神戸元町ダイアリー2010年(3)

豪雨続きの梅雨が明けると信じられないような猛暑です。
変化がとても極端です。
0か1のデジタル化が地球気候にも進んでいるのかもしれません。
さっそく蝉も大合唱ですが、以前から疑わしく思っていることがあります。
「蝉は本当に地中で7年も過ごしているんだろうか?」
7年目に地上に出てきて7日で死ぬ、と子どもの頃に教えられました。
しかし本当に飼育箱などで7年間観察を続けた人がいるのでしょうか?
木の根元を掘ったら蝉の幼虫がいた。次の年もいた。その次の年もいた。しかし7年目にはいなかった、だから7年目で地上に出て行ったのだろう……くらいの根拠ということはないのでしょうか?
実際には種類によって7年より短いと言われているものもいるし、中には10年以上も地中にいると言われているものもいるらしいです。
でもその根拠は「●●年ごとに大発生するから」ということのようです。
サッカーファンだって4年に一度大発生します。
大発生と寿命の間に関係があるとは単純には信じられないのです。

 

(2010年7月26日)

もう一つ疑わしく思っていることがあります。
コウモリです。
コウモリは超音波を出して潜水艦のソナーのように障害物の位置を把握して、真っ暗闇でも飛ぶことができると習いましたが、これもとても信じられません。
だって超音波は秒速340メートルなんですよ。
発射された超音波が170メートル先の物体に当たって帰って来るまでがちょうど1秒です。
30メートル先くらいに壁みたいなものがあるぞ、っていうのは分かるかもしれません。
しかし複雑な形の洞窟の中を自由自在に飛ぶためには最長1メートルくらいの分析能が必要です。つまり0.00588秒の違いを聴き分けなくてはならないのです。
しかも飛びながら。
さらにその他大勢のコウモリたちの超音波の中から自分の波長を聴き取って、です。
うちのネコは室内飼いです。
ところが時々ドアを開けて脱走します。
ロックがかかっていても、狙いすましてドアノブにハイジャンプして、たまたま後ろ足がロックを解除して、さらに体重のかかり具合でドアが開いてしまう、という偶然が重なるとドアは開きます。
ネコが自力でドアを開けた可能性もゼロではありません。
でも普通は「ドアがしっかり閉まってなかったんだな」と考えます。
コウモリが1000分の1秒単位の識別能を持つ超高性能全方位ソナーを持っていると考えるよりも、「とっても目がいい」と考える方が普通だと思うのですが……。

 

(2010年7月28)

スタッフと映画の話をしていて、洋画を映画館で観るのはしんどいという話が出ました。
字幕を読むのが面倒だし、人物関係が分かりにくい、この2点が大きな理由だそうです。
字幕については全く同感です。
法廷ものやハイテクスリラーものなど専門用語がばんばん出てくる映画を字幕で理解できるとは思えませんから、私は映画館では観ません。
コメディーもそうです。字幕のギャグではあんまり笑えませんよね。
そういう映画はDVD化を待って、家で吹き替えと字幕を両方ONにして見ます。
最近はDVD化に当たって字幕をつけ直す事が多いようです。
TVの高画質化に伴ってDVDは劇場公開版よりも文字数を多く使って翻訳できるので、字幕版と吹き替え版のニュアンスの差を感じることは少なくなってきました。
それでも私はやっぱり吹き替え版の方が楽しめます。
で、2番目の「人物関係」です。
これが、よく考えてみるとなかなか興味深いです。

 

(2010年8月2日)

「洋画は人間関係が分かりにくい」というのにも、ある程度賛成です。
映画ファンを自認する者として告白するのに大変勇気がいるのですが、実は私には白人が全部同じ顔に見えます。
アメリカのTVドラマ、たとえば複数の人物が均等に活躍する「デスパレートな妻たち」などを見ても、大体3話くらい見ないと主要キャストの区別がつきません。これが2時間の映画だと誰が刑事か誰が犯人かすら分からないまま終わってしまったりするのです。
これが日本の映画ではあまり困ることはありません。
これだけグローバルになっても私にはやっぱり日本人の顔しか識別できないのです。
と、そこまで考えて、ふと思いつきました。
アメリカ映画はまだ分かりやすい。
若い人には想像もつかないでしょうが、実はほんの数十年前までアメリカは映画二流国でした。
映画と言えばフランスとイタリアが本場で、アメリカでは国内向けにミュージカルと西部劇くらいしか作られていなかったのです。
それが戦後、圧倒的な資本力と、ミュージカル制作で培われたエンタ・パワー、それに「第二次大戦モノ」という豊富なコンテンツを武器にあっという間に世界を席巻したのです。
と、今まで私は思っていました。
でももう一つアメリカ映画が大ヒットした理由があることに気がつきました。
それが「人間関係の分かりやすさ」です。
アメリカでは60年代から「ポリティカル・コレクトネス」という動きが活発になりました。
差別をなくそうという理念の下に、雇用や昇進などに一種の逆差別的な取り扱いを取り入れるという発想です。
その延長でドラマの表現にも空想的な平等が要求されました。
たとえば4人組の捜査班が活躍する刑事ドラマがあるとします。主役は白人だとして、残りの2人は黒人と女性、そしてみんなの足を引っ張るドジな一人は白人でなくてはなりません。
こうすると「政治的に正し」く、なおかつ外国人から見ても非常にキャラクターの区別がつきやすくなるのです。
今でもヨーロッパの映画では登場人物の区別をつけるのは非常に難しいです。特にチームを組んで銀行強盗をする、などという話になると最後まで誰がチームメイトで誰が警察側なのか、大げさでなく、さっぱり分かりません。
アメリカ映画の台頭、これは「ポリティカル・コレクトネス」の思わぬ副産物だったと思うのです。

 

(2010年8月4日)

日本の100歳以上の人口は約4万人で、そのうちの1000人に1人が行方不明なのだそうです。
自分の経済的状況、健康状態などで親の面倒を見るどころでないという事情はよく分かります。
今回のニュースを元に家族の絆を云々するのは全く意味がないことだと思います。
が、間違いなく言えることが一つあります。
戦前の方が家族の絆は強かったなどというのは嘘っぱち。
「昔はよかった」的復古主義に根拠がないことを今回のニュースはよく表していると思うのです。

 

(2010年8月6日)

政局を扱うニュースショーを見ても、同様の違和感を憶えてなりません。
今の政治家には指導力がない、豪胆さがない、芯が通っていない、コメンテーターは口をそろえてそう言います。
しかしそれは当然だと思うのです。
派閥の存在を否定し、政治資金をがんじがらめに縛りつけて、世論調査を毎週のように行って週単位で何らかの成果を要求する。
国民が(というよりマスコミが)政治家に、指導力よりも親近感、豪胆さよりも清潔さ、気骨よりも八方美人さを求めるようになったのですから。
昔の政治家は豪快だったと言うのなら、同時に彼がどう政治資金を操っていたかも語るべきだと思うのです。
かつての首相にはカリスマ性があったと言うのなら、同時に彼によって破壊されたものも語るべきだと思うのです。
過去ばかり賛美したがる人には政治の未来を語って欲しくないと思います。

 

(2010年8月9日)

ハイブリッドカーが低速で走る時の走行音をどうするべきかが問題になっています。
気配もなく近づいてくる電気モーター走行車にびっくりした経験は誰にでもあると思います。
今後、モーターや電池の機能向上に伴ってモーター走行切り替えの速度設定も高くなっていくでしょう。
市街地を走る場合は全て電気走行という時代もすぐ来そうです。
その場合に、フェラーリなどの超高級車の走行音が低速走行時警告音として商品化されるのではないかと予測する人もいます。
人気アニメの宇宙船やロボットの動作音も人気が出るかもしれません。
騒音を撒き散らかしながら走る事が目的の人たちはどうするのでしょうか。
わざわざお金を払って「爆音」を買うのでしょうか、迷惑走行だけに専念するのでしょうか。
全く興味はありませんが、気になるところです。

 

(2010年8月27日)

クリニックの待合にクラシック音楽の月刊誌「レコード芸術」が置いてあります。
「クラシックファンならレコード芸術を読むものだ」という思い込みで読み始めて、何と30年にもなります。
記事は国内盤の新譜情報が中心です。
「春の祭典」は10枚以上持っているけれど今度出たデュダメルのも面白そうだから買おう、そういう購買行動の人が主な読者層です。
全集フェチで、同曲異演を聴き比べることにあまり興味のない私には本来不要な雑誌です。
しかし先の「思い込み」で買い続けて、今さらやめるにやめられなくなっているというのが正直なところです。
「思い込み」と言えばついこの間、衝撃的な事実に気がついてしまいました。
「レコード芸術」には「海外盤レビュー」というコーナーがあるのですが、実は私はこのレビュアー達がみな海外在住だと思い込んでいました。
海外盤なんて国内でも普通に流通していて普通に入手できるのに、なぜかこの雑誌を読み始めてから何となくそう思い込んでいたのです。
この雑誌を読んでいない人にはぴんと来ない話だと思いますが、お恥ずかしい勘違いです。
お恥ずかしい思い込みがもう一つありました。
ルトスワフスキという作曲家がいるのですが、時々「ルトワフスキ」と誤って呼ばれるのです。
ところが以前誰かが「ルトスワフスキ」と「ルトワフスキ」は別人だと言っていたような記憶がかすかにあって、先日この話題が出た時に思いっきり「ルトスワフスキ」という作曲家も「ルトワフスキ」という作曲家も別々にいる!と断言してしまいました。
そのあと調べると同一人物誤表記でした。
その場にいた人ごめんなさい。全然嘘っぱちでした……。

 

(2010年9月3日)

散髪屋や美容院で時間が知りたい時に、今見えている時計が本物なのか、鏡に映った像なのか、あるいは2回反射して見えている像なのか一瞬分からないことがあります。
針型の時計は直感的に時間を把握するにはとても便利ですが、散髪屋さんには不向きです。
デジタル型の文字盤も「2」と「5」が左右対称なので使えません。
そこで散髪屋さん向けに漢数字表記の時計を発売してはどうでしょうか。
「三時四十五分」「七時八分」「十一時十一分」
これなら鏡にどう反射しようが読み間違えることはないと思うのです。
散髪屋さんだけじゃなくって、腕時計の表示としてもなかなかお洒落かもしれません。

 

(2010年9月6日)

アニメーション監督の今敏(こん・さとし)氏が膵臓癌で亡くなりました。
46歳だったそうです。
急逝のわずか1週間前、彼はブログで世界映画100をリストアップしています。
(製作仲間との会話によく出てくる映画を挙げていっただけで決して「ベスト100」を選ぼうとしたわけではない、と本人は書いていますが、発表時期から言っても内容から言っても「今敏ベスト100」と受け取って間違いないと思います)
エンタテインメント中心のチョイスで、アート系に重心を置きがちのこうしたリストには珍しい、役に立つ実用的なものとなっています。
で、ベスト100などと言われると、全集フェチ魂が激しく揺すぶられてしまうわけで。
彼の遺言代わりのベストムービーズリストを10年くらいかけて追いかけてみようかと思っているところです。
それにしても興味深いのが100本にアニメが1本も含まれていないところ。
アニメというジャンルに厳しかったのか、あるいはアニメーションを実写映画とは別次元と考えていたのか、どっちなのでしょう?
あ、そう言えばチャップリンも全く入ってないですね……。

 

(2010年9月8日)

この間中学3年生の甥っ子と話をしていたら「数学ができる連中の数学的発想には舌を巻く」というようなことを言っていました。
すごいですね。
「数学」が計算能力を鍛える科目ではなく数学的発想を育む科目であると、私が気がついたのは高校を卒業してからでした。
学問は何を学ぶべきか分かって初めて学問になります。
答えは、答えを求める人だけに与えられのです。
頑張れ、甥っ子。

 

(2010年9月10日)

数学的発想という言葉で何となく円周率を思い浮かべました。

3.141592……

この数字を見ると、この並び方ってつくづく罪作りだと思うのです。
小数点のすぐ右が「 5 」だとどんなによかったでしょう。
もし円周率が

3.5141592……

だったら、実生活でも教育の現場でも何の問題もなく「円周率≒3.5 」だったと思うのです。
ところが現実には「 1 」という、切り下げに最も適した数字が2桁目と4桁目にあって、しかも3桁目が微妙に切り捨てにくい「 4 」。
本当は身の回りの概算では「 3 」を、専門領域や試験問題では「 3.14 」を用いる、という風に使い分けることができればベストです。
そこまで考えて数年前の「文部科学省は円周率を3と教えようとしている」騒動を思い出しました。
その当時はその問題に何の興味もなくて記事も読み飛ばしていたのですが、今騒動の顛末を振り返ってみると、まさに「 3 」と「 3.14 」の使い分けこそが文部科学省のやりたかったことのようです。
それが当時の悪意による報道によってつぶされてしまったそうなのですが、もしこれが実現できていたとしたらどんなに便利な世の中だったことでしょう。

校庭に1周200メートルのトラックを作りたい。見た目を良くするために長径と短径の比を3:2にしたい。直線コースの長さと円形コースの半径はそれぞれ何メートルか?

もし私が「実生活では円周率を3として計算すると便利」と教わって、子どもの頃から円周率の概算に慣れていれば暗算で答えをはじき出したと思います。
ところが私の中で円周率はあくまでも「 3.14 」であって、これはもう暗算する気にもならない手の届かない数字です。
つまり私たちは従来の指導要領では、円周率に関する計算は諦めるしかない、と教わったも同然だったのです。
実際には、どの場面で「 3 」を使い、どの場面で「 3.14 」を使うか、その判断にこそ数学的発想が必要です。
数学的発想の乏しい子どもにこの使い分けを強制するのは無理です。
しかしその一方で数学的発想の豊かな子どもから日常生活で円周率を用いる喜びを奪ってしまったのは罪作りだったと思うわけです。

ちなみに上の例題ですが、円周率を3とした場合の答えは直線コース、半径ともに20メートルです。
3.14で計算した場合はこれが19.5 となります。

 

(2010年9月13日)

先日長浜に行ったのですが、琵琶湖のほとりに立つと水平線が見えてびっくりしました。
水平線って何十キロも何百キロも先にあるのかと思っていましたが、琵琶湖の大きさでもちゃんと見えるのです。
そこで最近数学的発想に凝っている私は考えました、「水平線って何キロ先なんだろう?」

基本はピタゴラスの定理です。

(私の目から水平線までの距離)の二乗+(地球の半径)の二乗=(地球の半径+私の目の高さ)の二乗

で、等号の右辺を計算すると

(地球の半径)の二乗+(目の高さ)の二乗+2×(地球の半径)×(目の高さ)

目の高さは、仮に高いビルの上からでもせいぜい数十メートル、つまり100分の1キロレベルなので(目の高さ)の二乗はばっさりと切り捨てます。
それから等号の左右の同じ項目を消すと

(水平線までの距離)の二乗≒2×(地球の半径)×(目の高さ)

という概算式が得られます。
ここで地球の半径を思い出します。
確か200年ほど前にフランスの誰かが地球の円周の四千万分の1を1メートルと決めたのでしたっけ?
とすると地球の円周は4万キロ。半径はお得意の「円周率を3とする」方式で計算すると6700キロくらい。
目の高さを2メートル弱とすると、式の右辺は
2×(おおよそ6700)×(おおよそ0.002)
=2×(おおよそ6.7)×1000×(おおよそ2)×0.001
=2×(おおよそ6.7)×(おおよそ2)
=おおよそ25
で、上手く平方根が取りやすい数になりました。

つまりヒジョーに大雑把な計算によると水平線はおおよそ5キロあたり先にあるようです。
確かにそれならば琵琶湖でも十分見えるはずですね。

ああ、しんどー。

 

(2010年9月15日)

先日のコラムで「見た目をよくするために長径と短径の比を3:2にしたい」という文を書きました。
計算の簡略化のために「3:2」を使いましたが、見た目を考えれば本当なら「黄金比」を使いたいところです。
「黄金比」の成り立ちや定義はいろいろややこしいのですが、近似値としては8:5だそうです。

8:5 ?

ずいぶんと中途半端で扱いにくい数字です。
しかしこうして見るとどうでしょうか。

1.6:1

つまり私が足を1メートル開いて両腕を頭の高さで握りしめてガッツポーズを取れば、縦横の比率はほぼ1.6:1です。
鏡の前で試してみてもあんまり「黄金比」という感じではないのですが、計算上はそういうことです。

誰ですか、「身長と腹囲が黄金比だ」なんて言ってるのは。
それはただのメタボです。

 

(2010年9月17日)

数学的発想ともう一つ、子どもたちにしっかりと教えておいて欲しいものがあります。
「統計」です。
自分のことを振り返ってみるに、順列組み合わせや確率のややこしい計算方法は教わった憶えがありますが、「統計とは何ぞや」という基本的な考え方を教わったことはなかったように思うのです。
統計とは人生の指針だと思うのです。
人を幸福に導く絶対的に揺るぎのない道しるべと言ってもいいし、神の御心と言ってもいいものです。
ただし、統計に神の御心を映し出すためには徹底的に厳格な運用が必要です。
統計から神の御心を読み取るためには訓練された読解力が必要です。
ところが送り手としても受け手としても何も教育されていない状態で私たちは世間に放り出されてしまいました。
そこで悪意に満ちた誘導質問によって得られた世論調査が幅をきかし、いい加減な統計から得られた誤った情報がセンセーショナルに報じられ、一方で正しい統計から導かれた正しいが地味な真実は誰からも振り向かれず、結局私たちは幸福から遠ざけられているのです。
そう言えば先日「コレステロールが高い方が長生きする」という記事が新聞に載っていました。

 

(2010年9月22日)

記事の元になったのは「日本人はLDL-Cが高い方が長生きする」という論文。
http://www.jstage.jst.go.jp/article/jln/18/1/21/_pdf/-char/ja/
LDL-Cとは俗に言う悪玉コレステロールです。
つまり「悪玉コレステロールが高いほど長生きする」という実にセンセーショナルなタイトルで、マスコミが飛びつくのも当然といった感じです。
どんなキワモノ的な論文だろうと思って読んでみると、内容はわりと穏当です。
コレステロール治療の基準値は厳しすぎるんじゃないか? という指摘は現場の臨床医も常々感じていることではあります。
その「現場の実感」を統計的に証明してくれるのかと期待して読み進めると、しかしその証明手法はかなり短絡的でした。
その手法とは、60歳以上を中心とした人たちを悪玉コレステロールの値によって分けて、それぞれ追跡調査する、というもの。
この調査によると、悪玉コレステロール値が低い人は死亡率が高い、という結果になっています。
しかし統計は常に因果関係を考えながら鑑定しなくてはなりません。
そうでないと私たちは「高級車の持ち主は金持ちが多い」という事実から「高級車に乗れば金持ちになれる」という結論に飛びついてしまったりするのです。
たとえば今回の調査では悪玉コレステロールの低い人は癌と呼吸器疾患で死亡する率が高かったとされています。
「悪玉コレステロールが低い人に癌で亡くなる人が多い」という調査から導かれる結論はどちらでしょう?

1)悪玉コレステロールを下げると癌になりやすい
2)癌になると悪玉コレステロールが下がる

そうです、1)であるか2)であるか判断するための材料が、この調査からは全く抜け落ちているのです。
さらにこのグラフでは悪玉コレステロールが高い人の死亡率は正常の人と変わりません。
だからコレステロールは高くてもいいのだ! とついつい考えがちです。
しかしこの調査の対象が60歳以上であることを考えなくてはなりません。
論文の2番目のグラフに年代別の悪玉コレステロール値が描かれています。
これを見ると悪玉コレステロールの値は年齢とともに徐々に増えて、50歳代をピークにしてそれ以降下がっていきます。
特に50歳からの上限値の急激な減少が特徴的です。
このグラフから「歳を取るとコレステロールが減ってくる」と結論付けるのは性急すぎます。
「50歳を過ぎるとコレステロールが高い人はばたばた死んでいく」という可能性をまず否定してもらわないといけません。
つまり今回の調査から導かれるのは「高コレステロールでも60過ぎまで生きた人は普通の人と同じくらい長生きできる」ということでしかないのです。
今回の研究は標本数も多くて統計としての信頼性は高いと思います。
しかしそこから何らかの「神の御心」を読み取るにはさまざまな条件付けが絶対的に足りないのです。
実際この論文で大櫛教授が結論としているのは以下の5点です。
( )の中はこの論文に提出されたデータのみに基づいた、大櫛教授個人の憶測部分を取り除いて私が補正したものです。

1)日本人でも女性にはコレステロール低下治療は不要である。
(60歳以上の女性ではコレステロール値によって死亡率は変わらない。)
2)男性でも1次予防としては、LDL-Cが190mg/dl未満でのコレステロール低下治療は不要である。
(60歳以上の男性は190未満であれば死亡率は変わらない。)
3)糖尿病患者についても、上と同様である。
4)LDL-Cが悪玉、HDL-Cが善玉とは言えない。
5)欧米の中性脂肪の治療ガイドラインは日本人にも適切であると思われる。
(日本独自の治療目標水準を決める意味は見出せない。)

いかがでしょうか。教授の結論にはかなり憶測が含まれていますが、さすがに彼自身も「コレステロールが高い方が長生きする」とは結論付けてはいません(当然です、この調査をどうつつこうがそんな結論が得られるわけがないので)。
それなのになぜかこのタイトル。
本文はそれなりにまじめな論調なのに、本文とは一切関係のないセンセーショナルなタイトルを見て、どうしてもスポーツ新聞のデマ半分の大げさなタイトルを思い出してしまうのです。


(2010年9月24日)

それから最近時々目にして感心させられる統計があります。
喫煙率と肺癌患者数の推移データです。
喫煙率は戦後から60年頃までほぼ80%でしたが、その後徐々に減少して現在では40%を切りました。
一方肺癌患者数は70年代からかなり急激に上昇してこの15年間で倍以上になっています。
喫煙率は半分になっているのに肺癌患者が倍になっているのはおかしいじゃないか!
タバコと肺癌に関係なんてない! という意見の根拠になっているデータです。
医学生が最初に教わる常識、肺癌の中にはタバコと相関関係がある「小細胞癌」、「扁平上皮癌」と、比較的関係のない「腺癌」があって「腺癌」が肺癌の半数以上を占める、という事実を全く無視しているという点に、まず悪意を感じます。最近急速に増えているのは「腺癌」の方です。
しかしそれは置いておいて、統計の見方に話を絞りましょう。

Aが減っているのにBが増える、だからAはBの原因ではない。

これってまともな思考方法でしょうか?

食費を減らしているのに生活費が減らない、従って食費と生活費は関係ない。
英語は頑張ったけど成績は下がった、従って英語と成績は関係ない。

普段の生活でこんな考え方をする人はいないと思うのです。
食費を減らしても他で贅沢すれば生活費はかさみます。
英語だけ頑張っても他の教科が赤点なら落第です。
ごくごく常識的なことです。
ところが目をちかちかさせるような数字を並べて、さらに折れ線グラフで見せられたりすると印象が突然アカデミックになるから不思議です。

喫煙率が下がっているのに肺癌患者数が増えているのは事実です。
しかしそのデータから「喫煙と肺癌は関係なし」という結論を導き出すためには、喫煙以外の「肺癌の原因となりうる事象」を除外しなくてはなりません。
ここで二つの統計を見ましょう。
http://ganjoho.ncc.go.jp/professional/statistics/index.html
癌は高齢者に多く発生することが分かりますが、肺癌が胃癌に比べて70台を超えてから急カーブを描いているのが特徴的です。
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/koureikan.htm
一方こちらの統計を見ると75歳以上の人口がこの20年で倍になっているのが分かります。

つまり
1)肺癌患者数は75歳以上で急速に増加する
2)75歳以上の人口が急速に増加している
これらの影響を統計処理してからでないと……、と思いましたがこの二つで十分すぎるほど肺癌増加の原因は説明されていますね。

「肺癌が増加しているのは高齢化のせい」
それ以上でもそれ以下でもありません。
やっぱりタバコはやめた方がよさそうです。

 

(2010年9月27日)

高齢者の喫煙で考えることがあります。
70歳をすぎて心臓も肺も頭の血管も大丈夫であれば、無理に禁煙させる必要はないのではないかと個人的には思います。
医学的には。
しかし煙草の害は医学的なものばかりではありません。
住宅火災のおよそ6分の1が煙草の火の不始末によるものです。
煙草を吸っている人であれば誰でも経験があるのではないでしょうか。
ちょっと目を離した隙に煙草が灰皿から転がり落ちてテーブルを焦していたとか、煙草を吸っていたことを忘れて寝てしまい、目が覚めたら灰皿の中で煙草がそのままの形で灰になっていたり……。
健常人でも「煙草のある生活」にぞっとさせられたことは二度や三度ではないはずです。
今後高齢化が急速に進みます。
現代のライフスタイルから考えて一人暮らしのお年寄りが急増します。
そして煙草を吸うお年寄りも。
それから認知症になる人も。
つまり独居・喫煙・認知症老人がこれから急激に増えるのです。
残酷な言い方ですが、煙草を吸って自分が病気になるのはまだ影響が少ないのです。
しかし認知症のお爺さんの煙草の火の不始末でアパートが全焼すれば、全く何の関係もない何人もの命が失われます。
高齢者の禁煙に地域を挙げて取り組むべき時代がもうすぐそこまで来ていると思うのです。

 

(2010年9月29日)

神戸元町ダイアリー2010年(2)家族の絆<main>神戸元町ダイアリー2010年(4)尖閣諸島問題


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