神戸元町ダイアリー2007年(5)

それにしてもJRの車内放送はどうしてあんなにやかましいのでしょう?

 

(2007年9月3日) 

生活保護の申請を職員が断ったり圧力をかけて自主撤回に持ち込ませる事例が問題になっています。
生活困窮者に最低限の生活を保障するのは当然です。
しかし経費の無駄遣いを徹底的に叩かれている公務員に対して、生活保護だけには大盤振る舞いせよと言うのは無理があります。
申請の正当性を外部機関に任せてはどうでしょうか。
たとえば生活保護受給者にボランティアで窓口に座ってもらうのです。
新たに申請に来た人たちを判定するのは現に受給している人たち。
実際に受給している立場から判定するのですから必要以上に厳しくはなりえないと思います。
また支給される総額に限度を設けましょう。
受給者が極端に増えれば一人当たりの受給額が減ります。
これなら適度に同情的に、適度に厳しく、判断できるのではないでしょうか。
また担当者が少々もたついたとしても本来は働けない人が無理して窓口に座っているわけです。
申請者から苦情が出ることはないでしょう。
役所の担当職員は判定に加わらず事務手続きだけおこなうようにすればいいと思います。

 

(2007年9月7日)

クリニックの周りにも全席禁煙の美味しい店が増えてきました。
そういう頑張っているお店をこのコーナーで紹介して応援したいと思っています。
最近はきれいな写真入りでお店や料理を紹介する個人のブログも増えてきました。
お店の人に断って撮影しているのだと思うのですが、それでもちょっと勇気が要ります。
禁煙のお店応援コーナーは私の勇気が出るまでもうちょっとお待ちください。

 

(2007年9月10日)

月に一度新聞の休刊日がありますが、たいてい月曜日です。
日曜日には株式や政局の動きが少ないからなのでしょうが、日曜日には夕刊もないので日曜朝から月曜夕方まで1日半新聞なしで過ごさなくてはなりません。
火曜日休刊にすると月曜夕方から火曜夕方までの1日のインターバルで済みます。
日曜日には大きなスポーツイベントが多い。
一方月曜日にはプロ野球の試合も少ない。
新聞休刊日は火曜日にするべきだと思います。

 

(2007年9月12日)

2007年7月の参議院議員選挙で大敗を喫した自民党は内閣改造で難局を乗り切ろうとした。
新布陣を組んだ安倍首相は9月10日の臨時国会で所信表明を行ったが、その二日後突然辞任を発表した。

 
安倍首相の辞任のニュースを伝えた夕刊には「無責任」という識者のコメントがずらりと並んでいました。
「なるほど無責任かも」と思いながら記者会見の録画を見ると、安倍さんはあの表情です。
表情の「深刻度」「精神的困憊度」「抑うつ度」をあるがままに映し出す映像に比べると識者のコメントはあまりにも軽くて表面的でした。
評論家やコメンテーターは今が映像の時代であるということを再認識した方がいいでしょう。
時代に取り残された評論家など無用の存在だと思います。
ところで安倍さんの業績を振り返ってみると防衛庁を省に昇格させ国民投票法案、教育改革法案を成立させて、さらに党内保守派から反発の強かった公務員制度改革法案も強引に通しているのです。
テロ特措法はアメリカが北朝鮮宥和に傾きつつある今、彼の大看板である対北朝鮮政策と相容れません。
アメリカの外交姿勢の変針に抗議してテロ特措法を延長せず、しかしそれは対外公約に反するために責任を取って辞任した。
事実だけを並べればこう解釈することも可能です。
あの記者会見さえなければ後世評価が劇的に変わる可能性もあったと思います。
記者会見をもう一度やり直したらどうでしょう?

 

(2007年9月14日)

以前このコラムで少し取り上げましたが、日本の裁判制度は最悪です。
検察官と馴れ合った裁判官は被疑者の接見を制限し放題、勾留延長は大盤振る舞い。
司法の独走を防ぐべきマスコミは検察からのリークを嬉々として垂れ流す。
これでは日本で罪を冒した米兵を「日本の司法システムで裁かせろ」と主張できないのも当たり前です。
そんな問題を真っ向から取り上げた映画「それでもボクはやってない」を見ました。
本当に恐ろしかったです。
主人公が痴漢の濡れ衣を着せられるという話なのですが、何が恐ろしいといって、じゃあ主人公がどの時点でどうすればよかったのかという選択の分かれ道が全く見えないこと。
つまり日本の現状では、痴漢に間違われれば誰がどうあがいてもああなってしまうのです。
「素人に裁判の何が分かるもんか」と裁判員制を批判する人もいます。
しかし今のシステムでは裁判官は研修の過程で検察官に対する盲目的な信頼感を植えつけられる仕組みになっています。
無意識の内に被疑者よりも検察官を信用してしまう体質ができてしまうのです。
検察と仲良しのプロに裁かれるのがいいか、しがらみのない素人に裁かれるのがいいか、裁判員制は詰まるところそういう問題だと思っています。

 

(2007年9月19日)

「ローマ人」の季節がやってきました。
毎年この時期になると塩野七生の「ローマ人の物語」文庫版が発売されるのです。
単行本の方は一足先に完結したようです。
文庫版は何年遅れで終わるのでしょう?
さて今回のタイトルは「終わりの始まり」。
ローマが最高の栄華を極めたはずの五賢帝時代、実はこの時期にローマ衰退がすでに始まっていた、という内容です。
最も印象深かったのはマルクス・アウレリウスが受けた帝王学。
この時代ローマの領土は全ヨーロッパに広がっていました。
当然色々な人が様々な方言をしゃべります。
ところが皇帝は自分に話しかける人のアクセントや語法の間違いを決して指摘してはならない、というのがマルクスが受けた教えだったそうです。
皇帝に向かって語られる言葉は、それが誰によって語られるにせよ帝国統治のための糧である。
その貴重な言葉をつまらない指摘で遮るのは帝国全体にとっての損失だ、そういう理屈なのだそうです。
私は以前「日本はもちろん、世界でも品格のあった国家が存在したことなどない」と書いた事があります。
しかしもしかするとローマは品格のある国家だった可能性があるかもしれません。

 

(2007年9月21日)

塩野七生「ローマ人の物語」の文庫版最新刊には映画「グラディエーター」の話題が出てきます。
あれは実話に基づいた話だったのですね。
全然知りませんでした。
塩野七生の評価としては、時代考証はよくできているが人物設定がもう一つ、そんな評価だったでしょうか。
そうしたらタイミングを狙ったのかどうか、NHKが「グラディエーター」を放送してくれました。
以前見た時は単なるアクションだと思って見たのですが、実話と思って見るとそれはそれで渋い映画でした。
NHK、なかなかやるじゃんって感じです。

 

(2007年9月25日)

ずっと昔にある格闘技評論家が言っていました。
総合格闘技なら相撲の力士が一番強いはずだ、と。
なぜなら打撃で倒した相手に馬乗りになるのが総合格闘技の必勝パターン。
打撃に強く、しかも絶対に倒れない訓練を受けている力士が負けるはずがない、というのが彼の主張でした。
ところが実際そうでなかったのはみなさんご存知の通りです。
相撲の起源を古事記の記述にまで遡ろうとする人がいます。
もしそうだとすると相撲は国技である以前に格闘技でした。
伝統にのっとり土俵の神聖さを主張するなら、同時に、いやそれ以前に相撲には格闘技としての強さを求めるべきだと思います。
弱い格闘技など国技ではありえません。
というわけで力士は場所の間には巡業ではなく総合格闘技の試合にどんどん出るべきだと思います。

 

(2007年9月28日)

今週から元町ミュージック・ウィークが始まります。
ポップスからクラシックまで、この1週間元町が音楽でいっぱいになります。
今年もささやかながらお手伝いします。
お暇ならどうぞ。

 

(2007年10月1日)

ちょっとした一言や仕草でその人の印象が決まってしまう場合があります。
私の場合思い出すのが評論家立花隆です。
今から20年以上前、CDというメディアが登場した時のことです。
立花隆は取材記者にLPとCDの音を聴き比べさせます。
その時に用意したのは最新録音のCD。
そしてLPの代表として彼が用意したのは何と、1950年代のフルトヴェングラーの録音でした。
大昔に録音されたノイズだらけのレコードだったのです。
それを聴いた記者は「なるほどLPよりもCDの音の方がきれいだ!」と感動しました。
私はそれ以来立花隆の語る事を一切信用できないでいます。
それから思い出すのがシドニーオリンピックで柔道監督だった山下です。
誤審騒ぎで場内が騒然とする中、両手を拡げるだけで何のアクションもおこなわなかったあの姿に、私は「この人は決断力や行動力のない人なんだ」という先入観を持ってしまいました。
あれだけ優秀な選手だったのですから実際はそんなはずないのですが、いまだに私は「山下」という名前を耳にするとあのシーンが思い浮かびます。
今回国際柔道連盟の役員に山下が落選したというニュースを聞いた時もそうです。
露骨な日本はずしだ! と連盟のやり方に憤懣を感じる一方で、「山下はどうせ会議に出ても何も発言しないでただ座っていたんだろうなあ」とついつい思ってしまうのです。
勝手な思い込みです、ごめんなさい山下さん。

 

(2007年10月3日)

村上龍の「半島を出よ」を読みました。
トム・クランシーばりのハイテク・ポリティカル・スリラーに「水滸伝」を足して2で割ったという感じでしょうか。
社会不適応者たちが巨大な敵に立ち向かうという構図も「水滸伝」そのものですが、首魁のとらえどころのなさも「水滸伝」を思い出させます。
ですが彼らの描写が時に文学的過ぎて、「緻密な描写の積み重ねによるリアルなサスペンス」よりも「悩める現代人のためのファンタジー」のような印象になってしまったのが物足りないところかもしれません。
作者はどこまで映像化を念頭に置いているのでしょう。
ラストシーンはぜひ映画館の大スクリーンで見てみたいような気もします。

 

(2007年10月5日)

トム・クランシーの名前が出たのでついでに一言。
映画「レッド・オクトーバーを追え」や「いま、そこにある危機」などの原作で知られるトム・クランシーですが最近ぱっとしません。
アメリカを襲う様々な危機に主人公ジャック・ライアンが立ち向かうというのが基本的な構図なのですが、ライアンもついに大統領にまで登りつめてしまいました。
つまり今はライアン=アメリカ合衆国なのです。
アメリカが無法者と認定した国や団体を圧倒的な軍事力で叩き潰す、そんな話の繰り返しが面白いわけがありません。
ロシアも日本もイランも叩きのめしたあと、戦う相手として残されているのは宇宙人くらいしかいないのではないでしょうか?
しかし行き詰まった物語を打開する方法が一つあります。
ライアン大統領が任期満了で辞任したあと、アメリカは無能な大統領によって悪の帝国に変貌を遂げるのです。
ありもしない大量破壊兵器を探し出すために他国を侵略したり、平和活動のために供給された石油を軍事行動に流用したり、ライアン辞任後のアメリカは勝手放題の嫌われ者国家になってしまいました。
その流れを食い止めるべくライアン元大統領が立ち上がるのです。
どうです? トム・クランシーさん、こっちの方が絶対面白いですよ。

 

(2007年10月10日)

JRの遅延運休が最近特にひどいです。
阪神間は私鉄が併走しているのでまだ何とかなるのですが、それでも情報がないと私鉄乗り換えのタイミングを見計らうのが難しいです。
問題は、駅員にも運転再開などの情報が分からないところです。
こういう時は実は悪名高い「2ちゃんねる」の「関西列車運行障害情報」がお薦めです。
電車に乗っている人、ホームで待っている人が「○○駅に停車中の上り新快速が今動き始めた」とか「△△駅の各停はまだ信号待ち」とか刻々と書き込んでくれるのです。
駅員がもっている情報よりも新しくて豊富です。
JR運休の知らせに焦った時は駅員に詰め寄るよりも「2ちゃんねる」に頼りましょう。

 

(2007年10月12日)

個人的に存在意義の分からないものがいくつかあります。
まず速くもやかましくもないロックミュージック。
静かな音楽が聴きたければクラシックを聴けばいいと思います。
どうしてロックミュージックにヘヴィネスやドゥーム感を求める人がいるのかさっぱり分かりません。
それからあっさり味のラーメンの存在意義も分かりません。
丁寧にダシを取った上品なスープとか、ラーメンにどうしてそんなものを求める人がいるのかよく分かりません。
さらに最近全然分からないのが役者やボクサーに品格を求める人。
これは本当に本当に全く分かりません。


ここで触れられている役者とは沢尻エリカ、ボクサーとは亀田興毅と思われる。 

 

(2007年10月15日)


この週末は町内会の清掃大会でした。
芦屋市内は条例により6月から路上喫煙が禁止されました。
まだまだ市内全域での路上禁煙が周知徹底されているわけではありませんが、それでも今回の掃除はとても簡単でした。
道端のゴミはほとんどタバコの吸殻なのです。
歩きタバコをしている人は全人口のせいぜい数パーセントでしょう。
その人たちが道端のゴミのほとんどを作り出しているのです。
ごく一部の人が富を独占するのも格差ならば、ごく一部の人によって町が汚されているというのも格差だと思います。
富の格差だけではなく、ゴミの格差も何とかして欲しいものです。

 

(2007年10月17日)

「神戸ビエンナーレ」に行ってきました。
現代アートの祭典とでも言うべきイベントで、目玉となるのが60余りのコンテナアートです。
コンテナの限られた空間を自由に使った「コンテナアート」なるものが定着したアートの形式なのかどうかは知らないのですが、それぞれに工夫を凝らした展示はどれも見ごたえがありました。
中でも現代「いけばな」の数々には圧倒されました。
「いけばな」はまだまだエネルギーをもって走り続ける前衛だったのですね、びっくりしました。
全ての展示を見るのに約3時間。
こちらの体力も問われるアートイベントでした。

 

(2007年10月22日)

この間ニュースショーを見ていたら最近の出版事情について特集をしていました。
そこで例によって出てくるのが「若者の活字離れ」をしたり顔で嘆く評論家です。
「活字離れ」に何か根拠があるのでしょうか? 
今は新刊書の出版数こそ多いものの内容が低下しているとその評論家は嘆きます。
ところが40年前の年間売り上げ第1位の本は「頭の体操」、30年前は「間違いだらけのクルマ選び」、20年前が「サラダ記念日」、そして10年前は「ビストロスマップ」でした。
ちなみに去年は「国家の品格」でした。
今も昔も本のレベルなんてこんなものです。
昔もほとんどの人は手紙なんか書きませんでした。
それが今はほとんどの人がメールという文字情報で意思を伝達します。
特に若い人は電話代を気にして長電話よりもメールでやり取りする方を好みます。
「若者はむしろ活字に接近している」というのが事実だと思います。

 

(2007年10月24日)

電話帳の季節がやってきました。
自営業の方は経験があると思うのですが、この時期になると電話帳広告のニセ請求書がやってきます。
電話帳から切り抜いた広告と請求書を送りつけて振込みを要求するのです。
見るからに怪しい請求書ですし、最近はNTTから「ニセ請求書に気をつけてください」という親切な電話もかかってきますし、今時こんな手口に引っかかる人がいるのだろうか? とこちらが心配になるような原始的な詐欺です。
しかし考えてみればこれには大変な手間がかかっています。
広告を切り抜いて台紙に貼り付けて、あて先を手書きで書いて封をして、郵送するのです。
仮に千人に一人が騙されたとしても時給は最低賃金ラインをはるかに下回ります。
そこでついつい想像してしまうのです。
貧しい家族の光景を。
「花子はこれを切り抜くのよ、そして太郎はこれを貼り付けてね。お母さんは宛名を書くから、あ、お父さんは寝ててちょうだい」
「すまんな、お父さんが病気になったばっかりに……」
「お父さん、それは言いっこなしでしょう」
何と切ない話でしょう。
だからと言って振り込んだりはしませんが。

 

(2007年10月26日)

全国学力テストの結果が出ました。
沖縄が最下位で大阪は45位だったそうです。
それはともかくとして驚いたのは新聞の論評です。
「そんなのは無作為抽出テストですでに分かっていたことだ。この程度の結果を得るために全数調査する必要性があったのか疑問」なのだそうです。
大阪の学力の低さは常識だったようです。
常識なら教えてくれればよかったのに、マスコミも人が悪いですね。

 

(2007年10月29日)

賞味期限切れのニュースがそろそろ賞味期限切れです。
同様のニュースがあってもすっかり驚かなくなってきました。
しかし偽装表示の問題でやり玉に挙げられるのは、有名ではあっても企業としての規模はそれほど大きくない会社ばかりです。
大企業はよほど品質管理がしっかりしているのでしょうか? 
それとも情報管理がしっかりしていると考えるべきなのでしょうか?

 

(2007年10月31日)

またまた立花隆なのですが、かつて彼が脳死臓器移植に猛反対していたことがあります。
その理由が、臓器を移植するためには脳が「器質的に」死んでいなくてはならない。
しかし今脳死判定に用いられている検査は全て「機能的」死しか判断できない。
従って今の判定基準では脳死移植を認める事はできない、という論法でした。
「器質的」と「機能的」という言葉を使い分けて理路整然と脳死移植に反論したわけです。
しかし「器質的」と「機能的」という言葉はそんなにすっきりと分けられる概念でしょうか?
たとえばある機械が壊れたとします。
スイッチを入れても動かない、どのボタンを押しても動かない、叩いても動かない。
どうやっても全然動かない、だからこの機械は壊れている、と普通は判断します。
機能的に完全に停止しているから器質的に壊れている、と判断するわけです。
つまり「器質的死」というのは理屈の上にしか存在しない概念なのです。
「器質的な死」そのものを判定する方法はありません。
それは機能的検査を繰り返すことによってしか判定できません。
あまりに理路整然とした理論には往々にしてこうした「嘘」が含まれています。
騙されないように気をつけたいものです。

 

(2007年11月2日)

言葉のまやかしで思い出すのが「嫌煙ファシズム」という言葉です。
「ファシズム」には何か恐ろしいイメージがあるので、嫌煙運動に水を差すにはとても有効な表現です。
しかし「ファシズム」も実は分かったような分からない言葉です。
本来「ファシズム」とは国内的には「全体主義」、対外的には「軍事的拡大主義」、その両方の特徴を併せ持った政治のあり方を意味する言葉です。
「嫌煙ファシズム」はこの内の「全体主義」を切り取って転用しているのでしょう。
問題はその「全体主義」です。
最大多数の最大幸福を達成するために民主主義社会では多数決の原理を採用しています。
10人の内9人があることを望み、残りの1人が我慢を強いられる、これが多数決でこれは民主主義の基本です。
決して「全体主義」ではありません。
その1人が基本的人権を侵害される場合に初めて「全体主義」になります。
狭い部屋に10人いて、9人が禁煙を望み1人が強いられる。
しかし「タバコをどこでも吸ってもいい」基本的人権などは存在しません。
従って多数の意見によって禁煙を強いられてもそれは「全体主義」ではありません。
ところが逆に狭い部屋でただ1人タバコを吸わない人がいるとすればどうでしょう。
この人は健康被害に曝されます。
そして「健康」は基本中の基本の人権ですからこの場合は「全体主義」にあてはまります。
「嫌煙ファシズム」という言葉を発明した人はすごいと思います。
実に優れた言語感覚の持ち主です。
しかしそこで用いられている「ファシズム」という言葉が本来の意味を捻じ曲げて使われている点、さらに本来は喫煙こそ「ファシズム」である点、その二つを私達は理解しておくべきでしょう。

 

(2007年11月5日)

さらに言葉の定義の話が続きます。
今フロイトを読んでいるのですが、彼の理論の元になるのが「自我」や「エス」、それに「超自我」などの用語です。
読みながら思ったものです。
あるかどうかはっきりしないものを踏まえて積み上げた理論に意味があるのだろうか?
フロイト自らが答えてくれました。
今までの科学者も重力や磁力の存在を知っていて物理学を組み立てたわけではない。
さまざまな現象からその存在の可能性に思い至り、その存在を仮定した方がさまざまな現象をより簡単に説明できるから「存在する」と結論づけてきた。
科学というのはまず存在を仮定するところから始まるのだ、と。
おっしゃる通りです。
フロイトさん、疑ってすみませんでした。

 

(2007年11月7日)

神戸元町ダイアリー2007年(4)センマイって何?<main>神戸元町ダイアリー2007年(6)椿三十郎リメイク


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