神戸元町ダイアリー2006年(6)

トーマス・マンの「魔の山」を読みました。
一度、確か、学生の頃に読んだのですが、その時には全く面白くなかったという印象しかありませんでした。
今回誰かが新聞の読書欄で「余りにも面白かったので寝食を忘れて3日間で読み終わった」と書いてあったので、それを受けての再挑戦です。
結果は「前回よりは面白かった」です。
それからとても3日では読めませんでした。
所要日数10日間。
前半は主人公が療養所にやってきてからの克明な描写です。
一日5回の食事の内容が細かく描かれ、個性的な登場人物が次々と登場します。
確かにこのあたりはぞくぞくするような面白さです。
ところがそのあと、時間の流れが歪み始めてからは、主人公のキャラクターもどことなく軟体動物のような得体の知れなさを示し始めます。
タブラ・ラーサの柔軟さではなくぶにゅぶにゅとした粘着感。
それから作者が口ごもるクロコフスキーとの関係。
読み手もどこに立って誰の視線でストーリーを追っていけばいいのか戸惑うのです。
そしてラストの奇妙なエピソードの数々と不思議な終わり方。
そう、この読後感。
これはまさに「ファウスト」のパロディだったのですね。

 

(2006年11月1日)

医師免許を更新制にしようという案があります。
しかしちょっと考えれば分かるように、耳鼻科や眼科の医師と、内科の医師とでは要求される技術も知識も全く異なります。
同じ内科でも、幅広い疾患に対応する事が要求されるプライマリーケアの医師と、毎日心臓カテーテルばかり行っている医師を同じ試験でふるいにかけるのは無理があります。
更新制自体には賛成ですが、クリアしなければならない問題が多くて実現は無理だろう、そんな風に思っていました。
ところが最近、高血圧や高脂血症の患者さんの中に「近くの病院にかかっているけれど、症状がないから放っておいても大丈夫と言われた」という方が結構おられます。
誰がどう見ても「要治療」のレベルにも関わらずです。
ひどい場合には「あなたの高血圧は遺伝だから心配ないと言われた」と言う患者さんもいます。
そういう話を聞くと、一刻も早く更新制を導入するべきだと思ってしまいます。

 

(2006年11月6日)

今年はモーツァルト生誕250年です。
それに因んであちこちでモーツァルトの曲を耳にします。
名曲ぞろいのモーツァルトの作品群の中でもオペラこそが彼の最高傑作だと私は思っているのですが、一つ分からないことがあります。
たとえば「フィガロの結婚」。オペラではオーケストラ伴奏の「アリア」の合間にセリフの部分があります。
しかしセリフと言っても完全な地のセリフではなく、チェンバロによって簡単な伴奏がつけられた「レチタティーヴォ(叙唱)」です。
これが全然面白くないのです。
さほど美しいわけでもなく、かと言って伴奏がつけられているから適当に聞き飛ばすわけにもいかず、私にはセリフと歌の悪いところばかりを担った不必要な部分のように思えるのです。
晩年に書き散らかした(かのような)無数のダンスミュージック、これさえも美しいのがモーツァルトのすごいところです。
しかしレチタティーヴォは全然美しくない。
あれは本当にモーツァルトが書いたのでしょうか?

 

(2006年11月8日)

時々夜、タクシーで帰ることがあります。
タクシーはあまり好きではありません。
もちろん経済的な理由もありますが、本が読めないので乗っていて退屈なのです。
車を運転しないのでよく分からないのですが、タクシーの室内灯、あれは点けてはいけないのでしょうか?
仮に明るくなっても乗り物酔いしそうではありますが。

 

(2006年11月10日)

先日コラムで「オペラのレチタティーヴォは面白くない」と書いたところ、それを読んだオペラの専門家の方が教えてくれました。
歌手には地のセリフによる演技は相当難しいのだそうです。
言葉の発音、イントネーション、感情、それらを完全に表現するためには当然役者並の努力が要求されます。
ところがセリフに旋律が付いていれば歌手はそのメロディーの中で感情を自由に表現できます。
たとえば日本人にとって舞台でイタリア語をしゃべりイタリア人を感動させるのは至難のわざです。
しかし歌であれば(簡単ではないにせよ)可能なのです。
つまりレチタティーヴォとはあくまでもセリフ。
そこに歌手が演じやすいように簡単なメロディーらしきものを付けたもの、そう理解すべきだということでした。
なるほど、歌手は地のセリフよりもメロディーがあった方が演じやすい。
全く逆転の発想でした。

 

(2006年11月13日)

CDの枚数を数えなくなってどれくらいになるでしょう。
学生の頃はバイト代を全部レコードにつぎ込んで、そうやって少しずつ増えていくディスクの枚数を数えるのが楽しみでした。
ところが今、輸入版なら100枚組1万円なんてお徳用セットがいくらでもありますし、CD-Rなどというものもあります。
雑誌にもCDが付録でついていたりします。
もはやCDの枚数はマニアのステイタスではなくなってしまいました。
となると今のマニアは何を基準に「おたく度」を計ってるんでしょうか。

 

(2006年11月15日)

CDへの執着がなくなった原因として、以前に比べて音楽の聴き方が変わってきたこともあると思います。
以前は一つの曲をいろんな演奏で聞き比べて楽しんでいましたが、今は1曲につき1枚CDがあれば十分満足してしまいます。
以前は1枚のディスクを買うのにもいろんな本を読んで下調べをしてから買っていましたが、今は店頭で欲しい曲のCDが何枚も並んでいれば一番安いものを買います。
演奏家による演奏の微妙な違いを味わう、そういうことにあまり興味がなくなったのです。
自覚はありませんが、もしかするとこれも音楽への興味が薄れている症候の一つかもしれません。
そんな時にはクラシック音楽への熱い思いを綴った本を読みましょうか。

「それでもクラシックは死なない!」松本大輔著、青弓社、1,890円。

実は著者は私の弟です。もし興味があればどうぞ。

 

(2006年11月17日)

この間テレビを見ていたらある教育評論家がいじめ問題について語っていました。
文部省と教育委員会はいじめを「あってはならないこと」と考えているのでいじめの存在を認めたがらない。
だから現実にいじめがあった場合対応が遅れがちになり、隠蔽にもつながっていく。
つまり「我が校にいじめなんて存在しない」という学校ほどうさん臭い、という理屈が成り立つ。
それよりもいじめの存在自体は認めて早急な解決に力点を置こうじゃないか、そういう趣旨の発言でした。
なるほど、と感心して話の続きを聞きました。
その評論家は教師時代に、いじめの情報をいち早く入手し、教師と一体になって速やかに対応するために生徒主導の「助け隊」を作ったそうです。
評論家は胸を張ります。
「これでその学校はいじめが0になりました」
うーん、うさん臭いです。

 

(2006年11月20日)

「物語るために、私は生まれてきた」

新潮社からガルシア・マルケス全小説が刊行開始です。
先月はまず「わが悲しき娼婦達の思い出」、そして今月が「コレラの時代の愛」です。
ともに老人が主人公のラテン系らしい生命力にあふれたお話でした。
もちろん内容も面白いのですが、カバー下の表紙の肌触りがとってもセクシーなのです。
手にしているだけで幸せな気分になるという、素敵な本たちです。
ところで先週、新聞の書評欄でこのシリーズが取り上げられていました。
何とそこで「わが悲しき娼婦達の思い出」は全く違うストーリーに要約され、「コレラの時代の愛」は最後のネタをバラされています。
冒頭の言葉のとおり、マルケスは「物語るために」生きている人だと思います。
そして物語の原動力は「次にどうなるんだろう?」という好奇心でしょう。
その読み手の楽しみを無残に奪い取る書評を書く評論家とは一体何なのでしょうか。
小池昌代、この評論家には要注意です。

 

(2006年11月22日)

アメリカの中間選挙で民主党が勝利し、対イラク、対テロリストなどのブッシュ政策が完全に否定された、と言うのが日本のマスコミの論調です。
しかし中間選挙の投票率はせいぜい40%です。
それで民主党が過半数をわずかに上回った。
つまり民主党に票を投じた人はわずかに20%なのです。
中間選挙は必ずしも大統領の政策に対する評価を反映するものではありませんが、この選挙結果から導かれる結論は「過半数の国民はイラク派兵をさほど問題視していない」ではないでしょうか。
結果だけ捉えて投票率に一切触れない日本のマスコミの姿勢は恣意的にすぎると思います。

 

(2006年11月29日)

核保有論議の可否が問題になりました。
核保有の可否ではなく、論議の可否です。
「みんなで何でも相談して決めましょう」と小学校の頃から教えられてきた世代にとっては「議論すらするべきではない」と主張する人たちの存在は新鮮な驚きでした。
この社会には議論すら許されないテーマが存在する、そう言われると何だか神秘的でかっこいいです。
せっかくですからそういう人たちに、他にどんな議論不要なテーマがあるのか、教えてもらいたいと思います。
それから「この人の意見には異を唱えてはいけない」、そんな人物が存在するのならそれもついでに教えて欲しいと思います。

 

(2006年12月4日)

来年から芦屋市は路上喫煙禁止になるようです。
神戸市も一部地区では歩きタバコ禁止ですが、「一部地区」という決め方では実効性が乏しいようです。
神戸市も早く全面禁止になりますように。

 

(2006年12月6日)

本を読んでいる時自分の頭はどう働いてるんだろう? と思うことがあります。
例えば普段本を読む時、私たちは声を出して読んだりはしません。黙読します。

そこで思うのですが「黙読」とは声を出さない「音読」なのでしょうか、それとも「音読」とは全く別の行為なのでしょうか。
言語中枢には様々な働きがあります。
人の言葉から文字を認識する働き、文字から意味を抽出する働き、自分のイメージを文字で表現する働き、そして文字を言葉として発音する働き……。
疑問なのは「黙読」に、音声と言葉の相互変換機能が関わっているかどうかという点です。
私たちは「真骨頂」とか「不倶戴天」などの難読文字から、読み方が分からなくても意味を感じ取ることができます。
逆に「音読」はできても文章の意味がさっぱり分からないこともあります。
つまり「黙読」と「音読」とは、かなり独立した、ほとんど別のプロセスではないかと思いついたわけです。

 

(2006年12月8日)

そこで出てくる疑問は「本を読むのに私たちは言語中枢の一部しか使ってないのではないか」という点です。
逆に言うと「本を読むのに必要なのは言語中枢の一部である」、ここからさらに推し進めて「言語中枢の不要な機能を使わなければもっと速く本が読めるのではないか」
例えば読書に言語中枢の音声変換機能は必要ありません。
しかし「暫時」という言葉に出くわすたびに「『ざんじ』だっけ? 『ぜんじ』だっけ?」などと読みを考えていては読書のスピードは上がりっこありません。
音声回路をばっさりと遮断すればその分読むスピードが上がるに違いない、最近そんなことを感じているわけです。
自分を顧みるに、例えば小説の主人公が「幸子」だったとしましょう。
「さちこ」かもしれないし「ゆきこ」かもしれない。
しかしどこにもルビを振ってくれていない場合、私は落ち着かない気持ちで本を読み進めることになります。
「幸子」という文字が出てくるたびに「『さちこ』だとは思うが、ルビがないから断定はできない」といちいち自分に言い聞かせるのです。
これでは速読など不可能に決まっています。
音声回路をシャットアウトするいい方法はないものでしょうか?

 

(2006年12月11日)

「水からの伝言」に対する批判がかまびすしいです。
「ありがとう」と声をかけたりモーツァルトの音楽を流したりしながら水を凍らせるときれいな結晶になり、「ばかやろー」と罵ったりヘヴィメタを流したりしながら凍らせると汚い結晶になるという、例の本です。
私は読んでいないので全くコメントする立場にないのですが、氷の結晶に道徳的判断を委ねるというのはなかなかロマンティックで魅力的な話ではあります。
国会の証人喚問でテーブルに置かれた水を凍らせてみれば、その証言の信憑性もたちどころに分かるかもしれません。
あるいは鍵のかかってない家を見つけた空き巣が思わず「ありがとう!」と言ってしまった時、氷がどんな結晶を作るのか興味があります。
美味しそうな鯨肉を前にして「ありがとう」と言った時、もし氷がきれいな結晶を作れば捕鯨も自然界に認められた行為として国際的に正当化されるかもしれません。
科学者のみなさん、あまりコテンパンに叩かないであげてください。

 

(2006年12月13日)

内館牧子の「女はなぜ土俵にあがれないのか」を読みました。
ご存知の通り、氏は女性の土俵入り反対派の最先鋒です。
その主張をさらに論理的に武装するために大学院に入学して勉強したそうです。
以前このコラムでも書いた事がありますが、私は女性の土俵入りを拒む根拠は存在しないと思っています。
江戸時代には単なる娯楽であった相撲が、国技という大義名分を勝ち取るために神事を装った。
従って女性排斥の根拠となる「伝統」は、あとでもっともらしく付け加えられたもの、そう考えています。
この考えをどう否定してくれるのか、とても興味があったので立ち読みで(失礼!)読ませていただきました。
氏は実に細かく相撲の歴史を解説してくれます。 
問題となる江戸時代の勧進相撲についても明らかに単なる娯楽であったとし、さらに幕府のお墨付きを得るために神事を装った経緯も述べています。
認識する事実関係は同じですが、その先の結論が私と氏とで正反対になります。
もともと捏造だから伝統とは言えない、と私は考え、氏は江戸時代から続いているから何にせよ十分伝統である、と考えるわけです。
「伝統」の解釈の問題なので歩み寄るのは難しいかもしれません。
そう諦めかけたところ、氏はさらに筆を進めます。
女性が上がれないほど神聖な土俵に、男は無造作に上がりすぎているのではないか。
つまり正式な禊を受けたわけでもない男が土俵に上がるのも伝統に反する。
いっその事土俵は力士と行司以外は上がれないようにするべきだ、氏はこう主張し相撲協会を厳しく断罪します。
驚くべき転回です。
厳格に学び、柔軟に発想する。
まさに学問とはこういうことなのでしょう。
氏の姿勢に感動しました。

 

(2006年12月22日)

前回のコラムで「転回」という言葉を使ったところ、「展開」の間違いではないか? との指摘をいただきました。
この場合は「意見を翻す」という意味で使ったので「転回」で間違いないはず、とお答えしたのですが、その時に「コペルニクス的転回」という例えを用いて説明しました。
実はこの言葉、私は今まで勘違いしていました。
地動説を唱えたコペルニクスが教会の圧力によって自説を撤回した、私はてっきりこの事を「コペルニクス的転回」だと思っていました。
本当は、それまで誰も疑わなかった天動説を覆す、正に驚天動地の価値観の転換を指すのでした。
私は今までコペルニクスを言葉で貶めていたようです。ごめんなさい。

 

(2006年12月25日)

神戸元町ダイアリー2006年(5)ミステリについて<main>神戸元町ダイアリー2007年(1)女性は産む機械?


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