「罪と罰」を読む(第1部第4章)

第1部第4章(第1巻:99ページ〜127ページ)

(11)

母親からの手紙にラスコーリニコフが当り散らす場面、かどわかされそうになる少女を助ける場面、それからラズミーヒンの人物紹介と、この章は三つの場面からなります。


まず最初の場面です。
ラスコーリニコフの八つ当たりの標的は、最初はルージン、次に自己欺瞞に満ちた手紙を書いた母親、それから兄のために自分を犠牲にしようとするドゥーニャと移っていって、最後に全ての原因である自分に行き当たります。
ラスコーリニコフの八つ当たりがそもそも自分勝手なのですが、その上彼は矛先が自分に向かった途端に追及の手を止めてしまいます。
こういう身勝手なキャラクターを書かせるとドストエフスキーは超一流です。
もっとも、読んでいる方はいらいらして全く楽しくありませんが。


次に少女を助ける場面ですが、よく分からないのはつきまとっている男のことです。
ラスコーリニコフの推測では少女は誰かに酔わされて、すでにかどわかされたあとです。
男はそのおこぼれに預かろうとつきまとっているわけです。
ところが巡査が現われても男はまだ着いてきます。
このしつこさがよく分かりません。
そこまで執着するなら巡査をうまく言いくるめれば済む話です。
身なりは立派なのですから「知り合いの子だから私が連れて帰りましょう」と言えば、巡査だってラスコーリニコフよりも男を信用したはずです。
しかし男はラスコーリニコフに面罵されても反論せず、ただ遠巻きに見ているだけです。
何回読み返しても、どういう状況を設定してドストエフスキーがこの場面を書いたかもう一つよく分からないのです。


最後にラズミーヒン。
わずか3ページ足らずの描写ですが、これもすっきりしません。
結局ここではラズミーヒンは現われないのです。
現われない者のために3ページが費やされる、この行き当たりばったり感がどうもドストエフスキーらしくないのです。


マルメラードフの長広舌と母親の大長編の手紙にうんざりしてそろそろ「罪と罰」を放り出したくなった人はこの第4章を読み飛ばしてすぐ第5章に入りましょう。
第5章はなかなか衝撃的です。

 

(2009年10月26日)

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「罪と罰」を読む(第1部第3章)

第1部第3章(第1巻:69ページ〜98ページ)

(8)

そのほとんどを母親からの手紙によって占められる第3章では、妹のドゥーニャの災難と婚約の話がだらだらと語られます。
退屈で、途中で放り出したくなる難所です。
しかしここも読むたびに印象が変わってくる面白い箇所です。
ドゥーニャは住み込みの勤め先でそこの主人スヴィドリガイロフによって辱めを受ける。
しかしやがてその嫌疑が晴れて、今度は金持ちの弁護士ルージンから求婚される―――というのが大筋です。
最初読んだ時は、苦労を耐え忍んだドゥーニャにも幸せな結婚の話が舞い込んできて、めでたしめでたし、くらいの印象でした。
2回目、ラスコーリニコフの洞察を踏まえて読むと、なるほど確かにルージンは単なるいい人じゃなさそうです。
3回目では、そういう二重の意味を込めて母親の手紙を書き進めるドストエフスキーの楽しそうな筆の運びが印象的です。
4回目になるとスヴィドリガイロフの妻マルファの度を越した怒り方、度を越した喜び方、度を越した謝り方が引っかかります。
あれ、これは誰かにそっくりだぞ? 
そうだ、マルメラードフの妻カテリーナだ。
彼女も過剰に怒り過剰に喜ぶ女性だった。
この類似はたまたまなのかな?
そして5回目、スヴィドリガイロフの奇矯な振る舞いの数々を踏まえてこの部分を読み返してみると、マルファとカテリーナの類似があらかじめ周到に意図されたものであると気づかされるのです。

 

(2009年9月28日)

(9)

どうして脇役二人のキャラクターを相似させなくてはならなかったか。
それは別の二人の相似性に気づかせるためだと思うのです。
それではその別の二人とは誰でしょう?
カテリーナの夫マルメラードフとマルファの夫スヴィドリガイロフ?


まさか。


酒に溺れてだらしがないだけのマルメラードフに比べるとスヴィドリガイロフは一応社会的には成功しています。
話す内容は筋が通ったり通っていなかったりするものの、話しぶりは知的です。
刹那的なマルメラードフに対してスヴィドリガイロフは策略的です。
この二人に相似性を見出すことは難しいです。


でもさらにもう一段考えを進めるとどうでしょうか。
経過はともかくスヴィドリガイロフは最後には自殺してしまいます。
二人は道筋は違えどもともに破滅に突き進んでいきます。
マルメラードフの場合はその道筋が比較的分かりやすいです。
まず救われたいと望み、やがてその欲求が罰されたいという欲望に変わり自滅していきます。
そしてこの図式をスヴィドリガイロフに当てはめると今まで難解とされてきた彼の行動がある程度説明できるのです。
「救われたい」しかし「罰されたい」、その欲求の強烈なせめぎ合いこそが二人に共通する人物像です。
カテリーナとマルファの相似性は、それを読み手に気づかせるためにドストエフスキーが巧妙に仕組んだ手がかりなのでしょう。


ここまで考えるとさらに疑問が湧いてきます。
どうしてスヴィドリガイロフとマルメラードフを似せる必要があったのか。
ドストエフスキーはこの先何を企んでいるのでしょうか?

 

(2009年9月30日)

(10)

カテリーナとマルメラードフ、マルファとスヴィドリガイロフ、この組み合わせを相似形とする、その意味は何でしょうか。
それはもう一つの相似を際立たせるためだと思います。
ソーニャとドゥーニャです。
ドストエフスキーは相似する二つの三角形を強調したかったのだと思います。

      ソーニャ             ドゥーニャ
       △                 △
マルメラードフ  カテリーナ   スヴィドリガイロフ  マルファ

ところがこの二つの三角形は似ているようで大切な部分で異なっています。
マルメラードフは死んでいますがスヴィドリガイロフは死んでいません。
献身的なキャラクターは共通するもの、マルメラードフを受容しているソーニャに対してドゥーニャはスヴィドリガイロフを拒絶します。
この2点において二つの三角形の相似性は崩れているのです。
そこで思うのです。
スヴィドリガイロフの目的とは相似三角形の完成ではなかったか、と。
ドゥーニャに受け入れられて、そして死にたい。
それがスヴィドリガイロフの目的だとするとあらゆることがとても上手く説明できます。


しかし私はずいぶん先走っているようです。
屁理屈は置いておいてどんどん読み進めることにしましょう。

 

(2009年10月2日)

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