「仁(じん)」を見ました。

「仁」を見ました

(1)

スタッフが見ろ見ろとうるさいので、TVドラマ「仁(じん)」をレンタルDVDで一気観賞しました。

冒頭から脳外科領域の病気の連発でびっくりさせてくれます。
現実の救急外来では「四肢は無事で、頭部だけに傷を受けている」という患者は珍しいです。
江戸時代で活躍させるなら主人公を一般外科医としておいた方がよかったような気もしますが、きっと医療アドバイザーが脳外科医だったのでしょう。
そう思ってキャストを見ましたが、ドラマ化、映像化にあたっての医学監修はいますが、原作でのアドバイザーはクレジットされていません。
物語で扱われる医療技術がかなり限られているのでアドバイザーはそう大勢ではないと思います。
原作の村上もとかと二人三脚状態でストーリー作りに加わった脳外科医は、おそらく一人。
コミックにはクレジットされているのでしょうか?

 

(2011年12月7日)
 
(2)

頭の手術をする時に、皮膚を消毒したり、滅菌した器具や手袋を使って作業をすることを「清潔操作」と言います。
脳外科や関節を扱う整形外科ではかなり厳密な「清潔操作」が要求されます。
一方腹部外科や外傷を扱う整形外科ではちょっと違います。
どんなに消毒しても腸の内側の細菌が0になることはありません。
大腸の手術などでは、腸を切断した瞬間に術野は汚染されます。
もちろん日常会話で用いる「汚染」とは全く異なるレベルでの「汚染」ですが、細菌を一個たりとも術野に近づけまいとする脳外科医に対して、腹部外科では細菌がいくつか漏れ出てきても大丈夫なように物事を考えます。

くれぐれも、脳外科医に比べると腹部外科医は不潔なんだ、と早合点しないでください。
腹部外科医でも手術に当たってはきっちりと「清潔操作」を心がけます。
しかし考え方のぎりぎりの最後の部分で、脳外科医と腹部外科医とでちょっとだけ違いが出てきます。

ドラマ「仁」を見ると「ああ、いかにも脳外科医の清潔操作だなあ」と思うのです。

 

(2011年12月9日)

(3)

そこで思いだします。
焼肉チェーン店での食中毒事件です。

腸を切ると包丁やまな板は汚染されます。
その包丁で腸以外の肉を切ると、その肉も汚染されてしまいます。
生肉を調理する時には、汚染の可能性のある外側をトリミングしましょう、という話でした。

素朴な疑問ですが、牛を解体する時に消化管とそれ以外の肉の工程を分離することは難しいのでしょうか。
消化管を全く別ラインで処理する工場があれば、原理上そこの製品はトリミングが不要のはずです。
厚労省お墨付きの生肉生産工場は合理的だしビジネスチャンスでもあると思うのですが、どうでしょうか。

と、話がそれてしまいましたが、腹部手術の場合は消化管とそれ以外の臓器の操作を分離することは不可能です。
腹腔鏡を使った手術で、消化管の操作を体外で行う術式もありますが、吻合部はまた体内に戻されます。
腹部手術は、汚染されないように細心の注意を払いつつ、しかし汚染されていることも想定しつつ、行われるのです。
そう考えると腹部外科とはとてもデリケートで、同時にとても大胆なジャンルだと思うわけです。

 

(2011年12月12日)

(4)

「仁」を見て面白いと思うのは、主人公が手がける手術のラインナップです。
まずは得意の脳外科分野から始まって、次には皮膚移植、穿孔胃潰瘍大網被覆術、乳癌切除術……と続きます。
一見アトランダムですが、共通点があります。
どの手術も消化管吻合を必要としないのです。
脳外科医がアドバイザーですから当然だと思うのですが、消化管吻合をしないという条件を満たしつつバリエーション豊かに見せているのがうまいと思うのです。

さて消化管吻合ですが、実はたいていの外科医は好きではありません。
外科医は習性として、切るのは好きだけれどくっつけるのは好きではないのです。
大学の偉い先生になると病変を切り取ったところで「じゃああとはよろしく」と言って帰ってしまったりもします。

どんどん話がそれて行きますが……。

そしてそういう先生に限って「手術成功率100%」と自慢します。
それは当然です。
腹部手術のトラブルの半分は吻合時に、残りの半分は術後に発生するのです。
「成功率100%」の話を聞かされるたびに下っ端外科医たちは「術後管理してから言えよなあ」と内心で愚痴っているわけです。

 

(2011年12月14日)

(5)

あと吸入麻酔と抗生剤が効きすぎるくらいに効くのは、作劇上仕方がないところでしょう。

麻酔に関してはこれも脳外科という科の特性が関係しているかもしれません。
腹部外科の領域では筋肉を弛緩させる薬を併用しないと手術はできません。
一方脳外科の場合は、筋肉の緊張が術野に影響を及ぼすことはあまりありません。
エーテルだけで果敢に手術しようとするストーリー展開自体が、やっぱり脳外科的だと思うのです。

一方抗生剤はこの時代であれば劇的に効いた可能性があります。
抗生剤の歴史は耐性菌との戦いの歴史です。
抗生剤が登場してすぐ、まだ細菌が抗生剤に対して無防備だった時代であれば、現代の医者もびっくりするほどよく効いたかもしれません。

 

(2011年12月16日)
 
(6)

最近の医療ドラマはトンデモ描写がなくてストレスなく楽しめます。
いろいろ書きましたが「仁」でも安心してドラマに入り込むことができました。

江戸時代にタイムスリップしての困惑

医術で江戸時代の人々に貢献できると実感できた喜び

旧弊な体制による妨害への苦悩

歴史的人物たちの協力を得て苦難を乗り越える

自分がどんなに頑張っても死ぬべき人は死んでしまうという歴史の必然に対する虚無感

このように主人公は激しく喜び、激しく落ち込みます。
そして自分の存在感が全く分からなくなった絶望的なラストで、彼は一人の命を救います。
実はその一つの命を助けるために自分はこの時代に飛ばされたのだ、と彼は気づいて物語は終わります。

この大きな横の流れがしっかりしていたので、全22話の長大なストーリーも飽きずに楽しめたのだと思います。
ついでに言えば「本当のラストは映画館で!」みたいな姑息なやり方をせず、TV画面上できっちり決着をつけてくれたのが最大の勝因だったのではないでしょうか。

 

(2011年12月19日)

健康ディクショナリー2011年危険な輸入バイアグラ<main>健康ディクショナリー2012年胃カメラ入門


「罪と罰」を読む(第3部第5章)

第3部第5章(第2巻134〜181ページ)

(58)

この章は大きく二つに分けられます。
前半ではラスコーリニコフとポルフィーリーの顔合わせが描かれます。

前の章の最後でラスコーリニコフはラズミーヒンをからかい、爆笑しながらポルフィーリーの部屋に入ります。

うしろからはかんかんに腹を立てたラズミーヒン が追いかけてきます。

尋問の場に乗り込むにあたって、ラスコーリニコフは最も犯人らしく見えないやり方をうまく演出したわけです。
しかしせっかくのたくらみですが、ポルフィーリーは軽く受け流します。

おまけにその場にはザメートフもいます。
ラスコーリニコフは急に不安になってきます。

ザメートフとポルフィーリーがどの程度情報を共有しているのか分からず、ポルフィーリーが何を知っていて自分をどこまで疑っているかがつかめなくなったからです。
実際彼はポルフィーリーの「お母さまがいらしてるんですか?」という質問の趣旨すら理解できません。
一方直接心中は描かれませんが、ポルフィーリーにもやり方を決めかねているところがあります。
警察署長やザメートフは、警察署で卒倒したラスコーリニコフを見て、直感的に怪しみ始めました。

ポルフィーリーはそこまで単純ではありません。

 

(2011年11月14日)

(59)

ポルフィーリーはラスコーリニコフの「犯罪論」を2か月前に読んだと言っています。
これまで私はこれが嘘だと思っていました。
彼がラスコーリニコフを疑い、彼の周辺を調べていく過程で論文の存在が判明したのだと思っていました。
しかしいかにやり手のポルフィーリーでも、ラスコーリニコフが匿名で発表した論文を見つけ出すのは不可能です。
ここは彼の言葉どおり受け取るのが自然です。
ポルフィーリーは「犯罪論」を読み、そこに何か引っかかるものを感じていた。
知り合いの編集者と雑談をしている時にたまたま「犯罪論」の話題を出したら
「ああ、あれね。確かラスコ……なんて名前の、生意気な大学生さ」
くらいの返事が返ってきたのではないでしょうか。
それが今回警察署で卒倒した元・大学生の名前がやはり「ラスコ……何とか」です。
そこで編集者に確認して、同一人物だと分かったのが2、3日前ということだと思います。

同一人物であることに奇妙な巡り合わせを感じつつ、ポルフィーリーには違和感がつきまといます。
論文の執筆者である怜悧な人物像と、ずさんな犯行手口。
ザメートフをからかった悪党ぶりと警察署で卒倒する小心さ。
そして実際に大金を手にしているという事実。
これらがポルフィーリーの頭を悩ませていました。

ところが実際にラスコーリニコフを見て、全てがすっきりしたのだと思います。
被疑者らしからぬ見事なやり方で登場したかと思えば、そのあとは自分の一挙手一投足にびくびくとおびえる臆病さを見せる若者。
会うまでは矛盾としか思えなかったラスコーリニコフのさまざまな相反する性格が、ポルフィーリーの中で一つの人格として具象化されたのです。
そして今まで全く理解の範疇外と思っていたものがすっきりと理解できた時に、対象物に対する親近感を覚えてしまうのは、ある意味当然なのかもしれません。

 

(2011年11月16日)

(60)

それにしてもこの章の前半の描写の煩瑣なこと!

ふいにポルフィーリーは、ウインクしてみせるかのように片目を細め、何かしらあからさまな嘲りをふくんだ目で彼を見やった。
もっとも、それはほんの一瞬のことだったから、ラスコーリニコフにそう見えただけかもしれない、ただし、すくなくともそんなふうな感じはあった。
ラスコーリニコフからすると、それがなぜかはいざ知らず、相手がウインクしてみせたことは神にかけてまちがいなかった。

ポルフィーリーのウインク一つでこの描写です。
それほど重要でもなさそうなことがこの調子でしつこくしつこく描かれます。
表現のインフレーション、と私は勝手に呼んでいますが、こういう部分を読むと「ドストエフスキーは最大の小説家ではあったかもしれないが最良の小説家ではなかった」などと思ってしまうわけです。

ところが今回読み直してみるとこの部分も、リミッターが外れてしまった脳髄に乱入してきた情報の濁流、と読めなくもありません。
ここは主人公の疑心暗鬼ぶりを表すためのテクニックであると、好意的に解釈しておきましょう。

 

(2011年11月18日)

(61)

149ページから丸々3ページ、ラスコーリニコフの思考がぐるぐると渦巻いたあとでふっと話題が変わります。
「犯罪論」です。

昨晩ラズミーヒンの部屋で議論されていたのがこの話題でした。
「もし社会が正常に組織されれば、すべての犯罪はたちまち消えてなくなる」か否か。
第1巻350ページあたりでルージンが披露する、実はレベジャートニコフの受け売りの進歩的思想にも、同じような見解が見られました。
つまり成熟した社会では、個人の欲望と社会福祉とが矛盾しないという考え方です。
ラズミーヒンはこれに対して激烈な拒絶反応を示しますが、この時代の多くの若者の心をユートピア的社会主義思想が掴んでいたということなのでしょう。

興味深いのはルージンが知ったげに語った時も、今回ラズミーヒンがポルフィーリーに食ってかかった時も、ラスコーリニコフが沈黙を守っていることです。
ついさっきまで頭の中を暴れまわっていた観念の奔流が、話題が変わった途端ぴたりと止まってしまいます。
ドストエフスキーはラスコーリニコフにイデオロギー論には加わって欲しくないようです。

 

(2011年11月21日)

(62)

そしていよいよ159ページから、有名なラスコーリニコフの「犯罪論」が語られます。
この部分を読むと今でも心の中で、ちりちりとした不快刺激信号が音を立てます。
内容についてはポルフィーリーが上手く要約してくれています。

この世には、どんな無法行為だろうと、犯罪だろうと、それを行うことのできる人間が存在する

ねじ曲がったエリート気取りの、自意識過剰の高校生が考えそうな発想です。
白状しますが私も高校生の頃はそんな感じのことを考えていました。
何の根拠もないのに、自分だけは特別で周りのみんなとは違う、そんな風な考え方です。
いやきっと他のみんなもあの年頃には全く同じように考えていたはずだ、と考えて自分を慰めていますが、それでも「犯罪論」を読むと心がちりちりします。

その気恥ずかしさを乗り越えて今回読み直してみると、いくつか興味深い点に気がつきました。
まず、ラスコーリニコフの「犯罪論」が実は何も語っていないということ。
次に、得々と持論を披露しているラスコーリニコフが、ポリフィーリーにうまく操られているだけであるという点。
それからこのエピソードの中で最も正鵠を射た発言をしたのがなぜかザメートフであるということ。

 

(2011年11月25日)

(63)

「非凡人」はその思想の実現のためにある種の障害を踏み越える権利を持っている、とラスコーリニコフは言います。
彼自身が言うようにこれ自体は目新しくも何ともない考え方です。
「革命家が理想社会を築くためにはある程度の犠牲はやむをえない」
賛同できるかどうかは別として、分かりやすい考え方です。
ところがその先を聞いてみると歯切れが悪くなってきます。
彼に言わせると「非凡人」も法を踏み越える権利があるわけではなさそうです。
理想のために法を踏み越えても、捕まれば罰されるのです。
じゃあ捕まらないのが「非凡人」なのか? というとそういうわけでもありません。
「非凡人」が踏み越えることができるのは自分の良心なのです。
しかし良心を踏み越えると言いながら、犠牲者が気の毒であれば苦悩することも許されます。

つまり「非凡人」とは、理想への強い意志を持ち、その強さのおかげで処罰への恐怖や良心の呵責を克服できる人、のようです。
理想を達成したかどうか、後世にどう評価されるか、権力者に弾圧されたかどうか、理想実現のための犠牲者の多寡などは関係ありません。
衝動によって法を犯し、良心に背くのは犯罪者です。

ラスコーリニコフは忘れているのかもしれませんが、犯罪者にも二とおりいます。

後悔しない犯罪者と後悔する犯罪者です。
ラスコーリニコフは「非凡人」とエセ「非凡人」との見分け方について169ページで長々と語っています。

ここではそれらを「後悔する」という言葉で象徴させてもらいましょう。
後悔しない犯罪者も、「非凡人」も、法を犯し、良心に背き、そして後悔しないという点では同じです。
しかしラスコーリニコフは後悔しない犯罪者と「非凡人」を区別するものについては教えてくれません。

彼の「犯罪論」は「非凡人」の中途半端な定義づけにすぎないのです。

 

(2011年11月28日)

(64)

ポルフィーリーはラスコーリニコフの「非凡人」論を辛抱強く聞きます。
法との関係、良心との関係、「非凡人」たる資格を証明する要件。
そうです、彼は一つだけ敢えて話題から外しているのです。
後悔しない犯罪者と「非凡人」を区別するのは何か、です。
答えは簡単です。その動機が真っ当な理想のためであるかどうか、です。
イデオロギーや思想が真っ当かどうかを判断するのは難しいです。

しかし確実に言えることがあります。

高利貸しの老婆と同居人を殺すことを是とするような思想などない、ということです。
ポルフィーリーは3段論法の3段目に触れないことによって、ラスコーリニコフに事実を突きつけます。
「お前はただの犯罪者だ」

ここでザメートフの言葉です。
「そこらの未来のナポレオンじゃないですかねえ、例のアリョーナばあさんを、先週、斧でぶっ殺したやつも?」
これはもちろんザメートフが自分で考えた言葉ではありません。
独自の推論でラスコーリニコフを疑い始めたポルフィーリーが、うっかりザメートフの前で口走ったのでしょう「犯人はナポレオン気取りのやつかもしれんな」と。

そこまで分かっていてポルフィーリーはラスコーリニコフとの会話を楽しんでいたのです。

そしてラスコーリニコフもそれに気づきました。この言葉はザメートフの発想ではない、と。
そして彼はポルフィーリーをにらみつけたのです。

 

(2011年11月30日)

(65)

この章ではもう一つやっかいな個所があります。
166ページの謎めいたやり取りです。

「やっぱり新しいエルサレムを信じているんですか?」
「信じてますよ」
「神も信じてるんですか?」
「信じています」
「じゃあラザロの復活も信じてらっしゃる?」
「し、信じてますとも」
「文字どおり、信じている?」
「ええ、文字どおり」

字面は簡単ですが理解しにくい会話です。
そもそもラスコーリニコフは神など信じていません。
ラザロは死後4日経ってからイエスの奇跡によってよみがえった人物ですが、ラスコーリニコフは自分をラザロになぞらえているのでしょうか?
「非凡人」でないなら死人も同然と考えての例えなのでしょうか?
それにしてもラザロが「死人も同然」の代名詞であれば、次の「文字どおり信じる」という答えはありえません。
どうしてこんなやり取りになってしまったのでしょうか。

二人の会話が完全にすれ違っていると考えればかろうじて理解できそうです。

 

(2011年12月2日)

(66)

ラスコーリニコフは「非凡人」の理想のもとで「凡人」たちが満ち足りた生活を送る、そういうユートピアの実現を想定していました。
それをポルフィーリーに説明するのにイエスを思わせる人物を例えに出したために、ユートピアを「新しいエルサレム」という言葉で表現してしまったのです。
彼としてはキリスト教を意識して使った言葉ではありませんでした。
ところがポルフィーリーは宗教的な意味で捉えて訊きなおします。
「新しいエルサレムを信じる?」
それにラスコーリニコフは非宗教的な意味合いで答えます。
「信じる」
そう答えられるとポルフィーリーは次にこう訊ねざるをえません。
「じゃあ神も信じる?」
そこでラスコーリニコフは考えます。
彼は自然の摂理によって人間が「非凡人」と「凡人」に分けられると仮定しました。
「非凡人」が「非凡人」たりえるのは自分の自己判断ではなく、自然の摂理、客観的な基準で判断されるということです。
この客観的な基準、絶対的な審判者、それを彼は「神」と表現しました。
彼はポルフィーリーの問いにまたしても象徴としての「神」の意味合いで答えたわけです。
しかし彼はそう答えたあとでぞっとします。
絶対的基準に照らし合わせると自分は「非凡人」ではありえないのです。

ポルフィーリーが次に「ラザロ」を持ち出したのは深い意味があってのことではないと考えるべきでしょう。
ラスコーリニコフが象徴的意味合いでの「神」のつもりで返事している可能性も考えて、「あのラザロを生き返らせた、あの神様を信じているのですか?」と、つまり奇跡の代表としてラザロの名前を出したのだと思います。

しかしその時点でラスコーリニコフは自分の理論が自分の存在価値を危うくしていることに思いいたっています。
絶対的審判者のもとでは自分は「非凡人」ではありえない。
しかしその審判者がキリスト教的神であれば自分は復活させてもらえるかもしれないのです。

そこで彼は「ラザロの復活」も信じると答えてしまいます。
ポルフィーリーはその答えに呆気に取られます。
ラスコーリニコフの真意を確かめようと「文字どおり?」と訊きなおしました。
ラスコーリニコフは答えます。
「文字どおり、俺は復活する」と。

このやり取りでの「ラザロ」に深い意味を与えてしまうと解釈が難しくなってしまいます。
それとなく触れておいて、あとのもっと重要なシーンでラスコーリニコフがふと「ラザロ」という言葉を思い出す、そのための伏線と考える方が作劇上も面白いです。

 

(2011年12月5日)

プロローグ<第3部第4章<main>第3部第6章


calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< December 2011 >>
selected entries
categories
archives
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM