でもテレーズには「はいはい、ボクちゃん」で軽くいなされているのでしょうが。
で、オクタヴィアンはオックスも難しい言葉で論破しようとします。
「あなたが関与する事案において重大な変更が生じました」
こう言ってゾフィーがオックスと結婚する気がないことを伝えます。
オックスはそういうのは全部お見通しです。
「ほお、17歳のくせに大したもんだ」
とせせら笑います。
そうなるとオクタヴィアンは先を続けることができません。
ゾフィーに助けを求めますが「あんたが言ってよ」と突き放されます。
そしてやっとの思いで口にしたのが
「ゾフィーはあなたを嫌がっています」
でした。
オックスは余裕で笑い飛ばします。
「女は誰でも最初はそう言うのさ」
個人的にはこのオペラの中で一番好きなところです。
(2024年3月27日)
]]>ゾフィーはオクタヴィアンに助けを求めます。
が、このあたりも分かりにくいです。
so wie zu Niemand auf der Welt, dass Er mir könnte helfen, wenn Er nur den guten Willen hätt!
Erst muss Sie sich selber helfen, dann hilf ich Ihr auch. Tu Sie das erst für sich, dann tu ich was für Sie.
Was ist denn das, was ich zuerst muss tun?
Das wird Sie wohl wissen!
Und was ist das, was Er für mich will tun, nun sag’ Er mir’s!
Nun muss Sie ganz allein für uns zwei einsteh’n!
Wie, für uns zwei? O sag’ Er’s noch einmal!
ゾ:世界中であなただけが私を救えるのです、あなたに善意があれば!
オ:それにはまず自分自身を助けなければなりません、そうすれば私もあなたを助けます。
ゾ:まず何をしなければなりませんか?
オ:あなたはおそらくそれを知っているでしょう!
ゾ:あなたは私に何をしてあげたいと思っているのでしょうか、教えてください!
オ:今、あなたは私たち二人のために一人で立ち上がらなければなりません!
ゾ:え、私たち二人? ああ、もう一度言ってください! (Google翻訳を一部改変)
オクタヴィアンは何だか偉そうですね。
が、それはそれとして、普通に解釈すれば彼が言いたいのは「ファニナル家を飛び出す覚悟があるのなら僕は何でもする」ということです。
それに対してゾフィーは答えず、逆に問います。「で、あなたは何をしてくれるつもりなの?」
オクタヴィアンも真っすぐには答えません。「僕たち二人のためにできることがあれば」
そしてそれにゾフィーが飛びつきます。「私たち二人? まあ素敵な言葉!」
二人の会話は全然噛み合っていません。
次にオクタヴィアンは不安を口にします。
「あなたが困っている時にたまたまあらわれたから好きになっただけで、本当は誰でもよかったんじゃないの?」
ゾフィーは答えます。
「困っていた時にあなたがあらわれて好きになったの」
それを聞いてオクタヴィアンは大喜びします。
ここらへんで私たちの心に疑念が浮かんできます。
もしかしてこの二人は馬鹿なんじゃないか?
ちょっとあとに、オクタヴィアンがオックスに「ゾフィーはあんたとは結婚しない」と宣言する場面が続きます。
ここでオクタヴィアンは決定的な言葉をゾフィーに言わせようとします。
ここも普通なら「勘当されてもあなたとは結婚しません」と、強い覚悟を自分の口で語って欲しかったから、と解釈したいところです。
しかしゾフィーはここもスルーします。「どうぞ、あなたが言って」
うーむ、これらの会話を繰り返し読めば読むほどさっきの疑念が確信に変わってきます。
オクタヴィアンの最初の「まずあなたがなすべきことをなせ」という言葉も「家を捨てろ」までは踏み込んでいなさそうです。
「好きと言ってくれたら僕も好きと言う」くらいの浅ーいニュアンスだった可能性が高くなってきました。
難しく言ってみるのが好きなだけ、そんな感じです。
だから最後の、ゾフィーに発言を促したところも「僕、上手く言えないから助けてー」という苦し紛れだったと考えたくなります。
とすると第一幕頭の「われ思う」的な部分も、ゾフィーの「死ぬ、いや死なない」発言も、深く考察した方が負けなのかもしれません。
二人の知能指数は私たちが思っているよりも低めに設定されているようです。
ホフマンスタールが、17歳とはこんなもの、と考えたのでしょう。
私たちがヒーロー、ヒロインに期待する言動と、二人の実際の言動のずれが、難解に思わせる原因だと思います。
(2024年3月25日)
]]>
ここでもオックスは大暴走です。
いきなりゾフィーを抱きしめて迫ります。
「知り合ったばかりなのに」と抵抗するゾフィーにオックスは言います。
「礼儀にうるさいパリでも新婚夫婦は別。
何しろ国王だって全部大っぴらだからな」
これはかつてフランス国王は新婚初夜や王妃の出産を公開していたという話を踏まえたものですね。
そんな無礼なオックスを見てオクタヴィアンははらわたを煮えくり返らせます。
一方ファニナルは大喜びです。
オックスという貴族と親族になれるわ、オクタヴィアン伯爵とも知り合いになれるわ。
これを知り合いの商人どもに見せびらかせるならレルヘンフェルトの屋敷を手放してもいい、そこまで言います。
と、そこで思い出すのがオックスの姓レルヘナウです。
レルヘンフェルトはもとはオックスの先祖が所有していた土地だったのでしょう。
財産を手にしたファニナルは投機目的で全国の土地を買いあさった。
そこにオックスの先祖の領地もあったということです。
オックス一行は住んでいた家屋敷を追い出された可能性があります。
もしかするとそれにもファニナルが関係しているかもしれません。
これは深読みし過ぎだと思います。
しかしわずか10行足らずのセリフに「レルヘンフェルト」と「レルヘナウ」という二つの語句が並んでいるのには何か理由があると思います。
(2024年3月22日)
]]>
公爵:テレーズのお父さん
侯爵:オクタヴィアンのお父さん、お兄さん
伯爵:オクタヴィアン
男爵:オックス
叙勲騎士:ファニナル
であると思われます。
(ちなみに劇中で登場する「Marchese」「Marschallin」はそれぞれ「公爵」「元帥婦人」で、固有名詞ではありません)
さらにゾフィーはオクタヴィアンの「カンカン」というあだ名も知っています。
「友人やご婦人方からそう呼ばれているのでしょう?」
そう告げたあと、少し口ごもりながら「特に親しい仲のご婦人からは」と付け加えます。
この時点でゾフィーは、オクタヴィアンが年上の女性から可愛がられていることを知っているわけです。
修道院から出たばかりの彼女でも、オクタヴィアンと彼女たちが清らかな間柄であるとは思っていないでしょう。
さらにはオクタヴィアンがテレーズからの紹介であることも教えられています。
テレーズがオクタヴィアンの愛人である可能性が高い、そこまで気づいていたのではないでしょうか。
(2024年3月18日)
]]>まず年齢が17歳と2か月であること。
そして洗礼名も全部暗唱してみせます。
とっても可愛らしい場面です。
オクタヴィアンの正式名称はオクタヴィアン・マリアエーレンライヒ・ボナヴェントゥーラ・フェルナン・ヒアシント・ロフラーノということになります。
ロフラーノは姓というよりも領地の名前だと思いますが、ロフラーノという地名があるのは南イタリアです。
オーストリア帝国の最盛期でもここまでは勢力が及んでいなかったはずです。
神聖ローマ帝国から続く由緒正しい貴族なのかもしれません。
ところでゾフィーはオクタヴィアンを「貴族名鑑」で以前から知っていたかのようにしゃべっていますが、微妙に嘘です。
毎晩「貴族名鑑」を読んでいたというのは本当でしょう。
でもオックス・フォン・レルヘナウの系図をたどってもオクタヴィアンに行きつくはずがありません。
血族ではなく、最低でも6親等離れているので。
オクタヴィアンにたどりつく方法は一つです。
テレーズの系図を調べた場合のみ、ゾフィーはオクタヴィアンの名前を発見することができます。
おそらく前日の夜にオックスはファニナルに薔薇の騎士の名前を伝えたのでしょう。
「元帥婦人のいとこ様がこの役を引き受けてくださった」と自慢したに違いありません。
それを聞いたゾフィーが急いでオクタヴィアンについて調べた。
ついでに名鑑に載っていない裏情報も侍女に調べてもらったのではないでしょうか。
(2024年3月15日)
]]>ここでゾフィーが難しいことを言い出します。
Dahin muss ich zurück, dahin, und müsst’ ich völlig sterben auf dem Weg. Allein, ich sterb’ ja nicht. Das ist ja weit. Ist Zeit und Ewigkeit in einem sel’gen Augenblick, den will ich nie vergessen bis an meinen Tod.
私はあそこに戻らなければなりません、そして途中で完全に死ななければなりません。 一人でも、私は死なない。 それは遠いです。 時間と永遠がひとつの祝福された瞬間の中にあり、私はそれを死ぬまで決して忘れたくない。(Google翻訳)
ホフマンスタールは若い二人に時々難しいセリフを言わせますね。
ゾフィーは考え深い子で、オクタヴィアンよりもしっかりしていますが哲学的なことを語る少女ではありません。
ここはこれくらいに解釈するがいいと思います。
(心臓が張り裂けそうで)このままここにいると死んでしまいそう。
でも、それははるか未来のことのように思える。
なぜならこの瞬間、時間が幸せなまま止まったかのような気がするから。
私はこの瞬間を死ぬまで忘れないでしょう。
(2024年3月13日)
]]>「どんなに素敵な結婚相手でも自慢しません」
ゾフィーはそう歌います。
ところが「騎士さまがあらわれました!」というマリアンネの言葉を聞いてゾフィーは窓に駆け寄ってしまいます。
そして輝くばかりのオクタヴィアンを見ます。
「自慢しないと誓いましたが、だめです、こんな美しい人を見て自慢しない人がいるでしょうか?」
敬虔な誓いをたちまち破ってしまうのです。
ここでゾフィーは大きな勘違いをしてしまいます。
あまりに浮かれすぎたせいでオクタヴィアンが婚約者だと思ってしまったのです。
この間違いにはさすがにすぐに気づきました。
オクタヴィアンが「私は使いです」と名乗ったので。
それに対するゾフィーの歌が沈んだトーンから始まるのはそのためです。
決して「浮かれない」と誓ったゆえの抑制ではありません。
「浮かれない」→「でも浮かれた」→「さらに勘違い」→「がっかり」
いくつもの変化を経た結果の、沈んだ調子だったのです。
(2024年3月11日)
]]>
花婿を迎えるファニナル家の主人とゾフィーの侍女は受かれています。
大金持ちのファニナルは新郎を新品の超高級馬車で出迎えようとします。
ファニナルはウィーンでも指折りの財産家です。しかも見栄っ張りです。
おそらくウィーンで一番の馬車を仕立てたのだと思います。
ところがオックスの使いの騎士はもっと高級な馬車でやって来ました。
オックスはケチです。
単なる挨拶係の身の回りに金をかけるはずがありません。
馬車から降り立ったオクタヴィアンに付き添うのは一幕にも登場した黒人の少年です。
そう、馬車も付き人も、まぶしいまでの銀の衣装も、全てテレーズが用意したのでした。
第一幕のあと、プラーターで二人が会ったとすれば、これは面白くありません。お気に入りのホストに金を貢いだのと同じことです。
テレーズがプラーターで待っていたにもかかわらずオクタヴィアンがあらわれなかったとすれば、意味深い。
別れを予感し、それを受け入れる覚悟ができたということです。
そして桁外れの贅を尽くしたわけです。
(2024年3月8日)
]]>
それがプラーターです。
プラーターはウィーンの地名です。
そこに行きつけのお店があって、二人の間では「プラーター」で通じていたのでしょう。
テレーズは夜そこでオクタヴィアンと会いたいと思っていました。
ところがこの日は午後に叔父さんのお見舞いに行かなくてはなりません。
叔父さんはいつもテレーズを大歓迎してくれて、たいていは晩ご飯までご馳走してくれます。
そうなるとテレーズはプラーターに行くことができません。
「叔父さんの機嫌によって夜プラーターに行けるかどうか連絡する」テレーズはオクタヴィアンにそう約束しました。
さあ二人は夜会えたのでしょうか?
二人はこの夜会っていません。
ただ会えなかったのではなく、テレーズはプラーターに行ったけれどもオクタヴィアンがあらわれなかったのだと思います。
それ以外では3幕での二人の態度が説明できません。
テレーズは叔父さんを上手くなだめて早めに叔父さん宅を出ました。
オクタヴィアンにその旨連絡を入れました。
オクタヴィアンも会いたいと思っていました。
それなのになぜか二人は会えませんでした。
可能性は一つです。
テレーズの伝言を預かった誰かがオクタヴィアンに嘘をついたのです。
あらあら、誰もがよく知っているはずの「薔薇の騎士」が全然違う話になってきました。
(2024年3月6日)
]]>
というか、決断の一歩手前くらいの感じでしょうか。
「何かを変えなくては」
その何かが何かは分かりませんが、とにかくテレーズは決断します。
そこにオクタヴィアンが戻ってきます。
テレーズはオクタヴィアンと距離を置こうとします。
いろいろな理由が複雑に絡んでいます。
まず自分の考えを整理したかった、時の移ろいがオクタヴィアンにも訪れることが垣間見えてしまった、いずれオクタヴィアンが自分を捨てるだろうと覚悟した。
でも一番の理由は、自分は17歳には戻れない、ということだと思います。
ただ、テレーズがこれをはっきり自覚するのはもっともっとあとのことです。
このタイミングでオクタヴィアンと別れるという選択肢は彼女自身にもありませんでした。
オクタヴィアンが出て行ったあとテレーズはすぐに彼を呼び戻そうとします。
私は最初「自分から拒んだくせに、未練がましい」と思いました。
でもよくよく考えてみると、テレーズを苦しめている悩みにオクタヴィアンはさほど関与していないのでした。
彼女がすぐに呼び戻そうとしたのは自然なことでした。
少なくとも彼女自身は矛盾も葛藤も感じていなかったと思います。
(2024年3月4日)
]]>よく読むと第一幕の途中でテレーズは元帥からの手紙を受け取っています。
おそらく「狩りが楽しいので帰りをもう二三日伸ばす」という内容だったのではないでしょうか。
彼女は喜ぶでもなく悲しむでもなくその手紙を反故にします。
そんなこんながあったあと、オックスがようやく帰っていきます。
一人になったテレーズはオックスに腹を立てるところから始めます。
財産も、若くて可愛い妻も手に入れたくせに、自分の方が損したような気になっているオックスに。
でも考えてみると、自分と元帥の関係も似たようなものです。
自分とオクタヴィアンの関係も全然別とは言い切れません。
そこでテレーズは17歳の自分を回想します。
そこから時の残酷さを嘆く長いモノローグに続くのですが、まず流れるのがモーツァルト風の曲です。
ここで思い出します。
オクタヴィアンと食べた朝食を。
あの時流れたのもモーツァルトでした。
つまりあの時オクタヴィアンといたのは17歳のテレーズだったのです。
嘘ではありません。それがテレーズにとって真実だったし本心だったから。
でも、現実でもない、あの音楽はそういう音楽だったのです。
そして今この瞬間に思い出してもらうために、冗長とも思われるあの長さが必要なのでした。
とするとあの場面、あんまり二人をいちゃいちゃさせるのはよくありません。
むしろ恥じらいをもってぎこちなく演じさせるのがいいと思います。
(2024年3月1日)
]]>その直後、オックスは従者たちに命じてマリアンデルを探させます。
ところがどこを探しても彼女の姿は見つからない。
そこにちょうどやって来たのがいかがわしい情報屋でした。
「何でも調べて差し上げます」という二人組にオックスは試しに「じゃあマリアンデルを探し出せ」と命じます。
オックスはそれだけ熱心にマリアンデルを探していたということです。
ところでこの二人組、伊達に情報屋を名乗っているわけではありません。
オックスについて、ジュピターに例えられると単純にうれしがること、それから若い女性と結婚する予定であること、これらを短時間で調べ上げます。
もともと知っていたわけではありません。
オックスの従者の中に、二人組にべらべらしゃべった者がいたのです。
きっとそれはオックスの隠し子レオポルトでしょう。
ただし彼が知っているのは上っ面だけです。オックスの懐具合や領地のいざこざについてはあんまり興味がないようです。
レオポルトは金勘定の下手さもオックスから受け継いだのでした。
(2024年2月28日)
]]>
オクタヴィアンが朝食係の登場にあわてふためいて刀をソファの上に置き忘れます。
それをテレーズがたしなめます。
「あなたって刀を出しっぱなしにして。
もっと上手にできないのかしら」
それに対してオクタヴィアン、
「そりゃ僕は刀の使い方は下手だけど、
そういう僕が好きなんでしょう?」
オックスが隠し子をテレーズに紹介する場面です。
「わしには隠し子がおりましてな」
テレーズ「まさか女の子では? 父親似だったら最悪だわ」
オックス「男です」
テレーズ「(ほっとして)男の子でよかった」
そして隠し子が登場します。彼の顔を見てテレーズが言います。
「とりあえずおめでとうと言っておくわ」
どうやら彼はオックスとそっくりだったようです。
(2024年2月26日)
]]>成り上がりだと揶揄するやつがいるかもしれない、でも自分は二人前の貴族の血筋を持っている。
生まれてくる子どもだって敬意をもって見られるはずだ!
そう力説します。
それに対してテレーズが相槌を打ちます。
「そうね、あなたの子がドン・キホーテであるはずがないものね」
このドン・キホーテがピンと来ません。
最初は「貴族の血筋をもっていないのに貴族ぶる人」かと思いました。
しかしセルバンテスの「ドン・キホーテ」では血筋は重要視されていません。
騎士であるかどうか決めるのは、騎士の志しを持っているかどうか、だけです。
「ドン・キホーテ」が書かれた時代、ドン・キホーテは道化でした。
しかし時代が進むにつれて解釈が変わってきます。
道化であり、滑稽な存在ではあるけれど、その志しは本物で気高い。
その意味ではドン・キホーテは間違いなく真正の騎士だ、現代ではそう読み取る人が多くなっています。
なるほど、そこまで考えるとテレーズの言葉がやっと理解できます。
新しい読み方をしているテレーズにとってはドン・キホーテはネガティヴな存在ではない。
しかし一般的なイメージではドン・キホーテは道化の象徴です。
テレーズは「どうせあなたの子には貴族の心意気なんてないでしょうね」とはっきりと切り捨てて、しかもその皮肉が絶対に相手に読み取られないことも分かっているのです。
ちなみに、オックスが「ぜひファニナルに知らしめたい」と思っているものがあります。
オックスの御先祖様は広大な領地を持っていました。そこで立派に長官職を勤め上げ、修道院まで作ったのでした。
おそらくその功績によりレルヘナウ家は貴族として取り立てられることになりました。
立派なことです。
しかし、たかがそれだけのことです。
オックスはその先祖の遺髪をファニナルに見せつけたい、そう息巻いています。
でもその部分を説明すればするほど傍目には滑稽です。
この瞬間はオックスはドン・キホーテそのものです。
そう、単なる「勘違いした愚か者」。
(2024年2月21日)
]]>
オックスはテレーズの屋敷を訪れたあと「白馬亭」に行き、そこで2泊して翌々日にファニナル邸に乗り込む計画です。
この「白馬亭」がよく分かりません。
いかがわしい店でどんちゃん騒ぎでもするつもりかとも思いましたが、オックスは召使から狩猟係まで雇人を全員引き連れてきています。
ケチな彼が彼らにそんな贅沢を許すとはとても思えません。
しかもテレーズも「白馬亭」という言葉に何の反応も示していません。
オペレッタで有名な「白馬亭」という実在のホテルがオーストリアにはありますが、ウィーンではないし、舞台となる18世紀中ごろにはまだ存在していません。
「ウィーンによくある宿屋」くらいの解釈が穏当かと思われます。
オックスが雇人を引き連れていることについては「領地が差し押さえられて行くところがなくなっている」という深読みも可能です。
あとでオックスは公証人に「領地の抵当権をはずせ」としつこく食い下がります。
相当金に困っていて、かなり切羽詰まった状況ではあると思います。
(2024年2月19日)
]]>
オックスは自説を主張します。
召使の中には一人は貴族の血をひく者を入れておくべきだと。
なので、生まれのよさそうなマリアンデル(=オクタヴィアン)を新婦の小間使にぜひ欲しいと言うのです。
テレーズはそれを逆手に取ります。
私も実は同じ考えでこの子を手元に置いている。
この子はオクタヴィアン伯爵の腹違いの妹。
だからあなたに譲るわけにはいかない。
そこまで聞くとオックスも諦めざるをえません。
余計だったのはその話の流れでオクタヴィアンを「銀の薔薇の騎士」に推薦したことです。
しかも自分のペンダントの写真を見せて。
浅いのから深いのまで、いろんな解釈ができます。
まず、茶目っ気からくる、単なるお遊びだったという解釈。
次に、若くて男前のオクタヴィアンのことを誰かに言いたくてうずうずしていたという説。身近な人に言うわけにもいかずもやもやしていたところに遠い親戚のオックスがあらわれたのでつい、ほのめかしてしまったという考え方。
あるいはまったく逆の視点もあります。
身の上相談で不倫の相談するのはほぼ「止めて欲しい」からです。テレーズも心の奥底では誰かに止めてもらいたがっていた……。
いずれにしてもこのほのめかし、オックスには気づかれませんでした。
(2024年2月16日)
]]>オクタヴィアンは来客の予定時刻までに朝食を済ませて、こっそり帰っていくはずだったのでしょう。
彼は昨晩も二階の窓から侵入して、この日の朝もそのルートで帰るつもりだった、という説もあります(台本のホフマンスタールの説です)。
ところがオックスが面会時間より早く乱入してきて、しかもオクタヴィアンは服を来ていなかったので逃げ出せなかったのです。
面会時間になりテレーズの寝室兼応接室にいろんな人たちが押しかけてきました。
その隙にオクタヴィアンはやっと逃げ出せました。
やって来たのは陳情人、商売人、知人から紹介された歌手、それに胡散臭い情報屋。
元帥夫人にかなりの権力があることが分かります。
夫の立場を利用して偉そうにしているのではなく、彼女自身由緒正しい貴族で、かなりの財産や領地を管理しているのです。
ここら辺はいろんな人たちがちょっとずついろんな曲を歌うので慌ただしくも楽しい場面です。
ここでまた分からないところがあります。
紹介されてきたテノール歌手が歌を披露するのですが、ほぼまるまる一曲歌うのです。
本筋とは関係のない場面で、まったく関係のない歌を長々と歌います。
様式としては少し古いタイプのイタリアオペラのアリア風です。
リヒャルトさんはこういう古臭いイタリアオペラが嫌いだったので、あえてパロディとして持ち出して小馬鹿にした、という説もあります。
これも正解は音楽に訊ねるしかありません。
ですが、何度聴いてもこの曲に「小馬鹿にした感じ」は感じられません。
ゲストのテノール歌手はしばらく間を置いて二番を歌います。
ここでオックスに何度も邪魔をされます。
最後、クライマックスの部分では完全にさえぎられてしまいます。
ここでやっとリヒャルトさんの狙いが分かります。
オックスの無粋さ無遠慮さを描くために、この音楽を必要としたのです。
きれいで、分かりやすくて、構造的にもはっきりしている。
ほらほら、もうすぐクライマックスですよ、というのが誰にでも分かる曲が必要だったのです。
そのために使われたのがイタリアオペラ様式であり、それを強調するために一番をまるまる歌わせる必要があったのです。
絶対に小馬鹿にはしていません。
(2024年2月14日)
]]>
リヒャルトさんの手紙によると彼は当初このオペラのタイトルを「オックス」と名付けたかったようです。
「オックス」ではなく、「薔薇の騎士」にしてあらゆる意味で大成功でした。
ちなみに神戸を本拠地とするプロレス団体「ドラゴンゲート」に「金薔薇の貴公子」と呼ばれるレスラーがいます。
先日サインをもらってしまいました。
それは置いといて、オックス、最高です。
初登場の瞬間からアクセル全開の大暴走。
このはちゃめちゃぶりには元帥夫人もお手上げです。
もちろんオクタヴィアンでは相手にもなりません。
この場面、オクタヴィアンは女装をしています。
オックスが部屋に入ってくるタイミングで召使にまぎれて逃げ出そうという魂胆でした。
というか、オクタヴィアンはほんの悪戯心で女装をしただけで、それを見たテレーズがその作戦を思いついたというのが正解かと思われます。
しかしこの作戦は大失敗です。
オクタヴィアンはオックスに目をつけられて、逃げ出すどころか手を握られて抱きとめられてしまうのです。
オックスはテレーズの目もはばからず女装オクタヴィアンを口説きます。
この口説き文句がすごいです。
「わしは女好き、いつでもどこでも誰でも口説く、だから今お前を口説く」という論法。
こんな口説き方があるでしょうか?
ある意味「いっしょに死のう」の太宰以上です。
(2024年2月12日)
]]>
テレーズとオクタヴィアンがいちゃいちゃしながらご飯を食べているところです。
ここに流れるのはモーツァルト風のメヌエット、とっても可愛らしい音楽です。
でも、長いです。
「この音楽は薄っぺらい嘘の愛を描いているのではないか?」
という仮説が浮かびます。
しかし何度聴いてもこの音楽に嘘はありません。
軽やかですが、表面的ではありません。
リヒャルトさんが真剣に書いた本当の音楽です。
続く会話も謎深いです。
テレーズがぽろりと「昨晩元帥の夢を見た」と漏らします。
それに対してオクタヴィアンは「よりによって僕と一緒に過ごしている時に見なくても!」と責めます。
テレーズは「そういうのじゃなくて、突然帰ってくる夢」と説明します。
台本のホフマンスタールがフロイトと接点があったかどうかは分かりません。
ちなみにフロイトの「夢判断」が1900年、「薔薇の騎士」が1910年。
接点がなくてもホフマンスタールは一流の文筆家です、夢の意味合いはよく分かっていたと思います。
その彼がテレーズに夫が帰ってくる夢を見させたのです。
オクタヴィアンとの関係に対する「やましさ」か「戸惑い」をテレーズの心の片隅に忍び込ませたかったと考えるべきでしょう。
それを踏まえて、なお美しいこのメヌエット。
謎は深まる一方です。
(2024年2月9日)
]]>
まずモハメートが朝食を用意する場面。
これが長すぎます。
彼がてきぱきと食事の支度をする様子が、細かな音型で描かれます。
でも時々長い音符が挟み込まれて音楽が間延びします。
作劇上も大して重要でない場面なのに、これは一体何なのでしょう。
まるでモハメートがわざともたもたしているかのようです。
(2024年2月7日)
]]>
しかしリヒャルト・シュトラウスは超一流のオペラ作曲家です。
台本以上に音楽が雄弁です。台本が難解でも、耳で解決できるところもあります。
たとえば先日書いた「僕って何?」の箇所です。
「あなたの中で消えてしまう」というセリフの裏ではチェロが性的興奮をあらわすフレーズを弾いています。
だからといって台本を下ネタ風に訳すのは短絡すぎます。
でも、そのフレーズを完全に無視するのももったいないです。
「あらあら、そういう意味もこめてらっしゃるのですか」とにやりとするくらいが大人の嗜みかと思われます。
(2024年2月5日)
]]>
朝食のベルが鳴った時、オクタヴィアンはそれが何を意味するか分かっていません。
「誰が来ようと恐れるもんか」などと強がってみせます。
そのくせモハメートが朝食を持ってあらわれると逃げまどいます。
間取りが把握できていなくて、どこに逃げればいいのかよく分かっていません。
オクタヴィアンがこの部屋に来るのは初めてということです。
また、もう一つ意味深なセリフがあります。
五六日前にテレーズはオックスから手紙を渡されます。
なのに今に至るまでそれを開封する余裕がありませんでした。
それはオクタヴィアンのせいだ、とテレーズは言っています。
私は、五六日前から二人はこの部屋にこもりきりで、そのために手紙を読む暇さえなかったのかと思っていました。
しかし実際はオクタヴィアンがこの部屋に来たのは初めてです。
二人はこの五六日間、初の自宅デートの準備に忙しかったのだと思います。
元帥のスケジュールを確認して、召使の目をどう盗んで、どこから忍び込むか、何通も手紙をやり取りして打ち合わせをしていたのでしょう。
それでテレーズはオックスの手紙どころではなかったのです。
(2024年2月2日)
]]>ト書きによると黒人の子どもモハメートです。
突然の闖入者にオクタヴィアンはあわてて衝立の裏に隠れます。
どうやら彼の存在は召使たちにも知られてはいけないようです。
源氏物語では召使がぐるになって密会の手助けをしたりします。
「薔薇の騎士」ではそうではありません。
元帥婦人は絶対に浮気をしてはいけない立場です。
仮に浮気をしても、召使にすら知られてはいけないのです。
召使はゆっくり朝食を準備して部屋から出ていきます。
ほっとした二人はいちゃいちゃしながら朝食を取ります。
こうして文章に起こしてみるとひどい話ですね。
ここでまたまた誰かがやって来そうな気配です。
元帥は遠方に狩りに行っていてすぐには帰ってこられないはずなのに、
「でも、彼は素早いから」
元帥夫人テレーズが言います。
「あの時だって……」
そこまで言いかけて口をつぐみます。
これがまた難しいです。
もっとも素直な解釈は「前にも不倫の現場に踏み込まれそうになった」でしょう。
召使にばれないように男性を引っ張りこんでいたわけです。
元帥夫人は恋多き女性ということになります。
一幕と三幕の切ないモノローグは何なのだって怒りだす人もいるでしょう。
しかしそのあと、乱入してくる客を召使たちが必死で押しとどめようとする場面があります。
総合的に考えると、召使たちはオクタヴィアンの存在をちゃんと知っている、と考えるべきでしょう。
とすると「あの時」もやはり「前回の不倫の時」と解釈するのが自然です。
テレーズはこれまでも何度かこの部屋で男性と会っています。
上手く計らって誰にも知られていないつもりです。
でも、召使たちはちゃんと知っている……のがまっとうな読み方だと思います。
「あの時」元帥が予定より早く帰ってきたのでテレーズはびっくりしました。
でも、何とかその場面は問題にならずに済んだようです。
実は召使たちの機転のおかげだったということです。
「あの時」にはもう一つ別の解釈もありえます。
それはもっと下品で「彼は何をするにも速いから」というものですが、これもこのへんにしておきましょう。
それにしてもこのオペラ、ちょっとひどすぎます。
(2024年1月31日)
]]>
Du, Du, Du! - Was heisst das „Du“?
Was „Du und ich“?
Hat denn das einen Sinn?
Das sind Worte, blosse Worte, nicht? Du sag!
Aber dennoch: Es ist etwas in ihnen, ein Schwindeln, ein Ziehen, ein Sehnen und Drängen, ein Schmachten und Brennen:
Wie jetzt meine Hand zu deiner Hand kommt, das Zu-dir-wollen, das Dich umklammern, das bin ich, das will zu dir, aber das Ich vergeht in dem Du....
Ich bin dein Bub, aber wenn mir dann Hören und Sehen vergeht - wo ist dann dein Bub?
あなた、あなた、あなた! - 「あなた」とはどういう意味?
「あなたと僕」って何?
それに意味がある?
これは言葉、ただの言葉だとあなたは言う!
しかし、それでも、そこには何かがある、めまい、引っ張り、切望と押し寄せ、切望と灼熱:
僕の手が今あなたの手に触れているように、あなたに近づきたい、あなたを抱きしめたい、それが僕、それはあなたのところに行きたいのに、僕はあなたの中で消えてしまう…
僕はあなたの男の子ですが、僕が聴覚と視覚を失ったら - ではあなたの男の子はどこですか?(Google翻訳をわずかに修正)
他の訳を見てもどれも非常に苦労しています。
原文があえて分かりにくく書かれているからだと思います。
次の訳くらいが「ほんのりと分かったような分からないような」で品がいいかもしれません。
あなたに近づき、抱きしめたいと思っているのが僕。
しかしあなたに近づくと、あなたの中で消えてしまうのも僕。
僕はあなたの赤ちゃん。目も耳も利かない赤ちゃんがあなたのどこに消えるんだろう?
一方ではここまで意訳しているものもあります。
下ネタもはなはだしいし、そもそも誤訳です。
(2024年1月29日)
]]>小鳥もさえずり、明け方近くではありますが。
オクタヴィアンは「あんなに乱れたあなたを知っているのは僕だけだ」と言って、テレーズは「あら、みんなに知ってほしいの?」と答えます。
書き写しながら恥ずかしくなってくるようなやりとりなのでこのへんにしておきます。
問題は次です。
オクタヴィアンが訳の分からないことを言い始めます。
「あなた、あなた」
「あなたと僕」
「あなたと僕って何だ?」
そして意味不明なことをつらつら言って最後に「それが僕だ」と断言して、勝手に納得します。
これが全然意味不明です。
最初は「僕は一体何者なんだろう、そうか、あなたを愛している存在、それこそが僕なんだ」というデカルト「われ思うゆえにわれあり」的自問自答かと思っていました。
ここで話が前後しますがオクタヴィアンは17歳という設定です。
貴族の生まれの将来有望な騎士です。
一方テレーズは政府の要人元帥閣下の妻です。
推定年齢32歳。
若いオクタヴィアンが背伸びして小難しいことを言っているというのが一般的な解釈です。
が、この先オクタヴィアンを見ていると分かるのですが、彼はあんまりそういう形而上的な考え方はしない人です。
(2024年1月26日)
]]>続いてヴァイオリンの悲鳴のような響き。
さらに弦楽器のせわしない動きが続きます。
これは男女の交わりそのものを描いた音楽である、という解釈があります。
というか、それ以外の解釈を見たことがありません。
説得力はあります。
ホルンの突き上がるようなメロディーは男主人公のオクタヴィアンを表しているらしいです。
続くヴァイオリンの旋律はその愛人テレーズを象徴しているとか。
その二つのメロディーが妖しく絡まりながらどんどん高まっていきます。
到達点でホルンが4回、もしくはもう1回、高らかに吠えます。
絶頂の瞬間です。
そのあとも音楽が何度かうねって、やがて静まると幕が開きます。
そこはテレーズの寝室で、気だるい感じのオクタヴィアンとテレーズがベッドに横たわっています。
冒頭の音楽は二人のおこないを描いたものだという解釈にはとっても信憑性があります。
ですが、私はうなずけません。
音楽は先ほどの絶頂のあと、まだまだ盛り上がります。
解説本によっては「逸(はや)った青年は経験不足から、あっというまにクライマックスに達してしまう。そのためもう一度行動にを起こすのだが前回よりは勢いが良くない」とまで書いてあります(ウィリアム・マン「リヒャルト・シュトラウスのオペラ」)。
勢いはよくないかもしれませんがまだまだ濃厚に盛り上がるのです。
ここが私には理解できないと言うか、私の知っているものじゃないって感じがして仕方がないところです。
すみません、曖昧な言い方で。
(2024年1月24日)
]]>
それはそれでおめでたいことです。
(この言い方、次に絶対悪口が続くパターン)
打ち上げ以来半年間、JAXAはSNSで刻々と状況を伝えてくれていたのですが、もう一つ素人には分かりにくいと言うか、痒いところに手が届かないと言うか、ずっともどかしい思いをさせられてきました。
まず一番は、SLIMが今どこを飛んでいるのかさっぱり分からなかったこと。
スイングバイしてずっと遠くを飛んできたというのは分かりました。
その遠くってどこ?
地球から見てどの星のどのあたりを飛んでいたの?
やっと月周回軌道に入りました。
その軌道って月との距離はどれくらい?
月の直径の何倍もの距離? それとも月の表面をかすめるくらい?
目標地点に着陸しました。
どこに着陸したの? 地球から見てどのあたり?
(これについては9月の読者質問箱への回答に載っていました)
発電パネルの向きがどうしたこうしたと言われて、初めて「月から太陽と地球はどう見えているのか」考えてみました。
太陽は28日かけて月の周りを回ります。
東から昇ってきて14日後に西の地平線に沈みます。
地球はずっと同じ場所に見えています。
満ち欠けはあります。
月の満ち欠けと同じ周期です。
地球から見て月が新月の時は地球が満月(満地? 満球?)に見えるはずです。
素人としては月の石ころよりも「新月状態の地球」の写真が見たかったです。
ところで、
「薔薇の騎士」をこき下ろす! とか言いながら2週間も引っ張ってしまいました。
何をもたもたしているのかとお思いの方もおられるでしょう。
しかしこれには訳があるのです。
実はここから先は18禁となります。
「薔薇の騎士」ファンは読むな、18歳未満は見るな。
どんどん読者層を狭めていますがそういう作品なのですから仕方がありません。
勿体ぶりでもなければ炎上商法でもありません。
私のせいではありません。
「薔薇の騎士」というオペラのせいです。
ご理解いただいた方のみ、それなりの覚悟をもって先にお進みください。
(2024年1月22日)
]]>あらすじを20字以内でまとめるならば
オクタヴィアンとゾフィーが恋に落ちる話
です。
ちなみにこれをchatGPTに質問すると回答は
ロマンチックな物語。主人公が薔薇を愛し、騎士としての誓いを果たす。
おやおや、20字以内でもないし、全然間違っています。
2024年の1月の時点ではまだ人類の方が賢いようです。
で、4時間のオペラですからこの根幹にいろんな枝葉がつきます。
1)オクタヴィアンは元帥夫人テレーズと愛人関係にある。
2)ゾフィーにはオックスという婚約者がいる。
面白くなってきました。
(2024年1月19日)
]]>
しかし労働時間に取り決めがあったとしても、この譜面はあんまりです。
「薔薇の騎士」を演奏する際、組合は「音符が多すぎる」という理由で割増料金を要求してもいいレベルだと思います。
とまあ様々な理由で聴くのも難しい、演奏するのはもっと難しい「薔薇の騎士」ですが、オペラファンの中では非常にウケのいい曲です。
今回の企画はその謎の名曲「薔薇の騎士」の魅力を探ろうという趣旨ではありません。
むしろ逆です。
裸の名曲「薔薇の騎士」を徹底的にこき下ろそうという、神をも恐れぬ企画です。
どうか「薔薇の騎士」ファンは読まないでください。
いや、冗談ではなく、本当に読まないでくださいね。
(2024年1月17日)
]]>オーケストラについては多少経験があるのではっきり断言できます。
こんな譜面を弾けるオケはそうそうありません。
ワーグナーの譜面もたいがいですが、まだ音楽の細胞が大きいです。
リヒャルト・シュトラウスの音符はワーグナーよりも一桁細かいです。
細菌とウイルスくらい違います(さすが医者ならではの比喩)。
しかもすさまじい体力を必要とします。
リヒャルト・シュトラウスは「アルプス交響曲」や「ツァラトゥストラはこう言った」などのオーケストラ名曲の数々で有名です。
いずれも途轍もない超絶技巧を必要とする曲ですが、ぎりぎりアマチュアでも弾けます。
何故なら演奏時間が長くても45分ですから。
しかし「薔薇の騎士」は一番短い幕で60分。
オペラだからといってリヒャルトさんは手加減してくれたりはしません。
容赦なく音符を叩きこんできます。
(2024年1月15日)
]]>
何となく楽しくはあります。
愉快な場面もあります。
でもよく考えてみると、分かったような分からないような、面白いような面白くないような、すっきりしないお話です。
逆の立場、演奏者の立場からするとどうでしょう?
歌のことをよく知らない私から見ても、この楽譜は相当異常です。
てきとうに1ページ拾ってきたのですが、このオクタヴィアンの歌をぱっと見て口ずさめる人がこの世にどれだけいるんでしょうか?
(2024年1月12日)
]]>
書かれたのは1910年。
オペラという形式が盛りを過ぎた20世紀に入ってから書かれた作品です。
オペラそのものは20世紀にも名だたる作曲家たちによってたくさん作られて、21世紀になった今も作られ続けています。
ですが、劇場を満席にすることができる20世紀オペラは「薔薇の騎士」と「蝶々夫人」「トゥーランドット」だけだと思います。
ネット情報によると「薔薇の騎士」は初演時から大人気だったそうです。
そもそもこれがよく分かりません。
上演時間は3幕でほぼ4時間。
聴く者にかなりの忍耐を強いる長さです。
「美しい旋律にあふれている」という解説もあります。
しかしどこを切っても美しいプッチーニに比べると、メロディーなどほぼないに等しいです。
演奏時間の8割は「これ、どこがメロディーなん?」状態です。
(2024年1月10日)
]]>今年もよろしくお願いします。
さて今年も恒例の風吹岩清掃ハイクに行ってきました。
今年もゴミはまったく落ちていませんでした。
これはすごいことだと思います。風吹岩クライマーの皆さん、誇っていいです。
山頂のお友達も、今年も元気そうでした。
ちょっと育ちすぎのような気もしますが。
(2024年1月5日)
]]>
犬ならば、劣悪な環境での飼育や虐待は、たいてい近所の人にバレます。
でもネコはなかなか分からないと思います。
誰にも知られないままどんどん増えて、餌やトイレの管理もできなくなって、結局たくさんのネコが処分されてしまうのです。
飼い主の肩に小鳥が乗っていれば簡単に防げるのに……、と思ってしまいます。
(2023年12月1日)
そんなことを思っているとまたまたもやっとすることが……。
大谷翔平選手の犬です。
見るからに珍しそうな犬です。
映像を見て「この犬が欲しい」と考える人が世界中に100人はいると思います。
そしてこういう映像に惹かれて犬を買う人の99%は犬を飼うのに適していません(諸説あります)。
99匹の犬が数年以内に処分されます。
大谷選手の責任ではありませんが、彼の映像がなければ失われなかった命が失われるのです。
(2023年12月4日)
90年代から映画では「この映画の製作にあたりいかなる動物も傷つけていません」とクレジットされるようになりました。
それから30年近く。
動物の扱いについてメディアはそろそろ次の段階に進むべきです。
有名人のペット自慢などで、珍しそうな犬やネコを映すのはやめましょう。
ネコの場合なら、テレビで映すのは保護ネコに限るべきです。
今後テレビに出るためには「このネコは由緒正しい血統書つきのネコではありません」という証明を条件にしましょう。
「非血統書」、これからの時代、必要になるのはこれです。
(2023年12月8日)
先日おこなわれた熊本市長と熊本居住の外国人の懇話会で、「元号が分かりにくい」と意見が出され、それに対して「嫌なら帰れ」という批判が寄せられたそうです。
元号については日本人の100%が不便だと思っているのに、外国人に言われるとこの騒ぎです。
その気持ちはよく分かります。
うちのネコたちはあんまり美ネコではありません。でも他人から「おたくのネコは不細工だね」と言われたら、私でもむっとします。
つまり何が言いたいかというと、「正しいことでも人にだけは言われたくない」ということです。
さらに言えば私たちがどんなに言ってもロシアとイスラエルが撤兵することはないし、中国が拡大政策を改めることはないということです。
(2023年12月11日)
戦争を終わらせるためには当事国の国民をうまく誘導して反戦意識を高めるしかありません。ところが誘導どころか国民がどう思っているかさえよく分からないありさまです。
ロシア人がどう考えているのか、この二年間私は一回たりとも政府から聞いたことがないし、新聞で読んだこともありません。
「ロシア系ウクライナ人の権利を守るためだから仕方がない」と納得しているのか、「そういう論法は侵略を正当化するためによく使われた手法だけど、領土が広がるのならまあいいか」と割り切っているのか、「勝てる戦争ならどんどんやれ」と手放しで応援しているのか。
ガザの人々の考えもそうです。
これだけ手痛く報復されたらハマスを糾弾する声が上がりそうな気がします。第二次大戦時のイタリアのようにハマスの指導者を見つけ出して縛り首にしようとする人も出てくるものです(それがいいとは思いませんが)。それなのにそんな報道はありません。とにかく彼らが何を考えているのかさっぱり伝わってきません。
国もマスコミもするべき取材をしていないのです。
つまり、反戦を本気に願ってはいないということです。
(2023年12月13日)
「元号が嫌なら帰れ!」問題にはもう一つの側面があります。
外国人が突然一方的に文句をつけてきたわけではありません。
外国人が不便に思っていることを聞いてみようじゃないか、そう思った市長が集会を開きました。そこで出てきた意見のうちの一つだったのです。
タイガースファンに今年のタイガースへの不満点を訊ねればおそらく全員が「何もない、100%完璧!」と答えるでしょう。
でも居酒屋でファン同士でしゃべれば「あいつはもうちょっと守備頑張らなあかんな」くらいぽろぽろ出てくるでしょう。
それに対して「じゃあお前はファンやめろ!」と怒鳴り散らすのと同じです、「嫌なら帰れ」と言うのは。
(2023年12月15日)
「よく分からないのにとりあえず口を出す人」が世の中には一定数います。
先日の芦屋市教育委員の件でもそうでした。
若い市長が推す教育委員が議会によって拒否されたというニュースです。
これに対して「これこそ老害!」と声を上げる人が少なからずいました。
ところがよく調べてみると、反対したのはむしろ若手の議員たちでした。いかにも老害の元になりそうなベテラン議員は市長案に賛成だったのでした。
老害の原因が「硬直した考え方」とすれば、今回の件で「老害だ」と叫んだ人こそが次世代の老害最有力候補です。
(2023年12月18日)
教育委員に地域性が必要かどうかという点が今回の最大の論点です。
この問題について、市長擁護派と反対した若手議員がそれぞれコメントを出しています。
一方はそんなもの必要ないと言い、一方は当然必要だと主張し。
そこで議事録を読んでみました。
こんな会議なんてどうせお飾りの形式だけのものだろうと思っていたら、なんのなんの、結構真剣な討議がおこなわれています。
根拠のない思い込み、すみませんでした。
で、この議論に地域性が必要かどうかですが、「地域性など必要ない」と断言するのは非常に難しいです。
ほとんど「必要」と言っていいくらいの内容だと、私は思いました(個人の感想です)。
反対した議員の年齢層を知らず、ましてや議事録を読まずにいろいろ決めつける人がいるのはもう仕方がありません。
いつの時代、どこの国のどの年齢層でも、よく知らないくせにしゃしゃり出たがる人はいます。
でも何にも知らずに口を出す人は文章の最後に「知らんけど」と付け加えるのを忘れないようにしましょう。
(2023年12月20日)
ところで話はずっとずっとさかのぼりますが、ラフマニノフです。
いろいろ調べたのですが、ラフマニノフ「楽興の時」の作者自筆譜がどこにあるかは分かりませんでした。
その代わりに「Piano Practical Editions」というサイトにアップされているものが自筆譜にもっとも近いようです。
rachmaninov-op-16-no-1-.pdf (wordpress.com)
(2023年12月22日)
ただしこれも必ずしも決定版とは言えません。
おそらくラフマニノフが達筆すぎて「♭」か「♮」か判読不明なのでしょう。
「この譜面では「♮」にしたが、多分「♭」」
のような箇所がいくつかあります。
YouTubeで視聴できるラフマニノフの自作自演と比べてみますと、46、47小節のアルペジョが抜けています。
55小節目の頭の音はおそらくA♭、69小節目の右手の最初の音はおそらくD♭。
90小節は2、4拍目の低音が抜けてます。
94小節目は「アルペジョ無し」が正しいと思われます。
これらを考え併せて作った「決定版」がこれです。
譜めくりも考慮してありますのでお勧めです。
ただし!
まだぐずぐず言いますが、ラフマニノフの演奏と楽譜とどちらが正しいかという問題もあります。
新しい版がまた一つ増えただけ、という気がしないでもありません。
(2023年12月25日)
この曲のどこが好きと言って、60小節目からのたゆたうようなパッセージ!
細かな音がきらきらと輝きながらいつまでも続いていくところです。
これを滑らかに弾くのは素人には無理です。
運指がとっても難しいし、音の粒がそろいません。
それでも、大好きなので毎日毎日たどたどしく弾いていました。
ある日気がつきました。
このうねるような音の流れには冒頭のメロディーが秘められているのでした。
12月22日分で紹介したPiano Practical Editions版で、9ページから11ページにかけて書き加えられている上向きの棒がそれにあたります。
これはラフマニノフの自筆譜には存在しないようです。
私の「決定版」に反映させるかどうか迷ったのですが、このメロディーラインを意識するかどうかで演奏が完全に変わってしまうので反映させました。
ただし73、75小節目についてはPiano Practical Editions版も間違っているので訂正しておきました。
(2023年12月27日)
YouTubeではこの曲の数多くの演奏を聴くことができます。
しかしほとんどのピアニストがこの部分を高速でさらりと弾き流しています。
25日分で紹介したものが本当に自作自演だとすれば、ラフマニノフ自身もそうです。
私が聴いた中でこのメロディーを浮き立たせているのは
素人が想像するに、超高速で弾き飛ばすよりも音符三つごとにアホになる方が難しいのではないでしょうか。
せっかくこの曲を聴くのならこのお二人の演奏で味わうのがいいと思います。
(2023年12月29日)
]]>神戸が舞台で、見たことのある場所がいっぱい出てくるのは楽しいです。
感心したのは「月」の扱いです。
キッチンカーで印象的な出会いを果たした二人はいっしょに空を見上げます。
そこで見えたのが半月です。
上弦の月。夕方、南の空に見られる月です。
その日から二人は毎日会うようになります。
「毎日」が2、3日なのか、1週間なのか、1か月なのか語られませんが、次に映ったのがこれです。
満月。
つまり二人が会い続けたのは1週間だったということがこれで分かるわけです。
言葉で説明せず、月の形で時間の経過を感じさせる、上手いやり方です。
と思ったら次に映ったのが、これ。
おやおや、昼間の満月。
どうこじつけても無理な光景です。
監督さんはどうやら何も考えずに月を映していたみたいですね(しかも合成だし)。
月の扱いは私の勝手な勘違いでしたが、ドラマ自体は今後の展開によっては面白くなるかもしれません。
興味がある方はどうぞ。
(2023年11月6日)
京都アニメーション放火殺人事件の被告が、犯行動機について「盗作されたから」と主張しているそうです。
被告が京アニの小説コンクールに応募した作品に、ヒロインが5割引きの総菜を買いあさる場面があり、京都アニメーション制作の作品にも、登場人物がスーパーで2割引きのシールが貼られた肉を見つけるシーンがあって、これをもって被告は「盗作」と確信したらしいです。
こういう供述は法廷戦術のために何らかの意図をもってリークされることが多いです。
なので文面通り信じるのは無邪気すぎます。
ただ、「陰謀論の人たちや反ワクチン主義者の人たちに世界がどう見えているか」がちょっと垣間見れて参考にはなります。
(2023年11月8日)
AIがものすごいスピードで進化しています。
将来AIに取って代わられる職業の代表としてよく「医者」が挙げられますが、たいていの医者は「いやいや自分は大丈夫」と思っています。
でもそれこそ根拠のない思い込みです。
医者の仕事は「診察」「検査計画」「検査」「検査結果分析」「診断」「治療」から成ります。
「診察」「検査計画」以外はすぐにでもAIに奪い取られてしまいそうです。
「でも診察だけはコンピューターにはできない」というのが医者のささやかな反論です。
その思い込みの薄っぺらいこと!
人による問診とAIによる問診を比べると、少なくとも患者側からの満足度は後者の方が高かったそうです。
当然です。
AIは面倒がりませんから。
生身の医者が「まだこの先20人も患者が待っているし」「腹も減ったし」「この人の話はいつも長いし」などの理由でてきとうに終わらせるところをAIは絶対にないがしろにしません。
現時点でただ一つ、AIにできないのは「触診」です。
(2023年11月10日)
「触診」は消化器内科に携わる者にとっては必要不可欠、というかごくごく当たり前の診察手段です。
当たり前のことをやっているだけなのに、それを見て(?)AIが「これは我々にはできない」と悔しがっているわけで、痛快といえなくもないです。
ところが、せっかくの切り札をわざわざ捨てようという人がいるから驚きです。
若手の医師の中には「CTを撮れば触診なんて要らない」と主張する人もいるそうです。
どうしてそういう考えにいたったか、想像できなくもないです。
患者に診察台に横になってもらいお腹を触診するよりも、レセプトコンピューターの「CT」というボタンをクリックする方が楽ですから。
でも「CT」ボタンをクリックするたびにAIはほくそ笑んでいるのです(ついでに言えば、病院の会計さんもにっこり)。
どうも喜ばせる相手が違うような気がします。
(2023年11月13日)
「ばらの騎士」というオペラがあります。
その中に「Leiblakai」という言葉が出てくるのですが、オンラインの辞書で調べてもヒットしません。
そこでchatGPTさんに質問してみました。
その答えがこうです。
「Leiblakai」という言葉は、実際にはドイツ語ではなく、おそらく架空の言葉または作曲者自身が創造した言葉の一部です。 「ばらの騎士」は、18世紀のウィーン宮廷を背景にした愛と冒険の物語で、宮廷社交や恋愛の要素が含まれています。音楽劇の中で、登場人物たちがドイツ語以外の言葉や語彙を使用することがあり、これは舞台設定や物語の雰囲気を表現する手段として使われることがあります。 したがって、「Leiblakai」という言葉は、特定の意味を持つ実際の単語ではなく、作品内での雰囲気やキャラクターの特徴を強調するために使用された言葉である可能性が高いです。詳細な意味は特定のコンテキストに依存するため、作品全体の理解や演出に役立つことがありますが、単独で独自の意味を持つ単語ではないと思われます。
Wikipediaからの丸写しではなく、複数の資料をもとに、「思考」を踏まえて導き出した回答です。
AIはもうここまで来ているのです。
(2023年11月15日)
この間「排便の時に出血がある」という患者さんが来られました。
聞くと数年前に大腸癌の手術をしたそうです。
さらに足の付け根のリンパ腺も腫れています。
「大腸癌手術後」「排便時の出血」「鼠経リンパ腺腫脹」
検査の手順よりも、私がまず考えたのは「手術をした医者は自分の手ですぐにでも診察したいだろう」ということでした。
そこで、こちらで検査を進めるよりも先に執刀医師に紹介状を書きました。
すると返事が来て「まず消化器内科で大腸検査をしてくれ」とのことでした。
あらまあびっくり。
自分が手術をした患者の経過が気にならない外科医がいるということにもびっくりしましたが、複数の症状から病因を探り出すのは医師の仕事であると同時にやりがいでもあります。そのやりがいを放棄してしまっている医者がいることにもびっくりしました。
今やAIも複数の資料から真実を導き出そうとしています。
一方、人間は目の前の一つのことしかやりたがらなくなってきています。
医者たるもの、AIに仕事を奪われないように懸命に頑張っているのかと思っていましたが、現実は逆で、早くAIにひれ伏したがっているみたいです。
(2023年11月17日)
そういうわけでAIがすさまじい勢いで進化しています。
ちょっとした文章や挿絵などはすぐに作ってくれますし、特に「絵」は著作権を気にしなくていいので(厳密にはややこしいですが)、便利です。
来年くらいには私の写真とそれっぽい文章の断片があれば、「私がしゃべっている動画」が簡単にできてしまいそうです。
逆に言うと悪用も簡単です。
これまでなら息子を騙(かた)ってだまそうとしてきた詐欺師が、今後は本物の動画を使ってだましてくるわけです。
事故した車を背景に、本人がおびえた声で「事故してしまった、すぐお金を払わないと大変なことになる」とすがってくるのです。
だまされるなと言う方が無理です。
(2023年11月20日)
「だまされないように気をつけましょう」では防げません。
「時間の問題でいずれ間違いなくだまされる」という前提で、お金の移動にロックを掛けるしかないと思います。
現金は持たない、家にも置かない。
口座から口座への送金も1日の限度額を設ける。
それ以上のお金は窓口以外では動かせなくする。
相当不便になります。
でもそうしないと絶対にだまされます。
正確に言うと、絶対に大金をだまし取られます(少額はもう仕方がない)。
そう考えると特殊詐欺師は直接の被害者だけではなく、社会全体に害を及ぼしているわけです。
偽札と同様の「経済テロ」です。
被害者候補の最前列にいる私としては、罰則も同レベル(無期または3年以上の懲役)にしてほしいと望むばかりです。
(2023年11月22日)
犯罪を出口で取り締まれないのなら入り口で歯止めをかけるしかありません。
ずーーっと以前から言っている「小鳥計画」です。
超高性能AIを搭載した小鳥を、全ての人の肩に乗せるのです。
人が違法行為を犯しそうなら鳥は耳元でささやいてくれます「それはやめておきましょう」。
詐欺師が詐欺電話をかけようとすれば止めてくれるし、フィッシング詐欺用の画面を作っていたら「もしかして詐欺に使うんちゃうん?」とツッコミを入れてくれます。
煽り運転にも有効です。
小鳥のAIは当然車のAIとも連動しているでしょうから、煽り目的でアクセルを踏んでもスピードは出せません。煽り運転そのものが存在できなくなります。
(2023年11月24日)
「小鳥計画」が優れているのは、犯罪未満のマナー違反も指摘してくれるところです。
煽り運転では、もちろん煽る方も止めてくれますが、追い越し車線をいつまでも低速で走っている人にも「そろそろ左車線に戻った方がええんちゃう?」とアドバイスしてくれるのです。
また交通機関の優先座席問題も解決します。
フランスでは優先順位が決まっているそうですが、日本では「優先座席」というものがあるだけで序列ははっきりしません。
75歳の男性と臨月の女性のどちらが優先されるべきか判断は難しいです。
それは当然です、75歳とひとくくりにしても、元気さにはとっても幅がありますから。
でも、小鳥がいれば大丈夫。
小鳥同士が小鳥語(人間には読解できない)で相談して優先度の低い方の小鳥が飼い主に「あんた立ちなはれ」と言ってくれるのです。
逆に、見た目は若くて元気そうな人が座っていても、小鳥が何も鳴いてなければ周囲の人は「見た目には分からないけど、何か重い病気にかかっているのかな」と納得してくれます。
(2023年11月27日)
小鳥はちょっとしたマナーも助けてくれます。
ごくごく稀ですが(20年間で2人くらい)、クリニックのコンセントで勝手に充電する人がいます。
一言聞いてくれれば「どうぞ」と答えるのですが、何の断りもなくされるとほんのちょっとだけもやっとします。
こういう時小鳥がいると便利です。自分が気がつかなくても小鳥が代わりに「充電してもいいですか?」と聞いてくれるのです。
いや、本人が言わないとやっぱりもやもやしますか。
(2023年11月29日)
]]>
でもよく考えてみると、私も味なんて全然分からないのでした。
お店の人に「これは新鮮だから」「これは天然ものだから」「これは国産だから」と言われたら「なるほど」と返事します。
でも心の中では「それで?」と思っている自分がいます。
実際、国産の松茸を使った土瓶蒸しよりも永谷園の松茸お吸い物の方が、私には美味しいです。
とういうわけで中国の人は私よりも美味しいものが分かると思います。
そして日本の水産物はきっとすごく美味しいです。
中国の皆さん、どうぞ日本に来て美味しいものをいっぱい食べてください。
(2023年10月2日)
処理水が安全基準をクリアしていることは理解できました。
問題は、汚染水を処理して、きれいになった処理水を放出しているのが人の手である、という点です。
私もよくうっかり間違いをします。
時々スマホを店に置いてきたり、家のエアコンを消し忘れたりします。
そういう私が一番気になるのは「処理水に携わる人のうっかりミスで汚染水が放出されることは絶対にないのか」という点です。
すみませーん、蛇口をうっかり間違えて汚染水の方を流してしまいました、てへ。
などということはありえないのでしょうか?
粗さがしの名人たるマスコミの人たちがこの点を追求しないのが不思議で仕方ありません。
(2023年10月4日)
大昔、病院で働いていた頃のことです。
集中治療室ではたくさんの人工呼吸器が動いていて、しょっちゅうアラームが鳴っていました。
何度チェックしてもアラームの原因が分からない場合、たいていのスタッフは誤作動だと判断してアラームを切ってしまいます。
今はもうそんなことはないと信じます。でも、人はそういう風に動く生き物です。
つまり
うるさいからアラームを切る。
考えれば、わざわざ高い金を払って健康を害するタバコを吸う人もいます。
アメリカンフットボールでいいプレイをする以上に気持ちいいことはなさそうなのに違う方法で快楽を得ようとする。
人は時々とんでもない理不尽なことを平気でやってしまうのです。
汚染水を処理している人が、ある工程が面倒だからと思いついてあっちの貯蔵庫の液体をこっちの貯蔵庫にバケツで直接移す、みたいなこともやらかしかねないと思うのです。
どうせなら、放出したあとよりも、放出までをよーく監視した方がいいと思います。
(2023年10月6日)
人為的ミスといえば、マイナンバーカードにまつわるトラブルもほとんどが人為的ミスによるもので、その多くが他人への紐づけだそうです。
それを国のせいだと決めつけるのはまあ、いいとしましょう。
でもよく分からないのは「国は信用できない」と言っている人が、国による再確認作業を口を開けて待っているところです。
マイナカードがどう紐づけられているのかなんて自分で簡単に分かるのに。
そういえば「国が信用できないから年金をかけない!」と言う人もいます。
国の制度に頼らず自前で財テクをしているのならいいと思います。
でもたいていの人はただ年金保険料を払っていないだけで、その人は老後、生活保護に頼るしかなくなります。
信じないと言いながらどっぷりと頼りまくっているわけです。
その頼り方のバランスの悪さがどうも気持ち悪くて仕方ありません。
(2023年10月11日)
気持ち悪いといえば……、
サッカーの国際試合で日本サポーターがスタンドをきれいに後片付けをしたという報道に対して必ずこういうことを言う人がいます。
「掃除をする人の仕事を奪うからよくない」
屁理屈好きの小学生が言いそうな言葉です。
実際、昔のまつもと少年もよくそういう類のことを言っては親を困らせたものです。
なので、そういうことを言っている人を見ると昔の馬鹿な自分を思い出して恥ずかしくなるので、なるべく言わないでほしいです。
たとえば有名人では舛添元東京都知事も言っていました。
この方は自宅の掃除代も政治資金で支払っていました。今考えれば掃除業者の仕事を確保するためにしてくださっていたのですね。
井川大王製紙元会長も言っていました。
この人も会社を思いっきり汚して出て行った方です。
社員が頑張って後片付けをしています。みんなさぞ感謝していることでしょうね。
(2023年10月13日)
昨今問題になっている高額チケット転売問題もマイナンバーカードを使えば解決します。
よくあるのが「一人4枚まで応募可能」なチケットを仲良し4人組がそれぞれ応募する場合です。
重複して当選すると、誰でも余ったチケットの転売を考えてしまうでしょう、さほどの罪悪感なく。
応募の時点で4人分のマイナンバーを申告させて、すべての当選番号をAIにチェックさせれば重複はなくなります。
そして入場時にはチケットに入力されたマイナンバーの持ち主しか入れなくすれば転売は不可能になります。
主催者も「転売サイトに目を光らせる」みたいな効率の悪いことから解放されます。
国が興行主に「重複チェック用にスーパーコンピューターを無料で使わせてあげますよ」と持ち掛ければマイナカード保有率も一気に上がると思います。
(2023年10月16日)
サッカーチーム浦和レッズの悪質フーリガンに対して無期限入場停止処分が下されました。
しかし今のチケット購入システムでは当該者をはじくことは不可能です。
そういう意味でも「チケットを買うときはマイナンバーを入力するものだ」という時代になってほしいものです。
主催者がその気になれば、どの席に座っているのが誰か知ることができます。
場内カメラと連動させれば、スタンドにボトルを投げ込んだのが誰か、特定できます。
Jリーグでもプロ野球でも、子どもといっしょに安心して応援に行けるスタジアムにするためには違法行為を絶対に許さないシステムが必要だと思います。
それはさておき、ノエビアスタジアムでも浦和サポーターの態度はよろしくありませんね。
40年前くらいのタイガースファンレベルといえば分かりやすいかもしれません。
いっしょに連れられて来た子どもたちの行く末が心配です。
品のいいノエビアスタジアムでちょっとずつでも学んでくれるといいのですが。
で、そのために浦和サポーターには式次第を配りましょう。
1:オープニングセレモニーが始まるまでは好きに声出し応援してください。
2:セレモニーが始まったら、相手チームの応援歌は静かに聴きましょう。
3:相手チームのメンバー紹介の時にブーイングするのは頭が悪そうに見えるのでいい大人ならやめましょう。
ただし、自チームから相手チームに移籍した選手の場合は、愛情を持ったブーイングならば許されます。
その匙加減はまだあなたたちには難しいので、やっぱりブーイングはやめておきましょう。
(2023年10月18日)
半年ほど前から一部の薬が手に入りにくくなってきました。
特殊な用途の薬ではなく、胃腸炎で使う下痢止めや風邪や喘息で使う咳止めなどです。
てっきりコロナかウクライナ戦争の影響かと思ったら違いました。
薬の値段は国によって決められています。
医療費抑制のため安めに設定されていて、さらに毎年の価格見直しで少しずつ安くされていきます。
発売からある程度年月が経って製造特許が切れると競合が激しくなり一社当たりの売り上げは減少します。
しかも小林化工の異物混入事故のせいで安全基準がどんどん厳しくなっています。
ここに来て多くのメーカーが「こんな儲からんもの作るのやーめた」となったようです。
薬の値段を上げずに、保険制度を崩さずに、この状況を打開するにはメーカーを集めて「下痢止めはうちの会社が作るからあんたの会社は咳止めを作って」と談合させるしかないと思います。
でも逆に、ここで安全基準に関する大スキャンダルでも明るみに出れば医薬品の供給は完全にストップするでしょう。
保険制度によって必要な医薬品を安く入手できるはずなのに、肝心の薬が存在しない。
保険制度の終わりの始まりです。
(2023年10月20日)
薬が手に入りにくい! 困った!
それは事実ですが、だからといって空っぽの棚の写真をSNSで上げるのはやめてほしいです。
その写真を厚労省の偉い人が見ることはないだろうし、見たからといって行動に移そうとは思わないだろうし。
一方その薬を必要とする人たちは間違いなく不安になります。
普段1か月分ずつもらっている人が3か月分欲しがって品薄に拍車をかけることになります。
コロナ初期のトイレットペーパー騒動の時もそうでした。
工場にはトイレットペーパーが山積みになっているのに、マスコミが映し出したのは空っぽの棚でした。
マスコミが選択を誤ったせいで人々はますますパニックになったのです。
だからといって全てマスコミが悪いかといえばそう言い切れないのがつらいところです。
ここだけの話、絶対に内緒にしておいて欲しいのですが、9月14日、私はテレビでタイガースの優勝シーンを見ていました。
9回表、優勝まであと一人という場面で私が思ったのは「ワイプで道頓堀を映しておけよ」ということでした。
さすがにサンテレビはそんな下品なことはしませんでした。
まあ、どっちもどっちということで……。
(2023年10月23日)
そっちばかり取り上げると逆効果じゃないかな、と思うことがもう一つあります。
少子化対策の流れで「子育てがどれだけ大変か」という訴えがよく取り上げられます。
お金がかかる、手間がかかる、時間がかかる。
会社も社会も非協力的。
養育費も教育費も高いし、医療費も?い。
保育園も足りないし、見つかっても使い勝手が悪い。
こういうアピールをしないと自治体や国は動いてくれないのでしょう。
でもその一方でこういう訴えを聞いた若い人たちがどう思うかが心配です。
一言アピールするたびに「いや、子どもはとっても可愛いんですけどね」とつけ加えた方がいいと思います。
(2023年10月25日)
マイナンバーカードを巡る話題で一番不思議なのは、カードを作りさえすれば2万円分のポイントがもらえるのに、それさえ拒んだ人が少なからずいた、という点です。
ラーメン半額券のために1時間も並ぶ人もいるし、勝てるかどうか分からないスロット台のために大行列を作る人がいる。
それなのに、簡単にそれ以上儲かるのにそれをしない人がいるのです。
政治的信念から拒絶している人ももちろんいるでしょう。
でもほとんどの人は違うと思うのです。
セキュリティへの不安や、政治家の利権に対する反発を口にする人もいますが、はたから見れば「言い訳のための言い訳」のようにしか思えません。
彼らの心理状態を政府は分析すべきでした。
私の想像ですが、「手続き」と聞いただけでおぞけをふるう人が一定数いるのです。
「面倒くさい」を越えて、「怖い」のではないでしょうか?
そう考えると、ラーメン屋には並んでも役所には行きたくない、という気持ちが理解できます。
近々給付される給付金を、マイナカードに紐づけされた口座のみに払うことにすれば普及率が上がるかと思いましたが、やっぱり無理です。
こうなると逆に考えるしかないと思います。
「手続きをしなければ自動的にマイナンバーカードが届く」という仕組み、これしかありません。
(2023年10月27日)
話は変わりますが、そしてちょっと遅すぎるのですが、テレビドラマ「VIVANT」が面白かったです。
何より面白いのが、日本にも国民には知られていない秘密諜報組織がある、という設定です。
国民に知られてはいけない存在ですから、実在するかどうか絶対に分からないわけです。
逆にいうと、勝手にあれこれ想像できる自由があって、ワクワクさせられます。
で、もし私が総理大臣ならVIVANTを何に使うか考えてみたのですが、答は絶対に一つ、
大臣候補者の身辺調査
です。
大臣予定者の金銭トラブル、女性問題、政治資金の不正、発言の不注意度などなど、堺雅人さんなら3時間もあれば調べてくれるでしょう。
総理大臣としては海外のテロリスト集団の動向よりもそっちの方が気になるはずです。
あ、「VIVANT」続編はその話でいきましょう。
国内勤務に就かされた主人公が大臣候補の議員の身辺調査を命じられます。
そうすると脱税、不正献金、スキャンダルが出るわ出るわ……。
「あんたら、よくこれで選挙通ったな」
堺雅人はつくづく呆れるのでした。
全然面白くないですねー。
(2023年10月30日)
前回分から続くのですが、テレビドラマにするならこう展開させるしかありません。
新米調査官の堺雅人は、スキャンダルの少なそうな議員の身辺調査を任されます。
一通りの調査ではクリーンだった議員ですが、よくよく調べてみると不審な動きがあります。
ピンと来た調査官がさらに捜査を進めると彼は何と、日本を揺るがす国家犯罪の首謀者なのでした!
……ですが、こういう話は小説でもドラマでも映画でも、あまりにも多いです。
今さら銀行頭取だろうが、警視総監だろうが、防衛庁長官だろうが、総理大臣だろうが、誰が黒幕でももう驚く人はいないでしょう。
映画の宣伝で「ここで疑惑が浮かび上がった。それはあっと驚く陰謀につながっていた」と書かれていても「どうせ黒幕は検事総長でしょ」と思ってしまうわけです。
現代日本では、読者や視聴者をあっと驚かせられる人はたった一人しかいません。
ドラマ化は絶対に不可能ですが。
(2023年11月1日)
]]>
何と8か月ぶりの更新です。
誰がどう見ても「ピアノをやめてしまったので気まずくなって更新できなくなったんだろう」と思いますよね。
実は、ピアノは続けております。
それにしても、つくづく思います。
下手くそで全然上達しないのに、毎日弾いても全然飽きない、本当に素敵な曲だと。
久しぶりなので曲名をもう一度書いておきましょう。
セルゲイ・ラフマニノフ作曲の「楽興(がっきょう)の時」第一番です。
(2023年4月19日)
(18)
このページの10小節間にまるまる一年間費やしました。
その結果たどりついた結論としては、
1)2〜9小節目の頭の音はアルペジオ、10小節目はアルペジオではない。
2)2〜9小節、丸々ペダルを踏むのはよろしくない。
じゃあどこからどこまで踏むかというと、こんな感じではないかと思われます。
基本的には小節の最後の音からアルペジオの最初の音までペダルでつなげます。
が、8小節目と9小節目は左の指が届かないので、下から2つ目の音までペダルを踏まなくてはなりません。
3)9小節目までは「mf」で、10小節目は「p」です。
つまりここで音楽を変えろということです。
とてもメランコリックなメロディーですが、9小節目まではまだ近くから響く感じです。
でも10小節目はずうーっと向こうの方で鈴が鳴る感じ。
半年前には「指が届かないので最初の音だけ別に鳴らす」と書きましたが、それでは鈴に聞こえないので真ん中のレのフラットをカットすることにしました。
それにしてもこんな記事、誰が読むのでしょう?
と疑問に思いつつ、この部分、まだ続きます。
(2023年4月21日)
(19)
ペダルが解決したとして、次に問題になるのが指使いです。
たとえば前回アップした譜面の2小節目と3小節目です。
2小節目は音の数と指の数が合うので問題ないのですが、3小節目はメロディを「2」の指から始めると指が足りません。
かといって、23234のように途中で指を変えると、メロディーが途切れてしまいます。
そこで大発明をしました!
ミのフラットからミのナチュラルにかけて指をずらすのです!
これだと旋律が途切れず、いい感じです。
この指使いはおそらく世界で初めての大発明だと思います。
(炎上しませんように)
(2023年5月10日)
前回の投稿からまたまた4か月が経ちました。
ラフマニノフは弾いています。
しかし一日に音符一個ずつ進むのがやっとのレベルの者にとっては「ラフマニノフが本当はどう書いたのか」が気になって仕方がありません。
だって必死で指に覚えさせたあとで「実はレはフラットじゃなくてナチュラルでした」と言われても対応できないので……。
ところでこの夏は本当に暑かったです(強引に話題を変える)。
今年も高校野球兵庫大会の決勝戦を観に行きましたが、笑ってしまうくらい暑かったです。
で、今年は高校野球連盟への風当たりもずいぶん強かったようです。
気温が1度上がると連盟へのクレームは100件増えるとか(嘘)。
連盟の人たちはクーラーの効いた部屋で「来年は冷夏だといいですな」としみじみ語りあっていることでしょう。
(2023年9月13日)
興味深かったのは、ある新聞記者の「甲子園球児たちはどう思っているのか?」という記事でした。
直接球児に訊いてみると彼らは試合中は暑さを感じていないのだそうです。
それより試合後の方が大変で、身体に熱がこもって夜も眠れないらしいです。
つまり「球児にとって甲子園は暑くない」という結論でした。
私にもよく経験があります。
激辛カレーを食べて、食べている時にはそうでもないのにあとでお腹が痛くなって、翌朝にはお尻が痛くなって……。
だから「辛くなかった」ということにはなりません。
むしろ逆です。
試合の夜、肉体的には疲労しきっているのに熱がこもって眠れない……。
本当は「甲子園は深刻なレベルで暑い」と結論づけるべき記事でした。
(2023年9月15日)
暑さに関しては笑い話では済まされない記事もありました。
新聞の投書欄です。
あるお年寄りの方が投稿していました。
「濡れタオルと扇風機を試してみたら涼しかった。いろいろ工夫してエアコンなしで頑張ろうと思っている」
記者は真っ先に投稿者に電話するべきでした。
「ごちゃごちゃ言わずにまずエアコンのスイッチを入れろ」と。
(2023年9月20日)
甲子園の暑さといえば、今までも何度か書いた話があります。
昔勤務医だった頃、当直中にべろんべろんに酔っぱらった年配の男性がやってきて「点滴を分けてくれ」と言うのです。
聞いてみると甲子園出場校のチームドクターなのだそうです。
球児たちは試合後点滴をするらしいのですが、想定以上の快進撃で勝ち進んだために、持ってきた点滴が底をついてしまった。
なのでとりあえず今日の分を貸してほしい、ということでした。
私は必要なだけの点滴を渡したのですが、今こんな話をSNSで書こうものなら大炎上しそうです。
「無診療投薬じゃないか」
「いち当直医にそんな権限はないはず」
「そのあと泥酔状態の医者が点滴をしたのか」
などなど。
いかに大昔の話でもコンプライアンス的に問題がありそうです。
そこでこの話は撤回して当直中に見た夢だったことにします。
何年の何県代表の何高校だったのか? などと詮索しないでください。
(2023年9月22日)
一方プロ野球では阪神タイガースとオリックスバファローズがそれぞれのリーグを制覇しました。
この時期になると聞こえてくるのが「大差での優勝ならクライマックスシリーズ(CS)をやめろ」という意見です。
ペナントレースの優勝チームが日本シリーズに出場できないなんて野球の面白さを損なう仕組みだ、という主張です。
しかしこういう意見を聞くと、「この人は本当に野球を見ている人なのだろうか」と思ってしまいます。
CSが存在しなければ優勝決定後はすべて消化試合です。
たとえばセ・リーグの場合、9月15日以降におこなわれる41試合がそうなります。
ところが今年の場合CS出場権を賭けた争いはシーズン最終戦までもつれこみそうです。
CSに関連しない消化試合は8試合となります。
実際昨年、広島カープは結果的に5位に終わりましたが、ファンは9月30日までどきどきさせてもらいました。
野球の面白さとは真剣勝負です。
そして真剣勝負が1試合でも多くなるような仕組みが「いい仕組み」だと思います。
「CSがあるから野球がつまらなくなった」などという人はきっと元から野球を見ていない人です。
(2023年9月25日)
慶応義塾高校の髪型に対する抗議電話とか、救急隊がコンビニでドリンクを買うのはよくないという投書とか、理不尽なクレームがよく話題になります。
もやもやするのは私だけでしょうか。
いや、クレームに対してではありません、クレームを受けた人の反応です。
「悔しかったからSNSに盛りまくって書き立ててやりました」という自虐ネタなら笑ってあげられます。
あるいは「いつまでも昭和ノスタルジーにひたっていろと反論してやった」という武勇伝だったらまだましでした。
でもたいていは「一方的に言われてつらかったです」みたいな、うなずけもしない、笑えもしない、要するにオチのない話です。
東京発のニュースでも関西ではしっかりオチをつけてから報道するようにマスコミ各社にはお願いしたいです。
(2023年9月27日)
福島第一原子力発電所の処理水海洋放出が始まり、これに対して中国が猛反発しているそうです。
日本政府はデータを挙げて説明を続けているようですが、かつて中国が他国の説得で考え方を変えたことなんてありましたっけ?
諸外国に向けて「日本は誠実に説得を続けている」という姿勢をアピールするのにはいいかもしれませんが、中国相手に有効だとはとても思えません。
ここは謙虚に教えを請うのがいいと思います。
核技術先進国にして環境問題の世界的リーダーの中国様、貴国の原発汚染物質処理排出方法についてご教示ください!
視察団を派遣して中国の原発と周辺環境を見学させてもらいましょうよ。
ぜひ他の国も誘って素晴らしい処理技術を見せてもらいましょう!
中国さん、まさか断ったりはしないですよね?
(2023年9月29日)
]]>あきらめて投げ出したと思っている人も多いと思いますが、実は続けております。
ただし、前向きに進んではいません。
最初の音をぼろろんと弾いて、それをペダルを踏んで響かせて、右手のメロディを弾く。
この時ペダルを踏みっぱなしだと
このあたりがひどく濁ります。
この濁りも味わいなのかもしれませんが、濁るのは確かです。
さらに大きな問題があります……。
(2022年8月19日)
我が家のピアノは全然メンテナンスしていないので、ペダルを踏むときゅーきゅーいうのです。
かなり聞き苦しいです。
そこで「いっそのことペダルを踏まないで弾こう」と考えました。
普通は「メンテナンスしよう」と考えるのかもしれませんが、なぜかそう考えてしまいました。
いますよね、「考え方の順序が違うだろ」って人。
そんな感じです。
で、ペダルなしでこのフレーズが演奏可能かどうかですが。
最初の小節の場合、左手の3つの音は1拍分伸ばせばそれっぽく聞こえます。
そして右手は一番上の白玉(レのフラット)さえ伸ばしておけば、響き続けているように聞こえます。
というわけで白玉の一番上を右手の親指で弾き、その指を押さえたままメロディの最初の音を弾けばそれなりに聞こえます。
文章だけで書くと何を言っているかよく分からないかもしれません。
要約すると「どうでもいい所で意味不明な労力を費やしてみた」ということです。
(2022年8月22日)
まずペダルありの演奏です。
楽譜の指示通り小節の最初から最後までペダルを踏んでおくつもりでしたが、足を離してしまった小節もあります。
この演奏では分かりにくいかもしれませんが、音が結構濁っているのでしょう。
周囲のネコが暴れて、最後には抗議の泣き声を上げております。
(2022年8月24日)
次にペダルをまったく踏まないバージョンです。
素人が弾く分にはこれでもいいような気もします。
でも正直こんなことをやっていたら全曲弾きとおすのはいつになるのやら。
そこで大人しく調律師さんに頼んで調整してもらいました(最初っからそうしろよ、って感じですが)。
(2022年8月26日)
というわけで調律師さんに来てもらいました。
超久しぶりの調律だったので1時間以上かかりました。
最後に「ペダルを踏むときゅーきゅーいうんですが」と言ったら、「ここに油を差しといてください」というお答えでした。
ずっこけそうになりましたが、言われたとおり油を差すと雑音はしなくなりました。
そうするとペダルを踏んでも、いろんなことがあまり気にならなくなりました。
結論としては「細かいことは気にせずにペダルはてきとーに踏もう」ということでした。
最後にペダルをてきとーに踏んだバージョンです。
いつまでもこの10小節にこだわっているわけにもいかないので、そろそろ次のパートに進みましょう。
ちなみにネコにはちゃんと餌をやっております。
(2022年8月29日)
]]>
黒いのが2匹です。
一方がメスで一方がオスですが、現時点でどっちがどっちかはよく分かりません。
(2022年7月1日)
政府はマイナンバーカードと保険証を紐づけようという方針のようです。
昔は保険証の確認は月に1回で大丈夫でしたが、就労の流動化が進んでそれでは追いつかなくなってきました。
皆さんどんどん転職されるので、その都度紙の保険証を作り直すのも大変です。
もはや紙の保険証制度は限界に来ています。
ただし、マイナンバーカードと保険証の紐づけが100%喜ばしいかと言われると複雑です。
複数の病院で同じ薬を処方していると、今後重複分はカットされることになるでしょう。
「その薬は前の日に●●病院で処方されています。あなたが処方した分は保険適応外となります」とばっさり切られると思います。
薬代は全額持ち出しとなって、しかもレジで受け取った3割分を返金しなくてはなりません。
薬代よりも深刻なのは診察代に含まれている「ナントカ管理料」というおまけです。
これも今後は重複が許されなくなるのではないでしょうか。
私の大雑把な計算では、紐づけが進むと開業医の売り上げは半分くらいになってしまうでしょう。
国民の一人としてはマイナンバーカードの活用によって医療費を大幅に減らすべきだと思います。
でもまだまだ大勢の人が反対してくれているので内心はちょっとホッとしている、というのが正直なところです。
(2022年7月4日)
先日ある会議の議事録作成係をおおせつかりました。
2時間の録音を文字に起こしたのですがなかなか興味深かったです。
まず、ほとんどの人が発言の最初に同じことを二度繰り返します。
本人は少し言い回しを変えて、具体例を交えて、より分かりやすく繰り返したつもりなのでしょうが、文字で見ると全く同じ文章です(私の発言もそうでした)。
それから最初の20秒で結論を言わない人はその後の5分間でも結論を言ってくれません。
さらにさらに、実は私は「〜かな」という言い方が好きではありません。
「やり方を変えた方が上手くいくかな、と思いました」という風な。
でも私も含めてみんなががんがん「かなかな」言ってました。
「かな」は好き嫌いの問題なのでどうでもいいですが、もし会議をテンポアップしたければ発言は一人1回20秒までにするのがいいと思いました。
(2022年7月8日)
さて国民の7割の人は興味がないと思いますが、そろそろプロ野球オールスターの季節です。
毎回言っていますが選手間投票で選ばれた人こそが真の「オールスター」だと思います。
そのメンバーに先発の栄誉を与えて、途中からファン投票選出の選手を出していくべきだと思います(ジャイアンツの大勢選手も含めて)。
でも基本的には割とどうでもいいです。
今年、わが広島カープにはオールスターに出しても恥ずかしくない成績の選手がいないので。
しかも交流戦のせいで「どうしてもオールスターで見たい」対戦が減ってしまいました。
今年の場合まだ実現していない対戦は「佐々木VS村上」「青柳VS山川」くらいじゃないでしょうか。
それよりも「ペナントレースでもオールスターでも見られない、でも見たい」のは同チーム選手同士の対戦です。
と言いながらこれもすぐ思いつくのは「菅野VS坂本」とか「山本VS吉田」とか他のチームばかりです。
カープ内でわくわくする対戦があるかと考えてみましたが、あんまり思い浮かびません。
そんなこんなで今年もあんまり個人的に盛り上がらないオールスターなのでした。
(2022年7月11日)
今年のオールスターは盛り上がらない、などと書きましたが、よく考えてみるとここ最近私はオールスターを全然見てないのでした。
オールスターで盛り上がった最後は川藤の代打ヒットで、その前は山本浩二、衣笠祥雄の二打席連続ホームランです。
よくいますね、「最近の日本映画は面白くない」などと言う人。
その人に訊いてみたいです。
「じゃあ、いつのどの映画が面白かったですか?」
「『一蘭』や『しゃからしか』で博多ラーメンを食べたような気になるな」と言う人もいます。
でも「じゃあ、博多で『一蘭』よりも美味しい店を教えて」と頼むと「いくらでもある」と言うばかりで店名をずばり答えてくれません。
「今の〇〇はつまらない」「本場にはもっと美味しい店がいっぱいある」という言葉を相手にしてはいけないと分かっているはずなのに、ついつい自分で使ってしまいました。
すみません。
というわけで前回の記事は訂正します。
「私は見れないのですが、今年のオールスターゲームもきっとそれなりに盛り上がると思います。」
(2022年7月13日)
元首相の国葬への反対意見があるのにびっくりしました。
国葬は吉田茂元首相の時に一度行われたことがあるそうです。
年表を見ると、吉田氏は韓国が竹島を侵略した時の首相です。
北方領土問題も放置した可能性があります。
しっかりと検証してほしいですが、「もっとも国葬に適さなかった首相経験者」だった疑いがあります。
それならば今回の元首相にも十分資格があります。
しかも国葬の定義はありません。
決まっているのは「国費を使う」という部分だけのようです。
これは逆に言うと、黒字になれば国費に充填できるという意味です。
元首相の死に深い哀悼の気持ちを抱いている人は多い。
かなりの寄付金が見込めます。
「桜を見る会」に参加したことのある人は絶対5万円以上は寄付してくれるでしょう。
重複はあるとしても政権下での会の参加者は10万人近くいます。
それだけで50億。
イベントを取り仕切るのが仮にかなりの悪徳プロモーターで、相当ぼったくられても数十億の国庫収入が見込まれます。
反対する理由はないと思います。
(2022年7月15日)
というわけで基準は「10億円以上の国庫収入が見込まれる場合は国葬の名前を使ってもよい」でいいと思います。
むしろ怒るべきなのは山口県民です。
「どうして東京でするんだ!」
最低20万人規模の大イベントです。
これをみすみす東京に取られて何とも思わないのでしょうか?
下関の会場で19時から開催すれば、出席者はその日のうちに東京に戻ることはできません。
北九州、博多、広島に移動する人もいるでしょうが、かなりの人数が山口県内に宿泊するでしょう。
ざっと見積もっても数十億円が地元に落ちるはずだったのに。
元首相は地元への利益誘導で票を集めるタイプの政治家ではなかったように思います(私の印象ですが)。
しかし最後くらいこの程度の利益誘導は許されるのではないでしょうか。
(2022年7月20日)
若い人は回らない寿司が食べられない、という話を聞いた事があります。
考えてみれば高級寿司屋ではたいてい中高年男性が素手で寿司を握っています。若い人が「これはちょっと……」と尻込みしてしまう気持ちもよく分かります。
そこで何人かに「誰が握ったおにぎりなら食べられるか?」と訊ねてみました。
会社で隣の席の人が「子どもの弁当用に握ったんだけど作りすぎたから」と持ってきてくれた場合。
誰かの家に食事に招かれて、最後に「少しご飯が余ったからおにぎりにした」と出してくれた場合。
彼、彼女とピクニックに行って出されたのが直接手で握ったおにぎりだった場合。
お弁当のために親がおにぎりを作ってくれた場合
いずれもラップで巻いていない、一見して素手で握ったのが分かる格好のおにぎりです。
答えは「誰が握ろうと、いや」というものでした。
おにぎりの概念がこの数十年でがらりと変わってしまいました。
今は「ええっ、おにぎりを手で握るの?」という時代のようです。
(2022年7月22日)
それと関連するようなしないような話です。
介護を受ける立場になった時、もっとはっきり言うと下の世話を受けなくてはならなくなった時、誰になら任せられるでしょうか。
日本の「家」の考え方に従うなら「家族」と答えるべきかもしれません。私は、血がつながってようとなかろうと、見知った人に介護されるのはいやです。
縁もゆかりもないその道のプロの世話になりたいです。
でもこれだけ言うのでも、今の日本では結構勇気が要ります。
(2022年7月25日)
今の日本で「親族の介護を受ける気はないし、介護するつもりもない」と言える人がどれだけいるでしょうか。
家族や地域社会からの圧力は強力です。
それに私たちの多くは「介護は身内がするもの」という価値観の世代に教育されてきました。
「あんたが看んで誰が看るんじゃ」と言われたらたいていの人はうなずいてしまうと思います。そしてそれが自分の意思であると解釈されてしまうのです。
そこでおこなわれるのは素人による効率の悪い、非合理的な介護。時には医学的に誤った処置がまかり通ったりします。一方介護する側は本来やりたかったことをする時間と気力を奪われてしまいます。介護を受ける方、与える方、そこに二重の非効率と損失が生まれるわけです。
(2022年7月27日)
「◯◯さん、いざという時は私たちの世話をよろしくね」
「はい、分かりました(言い終わるなり介護施設に電話する)」
というのが理想の家族像です。
家族が胸を押さえて苦しがっている時に救急車への電話をためらう人はいません。
身内の誰かが一人で身の回りのことができなくなったら、迷うことなくプロの助言を求めるべきです。
「介護はプロの仕事」
小学生の頃からしっかりそう教育してほしいです。
(2022年7月29日)
この間、高校野球兵庫県大会の決勝戦の応援に行ってきました。
時間の都合で最後までは見届けられなかったのですが、見ごたえのある熱戦でした。
(7月28日延長14回社6−3神戸国際大附)
写真では一見爽やかそうです。
実際は死ぬほどの暑さでした。
(2022年8月1日)
この暑さが夢をかなえるための試練としてふさわしいかどうかは本人が判断することです。
外部の人間がごちゃごちゃ言うべきではないかもしれません。
その代わり、内部の人間がしっかり若い人たちの判断の手助けをするべきです。
本当にその試練が必要なのか、必要だとしても健康を損ねる可能性はないのか。
提案です。
ファールグラウンドに椅子を並べて大会役員は試合中ずっとそこに座ってもらいましょう。
「ずっと立て」とは言いません。座ってもいいですから、炎天下の暑さを選手とともに味わってもらいましょう。
万が一「これはちょっと暑いわ」と思ったら開催時季を変えてください。
(2022年8月3日)
で、甲子園です。
コロナ禍で大会が中止になった年にドームをつけるべきだったと私は思っているのですが、賛成してくれる人は少ないです。
多くの人が「高校野球は暑い中、甲子園でするべき」と言います。
でも「甲子園」なんてたかが記号だし(されど記号ではありますが)、そもそも全国大会に出場できるのはごく一部の学校だけだし、球児たち本人はそれほど甲子園にこだわってないのではないかと、私は勝手に思っています。
それに高校球児は従順な子が多いし、「今年の甲子園は京セラドームだ」と言われても「ふーん」くらいの反応じゃないでしょうか(あくまでも想像)。
そもそも観客が甲子園を聖地と思っているかどうかが疑問です。
(2022年8月5日)
ずいぶん古い話を蒸し返します。
以前甲子園に行った時、作新学院のファンのマナーはそれはひどいものでした。
さんざん飲み食いして、その残骸をそのまま置いて帰っていきました。
次の試合もあって、別の学校のファンがそこに座るのを分かっている上でのその振る舞いです。
少なくとも作新ファンにとっては甲子園は聖地ではないということです。
(2022年8月8日)
まずこのオフで客席部分に屋根をつけましょう。
そして毎年ちょっとずつひさしを伸ばしていきます、
私の計算では毎年5メートルずつ伸ばせば10年でグランド全体が覆われます。
これならおそらく誰も気づかないと思います。
20年後くらいにはこんな会話がかわされるのではないでしょうか。
「やっぱり高校野球は夏の炎天下で甲子園でやってこそだよなあ」
「甲子園は10年前にドームになったけど?」
(2022年8月17日)
]]>いじめでも体罰でも、被害者が否定したからといって終わりにしてはいけない、ということです。
ではどうすればいいのでしょう?
学校のあらゆる場所にカメラを置いて外部の人から見えるようにしてはどうでしょうか。
忙しい間を縫って画面を見てくれる人がきっといるはずです。
その人が「これは体罰だ」あるいは「これはいじめだ」と感じたらすぐに暴力対策センターに通報するのです。
その画像を保護者代表、教員代表、生徒代表、地域住民代表に見せて多数決で判断してもらいましょう。
直接関係する教師、校長、加害者、被害者を判断の場に加わらせてはだめです。
一番肝心なのは「はたから体罰(いじめ)のように見えたらそれは体罰(いじめ)」と全ての人が理解することだと思います。
(2022年6月1日)
あと何とかしてほしいのはテレビ番組での罰ゲームです。
ゲームやクイズでタレントたちに勝敗を競わせる番組がたくさんあります。
そこに登場する罰ゲームを大至急見直した方がいいと思います。
何かで叩いたり水を浴びせたり肉体的苦痛を伴うものが多いです。
いじめにつながるからそういうのはやめましょう、という理由で主張する人がいます。
でももっと単純なはずです。
人が痛がっているのを見て喜ぶ人間は少ない。
テレビ関係者がもし「面白いんだけどいじめにつながるからやめろってさ」と考えてるのなら業界脳に侵されてます。
人に苦痛を与える罰ゲームなんてまともな人間には不愉快なだけです。
柔軟な発想ができる若いテレビ人の皆さん、画期的な罰ゲームを早く発明してください。
(2022年6月3日)
ここまで書いて思ったのですが、罰ゲームっていったい何でしょう?
ショパンコンクールにもオリンピックにも罰ゲームなんてありません。
そこまでシビアでなくても「SASUKE」や「東大クイズ王」にも罰ゲームはありません。
考えてみれば罰ゲームがあるのはお笑い芸人とアイドルと放送作家がぬるーく参加している番組だけでした。
自分たちもそのぬるさが気になったからこそ「罰ゲームを加えよう」という発想が生まれたのだと思います。
でも根本的に間違った料理は、どのように調味料を足しても不味くなるだけです
若い人たち、すみません、罰ゲームを刷新しろと言いましたが間違っていました。
罰ゲームを必要とする番組自体が駄目なのです。
「罰ゲームで盛り上げよう」と誰かが言ったなら、その企画そのものをボツにした方がましです。
(2022年6月6日)
昨年このコラムで「野球中継するなら最後までするように義務づけろ」と書きました。
テレビ局の事情はそれなりに分かっているつもりでした。つまり……、
21時にはどの局も最高視聴率が取れる番組をぶつけてきています。
今やジャイアンツ戦でも一桁視聴率の時代です。
しかも野球ファンと、21時からのバラエティ、ドラマの視聴者層はほとんど重なりません。
野球中継なんかとっとと打ち切って高視聴率番組を通常通り始めたい、というのがテレビ局の本音でしょう。
と、そこまで考えると不思議に思えてきました。
そもそもどうしてテレビ局は、大して視聴率も取れない、中継が切れても延びても非難を浴びる、雨天中止ならゴールデンタイムの2時間がパーになる、そういう不良コンテンツをわざわざ流しているのでしょう?
(2022年6月8日)
以下完全に私の妄想です。
根拠も何もありませんので居酒屋などで「実はここだけの話……」などと吹聴しないでください。
今年は阪神戦の地上波放送回数が多いと思います(根拠なし)。
テレビ局は、今年もタイガースが大活躍してクライマックスシリーズ、日本シリーズ進出間違いなしと予測したに違いありません(勝手な想像)。
しかしクライマックスシリーズ、日本シリーズの放映権は単独では売ってくれません(無責任な空想)。
仕方なくシーズン中のその他の試合と抱き合わせで買わざるをえなかったのでしょう(完全な憶測)。
きっとテレビ局はいやいや中継しているのだと思います(これは当たっているかも)。
とすると、毎日放送や読売テレビは無理に中継するのをやめて割安で放映権をサンテレビに転売すればいいと思います(おいおい)。
その枠で野球中継よりも視聴率の取れる番組を流せるのですから、逆にお金を払ってでもサンテレビに渡した方が得かもしれません(これはひどい)。
というわけで朝日放送以外の在版テレビ局は野球中継を全部サンテレビに譲りましょう(これは実際その方がいいと思います)!
(2022年6月10日)
ところで現時点での阪神タイガースの抑えのエース岩崎投手ですが、中継を見ていると時々「イワサキ」と呼ばれています。
アナウンサーによっては「サ」と「ザ」の中間みたいな発音でごまかしたりします。
そこでタイガースとカープの「サキ」「ザキ」問題をここで一気に解決させましょう!
と思ったのですが、調べてみると関連するのはこの3人だけでした。
阪神13 岩崎 優(イワザキ・スグル)
広島21 中? 翔太(ナカザキ・ショウタ)
広島41 矢崎 拓也(ヤサキ・タクヤ)
「サキはヤサキだけ」と覚えておきましょう。
(2022年6月13日)
いつの間にか、水は買って飲むものだ、と刷り込まれてしまいました。
近いうちに「スポーツ中継は有料放送で観るものだ」と刷り込まれそうです。
その流れに抵抗しているのがカープです。
日本プロ野球12球団で唯一カープの主催試合だけがDAZNで観ることができません。
地元の地上波局を守りたいという姿勢は分かります。
たとえばタイガースも同じ考えからDAZNでの配信をリアリタイムから5分ほど遅らせています。
これなら地上波が観られる人は地上波での観戦を選ぶでしょう。
何なら30分遅れでもいいです、カープもDAZNで観られるようにしてほしいものです。
(2022年6月15日)
そういえばかなり昔の話ですが、本場のアメリカンフットボールの試合は地元の地上波では放送されなかったそうです。
試合を観たいならスタジアムで観ろ、という考え方で、チケットがソールドアウトになった場合のみ放送されたとか。
カープの地元地上波局を守りたいという気持ちは分かります。
DAZNよりも地上波テレビ局を大切にしたいのですね。
その序列は分かりました。
次に、スタジアムで観るファン、地上波が観られる地元ファン、DAZNに頼るしかない遠方のファン、その三者の序列をどう考えているか知りたいです。
(2022年6月17日)
気になる情報があるとWEBで調べます。
一度検索すると関連商品の広告ががんがんパソコン画面に表示されます。
ピントはずれのことも多いですが、不特定多数向けに無差別に広告を打つよりも効率がいいのは確かです。
テレビ局に支払われる広告料は今後も下がる一方でしょう。
テレビで流されるコマーシャルは「不特定多数向けの無差別広告に流されやすい人」向けの広告ばかりになります。
番組自体も「不特定多数向けの無差別広告に流されやすい人」向けの内容になっていくでしょう。詳しくは説明しませんが、そういう人が喜ぶレベルになっていくわけです。
時々最近のテレビは面白くないと言う人がいます。
尊敬します。
調味料やパスタソースを買う時ついついコマーシャルで耳にしたことのあるブランドを選んでしまう私のような人間にはとても言えないことです。
だってテレビ局はわざわざ私のレベルに合った番組を流してくれているのですから。
(2022年6月20日)
法律上同性婚を認めないのは違憲ではないという判決が下されました。
この分かりにくい二重否定文を書き直すと、「憲法は同性婚を認めていない」ということです。
憲法24条には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると書かれています。
ここに「両性」という表現が使われている以上、この判決は仕方がありません。
どう解釈しようと深読みしようと、同性婚を合憲とするのは無理です。
不思議なのは「じゃあ憲法を変えましょう」という議論が起きないところです。
9条を変えたがっている人たちがいます。
「ついでに24条もよろしく(ハートマーク)」という人たちがいてもいいと思うのですが。
「9条を変えるために改憲しやすくしよう、でも24条には絶対手をつけるもんか」と考える人たちがいて、「24条は時代遅れの条文だけど手直しするくらいなら死んだ方がまし」と考える人たちがいる。
「この際、古臭い条文を全部見直そうよ」という人はいないのでしょうか?
(2022年6月22日)
尼崎市のUSBメモリー紛失事件です。
問題の社員は外部メモリーを持ったまま飲みに行って、しかも道端で寝てしまったそうです。
本当なら激しく突っ込みたいところですが、酔っ払って何度か電車で寝過ごしたことのある私にその資格はなさそうです。
今時クラウドを介さず外部メモリーでデータのやり取りをしていたところを疑問視する人もいます。
でも時代遅れの私には、大切なコンピューターをネットにつなぐ方が怖いようにも思えます。
この事件について一番よく分からないのに誰も教えてくれないのが「尼崎のコールセンターって吹田にあるの?」というところです。
民間企業のコールセンターの多くが実は沖縄にある、というのはよく聞く話です。
自治体のコールセンターだって別の場所にあってもいいと思います。
なので決してそこを責めたりはしません。
で、こっそり教えてほしいです。
吹田のコールセンターが他にどこの自治体を請け負っているのか。
(2022年6月24日)
うちの3歳のネコを見ていると意味不明に鳴きわめいて、意味不明に走り回って、意味不明に暴れています。
で、20歳頃の自分を振り返ってみると自制心とか理性とか、まあ3歳のネコ並だったと思います。
それを思えば今の若い人たちはすごいです。
出歩くなと言われて、この2年間ちゃんと自制していたのですから。
今年のノーベル平和賞はぜひ日本の若者たちにあげて欲しいです。
(2022年6月27日)
それとは別に15歳のネコもいて。
来たばかりの頃はロシアのプーチン大統領にそっくりで、しかもとっても悪かったので「ネコプーチンワルワルディ」という名前でした。
今は落ち着いてすっかり好好爺です。
名前も「ネコでぃ」になりました。
人間の方のプーチンも早く好好爺になればいいのに、というお話でした。
(2022年6月29日)
]]>
ミステリが好きで、中でも日本の警察ものが好きです。
その中では「シャブ」という言葉はいっぱい出てきます。
勤務医時代、救急外来で覚醒剤中毒患者を見たこともあります。
しかし私は覚醒剤をシャブとは呼びません。
私程度の距離感では覚醒剤をシャブとは呼ばないと思います。
オーケストラで「マーラーの交響曲第5番」を「マラ5」と呼ぶことはあります。
でもオーケストラ関係者以外との会話で「マラ5」などという符丁を使うことは絶対にありません。
今回のニュースに接してまず思ったのは「日常生活でシャブという言葉を普通に使う人がいるんだ」ということでした。
ウケ狙いだろうと何だろうと部外者に対して「シャブ」という言葉がすっと出てくる異常性。その点に関して私の知る限り、テレビのコメンテーターでも指摘した人はいないと思います。
テレビ業界と覚醒剤の距離は、私たちの世界よりはるかに近いみたいです。
(2022年4月20日)
問題の講師はマーケティングの専門家です。
どの客層にはどういう宣伝がウケるか、その判断に長けているプロです。
彼は講演会会場に入ってきてまず会場内を見まわしました。
受講生を見ました。
そして彼はこう考えたわけです。
この客たちならこういう表現がウケるに違いない、と。
受講者はどんな顔をして座っていたのでしょう?
講師にそう思わせるような受講者たちってどんな人たちだったのでしょう?
目を血走らせてギラギラして、目的のためには手段を選ばなさそうに見えたのでしょうか?
そうでなかったとすれば受講生はもっと怒るべきです。
発言の内容が差別的だとか、そういう問題ではなく「自分もそんなやつだと思われたんだ」という点に腹を立てるべきだと思います。
(2022年4月22日)
例の発言があった時に会場からは笑い声も上がったらしいです。
でもそれについては私には責める資格はありません。
大昔、女性専用車両が導入された時に、飲み会の席で私の知人が言いました。
「じゃあ一般車両に乗っている女には痴漢してもいいんだな」
その場が凍りつきました。
しかし私はそれをとがめることはできませんでした。
ひきつった笑顔を浮かべていただけだったと思います。
そして今後も同じような状況になった時に、勇気をもった正しい対応を取る自信はありません。
(2022年4月25日)
私が戦争を恐れる最大の理由はそれです。
今回のロシア侵攻で「駅のロシア語表記が不愉快だから取り外せ」とクレームをつけてきた人がいたらしいです。
直接戦争している相手でもないのにこれです。
戦争が始まったとしたら当然のように「敵国人をとっちめろ」という声が沸き上がるでしょう。
私はその時にみんなの前に立ちはだかることができるでしょうか?
私は高い確率で卑劣な対応を取ると思います。
戦争の何がいやといって、自分が下劣な態度を取ってしまいそうなのが一番いやです。
(2022年4月27日)
私は吉野家の牛丼が好きです。
「肉だく牛丼のアタマの大盛つゆだくご飯軽め生卵追加」が私の定番オーダーです。
今回の騒動で謎なのは作り手の声が聞こえてこなかったことです。
マーケティングの担当者の言葉は、平たく言うと「舌の肥えた人は吉野家なんて食べない」という意味です。
入社以来苦楽をともにしてきた仲間が身内の宴会で「どうせ若い女性は吉野家なんて食べないよな」と言ったのなら自虐的ギャグで済まされたでしょう。
でもこの人は違います。
商品開発も材料調達も、もちろん実店舗での調理接客も経験せずにマーケティングのトップにヘッドハンティングされた人です。
金を払って食べた客に言われるのならともかく、何でお前みたいなやつに「うちの商品は不味い」と言われないといけないんだ、そう社内の人は思わなかったのでしょうか?
もしかして社内の人も吉野家は不味いと思ってたりして?
私は美味しいと思うんですけどねえ。
(2022年5月6日)
中の人と言えば……、
呉市の市議会議員がマスク着用を拒否して押し問答となり、飛行機の離陸が1時間14分遅れたというニュースがありました。
マスク強制に反対するのは勝手ですが、乗客を人質に取った状況での自説主張は私にはテロと同等の行為に思えます。
気になるのはこの人物を議員に選んだ呉市民の反応です。
2019年の選挙で定員32名にたいして34人が立候補し、件の議員は下から3番目の得票数で当選しています。
得票数は2,012票。
マスコミには彼に票を投じた呉市民の意見を取り上げてほしかったです。
「いいぞ、もっとやれ」と応援しているのか、「次は絶対に入れない」と投票を悔やんでいるのか知りたいです。
それから彼が地元の店や交通機関でもマスクを拒んでいるのかも調べて欲しかったです。
テレビに出てくる法律専門家はどうせどっちつかずのことしか言いません。
彼らのコメントを流す暇があれば現地に行って彼に投票した2千人のうちの一人でも二人でも探し出してほしかったです。
(2022年5月9日)
社会全体としては今後マスク非着用に向かって進んでいくでしょう。
が、当面松本胃腸科クリニック受診の際にはマスクの着用をお願いします。持っていない方は隣のローソンか当院でご購入ください。
何かの陰謀論に洗脳されてマスク着用を拒絶している方も当院は診察いたします。
どうぞ時間外の受診をご予約ください。
よろしくお願いします。
呉市の谷本誠一議員のような人もいるので念のため書きます。この場合の「お願いします」は絶対必要条件です。
もう一度言いますが、よろしくお願いします。
(2022年5月11日)
診察室の中ではマスクははずしても結構です。
顔色や肌の具合は大切な診断材料です。
そもそもマスクをしていては喉も見れませんし、胃の内視鏡もできません。
この2年間は、感染予防のために正診率を犠牲にしていたのでした。
リモート診療や長期処方の容認など、その流れはさらに加速されます。
その流れがいいか悪いかは利用する人次第です。
「毎月薬だけもらっている」という人は新しいシステムを上手く利用した方がいいと思います。
「毎回血糖値を測り、それにもとづいて細かな食事指導を受けて、薬もそのつど変わる」という人はリモートも長期処方も無理です。
毎月病院にかかっている人は自分がどちらのタイプなのかよく考えてみましょう。
(2022年5月13日)
変わっているのは医療だけではありません。
暴力に対する考え方も急速に変わっています。
先日のアカデミー賞の授賞式でのウィル・スミスの暴力事件です。
私の想像とは違ってアメリカのメディアは「いかなる理由があろうと暴力は絶対にだめ」という論調でした。
国家としてのアメリカがこれまでやってきた行為との整合性は置いておいて、これがこれからの考え方なのでしょう。
「それに比べて日本は」という言い方は大嫌いなので使いませんが、この間テレビコマーシャルを見ていてびっくりしました。
お笑いコンビ「錦鯉」の右の人が左の人の頭をばんばんはたきまくるのです。漫才のネタではなく、コマーシャルでですよ。
ぞっとしました。
(2022年5月16日)
大昔、フジテレビの「プロ野球珍プレー好プレー」という番組がありました。その中で試合前の円陣で中田翔選手が同僚選手にビンタするシーンが流れました。合成の笑い声をかぶせて面白おかしく放送されました。
吐き気がしたのを覚えています。
問題なのは、その時から状況が少しも変わっていないことです。
中田選手は昨年も暴力事件を起こしましたがジャイアンツに移籍して何事もなかったように試合に出続けています。
プロ野球界が暴力にずぶずぶにつかっているということです。
その後の様々なニュースで暴力行為が蔓延しているのが野球だけでないのが明らかになりました。
日本プロ野球機構は強い姿勢を示して他の競技を脱暴力に導いてほしいものです。
球界の盟主ジャイアンツはまず範を垂れて、今年のクライマックスシリーズ出場を辞退してはどうでしょう。
そうすれば豆鉄砲打線のカープがもしかしたら……、あ、いや、何でもありません。
(2022年5月18日)
虐待を受けている子どもは虐待されていることを認めません。
子どもは親の愛情を信じて初めて生きていくことができます。
この痛みは親に愛されている証拠なんだ、子どもはそう思い込まないと生きていけないのです。
時々「自分は野球部の監督に殴られたからこそ立派な大人になれた」と言う大人がいます。
暴力を愛情の表現と解釈することによって自分の存在意義を保とうとしているわけです。
本人は立派な大人のつもりかもしれませんが、心理学的には子どもと同じです。
「つらい時にはおしゃぶりをくわえている」と言っているのも同然で、聞いていてちょっと恥ずかしくなります。
立派な大人として許される最低ラインの発言は
先輩には殴られた、でも後輩を殴らなった
です。
(2022年5月20日)
というわけで体罰を受けて育ってきた大人に現状を変えることはできません。
変えることができるのは若者だけだと思います。
実際、先日のサッカー名門校での暴力事件が明らかになったのは生徒が撮影した動画のおかげでした。
監督は二つの意味で今の時代に乗り遅れていました。
今の時代とはまず、「もはや体罰は許されない」、
もう一つは「誰でもいつでも録音録画ができる」。
(2022年5月23日)
と言いながら、私もついていけないのが「今の時代、誰でもいつでも録音録画できる」というところです。
ほんの数年前まで、飲食店で料理の写真を撮影するのは大変敷居の高い行為でした。
当初は店の人よりも、周りの客からの抵抗感が強かったと思います。
他の客からのクレームで撮影禁止にいたった店もありました。
それがほんの数年で変わってしまいました。
今や料理の写真を撮るのに店の人の許可を求める人などいません。
それでは飲食店以外ではどうでしょう?
たとえば電車の中で迷惑行為をしている人を撮るのはいいのか。
いちゃいちゃしているカップルを録画するのはいいのか。
可愛い女の子を隠し撮りするのはいいのか。
これらについてはいろんな考え方があると思います。
でも10年前を思い出してください。
誰も彼もが遠慮なく料理の写真を撮りまくる時代が来るなんて誰が想像していたでしょう?
ということは公共の場での無断撮影が10年後どういう扱いになっているかも誰にも分からないということです。
言えるのは「公の場では撮られていると思え」ということだけです。
(2022年5月25日)
それでは病院での診察室での会話の録音録画はどうでしょう?
10年位前の料理写真と同じような位置づけでいいのではないでしょうか。
録音してもいい、でもあらかじめその旨伝えてほしい
というのが2022年時点での穏当なラインだと思います。
当クリニックもそれに従います。
録音したい場合はどうぞあらかじめお教えください。
緊張していっぱい噛んでしまうかもしれませんが。
(2022年5月27日)
もし診察時に録音したいと言われたら医者は診察態度を変えるでしょうか?
以下これは自分への覚書です。
もし録音されるなら、説明の仕方に気をつけなくてはなりません。
普段なら
「どうしても薬を飲まないといけないですか?」
と質問されたら
「すぐにタバコをやめて、塩分を控えて、毎日10キロ歩くのなら、薬を飲まなくていいです」
といった答え方をします。
でもそれだと音声データを切り取られやすいです。
「薬を飲まないといけないですか?」
「飲まなくていいです」
こういう風に編集することも可能です。
なのでこういう言い方をするように注意しなくてはなりません。
「飲まないとダメです」
その他「大丈夫」「心配ありません」などの表現も厳禁です。
全体として冷たい印象の診察になるかもしれません。
(2022年5月30日)
]]>皆様いかがお過ごしでしょうか。
今年も恒例お正月清掃ハイクに行ってきました。
今年のゴミはハンカチと未開封のポケットティッシュだけでした。
ゴミというよりも落とし物ですね。
風吹岩の登山客は皆さんマナーがよろしいようです。
いつものお友達も寒そうですが、まあ元気そうでした。
(2022年1月5日)
初詣にも行ってきました。
ご利益がありそうです。
(2022年1月7日)
最近通勤の途中で若い女性二人組とよくすれ違います。
彼女たちは毎朝歩きながらパンやコロッケを美味しそうに食べています。
こういう光景を見ると本当にうらやましく思います。
だって私の場合、歩きながら食べたくなるほどお腹が空くことがなくなりました。
若い人はそんなにお腹が空くんだ、とつくづくうらやましいです。
思い出してみれば私も昼休みにラーメン屋を2軒はしごしたりもしていました。
さらにさかのぼれば高校生の頃は昼休みまで我慢しきれず3時間目のあとに弁当を食べたりしていました。
でも今は昼にラーメンを1杯(しかも普通盛)食べればその日一日食べなくても平気です。
電車の中でおにぎりを食べている人を見て眉をひそめる人もいるらしいです。
でも私はただ単純にうらやましいです。
(2022年3月25日)
そういう低燃費体質になってしまうと、医者や健康本の「健康のために一日三食規則正しく食べましょう」という主張が大ウソであることがよく分かります。
現実に、食べた方が調子が悪くなるのですから。
血圧やコレステロールの値にはきっちりとした基準があります。
リラックスした状態で血圧の上が150以上なら絶対に薬を飲むべきです。
でも食事や便通の回数はそれとは別です。
一人一人にその人なりのベストなリズムがあります。
1日1回の食事がベストの人もいれば、1週間に一度のお通じでも全然問題ない人もいます。
健康本に振り回される前にまず自分のお腹とよーく相談してみることをお勧めします。
(2022年3月28日)
でも十把一絡げが大好きな人が多いのも確かです。
新型コロナ騒動でもそうでした。
そもそもコロナウイルスは風邪の原因ウイルスです。
それが突然、病原性が高く、感染力も強い変異種があらわれて全世界を席捲しました。
その後も変異を続けて、初期株よりも病原性が高かったり感染力が強かったりする新株が次々と出現したのは皆さんご存じのとおりです。
当然、変異種の中には普通の風邪程度の症状しか引き起こさないものもありました。
「新型コロナ」といってもピンからキリまであるのです。
よく「新型コロナはただの風邪」と言っている人がいます。
確かに、ただの風邪程度の「新型コロナ」もあります。
ですがそういう十把一絡げはもちろん間違いです。
正確に言うとこうなります。
「新型コロナはただの風邪」と言っている人の「新型コロナ」はただの風邪。
(2022年3月30日)
というわけで医療の現場では症状に応じて対処しているはずです。
新型コロナ感染症かどうかで治療方針を決めてはいません。
当院でもそうです。
よくPCR検査ができるかどうか質問されますが、当院を受診されるのは呼吸器症状がそれほど重篤でない人です。
治療上、PCR検査をする意味がない場合がほとんどです。
もしPCR検査が必要な場合、つまりそれだけ重症であるということですが、そういう場合には専門の発熱外来を紹介します。
それ以外の場合はどうぞ、民間もしくは県営の検査センターをご利用ください。
またよくあるのが「この場合は濃厚接触だろうか?」という問い合わせです。
これについても明確な線引きがあるわけではありません。
感染者の症状、質問者のライフスタイル、職種、考え方などなど様々な要因によって答えは変わってきます。
お答えするにはじっくりとした問診が必要です。
電話でのお問い合わせには対応できませんのでご了承ください。
(2022年4月1日)
つまり、新型コロナワクチンの最大の特徴は、感染力でもなく、病原性でもなく、変異しやすさです。
当然個体の数が多ければ多いほど変異する可能性は高くなります。
ワクチンの議論の時にどうして誰も問題にしないのか不思議なのですが、変異を防ぐ最大の方法は個体数を減らすことです。
凶悪な変異株の出現を防ぐためにウイルスを1個でも減らしておこう、ということです。
日本で多少ウイルスの数を減らしても、どうせワクチンの行き渡っていない地域で出現するさ、と冷めている人もいます。
でもそういう考え方は先月の大ニュースで大間違いであったことが明らかになりました。
(2022年4月4日)
言うまでもなく、それはロシアのウクライナ侵攻です。
ロシアの暴挙が対岸の火事と考えている人はいないと思います。
ロシアのやり方に国際社会はどう対応するのか、ウクライナがどう抵抗して、ヨーロッパ諸国がどう協力し合って、アメリカがどういう態度を示すのか、最大限の興味を持って見守っている国があります。しかも日本のすぐそばに。
ロシアの行為が許されれば中国は間違いなく同じことをしてきます。
それはどんな楽観的政治観を持った人でも同意してくれると思います。
この事態でなお、「変異株が出現してもどうせ遠い世界のことさ」などと言うのは「経済制裁なんて無意味」と言っているのと同じように私には聞こえます。
(2022年4月6日)
市の広報を見ると3回目のワクチン接種の案内記事が載っていました。
いつどこで誰が接種できるか案内した文章のあとに「接種は任意です。接種を拒否したという理由で差別を受けることはありません」という文章が続きます。
確かに大切なことですが、この唐突さにはついつい「サラリーマン山?シゲル」のアンチリッピングキャンペーンのマンガを思い出してしまいます。
(2022年4月8日)
昨年の年末に少年サッカーのコーチの人たちと話をしたのですが、少なからずの人がワクチンを接種していなくてびっくりしました。
しかも接種するかどうかの葛藤もなかった様子です。
せめていくらかは悩んで決断してほしかったです。
(2022年4月11日)
この間、ある全国的な青少年スポーツ大会で、チーム内クラスターのために当該チームが出場を辞退するというニュースがありました。
最初は「せっかく全国大会まで勝ち上がったのに残念だな、でも誰が悪いわけでもないし……」くらいの感想でしたが、最近ちょっと考え方が変わってきました。
時々少年野球の練習場面を見かけますが、どのチームにもかなりの人数のコーチがいます。
もし彼らの感染予防意識が乏しければ、必然的にクラスターが発生します。
とするとチーム内クラスターは「誰が悪いわけでもない」どころではありません。
チームの管理体制の不備が招いた人災ということになります。
夏に向けて甲子園を目指すチームは子どもたちを取り囲んでいる大人も含めて、というか、周囲の大人の方を厳重に管理しましょう。
(2022年4月13日)
]]>
というわけで毎日ラフマニノフを弾いています。
事前の皮算用では1日1小節と思っていましたが、そんな簡単なものではありませんでした。
実際のところ1小節に1週間近くかかっています。
ラフマニノフにしては音は少ないと書きました。でも各小節の頭には最低7つの音があります。
メロディーのテンポを崩さないでこのアルペジオをぼろろんと鳴らすのは素人には無理です。
開き直ってアルペジオはゆっくり弾くことにしました(謎のローカルルール)。
その際あらかじめ右手も鍵盤の上に置いて、全部の音の準備を整えてからぼろろんと弾き始めるのがコツのようです。
(2022年3月14日)
(9)
全部の音の準備を整えてから弾けば、それなりに聞こえる!
という奥義を体得した私ですが、その直後にさらなる試練が。
始まってからいきなり7小節目、左手の指が届かないという事態が発生です。
せっかくの奥義を捨て去って「やっぱりぼろろんと弾く」しかないようです。
せめて右手はあらかじめ準備しておきましょう。
(2022年3月16日)
(10)
前回アップした譜面で、赤丸で囲んだ3つの和音は左の指が届きません。
あわてず、でも急いで一音ずつ鳴らすしかありません。
と思いながらそれこそ1小節に1週間ずつかけて練習していましたが、ここでまたまた妙なことに気がつきました。
今頃気づくか? と言われそうですが、よく見ると最後の2小節にはアルペジオ記号がついていません。
縦に寝そべったヘビみたいな記号です。
印刷ミスか、あるいはラフマニノフの意図でしょうか。
(2022年3月18日)
(11)
手持ちの楽譜とWEB上にアップされた譜面をいろいろ見比べると、「最後の小節だけアルペジオなし」というのが正解のようです。
今気づいたのですがそれまでのアルペジオの音は二分音符だったのに、この小節だけ全音符です。
弾き方を変えろということだと思います。
つまり「ぼろろんぼろろん」と弾いてきて、最後だけ「ぱん」と弾けということです。
問題は、指が届かないので8つの音を同時には鳴らせない、という点です。
解決法としては
1)赤い音だけをちょろっと先に弾いて、その一瞬あとに残りの音を「ぱん」と弾く。
2)同時に鳴らすことを優先させるために、青い音を省く。
今のところは1)で練習しています。
(2022年3月23日)
]]>
ちょっと目を離すと川端康成全集が大変なことになっていました。
本棚の上から猫トイレに叩き落されていました。
2021年1月15日の記事を見ると犯人は大体想像できます。
川端康成全集、次に読むのは第8巻です。
(2022年2月18日)
(27)
第8巻は昭和23年から46年まで、川端49歳から最晩年72歳までの小説集です。
さっそくプロットを並べていきましょう。
再婚者(08-001):義理の娘房子が結婚することになった。房子は妻が死別した前夫との間にもうけた子だった。
岩に菊(08-002):ある日ふとふるさとの岩を思い出した。その岩の窪みには一輪の菊が活けられていた。
冬の半日(08-003):小阪と矢田の妻君同士は宿で一緒になってたちまち仲良くなった。
白雪(しらゆき)(08-004):弘子を抱いた男小泉は弘子の娘幸子に異常な執着を見せた。
(2022年2月21日)
(28)
見ない人(08-005):バレエへの熱意を失いかけていた英子は眞木と出会って情熱を取り戻した。
自然(08-006):温泉宿で美しい若者と出会う。彼は旅回りの一座に女として加わっていたこともあったらしい。
名月(08-007):中秋名月の日に生まれた姪の月子のために毎年お祝いをしていた。今年は仕事で顔を出せない。
富士の初雪(08-008):二郎と歌子は偶然出会って箱根に向かう。二人はかつて愛し合った仲だったが歌子は別の男と結婚させられていた。
(2022年2月25日)
(29)
無言(08-009):病のために口が聞けなくなった老作家を見舞う。途中タクシーの中で幽霊の話を聞かされる。
あちらこちらで(08-010):宮原は旅の途中で一人の娘を見た。昔付き合った女に似た少女だった。そういえば以前やはり旅の途中で自殺を図ろうとした新婦と会ったこともあった。
水月(すいげつ)(08-011):京子の前の夫は病に倒れた。動けなくなってからは京子が与えた手鏡で外を見るのだけが楽しみだった。
小春日(こはるび)(08-012):福子は達吉と待ち合わせた。約束の時間の前に二人とも同じ百貨店に寄っていた。そこで思いがけなく出会いたかった、達吉はしきりと繰り返した。
(2022年2月28日)
(30)
横町(よこちょう)(08-013):影山はタクシーの中で杉子の帰宅を待った。杉子は影山が捨てた前の女房だった。
離合(りごう)(08-014):福島は初めて東京の娘の部屋を訪ねた。娘が仕事に出て部屋に一人遺されたところに離別した妻も訪ねてきた。
船遊女(ふなゆうじょ)(08-015):「名古屋をどり」のための台本。平家の侍景清の娘むらさきは踊りをよくした。
故郷(こきょう)(08-016):彼は空をふわふわと飛んで故郷の村に降り立った。そこには子供の頃の自分がいた。
(2022年3月2日)
(31)
多年生(たねんせい)(08-017):六十六歳の戸田は三十二歳の常子と結婚することになった。
夢がつくった小説(08-018):小説を書いている夢を見ることがある。小説を読んでいる夢を見ることがある。夢の世界で自分を演じることがある。
雨だれ(08-019):雨だれの音を聞きながら子どもたちは二十の扉ごっこをしている。しづは夫と時子の仲を疑っていた。
あの國この國(08-020):高子は新聞記事を読んで動揺が隠せなかった。その記事はスウェーデンでの夫婦交換について書かれたものだった。
(2022年3月4日)
(32)
弓浦市(ゆみうらし)(08-021):小説家香住を一人の婦人が訪ねてきた。彼女は弓浦市での三十年前の思い出を語った。
並木(08-022):添田は帰宅途中銀杏並木の坂で、坂の下半分の木々だけが葉を落としてしまっているのに気づいた。
夫のしない(08-023):順二は人妻の桐子と逢瀬を重ねていた。今日も電車の中で順二はせっぷんの順序と方法を考えていた。
古里の音(08-024):盲法師は母に会いたくなった。あとしばしの修行で検校になろうかという時だった。
(2022年3月7日)
(33)
二人(08-025):島子には前の夫との間に信一という息子がいた。島子は再婚相手岸山の子を孕み悪阻に苦しむ。
匂う娘(08-026):あみ子は光村といつも古寺の門前で待ち合わせした。そこにはあみ子の母の墓もあったが彼女は決して母の墓に参ろうとはしなかった。
人間のなか(08-027):志村が運転する車の前に女が飛び出してきた。友人三崎の妻桃代だった。志村の車に轢かれたかった、桃代は言った。
片腕(08-028):娘は右腕を私に一晩貸してくれた。
(2022年3月9日)
(34)
第8巻これで最後です。
髪は長く(08-029):黒髪が白いシーツに描く抽象画。そういう内容の歌を見て倉三郎はその日の朝のひさ子の所作を思い出した。
竹の聲桃の花(たけのこえもものはな)(08-030):裏山の頂きに松の古木があった。そのこずえに鷹がとまったのはおととしのことだった。
隅田川(08-030):私を産んだのは母の姉だった。産みの母と育ての母、二人はそっくりだったはず。いつしか私はそう思い込むようになっていた。
(2022年3月11日)
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セルゲイ・ラフマニノフ作曲の「楽興(がっきょう)の時」という作品があります。
もともとはシューベルトの「楽興の時」という曲があって、それをリスペクトしてラフマニノフが作ったものです。
ちなみに「楽興の時」とはフランス語で「Moments Musicaux」で、直訳すると「音楽的時間」という感じでしょうか。
WEBでちょろちょろっと調べた程度では誰が「楽興の時」と訳したのかは不明です。
が、「楽興」とはこの曲(および、この曲から派生した曲たち)にしか用いられない用語です。
シューベルトの「楽興の時」全6曲の中では第3番が圧倒的に有名です。
題名を知らなくてもきっと聞いたことがあると思います。
で、それは置いておいて、ラフマニノフが書いた「楽興の時」です。
これを弾こうではないか、というのが今回の企画です。
(2022年1月31日)
(2)
これです。
シューベルトと同じく、ラフマニノフの「楽興の時」も6曲からなる組曲です。
その第1番変ロ短調がとっても素敵な曲なのです。
ラフマニノフらしいメランコリックなメロディから始まり、中間部では細かな音符で綴られる波が果てしなく続き、最後は冒頭のメロディに戻って静かに終わります。
全体で10分足らずでしょうか。
これを演奏したいと思いました。
(2022年2月2日)
(3)
ちなみに私は音符は読めますが、ピアノは弾けません。
小学校の低学年のころに無理やり習わされましたが、レッスンが「仮面ライダー」と重なったのでやめてしまいました。
なので赤バイエル止まりです。
こんなレベルで難曲の代表に挙げられるラフマニノフが弾けるのかどうか、ですが。
1)毎日根気よく続ければある程度は弾けるだろう。
2)でも早いパッセージはどんなに練習しても弾けないだろう。
3)しかしどうせ誰に聴かせるわけでもないので、自分のテンポで自己満足できればOK。
という謎の三段論法に基づいて取り掛かることにしました。
(2022年2月4日)
(4)
言い出してから取り掛かるまでが長いですね、はい。
でもまず冒頭がこれです。
左手で3連符を弾いて、その上に8分音符のメロディーが重なります。
左右の手で別の動きをする、これは初心者には絶対無理なパターンです。
ゆっくりゆっくり弾けばそのうちに何とかなるのかもしれませんが、ゆっくり過ぎるとメロディラインが分からなくなって、頭がおかしくなりそうです。
(2022年2月7日)
(5)
そう思いながらぺらぺらとページをめくっても弾けそうなところは見つかりません。
そりゃあそうですよね、天下のラフマニノフですから。
でも最後の最後についに見つけました。
最後のページです。
このページの頭から10小節くらいは比較的音符の数も少ないし、リズムもややこしくありません。
まずここから始めましょう!
(2022年2月9日)
(6)
この曲では冒頭の物憂げなメロディーが何度か繰り返されるのですが、最後の繰り返し部分です。
その頭。
音の数は(ラフマニノフにしては)少ないです。
問題はフラットが5つもついているところですが、毎日根気強く練習すれば何とかなるでしょう。
変な記号がいくつかあります。
左下のエイリアンみたいな図形はペダル記号です。
ここで音を伸ばすペダルを踏んで、少し右にある「*」で離します。
「m.d.」というのは「右手で弾きましょう」というサインです。
小節の左端には白玉が7つ縦に並んでいますが、このうちの上から4つは右手で弾けという指示です。
「mf」は音量の指示です。強からず弱からず、くらいでしょうか。
「Tempo I.」は多分「テンポプリモ」と発音して、「最初のテンポ」で弾きましょうという意味です。
このメロディーは曲の頭でも出てきます。その時と同じテンポで弾け、と言っているわけです。
さあいよいよ弾いてみましょう。
(2022年2月14日)
(7)
というわけで「1日1小節!」のつもりで弾き始めたのですが、ここで前回説明し忘れた記号がありました。
縦に並んだ音符の左側にへばりついている波線のような印です。
これはアルペジオ記号で、ハープのようにボロロンと弾けという合図です。
7つの音を同時ではなく、わずかな時間差で弾くわけです。
これが素人には意外と難しいのでした。
左手でボロロン、すかさず右手でボロロロン、これを均質に並べるのはとっても難しいです。
「1日1小節」のペースは無理かもしれませんね……。
次回の更新はいつになるのでしょうか?
(2022年2月16日)
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南京町の方に聞いたのですが結局「東雅楼」はよく分かりませんでした。かつての南京町は戦争で完全に消滅して、戦後しばらくは外人バーが建ち並ぶ一画だったそうです。今の南京町は昭和50年代、比較的新しい時代にできあがったのですね。
ところで、彼女たちがそこで食べたのが、これ。
悦子の好きな蝦の巻揚げ、鳩の卵のスープ、幸子の好きな鶩(あひる)の皮を焼いたのを味噌や葱と一緒に餅の皮に包んで食べる料理、等々を盛った錫の食器を囲みながら、ひとしきりキリレンコ一家の噂がはずんだ。(106ページ)
最初のは春巻き、最後のは北京ダックでしょう。
問題は鳩の卵です。調べると今は高級食材らしいですが、鶏卵が手に入りにくかった時代には庶民の食べ物だったようです。
つまり中華料理で人気の卵スープ、この代用品だったみたいです。
(2022年1月14日)
(226)
そのちょっと先、108ページです。
それから二三日過ぎて、妙子はまたその「お婆ちゃん」の逸話を持って帰って来て、姉たちを面白がらせた。妙子はその日、神戸の元町へ買い物に出た帰りにユーハイムでお茶を飲んでいると、そこへ「お婆ちゃん」がカタリナを連れて這入って来た。そして、これから新開地の聚楽館の屋上にあるスケート場へ行くのだと云って、あなたもお暇なら是非いらっしゃいと頻りに誘った。
これが昨年のユーハイムです。今はリニューアル改装中です。
ユーハイムさんが神戸に店を構えたのが1923年、妙子がお茶を飲んだのが1936年ということになります。
リニューアルも神戸開店100周年を意識してのことかもしれません。
(2022年1月17日)
(227)
ユーハイムでお茶をしていた妙子はお婆ちゃんにスケートに誘われます。
スケート場があったのが「新開地の聚楽館の屋上にあるスケート場」でした。
聚楽館は1913年に建てられ、1978年に閉館しました。
跡地にはカラフルというかケバいラウンドワンができて、そしてついに昨年ラウンドワンも閉館となりました。
元町とは関係のない話でしたが、ちょっとタイムリーだったので触れてみました。
(2022年1月19日)
(228)
さらに204ページです。
幸子は、ちょうど貞之助が帰宅したので、夫とも話し合った結果、矢張雪子の心持を尊重した方がよいと云うことになり、強情を張るようで済まないけれども、……と、押し返して先方へ譲歩を求めると、では尚よく考えて、明朝改めて打ち合わせをしましょう、と云う挨拶であったが、十五日の朝電話があり、トーアホテルでは如何と云って来たので、漸うそれに話が落ち着いた。
雪子に新しい縁談が持ち込まれたのですが、その場所に対して雪子がわがままを言うシーンです。
前回のお見合いはオリエンタルホテルでおこなわれました。
今回もオリエンタルホテルでお見合いするとなると、ボーイや女給たちにどういう目で見られるか分からない、というのが彼女の言い分です。
さて会場に決まったトーアホテルですが、トアロードの突き当たり、今の神戸俱楽部のところにあった高級ホテルらしいです。
現在の神戸トアロードホテル山楽とは関係なさそうです。
(2022年1月21日)
(229)
トーアホテルで落ち合ったお見合い軍団ですが、そこではお茶だけにして、メインの食事会は別会場でおこなわれるようです。
その場所が「北京楼」です。
北京楼と云うのは省線の元町駅の山側の高台にあると云うので、自動車は横着けになるのでしょうなと、念を押すと、大丈夫です、御心配には及びませんと云うことであったが、行って見ると、成る程門前へ横着けになるにはなるが、そこは元町から神戸駅へ通う高架線の北側に沿うた道路に面していて、玄関まではなお相当に急な石段を幾階も上らねばならず、玄関から又二階の階段を上るのであった。(210ページ)
このあとに「県庁の近く」という描写もあるし、花隈あたりの斜面に位置していた可能性が高いと思います。
(2022年1月24日)
(230)
「細雪」「北京楼」で検索すると興味深い写真が出てきました。
「たんぶーらんの戯言」というブログの中の記事です。
この方が子どもの頃にはまだ店があったそうです。
この方がおいくつかは分かりませんが戦後しばらくは営業していたということですね。
キャプションによると写真の中の人たちは神戸港に向かっているそうなので、北から南に向かって歩いていることになります。
今の花隈本通でしょうか?
(2022年1月26日)
(231)
「細雪」に登場する元町特集、最終回です。
約束の日曜日には、朝の十時に父子で芦屋へ来、一二時間家で遊んでから、主人側の四人と都合六人でハイアを神戸まで飛ばして、花隈の菊水へ行った。今日の食事の場所については、支那料理、オリエンタルのグリル、しっぽく料理の宝家、等々の案も出たことだけれども、神戸見物と云う意味では菊水が一番珍しかろう、と云うことになった訳であった。(20巻129ページ)
雪子の結婚相手として、読者的にも一番好ましく思われた橋寺とのお見合い会場です。
堅苦しいお見合いは雪子向きではないと判断した周囲の考えによって、あくまでも橋寺の神戸観光の一環として企画された食事会でした。
この菊水についてもこちらのブログが詳しいです。
菊水はすき焼きを食べさせる店だったようです。
記事の中には地図も載っています。
見れば見るほどクリニックのすぐそばみたいです。
(2022年1月28日)
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将来、世界史的には「コロナ暦第2年」と記述されるであろう1年が始まりました。
予想もしなかった事態が次々と起きて、それを人々がある程度の驚きをもって、でも冷静に受け止めるようになった1年でした。
「しゅうそく」の漢字変換第1候補が「終息」から「収束」に変わっていった1年でした。
専門家の発言の重みがどんどん軽くなっていった1年でした。
確実なのは「この1年がどんな1年になるのか、誰にも分からない」ということだと思います。
が、一つだけ確かなことがあります。
今シーズン、インフルエンザ罹患者数は激減しています。
今私たちがおこなっている感染予防策は間違っていないということです。
その点は自信をもっていいと思います。
一方でそれでも増え続ける感染者。
恐るべき感染力です。
そこはきっちりと恐れ続けなくてはなりません。
自信と恐れを忘れずにコロナの時代を生き抜きましょう。
(2021年1月4日)
風吹岩清掃ハイク
さて恒例の風吹岩元日清掃ハイクに行ってきました。
今年もゴミはほとんどありませんでした。
途中ティッシュが1枚と缶ジュースのプルトップ1個だけです。
プルトップなんていつの時代のものでしょう?
今年の登山者の皆さん、大好きです。
去年のタバコポイ捨て男はネコちゃん地獄に堕ちますように。
さて今年のお友達です。
すごいですね、1年ぶりなのに覚えてくれてました。
ネコちゃん地獄……100匹のネコに膝にすり寄られる世にもおぞましい地獄
(2021年1月6日)
宇宙戦争
先日テレビで2005年版「宇宙戦争」を放送していました。
スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演のSF超大作です。
ストーリーの基本ラインはH.G.ウェルズの1898年の小説に沿っています。
つまり、高度な科学力をもった宇宙人が何と地球の〇〇に倒されてしまうのです。
2005年の公開時にはこの結末に観客はのけぞったものです。
「進歩した宇宙人のくせにそんなものにも対処できないのかよ」と突っ込む人多数。
実は私もラストでずっこけた口です。
でも、すみません。
間違いでした。
どんなに進化しても人類は〇〇を完全には制圧できないでしょう。
公開から15年経ってスピルバーグ監督の正しさが立証されたわけです。
ただ、それを踏まえても、この映画が後半退屈だという印象は変わりませんでしたが……。
(2021年1月8日)
それじゃない感
「いつかマスクなしの生活に戻れるのか?」とよく訊かれます。
仮にWHOが新型コロナ終息を宣言したとしても「押し合いへし合いの混雑にマスクなしで入るのはちょっといや」という感じはずっと残るのではないでしょうか。
明らかにこの1年で私たちの生活意識は完全に変わってしまいました。
そんな折に2025年開催予定の大阪万博の概要発表です。
何でも2,800万人の入場が目標らしいです。
ちなみに愛知万博の来場者が2,200万人。
予約システムなども導入されてそれまでの大型イベントよりも混雑が緩和された愛知万博。それでも人気パビリオンに入るためにはぎゅーぎゅーの行列に何時間も並ばなくてはなりませんでした。
この時代に、大阪はそれ以上の混雑を目指しているようです。
企画の中心にいるのはきっと名のある大企業のトップの方たちなのでしょう。
彼らは毎朝朝礼で「目指せ全国〇千店舗!」と檄を飛ばし、毎週金曜日には部署全員参加の飲み会を開き、月に一回は家族参加義務のバーベキューパーティーを開いているんじゃないでしょうか。
それはそれで素敵な会社だとは思います。
でも未来の大イベントの企画者にふさわしいかと問われると、お尻がむずむずするような場違い感を感じてしまいます。
(2021年1月13日)
女は黙っているがよい
東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長の発言が話題になりました。
女は教会では黙っているがよい。
女には語ることは許されていない。
女は従属しているべきなのだ。
それはまた律法も言っていることである。
もしも学びたいことがあるならば、家で自分の夫にたずねればよい。
女が教会で語ったりするのは、恥ずべきことである。
(2021年4月5日)
大変失礼しました。
前回森会長の言葉として紹介した文章ですが、発言主を間違えておりました。
イエス・キリストの自称一番弟子パウロ様のお言葉でした(第1コリントス14章)。
お詫びして訂正いたします。
さて森さんの発言に関するニュースで面白いのは、「その場にいたJOCの評議員会のメンバーからは笑い声もあがった」という部分です。女性蔑視的発言を容認しただけではなく、同意して、さらに面白がった人がその場にいたわけです。
政治家とは有権者の期待に応える職業です。
優れた政治家ほど有権者の気持ちを敏感に察知します。場の空気を瞬時にとらえて有権者に受けそうなギャグをがんがん飛ばすわけです。
森さんの発言を読むとそのあとの文章と整合しない、全く意味のない文脈です。その場で受けそうなことをサービス精神で口にしただけのようです。
「女性がたくさん入っている会議は……」という発言に対して眉をひそめる人の集まりだったら彼は「……議論活発で頼もしい」ととっさに続けたに違いありません。
とすると彼をああいう風に育てたのはあの種の発言に大喜びしてきた地元有権者です。
今後、問題を起こした政治家を取り上げる時には選挙区を同時に表示してほしいです。
「森元総理(石川県小松市選出)が臨時評議会で以下のような発言をして問題になっている……」
(2021年4月7日)
仁義なき兵庫県知事選
兵庫県知事選がヤクザの抗争みたいです。
私の聞きかじりでは、自民党のあるグループがA候補を擁立したところ、別のグループが「俺に何の相談もなかった」と腹を立ててB候補を担ぎ出して、国会議員までひっぱりこんで当初の決定をひっくり返し、今度はそれに最初のグループが「俺の顔をつぶしやがって」と激怒しているとか。
まさに男のメンツの戦いです。
何がすごいって、ここまで「政策」の文字、なし。
(2021年4月9日)
そういえば昨年丹波市長選で「当選したら市民に一人ずつ5万円ずつ給付する」という公約を掲げた候補が当選しました。
事前に50円渡して投票を依頼するのは選挙違反で、事後に5万円渡す口約束をするのはOKみたいです。
でも考えてみればそもそも公約というのは有権者への有形だったり無形だったり、金銭的だったり気持ち的だったりの利益供与を約束するものです。
事前なら少額でもアウト、事後ならどんなにはしたない利益供与でもセーフ、という線引きが現実的なのかもしれません。
そして支持者に少しでも多くの利益を還元することが政治家の仕事だとすれば、限られた財源からの分捕り合いこそがその本分です。
縄張り争いにしのぎを削るヤクザとやっていることは限りなくいっしょで、そうすると「メンツ」とか「仁義」とか物騒な言葉が飛び交うのも当然なのかもしれません。
……でも、時々は政策についても考えてくださいね。
(2021年4月12日)
4年前にも同様のことを書きましたが、今回も書きます。
2021年版「新・兵庫県知事に望むこと」です。
1)ペット条例
ペットショップは公営化してください。
犬ネコについては全頭マイクロチップ埋め込みを義務化しましょう。
一般人が飼えるのは不妊手術済みの犬ネコだけにして、手術をしていない犬ネコを飼うためには免許を必要とすることにしましょう。
犬の屋外での飼育を禁止してください。
2)喫煙所の整備
街角の喫煙所に屋根と空気清浄機をつけましょう。タバコの自動販売機は喫煙所内でのみ設置が許されることにして費用はJTに負担させましょう。
当然喫煙所周囲100メートルの路上は禁煙となります。
3)兵庫プロスポーツ支援
野球、サッカー、ラグビーなどの試合が全戦テレビ(有料チャンネル、WEB配信を含む)で観戦できるようにしてください。
野球については、中継するなら試合終了まで放送するように義務づけてください。
せめて阪神タイガースとヴィッセル神戸の試合時間が重複しないように球団に調整させてください。
それから毎回言っていますが阪神タイガースを「阪神間タイガース」に改称させてください。
大阪には「バッファローズ」という素敵な球団があるじゃないですか。
そして甲子園にドームをつけてください。
(2021年4月14日)
新型コロナワクチンの接種が始まります。
新型コロナワクチンの接種が少しずつ始まっております。
松本胃腸科クリニックも5月下旬から接種のお手伝いをいたします。
神戸市のインターネットサイトにアクセスできる方はそこからご予約ください。
ただ、予約システムが稼働したばかりで接続状態が不安定のようです。ご来院くださればこちらで予約作業をさせていただきます。
問診表にご記入の上、予防接種券を持ってきてください。接種は2、3か月後になるかもしれません。今後3か月間のご予定もまとめておきましょう。
この数か月で7千万人にワクチンを2回ずつ接種しようという人類史上初のこころみです。 さまざまな想定外のトラブルがありえます。焦らず、あわてず、冷静にこの事態を乗り切りましょう。
(ご不明の点があれば電話でご相談ください。ただし予約手続きそのものは電話ではできません。ご了承ください。)
(2021年4月21日)
新型コロナワクチンを予約された方、予約を検討されている方へ
予約システムが毎日変更されています。
1日の接種人数や時間帯など今後どんどん変更されそうです。
今慌てて予約するよりも5月に入ってから手続きをした方がもしかすると1か月ほど早く接種できるかもしれません。
とにかくすべてが流動的です。
ですが、5月に入ったら大きな発表があるそうです。
それまではあわてず、騒がず、短気を起こしませんように。
神戸市の職員さんも不眠不休で頑張っています。
今電話しても電話はつながらないし、仮につながっても古い情報しか得られません。
行列なんて密になるだけです。
いっそのこと「ワクチンの予約は連休明けから」くらいに思っておいた方がいいかもしれません。
(2021年4月23日)
とにかくあわてないこと(1)
当クリニックでももうすぐ接種枠が倍以上に増えそうです。
前回お伝えしましたが、今あわてて予約すると早くても7月の接種になりますが、増枠後に予約すれば5月中に接種できるかもしれません。
神戸市内のどの施設でも同じ状況ではないかと想像されます。
とにかくあわてないことです。
(2021年4月26日)
とにかくあわてないこと(2)
神戸市のワクチン担当さんから毎日メールが入りますが、本当に大変そうです。
大規模会場だけでの接種から、かかりつけ医でも幅広く接種できるように軸足を移そうというのです。
気が遠くなるような作業です。
しかもワクチンには使用期限があります。
たとえば松本胃腸科クリニックでの接種分は、毎朝誰かが(誰がどうやって運ぶのか現時点で不明)運んでこなくてはなりません。
週に1回まとめて、であればまだトラブルは少ないのでしょうが、使用期限は1日です。毎日ちょっとずつ運ぶしかありません。
当然様々なアクシデントがありえます。
せっかく指定の時間に来られたのに「まだ届いていません」ということが頻繁にあると思います。
というか、断言します。
時間通りに届くことの方がまれだと思います。
しかもその場合、いつ届くのか私にも分かりません。
クリニックで待っていただいても結局その日には届かない可能性だってあります。しかもちょくちょく。
そういうのが絶対いやな人は7月以降に大規模会場で打つのがいいと思います。
なるべく早く打ちたい人はとにかくあわてないことです。
「まだ届いてない? じゃあ昼過ぎにもう一回来てみるわ」
くらいのつもりでいた方がいいと思います。
(2021年4月28日)
とにかくあわてないこと(3)
神戸市から接種枠変更手続きについての手順案内が来ました。
増枠はFAXによる申請のみとなります。
つまり完全手作業での受付です。
したがってWEB予約システムに反映されるには5日から10日ほどかかるようです。
連休明けには増枠されるみたいなことを書いてしまいましたが6日には無理そうです。
10日(月)が連休明けだとお考え下さい。
枠が確定するまでお互い短気を出さず待ちましょう。
(2021年4月30日)
胃内視鏡と便秘外来について
5月18日以降、新型コロナワクチン接種のため混雑が予想されます。
胃内視鏡検査と便秘外来の予約はお受けできません、ご了承ください。
定期健診としての胃内視鏡検査をご希望の方はもう数か月お待ちください。
胃痛などで早期の検査をご希望の方は速やかに検査できる病院を紹介、手配いたします、どうぞご来院ください。
便秘外来についてはこの期間を利用して「お通じカレンダー」をメモしておいてください。
予約再開の見通しが立ちましたらすぐにご報告いたします。
どうかご了承ください。
(2021年5月7日)
新型コロナワクチン接種枠について
新型コロナワクチン接種の増枠を申請しましたが、5月10日の時点では神戸市のサイトには反映されていないようです。
いつ増えるのか、あるいは本当に増えるのか、それすら分からない状況です。
ワクチンの配送システムについてもよく分かりません。
現物が手元に届くまではいっさいが不確定です。
接種日時が急に変更になる可能性もあります。
当院での接種を予約された方、何があっても驚かない覚悟をしつつ、接種当日までこの欄のチェックをお願いします。
(2021年5月10日)
ワクチンが届いて接種日時が確定したらこちらから連絡します。
新型コロナワクチンですが混迷を極めております。
5月12日の時点でまだ予約システムには接種枠の変更が反映されておりません。
配送スケジュールも配送方法も分かりません。
かなりの確率で、予約の日にワクチンが届いていない可能性があります。
5月いっぱいは
「ワクチンが届いて接種日時が確定したらこちらから連絡する」
というやり方に変更します。
希望の日以外に変更になるかもしれませんし、「いつになるかは分からないが予約の日の接種は無理」という連絡になるかもしれません。
あらかじめ予約していただいた方はその後ワクチンが入手でき次第最優先で対応させていただきます。
しかし、今の時点では何もかも不確定ですのでご理解お願いします。
(2021年5月12日)
接種枠増枠しました。
5月14日に増枠が確認できました。
同時に神戸市の大規模接種会場も整備されて、全体として予約枠はかなり余裕があるようです。
で、問題は、かかりつけ医と大規模接種会場とどちらで接種するのがいいか、です。
大規模接種会場はおそらく動線がきっちりしているのでおそらく会場内が密になることはないと思います。
しかし当面の間はこの会場にやってくるのは市役所に押しかけるか、1日に何百回も電話をしてきた人たちです。
予約時刻の何時間も前にやってくるのではないかと懸念されます。
つまり会場外がとんでもない密になる可能性があります。
そのあたりの状況をマスコミが報道してくれればいいのですが。
ちなみに松本胃腸科クリニックは30分に一人の枠で受け付けています。
待合室は狭いです。
従ってそこそこには密になると思われます。
どうぞ、客観的冷静にご判断ください。
(2021年5月14日)
ワクチン来ました!
予定時間にちゃんと届きました。
神戸市の担当者の皆さん、「時間通りに来るはずがない」なんて悪口を言ってごめんなさい。
ちゃんと来ました。
この配送の様子だと以降も予定通り接種できそうです。
当院での接種をネットで予約された皆様、今後もしばらくは1〜2日前に確認の電話をしますが、ほぼほぼ予定通りで大丈夫そうです。
まずはご安心ください。
(2021年5月17日)
ワクチン関連最新情報
昨日から松本胃腸科クリニックでも接種が始まりました。
1)接種自体は短時間で済むのですがそれに伴う事務作業が膨大・煩雑です。
特に困るのが2回目の予約です。
詳しくは説明しませんがとにかくこの2回目の手配がとってもとっても面倒です。
2回目は自動的に3週間後の同じ曜日の同じ時間を予約します。
違う日時をご希望の場合、オーバーブッキングになるため当院で接種できない可能性もあります。
最悪、ご自分で予約し直していただかなくてはなりません。
予約の際には3週間後の都合も考慮してお申し込みください。
2)毎日のように当院の接種枠が変更されています。
私がネットで操作しているのではなく、神戸市の担当者が手作業で変更作業をおこなっています。
従って、私の想定していない日時の設定になっている場合が多いです。
そもそも「その日に接種するのは不可能」という枠が設定されていることもあります。
当院で接種する場合は、接種券をご持参の上直接相談しながら日時を決めるのがお勧めです。
ネットで予約された方は「こちらからの電話連絡をもって最終決定となる」とご理解ください。
(2021年5月19日)
ワクチン接種お詫び
ネットで公開されている当院の接種可能日は間違っております。
今のシステムでは修正を反映するのに一週間かかります。
そして一週間前の修正はもはや最新状況ではありません。
どうか当院での接種をネットで予約された方がこの欄を見てくださいますように!
(2021年5月24日)
接種枠は間違っています。
まだ神戸市の予約サイトは間違ったままです(2021年5月28日現在)。
修正が完了しましたらこの欄で報告します。
それまでは予約サイトでの予約はあくまでも「仮」とお考え下さい。
ですが現実問題として、予約できない日時にどんどん予約が入ってきています。
診察時間よりも、接種時間よりも、お断りとお詫びの通話時間の方が長くなっている状況です。
システムの問題であって、誰が悪いわけでもありません。
そのしわ寄せを誰かが引き受けないといけない以上、私が謝罪係を引き受けるのは仕方がないと思います。
しかし、ここで考えさせられるのは「かかりつけ医」とは何か、という問題です。
(2021年5月26日)
かかりつけ医とは
インフルエンザワクチンが足りないことが数年に一度あります。
そういう時に「かかりつけ医に断られたから」と、少なからずの方が当院に接種に来られます。
患者側はかかりつけと思っているのに医者側はそう思っていないという、よくある笑い話です。
今回も思います。
賢い病院はワクチンの接種などしません。
何の得にもならないし面倒なだけですから。
なのでその選択自体はありえると思います。
ですが患者に「ワクチンを打ちたい」と言われた時に「うちでは打ってません」で終わってしまったら、かかりつけ医の意味はまったくありません。
不思議な話です。
まず高齢者からワクチンの接種が始まりました。彼らには絶対「かかりつけ医」がいるはずです。
それなのに彼らは予約回線に何百回も電話して、開庁時間の何時間も前から役所に押し掛けます。
かかりつけ医は何をしているのでしょう?
謎です。
当院に接種に来られるのは今の時点では、他にかかりつけのある65歳以上の方ばかりです。
見ていると皆様「かかりつけ医とは何か」考えたこともないし、今後もあんまり考えたくないみたいです。
(私もわざわざそんな話をしませんし)
でもどうか65歳以下の皆様はこれを機会にしっかり考えてほしいです。
かかりつけと医は、何か。
(2021年5月28日)
予約サイトが修正されました!
神戸市の新型コロナワクチン接種予約サイトが更新されました。
松本胃腸科クリニックに関しては正しい情報がアップされています。
今(2021年5月31日)以降、どうぞ安心して予約サイトをご利用ください。
ただ、当院で予約した場合、接種はもっとも早くて7月の上旬になります。
大規模接種会場だと6月下旬に空きがあります。
アクセス、その他の条件を総合的に考えてお選びください。
ちなみに当院では私が問診をして、体温を測って、私の手で接種をします。
これが長所か短所かは謎ですが。
そして2回目の接種は3週間後の同じ曜日の同じ時刻に設定されます。
日にちの変更はできませんので3週間後のご都合もよく考えてからお申し込みください。
(2021年5月31日)
キャンセル待ちを受付
ワクチンの接種で突然キャンセルが発生した場合に備えて、キャンセル待ちを受け付けます。
かかりつけの方でなくても申し込みは可能です。
基本的には神戸市在住の方限定ですが、状況によっては市外の方でも対応できる場合があります。
ただし優先順位については一切こちらの判断にお任せください。
今日申し込んだのに1か月たっても連絡がない、自分より1か月あとに申し込んだ人はその翌日接種できた。そういう事態もじゅうぶんありえます。
その部分に関して了承いただける方はどうぞお申し込みください。
(2021年6月2日)
ワクチン2回目接種
1回目の接種だけおこなって2回目の接種をおこなわない病院があります。
当院の場合、2回目用のワクチンは1回目接種したのと同じ人数分だけ配給されます。
2回目だけ接種の方に回せる余剰はまったくありません。
ですが、それでもお困りの「2回目難民」が多く相談に来られます。
ネット等で予約した場合は必ず「2回目もそちらで接種できますか?」と訊ねましょう。
2回目が受けられない場合は病院を変えた方がいいかもしれません。
繰り返しますが当院では1回目接種の3週間後の同じ曜日同じ時刻が2回目接種となります。
(2021年6月4日)
薬手帳を見て思うこと
今当院にワクチン接種に来られているのは主にご高齢の方々です。
予診の時に服用中の薬をチェックします。
いろいろ感じることがあります。
1)血圧の薬だけもらいに大きな病院に通っている。
2)不必要っぽい薬がある。
3)全体として薬の量が多い。
どんな薬を、どれだけ、どの病院でもらうか、というのは患者と医者との関係性によって決まります。
正解があるわけではありません。
それについては以前から繰り返し書いてきました。
読んでいただければ分かると思いますが、上記の1から3に不満を感じている場合、改善する方法はあります。
しかし、とっても難しいです。
(2021年6月7日)
かかりつけ医、ふたたび
うすうす「私の薬は多すぎるんじゃないだろうか」と感じている人は多いです。
そして「でも、それをたずねると怒られそうだから聞けない」という人も多いです。
また今回の騒動で「かかりつけ医なのにワクチンを打ってくれなかった」という人がびっくりするくらい多いことも分かりました。
自分が飲んでいる薬について質問もできない、ワクチンも打ってくれない、打ってくれないのは病院のポリシーだから仕方ないとしても、接種を希望している患者に手配の手伝いすらしてくれない。
それなのに忠実に通い続けている人の多いこと!
しかしご高齢の方に「じゃあかかりつけ医を変えれば?」というのは無理です。
一種の詭弁ですが「そういう変化を望まないのが老人の特徴」だからです。
だからまだ脳の若い人には今のうちにしっかりと考えておいて欲しいです。
「将来山のように薬を出されないためにはどうすればいいか」
「今後も予想されるパンデミックやワクチン騒動の時に備えてどうかかりつけ医を見つけておくか」
若い人は基本的に病気にならないので病院に行くことはありません。
ですが、数か月以内にワクチンを打つために病院もしくはそれに類した施設に行く必要があります。
「かかりつけ医」を見つける最高のチャンスと考えましょう。
(2021年6月9日)
そもそもワクチンは安全?
新型コロナワクチンは安全なのか?
よく訊かれる質問です。
ワクチンはれっきとした薬です。
で、どんな薬でも効能と副反応があって、効能が副反応を上回ると医師が判断し、患者側もそれに納得した時、初めて処方されます。
ワクチンもまったく同じです。
「手放しで安全」な薬などありません。
なので「安全ですか?」と訊かれると私は答えに詰まってしまいます。
国内でもすでに200万人が接種したので、副反応については大体分かってきています。
問題は「効能」がそれを上回るか、です。
「少しでも感染の危険栓を下げたい」
「全人口の150人に一人が罹患している感染症で、今なお1日千人近くが罹患している、この勢いを食い止めたい」
「この1年間大変な思いをしてきた。以前の生活に少しでも戻りたい」
というのでしたら、はい、ワクチンはじゅうぶんにその効能があります。
副反応を上回る効能があります。
しかし「今まで自分はかからなかった、だから今後もかからないだろう」と考えている人にはどうでしょう?
その人にとってはワクチンの効能なんてゼロです。
1億人に一人見られるか見られないかの副反応でも、効能がそれを上回ることはありません。
ワクチンが安全か? というのは、その人がこの1年間を何を考えてどう過ごしてきたかという問題でもあります。
哲学的になってきましたが、ここで再登場するのがかかりつけ医です。
普段から接している人なら「この人はワクチンにこういう効能を期待しているだろう」というのが分かります。
なので「安全ですか?」という質問に自信をもって答えられます。
「はい、大丈夫です」
と。
哲学的プロセスをすっ飛ばかすことができるのです。
かかりつけ医の効能ですね。
(2021年6月11日)
声の大きな人
リモート会議が結構快適です。
何が快適といって、「会議中に他のことをしていてもいい」、とか「こっそりビールを飲んでもばれない」とか、ではありません。
会議の進行が声の大きな人に妨げられないところです。
個人的には、声の大きな人によってすべての会議が4割長引いて、人類の進化は4割停滞させられたと思っています。
さらにあくまでも個人的イメージですが、大きな声の人と小さな声の人が相反する意見を主張している時は、小さな声の人の意見の方が正しい場合が多いです。
さて完全に話は変わるのですが、日本ではワクチンを打つかどうかは任意に選択できることになっています。
それならば、打つ人は黙って打って、打たない人は黙って打たなければいいと思うのですが、なぜか打たない人の方が声が大きいです。
医者でもほとんどの医者は黙って接種して、決して大騒ぎしていないと思います。
みなさんもかかりつけの医者に訊いてみてください、「ワクチンを打ちましたか?」と。
「えーと、先月打ったかな?」くらいの反応でしょう。
一方打たない医者はやかましいです。
「わしはこういう理由で打たないっ!」といろんなところで話に割り込んできます。
いやいや、誰もあんたに聞いてないし。
(2021年6月14日)
みんなで封じ込めるということ
マスクをしたり、密を避けたりするのは
一に自分がかからないようにするため、
二に自分がうつさないようにするため、
そして一番大切なのが、三、社会全体としてウイルスを封じ込めるため、です。
私が焼肉と生ビールを我慢しているのは自分と、それから、たとえば北区の老人ホームの入居者のためでもあるわけです。
同様にワクチンも自分のためだけではありません。
マスクやソーシャルディスタンスが消極的対抗策とすれば、ワクチンは積極的にウイルスを封じ込める切り札です。
接種は任意だとよく言われます。
任意か強制かと問われれば確かに任意ではあります。
でも打つかどうか決める時には、いっしょに暮しているお爺ちゃん、遠くに住んでいる親戚のおばちゃん、介護施設に入所中の見ず知らずのお年寄りのことを、ちょっとだけ思い出してほしいと思います。
(2021年6月16日)
若年者層接種開始
65歳未満の方への接種券送付が始まりました。
以前も書きましたがどこで接種するのがいいでしょうか。
1)お急ぎの方は大規模接種会場がお勧めです。
タイミングにもよりますが、翌日の枠が空いていることもあります。
朝10時台は回線が混雑しますが、枠には余裕があります。あわてなくても大丈夫です。
仕事のあとででもご自宅でゆっくり落ち着いて予約しましょう。
2)もう一つ、仕事の都合で急用が入る可能性が高い人。
そういう方も大規模接種会場がお勧めです。
松本胃腸科クリニックでは1回目接種の3週間後が自動的強制的に2回目の接種となります。
日付の変更はできません。
しかし大規模接種会場なら突然のキャンセルや変更にも対応できます。
3)ワクチン接種に不安感を持っている方。
松本胃腸科クリニックでもアナフィラキシー発生時の対応セットは用意しております。
しかし機動力ではやはり大規模接種会場にはかないません。
ワクチンがものすごく怖い人も大規模接種会場がお勧めです。
4)それでは松本胃腸科クリニックで接種するメリットは何かというと、
私が問診して、私が薬液を希釈して、私が打つ、
というところです。
我ながらメリットでも何でもありませんね。
でもこのコラムを読んで、もし「こいつに打たせてやろう」と思ったとしたら、どうぞ予約してください。
(2021年6月18日)
かかりつけ枠
当院の受診歴のない方は通常の流れに従ってネット予約をしてください。
繰り返しになりますが、その場合大規模接種会場の方が早い日にちで予約できると思います。
神戸市の広報には電話予約可と書いてありますが、嘘です。
電話予約はできません。
ご了承ください。
かかりつけの方は電話でご相談ください。
ネットで予約するよりも多少早い日にちを提示できるかもしれません。
100%希望に添えるとは限りませんが、かかりつけ医としてできる限りの事をします。
(2021年6月21日)
科学の進歩
1964年、新幹線が開通しました。
当時の在来線特急の最高速度は時速160キロ程度でした。新幹線はいきなり時速200キロを叩き出します。
当時は「夢の超特急」と騒がれたようです。
その後新幹線は30年かけて徐々にスピードアップして、ついに1997年には時速300キロを記録しました。
ふと考えます。
もし1964年に登場したのが時速200キロではなく、300キロの超特急だったとしたら。
きっと人々は素直に歓迎できなかったと思います。怖がる人も多かったのではないでしょうか。
私も乗るのをためらっただろうし、身近な人には乗らないように説得したでしょう。
つまり捉え方の問題です。
新型コロナワクチンはゼロの状態からいきなり登場してきた魔法のおクスリなのか、それとも何十年にも及ぶ積み重ねの延長線上の一歩なのか。
怖がる人の気持ちはよく分かります。
1964年の人が今の新幹線を見ると、「走る棺桶」のように感じるでしょうから。
(2021年6月23日)
新型コロナワクチンに関していろんな人がいろんな事を言っています。
うまいことやるなあ、と感心させられた言い方があります。
喫煙や気候変動についてもずれたことばかり発言してきた武田邦彦さんですが、今回も実に見事なテクニックを見せてくれました。
彼は言います。
「医者の中でもワクチンに賛成する人もいれば反対する人もいる」
うーん、さすがです。
こう書くと賛成派と反対派が拮抗しているように見えます。
まるで医者の中でも意見が真っ二つに分かれているかのようです(もちろん違います)。
「血圧を下げた方がいいと言う医者もいれば、高いくらいの方がいいと言う医者もいる」
「残業はしたくないと言う社員もいれば、サービスでも残業したいと言う社員もいる」
「テレビゲームを長時間やって成績が下がる生徒もいれば、上がる生徒もいる」
ごくごく少数派の希少意見を大きーく見せるこつです。
日常生活でも応用できそうですね。
(2021年9月24日)
マスコミでもSNSでも、副反応の話題でもちきりです。
ワクチンを打つ人が高齢者から若い世代に移ってきたのがその要因ですが、若い方が副反応が強いということではないと思います。
単純に情報発信力の問題でしょう。
当クリニックでは、38度以上の発熱や極度の倦怠感など、仕事を休まざるを得なかった副反応が見られた人は1割以下です。
SNSでは副反応は格好の話題ですからみんなが取り上げます。そのせいであたかもほとんどの人に副反応が発生するかのような印象が生まれてしまうのはある程度仕方がないでしょう。
問題は何のためにワクチンを打っているのか、という点です。
インフルエンサーと呼ばれる有名発信者のコメントを見ると、新型コロナを防ぐためという根本的視点が抜け落ちているのに驚かされます。
「38度の熱で次の日動けなかったよー」
という文章のあとに
「でも本物のコロナだったらこれくらいじゃすまなかったんだよね」
と続けてくれたら、と思ってしまうのです。
(2021年9月27日)
若い人の考え方はよく分かります。
「これまでかからなかった、なのでこれからもかからないだろう」
これでは副反応の苦しさを、本物のコロナの症状と比べるという発想ができないのは当たり前です。
でもこれは若者ならではの考え方です。というか、こういう考え方ができるのが若者の特権です。
私もかつては自分は年を取らないものと思っていました。
二十代の頃、先輩医師に「四十代になるとお腹が出てくるよ」と言われても「自分だけは別」と思っていました。
それどころか「自分だけは二十年たっても四十歳にはならない」とさえ思っていたくらいです。
ところが今、四十代の先輩たちによってなされた予言は全て成就されました。
「四十になると脂っこいものが食べられなくなる」「酒が弱くなる」「目が悪くなる」「人の名前が出てこない」などなどなど。
唯一外れたのは「四十になると金回りがよくなる」くらいでしょうか。
でもこれを若い人に言っても絶対にまじめに聞いてくれないと思います。
「そのうちロース肉がもたれて食べられなくなるよ」と言っても「いやいや俺だけは別」と無視されるでしょう。
「四十になるとしわができるよ」と言っても「私はサプリを飲んでいるから大丈夫」と返されるでしょう。
だから「副反応よりも本物のコロナの方が10倍怖いよ」と言っても「黙れ、老害」としか思われないでしょう。
というわけでワクチン接種率はせいぜい75%で頭打ちだろうと私は思っています。
(2021年9月29日)
この間ショッピングモールで仕事をしていたのですが、優先駐車場に一台の車が入ってきました。
ドアが開くと小さな子どもたちが飛び出してきて、続いて両親が下りてきました。
父親が吸い殻入れのごみを足元に捨てると、一家そろって楽しそうにショッピングモールに向かっていきました。
心和ませるほのぼのとした光景でした。
この子どもたちは将来、何の躊躇もなく優先枠に車を停める大人になるのでしょう。
何の戸惑いもなくゴミをその辺に放り捨てる大人になるのでしょう。
そしてまた同じような子どもを産んで育てるのでしょう。
時代の流れによって、虐待する親から子どもを取り上げることはようやく可能になってきました。
まともにしつけることができない、私はそれもある意味虐待の一種だと思うのですが、そういう親に強制力をもって指導できる時代がくるのはまだまだ先です。
(2021年10月1日)
なぜならばどんな親にも子どもを育てる権利があって、どのようにでも育てる自由があるからです。
権利、自由。とっても美しくてきれいな言葉です。
でも考えれば考えるほどよく分からない言葉でもあります。
したいことがあるのにそれが何者かによって妨げられる時、私たちは権利という言葉をもって抵抗します。
やりたくないのに強制される時、私たちは自由という言葉をもって反論します。
根本的な問題は「したいこと」や「やりたくないこと」の中身について触れずに言葉だけが独り歩きするところです。
自由と権利を持ち出せば議論が終わってしまうところです。
「ワクチンを打たない自由がある」
「ワクチンを打たないことによって不利益を被らない権利がある」
はい、議論が終わってしまいました。
(2021年10月4日)
ためしにこの二語を封印してはどうでしょうか?
たとえば酒やタバコに関して社会や他者に対する影響を書き出すと、こうです。
酔っ払いが他者に迷惑をかけることがしばしばある。
タバコの煙は臭い。
副流煙が非喫煙者を健康をむしばむ。
ポイ捨てが非常に多い。
それぞれ自分の健康もむしばむ。
一方どちらも社会に対する寄与はゼロです。
これらを自由とか権利とかの言葉を使わずに天秤にかけます。
酒もタバコもこの世からなくなった方がいいという結論になりました。
とっても議論の見通しがいいです。
本来この世からなくなった方がいい嗜好品を社会に認めてもらう一番手っ取り早い方法はお金です。
酒とタバコをたしなむ者が社会のためにいくら負担するか、です。税金としていくら払うか、です。
私の感じとしてはビール350缶100円、タバコ1本50円くらいが適切なような気がします。
ちなみに現在はそれぞれ70円と15円。
実際の額の設定は政治家の仕事になりますが、タバコの税金はちょっと安すぎますね。
(2021年10月6日)
第5波の急速な消退によってワクチンの社会全体への効果ははっきりしました。
1)ワクチン接種はそれ自体が社会への寄与である。
2)接種しないという行為は、集団免疫の獲得に寄与せず、その恩恵だけ受けることである。
自由も権利も持ち出さなければ、前提は上の二つだけです。
とすると、打たない人は何らかの方法で打つ人にその恩恵を還元してもいいと思います。
単なる感謝の気持ちでもいいし、打てないわけでもないのに打たない人への啓蒙活動でもいいと思います。
でもそれを提案するのは打たない人の役割であるべきです。
今、その単純な図式が複雑怪奇にゆがめられているのがワクチンをめぐる議論の不幸なところだと思います。
(2021年10月8日)
喫煙率がどんどん下がっています。
多くの人がタバコの害についての情報を真摯に受けとめた結果です。
まだ吸い続けている人がその情報を知らないわけではありません。
彼らはこの世に氾濫する雑多な情報の中から間違ったものを選択してしまったのです。
その誤情報の発信源はマスコミかもしれませんし、SNSかもしれません。行きつけの居酒屋の常連客かもしれません。
つまりその人にとってのインフルエンサーです。
私が心配なのは、いくつかの局面ですべて間違ったメッセージを発信しているインフルエンサーがいること、そしてその間違ったメッセージの方を心地よく感じてしまう人がいることです。
「男ならタバコを吸って当たり前」
「うるさいやつは拳で黙らせろ」
「女は子どもを生んでなんぼ」
50年前の中学生が言いそうなことをいまだに言っている人がいて、それに「ふんふん、なるほど」とうなずいている人が一定数いることです。
(2021年10月11日)
50年前、右も左も関係なく前へ前へ押し流されていた時代。
私たちを後ろから押してくれていたのはブルドーザーのような巨大な鉄壁でした。
ぼーっとしていても前に向かって進めました。
今人々を前方に流しているのは目の荒い網です。ゆるゆるの柵です。
それに捕まり損ねると取り残されます。
たくさん流れてくるものの中から正しい情報を選択する力がなければ、あっという間に置いていかれます。
経済的にも、立場的にも、健康的にも。
以前、人々は均等にタバコを吸って、みんなが均等に病気になっていました。
今は均等ではありません。喫煙者と非喫煙者との間の格差が顕著になってきました。
タバコを吸う人は、無駄な出費を強いられ、ちょっと贅沢な食事の途中で何度も席をはずし、そもそも高級な店やホテルを楽しむことができず、そして非喫煙者よりも高い確率で病気になっていきます。
タバコを吸うという間違った選択をすることで、それに伴う不利益が洪水のように押し寄せてきます。
それも権利と呼ぶなら、もはや権利なんてただの言葉遊びです。
無意味だし邪魔になるだけ。少なくとも議論の根拠にすべき概念ではありません。
(2021年10月13日)
最初の話に戻りますが、我が物顔で優先枠に車を停めて、灰皿のゴミをそこらへんに捨てて、買い物カートを置きっぱなしにする親は自分の子どもをそう育てます。
そうした子どもが、ショッピングモール以外では人に迷惑をかけずにきちんとマナーを守って生きていける、なんてありえるでしょうか?
いいえ、ありえません。
一方社会全体はどんどんクリーンな方向に進んでいます。
多様性には寛容になっている社会ですが、マナーやモラルには厳しい方向に進んでいます(順番は逆で、マナーさえ守ればあとは好きに生きていいという流れですね)。
しつけられていない子どもたちにとってはどんどん生きづらい社会になっていくでしょう。
つまり子どもをきちんとしつけられない親は、子どもが将来幸せに生きる権利を削り取っているわけです。
私はそういう親の権利よりも子どもの権利を守ってあげたいと思うのですが、おっと議論に「権利」を持ち込んでしまいました。
ここでの結論は「子どもをわざわざ生きづらく育てている親がいる」、ということです。
(2021年10月15日)
以前も書いたことがありますが、マナーの悪い人たちは社会に対して被害者意識を持っています。不満やひがみではなく、被害者意識です。
若い人は知らないと思うのですが昔は暴走族という連中がいて、土曜の夜遅くなど繁華街を騒音をまき散らしながら暴走してました。
走りたいなら田舎のサーキットでも走れよ、と道沿いの人々は思っていました。
でも、田舎を走ったのでは意味がないのです。
彼らの目的が復讐、というと立派すぎます、そう、嫌がらせだからです。
彼らはなぜか社会や私たちからいじめられていると思い込んでいるようなのです。
実際に社会がいじめているわけではありませんから(誰もいじめてませんよね?)、これもしつけの結果なのでしょう。
マナーの悪い親は子どもに社会に対する被害者意識を植え付けて、「だから俺たちは迷惑をかけてもいいんだ」「むしろ仕返しのためにはこれくらいは当然」と教え込んでいるに違いありません。
マナーの悪い親が家でどういう風に子どもをしつけているのか興味があります。
嘘です。全然興味はありません。
(2021年10月18日)
不良学生たちを「授業や校則の締め付けに対する反発」という言葉で理解しようとする人々がいます。
でも宿題や髪型に反発してグレた子どもたちも不良グループの中では集団内ルールには尻尾を振って従います。そこのルールが非合理的で理不尽であっても、です。
これも社会に対する被害者意識が理由だと考えると腑に落ちます。
彼らは縛られるのがいやではないのです。
むしろ好きな方かもしれません。
ただ社会が要求する決まりごとは全部嫌がらせに思えるのです。
そしてそれは幼少時から親にじっくりと叩き込まれた先入観なのです。
差別に対する考え方はどんどん変わってきています。
たまに20年前のお笑い番組を見ると、差別意識に基づく笑いがかなりの割合を占めていてぞっとします。
これを面白いと思っていた当時の自分が恥ずかしいです。
しかし差別意識も親から子に受け継がれます。
自分が親から受けた教育を振り返るに、積極的な差別は植え付けられなかったと思う一方、差別に対する不感症という消極的な差別は植え付けられていたと思います。
よくよく考えてみるとマナーの悪い人々の「一子相伝の被害者意識」も全然他人事ではないのでした。
(2021年10月20日)
いじめや差別についてはよく分からないことがあります。
人が人をいじめたくなる感情のうちどれほどが本能的なもので、どれくらいが後天的な刷り込みなのか。
100%後天的なものであれば教育や啓蒙でゼロにすることは可能です。
でもいじめは大昔から全ての国で、学校でも会社でも地域社会でも等しく存在してきました。
完全に後天的な刷り込みであるとは信じがたいです。
いじめ犯の大半はそそのかされたり、その場の雰囲気に流されて加担したのでしょう。彼らは教育によって矯正できると思います。問題はいじめの首謀者、先導者です。彼らのいじめに常習性はあるのでしようか。再犯率はどのくらいなのでしょうか。矯正は可能なのでしょうか。
いじめに関しては教育的見地から扱わることはあっても犯罪として分析されることはあまりありません。
人を死に至らしめることもある重罪として、ちゃんとした分析と研究をしてほしいです。
(2021年10月22日)
専門家の研究によっていじめや差別が仮に撲滅できたとして、次に、マナーの悪い人たちの被害者意識を解消することはできるでしょうか?
これはとっても難しいです。
理由は非常に簡単で、格差が広がる一方だからです。
高度成長時代、「一億総中流」という言葉がはやりました。みんながその言葉を信じました。
頑張ってもサボっても普通に暮らしていける、日本はそういう国だと思い込まされました。そしていつまでもそうあり続けるものと信じていました。
多くの人がそんな話を信じていた時に、「いやいや、そんな美味い話があるわけがない」と考えた人も少なからずいました。そういう人たちは公立教育だけでは足りないと判断して子どもを私立学校や塾に通わせました。
その目的は子どもに「社会での競争力をつけさせるため」です。
いい大学やいい会社に入るのが目標ではありません。
本当の目標は、高い教養と情報の選択力、それから何よりも大切なのが、自分と同じ水準の友人を獲得することです。
(2021年10月25日)
この友人というのがポイントです。
彼らはこの友人関係の中から結婚相手を見つけます。
その子どもも自分の友人たちの間から結婚相手を見つけて、さらにその子どもも同じように結婚します。
そしていよいよ戦後四代目に突入しました。
この間兵庫医大の学生さんたちと会う機会があったのですが、びっくりしました。
全員がイケメンで美人です。
戦後二代目の私の時代の医学部生と比べると全然別の人種のようでした。
彼らはサークル活動にいそしみ、ボランティアにも積極的で、性格も穏やかで優しい(たぶん)。
一方被害者意識を抱えた人たちもその人たち同士で結婚します。
イケメンで勉強もスポーツもできて性格もいい四代目たちの、どんどん遠ざかっていく背中を見て日々被害者意識をこじらせていきます。
もっと分かりやすいのは、クリニックの隣の塾です。
毎日遅くまで勉強している子がいる一方で、緊急事態宣言下でも三宮で遅くまで騒いでいる子たちがいます。
どこに格差を縮められる要因があるでしょう。
間違いなく広がる一方です。
(2021年10月27日)
低所得者層に助成金をばらまこうという政党があります。
ばらまき政策が選挙公約としてふさわしいのかどうかは置いておいて、せっかくなら有効にばらまいてほしいものです。
被害者意識を持っている人たちに聞きたいのですが、政府から十万円もらったとして感謝の気持ちを持っていただけるでしょうか?
もし晩ご飯の時でも子どもたちに「俺たちの政府や社会もなかなかやるなあ」としみじみ語ってくれるのならばらまきの価値はあると思います。
でも前回の給付金の時、窓口で係の人に怒鳴る人はいても感謝する人はいなかったように思います。
ばらまきは被害者意識の解消に役立たないような気がして仕方ありません。
いっそのこと全寮制の小学校を作って、そこに入学すれば六年間の食事代、部屋代、それに年齢に見合ったお小遣いが給付されるようにすればどうでしょう。
たまに帰ってきた子どもが、相変わらず愚痴っている父親に「お父さん、社会はそんなに悪いもんじゃないよ」とたしなめてくれたら親の世代の被害者意識も少しはほぐれるかもしれません。
(2021年10月29日)
で、ばらまきを約束して選挙戦を戦うのは許されるのか、です。
今の公選法では運動員に、定められた以上の報酬を払うことは許されていません。「選挙運動後に払う」という口約束をしただけでもアウトです。
運動員への口約束はダメで、「当選したらみんなに10万円」という公約はOKという線引きが私の心の中でうまく落ち着いてくれず気持ち悪いです。
こういう時はその法律が何のために決められたかを考えると理解できることがあります。
ブラック校則というものがあります。
たとえば「トイレットペーパーは一回につき30センチまで」などの理不尽でバカな校則の数々です。
でもこれなどは簡単に想像できます。
かつてトイレットペーパーでミイラ人間ごっこをした生徒がいたのでしょう。彼は注意した教師に対して、トイレットペーパーを無駄遣いしてはいけないという校則でもあるのか、と食ってかかったのだと思います。そしてたちまちブラック校則の出来上がりです。
バカな校則を作ったのはたいていバカな生徒です。
(2021年11月1日)
有権者の買収を禁じるのは、はした金でせっかくの権利を売り渡す人が少なからずいるだろうと想定したものです。大衆は目先の利益で大局を見失うものだ、という考え方が前提になっています。それに従うならばばらまきを公約に掲げることも立法の趣旨を損なうものです。
しかしそもそも政治とは人々の相反する主張を調整するためのものです。利害がぶつかり合う人たちをともに納得させるために生まれたのが選挙というシステムです。人は自分の利益を主張するものだ、ということが大前提です。
とすると買収を禁ずる法律の方こそ民主主義の根幹を無視したゆがんだもののような気もします。
いっそのこと買収も合法化しましょう。
一票の対価として千円もらった人はどんどんSNSで自慢してください。
もらっていない人は怒りますよね。
もらった人が必ずその人に投票するとは限りません。
もらったのが自分は千円で近所のおばさんは一万円だったとします。もらった方もうれしくないと思います。絶対に投票しないと思います。
禁ずるよりもオープンにした方が選挙戦が楽しくなると思います。
(2021年11月3日)
国政選挙と同時におこなわれる最高裁判事の国民審査もよく分かりません。
ご存じの通り、信任に○、不信任にXをつけるのではなく、不信任の場合のみXを付けるというやり方です。
逆の投票方法はよくあります、というか、普通は逆です。
アイドル総選挙、美味しいケーキグランプリ、今年の映画ナンバーワンなどなど、気に入ったものに○をつけるやり方です。
議員選挙もこのやり方ですし。
これに対してXをつけさせる方式はあんまり思いつきません。
仕組みを作った人がどうしてこの方式を採用したか想像するに、「下々の者にごちゃごちゃ言われたくないが、一応聞く耳は持っているという姿勢は示しておこう」という思考経路くらいしか思い浮かびません。
「お前たちにはこれくらいの民主主義がふさわしい」との思し召しなわけです。
でももうちょっとだけ判断材料を見せてくれないでしょうか。
国民から質問を募って、10個くらいに絞って、それには言葉を濁さずに答えてもらいたいです。
「議員の世襲は機会均等に反するのではないか」「クォータ制は違憲ではないのか」「観たい人がわざわざ金を払って観る映画にどうしてモザイクを入れないといけないのか」
もちろん夫婦別姓の是非や自衛隊と憲法との整合性についてもお願いしますね。
(2021年11月5日)
このように私たちの民主主義は実はいい加減でテキトーなものです。
私の頭では民主主義の完成形がどんなものか想像すらできませんが、今の民主主義がひどく未完成であることは確かです。
前に書いたことがありますが、小選挙区の候補は2週間無人島に放り込むのがいいと思います。力を合わせてサバイバルなり脱出をしてもらいましょう。そしてその様子を生放送で中継してほしいです。指導力や調整力の有無がはっきり分かります。
比例代表では本当に訴えたい公約をそれぞれ主張してほしいです。
ペットショップの国営化を訴える候補者がいればその他の主張がぶれぶれであっても、あるいは私の主義と真反対でも票を投じます。
と言いつつ、タバコのフィルターのデポジット制を訴える人がいれば迷ってしまいますが。
そうだ、開票だって謎の手作業に頼らなくてもいいはずです。機械集計にすれば無効票や不明票もなくせます。ややこしい計算だってあっという間なので一人一票でなくてもよくなります。
全員に十票持たせて、この議員に八票、この議員に二票という風に投票できるようにしてもいいのです。
当選させたくない議員にマイナス票を投じるシステムも構築可能です。
若い皆さん、私たちには思いつきもしなかった斬新な選挙制度を作ってください。
何をどう変えてもこれ以上悪くはなりません。
どうぞ好きなようにぶち壊してみてください。
(2021年11月8日)
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谷崎潤一郎全集、ついに全巻終了しました。
19巻と20巻は少し変則的で、19巻に「細雪」の「上」と「中」および雑纂。20巻に「細雪」の「下」と雑纂が収録されています。
どういう風に読み終えるのがいいかちょっと考えましたが、
20巻の雑纂→19巻の雑纂→「細雪」の「上」「中」「下」
と読み進めるのがベストだと結論しました。
割とどうでもいいことですが。
そんなことよりも問題はあらすじです。
(2021年8月20日)
(112)
ちまたでは「何も起こらない小説」と言われたりしますが、「細雪」では結構大事件が起こっています。
阪神大水害も発生していますし、その直後の板倉のエピソードも衝撃的です。
そもそも主要登場人物だけでも絞りに絞って3人。
背景の説明だけでも200文字に収まるわけがありません。
でも、やります。
恒例の200文字あらすじ。
あれも、あれも、それにあれも、ばっさりカットしてのあらすじです。
船場の富商蒔岡は先代で没落し店も人手に渡っていた。長女夫婦は本家を名乗っていたが実体はない。三女雪子と四女妙子は本家と肌が合わず次女幸子の芦屋の家によく出入りした。連れだって歩く三人の姿は人目を引いた。雪子は縁遠かった。縁談があっても本家の見栄と本人の内気のせいでまとまらなかった。やっと結婚が決まった。式は東京でおこなわれる。雪子は支度を整えて汽車に乗った。数日前からの下痢はまだ治まらなかった。
(2021年8月23日)
(113)
いろいろ大事件が起きているのに「細雪」が「何も起きない小説」と言われるにはわけがあると思います。
最大の大事件「阪神大水害」の場面があんまり面白くないのです。
私も、知っている地名がたくさん出てくるので何とか読み通せましたが、そうでなければ斜め読みしていたと思います。
あと板倉の病気も、職業的な興味で読みましたが、面白かったかと言われれば素直にうなずけません。
読んでいる時はすっごくいらいらするのですが、雪子が電話口でおろおろしてしまって縁談をぶち壊してしまう、そんなところが何だかんだ言って面白かったのだと思います。
ところで板倉の病気ですが、中耳炎をこじらせて乳様突起炎を起こし、それがさらに悪化して菌が全身に回ったものと思われます。
乳様突起というのは耳のすぐ後ろの少し出っ張った部分で、この部分の骨は空洞だらけになっています。
そこに菌が入ると膿の逃げ場がなくなって急激に悪化するのです。
抗生剤の登場とドレナージ術の確立で最近は減ってきましたが、まだ稀に発生するようです。
(2021年8月25日)
(114)
身体の中に溜まった膿を外に逃がしてやる処置を「ドレナージ」といいます。
乳様突起に限らず、体内の閉じられた空間に膿が溜まった時には抗生物質をどんなに使ってもよくなりません。
膿を外に出す処置が必要となります
頭でも胸でもお尻でも同じです。
逆に、上手に膿を外に逃がしてやれば抗生物質など必要ないほどです。
ところがこのドレナージがなかなか難しいです。
膿を速やかに外に出すためには大きく切開すればいい、というのは誰でも分かっています。
ですが「大きく切る」というのができそうでできません。治療のためと分かっていても人の身体に傷を入れるのには本能的な抵抗感を感じてしまうのです。
私もそうです。ドレナージ処置のたびに思います。「切開すべき大きさの九割しか切れなかった」と。
特に最近、外科医は「いかに傷を小さくするか」ばかり考えています。
「大きく切れ」なんて言われようものなら頭がおかしくなるのではないでしょうか。
医学がどんなに進歩しても身体の中に膿が溜まるケースは一定頻度であります。
しかし大きく切れる外科医は減る一方です。
近い将来、再び乳様突起炎が命にかかわる病気になる時代が来そうな気がしてなりません。
(2021年8月27日)
(115)
そういえばずいぶん前に書いたことがあります。
今は何でも内視鏡でおこなうのが大流行りです。
お腹を切って胆嚢を取る病院なんてもう存在しません。
ですがその技術は開腹手術の達人たちが確立させたものです。
術中に何かアクシデントが発生してもすぐに開腹手術に切り替えて対処できる外科医によっておこなわれてきたのです。
その世代の外科医はそろそろ引退していきます。
残るのはお腹に大きくメスを入れたことのない外科医ばかりになります。
その時代に、たとえば術中に胆嚢動脈に傷をつけてしまった時、彼らが対処できるのか、不安だったりします。
まあ、そういう旧世代の不安を飛び越えて新技術は確立されていくものですが。
私が内視鏡手術を受ける時には、スタッフに一人は私と同世代の医師が加わっていてほしいものです。
(2021年8月30日)
(116)
「細雪」に戻ります。
幸子の家は芦屋にあるという設定なのでいろいろ見知った場所が出てくるのが楽しいです。
家のモデルは住吉川沿いにある倚松庵(いしょうあん)と言われています。
実際には今の魚崎駅の近くにあったらしいですが六甲ライナーの建設にともない現在の場所に移設されたそうです。
いずれにしても風情のある場所だと思うのですが、谷崎がどうしてこれを芦屋に設定しなおしたのかはよく分かりません。
先日の納涼夕涼み会に行ってきました。
雨のため窓が閉め切られていたために、夕は涼めませんでしたが面白かったです。
リビングです。
当時の状況をどれだけ再現したレイアウトなのかよく分かりませんが、外見からは想像できないハイカラな家です。
窓の隙間から見える庭です。
(2021年9月1日)
(117)
なぜか芦屋に設定された幸子の家ですが、それが芦屋のどのあたりにあるのか興味深いです。
一番参考になるのがこの部分です。
幸子の家から蘆屋川の停留所までは七八丁と云うところなので、今日のように急ぐ時は自動車を走らせることもあり、又散歩がてらぶらぶら歩いて行くこともあった。そして、此の三人の姉妹が、たまたま天気の好い日などに、土地の人が水道路(すいどうみち)と呼んでいる、阪急の線路に並行した山側の路を、余所行きの衣裳を着飾って連れ立って歩いて行く姿は、さすがに人の目を惹かずにはいなかったので〜(第19巻44ページ)
その他にも参考になる文があちこちにあって、それを総合すると清水町あたりではないかと推測されるそうです。
げんこつラーメンのすぐ北側ですね。
そのあたりの推論はこちらの文学探求サイト「 東京紅団」で詳しいです。
(2021年9月3日)
(118)
雪子の眼のふちにはシミがあります。
日によって濃くなったり薄くなったりするそうです。
本人はさほど気にしていないようですが、姉の幸子はお見合いの日が近づいてくると気になって仕方ありません。
ついにある日皮膚科で診察を受けさせます。
その結果は「結婚すれば薄くなるから気にしなくていい」というものでした。
これは「肝斑」っぽいです。
女性ホルモンと関係したシミで、三十代から出現して五十代になると薄くなっていきます(微妙に谷崎の記述とは食い違いますが)。
現代でも根本的な治療は難しいようで、トラネキサム酸の服用が中心となります。
当院だとトランサミンですね。
1か月分3割負担で千円程度の薬です。
(2021年9月6日)
(119)
「細雪」を特集するにあたって雪子のお見合い戦歴をまとめようと思ったのですが、詳しくまとめてくれている人がちゃんといました。
その名もずばり「雪姉ちゃんは目のふちが気になる」。
私が考えたよりも詳しく、分かりやすく、しかもきれいな文章でまとめられています。
こういうのを見ると自分が「細雪」について語るのが恥ずかしくなります。
でも、語るのですが。
(2021年9月8日)
(120)
谷崎についてはプロの研究者からアマチュア愛好家までありとあらゆる本読みによって研究や叙述がなされているので、今更私の出る幕はありません。
せめて神戸元町界隈の描写だけでもまとめておきましょう。
「МB化学工業云うたら、仏蘭西系の会社やねんなあ」
「そうやわ。ーよう知ってるなあ、こいさん」
(中略)
「日本にかて、神戸の海岸通に大きなビルディングあるやないか」
(第19巻10ページ)
このМB化学工業は当時の帝国酸素(現・日本エア・リキード株式会社)がモデルだったそうです。
これもこちらのサイトに詳しいです「阪急・阪神沿線文学散歩」。
建物も残っていて、今は大丸別館のHERMESが入っているビルですね。
気軽には入れない、すごーく敷居の高い建物です。
(2021年9月10日)
(121)
続いて第19巻13ページ。
井谷と云うのは、神戸のオリエンタルホテルの近くの、幸子たちが行きつけの美容院の女主人なのであるが、(後略)
オリエンタルホテルは今回の雪子のお見合い会場で、このあとも何度となく登場します。
結婚式でもお見合いでも会食でも、「ハイソが使うならここ」のような場所だったようです。
ただ、調べてみると谷崎の時代の建物は神戸大空襲で被害を受けて取り壊されたそうです(3代目)。
私が覚えている旧オリエンタルホテルはそのあと再建された建物(4代目)なんですね。
井谷はホテルの専属美容師みたいな感じでしょうか。
世話焼きでもありますが、実際に顔も広いようです。
で、特筆すべきは井谷の人のよさ。
プライドだけ高くて優柔不断でわがままな蒔岡家のために実に根気よく骨折ってくれます。
「しょーもない人」ばかり出てくる「細雪」を救ってくれているのは幸子の夫貞之助と、この井谷の常識人ぶりだと思います。
(2021年9月13日)
(122)
さらに第19巻104ページから、
妙子の個展は今度は神戸の鯉川筋の画廊を借りて三日間開催され、阪神間に顔のひろい幸子の蔭の運動もあって、第一日で大部分の作品が売約済になると云う成績を挙げた。
この画廊は大塚銀次郎によって開かれた「画廊」という名の画廊だそうです。
それについてはこの「兵庫県立美術館季刊誌ARTRAMBLE」に詳しいです。
元町一丁目で鯉川筋の東側、というのがピンと来ませんが、まあ、あのあたりですね。
当時からお洒落な一帯だったようです。
ところで私が神戸に来た平成元年、鯉川筋では工事がおこなわれていました。
長〜いこと工事が続いていた印象があります。
私はてっきり地上を流れていた鯉川を地下に埋める工事なのかと思っていました。
つまり、妙子が個展を開催した当時、その画廊は鯉川のほとりにあったのだろう、と。
しかし調べてみると平成元年の工事は、もともと地下河川だった鯉川の改修のための工事だったそうです。
明治時代に鯉川は暗渠化されていたのでした。
ですから妙子の個展の時には鯉川は既に地面の下だったことになります。
(2021年9月15日)
(123)
そうそう!
三宮から大丸の北側までまで続く地下道がありますが(サンポチカという名前に決まったそうです)、どうして元町商店街までつなげないんだろう? と疑問に思っている人は多いと思います。
ほんの数メートル掘るだけなのに、私もそう思っていました。
でも、ここには川が流れているんですね。
何も考えずに穴を開けたら地下道が水浸しになるところでした。
そうは言いつつ、何かいい方法があるような気もしますが。
(2021年9月17日)
(224)
そして同じページの最後の方です。
「そんなら、東雅楼にしてんか、彼処が一番安いよってに」
「ケチやなあ、こいさんは。オリエンタルのグリル奮発しんかいな」
東雅楼と云うのは南京町にある、表の店で牛豚肉の切売もしている広東料理の一膳めし屋なのであったが、四人が奥へ這入って行くと、
「今晩は」
と、登録器の所に立って勘定を払っていた若い西洋人の女が云った。
ネットで調べても「東雅楼」についてはよく分かりません。
南京町の古い地図をあたるか、お年寄りの方に話を聞くしかないと思います。
今度南京町の人に会ったら聞いてみますね。
(2021年9月22日)
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20世紀の映画71本目は1992年、ポール・バーホーベン監督の「氷の微笑」です(何という落差!)。
当時観た時はキワモノ映画という印象を受けました。
お色気重視で、ストーリーの展開も行き当たりばったり。
最後のどんでん返しも、いかにも取ってつけた風であんまり感心しませんでした。
でも今観直してみると案外ちゃんとしています。
プロットがきっちり練られていて、「意外な展開」も決して強引ではありませんでした。
全体として非常にゲームバランスのよさを感じました。
30年前にはあのシーンに目を奪われてのぼせ上ってしまったのが、やっと冷静になって評価できるようになったということでしょうか。
(2021年6月25日)
20世紀の映画72本目は1936年、ジョージ・スティーヴンス監督の「有頂天時代」です。
フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースというこの時代を代表するゴールデンコンビの6作目。
この映画はすごいです。
だってフレッド・アステアは演技する気ゼロ。
ストーリーも目を覆いたくなるようなテキトー加減。
でも、そこをつっこもうものなら監督に
「だってお前らこの二人のダンスが見られたら満足なんだろ?」
と開き直られそうな映画です。
確かにそれでじゅうぶんです。
そして映画って本来はそういうものなんだよなあ、とつくづく思わされる映画でもあります。
(2021年6月28日)
20世紀の映画73本目は1935年、サム・ウッド監督の「オペラは踊る」です。
マルクス兄弟という名前は聞いたことがありましたが、映画を観るのは初めてです。
まあ見事な(面白いという意味ではない)ドタバタ劇です。
ストーリーは、あります。
でもそんなものはおかまいなく、ひたすらナンセンスギャグが繰り出されます(面白いという意味ではなく)。
きっと、彼らが画面に登場するだけで客が大喜び、という時代だったのでしょう。
彼らに思い入れがない立場で観ると厳しい場面も多いです。
ちょうど「チェッカーズ・イン・タンタンたぬき」みたいな感じでしょうか(観てませんが)。
何か所かは笑えるところもあります。
ピアノやハープの場面はかなり楽しめます。
彼らのギャグとは関係ないですが後半のオペラ「イル・トロヴァトーレ」も華やかでいいです。
でもやっぱり今観るにはちょっと厳しいです。
(2021年6月30日)
20世紀の映画74本目は1939年、フランク・キャプラ監督の「スミス都へ行く」です。
ある州の上院議員が急死しました。悪い政治家たちは言いなりになる人物を後釜に据えようと若者スミスに目をつけました。
彼はボーイスカウトのリーダーで、正義感にはあふれていましたが政治には全く無知でした。
彼は無事に選出されて都に行きます。
そこで彼は政治の闇を知らされました。
自分を担ぎ出した連中が実は巨大な不正の張本人であることも知らされます。
彼は彼らの不正に立ち向かおうとして逆に罠にはめられます。
濡れ衣を着せられて議会から追放されかかります。
さあ、スミスはこの大ピンチをどうやって乗り切るのでしょうか!
……というお話です。
当然この先はハラハラドキドキの法廷サスペンスになると、誰もが思いますよね。
ところがそうはなりません。
法廷戦術に持ち込まないとすれば、一体彼はどうやって戦うのでしょうか?
はい、ネタバレですが、何もしません。
彼は何も戦いません。
いや、ある意味戦ったのかもしれませんが、自分でも何のために何をやっているか分からない状態だったと思います。
戦ったというよりは「じたばたした」くらいの感じでしょうか。
間違いないのは、この展開ではあんまりカタルシスが得られない、という点です。
後半の脚本は古沢良太に書き直してもらいたいです。
(2021年8月2日)
20世紀の映画75本目は1941年、オーソン・ウェルズ監督主演の「市民ケーン」です。
(1)
野心的な新聞王チャールズ・フォスター・ケーンが亡くなりました。
彼の謎めいた一生を明らかにしようとテレビ記者の主人公が関係者の話を聞いて回ります。
彼らの証言にもとづく再現フィルムという形で彼の人生が再構築されます。
なので彼の生涯が時系列順に描かれるわけではありません。
起承転結もはっきりしません。
さっきの場面からどこがどうなってこの場面に続くのか、その説明も不親切です。
ケーンが死の床で言い残した「薔薇の蕾」の正体も、分かったような分からないようなオチです。
ですが、この映画には不思議な魅力があって。
その魅力の最大の要因は映像的迫力です。
Wikipediaその他解説を読むと、この映画のためにウェルズが数々の斬新な撮影技法を開発したと書いてあります。
まさに「この映画のために」というところがポイントです。
この映画のためにはこの技法が必要だったわけです。
若きウェルズのエネルギーがびんびんに伝わってくる映画です。
(2021年8月6日)
(2)
問題は、だからといって面白いというわけではないところです。
話が直線的に進まないし、紹介されるエピソードの全てが面白いわけでもなく。
オチもつまらないし、そもそもケーンがそれほど興味深い人物でもない。
個人的には、画面から噴き出すような熱量は好きですが、映画としての完成度はどうかというとよく分かりません。
ところで「ピーナッツ」にこんな場面があります。
ライナスがテレビで「市民ケーン」を観ています。
何度も再放送された映画ですが、彼が観るのは初めてのようです。
そこにやってきたルーシーが「私はもう10回以上観たわ」と言って「薔薇の蕾」のネタバレをしてしまうのです。
ルーシーがライナスにネタをバラすのと同時に、作者のシュルツも私たちにネタをバラしているわけで、これは困ったことです。
不思議なのはライナスがこの映画を食い入るように観ているところ。
大人が観ても結構難しいのですが……。
(2021年8月11日)
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85喧嘩(01-085):「東京には酔っぱらいはいないと聞いてましたけど……」花嫁が言った。「でも東京には夫婦喧嘩はありませんね」
86顔(01-086):子役の彼女ほど見物を泣かせる役者はいなかった。彼女は十六で子供を産んだ。娘は彼女に似てなかった。
87化粧(01-087):彼の家の厠は斎場の厠に面していた。厠の窓に、時に化粧する女の顔を見ることがあった。
88妹の着物(01-088):姉は妹のために生きた。妹のために着物をこしらえ、妹の夫を選んだ。妹は死に至る病にかかった。
89死面(01-089):彼が彼女の最後の恋人であることだけは明らかだった。なぜなら、彼女にはもう死が近づいていたから。
死面は「デス・マスク」と呼ばせるようです。
90舞踊会の夜(01090):舞踊会で彼は舞台に弟の昔の恋人を見つけた。彼女は貧乏に堪えかねて弟を棄てたのだった。
91眉から(01091):誰も彼女を美しいとは言ってくれなかった。彼女は化粧が禁じられている職業についた。
92藤の花と苺(01-092):妻の古里の亡くなった友だちの妹から手紙が来た。「青葉ってお姉さんの匂いがするわね、それであの子もお姉さんを思い出したのよ」妻は言った。
この中でちらっと「枕草子」が引用されます。
39段の「あてなるもの」です。
あてなるもの
薄色に白襲の汗衫。かりのこ。削り氷のあまづらに入りて、新しき鋺に入りたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りたる。いみじう美しきちごの覆盆子食ひたる。
簡単にさらっと紹介しようと思ったのに、意味の分かる言葉がほとんどありません。
あてなるとは上品なという意味だそうです。
白襲(しろがさね)の汗衫(かざみ)とは女児が着る軽やかな衣装のようです。セーラー服みたいなものと解釈しました。
かりのこは雁の卵らしいですが、普通に雁のひなの方が可愛いような気もします。
あまづらは大昔の甘味料だったようです。鋺(かなまり)とは金属製の器。錫の器に盛られたさとうきびフラッペを想像して大きな間違いはないと思います。
覆盆子(ふくぼんし)とはイチゴらしいです。当時のイチゴですからかなり酸っぱかったのではないでしょうか。
可愛らしい子どもが喜んで食べている図ではなく、頬張ったものの酸っぱくて顔をしかめているシーンを思い浮かべました。そっちの方がきっと面白いです(「あて」かどうかはともかく)。
(2021年2月15日)
(14)
93秋風の女房(01-093):彼と同じホテルに肺病の夫と看病する妻がいた。死期が迫っていた夫は妻を離したがらなかった。
ここで紹介される狂歌
秋立つを風が知らすや文月の封じを桐の一葉散らして
を読んで主人公は「なんだ下らない」と言います。
調べてみると「桐の一葉(ひとは)」は秋の季語だそうです。
もしかすると季語の由来がこの歌だったかもしれません(ありえませんが)。
あるいはこの歌に詠み込まれた「文」とか「桐」に何か風刺的意味があったかもしれません。
その解説がない以上、確かにこれは下らない歌としかいいようがありません。
「彼はその歌の意味がよく分からなかった」
というのは川端自身の感想と考えていいと思います。
94愛犬安産(01-094):犬のお産は軽いというが昨年は二度難産が続いた。昨年難産だった犬の二度目のお産が近づいていた。
この「愛犬安産」までが三十代の作品です。
二十代のものに比べるとずいぶん力が抜けてきた印象です。
ところで第12回の記事で「踊子旅風俗」までが二十代の作品だと書きましたが、勘違いでした。
その二つ前の「離婚の子」が三十歳誕生月の発表でした。
こっそり訂正しておきます。
95ざくろ(01-095):きみ子の家の庭のざくろが実をつけた。啓吉が訪ねてきた。出征の挨拶に来たのだった。
96十七歳(01-096):姉が見舞いに来た。風呂敷包みを見せてくれた。そこには四つで死んだ上の姉の晴れ着が入っていた。
97わかめ(01-097):食道異物。
食道に引っかかった異物の除去シーンが印象的な小説です。手術室の、緊迫しつつギャグも飛び交う、あの異様なテンションがよく再現されていると思います。
ちなみに父親が口にするのはどうやら「春宵一刻価千金」に引っかけたダジャレのようです。続けて「黒石でよかった」などととぼけたことばかり言う父親に医者も嫌味を言いたくなります。
「すると、お父さんの方が黒だったというわけですね」
しかしお父さんはしれっと答えます。
「誤診誤診、ハマですよ。上げ石ですよ」
ハマというのは相手の石を取ることだそうです。囲碁知らずの私が推測するに、上げ石とは相手から奪った石ということなのでしょう。
そこまであっけらかんと言われると医者も苦笑するしかありません。
技術的にリアルな医療小説やドラマはたくさんありますが、医療現場の微妙な空気感をリアルに描いた作品はあまり思い浮かびません。取材を重ねるだけではこんな場面は描けないと思うのですが、すごく不思議です。
ちなみに、子どもの誤嚥の原因の多くを占めるのはタバコです。
親の喫煙は
副流煙、誤嚥、喫煙習慣
と三重の意味での虐待なわけです。
比喩でも何でもなく、一切の言い訳が許されない虐待です。
繰り返します。
子どもの前でタバコを吸うのは
虐待
です。
(2021年2月17日)
(15)
98小切(01-098):美也子は古箪笥の底から十三四のころ着ていた襦袢を見つけた。袖を工夫すれば着られそうだった。
99さと(01-099):兄嫁は働き者だったが一月三十一日には生まれた村に帰った。よそに出た嫁が帰って団子を食べる習わしがあるらしい。
100水(01-100):内地から嫁いでくると間もなく夫が興安嶺へ赴任になった。そこは石油缶一杯の濁って汚い水を買うのに七銭かかった。官舎から見える真っ青な空は母国の海を思わせた。
「ざくろ」から「水」までが戦時中の作品です。
「さと」と「水」は情報局によって刊行された雑誌の匿名文芸欄に掲載されたそうです。
匿名なので、他にも川端の作品が含まれている可能性があるとか。
興安嶺(こうあんれい)というのは満州とシベリアの国境だったようです。
今の内モンゴルの西の端みたいです。
日本軍はこんなところまで進出していたんですね。
ところで第6回で書くべきだったのですが、044「金銭の道」に「被服廠跡火災」という言葉が出てきます。
この災害の一周年の鎮魂祭が小説の舞台です。
「陸軍被服廠跡火災」については全く知りませんでした。
軍服を作る工場が火事になったのかな? それにしては「跡」というのは変だし……。
くらいの発想でした。
調べてみると、1923年の関東大震災では10万人以上の人々が犠牲になりましたが、そのうち3万8千人が焼け死んだのが陸軍被服廠跡だったそうです。
火に追われた人々は家財道具を大八車に載せてこの広い空き地を目指しました。
ところが大火災の場合、空き地は必ずしも安全ではありません。
広大な住宅密集地が燃え上がると火災突風というものが発生し、空いた空間に流れ込んでくるらしいです。
せっかく避難した大勢の人たちは突風に吹き飛ばされ炎に飲み込まれました。
火災突風のメカニズムはまだ完全には解明されていないようですが、3万8千人といえばMAZDAスタジアムの収容人数を上回る数です。これだけの人々が一瞬で焼け尽くされるとは、信じられないほど怖い話です。
津波から逃げるには高台に向かえばいいとして、火災突風に対してはどこに逃げればいいのでしょう。それが分からないのも怖いです。
(2021年2月19日)
(16)
101五十銭銀貨(01-101):芳子は月に二円の小遣いをもらっていたが特に自分のために使うことはなかった。犬を浮き彫りにした文鎮に惹かれた時も十日ほど迷ってからやっと買った。
102さざん花(01-102):終戦から一年余りたった秋、私の隣組には出産が相次いだ。島村夫婦は今度生まれてきた赤ちゃんは戦時中に流産した子の生まれ変わりだと信じていた。
103紅梅(01-103):掘炬燵に向かい合いながら父母が言い争っている。正月に風月で菓子を買ったことがあるかどうか。娘は台所から聞いているが口は出さない。
104足袋(01-104):急死した姉の死にざまが思い浮かぶことがある。そういう時私は白い足袋を思い出すことにしていた。
ところで第6回と第8回でも書いたのですが042「合掌」がいまだに分からないままです。
とりあえず絵を描いて理解しようとしました。
枕の上の飾りに肘を突いて、暫く花嫁の顔を覗きこんでいたが、
寝台の脚を掌の間にするするとすべらせながら膝を突いた。
鉄の丸い脚に額を押しあてた。金属の冷たさが頭に沁み通った。
静かに合掌した。
こういう動作しか私には思い浮かびませんでした。
しかしこれだと額にあたっているのは「脚」ではありません。「飾り」です。
もし川端が書いたとおり額に当たっているのが「脚」だとするとどういう体勢なのでしょう。
どういう形の寝台なのでしょう。
まったく分かりません。
(2021年2月22日)
(17)
あと分からないのは第11回で取り上げた68「士族」です。
道端で水彩画を描いていた少女から彼は画板を取り上げます。
「少女は呼んだ母を見向きもせずに、どぎまぎしている彼の胸へ白い花をつきつけるように立ち上って、彼の手にある水彩画を覗き込みながら砂利の上から倒れかかって来た。」
少女は白い花なんて持ってないんです。持っていない白い花をつきつけるように立つ。
分からなさすぎて、一周回ってすごいです。
「分からない」「分からないけど何となく分かる」「分かる」
を三つの頂点とした三角形の中心あたりに私の気持ちはあります。
しかし、白い花をつきつけるように立ち上がる……、美少女にしか許されない表現だと思います。
105かけす(01-105):かけすが鳴き騒いでいる。「子供をさがしているんだよ」目の悪い祖母が見たように言った。
106夏と冬(01-106):夫が帰ってきた。顔が真っ赤で調子が悪そうだ。それでも加代子にうるさく小言を言うのは忘れなかった。
ここまでが川端四十代の作品です。
落ち着いた生活感が特徴です。
さて、川端は「掌の小説」においてあまり固有名詞を使いません。
「私」「僕」「彼」「夫」などなど、固有名詞を使わなくてすむものならなるべく使いたくないかのようです。
女性の名前もそうです。
122の作品の中で登場する女性名は30程度です。
ただ、男性名は一切重複がないのに対して女性名には複数回登場するものがあります。
(2021年2月24日)
(18)
女性の名前登場回数ランキングです。
第4位 ゆき子
70「黒牡丹」と113「隣人」の2作品に登場。
ただし前者は「雪子」で後者は「ゆき子」ですが。
第3位 千代子
65「時雨の駅」の隣の細君の名前が千代子でした。それを数え忘れていたので最初は番外にしていました。すみません。
43「屋上の金魚」、65「時雨の駅」、51「処女作の祟り」の3作品で出てきます。
特に「処女作の祟り」では大勢の「ちよ」が出てくるので上位2作以上のインパクトはあります。
第2位 加代子
56「門松を焚く」、57「盲目と少女」、58「母国語の祈祷」、106「夏と冬」で4回登場。
前の二つは「お加代」、あとの二つは「加代子」です。
気になるのは56から3作品連続での登場です。
集中的に登場しているのに、キャラクターも設定も違います。同一主人公による連作ではありません。
第1位 芳子
38「霊柩車」、101「五十銭銀貨」、102「さざん花」、105「かけす」に登場。回数は加代子と一緒ながらこちらは4回とも「芳子」なので第1位となりました!
ちなみに十三歳で亡くなった川端のお姉さんが「芳子」でした。
当然何らかの影響はあるのでしょうが、二人はほとんど会ったこともなかったそうです。それなのに、亡くなってから三十年近く経っているタイミングでの連続出場。
これに関しては他の長篇小説も見渡してからでないと分析できませんが、興味深いです。
(2021年2月26日)
(19)
107笹舟(01-107):戦争は終わったがあき子の婚約者は戻らなかった。彼の母親が父に会いに来た。あき子は婚約者の末の弟と笹舟で遊んだ。
108卵(01-108):夫は箱根の宿でかぜをひいた。時計の針を見間違えて早起きしてしまったのだ。帰ってみると妻もかぜで寝こんでいた。娘が卵を持ってきてくれた。
109瀧(01-109):直治の兄は二人とも変わった結婚をした。上の兄は心中未遂の果てに看護婦との結婚を許された。下の兄は女房がこわいようと口走って女中と逃げた。
110蛇(01-110):稲子は夢を見た。よその家の座敷に座っていると小鳥が出てきた。蛇が出てきた。二十五年も会っていない篠田の前の細君が出てきた。
ここまでが五十代の作品です。
書き忘れていましたが、一番最初の001「骨拾い」も発表されたのは五十歳になってからでした。しかし作品の核になるのが十八歳の時の文章なのでこれまで慣例的に冒頭に置かれてきたそうです。
(2021年3月1日)
(20)
これ以降が六十代の作品です。
111秋の雨(01-111):紅葉の山に火の降るまぼろしを見た。ある会に招かれて京都に向かう途中だった。そこにはかつて病院で彼に強い印象を残した少女も来ていた。
112手紙(01-112):いよいよご清祥のことと拝察いたします。私も妻の死のとざされた日々からすぽんと抜けました。以前よりも生き生きと亡妻と遊んでいる気がします。
113隣人(01-113):新婚の吉郎とゆき子は鎌倉の奥に越してきた。その家は二人には広過ぎて静か過ぎた。裏の老人は鳶(とび)を飼っていた。
114木の上(01-114):生垣をくぐって会いに来た路子を敬助が木の上から呼び寄せた。小学四年の二人はそれから木の上で会うようになった。
115乗馬服(01-115):ロンドンのホテルに着くと栄子はベッドに横たわった。目を閉じると十三歳の頃が思い出された。耳鳴りがやがて瀧の音に聞こえてきた。
116かささぎ(01-116):鳥たちが庭に来ていることは知っていた。その名前が「かささぎ」と知った今、私には同じ鳥には見えなくなった。
さすがに川端です。かささぎが日本の古歌に多く歌いこまれていることをちゃんと知っています(当たり前?)。
その多くが天の川にちなんだ歌のようです。
中でもこれが一番有名っぽいです。
鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜よぞ更けにける(大伴家持)
(2021年3月3日)
(21)
117不死(01-117):娘と老人が歩いていた。五十五年前新太郎のために身を投げたみさ子と、それから五十五年間一人で生きてきた新太郎だった。
118月下美人(01-118):月下美人が花咲く夜に村山夫人たちが小宮の家を訪れるのも三回目となった。二年前村山夫人は小宮にさち子夫人を呼び戻すよう頼みに訪れた。そこから始まった集まりだった。
これも分かりにくい話です。
何らかの理由で小宮さち子は夫から離縁されたようです。
さち子の友人である村山夫人が、よりを戻すように小宮を説得に行きました。
説得はうまくいきませんでした。
が、小宮宅で月下美人を見て村山夫人は大いに感心します。
「もったいないからみんなで鑑賞しよう」と友達を呼び集めます。
そこから月下美人を見る会が始まりました。そもそものきっかけであるさち子は放ったらかしで。
村山夫人のお節介ぶりとずうずうしさ、小宮の不気味な冷酷さ、遅れて登場する美女すみ子、そして心を閉ざした娘とし子。
キャラクターも小道具も印象的で、映画的で面白い一篇です。
(2021年3月5日)
(22)
川端康成全集第1巻「掌の小説」、いよいよ最終回です。
119地(01-119):二十年あまり前、娘が恐ろしい言葉を聞かされたのがこの教会の前だった。今その教会の前を若い男女が歩いている。
「一」で引用されているのはヨハネ黙示録第十二章です。
そして大きな徴が天に現れた。太陽を着ている女である。
そして月がその足下に、髪の上には十二の星の冠。
そして彼女は子をはらんでおり、産みの苦しみと苦痛で叫んでいる。(田川健三訳)
現時点ではまったく意味不明の文章です。
田川聖書を一冊ずつ読んでいて、近々「黙示録」を読む予定です。
そのあとなら何かコメントできるかもしれません。
「二」で言及されているのは堀辰雄の「風立ちぬ」です。
これが聖パウロカトリック教会。
堀辰雄は読んだことがありません。
せっかくなので読んでみました。
「風立ちぬ」
いいですね、静かでしっとりとしてメランコリックな文章。
これが百恵ちゃん主演でどんな映画になっていたのかはちょっと気になりますが。
「五」はエゼキエル書第一章の冒頭です。
そして「九」が再び黙示録の第十二章。
そして蛇は、女が川に流されるようにと、自分の口から女の後ろにむかって水を川のように吐き出した。
そして大地が女を助けた。大地が口を開けて、龍が自分の口から吐き出した川を吞み込んだのである。
120白馬(01-120):高原の木立ちから白馬が飛び出して空を駆けた。その背には黒衣の女が乗っていた。最近よく見る幻だったが起きている時に見るのははじめてだった。
121雪(01-121):野田三吉は正月元日の夕方から三日の朝まで、ホテルにひとりかくれて過ごすのが習わしであった。三吉はホテルに着くとすぐベッドにはいって、目をつぶる。
122めづらしい人(01-122):「今日はまためづらしい人に会ったよ」近ごろ父は娘にそう言って、その日会っためづらしい人の話をすることが度び重なった。
これで「全小説全ヒント」の「掌の小説」の部、完結です。
今目次を読み返しても、もう内容が思い出せない作品がいくつかあります。
アリバイ作りのためにもヒントを残しておいてよかったです。
では田川聖書の黙示録に取り掛かります。
(2021年3月8日)
(23)
やっと読み終わりました。
田川健三氏による新約聖書の完結篇です。
相変わらずすさまじいです。
新約聖書の中でも最も謎めいた巻「ヨハネ黙示録」を徹底的に分析してくれます。
ただしこの場合の「分析」とは「意味を読み解く」ではありません。
意味を考察する前の段階として「本当はどういう文章が書かれているのか」を文字通り一字一句洗い直します。
大げさではなく本当に「一字一句」です。
その結果私たちの「ヨハネ黙示録」に対するイメージが根底からひっくり返されます。
(2021年4月16日)
(25)
まず「ヨハネ黙示録」はローマ帝国の圧政に苦しむキリスト教徒によって幻想的叙事詩として書かれました。
この時代のキリスト教徒には大きく二種類あって、一つはゴリゴリの原理的教会主義者。
キリスト教はユダヤ人を救うための教えであって、異邦人が信じることなどまかりならぬとする保守派です。
もう一つは世界宗教として進化した、ニュータイプクリスチャンです。
そして「ヨハネ黙示録」を書いたのはこのニュータイプのキリスト教徒でした。
彼はこの書物の中で、ローマ帝国の滅亡の日を、願望をこめて描きました。
彼はかなり高い教養と批評精神の持ち主でした。
ローマが憎いといってもその詩の中でローマ人を無差別に虐殺したりはしません。
ローマの害悪の本質は専制的な政治システムや地方や貧民から搾取する経済構造であると理解していました。
ですから彼が描いたのはローマの政治体制や流通システムの崩壊でした。
彼もはっきり言っています、皇帝が一人死んでも何にも変わらない、と。
実際彼の描くカタストロフィでは、人は死にません。
ところがこうしてできあがった書物に大幅に手を入れた人物がいました。
ゴリゴリの右派キリスト教信者でした。
その人物は文章も下手で、品性も下劣です。
今の日本の政治家並みに女性や近隣外国人を蔑視しています。ユダヤ人以外は死んで結構と思っています。
彼は手元にあった「割と品のいい滅亡の預言書」に好き勝手に自分の身勝手な空想を書き加えました。
こうして出来上がったのが「世にも怪奇な滅亡の預言書」です。
謎めいているのは当然です。
一言で言えば、「馬鹿が書いたんだから馬鹿げてるのは当然」、解釈するだけ無駄ということです。
田川氏は文字単位で分析します、この文字を書いたのはどっちか?
まともな方か、それとも馬鹿の方か?
ここで話は川端に戻るのですが、川端が引用したのはちゃんとした「ヨハネ黙示録」部分でした。
さすがですね。
ローマの暴虐的支配を覆すべく、今、イエスが生まれようとしています。
しかしローマには強大な軍事力があります。経済基盤も強固です。ありきたりの救世主なんかではとても太刀打ちできません。
さあイエスはどんな方法で立ち向かうのでしょうか……。
描かれているのはそういう場面だと思います。
(2021年4月19日)
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(1)
原作のコミックはそこそこ読みました。
テレビ版のアニメシリーズは観ていなくて、この作品も観るのは初めてです。
それまでテレビアニメの劇場版といえばテレビシリーズを水増ししただけのものがほとんどでした。
この作品をきっかけにして「シリーズから解放された世界観にもとづく新たな物語」という枠組みが生まれたようです。
観てみると確かに劇場版ならではのスケールの大きな話です。
ラムちゃんがあんまり活躍しませんし、諸星あたるもおとなしいです。
押井監督独特の理屈っぽさも鼻につきます。
でも、画期的でエネルギーにあふれていて、評価が高いのもうなずける作品です。
ただ、楽しめたかと言われれば、かなり苦痛でした。
(2021年3月10日)
(2)
とにかく登場人物が叫びまくるのです。
メインキャラだけではなく、脇役たちも含めて登場人物全員がずっと叫んでいます。
これが音量以上に聴神経にこたえます。
そういえばこのアニメもそうでした。
劇場版は左の二人の登場シーンが少なかったのでまだましだったのですが、テレビ版ではこの二人のやかましいこと。
歳を取ると高音が聞こえなくなるはずなのに、最近こういう叫び声が非常に耳に突き刺さります。
日本映画はセリフが聞こえない、とこの欄でもさんざん繰り返してきました。
ですが最近の「記憶にございません!」や「のぼる小寺さん」などは特に不自由なく視聴できました。
全体として改善傾向にあるようです。
というわけで近頃は「叫び声問題」の方が深刻です。
個人的には暴力シーンの有無よりも叫び声の程度をパッケージに表示してほしいくらいです。
(2021年3月12日)
(3)
居酒屋に行くこともなくなりましたが、たまに行くと気になるのが大声での会話です。
特に男性のやかましい笑い声。
「どっ」と笑う時の音圧がすさまじいです。
女性の甲高いしゃべり声も耳につきますが男声の音圧はもっと破壊的です。
しかも男の笑い声には語り手への媚びへつらいが同時に感じられるのでよけいにいやーな気持ちにさせられます。
「大声での会話は控えましょう」が今のルールですが、「どっと笑うのは永久に禁止」でもいいと思っています。
(2021年3月15日)
(4)
ところでこんな映画があります。
2020年、本広克行監督の「ビューティフルドリーマー」です。
映画研究会の若者たちが「映画研究会なんだから映画でも作ってみよう」と立ち上がるお話です。
これがとってもチャーミングでいい映画なんです。
タイトルから分かるようにこれは1984年版「ビューティフル・ドリーマー」と深い関連のある映画です。
私はそれを知らずに2020年版を観て、面白かったので1984年版を観て、そしてもう一度2020年版を観ました。
1984年版を観たことのある人もない人も、その順番で観ることをお勧めします。
つまり2020年版を二度観ろということですが、その価値のある映画でした。
青春ものですが、ご安心ください。
誰も叫びませんから。
(2021年3月17日)
20世紀の映画67本目は1962年本多猪四郎(いしろう)監督の「キングコング対ゴジラ」です。
(1)
ゴジラが初めてスクリーンに登場して8年。
この作品ではゴジラはどちらかというと脇役に回り、さらに映画自体もお気楽なコメディになっています。
核爆弾の恐怖を忘れて高度成長に向けて浮かれている日本の雰囲気がそのまんまあらわれているといえるかもしれません。
これがなぜか高評価で、それでベスト333にもランクインしてるわけですが、今観ると全然面白くないです。
あんまりほめる要素がないのですが、ところどころに気合の入った特撮シーンはあります。
(2021年3月19日)
(2)
古い映画を観るときについつい「時代補正」をしてしまう自分がいます。
つまり純粋に「今観て面白いか」で判断しないで「当時としてはすごかったんだろうな」と甘めの点数をつけてしまうのです。
たとえば「ローマの休日」や「七人の侍」は今観ても率直に面白いです。
しかし「キートンの大列車追跡」や「丹下左膳餘話〜百萬兩の壺」は、面白いのは面白いのですが、「心の底から本当に面白いと思っているのか?」と詰め寄られると目を伏せてしまいそうです。
それに対して「素晴らしき哉、人生!」や「吸血鬼ノスフェラトゥ」などは分かりやすくて簡単です。
どんなに補正をかけてもさほど面白くないですから。
そういう意味では「キングコング対ゴジラ」も非常に分かりやすい映画です。
素直に、全然面白くないです。
心配なことがあって、
今年こういう映画が上映されます。
で、おそらく来年にはディスクが発売されるでしょう。
その時に「キングコング対ゴジラ」を間違って買う人がいるんじゃないか、そこが心配です。
いや案外、間違える人多そうですよ。
(2021年3月22日)
20世紀の映画68本目は1938年、ハワード・ホークス監督の「赤ちゃん教育」です。
クソ真面目な恐竜学者が金持ちのわがまま娘に振り回されるお話です。
出会ったばかりの不思議系美少女に主人公が振り回されるのは「涼宮ハルヒ」を始め、コミック、ラノベでは繰り返し描かれてきたパターンです。
最初の10分で「なるほどこれがその原点か」と感心させられます。
恐竜学者の振り回されぶりもなかなか面白いです。
……最初の10分までは。
その後彼女のわがままぶりはエスカレートします。
主人公を振り回すためのわがままになっていきます。
他人の車を勝手に乗り捨てたりします。それは犯罪ですよ。
これが何歳の美少女だったら許されるのかという議論は危険なので避けますが、この時のキャサリン・ヘプバーンは三十過ぎ。
画面ではもう十歳くらい上に見えます。
しかも主人公を含めて登場人物が全員〇〇(いささか思慮に欠けるという意味の二文字)というアウトレイジ状態。
後半はひたすら苦痛でした。
この映画を観るくらいなら「のだめカンタービレ」の最初の方を読み返した方が音楽の勉強にもなって、いいです。
そうそう、タイトルもひどいです。
「Bringing Up Baby」という原題なので邦題の責任ではありません。
「Baby」は出てきますが、どうしてこんなタイトルになるのかさーっぱり分かりません。
(2021年3月24日)
20世紀の映画69本目は1934年、フランク・キャプラ監督の「或る夜の出来事」です。
こちらのヒロインも世間知らずのお嬢様です。
相手役は「風と共に去りぬ」でレット・バトラーを演じた、ニヒルな笑みがかっこいいクラーク・ゲーブル。
彼が演じるのは新聞記者です。
世界的大富豪の令嬢と、しがない新聞記者のお話。
そう「ローマの休日」そっくりです。
こちらが34年で「ローマの休日」が53年。
「ローマの休日」の脚本家ダニエル・トランボは1947年、アメリカを吹き荒れた赤狩りのために映画界を追われました。
仕事を干されただけではなく投獄までされたトランボですが、その期間に、かつて観た映画を反芻して自分なりに練り上げ直していたのではないでしょうか。
出所後に偽名で書き上げたのが「ローマの休日」……、
……というのは私の勝手な想像ですが、「或る夜の出来事」が非常に魅力的なプロットながら突っ込みどころが多いのも確かです。
映画はヒロインが親と言い争って豪華客船から海に飛び込むシーンから始まります。
この言い争いの理由が設定上無理がありすぎます。
この設定でクラーク・ゲーブルと恋に落ちてはだめでしょ。
最終コーナーでかなり強引なつじつま合わせを仕掛けてはいますが、この設定がある限りはうまく着地しようがありません。
頑張っているし、実際そこそこ面白いです。
が、やっぱり残念な部類の映画だと思います。
ついでに題名もやっぱりもう一つ残念な感じです。
「It Happened One Night」
HappenもしてなければOne Nightでもありませんから。
(2021年3月26日)
20世紀の映画70本目は1939年、ヴィクター・フレミング監督の「オズの魔法使」です。
(1)
フレミング監督は同じ年に「風と共に去りぬ」も撮影しているんですね。
信じられないようなバイタリティです。
さてこちらの「オズ」は大ヒット児童小説の映画版です。
もともと人気のあった原作なのでそのまま映像化すればよさそうなものですが、ちょっとしたアレンジが加わってます。
(2021年3月29日)
(2)
原作ではドロシーの身の上が簡単に説明されてすぐに竜巻に飛ばされてしまいますが、映画では現実の生活がちょっと詳しく描かれます。
そこで登場する三人の雇人や意地悪な大地主がオズの世界での登場人物とリンクする仕掛けになっていて、これは素敵なアイデアです。
ただし、重大な問題も発生します。
やっとの思いで帰ってきた現実社会にはあの大地主がいます。飼い犬トトを目の敵にしている残酷なお婆さんです。
しかもおじさん、おばさんも全面的にドロシーの味方というわけではありません(地主といっしょにトトをかごに押し込もうとしていましたし)。
愛犬トトの殺処分?のピンチは何ら解消されていないのです。
ラストシーンで地主さんに「いろいろ意地悪してごめんなさいね」と謝らせてはどうでしょう。
そのあとおばさんがぼそっと「地主さんも竜巻で頭を打って人が変わったのよ」と言うのです。
(2021年3月31日)
(3)
この映画の真価は「人気児童小説の見事な映画化」ではなく、「モノクロパートとカラーパートの斬新な融合」でもなく、「超名曲『虹の彼方に』を含む名作ミュージカル」でもありません。
ひたすらジュディ・ガーランドです。
彼女が笑って、泣いて、歌って、踊って、それだけでこの映画は素晴らしいです。
さて2019年にこういう映画がありました。
ジュディはその後酒と薬に溺れて落ちぶれ、47歳の若さで亡くなってしまいます。
その最後の半年間を描いた作品です。
レネー・ゼルウィガーがぼろぼろになったジュディを演じています。
宣伝文句を信じるならば自身で歌も歌っているそうです。
ジュディの歌声はいっさい含まれていない、つまりあくまでもレネーの映画です。
が、一応、こういう映画もあります、ということで。
(2021年4月2日)
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1980年版川端康成全集です。
そろそろ新しい全集が出るはず……と、ずっと待っていました。
しかし全然出る気配がないので古書店で買いました。
図書館からの払い下げ品(除籍本と呼ぶらしいです)なので意外と安かったです。
全35巻(+補巻2冊)です。
一体いつ読み終わるのでしょう。
これで個人文学全集で欲しいものはほぼそろいました。
あとは星新一ショートショート全集くらいでしょうか。
音楽全集ではショスタコーヴィチが残っていますが、全集が出る様子がないのでジャンルごとに買いそろえていくしかなさそうです。
(2021年1月15日)
(1)
というわけで川端康成全集を読み始めました。
まずは1981年出版の第1巻です。
この巻は「掌(たなごころ)の小説」という短編小説集となっています。
「掌の小説」についてはWikipediaにも簡潔に説明されていますが、川端が二十代から六十代にかけて書き連ねてきた掌編の集成です。
最初に発表されたのが「男と女と荷車」の1923年(23歳)、最後に発表されたのが「めづらしい人」1964年(65歳)。
もう一篇「雪」も1964年の発表ですが、「めづらしい人」と「雪」以外はほとんど1940年代までのものです。
「四十年間書き続けた」と言うよりは「二十代から四十代の」脂の乗り切った頃の作品集と言った方が正しそうです。
収録作品については諸説ありますし、川端自身も厳密に定義していたわけではなさそうですが、この巻に収められた122作を「掌の小説」とするのが一般的のようです。
(2021年1月18日)
(2)
「掌の小説」というだけあってほとんどが10ページに満たない作品です。
中には2ページのものもあったりします。
読み方が問題です。
一通り読みました。
どれもそれなりにインパクトは大きいのですが、何しろ数が多いです。
あらためて目次を見ても「どんな話だったかなあ」と、さっそく忘れてしまっています。
今後の物忘れ対策のためにもほんのちょっとずつコメントを残すことにしました。
コメントというか、あとで思い出すためのヒントですね。
「ああ、そういえばそんな話があったかな」という風に役に立てればと思います。
まず最初の4篇。勝手に識別コードもつけました(通し番号「題名」(収録巻ー収録順))。
001骨拾い(01-001):祖父の葬式の翌日、骨(こつ)拾いの途中に鼻血が出た私は焼き場から小山に上った。
002男と女と荷車(01-002):少年少女たちが荷車の両端にまたがってシーソー遊びをしていた。
003日向(01-003):私にはそばにいる人の顔をじろじろ見てしまう癖があった。
004弱き器(01-004):陶器の観世音像が倒れ掛かってくる夢を見た。
(2021年1月20日)
(3)
005火に行く彼女(01-005):山火事で坂の下の町は火に包まれていた。彼女一人が坂を下ろうとしていた。
これはずいぶん昔共通一次試験に出題されました。
この文章を読んだ時の鮮烈な印象はよく覚えています。
「火に行く彼女 共通一次」で検索すると複数の人が試験の場で同じように感動したようです。
「どうしてお前だけ坂を下りて行くのだ。火で死ぬためにか。」
「死にたくはございません。でも、西の方にはあなたのお家がございます。ですから、私は東へ参ります。」
高校生には深すぎるセリフです。
今読むと「お家」という言葉が引っ掛かります。
「ああ、姑と折り合いが悪いんだな」って思ってしまいます。
40年でずいぶんすれてしまいました。
006鋸と出産(01-006):五年も前に別れた彼女と果たし合いをする夢を見た。
007バッタと鈴虫(01-007):夜の土手で子どもたちが提灯を持って虫を探していた。
008時計(01-008):貧しい法学士が初めて乗った車の中で隣に座った彼女の腕時計を見た。
009指環(01-009):温泉場の外湯に少女が裸で立っていた。手を挙げて指環を私に見せつけた。
010髪(01-010):兵隊たちが村に着いた。村中の娘が髪結いに押し掛けた。
011金絲雀(01-011):奥さん、いただいた金絲雀(カナリア)が飼えなくなりました。世話をしていた妻が死んだのです。
012港(01-012):船が港に着くと港の女たちは客が出航するまでずっといっしょにいた。
013写真(01-013):雑誌者が写真を欲しがったので恋人と二人で撮った写真を半分に切って渡した。
014白い花(01-014):彼女の一族は次々と肺病で死んだ。従兄弟も倒れ、彼女もついに肺療院に入れられた。
(2021年1月22日)
(4)
015敵(01-015):キネマ女優が主役をつとめる映画を見ながらぽろぽろと泣いた。
016月(01-016):童貞、これが厄介なんだ。彼はそう言いながら月に向かって両手を伸ばした。
017落日(01-017):近眼の女が葉書を書き、ウエイトレスのエプロンの紐が結ばれ、詩人が砂糖を買った時、すっと太陽が落ちた。
018死顔の出来事(01-018):彼は妻の死顔をごしごしこすった。苦しそうな表情が和らいだように見えた。
019屋根の下の貞操(01-019):彼女は三人の男に速達を出した。ステッキの男が一番早くやってきた。彼女と夜をともにするために。
020人間の足音(01-020):退院した彼は妻と街行く人々の足音を聞いた。彼は病気で片足を失っていた。
021海(01-021):女たちは明け方に村を出て海に向かう坂を下った。一人の娘が腹痛でうずくまった。
022二十年(01-022):彼は部落の少女澄子が好きだった。梅村と三人でよく遊んだ。二十年が経った。
023硝子(01-023):許嫁の蓉子が青い顔をして帰ってきた。硝子工場で少年職工が大火傷をしたところを見てしまったと言う。
024お信地蔵(01-024):大きな栗の木の陰にお信地蔵があった。お信は二十四で亭主に先立たれて以降全ての村の男を大人にしてきた女だった。
ふー、これでやっと五分の一です。
(2021年1月25日)
(5)
025滑り岩(01-025):女房と子どもを連れて温泉に来た。そこの松の木や岩には子を授けてくれるという迷信があった。
026有難う(01-026):乗合自動車の運転手は有難うさんと呼ばれていた。道を譲られた時にありがとうと声をかけるからだった。
027万歳(01-027):女は温泉宿に住んでいた。出会った男に一つずつ北の温泉場に連れていってもらい、男の数だけ北に来たのだった。
028胡頽子盗人(01-028):炭焼きの娘が大きな胡頽子(ぐみ)の枝をかついでいた。医者へのお礼に道端で取ってきたのだった。
029玉台(01-029):僕はこの台で撞球の練習をすると素晴らしく当たるのにゲームだと玉運が悪いんだ。
030夏の靴(01-030):勘三は馭者台から飛び降りた。馬車の後ろにぶら下がっていたはずの少女はすたすた歩いていた。
031母(01-031):妻は肺病の夫の唇を狙って飛びかかった。夫が吐いた血が妻の胸に飛び散った。
032雀の媒酌(01-032):写真の娘と結婚してもいいと思った。その時屋根から二羽の雀が落ちてきて縁先の泉水をかすめた。
033子の立場(01-033):多津子は一郎の母に相談した。約束した人があるのに他の人との結婚を強いられている、と。
034心中(01-034):逃げた夫から手紙が来た。子どもに毬をつかせるな、その音が聞こえてくるから、と。
(2021年1月27日)
(6)
035龍宮の乙姫(01-035):妻に殺された夫が息子たちに遺言した。女に墓石を抱かせて海に葬れ、と。
036処女の祈り(01-036):小山から墓石が転がり落ちる幻影を見た村人たちはそれを凶兆と捉えて村中の処女を集めた。
037冬近し(01-037):男は山寺の和尚と碁を打っていた。男は女と温泉宿に逃げてきていたのだった。
038霊柩車(01-038):義妹が死んだことくらいは君も知っているだろう。義妹というのは僕の妻のことだが。
039一人の幸福(01-039):お姉さま、お変わりございませんか。僕は売られてきた満州で不幸な毎日を送っております。
040神います(01-040):温泉場の風呂で一緒になった鳥屋の夫は若い妻を連れていた。彼女は彼が昔傷つけた女だった。
041帽子事件(01-041):不忍池で涼み客が麦藁帽子を落とした。別の痩せた客が「手を持ってあげるから拾ったら」と言った。
042合掌(01-042):寝台に横たわる花嫁に向かって彼は合掌した。それは幼いころからの習慣だった。
043屋上の金魚(01-043):千代子の寝台からは屋上の水槽が見えた。そこで千代子の父が金魚を飼っていた。
044金銭の道(01-044):関東大震災の被服廠跡火災から一年、ケンは乞食仲間の婆さんと鎮魂祭に向かった。
(2021年1月29日)
(7)
ところで、短篇小説なのに、いや短篇だからこそ訳の分からない話がいっぱいあります。
「何がどうなってどうなった話なのか」という基本的なあらすじが分からない話もあれば、「この部分は何を書いているのか」という細部が分からない話までいろいろです。
たとえば「指環」に出てくる「ちび奴」という言葉です。
主語もなく唐突に発され、意味もよく分かりません。
「騙されたわね、馬鹿が見るー」みたいなツッコミなのかなと無理矢理自分を納得させています。
それから「霊柩車」。ここに出てくる「義妹」が誰なのかよく分かりません。
「僕」は妻である芳子をそう呼んでいるのですが、どうして「妻」と呼べないのか、そのあたりの説明はいっさいありません。
一つの解釈として、芳子は前妻の妹で、前妻が亡くなったあと無理矢理「僕」と結婚させられた、というのが一番シンプルでしょうか。
(2021年2月1日)
(8)
それから「合掌」の冒頭のシーンもよく分かりません。
枕の上の飾りに肘を突いて、暫く花嫁の顔を覗き込んでいたが、寝台の脚を掌の間にするすると辷らせながら膝を突いた。
鉄の丸い脚に額を押しあてた。金属の冷たさが頭に沁み通った。
静かに合掌した。
絵を描いてみたりしましたが「彼」がどういうポーズを取っているのか分かりません。
額を押しあてたのが「横枠」だったら分かるのですが……。
そうそう、そのすぐあとの「彼は白い布の上に片手を投げて、唇を持って行った」というのもよく分からないところです。
ところでこういう本があります。
「全作品プロット」を始めるにあたって「通し番号がついているのなら従おう」と思って図書館で借りてみました。
通し番号はありませんでした。
内容もかなり専門的です。専門的というか研究者向けです。
私が感じたような「素人の疑問」には答えてくれません。
川端を取り上げて、深い意味を考察する学者は多いですが、浅ーい説明をしてくれる人がなかなかいません。
「ちび奴」って何なんでしょう……。
(2021年2月3日)
(9)
45朝の爪(01-045):娘は貧しい部屋で客を取っていた。ある晩老人の客が白い蚊帳を買ってくれた。
46女(01-045):「火事を見たか」「亭主を亡くした女が泣いておった」「あれは嘘泣きじゃ」
47恐ろしい愛(01-047):妻を亡くしたあと彼は一切の女性を近づけなかった。娘を除いて。
48歴史(01-048):その村の温泉は不便な所にあった。金持ちの老人がやってきて共同湯を作った。
49馬美人(01-049):父親は妻と娘と馬を残して出ていった。娘は馬美人(ばびじん)と呼ばれた。
50百合(01-050):小学生の百合子は好きな友達と同じになろうとして短い鉛筆や男物の鞄を持った。
51処女作の祟り(01-051):処女作でちよという女を描いた。それ以来僕はちよという名前に祟られている。
52駿河の令嬢(01-052):私は月に何度か汽車に乗るがいつも同じ女学生と一緒になった。
53神の骨(01:053):男たちは弓子から手紙を受け取った。「生まれてすぐ死んだ神様のお骨をお送りします」
54夜店の微笑(01-054):二台の屋台の間で、眼鏡屋の男が地面に書く文字を花火屋の娘が読んでいた。
(2021年2月5日)
(10)
55夫人の探偵(01-055):省線電車の中で安藤さんの奥さんを見かけた浅田はいたずらをしたくなって声をかけた。
省線電車とは国鉄ができる前の、つまり鉄道省が管轄していた時代の電車らしいです。
これまで調べもせずに「電線のない汽車のことかな?」なんてテキトーなことを考えていました。
今回調べなければ勘違いしたまま死ぬところでした。
56門松を焚く(01-055):一度泥棒に入られて以来、家のちょっとした物音が全て泥棒の音に聞こえるようになってしまった。
57盲目と少女(01-057):あんまの田村の手を取って駅まで送るのがいつの間にかお加代の仕事になっていた。
58母国語の祈祷(01-058):言語学の本によると、祖国を離れて長らく母国語を話さなかった人が臨終の際に母国語で祈祷する事があるらしい。
59故郷(01-059):母親は東京へ行ったまま三か月も帰らなかった。子供は家も家財道具も売り払ってそのお金で東京に行った。
60母の眼(01-060):温泉宿の子守女には盗癖があった。盗んだ金は母親を眼の病院に連れて行く自動車代に使われたらしい。
61三等待合室(01-061):彼女が待ち合わせ場所に指定した三等待合室に行くとそこには遍路に出ようとする巡礼と見送りの僧侶がいた。
62叩く子(01-062):お腹の子を堕ろすには円太郎自動車に乗ればいいと言われていた。金がないので五郎が読み上げる駅名に合わせてお浅が敷居に腰を打ちつけた。
明治初期の落語家四代目円太郎のトレードマークがラッパだったそうです。乗合場所の御者が吹くチャルメラのようなものだったとか。それが大人気となり、逆に乗合馬車が「円太郎馬車」と呼ばれるようになりました。
やがて乗合馬車はなくなりましたが、関東大震災のために交通機関が壊滅状態になった東京でまず走ったのが東京市営バスで、これがその乗り心地の悪さからいつの間にか「円太郎バス」と呼ばれるようになったそうです。
さらに、あまりにがたがた揺れるので「子どもを堕ろしたければ円太郎バスに乗ればいい」とまで言われるようになった……、というのがこの小説の裏設定のようです。
63秋の雷(01:063):婚礼の日秋の雷に花嫁は大層怯えた。「この子の雷嫌いは昔の祟りかもしれない」花嫁の父親が語り始めた。
64家庭(01-064):彼は盲の妻の手を引いて貸家を見に行った。坂の上にあったのは洋館だった。二人は寝台に腰掛けた。
はあ、これでやっと半分!
しかしさすがに世界の川端。一作一作の凝縮度、深さはすごいですね。
ここまで全て二十代の作品です。
(2021年2月8日)
(11)
65時雨の駅(01-065):時雨の駅には夫の傘を持った人妻たちが押し寄せていた。小説家の根並は改札を出たところでなぜか隣家の細君に傘を手渡された。
分かりにくい話です。
まず大げさな前置き。それから「隣の細君」。隣の細君とは隣の家の細君のことなのでした。
途中で視点も変わるし、それにしてもいちいち物言いがうるさいです。
小説家根並が駅に着きました。外は突然の雨です。
改札の外では夫のために傘を持ってきた妻たちが大勢待っています。
根並の妻は踊子で仕事中です。濡れて帰ろうと思ったところ、隣の家の細君に傘を差し出されて驚きます。
ここで視点が隣の細君に移ります。
彼女は妻たちの群れの中にかつての恋敵の姿を見出していました。
二人は一人の青年を奪い合い、恋敵が勝利をおさめたのです。
恋敵への敵愾心が燃え上がります。ここで作家の根並に傘を渡せば、恋敵が根並を彼女の夫だと勘違いしてくれるかもしれない。
根並は有名人だし、男前です。
前回の戦いには負けましたが、今根並と結婚していると思わせることができればいい気味です。
彼女は咄嗟に根並に傘を渡しました。
ここから先がよく分かりません。
本当はそのまま二人で帰ってしまえばよかったのに、立ち去ることもできず、恋敵が話しかけてくるのを受け入れてしまいます。
根並の妻のふりをして帰ってしまうには夫を愛し過ぎていたからなんだそうです。
ここでちらっと恋敵の視線に移ったりもしますが、とにかく登場人物たち気持ちの変化が不自然すぎて掌の上でもてあそんだ感じです。「恋敵」という薄っぺらい代名詞も鼻につきます。
もちろん「掌の小説」すべてが面白くて感動的なわけではありません。
中には意味不明だったりつまらないものありす。
しかしはっきり失敗しているのはこの作品だけではないでしょうか(あとは「母国語の祈祷」も)。
66貧者の恋人(01-065):レモンで化粧をするのが彼女の唯一の贅沢だった。傍らでは彼が売れない戯曲を書いている。しかし彼女には彼がいずれ成功するのが分かっていた。
67笑わぬ男(01-067):脳病院を舞台にした痛ましい映画の撮影が終わろうとしていた。私はラストシーンで能の笑い面を画面にいっぱい映し出そうと思った。
68士族(01-068):女湯から聞こえてくる女同士の他愛もない話を聞きながら彼は風呂を出た。道端で少女が水彩画を描いていた。
69質屋にて(01-069):彼は質屋の息子と世間話をしていた。金を貸してくれと頼めないでいるとみすぼらしい格好の男が駆け込んできた。
70黒牡丹(01-070):昔の恋人雪子が夫の転勤に伴って中国に行くことになった。彼女は黒牡丹という名前の犬を預けにやって来た。
71日本人アンナ(01-071):露天でロシア人の少女が買い物をする時に自分と同じ財布を持っているのを彼は見た。
72雪隠成仏(01-072):むかしむかし嵐山の春。花見客のために雪隠を建てた八兵衛は大儲け。それを見た一人の男が真似をしようとした。
73離婚の子(01-073):彼等の結婚は美しかった。彼等の離婚も美しかった。そしてもう一つ美しかったのは彼等の子供だった。
この「離婚の子」の発表が昭和4年6月。つまり30歳の誕生月です。
ここまでが二十代の作品ということになります。
ちょっと前に「どの作品も深い」と書きましたが、読めば読むほど「深い」という形容詞はあてはまらないような気がしてきました。
じゃあ何かというといい例えが思い浮かべません。
まあ、私があれこれ説明するよりもどれでも一つ読んでもらった方が話が早いです。
「川端康成全小説全ヒント」まだまだ続きます。
(2021年2月10日)
(12)
ここから三十代の作品となります。
74顕微鏡怪談(01-074):顕微鏡を使えば人の爪の垢から彼の行動を探偵する事ができる。千早は恋人の知人大竹の爪を調べた。
75踊子旅風俗(01-075):東京郊外の大森には踊子メリイと三味線を弾く娘芸人がいた。メリイは娘芸人をねえさんと呼んだ。
76望遠鏡と電話(01-076):足を失ったボヴレエ氏はホテルの部屋から望遠鏡を覗くのを愛した。
77鶏と踊子(01-077):踊子が夜中に鶏(にわとり)を抱えて歩いていました。夜泣きをする鶏は観音さまのところに捨てる習わしがあるのです。
78化粧の天使達(01-078):南瓜のオレンジ色の肉、谷川の美しさ、彼女に渡した薬、雨傘を開く音、白い蚊帳。
79白粉とガソリン(01-079):踊子から降ってくる白粉の匂いを知っているのは舞台にへばりついてる春吉のような見物だけなんだ。
80縛られた夫(01-080):蘭子は三階で寝ている夫の足に紐を縛りつけていた。帰りが遅くなった時に紐を引いて戸を開けてもらうのだ。
81舞踊靴(01-081):舞踊靴を差し上げたい、寸法を計るために靴下の古いのをくれ、そう頼まれて踊子は男に靴下を渡した。
82楽屋の乳房(01-082):子守はありがたいけれど客席へ抱いていくのは止してよ。楽屋で添乳しているなんて知られたくないからね。
83眠り癖(01-083):抱き締めて寝ても、ふと目が覚めると腕の力はゆるんでいる。彼女は髪の毛を相手の腕にくくりつけることにした。
84雨傘(01-084):少年は少女に傘を差しかけて二人で写真屋に入った。少年の父は転任する。別れの写真だった。
(2021年2月12日)
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(1)
もう50年前の映画になるんですね。
当時、とにかく怖いという評判で、アメリカではショック死した人がいるとか、撮影現場で事故が多発したとか、そんな話題が独り歩きしていた印象があります。
どんなに怖いのかどきどきしながら劇場で観ました。
怖いのは怖かったですが、ただ怖い話ではないな、と感じた記憶があります。
それ以来ずっといつかちゃんと観直そうと思っていましたが、今回やっとその機会が訪れました。
(2020年11月4日)
(2)
今回観て思ったのは「ずいぶん大人の映画だったんだ」ということでした。
宙に浮かぶとか緑の吐物を吐くとか首が360度回るとか、そういうショックシーンは確かにあります。
しかしとにかく惹きつけられるのはそのどっしりとした演出力。じわじわとくる面白さです。
ショックシーンなんてなくてもいいくらいでした(これは言い過ぎ)。
勘違いしていた部分もあります。
大昔観た時は、メリン神父が遺跡から掘り出した悪魔がよみがえって、はるばる海を越えて少女リーガンに取りついたのかと思いました。
違いました。
メリン神父は掘り出した悪魔像を見て、再度の対決を予感しただけだったのでした。
その割にはこの部分の描写にかなりの時間が割かれています。
せっかくのイラクロケだったのでカットしにくかったのでしょうね。
(2020年11月6日)
(3)
リーガンがどうして悪魔にとりつかれたのか、その理由も本編では描かれていません。
想像はできます。
リーガンと母親は二人暮らしです。父親は離婚して遠く離れたところにいます。
母親は新しいボーイフレンドと付き合っていますが彼は差別主義者のダメ男です。
しかしリーガンは母親の気持ちを気遣ってそれを訴えることができません。
その心のねじれが悪魔を呼び寄せました。
ある時リーガンはそのダメ男と二人きりになってしまいます。
あのダメぶりからすると男はリーガンにちょっかいをかけたものと思われます。
その直後、男は惨殺死体となって発見されます。
リーガンと悪魔の目的が一致したのでしょう。
ですが、この映画ではそのあたりは具体的には描かれません。
カラス神父の母親の死も描写されないし、何でもお見通しのはずの悪魔がカラス神父のつっこみにたじたじとなったりもします。
ストーリーを丁寧にたどるとか、整合性を求めるとか、この監督はそういうことはあんまり考えていないようです。
(2020年11月9日)
(4)
この映画の見どころはショックシーンではなく、まずリーガンの可愛らしさです。
リンダ・ブレアというともう少し大人になってぽっちゃりしてからのイメージしかありませんでしたが、この映画ではあどけなくて本当に可愛らしいです。
その少女が悪魔に乗っ取られてぼろぼろになるのですから衝撃的です。
あと怖いのは様々な検査シーンです。
頸動脈から造影剤をポンプで注入して連続撮影する場面は怖いです。
30年前までは私も検査をする立場でしたが、あの検査っていろんな意味で怖いんですよね。
二度とやりたくない検査です。
(2020年11月11日)
(5)
よく分からないのは冒頭のイラクのシーンです。
イラクの北部というと、これまでキリスト教が入り込んだことのない地域だと思います。
そこで発掘された悪魔像が、リーガンに取りついた悪魔と映像的に重なる箇所があります。
悪魔像と憑依した悪魔が同一人物(?)かどうかははっきりしませんが、何らかの関係があるという描写です。
メリン神父が戦ったのは異教の悪魔だったのでしょうか?
だとすると苦戦したのは当然だったような気もします、というかそもそも勝てるはずがありません。
ウイルス性疾患に抗生剤で立ち向かうようなものです。
「あれ、どうして俺にキリスト教のおまじないが効くと思ったわけ?」と悪魔に言われそうです。
さて、この映画にもディレクターズカット版というのが存在します。
劇場公開版よりも15分長いらしいです。
代表的な追加部分は、リーガンが階段をブリッジで降りてくるシーンと、ラストのちょっとほのぼのとしたシーンです。
このほのぼのシーンが100%余計です。
「なくてもいい」のではなく「断固としてあってはならない蛇足」です。
「エクソシスト」はベスト100入り間違いなしの名作ですが、冒頭とラストの数分ずつは不要です。
(2020年11月13日)
20世紀の映画62本目は1931年、フリッツ・ラング監督の「М(エム)」です。
(1)
これにも本編前に淀川長治のネタバレ解説がついています。
この時間を利用してトイレに行っておきましょう。
前半はぞくぞくするほど面白いです。
謎の連続殺人犯。
それを追いかける警察。
警察の取り締まりに音を上げる裏社会の連中。
これらがテンポよく、しかしじっくりと描かれます。
ラング監督が4年前に撮った「メトロポリス」は間延びしたテンポで観るに堪えませんでしたが、この作品はしゃきっと引き締まっています。
(2020年11月16日)
(2)
警察の取り締まりが厳しくなったせいで商売に支障をきたした裏社会のボスたちが立ち上がります。
「自分たちで犯人を捕まえよう!」
かくして犯人は警察と裏社会の両方から追われることになります。
このあたりは本当にスリリングです。
ただしこのあとから話がぐっと散漫になります。
まず、タイトルにもなった「М」が話の展開に何の機能も果たしていません。
ビルに逃げ込んだ犯人を追い詰めるのは面白くも何ともない人海戦術です。
そして最も訳が分からないのはラストの人民裁判の場面。
てっきり自首させるための罠なんだろうと思って観ていたら、当人たち(と監督)は大真面目みたいです。
これは変です。
犯人を自分たちで裁いてしまったら警察の締め付けはいつまでも緩くなりませんから。
だからと言ってこのままでは埒が明かず。
「そりゃこうするしかないよね」というエンディングに持っていきます。
何とも最後の締まらない迷走映画でした。
(2020年11月18日)
20世紀の映画63本目は2000年、クリストファー・ノーラン監督の「メメント」です。
(1)
クリストファー・ノーラン監督の実質上のデビュー作だそうです。
「テネット」を観てからこれを観直してみると「この人はずーっとこれをやりたかったんだ」というのがよく分かります。
映画はエンディングから始まって時系列を逆にたどっていきます。
結末が分かっているので、私たちは「何がどうなってこのシーンに至ったのか」という点に興味を持って観ることになります。
たとえば「どうしてこの女性は主人公を助けてくれるのだろう?」、「この悪人はどうやって主人公に取り入ったのだろう?」。
時間をさかのぼるに連れて明らかになる事実もあれば、意外な展開もあって退屈させません。
そして最後、つまり時系列の頭に、最大のどんでん返しが私たちを待ち受けます。
この奇想天外な仕掛けとエンターテインメント性を両立させたのがこの映画のすごいところだと思います。
(2020年11月20日)
(2)
分かりにくいのは、主人公が電話で語る記憶障害患者についての話です。
主人公は保険調査員で、ある記憶障害の男性を担当したことがありました。
男性の妻が主張するには、彼は事故で頭に傷を負ったあと、記憶を長時間保てなくなったとのことです。
その障害に対して保険金を払うべきかどうか、主人公は調査を任されたのです。
仮病かどうか調べる、というのなら理解しやすいのですが、そういうわけではなさそうです。
「心因性」などの小難しい言葉が出てきますが、保険金が支払われる基準がもう一つはっきりしません。
主人公が何と何を区別しようとしているのかもよく分かりません。
(男に対するテストは、仮病かどうかを調べているようにしか見えない……)
従ってそのあと患者の妻が取る行動の意味もはっきりしません。
つまり映画の根底部分で何だかはっきりしないのです。
あんまり深く考えないで観ると意外な展開に驚かされて楽しめます。
しかし深く掘り下げようとするとたちまち手ごたえがなくなってしまいます。
(2020年11月25日)
(3)
この監督の最新作「テネット」もよく難解と言われます。
ところどころ時間が逆行するのですがその説明が不親切です。
が、逆行部分はもう一度逆回転リピートされます。
逆再生部分を見てやっと「こういうことだったのか」と気づかされる仕組みになっています。
不親切というよりは「もったいぶり」と言った方が正しいかもしれません。
リバース場面は笑えるくらい楽しいので「難解」とはちょっと違います。
主人公が時限爆弾を必死で取り戻そうとする映画があったとします。
敵はやっつけたものの、時間切れで爆弾のスイッチが入ってしまう。でも爆弾は爆発しません。
実は爆弾は不発弾でした……というオチだったらそれまでのハラハラは台無しです。
「テネット」をネットで検索すると深く考察して詳しく解説してくれている人もいます。
でもこの映画にはどこか「不発弾」臭さが漂っています。
スコップで3センチくらい掘り返すのはいいのですが、ショベルカーで何メートルも掘り返す映画ではないと思います。
「メメント」と同じ感じです。
(2020年11月27日)
20世紀の映画64本目は1991年、ジョナサン・デミ監督の「羊たちの沈黙」です。
(1)
原作は、収監中の猟奇殺人犯が捜査の協力をするという、あっと驚く「安楽椅子探偵」もののハシリです。
これ以降似たような設定のミステリが山のように作られましたが、今なおこの作品をこのジャンルのナンバーワンと位置づける人は多いです。
映画はアンソニー・ホプキンスが怪演で原作に劣らぬ緊張感を味わわせてくれます。
鋼鉄の女のようなイメージのジョディがこの映画ではクールながらもキュートで可愛いのも見どころです。
(2020年11月30日)
(2)
この映画の長所は原作に忠実に作られているところです。
同時にそれは短所でもあります。
犯人が蛾にこだわるのは変身願望があるからだそうです。
いくら何でも無理があります。
レクター博士が犯人を特定する推理の過程も杜撰(ずさん)です。
というか、実際は推理などしていませんし。
これらは原作そのものの欠点です。
ですから原作を読んでいてお尻がむずむずして仕方のなかった人(たとえば私)は、この映画を観てもお尻がむずむずすると思います。
(2020年12月2日)
(3)
この映画を分かりにくくしているのは犯人の設定です。
変身願望があるから服装倒錯者であろう、つまりは性同一性障害者に違いない。……というブっ飛んだ三段論法です。
アメリカでも30年前はこの程度の認識だったということです。
さらにそれをぐちゃぐちゃにしているのが日本上映版のボカシです。
今はYouTubeで無修正版を観ることができます。
無修正版を観るとよく分かります。
作品の真意や価値がよく分かるのではなく、製作者の認識不足がよく分かります。
結果的に作り手のミスを塗り隠すことになったボカシなのでした。
何だか全体として褒めているのかけなしているのか分からないような感想になってしまいましたが、すみません、原作でずっこけた口なので。
映画としてはまあまあ面白かったです(奥歯にものが挟まっている)。
(2020年12月4日)
20世紀の映画65本目は1977年舛田利雄監督の「宇宙戦艦ヤマト」です。
(1)
1974年から翌年にかけて放映されたアニメの総集編です。
初回放映時、それからその1年後の再放送時と、毎回画面にかじりついて観たものです。
ですからこの劇場版を20世紀のベスト333映画に加えるのはかなり、というかほとんどノスタルジーによるものです。
すみません。
これまで何度となく観返してきましたが、それは「劇場版」ではなく「アニメ版」のつまみ食いでした。
つまり第1話から第3話まで。
ワープやゆきかぜの回は飛ばして冥王星反射衛星砲の回を観て、その次はオリオン星、バラン星。
そして七色星団の決戦、ガミラス本星戦、そして最終回。
平たく言えば戦闘回です。
今回ものすごく久しぶりに「劇場版」を観ました。
(2020年12月7日)
(2)
私が観たい戦闘回はほぼ収録されています。
カットされているのは、バラン星の戦いと最終回くらいです。
これはすごい圧縮度です。
バラン星のエピソードがカットされたのはもったいないです。
しかしこれを加えると上映時間が三時間を超えてしまいます。
ここは涙を呑んで我慢しましょう。
最終回でのデスラー艦の反撃もカットされています。
なぜならデスラーはガミラス本星の戦いで死んだことになっているので。
これは英断です。
「ヤマト」に限らず、死んだはずのキャラクターが生き返って「よかった!」と拍手喝采する人っているのでしょうか。
ついでに言えばこの「劇場版」にも二種類あって、古代守が再登場するバージョンとしないバージョンがあります。
登場しないバージョンは「スターシャ死亡編」と呼ばれていて、今では封印されているようです。
しかしアニメ放映時小学生だった私でも古代守の再登場にげんなりしたのを覚えています。
ジャンプコミックでもアヴェンジャーズでも、やみくもに死者を生き返らせるのはやめにして欲しいものです。
(2020年12月9日)
(3)
「劇場版」ではアニメ最終回の「コスモクリーナー起動」→「森雪の仮死」という流れもカットされています。
非常にもったいないのは確かです。
最初に観た時には「森雪の身代わりとなって沖田艦長が死んだのかも」と解釈したりもしました。
森雪の蘇生のエピソードがなかったら沖田艦長の死が成立しないような気もしていました。
でもよく考えると沖田艦長の死は誰かの身代わりというような卑小なものではありません。
地球を見て最期を迎える、それで十分です。
堪え難きを堪えて「森雪関連エピソード」も削ることにしましょう。
というわけで伝説のアニメ「宇宙戦艦ヤマト」を最も手軽に、最も適切に楽しむには「劇場版〜スターシャ死亡編」を観るのが一番です。
(2020年12月11日)
(4)
ごり押しで20世紀の映画にねじ込んだものの、さすがに作画レベルは厳しいです。
第3話まではまだましです。
今のアニメーターでも描けないような構図や動画もがんがん出てきて驚かせてくれます。
それ以降は気合もマンパワーも時間も足りなくなって急速にぼろぼろになっていきます。
クライマックスの七色星団にいたってもう一度総力を叩き込んできますが、この頃の製作現場はまさに七色星団戦直後のヤマト状態だったのではないでしょうか。
ところどころすさまじい絵もあるのに、人間、気合だけではどうにもならないこともあるということです。
というわけで誰もが考えるのはリメイクです。
(2020年12月14日)
(5)
まず2010年には山崎貴監督によって「SPACE BATTLESHIP ヤマト」が作られました。
実写版というかVFX版ですね。
主演は木村拓哉。当初は「キムタク映画」とか「学芸会」などとこき下ろされましたが今冷静に観ると案外面白いです。
何と言ってもリアルに動くヤマトがかっこいいです。
初代「ヤマト」だけではなく「さらば」までくっつけて上映時間138分。
そこにはこってりとした恋愛要素あり、あんまり「ヤマト」っぽくない迫撃戦もあり。
時間のわりにお腹いっぱいな感じです。
(2020年12月18日)
(6)
さらに2012年から「宇宙戦艦ヤマト2199」の制作が開始されました。
これは最新のアニメ技術で作られた全26話のテレビシリーズです。
フルCGの「ヤマト」がぐいぐい動きます。
山崎監督の実写版ヤマトもかっこよかったですが、宇宙空間での大艦隊戦はアニメの方が映えるような気もします。
キャラクターもそれぞれ現代風におしゃれになっています。
さらに旧作ではいるのかいないのかもう一つはっきりしなかった女性隊員も、はっきり「いる」ことになっています。
これはまあ、当然ですよね。
(2020年12月21日)
(7)
どちらの作品も映像がきれいで特にヤマトの姿が迫力たっぷりで見ごたえがあります。
映像に関して文句を言うとすれば、両作品とも「ヤマト」の動きに「ため」が足りないところでしょうか。
これはVFXやCGの問題ではなく作り手の技量の問題だと思います。
もう少し経験を積んでぜひもう一段迫力のある映像を作って欲しいものです。
ストーリー的にはいっぱい文句があります。
そもそも初代「ヤマト」が無理ありまくりの作品です。
スターシャは滅亡に瀕した地球にわざわざ波動エンジンの設計図を届けてくれましたが、それなら最初からコスモクリーナーを届けろよ、というツッコミは最初からありました。
あれだけの軍事力のあるガミラスなのに七色星団戦でヤマトを迎え撃ったのはたった5隻でした。ガミラス本星での決戦でも残存艦隊は登場しませんし、みんなどこに行ってしまったのでしょうか。
そうそう、何と言っても戦いのためにぼろぼろになるヤマトが次の回では何事もなかったかのように修理されていたのも半分ギャグでした。
二つのリメイク作品はそのあたりを何とかして解決しようと努力しています。
(2020年12月23日)
(8)
地球を滅ぼそうとするガミラスと救おうとするイスカンダル。
この関係を手っ取り早く説明する方法があります。
ガミラスとは生身の人間ではなく、かつてイスカンダル人が作り上げた全自動惑星防御システムだった。
ところがAIが暴走を始めてガミラスは全宇宙に派兵を始めた。
それを知ったイスカンダル人はガミラス相手に抵抗を続ける星を助けようとする。
イスカンダルはガミラスの制圧下にあるので武器やコスモクリーナーを他の星に届けることはできない。
一方ガミラスは初期プログラムでイスカンダル人への攻撃を禁じられている。
イスカンダル人にできるのは設計図を隠し持った使者を各星に届けることだけだった。
これならまあまあ筋が通ると思います。
(2020年12月25日)
(9)
「実写版」はそれに近い解釈を採用しています。
従って生身のデスラーは登場しません。
ガミラス兵というのも存在しないことになっています。
理屈は通るのですが、これではあんまり面白くないのも確かです。
ドメルと沖田艦長の知恵比べもなくなってしまうので。
やっぱりデスラーやドメルが出てこないと「ヤマト」にはならないみたいです。
他方、「2199」はガミラス人やイスカンダル人に人間ドラマを描きこむことによって矛盾を解消しようとしています。
旧作にはなかった新しい設定が山のように出てきます。
シュルツはガミラスの二等市民だった、とか。
ゼーリックのクーデターのせいでガミラス艦隊はバラン星系に置き去りにされてしまった、とか。
ヤマトの乗員の中にスパイがいた、とか。
森雪の記憶喪失、とか。
前の二つは面白いと思いました。
しかしそれ以外は「ヤマト」の面白さを深める役には立っていませんでした。
たとえば、あの七色星団戦の最中に森雪が拉致されるエピソードが挿入されたりもします。
旧作では主題歌さえカットして尺いっぱいに戦闘場面をぎゅーぎゅーに詰め込んだ七色星団戦ですよ。
そこにこんなつまらない挿話を入れてしまうなんて……。
いろいろ解釈を加えたくなる気持ちはよく分かります(私も七色星団戦の最後は波動砲で決着をつけてほしかったと思っています)。
でも今リメイクするなら、旧劇場版のシナリオを一切変更せずに絵だけきれいに直すのが最大公約数的正解だと思います。
(2020年12月28日)
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谷崎潤一郎全集、次に読んだのが第26巻。最終巻というか別巻というか付録的な巻です。
収められているのは主に日記です(小説は含まれていないので「あらすじ」作業も不要です、ほっ)。
本人が書いているものもあれば家族や秘書が書いた部分もあって、資料的にはともかく文学的には意味がありません。
ですからいっそ読まないで飛ばそうかとも思ったのですが、うっかり読んでしまいました。
意外と面白かったです。
(2020年10月30日)
(110)
晩年の谷崎は高血圧と腕の痛みに苦しめられています。
それぞれ当時高名だった医者や整体師に受診して治療を施してもらいますが、いずれもはかばかしい効果をもたらしませんでした。
しかし不思議です。
この日記が書かれている時代には降圧薬としての利尿剤が発売されていたはずです。
谷崎みたいな塩分の摂り過ぎによる高血圧患者にはよく効いたと思うのです。
ところが谷崎が頼ったお偉い先生からはついに「利尿剤」という言葉は出てきませんでした。
偉い先生、必ずしも最新の治療法に通じず、ということでしょうか。
手の痛みもそうです。
整形外科医はもちろん鍼灸師、整体その他ありとあらゆる療法にすがりましたが効果はさっぱりです。
そのせいで晩年の谷崎は口述筆記に頼らなくてはならなくなりました。
それにしても「痛い腕をたくさんのハチに刺させれば痛みが消える」などという治療法があったんですね。
しかも谷崎ほどの人がそれをあっさりと信じてしまうとは……。
何はともあれこれで谷崎全集も残り2冊。
「細雪」が収録されている第19巻と20巻です。
(2020年11月2日)
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今年もよろしくお願いします。
元日には毎年恒例の風吹岩清掃ハイクに行ってきました。
今年もほとんどゴミはありませんでした。
来年からは「清掃」の文字は外した方がよさそうです。
一つだけあったゴミはタバコの吸い殻です。
風吹岩の一番眺望がいいところに一本落ちていました。
大勢の人が気持ちのいい眺望を楽しみにして来る空間で、わざわざ一番目立つ場所にゴミを捨てる素敵なモラルの方がおられるわけです。
きっと電車に乗れば二人分の幅を取って座って、車に乗れば煽りまくる人なのでしょう。
そういう人には
「ゴミは捨てるよりも拾った方が気持ちいいよ」
と言ってあげたいです。
嘘ですけど。
その吸殻を拾って帰りましたが、正直全然気持ちはよくありませんでした。
でもまあ、ネコたちは元気でした。
(2020年1月6日)
熱熱のラーメン
こういうご時世で、つくづく実感するのが「家では熱熱のラーメンが食べられない」ということです。
これまでは「今日はたまたま段取りが悪かったから少し冷めてしまった」と自分に言い聞かせてきました。
でも毎日家で晩ごはんを食べているとさすがにごまかしきれません。
そこで調理手順をきっちりと計画してみました(そんなに大げさなことではありませんが)。
するとスープと麺と器がいずれも熱々のラーメンを作ることはできます。
ところが食べることはできません。
シンクに鍋や湯切りざるが残っているからです。
もちろん食べ終わってから器といっしょに洗うという選択肢もあります。
しかし熱いうちならさっと数十秒で洗えるものが、食事のあとでは数分かかります。
「今洗っちゃえ」と思って、その結果せっかくの熱熱ラーメンが冷めてしまうわけです。
一番簡単な例としてラーメンをあげましたが他の料理でも同じです。
唯一の例外はオーブン料理くらいでしょうか。
家では作り手は熱熱の料理を食べられない宿命です。
で、いろいろ人に訊いてみると「我が家は全品テーブルに並んでから全員がいっしょに食べ始めている」という家庭でも実は数分のタイムラグがあったりします。
長々と何を書いているかというと、公平さ、です。
作り手が熱熱の料理が食べられないという理不尽さが認識されていないことが多いです。
作り手自身が気づいてないことも多いです。
家庭の中で料理を担当している皆様、昼の外食は贅沢でも何でもありません。
むしろ当然の権利だと主張しましょう。
(2020年9月11日)
洗い物の秘訣
毎日食器を洗っていると腰が痛くなります。
シンクが低いんですよね。
システムキッチンをオーダーした時に一番シンク位置が高い商品を選んだのですが、それでも男性には低すぎます。
シンクが高くならないのなら床を削ろうかと思うほどです。
仕方がないので足を大の字に開いて洗い物をしています。
見た目はよくないしとっさに動けませんが、少なくとも腰の痛みはましです。
(2020年9月14日)
プロのレシピ
しかし私の料理の最大の問題は、ぬるいことではなく、洗い物で腰が痛くなることでもありません。
美味しくないことです。
平板で、凡庸で、代わり映えしなくて、つまり美味しくありません。
試しに具材や調味料をレシピの通りにグラム単位で計って作ってみました。
とっても美味しいです。
「できると思っててきとうに味付けをする」ところに料理を不味くする原因があったようです。
それ以降全てをきっちりと計って作っています。
毎日何十何百食分もの料理を作っている人のレシピは、やはり偉大です。
そういう意味では私たち医師が処方する薬ももうちょっと信頼されてもいいと思います。
これまで何千人にも処方してきた薬です。
5日分の薬をお渡ししたら5日分飲んで欲しいです。
1日3回飲みましょうと言われれば1日3回飲んで欲しいです。
(2020年9月16日)
医者だって教えてほしい
とは言うものの、もらった薬を指示通りにきっちり飲んでいる人の方が少ないのではないでしょうか。
よくあるのが「1日3回毎食後」の薬なのに昼食後飲み忘れて1日2回しか飲まないパターンです。
薬によってはどうしても3回飲む必要がある場合もあるし、2回に減らしてもさほど問題のない薬もあります。
2回しか飲まない、飲めない場合はどうぞ正直に教えてください。
その人のライフスタイルに合わせて薬を変更します。
それから「朝食後に飲むように言われたが夕食後に飲んだ方が調子がいい」という報告も大歓迎です。
こういった報告は教科書的な知識よりも役に立ちますので。
(2020年9月18日)
薬を飲みたくない人
「薬は飲みたくないので飲まなかった。でもいつまでも治らない」というのは非常に困ります。
しかし「薬は飲みたくない」という希望にはできるだけ応えたいと思います。
病状に応じて「今すぐ禁煙禁酒して毎日10キロ走りましょう」あるいは「すぐに入院手術しましょう」などの代替案を提示させていただきます。
どうぞご相談ください。
ただ、医師に相談するというのは皆様にとって結構難しいことのようです。
薬を飲みたくないけれどそんなことを言おうものなら怒られそう、だから黙って受け取っておいてゴミの日に捨てる。
そういう人は多いです。
自分に合った薬の飲み方を見つけるためには医師とのコミュニケーションが必要ということです。
ずいぶん以前に「病院でのコミュニケーション入門」という特集を組んだことがあります。
詳しくはそちらをお読みください。
(2020年9月23日)
医者に言いたいことを言う方法
前回紹介した「コミュニケーション術」ですが参考になりましたでしょうか。
しかし医者に言いたいことを言うもっと簡単な方法があります。
診察室に誰か一緒に入ってもらうことです。
ご家族でも知り合いでも結構です。これだけでずいぶん心強くなります。
言いたいこと、質問したいことをあらかじめメモしておいて同行者にしゃべってもらうという方法もあります。
そんなことをして医者は怒らないのか?
少なくとも松本胃腸科クリニックでは大丈夫です。
私はむしろ大勢の人に同席してもらいたいです。
ただ、スペースの関係上診察室に入っていただけるのは一人か、せいぜい二人までですが。
(2020年9月25日)
喧嘩腰の人
付き添ってくれる人が大勢いて、その中からもし一人選ぶとすれば、私は強面(こわもて)の口うるさい感じの人がいいです。
でも喧嘩腰の人は困ります。
松本胃腸科クリニックに来られる方は知的で穏やかな方がほとんどですが、何年かに一人喧嘩腰の人が来られます。
こういう人への対処の仕方はクレーム担当の専門家が詳しいと思います。
が、以前も書きましたが、喧嘩腰な態度は攻撃性ではなく被害者意識に由来しているように感じます。
従って論破するのは逆効果です。むしろ論破された方がその後やりやすいくらいです。
患者さん自身の被害者意識であれば時間をかけて解きほぐさなくてはなません。
しかし付き添いの方の機嫌を取るのは治療とは全く関係ない行為です。
無駄な時間です。
強面の人は大歓迎ですが、喧嘩腰の人には待合室で待っていただくのがよろしいかと思います。
(2020年9月28日)
内心で疑わしく思っていること
医者に言いたいことがあるけれど、言っていいものかどうか迷っている……、実は私にもあります。
専門家が自信を持って主張しているけれど、私個人としては首をかしげていることです。
たとえば「呑気症」。
普段通りに生活しているのに突然お腹がぱんぱんに張って苦しくなる状態です。
原因がストレスであるのは間違いないと思います。
問題はストレスが加わった時にどうして空気が胃の中に入り込むのかという点です。
教科書的には「ストレスを感じると唾液を飲み込む時に空気をいっしょに飲んでしまうから」とあります。
そうでしょうか。
皆さん、ストレスが加わったからといって唾の飲み込み方が変わりますか?
私も「呑気症」持ちなので自分の症状を観察していますが飲み込み方が普段と変わっているとは思えません。
しかし口以外に空気の侵入経路がないのも事実です。
そこで皆さんには不承不承教科書的な説明をお伝えしています。
と、ここまで書いてふと一つの対処法を思いつきました。
自分で試してみて効果的であれば報告したいと思います。
(2020年9月30日)
玉ねぎ
あと最近思うのが「たいていの料理は玉ねぎを入れない方が美味しい」ということですが、これはここだけの話にしておきます。
(2020年10月2日)
ゴミ袋
それからいつも首をかしげるのがゴミ袋の包装です。
ミシン目が上の方についていますが、よっぽど指先がネバネバしている人でなければここから取り出すのは無理です。
ミシン目を入れるなら、せめてここでしょう。
(2020年10月5日)
GYARTの陰謀?
先日「Google口コミ評価担当」というところからメールが来ました。
悪い口コミを有料で改善するという内容でした。
ついに来たかと思いました。
WEB上にはいくつか口コミサイトがあります。
Google、Yahoo!、amazon、楽天、食べログ
勝手にGYART(ぎゃると)と呼んでいますが、これまで地道に展開してきた企業努力は素晴らしいと思います。
私も利用しますし振り回されなければ非常に有用です。
しかし、そうは言ってもいずれも私企業がやっていることです。
いずれ口コミを用いた商売に乗り出してくるのは時間の問題だと思っていました。
そこにこのメールです。
ついにGYARTの陰謀が動き出したと思ったのです。
(2020年10月7日)
口コミ評価サービス
ところがそのメールをよく読んでみると、「悪い口コミを1件削除すればいくら」という料金体制ではありません。
1か月いくらという、どちらかというと「コンサルタント料」みたいな契約内容です。
さらに読み進めると「悪い口コミを削除するわけではありません」という文言が。
なるほど。Googleとは何の関係もない会社からの営業メールだったわけです。
Googleさん、疑ってごめんなさい。
Googleとは関係ない会社がどうやって口コミ評価を改善させるのか興味はあります(やりかたは一つしか思い浮かびませんが……)。
しかし限りなく詐欺に近い商法だと思いました。
同業者の皆さん、飲食店の皆さん、騙されないように気をつけましょう。
そして今以降松本胃腸科クリニックの口コミががくんと悪くなったらそれはこの会社の陰謀のせいです。
投稿されている口コミが信用できるかどうか、投稿者の過去の書き込みをご覧になってからご判断ください。
(2020年10月9日)
参拝の作法
休みの日は献血バスに乗って問診のお手伝いをしています。
先日大型ショッピングモールの入り口で問診をしました。
コロナ禍以降、入り口にはサーモメーターが設置されています。
人々はサーモメーターの前で立ち止まっておでこをセンサーに向けます。
横で見ていると軽くお辞儀をしているように見えます。
そしてそのあとアルコールで手を消毒します。
この流れが神社の参拝の作法とそっくりです。
神社の参拝のルールもその昔、何らかの感染症対策で生まれたのかもしれない、そんな風に思いました。
(2020年10月12日)
自己中の一子相伝
ショッピングモールに一日いて困るのが、見たくないものを見てしまうことです。
喫煙コーナーに連れて来られている子ども、チャイルドシートもシートベルトもなしで助手席に座らされている赤ちゃん。
障碍者用スペースに平気で駐車する親。その車からきゃっきゃ言いながら走り出てくる子ども。
子どものそばでタバコを吸うこと、シートベルトやチャイルドシートなしで車に乗せること、ワクチンを打たせないこと、いずれも虐待です。
虐待の現場を間近に見せられるのはつらいです。
しかし子どもたち自身は虐待されていることに気づいていません。
そして障碍者用スペースに停めた車からうれしそうに駆け出してくる子どもは将来、平気で障碍者用スペースに駐車するようになるのでしょう。
タバコをポイ捨てして、煽り運転をして、店員に不当なクレームをつける大人になるのでしょう。
自己中の一子相伝と勝手に呼んでいますが、こういう伝承の現場はできれば見たくないものです。
(2020年10月14日)
モラル感覚のデノミネーション
しかし子どもの前での喫煙とか子どもにシートベルトさせないとか、20年前はごくごく普通に見られた光景です。
障碍者用スペースなど存在もしませんでした。
従ってそういう光景を見てもそれほどいらつきませんでした。
20年間で「モラルのない人を見ていらいらする」受け手側の敷居がいかに低くなったかということです。
社会全体のモラルが向上したために基準がより厳しくなってきたのでしょう。
流れとしてはきっといいことなのだと思います。
しかしせっかくなのでこの流れはもっと前に進めたいものです。
(2020年10月16日)
素晴らしき監視社会
個人的印象では防犯カメラと車載カメラのおかげで社会がずいぶん安全になったと思います。
でも何にでも揺り戻しがあります。
きっと来年あたりには「防犯カメラの台数と犯罪発生率には相関関係が認められない、従ってカメラ設置には犯罪抑止効果はない」と主張する統計学者があらわれるでしょう。
おそらくその直後に「発生率が減らないのは犯罪認知件数が増えたせいであって検挙率は確実に上がっている」という反論が登場して議論に終止符が打たれることでしょう。
難しい統計は置いておいて、素人考えでは要所要所にカメラを配置すれば空き巣やひったくり犯は百パーセント検挙できそうに思います。
個人的には100メートルおきにカメラがあってもいいくらいです。
(2020年10月19日)
AIと次世代富岳
私の理屈でいうと全ての人がカメラを背負えばいいのですがさすがにそれは現実的ではありません。
手っ取り早いのは車です。
全ての車にドライブレコーダーを搭載してそれを警察の超・スーパーコンピューターに接続してAIに管理してもらいましょう。
これで信号無視、速度違反、煽り運転は発生した瞬間に警察に認知されます。
ついでにETCにも紐づけて違反金を自動的に引き落としましょう。
法定速度を超えるたびにちゃりんちゃりんと口座から罰金が引き落とされるのです。
超・スーパーコンピューターの開発には莫大な資金が必要ですが、罰金の即時引き落としシステムを同時に運用すれば2、3年で元が取れるのではないでしょうか。
(2020年10月21日)
幸せの青い鳥
運転する人を罰金責めにして財源が確保できればいよいよ個人の監視システムの導入です。
全ての人に監視装置を装着させます。
「監視装置」というと怖そうなので可愛らしい小鳥の形にして肩に乗せましょう。
飼い主(?)が違法行為をおこなえば小鳥は即座に警察に連絡します。
違法行為未満のマナー違反やうっかりミスは耳元でささやいて教えてくれます。
「ヘッドホンから音が漏れてます」
「この車両の座席は6人掛けなのでもう少し右に座りましょう」
「足を開きすぎです」
「貧乏揺すりは見苦しいのでやめましょう」
「空き缶はそこに置かないでホームのゴミ箱に捨てましょう」
これで私たちの電車ライフはずいぶん快適になります。
飼い主が従わなければ青い鳥はだんだん黄色くなって最後には赤くなります。
それでも言うことを聞かなければ鳥は飼い主の側頭部をつっつきます。
赤い鳥を肩に乗せていて側頭部が血みどろの人がいたら要注意です。
(2020年10月23日)
ペットロボット
青い鳥ロボットは5Gの普及などで通信環境さえ整えばいつでも実用可能だと思います。
リアルな犬や猫ロボットはどうでしょうか。
あいつらと来た日には(うちの猫のことです)どれほどわがまま放題で気まぐれなことか。
昨日まで喜んで食べていた餌に今日は見向きもせず、せっかくベッドを買って来たらベッド本体よりも梱包段ボールに入りたがるし。
その行動の予測不能さは飼い主泣かせです。
でも富岳クラスのAIならあの行動も予測・再現できるのではないでしょうか。
ならば、餌も欲しがらない(これはちょっと寂しいような気もしますが)、トイレの世話も不要、毛も抜けない、アレルギーを気にしなくてもいい、ペット自身も病気にもならない、まさに完璧なペットの完成です。
これは私が面倒くさがり屋だから言っているわけではありません。
実は今思いついたのですが、本物の生きたペットを飼いたい人に試験的に一年間ペットロボットを世話させるといいと思います。
ペットの目を通して富岳さんに飼育ぶりを観察してもらって、「ろくに散歩にも連れて行かないくせに犬を飼いたいなんて100年早いわ」と叱ってもらうのです。
これでペット殺処分問題は完全解決です。
(2020年10月26日)
タンタンロボット
ですが、完全リアルなペットロボットの実用化にはまだ日にちがかかりそうです。
それよりも急いで作らないといけないのはタンタンロボットです。
王子動物園のタンタンがいよいよ中国に返還されます。
それまでにタンタンロボットを開発しましょう。
私がこれまで観察したところではジャイアントパンダはそれほど複雑な動きをしません(勝手な思い込み)。
見る側も激しい動作を求めてはいません。
竹の葉っぱをもしゃもしゃ食べてごろりんと転がってくれればそれだけで見る側は大喜びです(よね?)。
この秋にこっそりロボットと入れ替えておいて来年の秋ごろに「実は1年ほど前に本物は中国に帰りました、今いるのはロボットです!」と発表しましょう。
「そう言えば私が見に行った時、どことなく動きがぎこちなかった」
「ボクが見に行った時は元気にササを食べてたから絶対本物だった」
などなど、SNSが大騒ぎになって面白いと思います。
(2020年10月28日)
神戸元町ダイアリー2019年(2)さらば宇高連絡船<main>神戸元町ダイアリー2021年
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資本家と労働者の対立という当時最先端のテーマが壮大なスケールで描かれます。
ゴージャスなセットと舞台美術の数々、それに群衆シーンが時代を越えて目を惹きつけます。
この映画にもたくさんのバージョンがあります。
淀川長治の解説がついた83分版は長さは手ごろですがBGMが最悪です。
淀川長治の解説も全然面白くないですし。
サイレントですから台詞の量は多くありません。
いっそのことYoutubeで英語字幕版を視聴するという手もあります。
ロックミュージシャンがBGMを担当したジョルジオ・モロダー版というのがあります。
これも82分で手ごろです。
ただその音楽がやっぱり面白くありません。
オーケストラ伴奏がついた148分版も観ることができます。
しかし長いです。単に長いのならいいのですが、1シーン1シーンが200%くらい冗長です。
長さは80分程度、それにオーケストラ伴奏をつけたバージョンがあればそれが最高だと思いますが、今はどれも帯に短したすきに長しです。
(2020年7月15日)
20世紀の映画57本目は1998年中田秀夫監督の「リング」です。
(1)
これは怖いです。
日本風のじわじわ怖がらせるタイプのホラーの代表作、ベスト100間違いなしの一本です。
ちなみに原作もとっても怖いです。
昔勤務医だったころ当直室で読んでいて、一番怖いシーンで電話がかかってきて飛び上がったのを覚えています。
(2020年7月17日)
(2)
「リング」はヒット作の宿命として多くの続編が作られました。
原作者鈴木光司も「らせん」「ループ」を書いて三部作としましたが、最後の方は怖がらせるよりもつじつまを合わせるのに精いっぱいという印象でした。
映画はそれこそ数えきれないくらい続編・番外編が作られました。
ハリウッドリメイク版も作られましたね。
「ザ・リング」です。
アメリカナイズはされていますが、日本的なぞおっとさせる怖さはある程度再現されていたと思います。
怪物が出てきて人々を残酷に殺すだけのアメリカホラー(それはそれで好きだったりします)がこれで変わるかもと思ったのですが、大きな潮流を作ることはできなかったようです。
どうしてかと考えると、アメリカでも従来のホラーに飽き足りなさを感じていた人たちが独自のニューウェイヴホラーを作り始めていたからだと思います。
「スクリーム」、「キューブ」(これはカナダ産ですが)、「ファイナル・デスティネーション」、「ソウ」などなど。
これだけユニークなホラーが次々登場してはさすがの「リング」もかすんでしまったのかもしれません。
ただ、「リング」が大傑作なのは間違いありません。
ぜひ夜中に部屋を真っ暗にして観てください。
(2020年7月20日)
20世紀の映画58本目は1977年、ジョージ・ルーカス監督の「スター・ウォーズ」です。
(1)
何十回と観た映画ですが、今回久しぶりに最初から最後まで、ちゃんと、じっくりと観ました。
文句なく面白かったです。
特に感心したのは少しもちゃちなところがないところです。
翌年公開された「スーパーマン」は最新技術が売りの映画でしたが、今観るとクリプトン星の描写とかかなりアナクロで恥ずかしいです。
それに対して「スター・ウォーズ」のデススターとかスターデストロイヤーのディテイルの素晴らしいこと!
もっともっと技術が進歩した後年になってたくさんの続編が作られましたが、この映画のラスト以上に迫力のあるシーンは結局作られませんでした。
この映画をリアルタイムで体験した人にとってはこれが「スター・ウォーズ」そのものです。
のちには「エピソード4」と位置づけられてしまいましたが、ちょっと不満です。
人には「やっぱり第一作が最高、それに比べると他は普通のSF映画」なんて力説するのですが、「第一作? エピソード1のこと?」と訊き返されます。仕方なく「エピソード4」という呼称を受け入れつつあるところです。
(2020年7月22日)
(2)
ただしこの映画の面白さを人に伝えるのは難しいです。
私自身がそうでしたから。
先ほど私は「この映画をリアルタイムで観た人にとっては」などと偉そうに言いましたが、実は私はリアルタイムで観ていません。
当時の映画雑誌は最初から最後まで「スター・ウォーズ」で大盛り上がりでした。
そのブームは映画というジャンルを越えて社会現象になったほどでした。
硬派な映画ファンを気取っていた私としてはへそを曲げたくなったのでした。
「巨大宇宙船の迫力がすごい」
「一見生意気なお姫様が実はキュート」
「神話やファンタジーや西部劇を巧みに取り入れた総合エンターテインメント」
とかいろいろ耳に入ってきましたが「それが何か?」と無視を決めこんでいたのです。
最初に観たのは初公開から一年以上経ったある日。
松山の名画座の二本立てで観ました。
併映はライアン・オニール主演の「ザ・ドライバー」。
そうしたら面白いのなんのって!
冒頭の宇宙船には腰が抜けそうになり、レイア姫には胸がきゅんきゅんしました。
高校生の私は入場料の500円だけ持って観に行ってました。
その映画館は入れ替え制ではなかったので飲まず食わずで
スター・ウォーズ → ザ・ドライバー → スター・ウォーズ → ザ・ドライバー → スター・ウォーズ
と劇場が閉まるまで観続けたのでした。
(2020年7月27日)
(3)
ただし今観ることのできる「スター・ウォーズ」はオリジナルのものとはかなり違っています。
1997年にリバイバル上映された際、それから2004年のDVD発売時、2011年のBlu-ray発売時にそれぞれ修正が加えられています。
きっとマニアがどこかでまとめてくれていると思うのですが、画面は全体ににぎやかになり、爆発は派手になり、ジャバ・ザ・ハットが登場したりしています。
続編とつじつまを合わせるために台詞もかなり変わっていると思います。
こういう修正版はオリジナルの面白さを損なうことが多いですが、「スター・ウォーズ」の場合は大丈夫でした。
おそらくジョージ・ルーカス自身がプロデュースを担当しているからでしょう。
誰からも口を挟まれず、自分のやりたいようにできたので作品の印象が大きくぶれなかったのだと思います。
「スター・ウォーズ」を初めて観る皆さん、普通に流通しているディスクで、どうぞ安心してご覧ください。
(2020年7月29日)
(4)
よく制作裏話で「予算が少なかった」などと書いてあります。
それは嘘だと思います。あるいは「ルーカスが望んだよりは少なかった」だけで、決して低予算映画ではなかったと思います。
だってあれだけのセットを組んで、あれだけのエキストラを使い、あれだけのロケを敢行したのです。
しかも若手役者を支えるために起用したのがアレック・ギネスとピーター・カッシングという二人の伝説的名優。
予算が少なかったわけがありません。
またあるいは「予算に比べて信じられないような完成度」つまり「お金の使い方が非常に上手だった」と解釈すべきかもしれません。
当時誰も試みなかった新技術がふんだんに投入されていますが、これはやる気のある若者たちに低コストで働いてもらったからこそ可能だったと思います。
音楽もそうです。
超大編成のオケにあれだけ大量の難曲を演奏させたのです。
どれほどお金がかかったか想像もできませんが、でもそのおかげでシンセサイザーでごまかした同時代の映画の数々よりも数百倍ゴージャスになったのでした。
(2020年7月31日)
(5)
ただ、今回観直して気になったところはいくつかあります。
一番興醒めだったのはテキトーな銃撃戦。
敵も味方もレーザー銃を撃ちまくりますが、どうしてそれが当たってこれは外れるのか、そのあたりの機微が一切認められません。
大昔から続く大雑把西部劇の悪しき伝統からさすがの「スター・ウォーズ」も抜け出せなかったようです。
(そしてこのテキトー銃撃戦はハリウッドではいまだに続いています。)
それから時代遅れ感を感じさせられたのはオビ=ワンとダースベイダーの殺陣。
これが昔ながらのぬるい立ち回りでほのぼのさせられます。
仕方がないといえば仕方がありません。
1977年といえば日本でもばっさばっさと切り捨てるタイプの時代劇が全盛期の頃です。
ルーカスが「チャンバラとはこういうもの」と割り切っても責められません。
しかしふと思えばルーカスは黒澤を尊敬していたはずです。
「七人の侍」や「椿三十郎」だって観ていたと思うのです。
この二作を観た上であの二人の決闘シーンはありえません。
尊敬していたというのは日本のプレス向けの社交辞令だったのでしょうか、それとも観るには観たけれどぼーっと観たのでしょうか。
結局旧三部作のソードアクションはぱっとしないままでした。
(2020年8月3日)
(6)
もう一つ気になるのは「ジェダイ」と「フォース」という概念です。
「スター・ウォーズ」を構想するにあたってジョージ・ルーカスが神話やおとぎ話などを参考にしたというのは有名な話です。
その時点でファンタジーにつきものの「賢者」「魔法」という存在を深く考えずに導入してしまったのでしょう。
光速航法の宇宙戦艦が宇宙を飛び回る時代に魔法使いというのも妙ですが、この第1作では違和感はぎりぎり許容範囲内だったと思います。
その後話のスケールが大きくなるにつれてこの二つの概念の咀嚼不足感が大きく露呈してきます。
さらに「フォース」に先天的素養が関係している、つまり血筋が重要視されるようになって個人的には「スター・ウォーズ」に対する興味は半減しました。
第1作で「フォース」が使われるのはモス・ワイズリー宇宙港で帝国軍兵士に誰何される場面、それとデススター内で兵士の注意をそらす場面です。
いずれもちょっとした機転と工夫で危険から逃れることができたはずです。
「フォース」を使うよりもそちらの方がスリリングで面白かったと思います。
(2020年8月5日)
(7)
全然関係なくて全然どうでもいい話なのですが。
昔チェロを習い始めた頃です。
初心者はまず第1(ファースト)ポジションという指使いで弾き始めます。
でもこのポジションではト音記号の下の「レ」の音までしか弾くことができません。
次に習うのが第4(フォース)ポジションです。
このポジションを使えばト音記号の真ん中の「ソ」まで出せます。
オーケストラで曲を演奏していて時々先輩に「そこはフォースを使え」と言われました。
そのたびに「スター・ウォーズかよ」と思ったものでした。
(2020年8月7日)
20世紀の映画59本目は1980年、アーヴィン・カーシュナー監督の「スター・ウォーズ〜帝国の逆襲」です。
(1)
58本目として取り上げた「スター・ウォーズ」の続編です。
制作順としては第2作、エピソードナンバーとしては5作目となります。
前作が1977年でしたからたった3年後なのですね。
もっと長く待たされたような気がしていました。
たった3年ですが、その間に合成技術は格段の進歩を遂げています。
上の写真はその一例です。
これまでは宇宙空間のみで可能だった画像の自然な合成が、白い雪原でも可能になりました。
しかしこの映画を観た人がひっくり返ったのはその技術にではありません。
何と、お話が途中で終わってしまったのです。
「続く」というテロップを観た時のずっこけ感と言ったら……。
そんな映画は今まで観たことありませんでした。
(2020年8月14日)
(2)
反乱軍の拠点、氷の惑星ホスに帝国軍が迫ってくるところから映画は始まります。
ルークは吹雪の中偵察に出ています。
そこで雪男のような原住生物に襲われて気を失ってしまいます。
それを知ったソロは命の危険を顧みず救助に向かいます。
まず、ここが意味不明です。
ルークは帝国軍の偵察ロボットと戦って相打ちで気絶したことにすればよかったのに。
どうしてわざわざ原住生物なんかを出してしまったのでしょう。
結果的にはライトセーバーを使って雪男を倒しますが、宇宙の正義と秩序を担おうと志す者が野生動物を殺してはだめです。
偵察ロボットからの信号が途切れたためにそのうちに帝国軍は反乱軍の存在に気がつく。
しかしルークの活躍のおかげで時間稼ぎができた反乱軍は反撃と脱出の準備ができた……。
というお話にすれば全部がスムーズでシンプルになったのに。
(2020年8月17日)
(3)
反乱軍は危機一髪ホス星を脱出しますが、ルークは別行動をとります。
気絶していた時に聞こえたオビ=ワン・ケノービの声に従ってダゴバ星に向かいます。
そこでヨーダからジェダイになるための特訓を受けるためです。
これ以降はルーク組とソロ組とでストーリーも並行して進行することになります。
ソロ組の逃避行は文句なく面白いです。
小惑星帯での空中戦、やっと逃げ着いた中型惑星でのサプライズ、さらに敵巨大戦艦からの逃走。
これぞまさにSF大活劇です。
一方ルーク組のお話は全然面白くありません。
ヨーダ登場の場面は笑わせてくれますが、特訓のシーンは別の意味で笑ってしまいます。
それに続く禅問答のようなやり取りも退屈。
しかもルークは特訓を放り出してソロたちを救出に向かうのですが、結局何の役にも立たなかったというオチ。
「帝国の逆襲」は複数の脚本家によって書かれていますが、ルーク組担当者はちょっと力不足だったようです。
(2020年8月19日)
20世紀の映画60本目は1983年、リチャード・マーカンド監督の「スター・ウォーズ〜ジェダイの帰還」です。
(1)
旧三部作の3作目、エピソードナンバーとしては6作目となります。
公開当時は「ジェダイの復讐」というサブタイトルでした。
私も「復讐」というマイナスの語感に首をかしげたのを覚えています。
いつの間にか今のタイトルに変更されました。
この映画の見どころはさらに進化した合成技術です。
前作では雪原をバックにしたバトルが売りでしたが、今回はジャングルの中の高速チェイスが見ものです。
前半の砂漠でのバトルは劇場で観た時は結構ハラハラさせられましたが、今観ると少しチャチかもしれません。
それに比べるとこのジャングルチェイスは今観ても最高です。
一体どれくらいの日にちがかかったのでしょう、撮影班は本当に大変だったでしょうね。
(2020年9月2日)
(2)
そのあとはモフモフしたイウォークたちも登場して、全体的にバラエティ豊かで楽しい映画ではあります。
ただし作劇上まずいところがいくつかあります。
まず冒頭です。
第一作目「エピソード4〜新たなる希望」の冒頭では巨大戦艦の途方もない大きさに腰が抜けそうになりました。
第二作目「エピソード5〜帝国の逆襲」ではその巨大戦艦が何かの影に覆われるシーンから始まります。
あの巨大戦艦をも覆い隠すような物体とは何? と思ったらスーパー・スター・デストロイヤーがどーんと登場してくるわけです。
本当はもっと大見得を切って登場して欲しかったですが、それでも圧倒的な迫力は感じました。
ところが今作の目玉の第2デススターは何のタメもなく、何のこけおどしもなく、宇宙空間にぽつんと映し出されてお目見えとなります。
これはダメでしょう。
第二作の二番煎じでもいいのです。その大きさでしっかり驚かせてほしかったです。
(2020年9月4日)
(3)
それから何度も観ると首をかしげてしまうところがあります。
物語はジャバ・ザ・ハットの城から始まります。
そこにまず2体のロボットが行って捕らわれ、次に賞金稼ぎに扮したレイア姫が行って捕らわれ、最後にルークが行き、またしても捕らわれます。
ここがもたつきます。
ルークは砂漠でのハン・ソロの処刑の場面で颯爽と初登場するべきだったと思います。
そうした方が印象的でカッコよく、また全体の尺も10分くらい短縮できました。
冒頭の第2デススターといい、ルークといい、第3作では登場シーンが今イチしゃきっとしないのが残念なところです。
(2020年9月7日)
(4)
今回驚いたのはルークが意外と活躍しているところです。
ジャバの城で怪獣と戦い、砂漠で敵を大勢やっつけて、森の高速チェイスでも大活躍しています。
ずっと「暗黒面」の誘いに悩んでばかりいたように思っていましたがそうではありませんでした。
ルークさん、ごめんなさい。
せっかくの活躍を台無しにしたのは暗ーい場面の数々です。
まずヨーダが長々と暗黒面の怖さを語り、次にダース・ベイダーと押し問答して、最後に皇帝の電気攻撃を延々と受け続けます。
これが映像的につまらない。
ヨーダは臨終の場面だし、ダース・ベイダーとの立ち回りは例によって旧態依然だし、皇帝の電気攻撃にいたっては退屈なだけです。
これ以降私の中では「暗黒面」という言葉が出ると自動的に眠くなるように刷り込まれたのでした。
この条件反射は昨年完結した新・三部作でも払拭されませんでした。
いっそ「帝国の逆襲」と「ジェダイの帰還」に分けないで「ハン・ソロの大冒険」と「ルーク対暗黒軍団」と分ければ「ハン・ソロ」は「新たなる希望」を上回る大傑作になったでしょうに……。
とまあ、いろいろ書きましたが「ジェダイの帰還」は、今回観直してみて、意外と面白かったです。
(2020年9月9日)
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ちくま版ではここで第2巻「前篇?」に突入しますが「ドン・キホーテ」の珍道中はまだまだ続きます。
ドン・キホーテを村に連れ帰ろうとする連中やたまたま出くわした人々で一行はかなりの人数になっています。
ドン・キホーテの戦いはしばらくお休みです。
さらにスピンオフが挿入されたりします。
一行がたまたま見つけた「無分別な物好き」という題名の小説がまるまる紹介されます。
次にドン・キホーテが登場するのは170ページ先になります。
(2020年8月21日)
(23)
夜遅く、屋根裏部屋からものすごい音が鳴り響きました(ちくま前篇?:170ページ)。
一行が驚いて行ってみるとサンチョが叫んでいます。
「ご主人様が大巨人をやっつけた!」
ドン・キホーテはみんなの前にうやうやしくひざまずきました。
「その名も尊きミコミコーナ姫」彼には美しいお姫様が見えているようです。「あなた様はこれで大巨人を恐れる必要がなくなりましたぞ」
一行が見まわすと葡萄酒の革袋が切り裂かれてあたり一面葡萄酒で水浸しになっています。
宿屋の主人は怒り狂います。ドン・キホーテの錯乱を知っている一行はそれをなだめます。
「わしにも確かに巨人が見えただ」
サンチョはまだ言い張っています。
ドン・キホーテと行動をともにしているうちにサンチョの頭も少しずつおかしくなってきているようです。
それはともかく、我らがドン・キホーテはめでたく大巨人を倒しました。
これで6勝7敗です。
(2020年8月24日)
(24)
このあたりになるとドン・キホーテとサンチョの頭はますます変になり、一行はそれを知ってわざと煽り立てます。
おかげで行く先々で大騒動です。
次に出くわしたのはお尋ね者を追いかけている捕り方でした(ちくま前篇?:351ページ)。
例によってドン・キホーテによって引き起こされた大騒ぎの最中、捕り方は人相書きを取り出します。
そこにはドン・キホーテの顔がはっきりと描かれています。
そうです、以前罪人たちを解放させた罪でドン・キホーテはお尋ね者になっていたのでした。
捕り方はドン・キホーテにつかみかかります。
ドン・キホーテはその無礼さに激怒し捕り手の首を絞めます。
人々が二人を引きはがさなければ捕り手は死んでしまうところでした。
しかし勝負は決着つかず。
これでドン・キホーテ、6勝7敗1引き分けです。
(2020年8月26日)
(25)
人々は捕り手にドン・キホーテは頭がおかしくなっているので見逃してやって欲しいと懇願します。
最初は拒否していた捕り手も渋々納得します。
次に出会ったのは山羊飼いです。
彼は人々に自分の悲しい恋の話を聞かせます。
人々も口々に彼への同情の言葉を口にします。
ドン・キホーテも口を挟みます。
「わしに任せてくれれば彼女を助け出してそなたに引き渡してやるのだが」
山羊飼いはいぶかしげな顔を見せます。
「あんた誰?」
というのはこの時ドン・キホーテはとてもみすぼらしい格好をしていたのです。
「この方はあの有名な憂い顔の騎士であるぞ」
人々は吹き出しそうになりながら言います。
「とてもそんな立派なお方には見えませんが……」
山羊飼いが言うとドン・キホーテがつかみかかりました。
「この無礼者っ」
二人は取っ組み合います。
周りの者たちも面白がってはやし立てます。
二人は上になり下になり、殴り殴られ、お互いに血みどろになったところでゴングが鳴ります。
ドン・キホーテがやや不利でしたが勝敗つかず。
これで6勝7敗2引き分けです。
(2020年8月28日)
(26)
ドン・キホーテはみんなに連れられて自分の村に戻ります。
村までもうちょっとというところで白装束の一段と出会いました。
それは雨乞いのために聖像をかかげて行進する農民の一群でした。
「貴様たち、その女性をどこに連れて行くつもりだ!」
ドン・キホーテは呼ばわります。
農民たちはドン・キホーテを見て、頭がおかしくなっていることに気がつきます。
笑いだす者もいます。
ドン・キホーテの怒りが爆発しました。
ドン・キホーテは剣を振り上げて彼らに襲いかかります。
一人は棒を手に取って向かい撃ちます。
棒はドン・キホーテの太刀に真っ二つにされましたが、残った半分で騎士の肩をしたたかに打ち据えました。
ドン・キホーテは馬から落ちて無様に大の字になりました。
サンチョがつついてもぴくりともしません。
哀れ、ドン・キホーテはふるさとを目の前にして死んでしまったのでしょうか……。
ここで前篇は終わりです。
これまでの戦績
6勝8敗2引き分け
今年のカープくらいの勝率です。
(2020年8月31日)
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次に読んだのが第22巻。25冊目の刊行で読むのは23冊目です。
まず収められているのが随筆「過酸化マンガン水の夢」です。
これまで「谷崎の随筆はつまらない」と言い続けてきましたがこれはどうでしょうか。
特に晩年の随筆は日記文を水増ししたようなものばかりですが、この作品もそれっぽい体裁で始まります。
ストリップショーを観にいく話、中華料理を食べる話、映画を観る話……。
ずっこけるのは映画についての記述です。
(2020年2月26日)
(101)
谷崎が観たのはアンリ・クルーゾー監督の「悪魔のような女」という映画です。
最後にどんでん返しがあるので映画の冒頭に「結末は誰にも言わないでください」というテロップが流れるそうです。
そういうテロップが流れると書いた後で谷崎は詳細に映画のストーリーを語ります。
最後のどんでん返しまできっちりばらしてしまいます。
個人的にこっそりと友達にばらすのならともかく(私ならそんな友達とはすぐ絶交しますが)、雑誌で大々的にばらしてしまうのですから口あんぐりです。
これくらい良識のリミッターが外れている人でないと芸術家にはなれないのかもしれません。
実際ここから随筆はぐいぐい異世界に突入していきます。
谷崎の随筆は面白くないと言い続けてきましたが、これはかなり強烈な随筆です。
高いわけではなく、深いわけでもありませんが、とんでもなく「あっち側」です。
ただ、やっぱり淀川長治さん、谷崎潤一郎さん、ネタバレはよくないと思いますよー。
(2020年2月28日)
(102)
〇A夫人の手紙
これはまた要約の難しいお話です。
三通の手紙によって構成されています。そこに劇的なできごとは含まれていません。
谷崎夫人の友人からの手紙を、本人の承諾を得てアレンジしたもののようです。
三通目の手紙にはたくさんの絵が描かれていますが、その友人の絵をそのまま流用したものです。
静子様、いよいよ疎開されるそうですね。この戦局ですから阪神間からお逃げなさるのには賛成でございます。私はこちらで静養させられておりますが、楽しみといえば戦闘機の訓練を眺める事だけです。一人情熱的な教官が私のために低空飛行や旋回を見せてくれます。谷崎様は飛行将校の小説を書いてくださらないかしら。この頃俳句も好きになりました。「梔子」の同人にも漸くなれたのよ。
梅が香にめざしを干してゐたりけり 泰子
(2020年3月2日)
(103)
〇小野篁妹に恋する事
これは小説ではありません。
「少将滋幹(しげもと)の母」を書くために集めた資料の中に小野篁(おののたかむら)の日記がありました。
それを紹介しつつそれにまつわる雑感などを書き留めた随筆です。
基本は篁の恋愛物語ですが、字突の思い出話に脱線したり、篁の手紙の文章をこきおろしたりして、でも最後には「矢張小説にすればよかったような残念な気がしないでもない」と書いています。
(2020年3月4日)
(104)
これを無理やり要約する場合、随筆の体裁を活かすか、篁の物語部分だけを抽出するか、二つの方法があります。
私は随筆の格好にしてみました。
小説執筆の資料の中に「篁日記」があった。興味深く読んだが結局小説にはしなかった。篁は異母妹と恋に落ちた。それに気づいた親に幽閉されて娘は悲しみと悪阻のために死んでしまう。篁はその後も毎晩娘の幽霊と語り合った。そうかと思えばその数年後篁は右大臣の娘に目をつけて婿にしてほしいという手紙を大臣に送り付けた。首尾よく婿になった篁は出世して参議にまでなった。やはり小説にすればよかったと今は残念に思っている。
(2020年3月6日)
(105)
〇上山草人のこと
上山草人とは日本人としてはおそらくもっとも早い時期にハリウッドで活躍した俳優です。
Wikipediaにもかなり詳しい解説が載っていますが、こちらの谷崎による評伝もよくまとまっていますし面白いです。
出世作「バグダッドの盗賊」がこちら。
この予告編を観るとかなりの大作のようです。
(2020年3月9日)
(106)
〇或る時
これも小説ではありません。
が、せっかくなのであらすじをつけてあげました(またまた謎の上から目線)。
十二歳の頃から十五六歳までの数年間南茅場町に住んでいた。三間しかない借家だったが蔵や庭はあった。両親は蔵に、私たちは母屋に寝ていた。ある朝私は厠に行くために蔵の前を通った。ふと中を覗くと両親が夜具から顔だけ出して私を見ていた。二人は重なり合って、ほのかに笑っているように見えた。物心ついて以降愚痴と泣き言を言い暮らしていた両親だったが、その時の記憶だけは二人の悲しい思い出を和らげてくれるのである。
(2020年3月11日)
(107)
〇鍵
もう毎回言い訳ばっかりですが、これもあらすじをつけるのがとても難しい作品です。
こんな感じにしてみました。
妻ハ慎ミ深ク閨房デモ肌ヲ見セナイ。アル夜酒ニ酔ッテ眠ル妻ノ裸身ヲ観察シタ。私ハ異常ニ興奮シ、夢ウツツノ妻モソレニ応エタ。
夫は日記をわざと私の目に見える所に置いている。私が盗み見ると思っているのだ。そして木村さんとの仲も疑っているに違いない。
血圧ガ上ガルニツレテ思考ガ衰エテキタ。頭ニアルノハ淫欲ノ事ダケダ。
夫は脳溢血に倒れた。二週間の昏睡のあと、私が日記を読み木村さんと通じていた事も知らずに死んだ。
それにしても谷崎、すごいです。
未完が多いとかテキトーに描き散らかすなとか散々悪口を言ってきましたが、振り返ってみれば全集25巻の全てに一つは必ず傑作が含まれています。
つまり傑作が少なくとも25はあって、しかもデビューから最晩年にかけて満遍なくあるということです。
こんな人は他にいないのではないでしょうか。
(2020年3月13日)
(108)
谷崎全集22巻にもう一つだけ小説が残っていました。
〇夢の浮橋
継母も生母と同じく茅渟(ちぬ)と呼ばれた。母についての思い出はいくつかあるがどちらの母にまつわるものなのかおぼろげだ。継母は時に乳首を含ませてくれた。この習慣は私が大きくなるまで続いた。やがて弟が生まれたがすぐに遠くの親戚に貰われていった。私は成人して結婚した。周囲からは祝福されなかった。私と継母との関係を人々は疑っているようだった。ある日母は百足に咬まれて死んだ。私は妻と別れて弟を連れ戻した。
最初に読んだ時には「無責任な噂を流して、親戚の人たちにも困ったもんだ」くらいに思っただけでした。
でも二度目読むと確かに継母と「私」の間には関係がありますね。
弟の父親も間違いなく「私」です。
調べてみるとこの小説は「源氏物語」の光と冷泉院の関係を模して書かれたもののようです。
そもそもタイトルからして明らかですし、小説も「源氏物語」の話から始まります。
それなのに「私」と継母の関係を疑ってもみなかった私の読解力!
お恥ずかしい限りです。
(2020年8月12日)
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ベスト100ランクイン間違いなしの映画です。
「黄金狂時代」も面白かったですが「街の灯」の完成度に比べるとかすみます。
ギャグ描写をテンポよく積み重ねて、目指すのはラストの哀しい笑顔です。
この収斂力、集中力が何より素晴らしいです。
注文も文句もつけようのない完璧な映画ですが、繰り返し観て気になるのが大富豪との顛末。
大富豪との関係が宙に浮いてしまってちょっとだけお尻がむずむずします。
エンドロールのあとに大富豪が悲しい顔をしてブランデーの栓を開けるシーンをちらっと入れてはどうでしょうか。
はい、だめですよね。分かりました。
(2020年7月3日)
20世紀の映画52本目は1962年、フェデリコ・フェリーニ監督の「8 1/2」です。
主人公は映画監督です。
作品の構想を練るために温泉地にやってきましたが、いろいろ邪魔が入ってなかなか構想がまとまりません。
それはそうです、彼だって愛人連れです。集中できるはずがありません。
それでも自分の中の客観的第三者と対話を重ねて何とか脚本を書き進めようとしますが、温泉地に奥さんがやってきたところで彼の頭の中は大混乱状態となります。
その結果彼が取った方法とは……。
というあらすじです。
大昔に初めて観た時には前半が難解で、どんどんフラストレーションがたまりました。
その分ラストのはじけたパレードでのカタルシスは大きくて訳も分からず感動させられました。
今回久しぶりに観て印象が180度変わりました。
前半が分かりやすくて面白く、後半は集中力が途切れて散漫な印象を受けました。
やはり理解できないのはどうして彼がその方法を選択したか、という点です。
主人公にそこまでフラストレーションがたまっているようには見えませんから。
(フラストレーションがたまっているのはむしろ観客の方です。)
そのあたりの進め方については脳内第三者から助言がなかったのか……、というのが今回の正直な感想です。
ちなみにタイトルは「はっかにぶんのいち」と呼ぶそうです。
今では「はっか」というのはちょっと恥ずかしいですが(マイコンとかハンケチみたいに)、有名な映画なので胸を張って「はっかにぶんのいち」と呼びましょう。
(2020年7月6日)
20世紀の映画53本目は1984年、ジェームズ・キャメロン監督の「ターミネーター」です。
これは文句なく面白いです。
タイムトリップものはいろいろありますが、これは「未来から殺し屋が襲ってくる」というシンプルなストーリー。
冷静に考えるとツッコミどころはたくさんあります。しかし勢いがあるので観ている間は余計なことを考える間がありません。
面白いのはシュワルツェネッガーのビジュアルです。
初登場シーンでのシュワルツェネッガーは垢抜けない田舎の坊ちゃんですが、よく知られている「ターミネーター」にどんどん変わっていきます。あの格好は映画の途中で確立されていったのですね。
あれ以外のスタイルだったらこれほどの人気は出なかったでしょう。
惜しいのはサラ・コナー。
設定では19歳です。演じるリンダ・ハミルトンはこの時28歳、でも38歳くらいに見えます。
それから音楽。
あの有名なリズムは素晴らしい。でも全編に流れるのはシンセサイザーで、どうしても安っぽいです。
フルオーケストラでアフレコし直せばカーチェイスのシーンや情緒的な場面がもっと引き締まると思います。
文句なく面白いと言いながらいろいろ文句をつけましたが、二回続けて観て、それでも全然退屈しませんでした。
面白いのは間違いないです。
(2020年7月8日)
20世紀の映画54本目は1972年、フランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」です。
これも名作中の名作です。
二日続けて観ましたが観れば観るほど面白かったです。
と言いながらまた文句を言うのですが。
3時間弱の長さですが、観ていて物足りないところはあります。
まず冒頭、ファミリーから距離を置こうとしていた葬儀屋がヴィトーにある頼みごとをするシーンから始まります。
娘を強姦した若者たちに復讐して欲しいという依頼です。
これに対してヴィトーはネチネチと嫌味を言ったあとでしぶしぶ了承します。
ところがその復讐シーンがありません。
これはいけません。
それからソニーがブルーノ・タッタリアを殺害するシーン。
これはセリフで語られるだけです。これも省略してはだめでしょう。
それぞれ数分でいいのです。
もちろんただでさえ長いのでそのまま加えろとは言いません。
弁護士トムがハリウッドのプロデューサーを説得に行くシーンがあります。
まず門前払いを食わされて、そのあと迎えられて、でもやっぱり拒絶されます。
最初の門前払いのシーンをカットすれば数分稼げます。
あとは娘のタリア・シャイヤが泣きわめくシーンがいくつかあってこれが全然面白くありません。
これを最小限まで削ればOKです。
やっぱり復讐シーンは必要ですよねー。
(2020年7月10日)
20世紀の映画55本目は1982年、リドリー・スコット監督の「ブレードランナー」です。
公開当時、冒頭のビジュアルにあっと驚いたのを覚えています。
未来の街はきれいで清潔で未来的に違いないと信じていたのに、この映画の中の2019年、街はごみごみしていて不潔でいつも雨が降っています。
なるほど、未来はバラ色とは限らないよなあ、と思わされたのでした。
主人公は人間そっくりに作られた人造人間「レプリカント」をやっつける仕事です。
必然的に「人間を人間たらしめるのは何か」という哲学的命題を背負うことになります。
そのあたりの謎めいた雰囲気が好きな人にはたまらない映画だと思います。
この映画もさまざまなバージョンが存在することで有名です。
一番ポイントになるのは「主人公がレプリカントかどうか」という謎です。
マニアは各バージョンを比較考察してその謎について熱く語っています。
普通に観れば主人公はレプリカントではありえません。
だってそんな風には描かれていませんし、ハリソン・フォードもそう演じていませんから。
マニアの心の中にはそれぞれが夢想するブレードランナーワールドが展開しているのでしょう。
ドストエフスキーファンだって書かれてもいないことをもとに勝手に妄想を広げています。
カルトな作品は暴走するマニアによって支えられていて、でもそれくらい魅力的なのだと思います。
小難しいことは抜きにしてもビジュアルとアクションでそこそこ楽しめる映画であることは確かです。
問題は「フォークト=カンプフ検査」です。
被験者の意表を突く質問をすることによってレプリカントをあぶりだす嘘発見器みたいなものですが、この質問の数々が全然面白くありません。
かなりのマニアでもここは眠くなるのではないでしょうか。
この場面はぜひハライチのコンビで撮りなおして欲しいです。
(2020年7月13日)
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名作の誉れ高い映画ですが、実は今回初めて観ました。
十代で観ても、二十代で観ても、そして五十代で観てもそれぞれ面白く観られるように作られているのに感心しました。
しかも各年代層を感動させるいろんな要素がわずか89分に詰め込まれているのです。
これは知性と抑制と客観性がなければできない技です。
たとえば観ていて不思議だったのが、不良のボスがトラック相手にチキンレースをしかける場面です。
彼が少年たちをイジメるシーンはじゅうぶんにエグいので、彼の粗暴さのそれ以上の描写は本来不要です。
このエピソードは余計だなあ、と思っているとちゃんと最後に種明かしがありました。
感傷的と受け止められがちな映画ですが、そういった知的な計算の上に成り立っている作品なのでした。
(2020年6月15日)
20世紀の映画47本目は1988年、マーティン・ブレスト監督の「ミッドナイト・ラン」です。
賞金稼ぎと賞金首によるバディ・ロードムービーです。
マフィア、FBI、ライバル賞金稼ぎたちが襲ってくる中二人は目的地に無事にたどり着けるのでしょうか? という、単純に面白おかしい極上エンターテインメントです。
何と言ってもデ・ニーロの楽しそうな演技が特筆ものです。
強いて気になる点を挙げるとすれば、
1)このスピード感に対して126分という尺は長すぎます。
どんでん返しを1回減らして何とか2時間に収めてほしかったです。
2)相棒役の壊滅的な演技。
Youtubeにラストシーンがアップされているので一目瞭然。
演技の鬼デ・ニーロがどうして殴りつけなかったのか不思議なほどの大根ぶりです。
この演技力のせいで「マフィアの金を横取りして慈善事業に寄付した男」という設定に全然説得力が生まれなかったのでした。
二人が登場するシーンではデ・ニーロだけを見ておきましょう。
(2020年6月17日)
20世紀の映画48本目は1982年、ジョン・カーペンター監督の「遊星からの物体X」です。
その時その時でそれぞれ怖い映画はありますが、何十年たっても怖さが色あせない映画がいくつかあって、これはその代表ともいえる大傑作です。
舞台は十二人の男たちが駐留している南極基地。
雪と氷で外界から完全に鎖された空間です。
そこに謎の「物体X」が入り込んできます。
「物体X」の正体とは?
男たちの運命は?
密室の心理サスペンスと、映画史上もっともグロテスクなクリーチャーとでたっぷり怖がらせてくれます。
公開時に劇場で観たのですが途中で逃げ出したくなったのを覚えています。
ただし2011年に続編というか前日譚が制作されて、こちらのタイトルが「遊星からの物体X〜ファーストコンタクト」。
これは泣きたくなるくらいつまらないです。
ビデオで鑑賞する時にはタイトルに要注意です。
(2020年6月19日)
20世紀の映画49本目は1984年、ハワード・ジーフ監督の「殺したいほど愛されて」です。
名作映画〇〇選という企画では真面目な映画が取り上げられることが多いです。
333本の候補作を見渡してもコメディはわずかです。
でも本当は人を幸せにさせてくれる作品こそいい映画だと思います。
これはお勧めのコメディです。
ちょっとした行き違いから嫉妬が芽生え、またまた行き違いから殺意へと発展します。
圧巻は後半のチャイコフスキー。
クラシック音楽をBGMに用いた作品は多いですが、ここまで音楽を活かしきった映画はありません。
とにかく見て大笑いしてほしいです。
ナスターシャ・キンスキーもとびっきりキュートで可愛いですよ。
(2020年6月29日)
20世紀の映画50本目は1992年、クエンティン・タランティーノ監督の「レザボア・ドッグス」です。
初めて観た時には冒頭のおしゃべりと、撃たれた仲間を車で運ぶシーンがとにかく長くて退屈でした。
が、二回目に観ると印象がずいぶん変わって驚かされます。
いろいろもったいないところはありますが、結構気になる映画です。
名作と呼ばれる映画は二回観てから良しあしを判断した方がいいのかもしれません。
もったいないところは、まず、やっぱりどのシーンもちょっとずつしつこい。
それからハーヴェイ・カイテルのキャラクター。
彼の役は情に厚く一本気だけれどちょっとおつむが足りないという設定。
ハーヴェイはこの役を楽しそうに演じていますが、いかんせん彼の風貌がそれとマッチしていません。どう見ても風格のある凄腕の殺し屋ですから。
ラストシーンでホワイトがオレンジを撃ったのかどうか解釈がぶれているようですが、それは設定と風貌のミスマッチのせいです。
あと個人的に一番違和感があったのは、まったくどうでもいいことなのですが、血が赤すぎるところ。本当にどうでもいいですね。
(2020年7月1日)
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