源氏にまつわるエトセトラその2

(11)

 

週刊朝日百科の「源氏物語」がなかなか面白いです。



小難しい原文解釈や逐語訳は最低限に抑え、その代わりに絵巻や資料の画像をふんだんに載せて、見た目にも華やかで分かりやすいです。
問題があるとすれば、「週刊」ということでしょうか。
隔週くらいで出してくれるとゆっくり楽しめるのですが、よく考えれば全60冊ですから週間でも1年以上かかるのですね。
頑張って毎週読むことにしましょう。

 

(2012年2月22日)

 

(12)

 

さて「週刊・源氏物語」刊行に合わせて「源氏物語」を読み直しているのですが、今さらながら驚かされるのは太陰暦というシステムです。 
たとえば「夕顔」から

  道遠くおぼゆ。
  十七日の月さし出でて、河原のほど、御前駆の火もほのかなるに、
  鳥辺野の方など見やりたるほどなど、ものむつかしきも、
  何ともおぼえたまはず、
  かき乱る心地したまひて、おはし着きぬ。

「十七日の月さし出でて」という文だけで、読者は月の出の時刻と夜空の風情を同時に直感できるのです。
時間と空間を同時に認識できる、「四次元的表現方法」と言えるかもしれません。

 

(2012年2月27日)

 

(13)

 

「源氏物語」でもう一つ印象的なのは「若菜」に出てくる猫です。
この時代すでに猫は愛玩動物でした。
ただそこにいてくれるだけで可愛い存在だったわけです。
一方犬は最近まで実用のために飼われてきました。
その目的ごとに品種開発がおこなわれて、その結果品種改良技術が進歩して今では愛玩目的での交配がどんどん進められています。
本来は実用目的であった技術を「より人に可愛がられるため」に用いているのです。
もともとは治療のために開発された形成技術を美容目的で使うのに似ているかもしれません。
それはそれでいいのですが、そういう技術を「ただそこにいてくれるだけで可愛い」猫に適用するのはどうなのでしょう。

猫の血統書などを見せられると、厚化粧の女子高生やポップス風にアレンジされたクラシックに接した時のような違和感を感じる…… と、「ザ・雑種」猫4匹の飼い主は思うのです。

 

(2012年2月29日)

 

(14)

 

先日「文学に親しむつどい」という講演会に行ってきました。
神戸松蔭女子学院大学の片岡利博先生による「源氏物語の本文」という講座です。

ずっと以前にこの欄でも書いたことがありますが、「源氏物語」の校勘作業はこれまであまり進んでいませんでした。
校勘というのは様々な写本を照らし合わせて、元になった本文を推測・復元しようという作業です。
それが最近になって少しずつ前向きに動き出してきました。
校勘の実際の作業過程、それから導き出されるオリジナル「源氏物語」などなど、非常に興味深い、ユーモアたっぷりで有意義なお話でした。

中でも目からウロコだったのは、「源氏」には様々な写本があるのに、そしてまた数多くの出版社があるのに、どうして1種類の写本しか出版されないのか、という話です。

答えは、あ、長くなったので次回で紹介します。
すみません、「衝撃の結末はCMのあとで」みたいで。

 

(2012年3月2日)

 

(15)

 

校勘作業が最も進んでいると同時に最も遅れている書物があります。

聖書です。

聖書の場合は「校勘」と言わず「批評」という用語が使われますが、聖書が本格的に批評され始めたのは第二次大戦後でした。
無数の写本を照らし合わせて今はなきオリジナルの聖書本文に迫ろうという試みです。
それこそ1文ごとに「Aの写本にある文字がBの写本にはない、AとBと、どちらがオリジナルに近いのだろうか」と考察していくわけです。
こういう気の遠くなる作業を重ねて「批評」という学問は近年大きな発展をとげました。
そういう意味で聖書は批評学の最先端をいくモデルです。
しかし聖書が書かれたのは2千年近くも前です。それに人類に最も大きな影響力を持つ書物です。
批評学が適用されるのはあまりにも遅すぎました、そういう意味で最も遅れているとも言えると思います。

あ、またまた続いてしまいます。
前回の答えはまた次回に。
TVのCMよりも悪質になってきました。

 

(2012年3月5日)

 

(16)

 

「桐壷」で帝が桐壷の死を悲しむ場面があります。
ここで桐壷の容姿を描写するのに「大液の芙蓉、未央の柳」という語句が用いられます。
その前の「絵にかける楊貴妃のかたちは、いみじき絵師といへども、筆かぎりありければ、いと匂ひ少なし」を受けての文章です。
「大液の芙蓉、未央の柳」とは「長恨歌」で楊貴妃を描写した字句でした。

ところが「大液の芙蓉、未央の柳」という言葉が出てこない写本があるそうです。
またさまざまな王朝物語を批評した「無名草子」がこの部分を引用しているのですが、そこにも「大液〜」という表現は出てきません。

可能性としては大きく二つ。
紫式部は「大液」という表現を使ったが、ある写本家が写しもらした
あるいは
紫式部は使わなかったが、ある写本家が書き加えた
どちらかだと思います。

どちらがよりもっともらしいでしょうか?
非常に興味深いです。
何が興味深いかと言って、この問題を判断するのに必要なのは、学問的知識ではなくて、言葉のセンスや、人間とはどういう行動をとる動物であるか、という洞察力なのです。

自然科学よりも柔軟で主観的で、しかし人文科学よりも論理的で構造的で、「批評学」というのは新時代の学問だと思うのです。

あら、また続いてしまいます。

何度も何度も本当にすみません。

 

(2012年3月7日)

 

(17)

 

そういうわけで、いろいろな出版社がいろいろな写本による「源氏物語」を出版してくれれば、素人の源氏愛好家が校勘作業に加わることができて、本文批評学は飛躍的に進歩すると思うのです。
前回も書いたとおり、校勘作業に必要なのは凝り固まった学問的アタマではなく、言葉センスに優れた柔軟な感性ですから。
ところがなぜか出版されているのは定家系の写本ばかりです。

片岡先生によるとそれは、大学入試に使われるのが定家系の写本だから、なのだそうです。
なるほど。
ある本を買おうとして書店に行ったところ、同じ内容の本が複数の出版社から出ていたとします。
こういう時何を基準に本を選ぶかと言うと、「権威」です。
「角川書店」よりは「岩波書店」の方が格調が高そうな気がします。
聖書だと、個人訳よりも何とか協会訳の方が間違いなさそうな気がします。
そして、「源氏物語」であれば「これは試験問題で扱われる本文です」などと書かれていれば、ついついそちらを選んでしまうでしょう。

バリエーション豊かな出版を妨げているのは大学入試制度だった、というオチでした。

 

(2012年3月9日)

 

(18)

 

海外の長篇小説第57位

紫式部「源氏物語」(岩波文庫)

そもそもなぜ「源氏物語」が「海外の長篇」にランクインしているのか疑問に思う人がいるかもしれません。
推薦者の一人はアメリカの日本文学研究者で、いわく「タイラーの英訳は正確で生きていて最高の名訳で、立派な「海外の長篇小説」になっている」からだそうです。
もう一人は趣旨を「世界の長篇小説」と解釈して、アジア圏代表として「源氏」を選んだようです。

いずれにしても目の前に現れたからには乗り越えるのみ!
3年半ぶりに読み返しました。

今回読み直して感じたのは宇治十帖の圧倒的な高さです。
若き光を描き、世界観が大きく歪む「若菜」を書き、そしてそこまで積み重ねた紫式部にして初めて到達しうる高みなのだと思いました。

 

(2012年3月30日)


海外の長篇小説ベスト100(第57位、59位、60位)

大好評(?)連載中の「海外の長篇小説」シリーズですが、最後の更新(第59位)から2か月が経ってしまいました。
少し言訳させてください。
58位、57位、56位、それから52位にとんでもない作品がエントリーされているのです。
このおかげでシリーズは足踏み状態です。
その作品が何なのかはまたその時のお楽しみに。

 

(2012年2月27日)

第57位

紫式部「源氏物語」(岩波文庫)

そもそもなぜ「源氏物語」が「海外の長篇」にランクインしているのか疑問に思う人がいるかもしれません。

推薦者の一人はアメリカの日本文学研究者で、いわく「タイラーの英訳は正確で生きていて最高の名訳で、立派な「海外の長篇小説」になっている」からだそうです。
もう一人は趣旨を「世界の長篇小説」と解釈して、アジア圏代表として「源氏」を選んだようです。

いずれにしても目の前に現れたからには乗り越えるのみ!
3年半ぶりに読み返しました。

今回読み直して感じたのは宇治十帖の圧倒的な高さです。
若き光を描き、世界観が大きく歪む「若菜」を書き、そしてそこまで積み重ねた紫式部にして初めて到達しうる高みなのだと思いました。

 

(2012年3月30日)

第59位

ボリス・ヴィアン「日々の泡」(新潮文庫)

1ページ目から非現実的な描写があふれ出ます。

読み手は不安になります。安易なシュール小説だったらどうしよう? と。
でも珍妙なイメージの数々は、陳腐に堕するぎりぎり直前で品位を保ちます。

奇想天外な表現は、それが奇想天外であればあるほど誠実に、細やかに、痛切な愛の物語を縁取ります。

こんな枠組みの小説があるのですね。
驚愕の第59位でした。

 

(2011年12月26日)

第60位

カート・ヴォネガット・Jr.「スローターハウス5」(ハヤカワ文庫)

物語は時間と空間を自由に、いや不自由に飛び回ります。

それでいて難解にはならず、どこかポップで、そうそう何となくピンチョンを思い出させます。

具体的には何も描かれていないのにも関わらず、痛切に突き刺さってくる戦争の残酷さと人生の哀しさ。

何という奇跡的な小説。

 

(2011年12月21日)

「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<第61位〜第65位<main>第52、56、58位の前半


間違いだらけの病院選び〜「便秘の人」篇

間違いだらけの病院選び〜「便秘の人」篇

(1)

便秘でお困りの方は多いです。
何が一番困るかといえば、便秘で悩んでいる人をまともに相手にしてくれる病院がないことではないでしょうか?

大病院にかかっても、検査をして異常がなければ、「病気じゃないから気にするな」で終わり。
診療所にかかっても薬を出されて終わり。
薬が効かないと訴えればもっと強い薬を出されて終わり。
それでも効かなければさらに強い薬をたくさん出されて終わり。

得体の知れない民間療法や、値段と宣伝文句だけは立派な市販薬に頼りたくなる気持ちはよく分かります。

得体の知れない民間療法といえば、いまだに「腸洗浄」についての問い合わせがあります。
「腸洗浄」がいかに危険で、しかも効果がないかについてはずっと以前にこの欄で書きました。

いかがわしい民間療法の代表の「腸洗浄」ですが、洗浄機を導入した施設は元が取れるまではやめられないのでしょう。
もうしばらくは派手な宣伝が続くでしょうが、惑わされませんように。

 

(2012年3月14日)

(2)

便秘治療で難しいのは人によって原因も症状もさまざまで、そして薬に対する反応もまちまちな点です。

そんなの便秘に限らずどの病気でもそうじゃないのか? と反論したくなるかもしれません。
その通りです。
便秘と他の病気とで決定的に違うところがあります。
それは「便秘についての一般常識を語っているのは便秘の専門家ではない」というところです。

TVや新聞で便秘について解説しているのはどこかの大学の先生です。
しかし考えてみてください。便秘で困っている人が大学病院に行くでしょうか?
逆に大学病院が便秘の人をまともに相手してくれるでしょうか?
大学の先生は便秘の患者を診察したこともなければ治療をしたこともないのです。
医者の言うことが頼りにならない。でも雑誌などに氾濫するのは便秘の怖さをアピールする広告ばかりです。

一体誰の言うことに耳を傾ければいいのでしょうか?

 

(2012年3月16日)

(3)

「便秘」でお困りの方に、まず耳を傾けて欲しいのは、自分の身体からのメッセージです。

便通は何日ごとにあるのか。
その時の便はどんな状態か。
お腹が張ってくるのは何日目か。
今までどんな薬を試してきたのか、その効果はどうだったのか。

そして最も大切なのは、「あなたは便秘の何に困っているのか?」ということです。

よくあるのがこういうパターンです。
薬も何も使わず、3日ごとにきっちり便通がある。
特にお腹が張るわけでもないし、便も硬くない。
何かに困っているわけではないが、毎日排便がないのは異常だと言われたので便秘外来に来た。

診察をしたところ腹部に異常はありません。
腸の動きも正常ですし、お腹の壁を通して伝わってくる内臓の活力も悪くありません。

こういう時あなたは、自分の身体の「何にも困ってない」というメッセージを信用して大丈夫です。

 

(2012年3月19日)

(4)

ところが「自分の身体が発するメッセージを信用する」というのがなかなか難しいのです。

たとえば便秘治療の目的で毎日ヨーグルトを食べている人がいます。
ヨーグルトを食べるとお腹が痛くなるけれども、健康のためにがんばって続けている、という人は多いです。
しかし食べるとお腹が痛くなる、その時点で身体は悲鳴を上げているのです。
仮に他の9人の健康にいいからと言って、あなたの健康にとっていいとは限りません。
口コミや宣伝文句ではなく、「自分の身体がそれを求めているかどうか」をまず客観的に判断しましょう。

食物繊維もそうです。
朝食を食べる習慣もそうです。

どんなに立派な大学の先生が「自然なお通じのためには毎朝しっかり朝食を摂りましょう」と言っていても、それがあなたにあてはまるかどうかはあなたにしか分からないのです。

 

(2012年3月21日)

(5)

そういうわけで便秘でお困りの方には、最低2週間「お通じカレンダー」をつけてみることをお薦めします。
いつ便通があったか、いつどんな薬を使ったか、お腹の張りや食欲はどうか、「お通じ」に関する全てを書きこんでみるのです。

便秘外来の診察で、理想的なのは毎日腹部を触診することです。
便通が1週間に1度の人であれば、便が出た日から次の便通の日まで、毎日お腹を見せて欲しいです。
しかしそれは現実的ではありません。
その場合、2週間分の「お通じカレンダー」があれば、かなり役立ちます。

実際にカレンダーをつけて初めて分かることも多いです。
便秘そのものが悩みの原因だと思っていたのが、実は便秘とは関係ない膨満感だったり、便通と勤務のリズムが合わないことだったり、あるいは便秘薬の副作用だったり、意外なことが見えてきたりするものです。

「便秘外来」を上手く利用するコツは、気がついたことは何でも「お通じカレンダー」に書きこむ、その一方で自分の先入観は真っ白にリセットする、その二つです。

 

(2012年3月23日)

(6)

今までどんな薬を試してきたかというのも大切です。
これは便秘に限りません。

「近所の病院でもらった薬を飲んだが胃痛が治まらない」という方が来られます。
この時「効果がなかった薬の名前」も非常に大切な情報です。
この種類の薬が効かないとすればかなり重度の潰瘍が疑われる、とか、神経性の胃炎の可能性が高い、とかある程度のことが推測できるからです。

便秘でも同じです。
今まで薬を試したことがあれば、その名前と効き具合を教えてください。
その時に「効いた」「効かない」では誤解のもとになります。
「この薬は効かなかった」という患者さんの話をよくよく聞いてみると、水のような便が何回も出ている、ということがよくあります。
その人にとっては「硬い、形のある便が出ないから効いていない」ということなのでした。
この場合は「効いていない」のではなく「効きすぎている」と考えなくてはなりません。
どんな便が何回出るのか、という情報をお願いします。

 

(2012年3月26日)

(7)

便秘外来受診のこつをまとめましょう。

最低2週間の「お通じカレンダー」をつける。
今まで試してきた薬を書き出す。
お腹の張りで困っている方は、なるべく症状が強いタイミングで受診する。
お腹が診察しやすい衣服を選ぶ。

その一方で、それ以外のことは「なるべく普通」でお願いします。
普段朝食を食べる人はどうぞ食べてきてください。
普段飲んでいる薬があればいつもどおり飲んでください。

あと憶えておいて欲しいのは「便秘の診察には時間がかかる」ということです。
問診だけで30分程度はかかります。
ぜひ予約をお願いします。

 

(2012年3月28日)


神戸元町ダイアリー2012年(1)

明けましておめでとうございます。
みなさま年末年始はゆっくり過ごせましたでしょうか?

私は年末に久しぶりに六甲山に登ってみました。
久しぶりに行ってみると山道を走っている人が多くてびっくりしました。
「トレイルランナー」と呼ぶらしいですが、走るのは平らな道でもしんどいし、山道はただ歩くのだってしんどいのに、一体何を考えているのか「山道を走る」のが趣味の人たちです。
しかしこちらがぜーぜー言いながら坂を登っている横をぴゅーっと追い抜いて行くその姿は想像を絶するほどかっこいいです。
山を下りて思わずトレイルランニング用シューズを買ってしまいました。
靴を買っただけですっかりトレイルランナーになったような気になっているところです。
実際にこの靴の出番が来るのかどうかは疑問ですが……。

 

(2012年1月4日)

山崎豊子の「運命の人」を読みました。
なかなか興味深かったです。
 
ずっと前にこの欄で、森鴎外と司馬遼太郎は小説家として歴史に降参した人だと(いうようなことを)書きました。
ものすごく大雑把に言うと、二人は小説としての枠組みを構築する努力よりも、歴史をそのままに描くことを優先した、ということです。
鴎外に小説家としての創作力が欠如していたのは明らかですし、司馬遼太郎の作品でも、主人公の存在感はたいていの場合巻を追うにつれて時代の渦に巻き込まれて希薄になっていきます。
実は山崎豊子の作品でも同様の肌触りを感じていました。
最初は強烈な個性を持って登場した主人公が、物語の流れの中でどんどん存在感を失い、それとともに小説としてのカタルシスも忘れ去られていきます。
彼女の小説はあくまでフィクションですので歴史に降参したというわけではありませんが、勝手に物語が進み始めて、小説としての構造が軽んじられている、そういう風に感じられて仕方がないのです。
最初は道なりに動き始めた巨大ブルドーザーがやがて道筋を無視し始めたような、そういう破格を感じてしまうのです。
 
ところが「運命の人」で山崎豊子は物語を小説の枠組みに強引に押しこもうと試みます。
そのためのひずみが、もしかすると彼女の固定ファンには許せないかもしれません。
後半で存在感を失いかけた主人公を、最後で再び主人公たらしめようとする展開には、実際無理があります。
しかしこの無理をも厭わない力強い表現欲を、私はとても興味深いと思いました。
 
「運命の人」、私はこれを山崎豊子の第二の処女作と呼びたいと思うのです。

 

(2012年1月11日)

先日湿布メーカーのMRさんが商品説明にやってきました。
 
彼女は手袋をした手で湿布を貼ってみせてくれました。
手袋をすると湿布に限らず何でも扱いにくいですが、うちの製品なら大丈夫、これならお年寄りの方でも簡単に湿布できますよ、というアピール。
なるほど、面白い宣伝でした。
 
考えてみれば、私たちの周りにある道具の多くは普通の人が普通の力で普通の器用さで使うことを想定して作られています。
これからのシルバー時代、そういう発想の商品は通用しません。
手袋をして服の脱ぎ着をしてみたり、乱視メガネをかけて家事をしてみたり、車いすに乗って町に出てみたり、そういう直接体験が理屈よりも役立ちそうな気がします。

 

(2012年1月13日)

そんなことを考えていたら、気になるニュースが飛び込んできました。
名門プロオーケストラの演奏が聴衆の携帯電話着信音によって中断させられたというニュースです。
 
記事自体はマナーのなさを嘆く趣旨だったのですが、よく読んでみると携帯の持ち主はお年寄りでした。
それなら事情が違ってきます。
お年寄りの方は高い音が聞こえにくいのです。
最近電車の中でヘッドホンをしゃかしゃか鳴らしている若者は少なくなりました。
その替わりに耳障りなのがお年寄りの方の携帯操作音です。
彼らの場合マナーに欠けるのではなく、単に自分が出している音に気づいていないだけです。
さきほどのオーケストラの客も自分の携帯が鳴っていることにおそらく最後まで気づかなかったのでしょう。
 
携帯電話はサイズ的に高い音しか出せません、振動だって限度があります。
画面もボタンも小さいので電源が入っているかどうかも分かりにくい。
そもそも機能が複雑すぎて操作方法を理解するのも一苦労です。
 
つまり携帯電話はシルバー世代にとっては欠陥商品なのです。
そして今回の一件は、欠陥商品が起こすべくして起こした事故だと考えるべきだと思います。

 

(2012年1月16日)
 
シルバー仕様の携帯電話は腕時計型、あるいはセパレートタイプにしてバイブ機能だけ腕時計に内蔵するべきでしょう。
 
湿布は何とかならないでしょうか。
普通程度に器用なつもりの私でも、湿布を上手く貼るのは結構難しいです。
 
湿布が使いにくいのはふにゃふにゃだからです。
これがしっかりとした板状だとシールも剥がしやすいと思います。
シールを剥がして患部に当てると体温で柔らかくなって数十秒で密着する、そういう製品があれば便利だと思います。
ユートク薬品さん、いかがでしょうか。

 

(2012年1月18日)

映画の吹き替えで有名なタレントが使われることがあります。
今までその理由が分かりませんでした。
人気タレントが吹き替えを担当したからといって、売り上げがどれだけ伸びるでしょうか。
顔も見えない、声だけの出演のDVDなんて、よほどのファンでも買わないと思うのです。
 
最近になって気がつきました。
人気タレントを使うと芸能ワイドショーで扱ってくれるから、だったのですね。
全国ネットでがんがん予告編を流せる大作ならともかく、普通の広告費ではTVに何回も予告編を流すのは無理です。
ところが人気タレントを何らかの形で使えば、ワイドショーで勝手に宣伝してくれます。
 
ファン心理など最初から勘定に入れていない広告戦略だったわけです。

 

(2012年1月20日)
 
声優に人気タレントを使って映画をワイドショーで宣伝してもらうというやり方は、よく考えてみればなかなか巧妙です。
TVのコマーシャルはもともと非効率的です。
TV局は効率を少しでも上げるために、番組の視聴者層に応じた商品の広告を流します。
子ども向けアニメならスナック菓子、マニア向けアニメならセルDVD、恋愛ドラマなら化粧品、夜の報道バラエティなら車や不動産。
昼間のバラエティを見ているのはどういう層の人たちでしょうか。
昼間、家にいて、何となくTVのスイッチを入れている人たちだと思うのです。
そこで人気タレントやレポーターたちがわいわい騒いで「この映画、面白そう」と印象づけることができれば、「暇だし行ってみようかな」と思ってくれないでもありません。
これはゴールデンタイムで不特定多数の視聴者に予告編を流すよりも効果が高いと思うのです。
 
タレント商法侮りがたし、です。

 

(2012年1月23日)
 
せっかく原作を読んだのでドラマ版「運命の人」も見てみました。
 
小説版ではよく分からなかった三木昭子(真木よう子)の心境が、TVでは細かく描写されていて、面白いと思いました。
それぞれの役者のそっくりさんぶりも見ていて楽しいです。
 
気になるのは、番組中に化粧品のCMが流れることです。
硬派のドラマですから金融商品や高級車、ハウスメーカーのCMばかりかと思っていたので意外でした。
しかしこの番組で化粧品を宣伝して、広告効果はあるのでしょうか?
とても丁寧に番組を作ってくれているのに、スポンサーさんのお役に立てず、何だか見ていて申し訳ない気持ちにさせられるのが居ずまいの悪いところです。

 

(2012年1月25日)

TVのCMはどうなっていくのでしょう。
不特定多数を相手の絨毯爆撃的宣伝よりも、特定のキーワードを検索した人に対してピンポイントでぶつける単発個別広告の方が圧倒的に効率がいいに決まっています。
TVではブランドイメージだけを強調、商品のアピールはWEB上で、という役割分担になっていくのでしょう。
当然広告費の中でCMが占める割合は低下します。
 
よく、最近のTVは同じような顔触れを並べた同じようなバラエティばかりで面白くない、と文句を言う人がいます。
しかし考えてみれば番組の制作費は今後低下の一途をたどるのです。
今のTVがつまらないと言っている人もきっと10年後には「10年前のTVはいろんなタレントがわいわい騒いで楽しかった」と振り返るに違いありません。

 

(2012年1月27日)

今年もオペラの季節がやってきました。
私がお手伝いしている芦屋市民オペラです。 
今回取り上げるのはプッチーニ作曲の「トスカ」です。
プッチーニのオペラとしては「蝶々夫人」の方が有名かもしれません。
音楽の凝縮度は「トスカ」の方が素晴らしいと思います。
 
フルオーケストラと大合唱を伴奏に奏でられる壮大な悲劇。
これが3500円という金額で楽しんでいただけます。
ぜひお越しください。

 

(2012年1月30日)

ドラマの「運命の人」が面白かったと先日書きましたが、第2話以降の録画を忘れてしまって続きが見られないでいます。

しかし最近のケーブルTVは「見逃しドラマ」を放送してくれているのですね。 
有料なのですが、これを利用すれば録画が失敗してもそれほど悔しい思いをしなくてすみそうです。
そこで思ったのですがテクノロジーの進歩によって、TV番組に対する姿勢にいろんなバリエーションが生まれてきた、と言えるかもしれません。
1)何としてもオンタイムで見たい、万一用事があっても録画忘れなどありえない
2)うっかり録画を忘れるかもしれないレベルの興味、しかし有料であっても機会があれば見逃し分を見たい 
3)話題になっているので、シリーズがレンタルDVD化されれば見てみよう
4)話題になっているので一応録画はしている、しかしいつ見るかは決まっていない
選択肢が増えることによって今後視聴者の主体的な判断力が培われるはず、という見方は楽観的すぎるでしょうか。

ところでテクノロジーの進歩と言えば、驚かされるのは検索システムの発達です。
昔に見た、タイトルも思い出せないようなドラマや、どこかの何かでちらっと 聞いたメロディーなども、今では上手く検索すれば調べることができます。
たとえば、プッチーニなのですが……、長くなってきたのでこの話は次回に回しましょう。

 

(2012年2月1日)

プッチーニは不遇な作曲家だとずっと思っていました。
決してヴェルディに引けを取らないオペラ作曲家にも関わらず、ヴェルディよりも低く評価されるからです。
と言いながら、実は「プッチーニがヴェルディより低く評価されている」という部分に根拠があるわけではありませんでした。
唯一根拠となったのが、ずーっと昔にどこかの雑誌でちらっと見かけた「プッチーニはヴェルディほどではないがいい作曲家」という文章でした。
ふと思いついてこの文章の出典を調べてみました。
ありました。
日本版月刊PLAYBOY1980年6月号に掲載されたロアルド・ダールの短編小説でした。
ハヤカワ・ミステリ文庫「オズワルド叔父さん」に収載されています。
その文章とは

《マノン・レスコー》、《ラ・ボエーム》、《トスカ》、《蝶々夫人》、《西部の娘》をかいている。
みんな最高水準の傑作だ。
モーツァルトやワーグナー、あるいはヴェルディとはちがうけど、天才で、巨匠であることに変わりはない。

何と、「ヴェルディほどではない」という文章ではありませんでした。
不遇な作曲家という私の思い込みは全くのデタラメだったようです。
すみませんでした、プッチーニさん。

 

(2012年2月3日)

「3D」という文字を見るといまだに「未来」や「21世紀」というハイカラなイメージが頭に浮かんできます。
映画館に行く時も、内容よりも、3D効果が期待できるかどうかを基準に作品を選んでしまいます。
しかしわくわくしながら映画館に行ったものの、実際に映画が始まるとがっかりすることが多いです。
あんまり飛び出してくれないのです。
昔、3D映画と言えばたいていB級ホラーで、内容などありません。
しかしよく飛び出してきました。
矢が飛んでくれば思わず顔をそむけたし、硬貨が差し出されればついつい手を伸ばしてしまったものです。
最近の3D映画が飛び出してくれないのはこちらの視力が落ちたせいなのだろう、と諦めかけていたら先日新聞に解説記事が載っていました。
気分が悪くなる人もいるので、映画会社は飛び出し効果を制限しているということでした。
びっくりです。
映画会社はわざわざ飛び出さない3D映画を作っているのでした。
辛くないカレーや速くないロックミュージックがあるのと同様に、怖くない絶叫マシンや飛び出さない3D映画があってもいいと思います。
ただ、その場合はきちんと表示して欲しいです。
「この映画は3D効果を抑えてありますので小さなお子さんでも楽しんでいただけます」とか「この映画は過激な3Dシーンがありますので心臓の弱い方はお気をつけください」というように。

 

(2012年2月6日)

3D映画が珍しくなくってきた今、オーディオビジュアルマニアが憧れるのは自宅での3D映画再生だと思います。

その場合再生装置には、高画質大画面からさらに一歩進んだ技術が必要です。
まさに日本の家電メーカーの得意とする分野です。
ところが彼らが「気分が悪くなる人がいるので映画の3D効果を抑える」などという事態を黙って見ているのが理解しがたいところです。
特にSONYやパナソニックはハリウッドの映画製作事業にも食い込んでいるはずです。
彼らは「もっと3Dを生かしてくれないとTVが売れない」と主張することもできないのでしょうか。
日本の家電メーカーが軒並み売上ダウンという記事をよく見かけますが、うなずけます。
自社の超高度なテクノロジーを活かすコンテンツを開発できない以上、TVは安売り競争になるに決まっています。

飛び出さない3D映画を見ると、日本の家電メーカーの行く末も見えてくるような気がして仕方ありません。

 

(2012年2月8日)

映画で3Dと相性がいいジャンルはSFアクションとホラー。
映画以外だとスポーツだと思います。

見てみたいのは球審目線で見る野球中継です。
大昔の野球中継はバックネット裏から撮られていましたが、いつの間にかセンター方向からの撮影に変わりました。
小型の3Dカメラを球審のヘルメットに内蔵する時代が来れば、野球中継の視点は再び180度変わることになるでしょう。
審判視線からのダルビッシュのストレートやイチローのバックホームをぜひ見てみたいものです。
日本プロ野球だと広島の福井投手、と言いたいところですが彼の場合はまずローテーション入りを確定させてからの話ですね。
サッカーも、ゴールのすぐ後ろから見るシュートシーンは迫力ありそうです。
3Dが最も効果を発揮しそうなのはアメリカン・フットボールだと思います。
特にNFLで採用されているクォーター・バックの背中からの空中カメラが3D対応になれば、目の前のラインの攻防と、はるかかなたでのレシーバーとディフェンスとの駆け引きが同時に視認できるわけです。

考えただけでもわくわくする話ですが、もっとよく考えてみれば野球の球審目線とNFLの空中カメラが3Dになるまではまだ専用再生機は必要ない、ということでもあります。
今はわくわくしつつお金を貯めておくことにしましょう。

 

(2012年2月10日)

演奏会のお知らせです。

ジョン・ウィリアムス&スティーヴン・スピルバーグ
3月17日(土)尼崎アルカイックホール17時30分開演

「ET」や「ジョーズ」など映画音楽満載の、ダンスあり恐竜あり爆発ありのエンターテインメント・ショーです。
絶対に楽しいです。
ぜひぜひどうぞ。

 

(2012年3月12日)

神戸元町ダイアリー2011年(3)芦屋と宝塚の違い<main>神戸元町ダイアリー2012年(2)100年前の有名人


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