「罪と罰」を読む(第1部第6章)

第1部第6章(第1巻:152ページ〜179ページ)

(15)

明日リザヴェータが家を空けるという神からの啓示にも似た情報を得たラスコーリニコフはもう一つの偶然を思い出します。
それは一月半ほど前、彼が初めて老婆の部屋を訪ねた直後のことでした。
たまたま入った安食堂で、隣に座った二人組が老婆の話をしていたのです。
小説の冒頭から繰り返し出てきた、ラスコーリニコフがずっと抱いていた「あの醜悪な考え」がここではっきりと描かれます。
つまり、役立たずの金貸しの老婆を殺してその金を有効に使った方が社会のためになるのではないか、という考えです。
しかしこれもおかしな話です。
主人公が胸に秘めていた計画が第三者によって語られるのです。
あの計画はラスコーリニコフのオリジナルではなかったのです。
「老婆殺し」など、誰でも思いつく凡庸な発想だったわけです。
とすると彼が発揮しうる独自性はただ一つ、この計画を完璧に遂行することしかありません。

 

(2009年11月16日)

(16)

ラスコーリニコフはあらゆる犯罪において犯人がたやすく捕まってしまう理由についてこう看過します。
「ほとんどすべての犯人が、犯行の瞬間に一種の意思と理性の喪失におちいり、そればかりか、ほかでもない理性と注意力がもっとも必要となる瞬間に、意思と理性は、まるで子どものような、とんでもない軽率さのとりこになる」
そして自分にはそういった病的な変化は起きないだろうと胸を張ります。
犯行自体は誰もが考えつく程度の凡庸な発想。
しかしそれを完璧に遂行することで彼は自分の存在価値を証明できると考えたのです。
ところがふたを開けるとどうでしょう。
彼の計画のずさんさには読んでいてひっくり返りそうになります。
いきなり寝坊するし、凶器の手配も行き当たりばったりだし、かぶっているのも人目を引く珍妙な帽子です。
アパートに入り込むところを誰にも目撃されなかったのもたまたま大きな馬車が通りかかったからでした。
彼は続く第7章でも大いにやらかしてくれますが、結局彼がこの犯罪で証明したのは「自分に存在価値はない」という事実でした。
「罪と罰」をエリート学生が独りよがりの哲学をもてあそぶ話と捉える人がいます。
実際は逆だと思うのです。
彼は第1部で自分の存在価値を完全に否定されてしまったのです。
第2部以降は、つまり、彼の敗者復活戦なのです。

 

(2009年11月18日)

(17)

ラスコーリニコフの隣の席で老婆の話をしていた二人組ですが、彼らはもう一つ興味深いことを語っています。
彼らによるとリザヴェータはひっきりなしに妊娠しているらしいのです。
あとでソーニャの口からリザヴェータがかなり敬虔なキリスト教徒であったことが語られます。
敬虔なクリスチャンである若い女性がひっきりなしに妊娠している、これはどういうことなのでしょうか。
江川卓の「謎解き『罪と罰』」によると、ロシアの地方には性的な行為を苦行(あるいは儀式?)の一つとして取り入れていたキリスト教系宗派があったらしく、この一文はリザヴェータとその宗派との関係を暗示するものだとしています。
他に手がかりとなる描写がないので彼女とその宗派との関係は実際には分からないのですが、彼女がある種の宗教的な考えから性的な行為を行っていたことは想像できます。
それが苦行としての宗教的義務感だったのか、あるいはもっと積極的な宗教的陶酔感だったのかは分かりません。
しかし「宗教的陶酔感」という言葉を聞いて私たちは思い出すのです。
以前(6)で言及したソーニャの高揚感です。
あるいは(7)に書いた「ソーニャは困窮した家族を救うために身を落としたと単純に考えるべきではない」という考察。
ソーニャは、自分が家族の犠牲になっていることに対して宗教的な喜びを感じていた可能性がある、二人組の会話は実はそういうことも暗示しているわけです。

 

(2009年11月20日)

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「罪と罰」を読む(第1部第5章)

第1部第5章(第1巻:128ページ〜151ページ)

(12)

前回のコラムでは「第4章など読む意味がない」とこきおろしましたが、第4章がつまらないのには理由があります。
逡巡するラスコーリニコフの心の振れ幅が小さいのです。
母親の手紙を読んでラスコーリニコフは「偉そうに言っているけれど、じゃあ俺に何ができるんだ?」と自問します。
老婆を殺せるか? いや、とても殺せそうにない。
だから唯一残された選択肢としてバイトを紹介してもらおうとラズミーヒンの部屋に向かうのです。
そこで酔わされてふらふらになった少女を見つけて彼女を救おうとする。
人助けをさせることによって登場人物が良心的な決断をしたことを暗喩するというのはドストエフスキーがしばしば用いる手法です。
さまざまなテクニックを操るドストエフスキーにしては表面的でわざとらしいので私は好きではないのですが、私の好みは置いておいて、ここでラスコーリニコフは良心に従い行動しようとして、途中でやめてしまいます。
そしてラズミーヒンの部屋に行くのも放り出してしまう。

 

何をぐずぐずしているのかというと、全ては「殺せるのか? 殺せないのか?」という迷いからくる揺らぎです。


ここでのラスコーリニコフはひたすら迷っています。しかしその振れ幅はせいぜい左右30度くらいのものです。
なぜでしょうか?
それは第5章での丸々180度の大転換を生かすための伏線なのでしょう。
ドストエフスキーはこういう大仰な仕掛けが実は大好きなのです。
この第5章を読むたびに思うのです。
ヒューマニストのように言われることもあるドストエフスキーですが、本当はものすごく底意地の悪い人だったのではないか、と。

 

(2009年10月28日)

(13)

ここで描かれるのは激しい暴力と不条理な殺戮です。
これは一切の解説や先入観を抜きに読んでもらうのが一番です。
一つの疑問がここで解かれます。
第3回で書いた疑問。
ラスコーリニコフがどうして「こうしたたぐいの居酒屋」を忌み嫌ったか、この第5章を読むとその答がはっきり分かります。
そこは馬殺しの居場所なのです。
第1章でラスコーリニコフが「こうしたたぐいの居酒屋」に踏み入れた一歩が、彼にとっては苦渋の選択の末の一歩であったことが、よく分かるのです。
しかし良心を踏み越えるために踏み出した一歩のはずでしたが、この白日夢の迫力の前に彼の決断はくじけてしまいます。
逆に、「踏み越え」を阻止しようとする彼の良心が、敢えて「踏み越え」の現場を夢に引っ張り出してきたと考えるべきなのでしょう。
彼は自分がやろうと思っていたことがどんなに残虐でひどいことか、体感させられます。
これまで数か月間にわたって彼の脳裏を占めていた「老婆殺し」を、彼は今やはっきりと拒絶するのです。

 

(2009年10月30日)

(14)

本能的な嫌悪感をもって殺人計画を拒絶したラスコーリニコフですが、そこで彼は運命的な出来事に遭遇します。
たまたま通りかかった市場で彼はリザヴェータと商人たちの会話を耳にしてしまいます。
そこで彼はリザヴェータ、つまり金貸しの老婆の同居人が明日の7時に家を空けることを知ってしまうのです。
これは知ろうと思ってもなかなか探り出せない事実です。
この情報が目の前に転がり落ちてきたことで、神は自分に老婆を殺させたがっているのだとラスコーリニコフは確信します。
確かにこれは運命的といってもいい出来事だと思うのです。
ところがここでもドストエフスキーは皮肉な筆致を忘れません。
巻末の読書ガイドにも書いてありますが、ラスコーリニコフはリザヴェータが外出する時間を聞き間違えているのです。
「運命的な出会いなんてしょせんこの程度のものさ」
作者の冷笑的な言葉が聞こえるようです。
最初に読んだ時にはラスコーリニコフに示される残酷な神の声に驚いたものです。
しかし今は「罪と罰」はやっぱり人間のドラマなのだと思って逆に感心するのです。

 

(2009年11月2日)

この部分の書き方を読むとドストエフスキー自身は「運命的な出会い」を信じていない人なのだと思うのです。
彼の小説では運命的な出会いがストーリー展開の原動力を担っていることが多いのにも関わらず、です。
そこでふと翻ってみるに、私自分は運命の出会いを信じているでしょうか? 
みなさんは運命の出会いを信じていますか?
思いつきました。
こういうのはどうでしょう?
若さとは運命の出会いを信じているということだ。

 

(2009年11月4日)

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