「罪と罰」を読む(第2部第4章)

第2部第4章(第1巻311〜337ページ)

(29)

ラズミーヒンとゾシーモフとの会話。
会話といってもほとんどラズミーヒンが一方的にしゃべっているだけですが。
このだらだらと続くおしゃべりも読み手をうんざりさせるところです。
何がうんざりといって、とにかく登場人物が多い。
わずか27ページの間にゾシーモフ、ラズミーヒンの伯父、ポルフィーリー、ドゥーシキン、ミコライ、ミトレイ、クリューコフと、これだけの名前が登場します。
しかも今後どれだけ重要な役を担うか一切説明されませんから読み手は全ての名前を均等に頭に入れないといけないのです。
ここで重要なのはただ一点です。
「犯人が現場から脱出できたのはたまたま運が良かったからで、考え抜かれた知能犯罪ではない」

あ、それからもう一点。
優秀な若手医師ゾシーモフ先生のお見立て。
「何を食べさせてもだいじょうぶ(中略)きのことキュウリは、むろんだめですがね、それにまあ、牛肉もだめかな」

牛肉もだめなんだそうです。

 

(2010年4月12日)

(30)

さて本筋には無関係であるにも関わらずラズミーヒンが長々としゃべり続けなくてはならない作劇上の理由があります。
ラスコーリニコフが意識を失っている間にもいろんな出来事が進行していたのです。

ラスコーリニコフの住まいを探し出そうと警察に行ったラズミーヒンがラスコーリニコフが起こした失神騒動の顛末を聞く。
警察がラスコーリニコフを疑っていることを知った彼はポルフィーリーに相談する。
ポルフィーリーはその話を聞いて、かつて読んだある論文を思い出し、警察とは違う角度からラスコーリニコフを疑い始める。
ポルフィーリーは論文の作者を調べだし、ラスコーリニコフの部屋を捜索する。
おそらくその時にゾシーモフと何らかのトラブルがある。
一方ラズミーヒンはザメートフと親しくなり二日間飲み歩く。
そしてその間ミコライは逃避行を続けていた……。

短い間に様々な出来事が津波のように襲ってくる、「時間目盛のデノミネーション」こそがドストエフスキーの小説の魅力の一つだと思うのですが、主人公が昏倒している間も濃密な時が進み続けています。それゆえのラズミーヒンの長広舌なのですね。
まあ今回は勘弁してあげましょう。
すぐ次の章ではもう一人重要人物が登場します。

 

(2010年4月14日)

プロローグ<第2部第3章<main>第2部第5章


海外の長篇小説ベスト100(第96位〜第100位)

第96位

サミュエル・ベケット「モロイ」(白水社)

ウルフの「灯台へ」を読んで、小説には必ずしも劇的な展開がなくてもいいのだと理解したつもりでしたが、「モロイ」はその心構えをあざ笑うような一層意味不明な小説でした。
第1部はモロイが脈絡ないつぶやきを続けながらどこかで何かをしようとしている。
第2部はモランが命令を受けて目的地に向かうのですが途中でやめてしまう。

読みながら「そう言えば一時期訳の分からない小説が流行ったことがあるなあ」と何だか懐かしくなってしまいました。
安部公房とか、訳の分からなさが一種快感だった時代が、確かにありました。
甘酸っぱい、ちょっと恥ずかしい思い出です。

などと思っていたら先日大学生が
「安部公房という人の小説が面白いらしい」
と話していました。
今度感想を聞いてみます。

 

(2010年4月9日)

第97位

ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」(河出書房新社)

古い小さな家の質素な部屋に想念が飛び交う。
登場人物たちは想う。
思念と呼ぶほど方向性があるわけではない、感情の震え。

その小さな波がいくつも重なり、混じり合い、打ち消し合い、泡と消える。
そこに浮かんでくるラムジー婦人の美しい様。
その美しさは彼女が死んでもそこにあり続ける……。
作者の強靭な意志が貫かれて初めて成立した、奇跡のような小説でした。
これが世界水準なのですね、驚きました。
ところでメンデルスゾーンが書いた「ヘブリディーズ諸島〜フィンガルの洞窟」という曲があります。
恥ずかしい事に私はヘブリディーズ諸島がどこにあるのか全然知りませんでした。
「灯台へ」の舞台がヘブリディーズのスカイ島でした。
スコットランドです。

 

(2010年4月7日)

第98位

ミラン・クンデラ「冗談」(みすず書房)

「存在の耐えられない軽さ」に続くクンデラ2作目のランクインです。
政治体制に翻弄される人々の愛と復讐の物語。
いくつかの視点が交錯しながらうねるストーリーが最後の一点で奇跡的な集約を見せ、そこでタイトルの意味も明かされる。
しかしクンデラの魅力は本当はそういう小説技法にではなく、文章自体から香り立つ色気にあると思うのです。
物語とは関係なくいつまでも読んでいたいと思わせる色っぽい文章。
「存在の耐えられない軽さ」を読んだ時には、この色気は訳文のせいかもしれないと思いましたが、「冗談」を読んで分かりました。
これがクンデラの文章なのです。

 

(2010年3月26日)

第99位

イワン・A・ゴンチャロフ「オブローモフ」(岩波文庫)

題名も作者も全く聞いた事がありませんでした。
人名がタイトルなので英雄的な物語かと思って読み始めてみるとびっくり仰天、主人公は150年前のロシアのニートでした。
何がすごいと言って全3巻の最初の三分の一では主人公オブローモフはほとんどベッドから出てこないのです。
あれもしないといけない、これも片付けないといけない、と分かっていながらも彼は何一つ手をつけようとしない。
何も動かず、何も成さず、何もしない。
困った事に、物語が動き始める第2巻以降よりも物語も登場人物もなーんにも動かない第1巻の方が面白くって。
これはもしかすると読み手の中にある「ニート気質」を判定するリトマス紙かもしれません。

第3巻が一番面白い人は現実生活人、第2巻が一番面白い人はロマンティスト、第1巻が面白い人は潜在的ニート。
オブローモフ占いと銘打って売り出そうかしらん。

 

(2010年3月24日)

第100位

マルキ・ド・サド「悪徳の栄え」(現代思潮社)

こういう作品を読むと、大人になった事を素直に喜びたくなります。
中学生の時に読むと「負の座標から語られる哲学」などの書評に簡単にだまされて、称賛した事でしょう。
高校生の時に読むと澁澤龍彦のネームバリューにひれ伏して、褒めていたと思うのです。
(実際高校生の時はサド・澁澤という組み合わせの本を何冊か読んで、悪の哲学について知ったげに語ったりしたものです)
大学生の時に読むとバタイユ哲学の源流という余計な価値を付加して、持ち上げてしまったのではないでしょうか。

その点今はあらゆる先入観から自由です。
大きな声で言う事ができます。
「この本はくずだ」と。
純粋な官能小説であればまだよかったと思うのです。
エロティシズムの悪臭や、サディズムの腐敗臭をそのまま感じさせてくれればましだったと思うのです。
ところが澁澤の安っぽい香水のような訳文には悪臭を際立たせる効果しかなくて、さらに最悪な事にそこに「自意識」という余計な臭いも付け加えてしまいます。

訳が澁澤でなければこの本はおそらくランキング圏外だったでしょう。
しかし澁澤訳のせいでランクインにふさわしからぬゲテモノになり下がっているという皮肉な現実。

せっかくの新企画「100大長篇を読む」ですが、滑り出しは散々です。

 

(2010年3月8日)

「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<main>第91位〜第95位


「罪と罰」を読む(第2部第3章)

第2部第3章(第1巻276〜310ページ)

(27)

昏倒から目覚めたラスコーリニコフの世話をするのが友人ラズミーヒンです。
明るくておしゃべりでおせっかいで、「罪と罰」の登場人物では唯一の陽性人間と言えるでしょう。
彼はラスコーリニコフに向かっていつ終わるとも知れぬおしゃべりを続けます。
一見他愛もないおしゃべりの中に事件解決のヒントが隠されているというのは推理小説ではよく見られる手法ですが、ドストエフスキーもこのやり方が大好きのようです。
しばらく彼のおしゃべりに付き合いたいと思いますが、その前に一つ、良く分からない記述があるので先に片付けておきましょう。
280ページ、ラスコーリニコフを訪ねてきた事務員風の男とラズミーヒンの会話です。

ラズミーヒン「(一昨日訪ねてきた)あの男のほうが、あなたより話がわかりそうだが、どうです?」
事務員風の男「おっしゃるとおり。わたくしなんかより、ずっとしっかりした方でして」

このやり取りの意味がこれまで分かりませんでした。
「賢い人間こそ偉ぶらない」という教訓的な意味を求めたくなる人がいてもおかしくないような不思議な描写です。
よく考えてみると不思議でもなんでないやり取りでした。

二日前に別の事務員が書留を持ってやってきましたが、ラスコーリニコフが昏睡中だったのでそのまま持って帰りました。
その時におそらくラズミーヒンとの間に押し問答が交わされたのでしょう。
口から出まかせの屁理屈をしゃべりたてて書留を受け取ろうとするラズミーヒン、職務に忠実で彼の申し出を拒み続ける事務員、二人の滑稽な場面が容易に想像できます。
ラズミーヒンはその時の事を思い出して、「彼は物分かりがよかった」と皮肉ったのでしょう。
一方今日訪れた事務員も二日前の事務員からラズミーヒンの事を聞いていたと思われます。
「あそこには変なやつがいるから注意しろよ」と。
だからラズミーヒンの皮肉に彼はすぐさま「私を騙そうと思っても駄目ですよ」と予防線を張ったのです。

思いつくと何でもない一文ですが、ドストエフスキーの小説作法が良く分かる一例だと思います。
つまり彼の頭の中には本編とは全く関係ない脇役の、本編とは全く関係ないサイドストーリーがぎっしりと詰まっていて、そこからぎりぎり最小限のエピソードを抜き出して小説を作り上げているという事なのでしょう。

ドストエフスキーに「好きなように作っていいよ」と言って「罪と罰」ディレクターズカット版を書かせたら今の100倍のボリュームの大長編が出来上がるに違いありません。

 

(2010年3月29日)

(28)

さて、ラズミーヒンです。親切な友人と受け取られることが多い彼ですが、良く読めばかなりの女たらしです。
ラスコーリニコフの下宿を突き止めた彼はさっそくおかみと小間使いにちょっかいを出し、おかみの部屋に転がり込みます。
自分は部屋でごろごろしながらおかみに食事を作らせ、ラスコーリニコフの様子を観察させる。
それでいて小間使いからも憎からず思われています。
おそらく小間使いには「毎日ご馳走を作ってくれるから仕方なくおかみの相手をしているけど、本当に好きなのは君だよ」とか適当に甘い言葉をかけているのでしょう。
彼はラスコーリニコフにとんでもないことを言い放ちます。
「君もおかみとよろしくやっておけばこんな借金問題なんか抱えなくても済んだのに」
婚約者に死なれた友人に向かって、婚約者の母親を口説けばよかったと言ってのけるのです。
その言葉に何も感じないラスコーリニコフもラスコーリニコフですが、平然とそんなことを言うラズミーヒンは間違いなく最低男です。

しかし注目すべきは、ドストエフスキーの筆致。
彼はラズミーヒンの、そのひどいやり方に対して決して批判的ではありません。
むしろ「愛すべき男」として描きます(だからこそ多くの人が彼が女たらしであることを読み落としてしまうのですが)。
ドストエフスキーにとってはこの程度の「女たらし」は欠点でも何でもないのでしょう。
「罪と罰」は、貞操観がさほど重視されない世界の出来事である、私たちはそういう前提でこの物語を読み進めるべきなのかもしれません。

 

(2010年3月31日)

 

それからラズミーヒンはラスコーリニコフにお買いものの報告をします。

これも不思議なところです。
靴がいくらで帽子がいくらでと、どうでもいいような記述が延々と続きます。
この描写に意味はあるでしょうか?

ないです。この描写は本筋には全く関係ないです。

と、言い切れるといいのですが、この金勘定を非常に細かく考えるとあとあと辻褄の合わないところが出てくるのです。
まあそれはその時に。

 

(2010年4月2日)

プロローグ<第2部第2章<main>第2部第4章


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