明けましておめでとうございます。
みなさま、お正月は有意義に過ごせましたでしょうか?
ウラジーミル・ナボコフ「ロリータ」の新訳版が文庫になったので読んでみました。
「ロリータ・コンプレックス」の語源となったタイトルこそキワモノ的ですが、実は言語の天才ナボコフが言葉を魔術のように操って綴った物語です。
これを今から30年近く前に読んでとても感動したのを憶えています。
当時、私はロリータと同年代。
その時には美少女ロリータの描写に心をときめかせたものですが、今は私もすっかり主人公と同世代(と言うのは嘘で、実は主人公より10歳上)。
今回は主人公の心境にさらに共感できるのではないかと期待して読み始めました。
意外や意外、あまり面白くありませんでした。
万華鏡のような言葉の装飾は、今読むとただの「おやじギャグ」にしか思えません。
期待した中年の哀愁も全く伝わってきません。
そして何よりも、ロリータに恋をするには歳を取りすぎました。
10代の感性のための本だったのかもしれません。
それにしても解説の大江健三郎の悪文にはびっくりしました。
これは若い文学青年たちには読ませたくない文章です。
(2007年1月5日)
さらに帰省の行き帰りで話題の山崎豊子「華麗なる一族」全3冊を読みました。
これは本当にすごいです。
小説の完成度、迫力としては「白い巨塔」の第1部を上回るかもしれません。
隙のない構成、触ると火傷しそうに熱い人間ドラマ、まるでシェークスピア「ハムレット」です。
舞台となる銀行が栄町通りに、鉄工所が灘浜に、自宅が岡本山手にあるという設定もしびれさせてくれます。
願わくばテレビが原作に忠実にドラマ化してくれますように。
そうそう、ただし一つ注意が必要です。
普通、裏表紙には前巻までのあらすじが書いてあるものですが、新潮文庫はどういうわけかその巻のあらすじが書いてあります。
ですから本文を読む前に裏表紙を見てしまうとストーリーが全部分かってしまうのです。
新潮社は基本的にいい出版社だと思うのですが時々やらかしてくれます。
「華麗なる一族」は、本屋でつけてくれたカバーをはずさないままで読みましょう。
(2007年1月10日)
しかし小説でも映画でも、「結末が分からないと落ち着いて読めない(見られない)」っていう人は確かにいます。
知りたい星人です。
私の周りにも知りたい星人が何人かいて、知りたくない星人との間に日々厳しい戦いが繰り広げられています。
知りたい星人「ねえ、あの映画見た?」
知りたくない星人「見たよ」
「最後どうなるか教えて」
「でも結末分かってたら、見てても面白くないでしょ」
「いいからいいから」
「そんなの教えたくない」
「見ないから教えてよ」
「何じゃ、そりゃ」
「じゃあ、あの映画見た?」
「見てない」
「誰が犯人か教えてあげようか」
「ダメ。犯人分かってたら面白くないでしょ」
「いつ見るの?」
「いや、見に行く予定はないけれど……」
「何じゃそりゃ」
二つの星の間には何万光年もの距離があるようです。
(2007年1月12日)
スポーツジムに通っているのですが、先日ランニングマシンを使っていたら係の人に注意されてしまいました。
「本を読みながら走るのはやめてください」
ランニングマシンを使う時には医学雑誌を読むことにしていたのです。
しんどいことは一度に済ませてしまおうという不精な考えでした。
それにしても、ただ走るのは退屈です。
今後どうしたものでしょう。
(2007年1月17日)
2006年12月31日のNHK紅白歌合戦で、バックダンサーが裸体を模したボディスーツを着て踊るシーンが流れ、視聴者からの苦情が殺到した。
昨年NHK紅白の一部演出に対して抗議が殺到したそうです。
私の個人的好みは別として、不特定多数が視聴する可能性があるテレビ番組では裸は制限するべきだと思います。
他方、大人が自己責任で購入およびレンタルするメディアについては一切の規制はするべきではありません。
日本では大人にも子どもにも同じものが与えられています。
つまり大人が国の規制に頼りきっているわけです。
これでは日本人がいつまでも大人になりきれないはずです。
抗議と言えば昔から不思議だったのですが、どうして国語の教科書の「雪国」には誰も抗議しないのでしょう?
川端の「雪国」、冒頭の文章があまりにも有名な、名文の代表とされる小説です。
しかし中学生の頃にあれを読んで、「おいおい、これを中学生に読ませちゃあダメだろ」って思ったのを覚えています。
多分編纂者は「川端」という名前に気圧されて、一体どんな小説なのか真っ当に判断できないまま教科書に載せてしまったのでしょう。
大人には大人の責任が、子どもには子どもにふさわしい作品が、今の日本では必要だと思います。
(2007年1月19日)
というわけでモーツァルトです。
最近歌劇「フィガロの結婚」をよく聴いているのですが、20年以上前に見た映画「アマデウス」を思い出します。
確か、サリエリが皇帝に捧げた曲をモーツァルトが一聴して憶えてしまうというシーンがありました。
彼は憶えた曲を再現するだけではなく、どんどんアレンジしてしてサリエリと皇帝を唖然とさせてしまいます。
そこに使われたのがフィガロのアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」でした。
サリエリの行進曲をモーツァルトが弾きます。
面白くも何ともない小行進曲。
ところがモーツァルトは途中で「ここはユニゾンにした方が面白いよ」と言って大胆な上昇音形をユニゾンで加えます。
すると何の変哲もない行進曲がたちまち生命力にあふれた、茶目っ気たっぷりの音楽に変貌するのです。
それからモーツァルトが自信作「フィガロの結婚」を皇帝に説明するシーンもありました。
「二重唱から始まったフィナーレが、次々に登場人物が増えて三重唱になり四重唱になり、音楽が途切れることなくいつまでも続くのです。
さあ、一体何分間続くと思いますか? 皇帝。20分ですよ、20分!」
上演に難色を示していた皇帝ですが、それを聞いて思わず身を乗り出してしまいます。
さらに大団円の美しいコラールも印象的に使われていました。
また「フィガロの結婚」と言えば「ショーシャンクの空に」という映画でも効果的に使われていました。
主人公の尽力によって、刑務所の中で初めて音楽が流れます。
それが「手紙の二重唱」でした。
ぞっとするような官能美に恍惚と立ち尽くす囚人たち。
映画史上これほど危険な曲がスクリーンに流れた事があったでしょうか?
これらのシーンを思い出すと、小林秀雄の「モオツァルト」がいかに観念的で表面的だったか思い知らされます。
彼が修辞を尽くして描いたモーツァルト像、しかし文章こそ華麗ですがその内容は頭でっかちで教科書的でした。
彼が「モオツァルト」執筆前に一度でも「フィガロ」を聴いていれば……。
モーツァルトの音楽が明らかに体の中に組み込まれていた「アマデウス」や「ショーシャンク」の監督たちと比べると交響曲や室内楽曲のみでモーツァルトについて語らざるを得なかった小林が不憫でもあります。
「フィガロの結婚」を実際に聴くことのできる現代の私たちとしては、その機会をなるべく逃さないようにするのが小林の「モオツァルト」を補完する唯一の手立ではないでしょうか。
(2007年1月24日)
人名漢字についての議論を見ていてびっくりしました。
ほとんど無数にある異字体。
あれはほとんどが書き間違いに基づくのだそうです。
中には「識字率が低かった時代の、あまり字を知らない戸籍係が誤って書いた字にしがみつくべきではない」とまで言い切る学者もいます。
誤字から派生したにせよ、名前はその人のアイデンティティですからばっさりと切り捨てるのはどうかとも思いますが、その由来については全く知りませんでした。
考えてみれば、様々な伝統も元をたどれば考え違いや思い込みに端を発するのかも知れませんが……。
(2007年1月29日)
この間「古事記」を読みました。
多層モザイク構造の神話、それから濃淡のコントラストのはっきりとした歴代天皇列伝、なかなか興味深い1冊でした。
瀬戸内海起源の創世記、近畿を中心とした国力増大過程、出雲を舞台とした神々の黄昏、さまざまな神話が渾然一体となったカミヨの時代。
そこにはるか日向の地から割って入ってくる天皇家。
しかしその記述に統一感はなく、その業績を詳しく語られる天皇もあれば、全く触れられない天皇もあって、「古事記」成立に潜む裏事情を想像させます。
問題は登場人物たちの名前がとてつもなく難しいことです。
「宇摩志阿斯詞備比古遅神」と言われても……、そう思っていたらこんな便利な本を見つけました。
「地図とあらすじで読む古事記と日本書紀」これがとっても簡単で参考になりました。
それにしても、この本をどこで見つけたと思います?
正解は「ローソン」です。
コンビニエンスストアにこんな本を置いているなんて、日本人ってすっごく知的で勤勉な民族なんだなあ、と感心してしまいました。
(2007年1月31日)
2007年1月、柳澤厚生労働大臣が女性を「産む機械」と表現したとして野党から激しい批判を浴びた。
一方「文脈を無視して『産む機械』という言葉だけを取り出して批判するのはおかしい」という反論も出され、ジェンダー、厚労行政、マスコミ論、言葉狩り、と議論の焦点がどんどんぼやけていった。
柳澤大臣は結局辞任しなかった。
女性は産む機械であるという発言が問題になっています。
これだけ大問題になっている、つまりほとんどの日本人は「女性は産む機械」だとは思っていないということですね。
私の受ける印象とは全然違うのですが、私の方の勘違いだったようです。
まことに喜ばしいことです。
しかしこれで勢いをつけて選択的夫婦別姓法案を通そうとするかと思えば、そういう発想は野党にはないみたいです。
もしかすると選択別姓制に対する賛否が拮抗したという世論調査の結果が影響しているのかもしれません。
特に20代で「選択別姓制がなくてもかまわない」割合が増加したそうです。
しかしこのアンケートは、不適切な設問の典型です。
もし不要論者にその理由を尋ねる項目があればどうだったでしょう?
「家という枠組みが壊されるおそれがあるから」や「子どもに悪影響を与えるから」などの保守的な理由で不要と考える人もいるでしょう。
同時に「不便なら結婚しなければよい」という、結婚という制度を重視しない超進歩的理由で不要と考える人もいます。
つまり相反する層が同じ答えを選んでしまう失敗設問なのです。
この統計に基づいて何らかの政治的方向性を見出すべきではありません。
野党には失言の揚げ足取りよりも、実りのある法案成立を狙って欲しいものです。
(2007年2月2日)
印象と世論の乖離と言えばかつての「瀋陽領事館事件」を思い出します。
瀋陽の日本領事館に駆け込んだ北朝鮮の難民を領事館職員が中国の武装警官に引き渡した事件です。
あの事件に対するマスコミの報道を見て、日本はいつから難民や外国人に対してこんなに寛容になったのだろうと疑問に思った人は少なくないはずです。
日本は基本的に難民を受け入れない、あまり人道的でない国です。
でも本当は国民自体は難民の受け入れに賛成だったのですね、安心しました。
(2007年2月5日)
「ビル・ヴィオラ〜はつゆめ」展に行ってきました(兵庫県立美術館〜3月21日まで)。
ビル・ヴィオラはビデオ・アーティストの第一人者です。
今回の展覧会は彼のビデオ作品全9点を一挙に紹介するという画期的なイベントだそうです。
実はここだけの話、私は美術鑑賞はそれほど好きではありません。美術館に入ったとたんになぜか眠くなってしまうのです。
でもビデオ作品ならそんなに退屈もしないだろうと、甘い期待を胸に抱いていました。
ところが実際はどの作品も静止画像と見紛うような超スロー映像。
どの作品に向き合うにもかなりの根気を必要とします。
私としては、不定形の超大型画面の映像をどうやって撮影したのだろう? とかリピートの時にもどうして映像が乱れないのだろう? とか超スロー撮影なのにどうしてノイズが全く混入しないのだろう? とかそんな技術的なことばかり気になってしまいました。
お暇な方はどうぞ。
(2007年2月7日)
冬でも手袋はしません。
信号やエレベーターを待つちょっとした合間に本を読もうとすると手袋は邪魔なのです。
かと言って手袋をしないと、手がかじかんでなかなかページがめくれなかったりします。
しかし今年はそういうことが全くありませんでした。
今年は静電気にもそれほど苦しめられませんでした。
患者さんにセーターを脱いでもらって診察をする時、「ああ、今静電気がたまっているんだろうな」とびくびくしながら触診するとバチっと火花が散ります。
それでいつもなら触診前には静電気よけのおまじないをするのですが、今年はほとんど必要ありませんでした。
このまま春が来るのでしょうか。
梅の香の ほころぶ先に 春や来ぬ
温暖化さへ 来ざらましかば (詠み人しらず)
(2007年2月14日)
どうして下手な歌を詠みたくなったかと言うと、今、「古今和歌集」を読んでいるのです。
9世紀を代表する名歌1,111首。
中でもどきりとしたのは
敷島の 大和にはあらぬ 唐衣 ころも経ずして 逢ふよしもがな
(はるばる中国からやってきた衣装に私は目を奪われている。でもこの美しい衣装を脱ぎ捨てた貴女にこそ逢いたいものだ)
ころも(衣)経ずして、とは何と大胆な歌かととてもびっくりしました。が、違っていました。
「頃も」でした。
中国の素晴らしい唐衣(からころも)を愛でている私。
しかし「ころも」という言葉を聞くと、頃も経ず(時をおかず)に貴女と逢いたくなることよ。
まあどちらかと言うとつまらない部類の作品でした。
素敵な歌もたくさんあります。
(2007年2月16日)
前置きも余計な感想も省略して、一番お気に入りの歌です。
月夜よし 夜よしと人に 告げやらば 来てふに似たり 待たずしもあらず
空を見上げると、澄み切った空に本当にきれいな月。
素敵な夜ですよ、ってあの人に教えてあげたいのだけれど、そんなことを言うと誘っているように思われないかな。
そんな風に思われたら恥ずかしい、……でも本当は誘いたいのだけれど。
(2007年2月19日)
「国家の品格を」立ち読みで斜め読みしました。
客観的な根拠に基づかない所感集みたいなものなので、論評するには適さない本です。
ただこういう無邪気な「昔の日本はよかった」みたいな文章を読むと戸惑いを禁じえません。
「古事記」を読んでも「源氏物語」を読んでも「平家物語」を読んでも、あるいは明治以降の小説を読んでも思うのですが、かつて日本に「品格のあった国家」が存在したことはありません。
国家だけではなく、個人のモラルでも意識でも、今の方が高いです。
よく「昔のいじめは暴力的だったが今のいじめは陰湿だ」などと言う人がいますが、その人の「昔」とはいつなのでしょう?
神代の時代からいじめは陰湿でした。
それが現代では暴力が禁じられているために「陰湿なだけのいじめ」に変貌していると見るべきでしょう。
昔はよかったと愚痴る人に品格をあまり感じないのは私だけでしょうか。
(2007年2月21日)
さて全国3千万人(推定)の掃除大嫌い人間に送る応援歌です。
まめなれど 何ぞはよけく 刈萱の 乱れてあれと 悪しけくもなし
真面目に掃除したからってそれが何ぼのものでしょう。
雑草がごちゃごちゃと生い茂っているようなこの乱れた感じもまたオツなもの。
そう神経質になりなさんな。
千百年前にも「部屋を片付けなさい!」って叱られてばかりの人がいたのですね。
(2007年2月23日)
全集フェチです。
「最近読みたい(聴きたい)全集がない」と嘆いていたら、友人に「今度へルマン・ヘッセ全集が出るからそれを読めば?」と薦められました。
その時は「ヘッセなんてあんまり興味ないし……」と言葉を濁しましたが、本屋で実物を見るとそそられてしまいます。
現在激しく迷っているところです。
それから通販CDのカタログでこの間「シベリウス大全集」などというものを見つけてしまいました。
シベリウスなんて全然好きな作曲家じゃないのですが、全集というだけで惹かれてしまうこの性癖、困ったものです。
全集と言えば、どうしてショスタコーヴィチ全集がないのでしょうか。
膨大な量の映画音楽を再現、収録するのが大変なのは想像できます。
しかし時間が経てば楽譜もどんどん散逸していきます。
早く全集を立ち上げて楽譜を早くまとめた方がいいと思います。
と言うより、ショスタコーヴィチのいろんな曲が聴きたいのに「全集が出るまで待とう」と、全て保留にしているのです。
このままだと聴かないまま人生が終わってしまいそうです。
(2007年2月28日)
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