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神戸元町ダイアリー2015年(1)

あけましてめでとうございます。

年末年始はゆっくり過ごせましたでしょうか?
私はお正月に近所の山に登ってきました。
昨年はゴミが目立ったので今年はゴミ袋持参での清掃ハイクです。

ところが強風のせいで登山客が少なく、そのため今年はゴミをほとんど見かけませんでした。
山頂のネコたちも「天気がいい時もゴミが少ないといいんだけどにゃー」と言ってました。

 

(2015年1月5日)

大晦日に県北の病院で当直して、正月の朝は山に登ってそのあと紅白歌合戦の録画を見る、というのがここ数年の年越しパターンです。
自分の中では、紅白はお正月にゆっくり見るもの、というイメージがすっかり定着してしまいました。

基本的にぼーっと見ていたのですが、今回はテロップなしで歌詞が理解できるかどうかに何となく注目してみました。

圧倒的に聞き取りやすかったのは長渕剛と中島みゆきでした。
意外だったのはサザン・オールスターズ。
桑田佳祐の歌い方で歌詞が聞き取れるはずがないと思い込んでいたのですが、非常に分かりやすくてびっくりした吹雪の元旦でした。


(2015年1月7日)

はなはだしく時機を逸した話なのですが、選挙のたびに不思議に思うことがあります。

マスコミや自治体を挙げての投票率アップキャンペーンです。

投票率が低い方が自分の一票の価値が上がります。
裁判に訴えてまでも一票の格差にこだわる人もいるのに、「投票に行こう」って言える人はものすごく立派だと思います。
裁判に訴えている人がみみっちいという意味ではありません。
投票キャンペーンを目にするたびに「余計なことはやめてくれよ」とついつい思ってしまう自分がみみっちいというお話でした。

 

(2015年1月9日)

そもそも自分が何を考えて投票しているかよく分かりません。

地元に大きな公共工事を引っ張ってくる代議士がいい代議士だと言われた時代がありました。
地元から総理大臣が出れば選挙区内の道路が立派になる、と言われた頃です。
今では、そういう投票の仕方はあまり品がよくない、という風潮です。

その風潮は正しいのでしょうか。
自分の中で「利益誘導優先の政治はよくない」という考えと現実の「小選挙区制」と、衆院の劣化コピーとしか思えない参院の存在がうまく折り合ってくれません。

もしかするとこう割り切ると現実の制度を生かすことができるかもしれません。
衆院小選挙区では地元への利益を、衆院全国区では業界や階層への利便を図ってくれる候補者を選ぶ。
参院では国策で選ぶ。
つまり「衆院ではみんな思いっきりわがままを主張し合いましょう、参院で調整しますから」というやり方です。

これはこれで参院選挙区が浮いてしまうのですが……。

 

(2015年1月14日)

選挙制度と民主主義理念がそぐわないような違和感、これは生殖医療の猛烈な進化に生命倫理がついていけてない状況に似ています。
あるいはオンラインショッピングやSNSが圧倒的に便利な一方で「何がどう危険かすらよく分からない」怖さを併せ持っている状況にも。

もしかすると私たち(私?)はまだ完全普通選挙制度を持て余している段階なのかもしれません。


(2015年1月16日)

震災から20年が過ぎました。

憶えていることがあります。
直後は大勢の取材陣が神戸を訪れ、悲劇も美談もたくさん掘り起こして報道していました。
やがて震災関連の話題がネタ切れになった頃サリン事件が起きてオウム真理教が世間の関心を一気にかっさらってしまいました。
ライフラインの回復も途上で、多くの神戸市民がまだまだ辛い生活を続けていたのに、マスコミに取り上げられるのはオウム関連のニュースばかりで、うらめしいような寂しいような複雑な感情を抱いてしまったことを思い出します。
どうしてこんなタイミングでオウムの人たちはサリンをばらまいたんだろう、と。

しかし今になってみると何となく分かります。

サリン散布自体は前々から計画されていたことだったのでしょうが、実行犯たちを最終的に踏み切らせたのは震災だったのだと思います。
都市が一瞬にして瓦礫と化してしまった映像を見て、彼らは末世の到来を実感したのではないでしょうか。

二つの出来事の関連が「何となく、ものすごく漠然と」分かったような20年後の1月17日でした。


(2015年1月19日)

オペラのシーズンがやってきました。
今年の芦屋市民オペラはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」です。

芦屋ルナホールで2月22日日曜日の11:30と16:30の2回公演です。
ぜひぜひご来場ください!

 

(2015年2月2日)

普通ならここで「ドン・ジョヴァンニ」についてうんちくめいたものを書くところですが、今回は難しいです。

公演のお手伝いをするにあたって稽古を見せてもらうことも多いのですが、とにかく驚かされるのは演出家の読みの深さです。
すべての音楽に意味があり、すべての台詞に必然性がある……と頭では理解しているつもりですが、稽古の場でのレクチャーを聞くと演出家の理解の細かさ、深さ、広さ、高さには毎回圧倒されます。
こういうレベルの分析を聞いた上で、今さらどんな顔をして素人くさい感想が書けるでしょう。

ただ、「ドン・ジョヴァンニ」についてはいくつか分からないところがあります。
時間に余裕がある時に演出家に直接訊ねたいと思っています。
解決したら報告しますのでもう少しお待ちください。

 

(2015年2月4日)

今聴いているのはこんな曲です。

ヴェッセリン・ストヤノフというブルガリアの作曲家のピアノ協奏曲です。
キャッチコピーが「聴いただけで恋をしたような気にさせてくれる曲」!
聴いてみると甘くて切なくて、確かに初恋のようです。
クラシックを好きな人でしたら「ラフマニノフのピアノ協奏曲の2.5番みたい」と言えば分かりやすいかもしれません。

あまりに素敵なのでクリニックの待合のBGMとして流しています。
どうぞ聞きに来てください(?)。

 

(2015年2月6日)

それからもう1枚紹介したいのは、これ。


ロシアの作曲家ガヴリール・ポポフの交響曲第2番。
これについては松本大輔「どっこいクラシックは死なない!」以上の紹介文はないと思うのでちゃっかり引用。

 *****

その後彼は、体制賞賛の映画音楽を中心に作曲していくことになる。それ自体はそれほど苦痛ではなく、いつかそこでためたお金で自作のオペラ上演を、というような夢も描いていたらしい。しかし才能ある作曲家が体制側の言うままにコマーシャル音楽を作っていたというのはあまりにも残念な話である。もちろんそうしないと殺されるのだからそれはそれで仕方がないのだが。

そうして時がたち、それから8年、彼はようやく交響曲第2番を発表する。タイトルは「マザーランド」……「母国」。もちろんベタベタ体制側の作品である。イケイケドンドンチンドンドン、ソビエト連邦素敵ですー、みんなで敵をやっつけよー、という作品で、晴れてスターリン賞も受賞した……。
しかし時代の先端を行き、近代ロシアの最高傑作といわれる画期的な交響曲第1番に比べてこの交響曲第2番のなんと情けない存在価値。そこには作曲家の意思も希望もなく、ただの職業的な細工があるに過ぎない。そんな作品、聴く価値があるのか。
そう思って聴いていなかった。

ところが……これが……すごい曲だった。

親に言われていやいや描いた宿題の絵が金賞を取ることもある。苦手科目のテストで100点取ることもある。
動機がどうであれ、過程がどうであれ、よい成果が生まれることがあるのである。
バードがイギリス国教会のために書いた作品で感動することもある。ベートーヴェンが金目当てで書いた作品に感動することもある。伊福部昭が1回限りのコンサートのためにしぶしぶつなぎあわせたメドレー作品に感動することもある。
動機や背景や過程とは関係なく、傑作が生まれることがあるのだ。作者が天才だけになおさら。
そう、このポポフの交響曲第2番、おそるべき傑作、すさまじい傑作、愛すべき傑作だった。

 *****

聴いてみると「体制にすり寄って作った」などという代物ではありません。
ここには間違いなく本物の苦悩があります。
スターリンに媚びを売って作曲したというよりは、GPUに銃を突きつけられて作らされた、というのが現実ではないでしょうか?

 

(2015年2月9日)

このCDの後半に入っているのが同じ作曲家の交響的ポスター「赤軍運動(Red Cavalry Campaign)」。

こっちの曲は体制にすり寄った感じ満載です。
これも「どっこい!」からそのまま引用。

 *****

合唱つきのマーチなのだが、むちゃくちゃカッコいい。頭が空っぽになるほどカッコいい。あまりにカッコよくて、勇ましくて、下手に鉄砲でも持たされたらそのまま敵陣に突っ込んでいきそうな、おそろしいほどの扇情音楽。

 *****

まさにそんな感じ。
通勤途中に聞くととりあえず頑張ろうかな、という気になれます。
人によってはジャイアント馬場の入場シーンを思い出すかもしれません。


(2015年2月13日)

それから最近聴いているのが、これです。

ヘヴィーメタルとアニメソングの相性はもともといいのですが、そのマッチングを限界まで推し進めたのがこのユニットです。
リズム部隊の本気度が結構ヤバいです。

ライヴ映像が見事なのも特徴です。
これは彼女たちのパフォーマンスを邪魔していないカメラをほめるべきかもしれません。

概してロックのライヴ映像はピントがずれていて、見たいところを上手に見せてくれないことが多いです。
ひどいのになるとアップテンポの時に画面を激しく揺らしたりします。
見る方からすればそういう時こそプレイヤーの指先をじっくり見たいものなのに。

彼女たちの武道館ライヴの映像はそういう意味で真っ当です。
これと比べると彼女たちのPVはインスピレーション不足で哀しくなります。

動画サイトでBABY METALをチェックする時はPVではなく、くれぐれもライヴ映像を選びましょう。


(2015年2月16日)

ところで(ごくごく限られた一部の層では)すっかり一般的になったデスヴォイスですが、いつ誰が始めたのかよく思い出せません。

80年代半ばまではアクセプトのウド・ダークシュナイダーのハイトーンシャウトこそがベストメタリックヴォーカルだと思っていた記憶があります。
それから10年後の90年代の半ば、ライヴハウスで贔屓のイエロー・マシンガンが叫んでいたのは既にデスヴォイスでした。

衝撃的な出会いであれば憶えていると思うのです。
メタルファンの耳にいつの間にか入りこんできたような印象です。

アルバムをいろいろ聴き返してみるとナパーム・デスの87年の「Scum」は完全にデスヴォイスです。
それでは彼らが影響を受けたハードコア・パンクがデスヴォイスの源流かと思って聴いてみると、ディスチャージやGBHは声自体は普通の発声です。
むしろ86年、ゴリゴリのブラックメタルだった頃のソドムの方がデスヴォイスっぽいです。

おそらくはインディーズのイベントでブラックメタルバンドとハードコアパンクバンドが互いに影響を受け合って生まれ出たものなのでしょうが、同時多発的に自然発生した可能性も否定できません。
それくらい「出現するべくして出現した」デスヴォイスということなのでしょう。


(2015年2月18日)

スラッシュメタルにしてもデスメタルにしても新しいムーヴメントが次々と発生してくるのには理由があります。

音楽シーンはなぜか放っておくとどんどんぬるくなっていくのです。
大衆に迎合するためにぬるくなっていくのではないと思います。
パンクロックのように、むしろメジャー路線に背を向けたジャンルですらあっという間にぬるくなっていくのですから。

メタリカでもスレイヤーでも速さを売りにしていたのはデビュー直後の一時期だけでした。
スレイヤーの95年来日公演では速い曲を1曲演奏したと思ったら2曲スローチューンを演奏し、しかも曲間の長いこと長いこと。
「そんなに休みたいならアメリカで寝とけ!」と思ったものです。

遅いロックミュージックは飛び出さない3D映画と並ぶ二大「存在価値のない物」だと勝手に思っています。
若い皆さん、ゆっくりなロックを聴くくらいならブルックナーを聴きましょう。


(2015年2月20日)

存在価値が分からないと言えば、プロレスのタッグマッチもそうです。

2×2で、シングルマッチの4倍面白いという人もいますが、私にはまったく逆で4倍希釈されたように思えます。
あと全然面白くないのが選手のマイクパフォーマンス。それから派閥抗争。

そういうのがいやならストロングスタイルのプロレスを見ればいいのですが、基本的にルチャ系なので困ります。
なぜかルチャとタッグマッチとマイクパフォーマンスは親和性が高いのです。
せっかくドラゴンゲートのおひざ元にいるのにもったいないことです。

もしドラゴンゲートがマイクパフォーマンスを封印した「私語厳禁大会」を開いてくれたら絶対行くのですが。
その時にはタッグマッチでも1試合くらいは我慢して観ます。


(2015年2月23日)

さて、ぬるくなったシーンに飽き足りなくなった若手がより過激なシーンを生み出す、音楽界はその繰り返しです。
そんな中でベテランが過激であり続けるのは大変なことです。

「こいつは死ぬまでぬるくならないだろう」と、私が最も信頼を寄せていたのがSODOMのトム・エンジェルリッパーです。
こっ恥ずかしい名前を未だに名乗り続けているのがその証拠です。
ところがそのSODOMもここ数作のアルバムではミドルテンポの曲が増えてきました。
Youtubeで最新ライヴ映像を見ましたが、残念ながらこれではモッシュはできません。
50歳を過ぎても激速ナンバーだけを演奏し続けるのはプロ野球でピッチャーを続ける以上に厳しい事なのかもしれません。

となると期待をかけたいのは元Brutal Truthのダン・リルカです。
50歳の誕生日を機に引退中ですが。
彼の場合多ジャンルに軸足を置いているので激速ナンバー一辺倒ということはありませんが、十分な休息期間のあと激速率80%以上のニューアルバムで復活してくれると信じています。


(2015年2月25日)

「ドン・ジョヴァンニ」の話がいつの間にかデスメタルの話になってしまいましたが、ここで中途半端に話が戻ります。

BABYMETALに「イジメ、ダメ、ゼッタイ」というタイトルの曲があります。
いじめっ子をたしなめる歌なのか、いじめられっ子を慰める歌なのか、傍観者の勇気を奮い立たせる歌なのか判然としませんがこの歌の存在自体はとても面白いと思います。

傍観者に向かって「見て見ぬふりをするな」と言う人がいます。

果たして現実的な提案でしょうか?

中学生の頃の自分を思い出すのですが、いじめっ子を注意することができたとはとても思えません。
誰に、どんな言葉で背中を押されても絶対に無理だったと思います。
大人になった今を考えるとよく分かります。
電車の中で迷惑行為を見かけて注意できる人がどれだけいるでしょう?
街宣車や暴走族に抗議できる人がどれだけいるでしょう?

私はヘッドホンの音漏れは基本的に注意することにしていますが、もちろん相手を選びます。
それ以外の迷惑行為については、白状しますが、見て見ぬふりをします。

大人の私も持っていないような勇気を中学生に強いることが現実的とは、私にはとても思えません。


(2015年2月27日)

同様に、いじめっ子にいじめがよくないことを教え諭すというのも意味があるとは思えません。

イエス様の時代からありとあらゆる人が「イジメ、ダメ、ゼッタイ」と言い続けてきて、そして現状がこうです。
ヒトとは基本的にいじめたくてうずうずしている生物であると認めるべきでしょう。
とすればいじめっ子に「イジメはダメ」と教えるのは、うちのネコたちに「ドアを開けたら閉める」と躾けるのと同様に困難だと思うのです。
 不可能ではありません。
しかしとてつもなく難しいです。

大人でもそうです。
社長の立派な訓示では社員のモチベーションは上がりませんし、官房長官が綱紀粛正を訴えても政治家の金銭トラブルはなくなりません。
何かを変えようとすれば個人の良心や勇気に頼らないシステムが必要です。


(2015年3月2日)

じゃあどういうシステムが有効か、その具体案については現場の先生からの提案を待ちたいと思います。
教育評論家や管理職ではない、現場の先生のアイデアを。
欲を言えば、いじめは教師の資質や熱意によってなくすことができると信じている熱血タイプではない先生方の発想を。

それにしても熱意や勇気でいじめが撲滅できるという幻想のためにどれだけ多くのいじめが放置され、どれだけ多くの子どもたちが犠牲になったことでしょうか。

最近ではネット上でのいじめも問題になっています。
重大犯罪の加害者のプライバシーを過剰にあばき立てて加害者や家族を追いつめたり、面白半分でおこなわれた不法行為を見つけ出して告発したり。
こうした一連の行動を見ていると、前回書いた「人は人をいじめたくてうずうずしている」論が確信されます。
その一方で、「いじめたくてうずうずしているにもかかわらず普通の人はよっぽどの理由がなければいじめない」という事実も表していると思います。
さらに言えばこうも結論づけられると思います。

人々はいじめる対象と理由を常に探し求めている。


(2015年3月4日)

理由も分別もなくいじめに走る中学生と、いじめる対象と理由を探しまわっている普通の人々と。
その二つの負のエネルギーを干渉させる方法はないものでしょうか?

素人考えですが学校にWEBカメラをたくさん設置して公開するのはどうでしょう?
WEBカメラによるプライバシー侵害を問題視する昨今の風潮に逆行する考えです。

教室で中学生たちがプロレスごっこをしているところを想像してみてください。
たとえば一方的に技をかけられている生徒がいて教師がその生徒に「いじめられているのか?」と訊ねたとします。
そこで笑顔で「ただのプロレスごっこだ」と答えられたら教師にそれ以上何ができるでしょうか。
いじめの場合、被害者がいじめられていることをぎりぎりまで認めないことが多いです。
そして被害者に否定されたら教師としては「怪我しないように気をつけろよ」と言うのがせいぜいだと思います。

しかしネット上で不正行為を探し回っている人たちはそれでは終わらないと思います。
技をかけている側の生徒の行動を追跡して、いじめの決定的瞬間を見つけてくれるかもしれません。
そして「外部からはいじめのように見える」と指摘されれば学校も正式に対応せざるをえなくなるでしょう。
被害者側の生徒がいじめを否定しても「被害者が否定しても第三者からいじめに見えたらいじめ」という理屈で加害者をいさめることができます。


(2015年3月6日)

それに校内の様子が外部に公開されれば、被害者や周囲の子どもたちが部外者を装っていじめを告発することも可能になります。
被害者たちが一番心配するのは「誰が告発したか加害者にばれるのではないか」という点です。
その心配から解放されればいじめの告発も増えるのではないでしょうか。

被害者や傍観者に「勇気を出せ」と言うのは現実を無視した無責任なやり方です。
いじめを見かけた子供が、勇気などなくても加害者を糾弾できる仕組みこそが必要です。

とは言いながらWEBカメラによる学校映像の公開は難しそうです。
社会にはいじめ被害者の人権よりも守らなくてはならないものがあるらしいからです。
(それが何なのか、私にはよく分からないのですが)

というわけで、この世の中からはしばらくの間いじめがなくなることはありません。

私たちにいじめに立ち向かう勇気はありません。
教師に密告するのも怖いです。
しかしいじめを見かけた時に「イジメ、ダメ、ゼッタイ」のサビのフレーズを口ずさむことくらいはできるのではないでしょうか。
口ずさんだからといってどうなるわけでもありませんが、「自分は何もしなかったわけではない」という精神的アリバイにはなります。

何よりもキャッチーでノリがよくていい曲ですし。


(2015年3月9日)

神戸元町ダイアリー2014年(4)台湾のコスプレ写真<main>神戸元町ダイアリー2015年(2)待合室雑誌事情


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