族によって操られているのに、政治家にだけ「政策重視」を求めるのは難しいかもしれません。

 

(2012年6月29日)

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