「罪と罰」を読む(第2部第6章)

第2部第6章(第1巻366〜414ページ)

(33)

一人になったラスコーリニコフはふらふらと部屋を出ます。
「今日こそけりをつける」
彼はそう言います。
この時点で彼に残された選択肢は3つしかありません。

1)警察の捜査に立ち向かう
2)自首する
3)自殺する

老婆を殺せば新しい世界が開けると思っていたラスコーリニコフですが、現実は全く違っていました。
老婆殺しは「自分は選ばれた人間ではなかった」という事実をラスコーリニコフに冷酷に突きつけました。
敗者復活戦を戦うためには強靭な精神力と生命力が必要です。
しかしことあるごとに昏倒する彼にそんな生命力は残っていません。
おぼろげな意識の中で盗品を隠すのがやっとでした。
もし第6章冒頭の時点で警察の取り調べが行われたとすればラスコーリニコフは簡単に白状していたでしょう。
「けりをつける」という彼の言葉もそれを表しています。
「逃げのびる」という行動を「けりをつける」とは呼びません。
この時点で彼が念頭に置いていたのは「自首」か「自殺」しかありません。

しかし抜け殻になったはずのラスコーリニコフは376ページで何故か生命力を取り戻します。
「七十センチ四方の空間に立ったまま、一生涯、千年、いや永遠に生きて行かなくちゃならないとしたら――それでも、そうして生きているほうが、いま死ぬよりはましだ!」
彼は「自殺」という選択肢を拒絶しました。
「七十センチ四方の空間」という言葉は収監、つまり「自首」の決意を思わせます。
ところが彼の生命力は「自首」さえも拒絶する復活を見せていたのです。

 

(2010年6月16日)

(34)

自首するのなら新聞記事など気にするはずがありません。
「水晶宮」で新聞を持って来させた時点でラスコーリニコフは警察と戦おうと決意しているわけです。
ちょうどそこに居合わせたのが警察の書記官ザメートフでした。
彼はラスコーリニコフの格好の標的になります。

ラスコーリニコフはザメートフをあざ笑い、もてあそびます。

小説が始まってからここまで全くいいところのなかったラスコーリニコフですが、ここでは冴えたピカレスクぶりを見せてくれます。
若い読者を惹きつけるのはこういう部分だと思うのです。
と同時に若い読者を戸惑わせるのもこの部分です。
店を出たラスコーリニコフはとたんに生命力を失ってしまいます。
ザメートフをあれだけ余裕で痛めつけたのに、その直後に彼は元気さを失ってしまうのです。

つまり彼の生命力はザメートフのような小者相手に、しかも短時間しか続かない程度のものだったのです。
その中途半端な生命力を彼に与えたのは何だったのでしょう。

 

(2010年6月18日)

(35)

ドストエフスキーが厄介で、なおかつ面白いのは、何回読んでも訳が分からなかった描写がふとした拍子に腑に落ちる(?)ことがあるからだと思います。
この章でも「何を言っているのかよく分からない」会話がいくつかあります。

まず370ページ。
「なんていう名だ?」
「親にもらった名前さ」
「なに、きみはザライスクの出身なのか?何県だ?」

これなど文面だけ読んでいてもちんぷんかんぷんです。
しかしこういう文章だと違ってくると思うのです。

「なんていう名だ?」
「それを訊いてどうするつもりぞなもし」
「なに、きみは伊予の出身なのか?どこだ?」

赤いシャツの若者に特徴的な訛りがあったということなのでしょう。
そしてそれに飛びついたラスコーリニコフもザライスクの出身ということになります。
一方若者はラスコーリニコフに対してかたくなな態度を崩しません。
もっとも自然な解釈としては、ラスコーリニコフが病的で危なそうだったから若者が避けた、というものでしょう。
ラスコーリニコフはまず若者に「この角で商売をしている商人がいるだろう?」と問いかけたのです、買い物に来たわけでもない不審人物の相手をしたくなかった気持もあると思います。

こういうストーリーはどうでしょう。

リザヴェータは殺される前日、商人夫婦に何かを持ちかけられます(149、150ページ)。
「いらっしゃいよ、六時すぎに。先方もお見えになりますから」
「姉さんにはことわらずにおいでなさい。なんせ、儲かる話なんですから」
よく分かりませんが、普通に「一緒にご飯を食べましょう」みたいな話ではなさそうです。
そしてリザヴェータは翌日彼らの言葉に従って何かをして、その直後に殺されました。
商人夫婦はそれを聞いて震えあがって店を閉めて逃げ出した。
彼らが何かよからぬことを企んでいたのを感じていた若者は、商人夫婦を訪ねてきたラスコーリニコフを強く警戒した。

はい、いくら何でも話を作りすぎですね。ごめんなさい。

 

(2010年6月21日)

(36)

377ページから378ページあたりのおまじないのような言葉の羅列も奇妙ですが、これについては巻末の読書ガイドで説明されています。
「イズレル」とはペテルブルグ郊外の遊園地の所有者の名前、「マッシモ」「バルトラ」は当時人気の芸人コンビ、実際その当時の三面記事をにぎわせていた固有名詞だったそうです。
今なら差し詰め
「ワールドカップ」「ワールドカップ」「ワールドカップ」「野球賭博」……ああ、これだ「ペテルブルク老女殺人事件」
という感じでしょうか。

もう一つ分かりにくいのは379ページの最後

「ほんとうにしょうのない暴れん坊で!」
「火薬中尉が?」
「いや、あなたのお友だちのラズミーヒンですよ……」

確かにこの直前のラスコーリニコフのセリフにはラズミーヒンも火薬中尉も登場するので、ザメートフがどちらの名前に反応しても不思議はありません。
しかしラズミーヒンに対して「暴れん坊」という表現はどうでしょうか。
答えはここから70ページも先にあります(452ページ)。
前の晩、ザメートフはラズミーヒンに殴られていたのです。
つまりザメートフは「火薬中尉たちがラスコーリニコフを疑っている」と口を滑らせてラズミーヒンの怒りを買ってしまったのです。
主人公が寝ている間、つまり読者も知らない間にも話がどんどん進行していくドストエフスキー流のドラマ技法と言えるでしょう。

 

(2010年6月23日)

(37)

いまだに分からないところがあります。

375ページ。
ラスコーリニコフは街にたむろする女たちと軽口をたたき合います。
若い女が言います。
「あんたならいつでもお相手するわ、でも、いまはね、なんだか変に気が引けちゃってさ。(中略)お酒のみたいんだけど、六コペイカめぐんでくんない!」

年増の女がそれを見て口を挟むのですが、その言葉の意味が分からないのです。

「だめだよ、いったいなんてことするんだ(中略)ほんとにあきれたよ、よくまあ、そんなおねだりができたもんだね! あたしだったら、恥ずかしくって死んじゃいたいくらいなのに!」

私はこれを今までは「男を誘う」のが「恥ずかしい」のだと思っていました。
しかし彼女たちはどこからどう見ても街の女です。
「男を誘う」のが仕事です。
現に彼らのすぐ横を、百姓風の男が「こってりサービスしろよ」と言いながら別の女を連れて地下に入っていきます。
今さらラスコーリニコフに対して何も恥ずかしがることなどないのです。

恥ずかしがるとすれば、お酒を飲みたいと言って金をせびったこと以外考えられません。
年増女は「金が欲しければちゃんと仕事をしろ」と言っているのです。
それが次のページの「話しぶりもなじる口調も、おだやかながら真剣そのものだった」という言葉に表されていると思うのです。

が、

そうは思うのです、が、

実は、よく分かりません。
何を思ってドストエフスキーはこの描写を放り込んだのでしょうか。

 

(2010年6月25日)

(38)

いまだに読み間違いがあります。

ラスコーリニコフの35ルーブルのうち、ラズミーヒンが9ルーブル55コペイカを使って帽子やズボンを買いました。
今残っているのは25ルーブル45コペイカ。
小銭はたまたま全部5コペイカ玉で、9枚です。
これを全てポケットに入れてラスコーリニコフは部屋を出ました。

まず手回しオルガンを伴奏に歌っていた少女に5コペイカ渡す。
金をせびってきた街の女に15コペイカ渡す。
手元には25ルーブルと20コペイカしか残っていません。
ところが「水晶宮」で会計30コペイカにチップ20コペイカ、合計50コペイカを支払い、そのあとでラスコーリニコフは25ルーブルをザメートフに見せつけるのです。

これが4月2日のこの欄で書いた矛盾なのですが、私の勘違いでした。

ラスコーリニコフはボーイに小銭20コペイカをチップとして先に渡したのです。
その残りを支払おうとしてあり金を全てザメートフの前に出す。
10ルーブル札2枚と5ルーブル札1枚。
そしてラスコーリニコフがザメートフに「この金をどうやって手に入れたかって?」などと挑発している間に、ボーイは5ルーブル札を取り、30コペイカ引いて4ルーブルと70コペイカを返したのでしょう。

つまりこの時点でラスコーリニコフの手元には10ルーブル札が2枚、あとは硬貨ばかりが残されていることになります。

これで矛盾はなくなりました。
しかしやっぱりよく分からないのです。

 

(2010年6月28日)

(39)

たった数十ページの間に三つもの疑問を抱えることになってしまいました。

1)ラスコーリニコフはどうして生命力を回復したのか、
そしてそれはどうしてあっという間にしぼんでしまったのか。
2)街の女の場面にはどういう意味があるのか。
3)細かな金勘定は一体何のためか。
どうして次の章からは金勘定が大雑把になるのか。

分かるような分からないようなこの疑問も、こうやって並べるとおぼろげに見えてくるものがあります。
細かな金勘定は、ラスコーリニコフが「何を買ったか」ではなく、「何を買わなかったか」を表しているのでしょう。
つまり「話しぶりもなじる口調も、おだやかながら真剣そのものだった」年増女に、ラスコーリニコフは金を払わなかった、その事実を表すための金勘定だった可能性が高いと思うのです。
飲み代として金をせびる女がいる、一方でプライドらしきものを持った女がいる。
そこをラスコーリニコフは素通りした。
そしてその直後に彼の生命力は一瞬の高まりを見せます。
彼の胸にはこの言葉が燃えています。
「人間なんて卑劣漢だ!」

「卑劣漢」という言葉を聞けばどうしても思い出します。
68ページのラスコーリニコフの謎めいた独白です。
「もし、人間がほんとうに卑怯者でないとしたら、人間ぜんぶ、つまり人間という類が卑怯者じゃないとしたら、ほかの残りのすべて迷信ってことになる」

これはソーニャの存在と登場を暗示する導入音のようなものでした。
彼は二つの違うタイプの街の女を見て、第三のタイプの可能性を思い浮かべた。
身を売りながら、なおかつ卑劣でない、街の女。
ソーニャという名前ではなく、あくまでもその存在をぼんやりと指し示す導入音が彼の脳裏に再び響きます。
その響きを糧に彼は生き返った。
しかしその寄る辺は、はかない和音です。だからその生命力は長く続かなかった。

こう筋道をつければ上の三つの疑問はある程度説明できます。
もちろん細を穿ちすぎた解釈ですが。

私たちはまだまだ先を急がなくてはなりません。

 

(2010年6月30日)

プロローグ<第2部第5章<main>第2部第7章


神戸元町ダイアリー2010年(2)

最近の若者は安定志向で、冒険しようという心意気もなければ覇気もない……、
などと非難している年配の人をいまだに見かけます。
自分たちは稼いだ額の何倍も使い込んで、その支払いを若者たちにそっくり回しておいて、です。
考えてみれば当たり前のことです。
札束が天から降ってくれば誰だって大盤振る舞いします、冒険だってするし、遊びのスケールだって大きくなる。
一方そのツケを回されて借金返済に汲々としている人はみみっちく暮さざるを得ません。
上の世代がセーフティネットを完全にぶち壊してくれたので自分の面倒は自分で見ないといけないのです。
本当は年配の人は若者たちに土下座して謝らないといけないと思うのです。
「君たちに莫大な借金を押しつけたのは、返す当てもない金を使い込んだ俺たちだ。
君たちが冒険も何もできないのは全部俺たちの責任だ。
俺の財産も年金も全部使って、せめて今からでも冒険してくれ」
そんな心意気や覇気のある人はいないと思いますが。

 

(2010年4月5日)

景気浮揚策としてある程度のばらまきは理解できます。
そして投下資本の地域での回転率を考えると「子ども手当」というのは非常に面白いと思います。
良い子のみなさん、子ども手当がもらえたらぜひ日本製のゲーム機とゲームソフトを買いましょう。
パパのお小遣いと合わせて日本製の大型テレビかブルーレイレコーダーを買ってもいいかもしれません。
アニメもいいと思います。ただしディズニーじゃなくてジブリです。
休みの日に動物園や水族館に行くのもお薦めですが、USJはまたの機会にしましょう。
家と学校の間にある本屋、文房具屋、ファンシーショップ、駄菓子屋などで使い切ってしまうのが地域経済のためには一番いいのですが、充実感は低いかもしれませんね。
良い子のみなさん、くれぐれも貯金したり親のパチンコ代などに使われないように注意してください。

 

(2010年4月16日)

以前にも書いたことがありますが、せっかく多額の税金をばらまくのであれば人件費率の高い産業を対象にした方がより高い経済効果が見込まれます。
そして最も人件費率が高い産業は「介護」だと思うのです。
また建設業に資金をつぎ込んで一時的に雇用を増やしても、道路やダムを作り続けなければいずれ労働者は失業することになります。
しかし介護は今後数十年にわたって安定的に雇用を生み続けます。
本当なら道路事業費を削って全て介護に投入して、介護の点数を倍に、自己負担は半分に改定するべきだと思うのです。
ところがそうはなりません。
この変革を妨げているのは「年寄りの介護は嫁がするもの」という古い「家」の考え方ではないでしょうか。
だぶついている建設業労働力をそのまま介護事業にシフトすればいろいろな問題が上手く解決するのに、「大の男が寝たきり老人のオムツを替えられるか!」という古臭い男の理論に流されて効率的な財政出動が行えないのです。
私には日本経済が「男の沽券」なるものと心中しようしているように見えて仕方がありません。

 

(2010年4月19日)

ただし「嫁が介護をしなくてもよくなれば家族の絆が壊れてしまう」という意見もあるようです。
「夫婦別姓が導入されれば家族の絆が壊れる」という考え方はまだ、そういう風に考える人もいるんだなあくらいには理解できるのですが、「介護」と「家族の絆」の因果関係を見出すとなると私には手に負えません。
そもそも「家族の絆」とは何かがよく分からなくって……。
「絆が壊れた家庭の子どもは非行や事件を起こしやすい」というのはよく言われることです。
しかしこれは実は逆で、問題を起こした子どもの家庭を「絆が壊れている」と呼ぶことにしよう、という定義付けの問題のような気がします。
ニュースで時々凶悪殺人事件の現場が映し出されますがそうした事件は、殺伐としているはずの大都会よりも農村地帯や郊外の住宅地で多く起きているような気がします。
実際、警察発表の各種犯罪統計を見ても犯罪発生件数や少年補導件数と都会度の間に因果関係を見出すのは難しいです。
田舎の方が必ずしも家族の絆が強いわけではない、という考え方もあるでしょう。
しかしそう考えてしまうと「日本人が古くから大切にしてきた家族観」の根拠もなくってしまいます。
あれこれ考えてみるに、実態のない「家族の絆」という概念を議論で用いるのはちょっとずるいと思ってしまうのです。

 

(2010年4月21日)

シューマンの管弦楽曲を、実はこれまでほとんど聴いたことがありませんでした。
彼のピアノ曲は大好きなのにどうした食わず嫌いだったのでしょう、我ながら不思議です。
今年は生誕200年ということで彼の交響曲を聴く機会が増えました。
よくシューマンはオーケストレーションが下手だと言われますが、そう言われるのも何となく分かるような気がします。
響きをまとめるのが難しくて音が客席に向かってパーンと飛んでこないのです。
つまり「オーケストラが鳴りにくい」。
それを克服する方法はいろいろあるのですが、基本は一つです。
「鳴るまで弾け」
そういうことみたいです。
さて5月15日、大阪のシンフォニーホールでシューマンの曲の演奏会があります。
お暇ならどうぞ。

 

(2010年5月7日)

amazonの電子ブック攻勢に日本の出版社が浮足立っているというニュースを耳にします。
高い印税を武器に日本市場に乗り込もうとしているamazonに対して、出版各社が有名作家をどう囲い込むか苦慮しているようです。
以前に書いたことがありますが、日本で電子ブックが普及するとすればコミックファンからだと思います。
「パラパラめくる」機能のない電子ブックでは小説は読めません。
「小説読み」は、どの出版社が人気作家をどう囲い込もうと、電子ブックを手に取らないと思うのです。
コミックファンは違います。
人気コミックはどれも数十巻というボリュームです。今では2、3巻で完結する方が珍しいです。
ファンもいち早く脱ペーパー化を望んでいるはずです。
SONYとパナソニックはまずコミック対応(つまり見開きページが見られる)端末を発売して若年層に普及させ、その後に操作性を上げて「小説読み」も取り込んでいくのがいいのではないでしょうか。

 

(2010年5月12日)

それにしても人間の「パラパラめくる」機能は素晴らしいと思います。
小説を読んでいて、久しぶりに登場するキャラクターに出くわした時、「あれ、この人は前に出てきたぞ」と思って最初に登場するシーンを読み直すことがよくあります。
そういう時、誰でもたいてい2、3秒でそのシーンを見つけ出すことができるのではないでしょうか。
右手は厚みでおよそのページ数の感覚を憶えていて、目はその人物の名前がページのどのあたりにあったか憶えているのです。
特に右手の感覚、これは電子ブックには求められない能力だと思います。
読書の能力と言えば、北村薫の小説の主人公が自分のちょっとした特技について語る場面がありました。
本を開くと、自然に前に読み終わったページが開くと言うのです。
だから自分には栞が要らないのだと、彼女は言います。
これはうらやましいです。
私は栞不可欠人間ですから、私の本にはコンビニのレシートとか箸袋などが挟まっていて、ちょっとみっともないです。

 

(2010年5月14日)

会議が終わってから「あの時こう言えばよかった」と悔しがることがあります。
脳細胞の運動神経がよくないため、そういう後悔はしょっちゅうなのですが、今回も我ながら呆れてしまいます。
どうして今まで在日米軍基地のことを考えてこなかったのでしょう?
自民党政権下だったらまだ言い訳できました。
政権交代以降は、新聞で「普天間」という文字を見ない日はありません。
それなのに「そもそも基地は何のためにあるんだろう?」という基本的な疑問が浮かんできたのがほんの1週間前です。
何たる頭の悪さでしょう。
調べてみると、いろんな立場の人がいろんなことを言っています。
日本を守ってくれていると言う人もいます。北朝鮮から守っていると言う人もいるし、中国から守っていると言う人もいます。
日本を守りたいわけではない、台湾を守っているのだ、と言う人もいます。北朝鮮崩壊時にいち早く核物質を制圧するためという人もいます、自然災害を含めた有事の際に在亜米人を救出するためと言う人もいます。
全く逆の考え方として、日本の再軍備を抑止するために駐留しているという言う人もいます。
こうして羅列してみると薄々想像がつきます。
おそらくアメリカにも本当の理由が分かっていないのではないでしょうか。
アメリカ政府は日本の優柔不断な態度を非難しますが、その一方で日本側のさまざまな提案に対して、具体的な理由をもって否定しようとはしません。
たぶん彼らにもよく分かってないのです。
訪米した鳩山首相がオバマ大統領に相手にされなかったという報道もありましたが、実際は大統領も怖かったと思うのです。
「もし基地の存在理由を訊かれたらどうしよう?」
側近に訊ねても誰も知らないし。
オバマ大統領は鳩山首相となるべく目を合わさないようにしていたのではないでしょうか。

 

(2010年5月26日)

私は普段は自分のクリニックで働いて、それ以外は時々血液センターや当直先の病院に行く程度でよその職場を全く知りません。
世のオフィスの分煙はどうなっているのでしょうか。
禁煙治療を希望して来られる方に訊いてみると、ほとんどの職場で完全分煙が達成されているようです。
きれいな空気の中で仕事をする権利は認知されている、そう考えてもよさそうです。
つまり、狭いオフィスで喫煙者と一緒に仕事をさせられるのを拒んだ時、あるいは分煙を訴えた時に「いやならやめてくれ」と言われたらそれはパワハラだと言ってもいいと思うのです。
おそらくこの点については喫煙者にも同意してもらえるのではないでしょうか。
社長が「煙草を吸わないといらいらして仕事の効率が落ちる」と言おうが、煙草を吸う同僚の方が多かろうが、労働者には受動喫煙から守られる権利があります。
飲食店でも同じはずです。
飲食店の従業員が分煙を希望した場合、経営者が「うちは喫煙客が多いから」という経営上の理由で拒むことはできません。
しかも飲食店は若い女性従業員の比率の高い職場です。
むしろ他の職種よりも厳しく労働環境が守られるべきです。
ところがなぜか飲食店の場合には、私たちは「禁煙にすると客が減って大変だろうな」などと考えてしまいます。
職場の環境は本来労働者の問題であるはずなのに、場所が身近なためについ客の立場を持ちこんでしまうのです。
かつて職場ではセクハラ行為が当たり前に行われていました。
今は違います(よね?)。
そして今ようやく、社長がヘビースモーカーだろうと何だろうと、オフィスは分煙であるべき時代になりました。
飲食店の分煙は、禁煙客のためではなく、第一には労働者の権利のためだと考えるべきでしょう。

 

(2010年6月2日)

口蹄疫問題で最後の最後まですっきり納得できないのは「本当に殺さなくてはならないのか?」ということです。
「毒性自体は決して強くないが発育障害、泌乳障害が強いために家畜としての価値が損なわれるから」という説明を聞いて「じゃあやっぱり殺すしかないな」とあっさりとは考えられないでいる私です。
経済の枠組みの中で商品として扱われる家畜の医療と、経済的事情が最優先には扱われない人間医療との違いなのでしょう。
日本では戦後ずっと口蹄疫は発生せず、今から10年前に宮崎と北海道で小発生を見たものの740頭の殺処分で流行が阻止され、その後今回まで発生はなかったそうです。とすれば現時点では口蹄疫蔓延防止策として殺処分が選択されるのは仕方ないことなのでしょう。しかし今後はどうでしょうか。
アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの畜産大国はこれまで口蹄疫の感染を体験していません。
流行蔓延阻止のための方策は考えてあっても、予防や治療に対する研究に本腰を入れてはいないのではないでしょうか。
しかしテロリストが標的国攻撃の手段として農作物や家畜の流行病に目を付けるのは時間の問題です。
たとえばアメリカ全土で同時多発的に感染力の強いウイルスを撒かれたら、殺処分と移動禁止という従来の措置では対応できないと思うのです。
オバマ大統領が核削減に前向きなのは必ずしも平和主義のためではないと思います。
今や大国が核ミサイルを狙い合う時代ではありません。
テロリストがスーツケース大の小型核爆弾を敵国に持ち込んで爆発させる時代なのです。
それを防ぐために核兵器の総量を減らして、テロリストに渡る可能性を少しでも低くしたいという目論見なのでしょう。
しかしウイルスは核兵器よりも簡単に持ち込め、しかも経済的破壊力は凄絶です。
日本は今回の感染をきっかけとして家畜感染症予防、治療の最先端国家を目指すべきだと思うのです。

 

(2010年6月6日)

紙カルテの時代には、診察の時にカルテを棚から出してくるのに診察券番号が必要でした。
診察券を忘れて来られた時には、五十音別の患者リストで番号を調べなくてはなりません。
レセプトコンピュータは手間を少し省いてくれますが、番号が必要である事に変わりはありませんでした。
ところが電子カルテを導入すれば、名前の入力だけで画面上にデータが呼び出せますから診察券番号は不要です。
今後は松本胃腸科クリニック受診の際に診察券の提示は必要ありません。
保険証のみお見せください。
基本的には診察券もお作りしませんが、電話番号や診察時間のメモ代わりとして必要な方は申し付け下さい、従来通りお渡しします。

 

(2010年6月9日)

「世界100大長篇」も読み進めていますが、それと並行して河出の世界文学全集も進んでいます。
今回読んだのはトマス・ピンチョンの「ヴァインランド」です。
この間「 V.」を読んだばかりで「立て続けにピンチョンはきっついなあ」と思っていたのですが、読んでみるととってもおバカな小説で読みやすかったです。
ハチャメチャな展開や過剰なほどのサービス精神、どこかでこのノリは体験したんだけど、何だったっけ……?
しばらく考え込んでやっと思い出しました。タランティーノ。
これはまさにタランティーノのノリです。
ゴジラも北斗の拳も出てきます。
ところで、こんな俗悪な衒学趣味的小説を書く人はピンチョン以外にはいない、と言う人がいますが、どうでしょうか。
西尾維新とか谷川流とかライトノベル作家たちが私にはピンチョンと重なって見えて仕方ありません。

 

(2010年6月11日)

中学高校の頃は映画ファンだったのですが、そう何本も映画館で映画を見るお金もなく、もっぱら映画雑誌の紹介記事や批評を見て好奇心を満足させていました。
その頃映画好きの友達と議論をすると、見ていない映画をあたかも見たかのように語ってしまったものです。
「○○監督の映画が面白いはずがない、だからその映画はクズだ」という風に。
見ていない者同士が映画について熱く論争したわけです。
今となっては気恥ずかしい思い出です。
しかし見ていない映画の面白さについて語るのはまだ罪が軽いと思うのです。
見てもいない映画の公開の是非を語るのはどうでしょうか。
ドストエフスキーだろうとギャグ漫画だろうとモーツァルトだろうとアイドル映画だろうと、あらゆる作品は公開されて初めて命を与えられるのです。
その根幹の部分を、見てもいない人が判断するのはどうでしょうか。
イルカ漁を扱った映画の公開に賛否両論あるそうです。
しかしあの映画は映画祭で公開されただけなので実際に見た人は少ないはずです。
それなのに少なからずの人が公開すべきでないと言っています。
「判断力のない人があの映画を見ると間違った考え方を植え付けられるから公開すべきでない」と、誰かの意見を植え付けられた人が主張しているわけです。
私はこれまではこういう意見を絶妙なセルフパロディだと思って笑い飛ばしていましたが、今は「物事を実際には知らない人々によって世間の空気は多く作られている」という現実をどう考えていいものか困惑しているところです

 

(2010年6月14日)

神戸元町ダイアリー2010年(1)宇宙人の陰謀<main>神戸元町ダイアリー2010年(3)数学的発想


健康ディクショナリー2010年(2)

花粉症と喫煙との関係についての信頼に足る統計はないようです。
喫煙は呼吸器粘膜の免疫機能を低下させるので花粉に対する反応も抑えるはず、という考え方がある一方で、喫煙によって粘膜細胞が傷つけられると刺激性が高まって症状が悪化するはず、という考え方もあります。
おそらく煙草成分によって傷つけられる部位が人によって免疫系だったり血行だったりそれぞれ異なるためにはっきりとした傾向が現れないのだと思います。
しかし間違いなく言えることがあります。
喫煙者の花粉症には薬が効かない。
花粉症の薬は年々進歩して、今ではほとんどの人が1日1錠の飲み薬で症状から解放されるようになりました。
眠気などの副作用もほとんどありません。
ところが喫煙者には薬が効いてくれないのです。
広い世の中には花粉症対策として喫煙を薦める人も少数ながら、います。
もし仮に煙草が花粉症の症状を抑えるとして、さらに煙草の様々な害に目をつぶったとして、単純に費用の観点に絞って考えましょうか。
当院で出している花粉症の薬は薬価40円。
3割負担なら1日12円です。
花粉症でお困りのみなさん、まずは安くて安全な方法から試すのがいいと思います。

 

(2010年3月19日)

「男性型脱毛症診療ガイドライン(2010年版)」が発表されました。
ガイドラインとは「真っ当なやり方」くらいの意味です。
ガイドラインに沿わない医者は真っ当ではない、そう考えていいと思います。
さて脱毛症治療の真っ当な考え方とは

1)軽症の人は、まず「リアップ」以外の手頃な値段の市販薬を試しに使ってみるのがいいかもしれません。
  有効性は証明されていませんが、大きな副作用もありません。
  効けばラッキーです。
2)当院でも扱っている「フロジン液」も同等の評価です。「用いてもよい」。
  ただし「フロジン液」は保険が適用されますので市販薬よりは安く手に入ります。
3)それで効果がない人及び重症の人には「リアップ5%」の外用と「プロペシア」の内服を1年間続けます。
  どちらも保険適用外ですが、「プロペシア」は当院でも扱っています。
4)それでも効果のない人には植毛術を検討しますが、自毛で、なおかつ十分な経験と技術をもった医師の施術に限る、
  という条件付きです。
  人工毛植毛は「使用しないよう勧告」されています。

どれほど派手に宣伝されていようがこれ以外の治療方法は信頼できません。
効果がないだけであればまだいいのですが、そういった治療は高額ですし、しばしば健康被害をもたらします。
どうぞご相談ください。

 

(2010年5月21日)

ディフェリンというニキビの薬があります。
これまでの薬とは全く発想の異なる「ニキビの特効薬」です。
私もためしに使ってみましたが確かによく効きます。
皮膚の角質を薄くする作用のために少しピリピリとした感じがしますが、いかにも毛穴の角質層を剥がして溜まった脂肪分を吐き出させているような感じです。
とは言うものの非常によく効く薬は使い方にも注意が必要です。
ニキビでお困りの方、どうぞご相談ください。

 

(2010年5月27日)

里見清一の「偽善の医療」という本を読みました。
「消えてなくなれセカンドオピニオン」とか「病院ランキングは有害である」などの刺激的な章題が並んだ挑発的な本です。
主張は主観的で極端で、同意できないポイントも多いのですが、医者が心の奥底で大体どういうことを考えているかが垣間見えると言う意味では面白いかもしれません。
一つ感心したところがあります。
患者が医師の勧める治療よりも、家族や知人の勧める健康食品などを信じる傾向があることについて、
「それはそうだろう。こっちは、昨日今日担当医になった、どこの馬の骨だか牛の骨だか分からん医者で、そういうたとえば健康食品を勧めてくれたのは、世話になっている叔母さんとか心配してくれている甥だとか長年の親友だとかである。
患者さんがどっちの言うことを聞くか、勝敗の帰趨は見えている」
薬による治療を勧めると、少なからずの患者さんに言われます。
「薬に頼らない方がいいと○○さんに言われた」
○○には家族とかみのもんたとか近所のパーマ屋さんという言葉が入ります。
こういう時自分の理屈が通じない事に無力感を感じてきたのですが、正しい態度ではありませんでした。
単純にそういう人たちよりも自分への信頼度が低いということなのです。
医者にできるのはたった一つ。
もっと真剣にもっと親身に患者さんのことを考えること。
それだけなのです。
深く反省させられました。

 

(2010年6月3日)

紙カルテの時代には、診察の時にカルテを棚から出してくるのに診察券番号が必要でした。
診察券を忘れて来られた時には、五十音別の患者リストで番号を調べなくてはなりません。
レセプトコンピュータは手間を少し省いてくれますが、番号が必要であることに変わりはありませんでした。
ところが電子カルテを導入すれば、名前の入力だけで画面上にデータが呼び出せますから診察券番号は不要です。
今後は松本胃腸科クリニック受診の際に診察券の提示は必要ありません。
保険証のみお見せください。
基本的には診察券もお作りしませんが、電話番号や診察時間のメモ代わりとして必要な方は申し付け下さい、従来通りお渡しします。

 

(2010年6月9日)

健康ディクショナリー2010年(1)レセプト開示<main>健康ディクショナリー2010年(3)二本足歩行の宿命


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