源氏にまつわるエトセトラその1

(1)

 

1か月以上かけて「源氏物語」を読み終えました。
とても味わい深くてみやびやかな世界です。
特に中央に位置する「若菜」の素晴らしさはどうでしょう。
質、量ともに「源氏」の中核をなす、まさに圧倒的な頂点と言えるでしょう。
長大な連なりの中央にそびえ立つと言えば、六甲全山における摩耶山を思い出します。
そこで思ったのですが、六甲の山並みと「源氏物語」と筋立てはよく似ています。
塩屋から登山口までが静かな序章とも言うべき「桐壺」、そこから旗振山への急斜面が「帚木」。
なだらかな「空蝉」を経て、地獄のような階段の「夕顔」、険しい須磨アルプスのような重さの「若紫」へと続きます。
続く三帖は横尾の静かな住宅街、それから高取山の高みを持つ「葵」へと続きます。
そこからはしばらくなだらかな道が続きますが、ひよどりへの急斜面は「須磨」「明石」のような雰囲気が感じられるかもしれません。
菊水山は何と言っても「乙女」、それから鍋蓋山が「玉鬘」。
市ヶ原は「篝火」か「野分」でしょう。
もちろん「若菜」が摩耶山。
この配分だとちょうど「御法」「幻」あたりが展望台になります。
そして一軒茶屋から宝塚までが「橋姫」から「夢浮橋」までの宇治十帖に相当します。
紫式部は須磨にも行ったことがないというのが定説ですが、もしかすると六甲を縦走したことがあるのかもしれません。
「地獄階段を十二単で昇っている紫式部」なんてとてもシュールです。

 

(2006年2月6日)

 

(2)

 

この間岡山に行った時に林原美術館に寄ってみました。
「江戸の人々が見た『源氏物語』展」です。
収蔵作品のみによる美術展ですが色鮮やかな絵巻や装飾品などがたくさん陳列されていて目を楽しませてくれました。
中でも風流だったのは「源氏かるた」です。
54組のかるたの1枚目には帖の名前とそこで詠まれた歌の上の句が、2枚目には下の句と名場面が描かれています。
名刺サイズの本当に小さなかるたですが、艶やかな絵と流れるような文字が自由に溶け合っていつまでも見飽きない気品のある美しさをかもし出していました。
何という優雅な玩具、何という粋な「あそび」でしょう。
「これって全部でいくらするんだろう?」などとついつい考えてしまう自分が恥ずかしくなってしまいました。

 

(2006年2月23日)

 

(3)

 

「源氏物語千年紀展」に行ってきました。
京都文化博物館です。
いきなり入口の六曲一双屏風で圧倒されました。
五十四帖の名場面を集めた絵屏風で、風景、人物ともに見事に描かれています。
最初にこれを見てしまうとあとに並んでいる屏風たちが技術に偏った駄作に見えてしまうのが困ったところです。
それから何といっても写本の数々のかな文字の美しさ。
哀しいことに全然読めないのですが、それでもいつまでも眺めていたい美しさです。
これらの印象が強く残っているうちにもう一度「源氏物語」を読みたくなってきました。

 

(2008年5月26日)

 

(4)

 

今「源氏物語」を読んでいます。
「源氏物語」の文章には基本的に主語がありません。
以前は「この物語の主人公は『自然』であって、個々の人間ではない、だから主語など必要ないのだ」と考えたこともありました。
あるセリフを誰が語ろうがそんなことはどうでもいい、そんな大らかさを感じてそれで主語の省略を納得したこともありました。
今はまた違う考え方です。
「源氏」の新作が書きあがると紫式部は大勢のファンを広間に集めて読み聞かせていたのだと思います。
彼女は声色を使い、身振り手振りを交えて、それは一種の演劇(人気連続ドラマ?)ではなかったかと思うのです。
それなら主語など聴き手には必要ありません。
それはそれとして、「源氏物語」の主語の問題で一つ分からないことがあります。

 

(2008年10月20日)

 

(5)

 

玉鬘を想う男たちがそれぞれ求愛の歌を送ったところで「藤袴」の巻は終わります。
「さあ玉鬘は一体誰を選んだろう?」とわくわくしながら読者は続く「真木柱」の巻を開くわけです。
注釈本や現代語訳では「真木柱」の冒頭で当たり前のように「玉鬘は鬚黒の大将と結婚した」と書いてあります。
ところが原文では結婚相手がはっきりと明示されるのは3ページ先です(岩波文庫版)。
「『源氏物語』は朗読会で発表された」とする私の説に従えば……、
結婚相手の正体は明かされませんがところどころに結婚相手の短いセリフは出てきます。
紫式部はそこを鬚黒の声色で聴かせたのでしょう。
聴衆はその声を聴いて「まさか、この声は?」と想像を膨らませて「でもそんなはずはない、だって蛍の宮の方がイケメンでセレブだし」と小声でささやき合ったと思います。
そして3ページ目で「大将」という言葉が出てきたところでファンたちは「きゃーっ!」と叫び声を上げてひっくり返ります。
実際はどんな感じだったのでしょう? とても気になります。

 

(2008年10月22日)

 

(6)

 

それにつけても玉鬘が登場する巻があまり面白くないと感じているのは私だけでしょうか?
それから光源氏が物語から退場して宇治十帖が始まるまでの三帖。
主人公が退場して以降の話なのでテンションが下がるのは当たり前と思っていましたが、宇治十帖の高まりを考えるとおかしな話です。
玉鬘系十帖と「匂宮」三帖は紫式部の作ではない、そう主張する学者がいれば私は支持します。
そう言えば最近ある学者がバッハの無伴奏チェロ組曲は本人の作ではないと主張したそうです。
主張の詳細は分からないのですが思い当たることはあります。
第6番のプレリュードだけが他の曲に比べて明らかに弱いのです。
この曲だけはバッハの最初期の作品なのだろうと自分を納得させてきましたが、もし別人の作曲と主張する人がいればこれも私は支持します。

 

(2008年10月24日)

 

(7)

 

この間新聞で、ある国文学者が語っていました。
今「源氏物語」の本文として最も一般的な「大島本」は藤原定家が校訂したものであるから、これ以上本文を追求する試みは意味がない。
私は紫式部が書いた原典版「源氏物語」が読みたいと思うのですが、どうやらそういう人ばかりではないようです。
しかし「意味がない」とはとっても断定的です。
今後紫式部の自筆本や定家が校訂する以前に作られた写本が発見される可能性は低い、だから原典版を再現するのは困難だ、というのならまだ分かります。
しかし「源氏物語」のさらに千年近く前に書かれた福音書でも今まだ原典追及の試みが続けられています。
たかだか千年前の文書の批判作業を困難と決め付けるのは学者として怠慢だと思います。
ましてや「意味がない」とは……。
世界文学史上第2位の小説を選ぶのは至難です。
私は「平家物語」だと思いますが人によっては「カラマーゾフ」を挙げるかもしれません、「ドン・キホーテ」や「失われた時を求めて」も人気は高いようです。
しかしナンバー1は決まっています、第2位を大きく引き離して「源氏物語」です。
つまり世界史上最高の小説家は紫式部なのです。
その原典版に「意味がない」とは、あまりに寂しい言葉です。

 

(2008年10月27日)

 

(8)

 

「源氏物語」を読んでいて思うのは、これは当時どのように発音されていたのだろう? ということです。
検索してみるとどうやら平安時代には仮名表記の通りに発音されていたようです。
つまり有名な冒頭、「いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに」は「Idure no ohom-toki ni ka, nyougo, kaui amata saburahi tamahi keru naka ni」と発音されていたそうです。
今と違って「づ」は「du」と発音され、「さぶらひたまひ」は表記の通り「saburahitamahi」と読まれていたようです。
どうして平安時代の発音が分かったかということも興味深いのですが、それは置いておいて、ふと思うのです。
古文の時間に「源氏物語」を朗読する時には当時の読み方で発音するべきではないでしょうか。
「さぶらひたまひ」という文を千年前の人は「さぶらひたまひ」と読み、今、古文の知識がない人も「さぶらひたまひ」と発音するでしょう。
中途半端に古文の知識がある人だけが「さぶらいたまい」と発音します。
この中途半端さが良く分からないのです。
今なお旧仮名遣いを支持する人たちがいます。
これにも同じような違和感を感じてしまいます。
本来は旧仮名はそのまま発音されていた、現代では(原則的には)発音の通りに新仮名を使います。
わざわざその中間を選択する意味がもう一つぴんと来ないのです。

 

(2008年10月29日)

 

(9)

 

この間本屋に行ったので「真木柱」の冒頭を各現代語訳で読み比べてみました。
そうです、まだ「源氏」ネタで引っぱります。
実はどの現代語訳がどの出版社から出ているのかメモもしていなくて、読み比べるのは大変だと思っていたのですが、「源氏物語フェア」とかで一つのコーナーに「源氏」関係の本がずらりと並んでいました。
読み比べるには好都合です。
与謝野、円地、瀬戸内はそれぞれにしっとりとした現代語で、しかし巻の最初に玉鬘の相手が鬚黒の大将であることを明らかにしています。
普通の意味の現代語訳ではありませんが橋本訳も大幅に再構築はしているものの基本的に同じです。
ところが谷崎訳は完全にスタンスが違いました。
彼の訳には原文同様主語がありません。
頭注さえ読まなければ原文と同じく「玉鬘は誰と結婚したんだろう?」というわくわく感が味わえます。
それにちょっと読み比べただけでも分かる圧倒的な艶やかさ、雅やかさ。
現代語訳を読むなら谷崎訳が一番いいような気がしますが、ここまで難しいのなら原文を読むのも変わらないような気もするし、結局誰の現代語を選ぶかは個人の好みという結論に落ち着きそうです。

 

(2008年10月31日)

 

(10)

 

「源氏物語絵巻」を見て面白いと思うのは、光源氏がヒゲを伸ばしていたり伸ばしていなかったりするところです。
時代や国によって様々な聖母像があるように、時代の好みによっていろんな源氏像があるということです。
それならば現代日本人から見たとびっきりの美男美女で絵巻を作ってもそれほど見当違いではないと思います。
先日の「源氏絵巻展」で絵巻の中に混じって大和和紀のイラストも展示してありました。
これがまた素晴らしかったです。
ぜひ彼女には今の「源氏絵巻」を描いて欲しいと思います。
もしもう描いていたらごめんなさい。

 

(2008年11月5日)
 


神戸元町ダイアリー2008年(5)

意外とファンが多くてびっくりしています。
R・D・ウィングフィールドの「フロスト」シリーズです。
この夏は待ちに待った第4作「フロスト気質(かたぎ)」が翻訳されました。
お下品で身勝手なフロスト刑事の活躍ぶりは期待を裏切りません。
作中フロストがあの手この手を使って上司のタバコをくすねるのですが、ああ、そうでした。
イギリスはタバコは1箱1,000円もするのでした。
それならフロストでなくても人のタバコをくすねるのに必死になるでしょうね。

 

(2008年9月5日)

今ブルックナーを聴いています。
交響曲第9番、彼の最後の交響曲です。
彼の交響曲では一つの旋律がひたすら繰り返されてクライマックスを作り上げます。
その旋律は一見単純で明快なのですが、よく聴くとその個性豊かさに驚かされます。
そう、まるでゴシック建築のようです。
ステンドグラスの意匠は素朴でチャーミング、壁に据えられたガーゴイルはグロテスク、複雑な模様を刻み込んだ柱は力強い。
こうした一見ばらばらの無秩序な細工が一体となって天上の高みを目指すのです。
この高みへの志向、崇高な壮麗感はブルックナー独自のものです。
こうしたことはこれまで何万人ものブルックナーマニアがそれぞれ何千回も繰り返し言ってきたことです。
新味がないと分かっていても言いたくなってしまう、それもブルックナーの魅力でしょうか。
ところでバッハ、ベートーヴェン、ブラームスの3人は「ドイツ3大B」と呼ばれます。
しかし、私は思うのです。
これがもし「ドイツ・オーストリアの3大B」ならそれはバッハ、ベートーヴェン、ブルックナーだろうと。

 

(2008年9月17日)

私はクラシックもロックも同じように聴いて、特にどちらが高尚でどちらが低俗とか考えることはありません。
ですが一時期「グルーヴ」とか「ヘヴィネス」などのムーヴメントが盛り上がった時のロックにはうんざりさせられました。
ゆっくりのロックなのです。
遅いロックなんて甘いカレーとか面白くないお笑い芸人みたいなものだと思います。
ライブハウスで「ゆっくりロック」を聴いて「このグルーヴ感が最高!」なんて言ってる若者を見ると「そんなものを聴くくらいならブルックナーのアダージョを聴け!」と言いたくなるわけです。

 

(2008年9月19日)
 
先日県警の西側方面を歩いていて驚きました。
宝月旅館がなくなっていたのです。
甲子園沖縄代表の定宿のはずなのに今年は宿泊先リストに名前がなかったので不思議には思っていたのですが。
私が旧・赤十字病院に在籍していた頃は甲子園期間中球児たちが夜遅くまで路地で素振りをしているのをよくみかけました。
コンビニエンスストアで買い物していてもどことなく素朴な雰囲気があったのが印象的でした。
宝月のご主人もかなりの高齢らしいし、高校球児も今や旅館よりもホテルの時代なのかもしれませんが、何か一つつながりがなくなったようで寂しいものです。

 

(2008年9月22日)

格差社会の原因について評論家がいろいろ語っています。
しかし根本的な原因は私には自明に思われます。
つまり今の若者たちが、社会に格差などないと教え込まれたからではないでしょうか?
教育現場では生徒に序列をつけるのを嫌がります。
できれば競争もさせたくない。
高校は全入で、しかも学力とは無関係に学校が割り振られる。
学芸会でも均等にセリフが与えられる。
こんな教育を受けたにも関わらず真っ当に頑張っている人がいる方が私には不思議です。
生涯賃金を大雑把に表すと、フリーター5千万、中卒2億、高卒2.5億、大卒3億くらいでしょうか。
格差をなくすためには生徒たちにこの現実をしっかり叩き込むことが必要だと思います。

 

(2008年9月24日)

よくマスコミで派遣社員残酷物語が取り上げられます。
同じ仕事をしているのに正社員よりもはるかに少ない給料しかもらえない、それは働いていてとても辛いと思います。
しかし一方で「同じ仕事量なら責任がかかってくる分正社員の給料が多いのは当たり前」という考え方もあります。
ところがなぜかマスコミにはこういう考え方は取り上げられません。
先日ある医療関係の人事の人と話をしていたら派遣社員の無断欠勤率の高さを嘆いていました。
最初に契約した人は初日無断欠勤、次の人も初日無断欠勤、3人目の人は初日にやってきたと思ったら昼からいなくなったそうです。
伝聞なので幾分話が大きくなっているかもしれませんが、似たようなことはどの業種の人も経験しているのではないでしょうか。
そういう働き手のモラルの欠如もマスコミではあまり語られません。
派遣社員問題に関して、マスコミ側は反応の薄さを感じていると思います。
どんなに煽っても盛り上がってくれない「手ごたえのなさ」。
当然だと思います。
取り上げ方があまりに一方的すぎるのでもう一つ信用できないのです。
ほとんどの人は「またマスコミがきれいごとを言っている」くらいに思っています。
人々に訴えかけたければ物事の両面をしっかりと紹介した方がいいと思います。

 

(2008年9月28日)

物事の両面を報道しない、と言えば少し前の産婦人科たらい回し問題を思い出します。
当初は「医師のモラルが低い!」という視点から報道されていた事件ですが、そのうちに「未検診妊婦のいわゆる飛込み出産の危険性」「産婦人科医の激務」「検診費用を誰が負担するべきか」などの面も報道され始めてようやく真っ当な社会問題として認識されるようになりました。
その結果、医師数を確保して婦人科医療システムを構築したり、妊婦検診を公的に補助する仕組みなどが検討されたりするようになってきました。
最初のヒステリックな報道は一体何だったのでしょう?
マスコミ関係者に謝罪しろとまでは言いません、しかしせめて「国は医師数増加や検診費用の負担を考えろ、我々は未検診出産の危険性を訴えるキャンペーンを行う!」というくらいの気概は見せて欲しいところです。

 

(2008年9月29日)

小泉総理がやったことで一つだけすごいと思ったことがあります。
中曽根、宮沢元首相に引退を迫ったことです。 
いつまでもポストにしがみつく長老に対して「いい加減辞めろ」と言うのはとても難しいです。
実際そんなことをやらかした人を私はこれまでただの一人も見たことがありません。
私もあの人にもこの人にも言ってやりたいのですが、とてもそんな勇気はありません。
それを考えるにつけ、小泉さんは本当にすごい変人だったのだなあと思うのです。

 

(2008年10月1日)

愛媛の親戚がみかんジュースを送ってくれました。
愛媛と言えばポンジュースが有名ですが、今回送ってもらったのは生産者の個人名まで入ったストレートジュースです。
甘味も酸味も渋味もぜーんぶ丸ごと封じ込めた「生」な味わいでした。
ところで時を同じくして冷蔵庫の奥から「うめジュース」というのが出てきました。
おそらく誰かのどこかのお土産かと思われます。
これを飲んでみると、甘い。ひたすら甘いです。
砂糖をどっさり放り込んだ気持ちの悪い甘さ。
どうしてこんなことをするのでしょう?
旅先のみやげ物ショップに行っていつも思うことです。
ショップに並んでいるのは名前だけ気の利いた、しかしせっかくの特産物を甘味料や着色料で台無しにした飲み物とか、醸造用アルコールで水増ししたお酒とかばかりです。
観光地っぽいネーミングだけありがたく持って帰れと言わんばかりの殿様商法。
こういう店に行くと、買うべき商品が見当たらない寂しさと同時に、観光客を馬鹿にしたような売り手の姿勢に哀しさを感じてしまいます。
というわけで美味しいジュースと美味しくないジュースを飲んで、ついつい観光業界に腹を立ててしまった私でした。

 

(2008年10月3日)

今年も元町ミュージックウィークの季節がやってきました。
今回もお手伝いすることになりました。お暇ならどうぞ。

 

(2008年10月6日)

2008年10月8日、同率首位の巨人と阪神との最終戦が行われた。
残り3試合だったために事実上の優勝決定戦と言われた。
3対1で巨人が勝ち、そのままリーグ優勝を果たした。
 

事実上の優勝決定戦と言われた巨人阪神戦の平均視聴率が15.8%だったそうです。
平均で30近く、瞬間的には40近くに達するだろうと予想していたのに、驚きです。
ところで15.8%というとほぼ100を6で割った数字です。
つまりプロ野球12球団のファン数が拮抗して、2チーム分のファンがTVにかじりついたとすればこの数字になります。
数字の低さには驚きましたが、案外プロ野球人気の均等化を表す健全な数字なのかもしれません。

 

(2008年10月15日)

偽装表示のニュースを見て不思議に思うことがあります。
社員が大勢いる大きな会社なら中には不正を告発しようとする社員もいるでしょう。
これがもし少人数、極端な場合一人だと不正は表に出ないのではないでしょうか。
たとえば一人で作って一人で売っているようなケーキ屋だと古い牛乳を使っていてもこちらには分からないし、発覚することもないわけです。
つまり私たちは大きな会社の製品については表示を見て、個人商店だと作り手、売り手の人柄を見て、商品が信頼できるかどうかを判断しています。
どちらかと言うと、私たちは表示よりも人柄の方に重きを置く傾向があると思います。
いかに厳正な基準をクリアしたかを謳った表示よりも、信用できる人が目の前で作って目の前で売っているケーキの方を私たちは信頼します。
宇宙服のような格好の作業員が無菌室のような部屋で作っている写真の貼り付けられた弁当よりも、近所のおばちゃんが普通の台所で作った手作り弁当の方を私たちは信頼します。
作り手の顔が見えれば私たちは安心するのです。
そこまで考えてふと思いついたのですが、当クリニックでは私が診察をして、私が薬を用意して、私が説明して渡します。
私が麻酔をかけて、私が胃カメラをして、私が機械の洗浄をします。
これぞ究極の「顔の見える医療」ではないか……、胃カメラの洗浄をしながらこんなことを考えて一人ニヤニヤしたりしているわけです。

 

(2008年10月17日)

神戸元町ダイアリー2008年(4)北京オリンピック<main>神戸元町ダイアリー2008年(6)ジャーナリストの死


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