海外の長篇小説ベスト100(第66位〜第70位)

第66位

カズオ・イシグロ「日の名残り」(ハヤカワepi文庫)

主人公はイギリスの執事です。完璧な執事であった父を尊敬し、自らも人格者の貴族に仕えて半生を過ごします。
彼が初めて休暇をもらって田舎をひとり旅した時のモノローグ、それがこの小説の全てです。
優秀な執事らしく静かで穏やかな口調で語られる旅の風景、回想。
その中で厳しい現実や哀しい時の流れが浮き彫りにされていきます。

さすがに66位ランクインの佳作です。しかし先日読んだ「わたしを離さないで」も静かなモノローグでした。
この作家が次代を担う偉大な芸術家なのか、そこそこいい程度の書き手なのかは、せめてもう一作、違った語り口の小説を読んでから判断したいと思います。

 

(2011年8月31日)

第67位

アゴタ・クリストフ「悪童日記」(早川書房)


語り手は何と1人称複数「ぼくら」。

この小説の肝はそこにあるのだと思います。
「ぼく」でもなく「彼」でもない、主観と客観のぎりぎりの融合。

研ぎ澄まされた文章で描かれる強靭な意志の物語。
極限のハードボイルドです。

これまでに読んだ34冊の中でダントツのナンバー1です。

 

(2011年8月24日)

第68位

フランソワ・ラブレー「ガルガンチュアとパンタグリュエル」(岩波文庫)

フランス料理の名前のようなタイトルの本ですが、主役は巨人親子です。
第1巻が巨大な赤ん坊ガルガンチュアが成長して戦争で敵国をやっつける話。
第2巻はその息子パンタグリュエルが成長するまでの話。
第3巻はパンタグリュエルと家臣との間に繰り広げられる「浮気しない女はいるのか?」問答。
そして第4、5巻がパンタグリュエルの航海記です。

と、あらすじを読んでもどんな話かぴんと来ないと思いますが、実際読むとさらにヘンテコです。
16世紀最高の頭脳によって書かれた最高にお下品でとびっきりお下劣なユーモア小説なのです。
これを風刺と捉えるとかえって作品の真価を損ねると思います。
時間がない人にはお下品な中でも最高級にお下品な第1巻がお薦めです。

 

(2011年8月22日)

第69位

ルイーザ・メイ・オルコット「若草物語」(講談社文庫)


30年以上ぶりの再読。
特に何か事件が起きるわけでもないし、お母さんのお言葉がいちいち説教くさかったりするけれど、なぜか面白いのが困ったところです。
終盤ベスが病に冒される場面を電車の中で読んでいたのですが、ヘッドホンから流れていたリストの「大演奏会用独奏曲」が雰囲気にぴったりマッチしすぎて、とても電車の中で読み続けられる状態ではなくなったのであわてて途中下車したというのは内緒です。


(2011年8月19日)


第70位

イーヴリン・ウォー「ブライヅヘッドふたたび」(筑摩書房)

美しい邸宅を背景に綴られる友情と破滅と恋と回想の物語。
雰囲気があっていい感じです。

ただ、よく分からないところもあって。
全ての人を惹きつけるセバスチアンの魅力の原因がよく分からない、セバスチアンが酒に溺れていく理由がよく分からない、それからタイトルになるほど「ブライヅヘッド」という土地が重要であったのかがよく分からない……。

でも、いい感じです。

 

(2011年7月15日)

「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<第71位〜第75位<main>第61位〜第65位


海外の長篇小説ベスト100(第71位〜第75位)

第71位

ナタリア・ギンズブルグ「ある家族の会話」(白水社)

73位のディケンズには少しばかりうんざりさせられましたが、第71位にランクされたのは「物語る」19世紀型タイプとはがらりと趣向を変えたニュータイプ20世紀型小説です。
内容は、ファシストの台頭やドイツ軍占領などに翻弄されるイタリアのある家族の物語です。
この激動のストーリーを展開させる原動力となるのが、何と「家族の会話」。
それも声高に語られる会話ではなく、家族の間でしか通じないようなちょっとした言い回しや特別な口調です。
素朴なメロディーに控え目な通奏低音が寄り添うことによって響き豊かな交響楽が生まれるのと同じように、家族によって交わされる何気ない会話に、口癖という彩りをほんのちょっと加えるだけで、ただの世間話がたちまち激しくうねる大河ドラマに変貌します。

訳者須賀敦子も嫉妬する一世一代の一発芸小説、などと書くと全然褒め言葉に見えないかもしれませんが、ものすごい小説でした。

 

(2011年7月13日)

好評(?)連載中の海外の長篇小説ですがとんだ間違いをしていました。
72位の本を飛ばしていました。
「ある家族の会話」が71位で、「ブライヅヘッドふたたび」が70位でした。
忘れ去られていたのは

第72位

ヘンリー・フィールディング「トム・ジョウンズ」(岩波文庫)

金持ちの貴族に育てられたみなしごトム・ジョウンズが様々な苦難を乗り越えてめでたくもハッピーエンドを迎えるというお話。
この小説の感想を書くのを忘れてしまったのには理由があります。
主人公が数々の試練を乗り越えるのが、必ずしも努力によってではないのです。
たまたま通りかかった旧知の人だったり、偶然の出来事だったり。
そんなこんなのご都合主義の展開に助けられて、しかも最後ではあっと驚く(ほどのことでもない)どんでん返し。

これはまさに「ディケンズ」です。
フィールディングはディケンズの100年前に完璧なディケンズ的小説を書いた人なのでした。
同じ業績であれば本来なら先駆者をより高く評価すべきですが、今回はタッチの差でディケンズを先に読んでしまったためにフィールディングを忘れてしまったのでした。
ごめんなさいフィールディングさん、恨むのならディケンズを恨んでね。

 

(2011年8月17日)

第73位

チャールズ・ディケンズ「大いなる遺産」(新潮文庫)

ディケンズは100大長篇に何と3作品ランクインしています。
(あとの2作は82位「二都物語」、34位「デイヴィッド・コパフィールド」)

しかし正直言って私は「読者投票でその後の展開が決まる少年ジャンプ掲載のコミック」的と言おうか、はたまた「サプライズな展開のために前半の設定や伏線を全く無視した事件が起きるアメリカTVドラマの「24」」的と言おうか、あの行き当たりばったり感がどうしても好きになれません。
「大いなる遺産」もまさにそうしたディケンズ・メソッド小説です。

私は小説は純文学であろうとライトノベルズであろうと何でも読みますが、唯一苦手なのがファンタジーというジャンルです。
空想的世界でも魔法でも、それ自体はあってもいいと思うのですが、そういう設定が「都合のいい」展開の道具になっている場合が多くてうんざりさせられるのです。
魔法が出てきてもかまいません。敵が使うのであれば。
でもピンチの時に主人公が突然魔法を使えるようになってばったばったと敵をやっつける、みたいな話にはどこに面白味を見出していいのか全く分かりません。
ディケンズの小説にはそれと同じような臭いが漂っていて、ファンタジー嫌いの私は受け入れられないのです。

 

(2011年6月28日)

第74位

カーソン・マッカラーズ「心は孤独な狩人」(新潮文庫)

安っぽいハードボイルドのようなタイトルのこの本は、今から70年前にアメリカの女性作家によって書かれた小説です。
主要登場人物は5人。
この5人が交流するようなしないような微妙な距離感を保ちながらページが進んでいきます。
微妙と言えば、実際に描かれるドラマもリアルでありながらどこか幻想的、マルクス思想も聖書の言葉も語られますがどこか醒めていて、全体的に漂うような感じが特徴的でした。
「20世紀前半のアメリカ文学」という言葉から想像するよりもずっと現代的な小説でした。


(2011年6月27日)

第75位

ナサニエル・ホーソーン「緋文字」(岩波文庫)

どうも私は「狭き門」のような何かの信念のために何かを耐え忍ぶという話は苦手のようです。
この小説でも女主人公は姦通相手の名を明かすことを拒み、罰を受けることを選びます。
一方その相手は重圧に苦しみ精神的に追い込まれていきます。

二人が何かに耐え忍んでいるのはよく分かるのですが、二人がかつてどのように結ばれ、今二人がその過去をどのように思っているかは一切書かれません。
肝心なことが説明されないので、読んでいると痒い所に手が届かなさすぎて全身が痒くなってくるほどです。

口を開けば「大変、大変」と忙しそうにしている友人に「何が忙しいの?」と訊ねたら「いや、ちょっとね」とはぐらかすばかりでまともに答えてくれない。
何だかそんな印象の小説でした。

 

(2011年5月20日)

「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<第76位〜第80位<main>第66位〜第70位


「罪と罰」を読む(第3部第4章)

第3部第4章(第2巻104〜133ページ)

(54)

第3章と第4章の中心を占めるのは会話劇です。
登場人物はラスコーリニコフ一家3人に、ラズミーヒン、それに第3章ではゾシーモフ、第4章ではソーニャが加わるだけのわずか5人。
舞台はラスコーリニコフの狭い部屋。
時間もほんの数分。
人物も場所も時間も限られていながら、この会話はとても読むのが難しいです。

「そのとき、ドアがひっそりと開いて、ひとりの娘がおずおずとあたりを見まわしながら中に入ってきた」
という客観的目線の文章と、
「ほんの一瞬、一同はなぜか、ふと妙な気まずさを感じた」
というキャラクターたちの内面まで踏み込んだ神の目線の文章と、
「傲慢なやつめ! 自分が施したがってるのを認めたくないんだ!」
という一人称で心境を吐露する文章と、3つの視点が混在します。
登場するのは5人でも、内心まで描写されるのは普通、一人か二人です。

しかし、ドストエフスキーはそんな手加減はしません。
書きたければ全部書く、そんな勢いです。

文体だけではなく、語られている内容も一筋縄ではいきません。

 

(2011年8月1日)

(55)

109ページのラスコーリニコフの言葉は妙です。
「じゃあ、今日?」
「追善の供養、なさるんですか?」
これは107ページのソーニャの言葉を彼が聞いていなかったということを表しているのでしょうか。
ソーニャの言葉の間彼は上の空だった。時間にして20秒程度、彼の頭は彼女をどうやって家族に紹介しようかという思いで一杯だった。
そのことを表現するために挿入されたセリフなのでしょうか。

107ページ前半の20秒間、舞台演出家ならラスコーリニコフ役にどういった演技をさせるのでしょうか、興味深いところです。

もう一つすっきりしない文章があります。108ページ。 
「ロージャの、執拗で、挑みかかるようなまなざしを感じて、プリヘーリヤは心底とまどっていたが、そうすることで何がしかの満足を感じずにはいられなかった。」
これはさっぱり意味不明です。
ですが工藤精一郎の訳を読んでやっと分かりました。
「彼女はロージャの執拗ないどみかかるような視線に射られて、すっかりどぎまぎしていたが、それでも相手を見くだすこの満足をすてることは、どうしてもできなかった。」
意味不明な文章に当たった時には違う訳文を参照せよということでした。

 

(2011年8月3日)

(56)

この章にはまだ他にも引っかかるところがあります。

ラスコーリニコフと別れたあとのソーニャの独白です。
友だち以上 恋人未満の男性が初めて自分の部屋にやってきます。
それに対する不安な気持ちを表す言葉です。

「どうしよう! わたしのところに……あの部屋に……あの人に見られてしまう……ああ、どうしよう!」

不安な気持ちは分かるのです。しかしこの「見られてしまう」とは一体どういうことでしょうか?
まさか、部屋が散らかっているのを見られて幻滅されたらどうしよう? という次元の不安ではありませんよね?
ソーニャの仕事に関わる具体的な「何か」のことなのでしょうか?

さらにもう一つ大きな違和感を禁じ得ない箇所があります。

 

(2011年8月5日)

(57)

家に向かうソーニャを尾行する謎の男が登場します。
素性も明らかにされないまま男の描写が続きます。
いかにも怪しい、不気味な男です。
しかし何とここで男が独白するのです。

これは小説技法上、絶対にありえません。
得体のしれない人物が登場して物語の緊迫感が高まっているのに、その男が
「あれあれ!」
などとつぶやくのです。

どうもこの章のドストエフスキーはちょっとおかしいです。
しかしその疑問は次の場面に突入すると氷解します。

ラスコーリニコフとラズミーヒンの場面です。
ラズミーヒンが褒めるわりに頭のいいところをあんまり見せてくれないラスコーリニコフですが、126ページからようやくぴりりと締まったところを見せてくれます。
ここでもやはり余計な独白はあるのですが会話に勢いがあるのでさほど気になりません。
とにかくラスコーリニコフがかっこいいです。
第1巻378ページからのザメートフとのやり取りもなかなかイケていたのですが、何と言っても相手が小者過ぎました。
今回はいよいよボスキャラの登場です。
ドストエフスキーのペンも冴え渡ります。
ラスコーリニコフのからかいの言葉のスピード感はそのまま二人の足取りの速さを表しています。

我らが主人公は全速力で次のステージに飛び込むのです。

 

(2011年8月8日)

プロローグ<第3部第3章<main>第3部第5章


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