第2部第6章(第1巻366〜414ページ)
(33)
一人になったラスコーリニコフはふらふらと部屋を出ます。
「今日こそけりをつける」
彼はそう言います。
この時点で彼に残された選択肢は3つしかありません。
1)警察の捜査に立ち向かう
2)自首する
3)自殺する
老婆を殺せば新しい世界が開けると思っていたラスコーリニコフですが、現実は全く違っていました。
老婆殺しは「自分は選ばれた人間ではなかった」という事実をラスコーリニコフに冷酷に突きつけました。
敗者復活戦を戦うためには強靭な精神力と生命力が必要です。
しかしことあるごとに昏倒する彼にそんな生命力は残っていません。
おぼろげな意識の中で盗品を隠すのがやっとでした。
もし第6章冒頭の時点で警察の取り調べが行われたとすればラスコーリニコフは簡単に白状していたでしょう。
「けりをつける」という彼の言葉もそれを表しています。
「逃げのびる」という行動を「けりをつける」とは呼びません。
この時点で彼が念頭に置いていたのは「自首」か「自殺」しかありません。
しかし抜け殻になったはずのラスコーリニコフは376ページで何故か生命力を取り戻します。
「七十センチ四方の空間に立ったまま、一生涯、千年、いや永遠に生きて行かなくちゃならないとしたら――それでも、そうして生きているほうが、いま死ぬよりはましだ!」
彼は「自殺」という選択肢を拒絶しました。
「七十センチ四方の空間」という言葉は収監、つまり「自首」の決意を思わせます。
ところが彼の生命力は「自首」さえも拒絶する復活を見せていたのです。
(2010年6月16日)
(34)
自首するのなら新聞記事など気にするはずがありません。
「水晶宮」で新聞を持って来させた時点でラスコーリニコフは警察と戦おうと決意しているわけです。
ちょうどそこに居合わせたのが警察の書記官ザメートフでした。
彼はラスコーリニコフの格好の標的になります。
ラスコーリニコフはザメートフをあざ笑い、もてあそびます。
小説が始まってからここまで全くいいところのなかったラスコーリニコフですが、ここでは冴えたピカレスクぶりを見せてくれます。
若い読者を惹きつけるのはこういう部分だと思うのです。
と同時に若い読者を戸惑わせるのもこの部分です。
店を出たラスコーリニコフはとたんに生命力を失ってしまいます。
ザメートフをあれだけ余裕で痛めつけたのに、その直後に彼は元気さを失ってしまうのです。
つまり彼の生命力はザメートフのような小者相手に、しかも短時間しか続かない程度のものだったのです。
その中途半端な生命力を彼に与えたのは何だったのでしょう。
(2010年6月18日)
(35)
ドストエフスキーが厄介で、なおかつ面白いのは、何回読んでも訳が分からなかった描写がふとした拍子に腑に落ちる(?)ことがあるからだと思います。
この章でも「何を言っているのかよく分からない」会話がいくつかあります。
まず370ページ。
「なんていう名だ?」
「親にもらった名前さ」
「なに、きみはザライスクの出身なのか?何県だ?」
これなど文面だけ読んでいてもちんぷんかんぷんです。
しかしこういう文章だと違ってくると思うのです。
「なんていう名だ?」
「それを訊いてどうするつもりぞなもし」
「なに、きみは伊予の出身なのか?どこだ?」
赤いシャツの若者に特徴的な訛りがあったということなのでしょう。
そしてそれに飛びついたラスコーリニコフもザライスクの出身ということになります。
一方若者はラスコーリニコフに対してかたくなな態度を崩しません。
もっとも自然な解釈としては、ラスコーリニコフが病的で危なそうだったから若者が避けた、というものでしょう。
ラスコーリニコフはまず若者に「この角で商売をしている商人がいるだろう?」と問いかけたのです、買い物に来たわけでもない不審人物の相手をしたくなかった気持もあると思います。
こういうストーリーはどうでしょう。
リザヴェータは殺される前日、商人夫婦に何かを持ちかけられます(149、150ページ)。
「いらっしゃいよ、六時すぎに。先方もお見えになりますから」
「姉さんにはことわらずにおいでなさい。なんせ、儲かる話なんですから」
よく分かりませんが、普通に「一緒にご飯を食べましょう」みたいな話ではなさそうです。
そしてリザヴェータは翌日彼らの言葉に従って何かをして、その直後に殺されました。
商人夫婦はそれを聞いて震えあがって店を閉めて逃げ出した。
彼らが何かよからぬことを企んでいたのを感じていた若者は、商人夫婦を訪ねてきたラスコーリニコフを強く警戒した。
はい、いくら何でも話を作りすぎですね。ごめんなさい。
(2010年6月21日)
(36)
377ページから378ページあたりのおまじないのような言葉の羅列も奇妙ですが、これについては巻末の読書ガイドで説明されています。
「イズレル」とはペテルブルグ郊外の遊園地の所有者の名前、「マッシモ」「バルトラ」は当時人気の芸人コンビ、実際その当時の三面記事をにぎわせていた固有名詞だったそうです。
今なら差し詰め
「ワールドカップ」「ワールドカップ」「ワールドカップ」「野球賭博」……ああ、これだ「ペテルブルク老女殺人事件」
という感じでしょうか。
もう一つ分かりにくいのは379ページの最後
「ほんとうにしょうのない暴れん坊で!」
「火薬中尉が?」
「いや、あなたのお友だちのラズミーヒンですよ……」
確かにこの直前のラスコーリニコフのセリフにはラズミーヒンも火薬中尉も登場するので、ザメートフがどちらの名前に反応しても不思議はありません。
しかしラズミーヒンに対して「暴れん坊」という表現はどうでしょうか。
答えはここから70ページも先にあります(452ページ)。
前の晩、ザメートフはラズミーヒンに殴られていたのです。
つまりザメートフは「火薬中尉たちがラスコーリニコフを疑っている」と口を滑らせてラズミーヒンの怒りを買ってしまったのです。
主人公が寝ている間、つまり読者も知らない間にも話がどんどん進行していくドストエフスキー流のドラマ技法と言えるでしょう。
(2010年6月23日)
(37)
いまだに分からないところがあります。
375ページ。
ラスコーリニコフは街にたむろする女たちと軽口をたたき合います。
若い女が言います。
「あんたならいつでもお相手するわ、でも、いまはね、なんだか変に気が引けちゃってさ。(中略)お酒のみたいんだけど、六コペイカめぐんでくんない!」
年増の女がそれを見て口を挟むのですが、その言葉の意味が分からないのです。
「だめだよ、いったいなんてことするんだ(中略)ほんとにあきれたよ、よくまあ、そんなおねだりができたもんだね! あたしだったら、恥ずかしくって死んじゃいたいくらいなのに!」
私はこれを今までは「男を誘う」のが「恥ずかしい」のだと思っていました。
しかし彼女たちはどこからどう見ても街の女です。
「男を誘う」のが仕事です。
現に彼らのすぐ横を、百姓風の男が「こってりサービスしろよ」と言いながら別の女を連れて地下に入っていきます。
今さらラスコーリニコフに対して何も恥ずかしがることなどないのです。
恥ずかしがるとすれば、お酒を飲みたいと言って金をせびったこと以外考えられません。
年増女は「金が欲しければちゃんと仕事をしろ」と言っているのです。
それが次のページの「話しぶりもなじる口調も、おだやかながら真剣そのものだった」という言葉に表されていると思うのです。
が、
そうは思うのです、が、
実は、よく分かりません。
何を思ってドストエフスキーはこの描写を放り込んだのでしょうか。
(2010年6月25日)
(38)
いまだに読み間違いがあります。
ラスコーリニコフの35ルーブルのうち、ラズミーヒンが9ルーブル55コペイカを使って帽子やズボンを買いました。
今残っているのは25ルーブル45コペイカ。
小銭はたまたま全部5コペイカ玉で、9枚です。
これを全てポケットに入れてラスコーリニコフは部屋を出ました。
まず手回しオルガンを伴奏に歌っていた少女に5コペイカ渡す。
金をせびってきた街の女に15コペイカ渡す。
手元には25ルーブルと20コペイカしか残っていません。
ところが「水晶宮」で会計30コペイカにチップ20コペイカ、合計50コペイカを支払い、そのあとでラスコーリニコフは25ルーブルをザメートフに見せつけるのです。
これが4月2日のこの欄で書いた矛盾なのですが、私の勘違いでした。
ラスコーリニコフはボーイに小銭20コペイカをチップとして先に渡したのです。
その残りを支払おうとしてあり金を全てザメートフの前に出す。
10ルーブル札2枚と5ルーブル札1枚。
そしてラスコーリニコフがザメートフに「この金をどうやって手に入れたかって?」などと挑発している間に、ボーイは5ルーブル札を取り、30コペイカ引いて4ルーブルと70コペイカを返したのでしょう。
つまりこの時点でラスコーリニコフの手元には10ルーブル札が2枚、あとは硬貨ばかりが残されていることになります。
これで矛盾はなくなりました。
しかしやっぱりよく分からないのです。
(2010年6月28日)
(39)
たった数十ページの間に三つもの疑問を抱えることになってしまいました。
1)ラスコーリニコフはどうして生命力を回復したのか、
そしてそれはどうしてあっという間にしぼんでしまったのか。
2)街の女の場面にはどういう意味があるのか。
3)細かな金勘定は一体何のためか。
どうして次の章からは金勘定が大雑把になるのか。
分かるような分からないようなこの疑問も、こうやって並べるとおぼろげに見えてくるものがあります。
細かな金勘定は、ラスコーリニコフが「何を買ったか」ではなく、「何を買わなかったか」を表しているのでしょう。
つまり「話しぶりもなじる口調も、おだやかながら真剣そのものだった」年増女に、ラスコーリニコフは金を払わなかった、その事実を表すための金勘定だった可能性が高いと思うのです。
飲み代として金をせびる女がいる、一方でプライドらしきものを持った女がいる。
そこをラスコーリニコフは素通りした。
そしてその直後に彼の生命力は一瞬の高まりを見せます。
彼の胸にはこの言葉が燃えています。
「人間なんて卑劣漢だ!」
「卑劣漢」という言葉を聞けばどうしても思い出します。
68ページのラスコーリニコフの謎めいた独白です。
「もし、人間がほんとうに卑怯者でないとしたら、人間ぜんぶ、つまり人間という類が卑怯者じゃないとしたら、ほかの残りのすべて迷信ってことになる」
これはソーニャの存在と登場を暗示する導入音のようなものでした。
彼は二つの違うタイプの街の女を見て、第三のタイプの可能性を思い浮かべた。
身を売りながら、なおかつ卑劣でない、街の女。
ソーニャという名前ではなく、あくまでもその存在をぼんやりと指し示す導入音が彼の脳裏に再び響きます。
その響きを糧に彼は生き返った。
しかしその寄る辺は、はかない和音です。だからその生命力は長く続かなかった。
こう筋道をつければ上の三つの疑問はある程度説明できます。
もちろん細を穿ちすぎた解釈ですが。
私たちはまだまだ先を急がなくてはなりません。