神戸元町ダイアリー2006年(5)

最近のデパートや映画館では女性トイレのスペースを広く取るようになり、女性のトイレ待ちの行列を見ることが少なくなってきました。
とてもいいことだと思います。
問題は男性トイレです。
特に駅のトイレの個室。
この間通勤時間帯にトイレに入ってびっくりしました。
個室トイレの順番待ちで長い行列ができているのです。
個室自体が少ないという問題と同時に、いかに現代人がストレスに苛まれているか、強く実感させられました。
通勤途中の腹痛や下痢の原因は多くはストレスです。
駅トイレの個室はすぐには増えそうにありません。
そうするとビジネスマンの自衛策としては通勤途中の腹痛を何とかして抑えるしかありません。
どうぞご相談ください。

 

(2006年9月1日)

高村薫の「照柿」が文庫落ちしたのでさっそく読みました。 
例によって「全面改稿」というやつです。
前作「マークスの山」もそうでしたし、「李鴎」にいたってはタイトル自体も改められています。
だから彼女の場合は文庫落ちするのに10年以上かかってしまうのです。 
中身は超弩級の重量感です。
じりじりとした夏の暑さ、精神の均衡さえも溶かしてしまうような溶鉱炉の輝き、その中で狂い始める二つの人生。
まさに日本のドストエフスキーと呼ばれるにふさわしい深みと高みに到達したミステリだと思いました。 
彼女は以前「私はミステリを書いているつもりはない」と語ってミステリファンの顰蹙を買っいました。
ファンにしてみれば「ミステリを普通の小説よりも一段低く見ているのがけしからん!」という訳です。 
それについてはまた今度ゆっくりと書きましょう。

 

(2006年9月13日)

そもそも「ミステリ」自体、定義があるようなないようなジャンルです。 
謎解きに重心を置いた「パズラー」から主人公の生き様を追った「ハードボイルド」まで。 
歴史に隠れた謎を解き明かす「歴史ミステリ」から未来や仮想社会を舞台にした「SFミステリ」まで。 
最近流行の「サイコパスもの」から日常のちょっとした謎を解き明かす「日常の謎もの」まで。 
ある人が定義づけるには、「ミステリ」とは絶対に言えないもの以外の全てを「ミステリ」と呼ぶ、のだそうです。
また、面白ければ何でも読むというのがミステリファンの特徴で、どんな内容にせよ「謎」らしいものがちょっとでもあれば飛びつくらしいです。 
そういう意味ではイエスの不条理な処刑を描いた「新約聖書」も、密室殺人を描いた「カラマーゾフの兄弟」もファンにとっては十分にミステリです。 
ところで「カラマーゾフの兄弟」では結局誰が真犯人か最後まで分かりません。
純文学系の立派な評論家は何のためらいもなく真犯人をスメルジャコフと決めつけていますが、ミステリファンからすれば到底そうは思えません。
お偉い評論家にはドストエフスキーの心理分析や言葉の裏に隠された暗喩よりも真犯人を指摘して欲しいものです。 
結論としては、「ミステリ」と「文学」とは定義づけのベクトルが違うのでそこに上下関係は存在しない、しかし「文学」読みは「ミステリ」読みに比べると読み方は(高いかもしれないが)深くない、という解釈でどうでしょうか。

 

(2006年9月15日)

2006年の高校野球の話題の中心は何と言っても早稲田実業高校のハンカチ王子・斎藤だった。 

国体高校野球の部が今年は盛り上がりそうです。 
あれだけ人気を集めた松坂大輔の時でさえ国体はマスコミからは無視されていました。
それを考えると、今年のブームは別格です。
あの勢いは、普段野球に関心がないおばさま方がヨンさまから一気に流れてきたためではないかと勝手に分析しています。 
ところでせっかく全国から人々が集まる国体や甲子園ですから、ついでに全国物産展でもすればどうでしょう。
甲子園球場前のスペースで、その日試合のある県が物産展を行うのです。
苫小牧のチームを応援した帰りに北海道名物を買って帰る、観客にとってはすごく便利で面白いと思うのですが。

 

(2006年9月20日)

今「平家物語」を読んでいます。 
口承文学なので校勘の問題はあると思いますが、テンポ感とメリハリがあってとても面白いです。 
ところで平清盛は一時福原に遷都したのですね。
全く知りませんでした。
歴史の流れによっては福原が日本の首都だったかもしれません。

 

(2006年9月22日)

毎度の事ながら組閣についての評論家のコメントが噴飯ものです。 
「旧態依然の手法に逆戻りした」と語った評論家が5分後には「小泉式を模倣した」と評し、「論功行賞に徹した」と切り捨てた評論家が舌の根も乾かないうちに「派閥主導人事」とこき下ろす。 
安倍内閣の動向も心配ですが、もし日本が誤った道に進むとすればそれは質の低い政治評論家の責任だと思います。 
無責任な批判を垂れ流させないために評論家にはまず組閣の自案を発表させる、少なくともそれくらいのハードルは設けた方がよさそうです。

 

(2006年9月27日)

それにしても「人事」です。 
人事の事になるとみんなどうしてこんなに熱中するのでしょう。
新幹線のボックスシートに座った4人組のビジネスマンが東京までの3時間何を話しているかと聞き耳を立ててみると、ほとんどの場合人事の話題です。
実際に私たちの同期会でも「胃腸グループの○○がどうした」「それに比べて肝胆膵グループの△△は……」とそんな話ばっかりです。 
サルに「人事」を教えると死ぬまで人事し続けるのではないでしょうか。 
新聞の政治面が政策を扱わずに政局の話ばかりなのも同じ理由です。
政治部の記者はあたかも自分が政局の真っ只中にいるような錯覚を覚えているのでしょう。 
しかし「人事」の話は外部の人間には全く面白くありません。
新聞の政治面を見て読者がたいてい鼻白んでいることに、そろそろ記者も気づいて欲しいものです。

 

(2006年9月29日) 

ほぼ一月かけて「平家物語」を読み終わりました。 
驚いた事にそれほど注釈に頼らなくても原文で意味が分かります。
つまり今から800年前、日本語は表現方法として完成され、その後ほとんど変わらずに今に至っているのです。 
さらに私達が想像する「武士道」というものがすでにこの時代に完成していたことにも驚かされます。
私は武士道とはてっきり江戸時代の300年の間に思想として熟成されたのかと思っていましたが、そうではなかったようです。
いや、むしろ武勲と主君のために平然と命を投げ出し、それと同時に歌を詠み笛を奏でた「平家物語」のさむらいたちの方がより高い「道」を極めていたと言えるかもしれません。 
つまり鎌倉時代から後、日本人は文学も武士道も停滞させ続けてきた、そういう事になるのかもしれません。

 

(2006年10月2日)

「平家物語」ですが、岩波文庫は右ページが原文、左ページがかなり詳しい注釈というとても親切な作りになっています。
ただこの注釈が、書かずもがなの大きなお世話の時もありますし、その一方で説明が足りず読解の助けにならない時もあって、バランスはあまり良くありません。 
注釈を読んでも意味が分からない時にはさらに詳しい解説書を読みます。
今はとても便利な時代で、WEB上に「平家物語」のあらすじを詳しく解説したサイトがいくつもあります。
これはとても助かります。
地名や神社などの説明には地図や写真も載せてあって至れり尽くせりです。 
書籍でこれを本文と同じページに載せるとすればスペースを取り過ぎますし、巻末に付録として掲載すると参照するたびに物語の流れが途切れてしまいます。
パソコンなら調べたい言葉だけクリックすればいいのでスペースを気にする必要はありません。
何よりも「読みたくない説明を読まなくて済む」のはとてもありがたい機能だと思います。 
そう考えると「源氏物語」や「平家物語」のような古典こそ、電子書籍にぴったりです。
古典は電子メディアの時代になって初めて本来の魅力を発揮し始めた、と言えるかもしれません。

 

(2006年10月4日)

この間電車に乗っていると住吉駅から遠足の小学生達が乗り込んできました。
リュックを背負ってみんな楽しそうです。 
大勢の子どもが乗り込んでくるのですから騒々しくなるだろうと覚悟しましたが、おとなしくてびっくりしました。
学校によっては電車内ではおしゃべり禁止と指導をしているところもあります。
しかし今回乗り合わせた子どもたちは友達同士で仲良くおしゃべりしながらも節度を保って実に静かでした。 
新首相の下、教育制度改革についての議論が活発です。
改革は公立学校間の教育格差を拡げると言って反対している人もいます。
その意見だけを聞いていると「なるほどそうか」とも思っていましたが、こうして躾の行き届いた子ども達を見ていると、「この子達をわざわざ程度の低い子ども達と一緒にする必要があるのだろうか?」と疑問に思ってしまいました。 
教育問題は「引きずり下ろす」よりも「伸びやかに伸ばす」方向で考えて欲しいものです。

 

(2006年10月11日)

この間アメリカ人にメールの文章のチェックを頼まれました。 
クレームがあったことを上司に伝える文章です。
彼が書いた文章は「機械が壊れたとAさんが言いました」 
特に問題はないと思ったのでその旨伝えると、「意味が通るだけじゃなくて、日本語として完璧か?」と訊いてきます。
それなら「機械が壊れたとAさんが言っています」にするべきだろうと答えました。 
すると「彼が言ったのは過去なのにどうして現在進行形を使うのか?」と疑問を返してきました。
意外な質問にしばらく考え込んでしまいました。 
「語られる内容がその状態であり続けているから進行形になる」などと適当な返事をしておきましたが、本当はどうなのでしょう。
日常でよく使うのは「○○さんが言ってたよ」という形。つまり過去進行形です。
それが「○○さんが言ってるよ」という現在進行形になると強く主張している感じが強くなってきます。
一方、単純な過去形としての使い方。 
「そんなこと言ってない」「いや、確かに言った」 
「誰がそんなこと言った」「社長が言いました」 
「言う」という行動そのものや主語を強調する時には単純な過去形が使われるようです。 
普段無意識に使っている日本語ですが、よく考えてみると結構ややこしいです。

 

(2006年10月13日)

野良ネコを、処分するのではなく、不妊手術をする事によって管理しようという自治体が増えています。
不妊手術を行ったネコは耳に切れ目を入れて「町ネコ」として面倒をみてやるのだそうです。 
とてもいい考えだと思います。
その一方で、飼いネコに不妊手術を施さず子ネコが生まれるたびに保健所に持ち込む、悪質な飼い主もどうにかしなくてはなりません。
リピーター捨て主の耳にも切り込みを入れることにしてはどうでしょうか?

 

(2006年10月16日)

何となく分かったつもりになっているけれど、実はよく分かっていない、そんなことがいくつかあります。
新聞に「北極の北には何がある?」というタイトルの本の広告が載っていました。
まさにこれです。
私も子どもの頃からよく分からなかったのです。
「北極と南極があるのにどうして東極と西極がないんだろう?」 
地球は北極と南極を結ぶ線を軸にして回転しているから東と西の極は決められない。
頭ではそう理解していますが、心では納得できていません。
この本を読めば今までの疑問がすっきりするのでしょうか、楽しみなような、不安なような気持ちです……。

 

(2006年10月18日)

頭では理解しているけれども心の底からは納得していないことは他にもたくさんあります。 
どうして満潮、干潮が日に2回あるのか。 
どうして氷は水に浮かぶのか。 
どうして一日の気温が最高になる時間が南中時間から2時間も遅れるのか。 
どうして一年の気温が最高になる時期が夏至から2か月も遅れるのか。 
どうして色つきガラスは表から見ても裏から見ても同じ色なのか。 
鏡には左右が反対に映るのにどうして上下は反対にならないのか。 
最後の疑問は最近になってやっと分かってきました。
それにしても世の中すっきりしないことだらけです。

 

(2006年10月20日)

よく分からないのは自然現象だけではありません。 
オリーブと葡萄しか取れないアテネがどうして地中海世界の覇者になり得たのか。 
弱者のための宗教であるキリスト教がどうして強大な勝ち組国家ローマ帝国に入り込めたのか。 
1週間はどうして7日なのか。 
硬くて小さくて食べにくい穀物を、どうして人間は主食に選んだのか。 
最後の疑問ですが、山火事か何かでたまたま加熱されたモミを食べてみたら美味しかったから食べ始めたのだろう、と今までは思っていました。
しかし焼け焦げた草むらに落ちている数ミリの穀物を私たちの先祖が拾おうと思ったとは思えませんし、仮に一粒二粒拾ったとしてそれが美味しかったとは思えません。 
歴史の解説書はいろいろありますがこういう素朴な疑問に答えてくれる本がなかなかありません。

 

(2006年10月23日)

「○○円からお預かりします」というマニュアル言葉が一時期問題になりました。 
問題になるのは分かりますが、レジに立っていると「○○円から」と言いたくなる時があるのも確かです。
たとえば代金が910円の時に千円札を渡された時。

「(1,010円じゃなくて)1,000円からでいいですか?」と言いたくなります。 
言葉そのものよりもマニュアルで決めてしまうところに問題があるのでしょうね。

 

(2006年10月25日)

歩きながらタバコを吸っている人を見かけた時に胸に湧き上がってくる気持ちを、実はうまく自分で説明できないでいます。 
「灰が風で飛びそうで危険」「ちょうど子どもの目の高さだから危ない」「後ろを歩くと臭い」などなど、歩きタバコがなぜよくないかはいくらでも理屈づけできるのですが、理屈を並べれば並べるほど実感から遠ざかっていく感じがしていました。 
ある日缶ビールを片手に街を歩いている人を見かけてやっと分かりました。
この気持ちです。
街を缶ビールやカップ酒を持って歩いている人を見かけた時と同じ気持ち。
結局誰かに迷惑をかけるからとかそういう理屈ではないのです。
見苦しいのです。 
いい言葉がありました。
愛煙家のみなさん、歩きタバコはみっともないからやめた方がいいですよ。

 

(2006年10月27日)

歩きタバコを見るといつも思うことがあります。 
「この人は今自分がタバコを吸っていることに気がついているんだろうか?」
大きな仕事のあとや楽しい食事のあとの一服がいかに美味しいかは、かつて喫煙していた私もよく分かります。
しかし改札を出るなり機械的にタバコに火を点ける人を見ると、そんなタバコが果たして美味しいんだろうか? と思ってしまいます。 
それからさらに「何となくタバコを吸っている人は何となく生きているんだろうなあ」とも考えてしまいます。 
いや、不適切な表現でした。
「何となく生きている」よりも「何となく死に向かっている」の方が正しい表現でした。

 

(2006年10月30日)

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