神戸元町ダイアリー2012年(4)

シェークスピアの「ロミオとジュリエット」はあまりにも有名ですが、その割には音楽化作品は多くありません。
その内の一つがチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」です。

曲はまさにチャイコフスキー節で、激しい部分は徹底的に激しく、甘い部分はとことん哀切。
考えてみればシェークスピアの戯曲もかなり荒削りでむき出しの世界ですから、この曲はシェークスピア以上にシェークスピア的と言えるかもしれません。

これが今回の演奏会プログラムの1曲目です。
10月8日(月・祝)16時から大阪シンフォニーホールです。
ぜひどうぞ。

 

(2012年10月1日)

2曲目はディーリアスというイギリスの作曲家の曲です。

オペラ「村のロミオとジュリエット」から、間奏曲「楽園の道」です。
タイトルからは内容を想像するのが難しいです。
「村の」という言葉には素朴でほのぼのとしたイメージがあります。しかしあくまでも「ロメオとジュリエット」です。
牧歌的で悲劇的な物語なのでしょうか。

実際にオペラを聴いてみると、何となく分かってきます。
シェークスピアの若い二人は、ほとばしるエネルギーで因襲的憎悪を乗り越えます。
一方ディーリアスの若い二人は運命に抗いません。
居場所を見つけようとさまよい、逃げ続けて、最後にようやく誰にも邪魔されない楽園を見つけます。
ディーリアスも優しく二人の運命を伴奏します。

静かな決意と、その先にある儚い幸せを描いたのが、この美しい間奏曲です。

 

(2012年10月3日)

プログラム最後の曲はブルックナーの交響曲第4番です。

ブルックナーの交響曲をたとえるのによく「天国的な長さ」という言葉が用いられます。
ゆったりとしたメロディーがいつ果てるともなく流れていく、その悠揚たるさまはまさに天国的と表現したくなります。
実際、この曲を今から30年(!)ほど前にも演奏した事があるのですが、その時にはこの長さを持て余してしまった憶えがあります。
ところが今弾くと、短いのです。
重厚なオルガン音響に身を任せていると、1時間余りがあっという間に過ぎ去っていきます。
時の流れを推し進める力を、全て音エネルギーに変換して空間を埋め尽くすかのような、つまり時間を空間に換算する音楽と言えるかもしれません(かっこいい!)。

ところがこれほど素晴らしいブルックナーですが、自宅で鑑賞するのはかなり難しいです。
まず録音が難しい、それから再生装置で再現するのが難しい、そして昨今の住宅事情のせいで観賞すること自体が難しい。
実演と録音についてはまたいずれ考えたいと思いますが、個人的な印象では「実演でないと味わえない音楽」ナンバー1は、2位以下を大きく引き離して「ブルックナー」だと思います。

8日、シンフォニーホールで実演のブルックナーをぜひどうぞ。

 

(2012年10月5日)

携帯電話の着信音はお年寄りには聞こえにくい、と以前書いた事があります。

コンサート会場などで着信音をいつまでも鳴らし続けているお年寄りが、槍玉に挙げられる事がありますが、これはマナーではなく携帯電話の機能の問題だと思います。
携帯電話での話し声もそうです。

私たちはほとんど無意識に電話機を使っています。
注意してみると、受話器のスピーカーからは相手の声だけではなくて、自分の声も聞こえています。
そして受話器から聞こえてくる自分の声の大きさを基準にして、話す音量を調節している事に気がつきます。
とすると、受話器から聞こえてくるはずの自分の声が聴き取りにくいお年寄りが、携帯に向かって大声でしゃべるのは当然すぎるほど当然なのです。

お年寄りが着信音を放置するのも、大きな声で通話するのも、悪いのは携帯電話製造メーカーの怠慢だと思います。

 

(2012年10月10日)

この間道を歩いていると、すぐ前を女子高生3人組がおしゃべりしながら歩いていました。

「最近何するんにも、「よいしょ」って言ってしまうん」
「私も私も、年寄りみたいでイヤなんやけど」

「でも「よいしょ」というのは自分の身体への呼びかけだから、私はいいことだと思う」

おお、最近の女子高生はかなり哲学的です。

 

(2012年10月12日)

ちょっと前まで自宅で日本映画を観賞するのは大変でした。

セリフが効果音やBGMに埋もれて、よく聴き取れないのです。
よく聞こえないから音量を上げると、次のシーンの爆発音で腰を抜かす事になるし、日本映画にこそ字幕をつけて欲しいとずっと思っていました。

素人目には、セリフの音声トラックのボリュームを調節する事くらい簡単にできそうに思えますが、実際はなかなか難しいそうです。
ハリウッドではダビングを前提として、セリフと状況音を別々に収録しているようですが、日本映画ではいまだに現場の音をそのまま録音するのがよしとされているらしいです。
なるほど、セリフと状況音を同じトラックに録音してしまったら、あとでセリフの音量だけ調節するのは無理です。

一方スタジオでの撮影が主体のテレビドラマでは、「状況音」自体が存在しないので、セリフと状況音は必然的に別撮りになります。
最近少しずつ日本映画でもセリフが普通に聴き取れるようになってきました。
その理由は、テレビドラマの劇場版が増えて、そのノウハウが一般的になってきたからではないでしょうか。

現場一筋の映画人も、あまり肩肘張らず、一度テレビドラマ作りの現場で修業し直した方がいいかもしれません。

 

(2012年10月15日)

考えてみれば、製作費が少ないから、製作時間が足りないから、という理由で私たちはセリフの聴き取れない映画を押しつけられていたわけです。
セリフの聞こえない映画なんて、不良品です。

部品が足りなかったからという理由でブレーキの利かない車を売りつけたり、間に合わなかったからという理由で火の通ってない料理を出したり、他の業種では絶対にあり得ない事を、日本映画界はおこなっていたということになります。
しかも、料金はアメリカ映画と同じだけとっているのにも関わらず、です。

日本映画の衰退の理由を「面白くないから」と説明する人がいますが、それは間違いです。

内容以前に問題があるのでした。

 

(2012年10月17日)


NHK講座がいよいよ第2シーズンに入りました。

担当の方に「第1シーズンの繰り返しでもいいですか?」と訊ねると、「ダメです」との返事。
第1シーズンから引き続き受講して下さる方がおられるからだそうです。

こうなってくると第1シーズンでは危なすぎて話せなかったこの話題や、あの裏話なども引っ張り出さなくてはネタがもちません。
過激になりそうで自分でも怖いです。

第2シーズン2回目の講座は11月27日(火)14:00です。
お問い合わせ、申し込みは0798-22-2119(NHK学園フレンテ西宮オープンスクール)へどうぞ。

 

(2012年10月24日)

今年、インフルエンザワクチンは十分確保できそうです。 
11月下旬から12月上旬にかけての接種がお薦めです。
ご希望の方は11月19日以降にお越しください。 
また都合により11月26日(月)は休診いたします。ご了承ください。

 

(2012年11月5日)

いよいよ大阪フェスティバルホールの完成が近付いてきました。

これで海外のオーケストラやオペラ団体の「関西飛ばし」が少なくなればいいのですが。 
ところで今まで大阪駅からフェスティバルホールに行くには、堂島地下街を突き当たりまで歩いて、いったん地上に出なくてはなりませんでした。
信号も長いし、なぜかコンサートの日は雨の事が多くて、不便でした。
堂島地下街がホールに直結してくれるといいのですが、どうなのでしょう。

 

(2012年11月7日)

地下道と言えば、JR元町駅の西口も不便です。

改札を出て右に曲がると、長い階段を登って地上に出なくてはなりません。

そして、やっと登ったと思ったら信号です。
どうせなら地下のまま車道の下をくぐって、神戸生田中学校のすぐ南側で地上に出るようにすれば信号を待たなくていいのに、と思っていました。
しかしそのつもりで見てみると、道路の下には阪急電車が通っているのでした。
なかなかうまくいかないものです。

 

(2012年11月9日)

地下道で一番不思議なのは、神戸大丸前の地下道です。

あと数メートル延ばせば元町商店街まで届くのに、どうして鯉川筋の手間で止まってしまったのでしょう。
これももしかすると地下には鯉川が流れているからでしょうか?

あるいは大丸と元町商店街の間の交差点の交通量が多いために、掘り返すのが難しいからでしょうか?
考えてみれば、あの交差点を何週間も通行止めにするのは影響が大きそうです。 しかしここは思い切って発想の逆転はどうでしょう。年末にはあの交差点の通行が制限されるイベントがあります。
そうです、ルミナリエ。どうせ車両通行止めするのだから、その間についでに掘り返しちゃえ、というアイデアです。

 

(2012年11月12日)

第2シーズンを迎えたNHK講座ですが、来週27日はその第2回目。 
「健康をこわす健康法」と「少しでも負担を軽く〜病気と病院の経済学」について話す予定です。
この1回分で3回分の受講料の元が取れる、とびっきり役に立つ内容です。 
お問い合わせ、申し込みは0798-22-2119(NHK学園フレンテ西宮オープンスクール)へどうぞ。

 

(2012年11月21日)

先日、神戸マラソンに出場しました。

全く何の根拠もなく、「40キロくらい走れるだろう」と思っていたのですが、本当に何の根拠もありませんでした。
30キロ手前からどうにもこうにも足が前に進まなくなり、残りの10キロちょっとはほとんど歩いてのゴールでした。

それにしても沿道の応援は、本当に励みになりました。
応援してもらえるというのはこんなにも心強いものなのかと、ずっと感じながらの42.195キロでした。

振り返ってみれば、頑張っている人を素直に応援することが最近少なくなってきていました。
頑張っている人を見れば素直に応援できる人になりたいと思います。

と書くと何だか小学生の作文みたいですが、本当にそんな気持ちになった一日なのでした。

 

(2012年12月3日)

マラソンに出場するにあたって一番困ったのは、用具の問題でした。

靴は、トレイルランニング用に昨年買ったものを使うとして、問題はウェアです。
街でランニングしている人たちのスタイルを見ると、腰から膝下までぴしっと引き締めたかっこいいランニングウェアです。
わが家には「それはパジャマか?」みたいなトレパンしかありません。

1週間前にあわててランニングウェア専門店に行ってきました。

フルマラソンに初挑戦すると言うと、お店の人が親切にいろいろ教えてくれました。
一番のお薦めはやはり、腰から足首までサポートしたタイプ、とのことでした。
「お薦め」というよりも、限りなく「絶対必要」というニュアンスでしたが、いかんせん1万7千円と、高価なのです。
結局膝サポーターだけ買って店を出ました。

というわけで本番の格好は、「それはパジャマか?」トレパンに、Tシャツ、それに、それでは寒いかも? ということで羽織った普段着のカッターシャツ、という組み合わせになってしまいました。

神戸マラソンではおしゃれなランナーに「おしゃれランナー賞」が贈られたそうですが、もし「ワーストドレッサー賞」があれば、私が間違いなく受賞していたと思います。

 

(2012年12月5日)

というわけで膝だけのサポーターを着けた状態で40キロ走ったのですが、すごいですね。
全身がくがくにはなりましたが、膝はほとんど痛みませんでした。
お店の人お薦めのウェアを着けていれば、腰も太もももずっと楽だったかもしれません。

さらに驚いたのは靴です。
靴ずれの一つや二つはできるだろうと覚悟してましたが、まったくトラブルなしでした。

素材やスポーツ生理学の進歩の賜物だと思うのですが、感動しました。

1万7千円のウェアを買うかどうかは、また別問題ですが。

 

(2012年12月7日)

先日の選挙では、投票率の低さに驚かされました。

いろいろな解釈が可能だと思いますが、一つ言えるのは、沖縄の人も福島の人も、そんなには怒ってなかったんだ、ということです。
米軍基地や原発を押しつけて申し訳ないと恐縮していたのですが、ほっとしました。

 

(2012年12月21日)

選挙区選挙に最近違和感を感じる自分がいます。

選挙区選出議員は地域を代表して選ばれるのだと思います。
しかし地域を代表するというのがどういうことなのか、実はよく分かっていません。
利益を誘導したり、迷惑施設を拒絶したり、いわゆる「地域エゴ」を代弁するということでしょうか?
当選回数を重ねて党内での立場を固めて、発言力を高めて、ごり押しをする。
私たちが代議士に望んでいるのはそういうことなのでしょうか?
経済的軍事的な強さをかさに着て無理を通そうとする国を見て、私は下品だと感じます。
自分の選んだ代議士にはそんなことをして欲しくないと、私は皮膚感覚的に感じます。

かといって、いかに小選挙区でも立候補者のパーソナリティなど全く分かりません。
広報を通して主張を知ることはできても、その個人に票を投じる意味合いが理解できません。

低い投票率も多くの死票も問題だと思いますが、選挙区制自体に強烈な違和感を感じてしまった今回の選挙でした。

 

(2012年12月26日)

NHK講座第2シーズンが終わりました。

まだまだ続くそうです。
健康や医療について深く考えたい方はどうぞご来聴ください。

松本胃腸科クリニックは12月29日(土)から1月6日(日)まで休診いたします。
年末年始も寒さが厳しそうです。
くれぐれもお身体には気をつけて、よいお年をお迎えください。

 

(2012年12月28日)

神戸元町ダイアリー2012年(3)日本国憲法を読む<main>神戸元町ダイアリー2013年(1)東京五輪決定


神戸元町ダイアリー2012年(3)

「マニフェストにない政策をおこなうのであれば、解散して民意を問い直すべき」
とか
「党の方針に従わないのであれば離党すべき」
とか
「比例代表で当選した議員は離党するなら議員も辞職すべき」
とか、理屈を聞くといちいちもっともで説得力があります。
一方でそれぞれに対する反対意見にも同等の説得力があって、しばしば議論は平行線をたどり、こちらも判断に困ってしまいます。

「議会制民主主義とは何であるか」という大前提が人によって異なるのが理由だと思います。
憲法に「投票とは候補者に対する白紙委任である」とでも書いてあれば分かりやすいのですが、選挙人と代議士のあり方についての規定はありません。
憲法は「選挙人が議会制民主主義に対する勝手な思い込みに基づいて投票する」自由と「代議士が投票の結果を都合よく解釈する」自由を容認していると考えるべきかもしれません。

とすると代議士のあり方についての議論は、神学論争と同じく、国会の場ですべきことでないような気がして仕方ありません。

 

(2012年7月2日)

前回記事のために日本国憲法を読み直してみました。

憲法前文が名文だと言う人がいます。
名文かどうかは読み手の感性に委ねられる部分が多いので、その点については議論しません。
議論の余地もなく確かなのは、さっぱり意味が分からないことです。
いきなり頭の文章です。

日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、
ここに主権が国民に存することを宣言し、
この憲法を確定する。

勝手に改行しましたが、この2行目の「行動し」にまず、戸惑います。
「行動する」という動詞は、普通、単独では意味をなさない言葉です。
「蟻は集団で行動する」とか「責任をもって行動しなさい」とか、「どのように行動するか」に重点を置かれた場合に限られます。
そして上の文章で「どのように」の部分がどうなっているかを見てみると
「代表者を通じて」、つまり「間接的に」と書いてあるのです。
そうなのです、これが違和感の大元です。

自発的行為をあらわす「行動する」と、あんまり自発性の感じられない、下手をすると無責任な丸投げをも感じさせる「代表者を通じて」という言葉の並列、ここにまず引っかかってしまうのです。

 

(2012年7月4日)

3行目の「われらとわれらの子孫のために」は、これまで何となく7行目にかかると思ってきました。
しかしこのように改行してみると、4行目を修飾する言葉であることが分かります。

われらとわれらの子孫のために憲法を定めたのではなく、われらとわれらの子孫に成果と恵沢を確保するために憲法を作った、と解釈するのが正しそうです。
さてその「成果」と「恵沢」ですが、これも難しいです。

ここも今までは「諸国民と協和するために」「全国土で自由であるために」憲法を確定する、と何となく読んできました。
しかし、素直に文面に当たると、そんなことは書いてありません。
書いてあるのは「諸国民との協和による成果を確保し」、「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し」、です。
確保するために憲法を作ったのではなく、確保したうえで憲法を作った、のです。

つまり「成果」も「恵沢」も、この時点で達成されているということです。

この時点で達成されている「諸国民との協和による成果」が何であるかを考えてみると、それは敗戦に伴う不戦状態、あるいは講和条約そのもの以外には考えられません。
これはまだ分かりやすい。
次の「恵沢」は難物です。
「わが国全土にわたる」という空間を表す言葉と、「自由」という言葉が上手く噛み合ってくれないのです。
「わが国民すべてに自由がもたらす恵沢」なら理解できます。
「出版、報道、信教、すべての表現活動に自由が保障される恵沢」でもいいです。
しかし自由がもたらされているのは、「国民」でもなく「行動」でもなく、「国土」と書いてあります。

これは「日本の国土がひとつ、自由主義によって治められている状況」と解釈するしかないと思うのです。
具体的に「自由主義的政治体制のもと、統一を維持した状態で」と言い替えることもできますし、そこまでくると、もう一歩踏み込んで「米ソで分割されることもなく、アメリカ単独に守られた状態で」というニュアンスを感じ取る人がいてもおかしくはありません。

理想論的に「協和を重んじ、自由を守るために」と書いてあればよかったのですが、この4行目はちょっときな臭いです。

 

(2012年7月6日)

ここで前回ちょっとだけ触れた3行目の文章が問題になってきます。

「われらとわれらの子孫のために」おこなうのは、「憲法の確定」ではなく、「成果と恵沢の確保」です。
もし前者であれば、文字どおりの解釈で何の不都合もありません。
われらとわれらの子孫の明るい未来を祈って憲法を定める、のです。
ところが後者であれば一筋縄では運びません。

たとえば「将来のために貯金をする」という文章があったとします。
貯金も大切ですが、この文章で読み取れるのは「将来あってこその貯金」というニュアンスです。
一番大切なのは「将来」であって、「貯金」はその付随的なものです。
ところが「将来の収入のために年金に入る」という文章だとどうでしょう。
先ほどの「将来」という言葉に込められていたさまざまな意味合いが削り取られて、時間的な意味の「将来」に単純化されます。
そしてこの場合最も大切なのは「将来」でも「年金」でもなく、「収入」です。

そんなことを考えながらもう一度、憲法前文の3、4行目を読み直します。
書き手にとって大切なのは「われらとわれらの子孫」でしょうか、「成果と恵沢の確保」でしょうか。
とても微妙だと思うのです。
そしてその違和感が5行目に続きます。

5行目を読んでいつも感じていたのは、どうして「政府の行為によつて」という語句をわざわざ挿入したのかという疑問でした。
政府の行為以外の戦争は容認されるという意味なのか? と思ったものの、具体的な事例を思いつかず、何となくもやもやしていたわけです。

ところが4行目が「自由主義陣営にとどまり続けること」という意味であれば、これまでの疑問は氷解します。
「自由主義陣営」の要請であれば政府の行為ではありませんから、5行目の理念には反しないわけです。
「政府の行為」という文言を加えたのは、「日本政府より高位の立場が決定した場合はその限りにあらず」と意味を含めたかったからかもしれません。
さらにそこまで考えると、違和感のもとになった最初の文章の意味合いが変わってきます。
日本国民は間接的・無責任な統治、すなわち自国政府よりも同盟国の意向を重んじる政治体制を、「主体的」に選択した、という宣言のように思えてきます。

 

(2012年7月9日)

まさか「憲法」の話でこんなに長くなるとは……。

さてそのちょっと先にはこういう文章があります。
一つの段落に「平和」という言葉が4回も登場します。

日本国民は、
恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、
平和を維持し、
専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、
名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、
全世界の国民が、
ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

読み間違いやすいのは2行目と3行目の関係です。
うっかりすると「平和を念願し」「理想を自覚し」と、並列の意味合いに解釈してしまいそうです。
しかしそうではありません。
平和を念願しているのは日本国民ではなく崇高な理想です。
そしてこの理想とは「人間相互の関係を支配する」理想なのだそうです。
人間相互の関係を支配する理想とは、つまりイデオロギーです。
2、3行目を書き直すとすれば「どのイデオロギーが平和をもたらすのか、よーく考えた上で」ということになります。

4行目もうっかりすると「信頼して」と「決意した」が並立のように読めてしまいます。
しかしよく読むと「信頼して」が修飾するのは「保持し」です。

7行目も少しトリッキーです。
「平和を維持」が9行目の「思う」と並列のようにも見えますが、「平和」を維持しようと努めているのは「国際社会」です。

最後の「平和のうちに生存する権利を有する」のは「全世界の国民」です。

つまりこの段落、一見「平和」という文字の大盤振る舞いですが実は、「日本国民は主体的に平和を目指す」、という意味合いを巧妙に避けて書かれています。
日本人は、「平和をもたらすイデオロギーのもとで」、「平和を愛する人々の正義感に依存し」、「平和を維持しようとする国際社会で認められたく」、「全世界の人が平和に生存する権利を確認」する、と書いてあるのです。

こうして「憲法前文」を素直に読み解いてみると、書き手がこの時点で、日本が近い将来東西対立によって国土を二分する戦争状態に巻き込まれることも想定していたということがよく分かります。
「憲法前文」に強い意志の力を感じる人もいます。
しかしそれは平和への誓いがもたらす強さではなく、自由主義陣営の最前線に立つ覚悟が感じさせる強さだと思うのです。


(2012年7月11日)

スーパーで買い物を済ませて商品を袋に詰めていると、置きっぱなしにされたカートやかごが目につきます。

どんな人が置きっぱなしにしているのでしょうか。

いかにもな感じのヤンママでしょうか、日常ルールには無頓着なサラリーマンでしょうか、見るからにおばちゃん風の人でしょうか、あるいは意外なところで身なりのいい年配のご婦人でしょうか。
いつも回りを見回しながら品物を詰めているのですが、残念なことに置きっぱなしの現場に遭遇したことはありません。
かと言って何十分も観察し続けるほど時間のゆとりもありません。

そこで考えました。
小学生のみんな、夏休みの自由研究でスーパーのレジ観察はいかがでしょうか?
題して「本当にマナーが悪いのは誰か?」

とっても面白いと思うのですが……。

 

(2012年7月13日)

NHK学園の会場配布用のチラシができました。

医師が語る上手な病院とのつきあい方〜あなたの健康と生活を守る7つの方法

1:ぽっくり逝くのも難しい
2:病院たらい回しを防ぐ秘策とは
3:その薬、必要ですか?
4:「大病院なら安心」ウソ
5:「神の手」の危険性
6:病院とドクターを使いこなす
7:みんなだまされて賢くなった

盛りだくさんすぎるほど盛りだくさんの内容です。

第1回目は7月24日(火)14:00から
会場はフレンテ西宮4階のNHK学園西日本センターです。

 

(2012年7月18日)

羽をたたんだオスプレイの写真を初めて見ました。

何だか海の底にいる不気味な生き物みたいです。
そのうち見慣れるのでしょうか。

 

(2012年7月23日)

NHK学園、第1回目の講座が終わりました。

次回はいよいよ「その薬、必要ですか?」のテーマが佳境に突入します。
主催者には「あんまり悪口を言ってくれるな」と釘を刺されていますが、あの薬、あの健康食品、あのダイエット法、ばっさばっさと切りまくる予定です。

8月28日(火)14:00開催です。
全3回シリーズですが2回目からの受講も可能とのことです。
興味があればぜひどうぞ。

 

(2012年7月25日)

2年前にこの欄でこんなことを書きました。

8月15日になるといつも不思議に思うことがあります。
「玉音放送」と呼ばれる終戦詔書の放送です。
私の頭には、全国民がラジオに耳を傾け、互いに抱き合って涙を流しながら天皇の言葉に聞き入っている、そんな映像が強く植えつけられています。
しかしかなり(というか最高に)難解な文語文を、音質もよくないであろうラジオで聞いて、当時の人は放送の意味が分かったのでしょうか? 
ドラマや映画だと、放送を聞いた主人公が「戦争が終わった!」と叫びながら家から駆け出すシーンが続きそうですが、実際は放送を聞き終わってもみんなしばらくきょとんとして、とりあえず役場に行ってみると徐々に「戦争が終わったらしい」という情報が伝わってきた……みたいな感じだったのではないかと勝手に想像しています。
実際はどうだったのでしょう? 
おっと、そんなことはお盆で帰省した際に親に聞けばいいのでした。
今度聞いてみます。

というわけで今回両親に聞いてきました。

 

(2012年8月17日)

父は学校の校庭で、母は本家で、それぞれ大勢で放送に聞き入ったそうです。

内容が全然聴き取れなかったということと、放送のあとすぐ誰かが「戦争が終わったのだ」と解説してくれたということは、二人に共通しています。
父は「校長にはあらかじめ放送の内容が伝達されていたのではないか」と言い、母は「そんなことはないだろう」と言っている点が食い違いますが、いずれにしても天皇が自ら語りかけた、という時点で、ある程度は内容が想像できていたようです。

戦争末期の雰囲気について訊ねると、家庭から鍋を供出させられ、固いグランドを耕して芋を植えさせられた時点で、敗戦を覚悟したそうです。 
昭和20年の「鍋を取り上げられ、グランドを掘り返させられる」に匹敵するのは、今ならどんなことでしょうか。
そんな時代が二度と来ないことを祈るばかりです。

 

(2012年8月20日)

雑誌やバラエティで時々「ヘンな校則」という特集が組まれることがあります。

よく登場するのが「トイレットペーパーは○○センチ以上使ってはならない」という校則です。
手あかのつきすぎた例えで、「猫電子レンジ訴訟」と同様に、本当にあった校則なのか限りなく疑わしいです。
しかし「ヘンな校則はどうしてできるか?」を考える上ではとても分かりやすい実例だと思います。 
生徒がふざけてトイレットペーパーを投げたり、ミイラ男のようにぐるぐる巻きにしたりして遊んでいる。
それを見た教師が「そんなことをしてはいけない」とたしなめるが、生徒は従わない。
「だって、トイレットペーパーで遊ぶなという校則はないもん」。
それに対応するために、ヘンな校則の一丁上がりです。 
校則がヘンということはつまり、常識的にものごとを判断できないくせに屁理屈ばかり言う生徒が多い、ということだと思います。
だから「うちの学校にはヘンな校則がある」などと自慢する生徒を見ると、「おいおい」と思ってしまうのです。

そして、これと同じような流れを感じるのが、煙草の副流煙です。(続きます)

 

(2012年8月22日)

最近になって、副流煙の害に関する調査結果が数多く報告されるようになりました。

喫煙の喫煙者に対する害を調べるのは比較的簡単です。
それに比べると受動喫煙の害を立証するのはある意味「絶望的に」難しいです。
そんな「絶望的な」調査に、どうしてこれだけ多くの人が真剣に取り組んでいるのでしょうか。 
「ヘンな校則」と同じ動機づけが働いているように思えます。

トイレットペーパーを遊びで無駄使いするな、と注意しても言うことを聞かない生徒がいる。
だから仕方なく校則で禁止する。
煙草の煙が苦手だと訴えても、「煙くらい我慢しろ」と言われる。
だから副流煙の害を証明するかしない。

時々副流煙に関する調査の信憑性を疑う意見を目にします。
ヘンな校則の場合、悪いのは校則そのものではなく、屁理屈屋の生徒です。
副流煙に関しても同じだと思います。
本当に突っ込むべきなのは「調査の信頼性」ではなく、「そんな調査をせざるを得なくなるほど受動喫煙者を追いこんだ、喫煙者のマナー」と考えるべきでしょう。 
私には、副流煙調査を否定する喫煙者が「うちの学校にはヘンな校則がある」とふれ回っている中学生に重なって見えてしまうのです。

 

(2012年8月24日)

本を読んだり音楽を聴いたりする楽しみに、「人に迷惑をかける」という要素は含まれていません。
読書や音楽鑑賞自体が人に迷惑をかけることはありませんし、迷惑をかけるかけないでそこから得られる喜びの量に違いはありません。 
ところがいじめや車の暴走は、人に迷惑をかけるということ自体に目的があります。
人への迷惑の量が、自分の喜びに比例します。
世の中にはさまざまな種類の趣味があるのに、こういう快楽を選択せざるを得ないのは一種の精神病理的状態にあると言えます。 
問題は、「自分の趣味のためには他人への迷惑もやむなし」という考え方です。
音楽鑑賞自体が人に迷惑をかけることはないと書きましたが、電車の中でのシャカシャカ音は迷惑です。
音漏れを注意すると、大抵の人は素直に音量を下げてくれます。
音が漏れていることに気がついていなかったのです。
しかし中にはそうでない人もいます。
大音量で音楽を楽しむという快楽の前には、周囲の人たちへの迷惑などどうでもいいのです。 
この人たちの精神は、健常状態と病理的状態と、どちらに近いと言えるでしょう?

煙草の煙も全く同じです。
煙草を吸いたいから少々煙たいのは我慢してくれ、というのは病的思考過程だと思うのです。

 

(2012年8月27日)

NHK講座の第2回目が終了しました。

3回目だけの受講も可能です。よろしければどうぞ。

 

(2012年8月29日)

TV番組などで、成功者の苦労話が紹介されることがあります。

よく使われるのが「眠れない日々が続いた」などの、あまりにも手垢のつきすぎた表現です。 
そういう言葉を聞く時、頭の中で自動翻訳ソフトが働くのがよく分かります。
みなさんもこういう言葉を聞く時、無意識のうちに意味を置き替えているのではないでしょうか。
「いつもあそこの信号にひっかかる」(週に1、2回ひっかかる)
「みんなが言っている」(言っているのは自分とあともう二人、しかもその内の一人は無理やり同意させた)
「一睡もできなかった」(やや寝つきが悪かった)

こういう言葉はツッコミねらいのギャグとして使う方がいいと思います。

 

(2012年9月10日)

最近は高級ホテルのロビーも中国からのお客さんであふれています。

それはいいことだと思うのですが、マナーがもう一つなのが困ったところです。
列に並んでくれないし、並んだら並んだで後ろからぎゅうぎゅう押してくるのはどうしてなのでしょう。 
中国の人がきちんと行列のマナーを守ると約束してくれたら尖閣諸島くらいあげてもいいと思ったりもします。 

ところでCNNを見ても今回の領有権問題は全く扱われていません。
世界的視点からすれば、極東の領土争いなどカープとスワローズの3位争い程度のニュースバリューしかないのでしょう。

 

(2012年9月12日)

ここで少し脱線しますが、夏ごろ一瞬調子が良かったカープの打線がまたもやぼろぼろです。 
開幕直後は全く打てなかった若手たちが、実戦を積み重ねてコツをつかんできたのが7月。
その後対策を講じてきた各チームに若手が再び封じ込まれて、その結果での打線低迷なのだと思います。 
つまりはコーチとスコアラーの差なのでしょう。強いチームは選手が強いだけではなく、スタッフも強いんだなあ、と最近つくづく思うのでした。

 

(2012年9月14日)

以前も書いたことがありますが、歴史的真正さをどんなに訴えても国際社会は相手にしてくれないと思います。

南オセチア紛争の際に私たち自身がどう考え、どう動いたかを思い出すとよく分かります。
グルジア、ロシアのどちらの言い分が正しいかなど、私たちは全く考えませんでしたし、行動も全く起こしませんでした。

 
そもそも莫大な用心棒料を払って駐留させているアメリカだって尖閣諸島のためには一向に動いてくれないのです。
古文書を持ちだそうが、過去の条約を引っ張り出そうが、日本のために動いてくれる国があるわけがありません。

しかし世界中の一人ひとりの心を動かすことは可能です。 
気持ちを動かすのは歴史的真正さではありません。
その島を治めるのに、どちらがふさわしいか、という点だと思います。 
日本政府はまず新聞に一面広告を出しましょう。
「国家間の紛争とは関係なく、日本国内の韓国の人々の安全や活動や財産は、文明国家の尊厳にかけて守ります」と。
仮に日本が竹島を実効支配するとすれば、どう運営するかというプランも発表しましょう。
全ての動力源は自然エネルギーから得て、一切の廃棄物は投棄、焼却せず、漁場はもちろん植生や、極端に言えば虫一匹たりとも殺さない、究極の自然保護姿勢をアピールしましょう。
国権としての領土を守るのではなく、自然としての竹島を守りたい。
それには韓国よりも日本の方がふさわしい、と主張するのです。 
この方が、世界の知識層には浸透しやすいと思います。

 

(2012年9月19日)

NHK学園の講座、いよいよ明日が最終回です。 
ますます過激になる内容。
「神の手の危険性」「みんな騙されて賢くなった」などなど、盛りだくさんの内容です。 ぜひどうぞ。

 

(2012年9月24日)

NHK学園の講座、無事に終了しました。 
第2シーズンに続くそうです。
内容はさらに過激になります。
あまりに過激すぎてかえって身体に悪いかもしれません。

 

(2012年9月26日)

2年前、こういうことを書きました。

*****

真保裕一の「栄光なき凱旋」という本を読むと、戦争の悲惨さは戦場だけにあるのではないことがよく分かります。
戦争が始まったら、敵国人や敵国人の血を引いた人たちに対する差別や虐待がそこら中で起きるでしょう。
その時に、群衆の前に立ちはだかって「やめろ、この人たちに罪はない!」と叫ぶ勇気が、自分にあるとはとても思えません。
「いじめ」でもそうですが、愚かで醜い行為を止めないのは、手を貸しているのと同じです。
国内の敵国人を迫害する自分を想像するのはとても辛いです。
しかし戦争が始まれば100%私はそういう愚劣な人間の仲間入りをしてしまうのです。
できればそんな立場に立たなくてすみますように。

*****

今は少し考え方が違ってきています。
日本人はもしかすると、戦時中でも敵国人を迫害しない、誇り高い民族かもしれない。
そんなことを思ったりもする昨今です。

 

(2012年9月28日)

神戸元町ダイアリー2012年(2)100年前の有名人<main>神戸元町ダイアリー2012年(4)日本映画がダメなわけ


神戸元町ダイアリー2012年(2)

昨日の爆弾低気圧には驚かされました。
暴風雨にもびっくりしましたが、もっと驚いたのは前の日に天気予報で「台風並みの嵐になる」と言っていたことです。

気象のプロだから当たり前なのかもしれませんが、予報士は気圧配置図を見ただけで「すごいのが来る」と分かっていたわけです。
そういう時、予報室(というのがあるのかどうか知りませんが)はどんな雰囲気なのでしょう。

「チーフ、見てください。とんでもないのが来そうです!」
「おい、ウソだろ。観測計エラーじゃないのか」
「何べんもやり直したんですが、間違いないです」
「まさか、こんなの見たことないぞ、これは最悪だ。至急各方面に連絡っ!」

という風に緊迫しているのでしょうか? それとも

「明日は嵐になりそうです」
「ほお、この時期には珍しい。でも花見の前でよかったな」
「そう言えば土曜日の花見、やっぱり僕が場所取りですか?」
「仕方ないだろ、今年は新採用ないんだから」

という風に普段のノリなんでしょうか?

 

(2012年4月4日)

ちょっと前にこの欄で取り上げたのですが、ロアルド・ダールの「オズワルド叔父さん」という小説があります。
内容はお下品で軽い、大人向けファンタジーなのですが、その中に有名人一覧表が出てきます。
1919年の時点での有名人で、将来もネームバリューが保てそうな人々、を1980年のロアルド・ダールがリストアップしたものです。
知っている人もいるし、知らない人もいます。
社会勉強がてら書き写してみます。全48人のうち、まず12人。

アレクサンダー・グラハム・ベル
電話の発明者ですね。

ピエール・ボナール
確か画家ですよね。画像検索すると、そう言えばこの絵は見たことがあるような。


ウィンストン・チャーチル
第二次大戦中のイギリス首相。

ジョゼフ・コンラッド
作家。この間「ロード・ジム」を読みました。

アーサー・コナン・ドイル
名探偵ホームズ生みの親です。

アルベルト・アインシュタイン
「相対性理論」の科学者。

ヘンリー・フォード
自動車の大量生産システムを作った人。

ジグムント・フロイト
今全集を読んでいるところです。「精神分析学」で有名な精神医学学者。

ラドヤード・キプリング
詩人でしたっけ? 調べてみると「ジャングル・ブック」の作者でもあるようです。あまりよく知りません。

デイヴィッド・ハーバート・ローレンス
初めて聞く名前です。と思ったら「D・H・ロレンス」のことでした。「チャタレー夫人の恋人」の作者ですね。

トマス・エドワード・ローレンス
こちらも初めて聞きました。と思ったら「アラビアのロレンス」のことだそうです。
恥ずかしながらこの映画は観ていないのです。アラブの解放運動を指導した人でしたっけ?

ウラジミール・イリッチ・レーニン
ロシア革命の指導者、ソ連の創設者。

 

(2012年4月6日)

トーマス・マン
小説家、「魔の山」が有名です。

グリエルモ・マルコーニ
初めて聞く名前です。無線通信の開発者だそうです。

アンリ・マチス
画家ですね、この絵が一番有名でしょうか。


クロード・モネ
「睡蓮」の絵ですね。


エイドヴァード・ムンク
普通はエドヴァルドと表記されます。やっぱり「叫び」でしょう。


マルセル・プルースト
超長篇「失われた時を求めて」の作家です。

ジャコモ・プッチーニ
「トスカ」、「蝶々夫人」で有名なオペラ作曲家。

セルゲイ・ラフマニノフ
甘いメロディーの「ピアノ協奏曲第2番」が代表作でしょうか。

オーギュスト・ルノワール
70年代からあと、最も人気があった画家ではないでしょうか。

今はもしかするとフェルメールに首位の座を譲ったかもしれませんが。

ジョージ・バーナード・ショー
多方面に渡る評論は有名ですが、代表作はと訊かれると思い浮かびません。
「ピグマリオン」という小説はミュージカル「マイ・フェア・レディ」の原作だそうです。

ジャン・シベリウス
フィンランドの作曲家。「フィンランディア」が最も有名でしょうか。

リヒャルト・シュトラウス
個人的には大好きなオペラ作曲家です。
しかし一番有名なのは「ツァラトゥストラかく語りき」のオープニングだと思います。

 

(2012年4月9日)

イゴール・ストラヴィンスキー
「春の祭典」が代表作です。
聴き手にとっても演奏者にとっても難曲の代名詞でしたが、今ではすっかりポピュラー名曲になってしまいました。

ウィリアム・バルター・イェーツ
バルターはバトラーの誤りです。
詩人、というところまでは知っているのですが、読んだことはありません。

ローアル・アムンセン
ロアルド・アムンゼンという呼び名の方が通りがいいかもしれません。
初めて南極点に到達した探検家です。

ジョルジュ・ブラック
画家。こんな絵を描く人です。


エンリコ・カルーゾ
カルーソーですね、テノール歌手です。

パブロ・カザルス
チェリスト。バッハの無伴奏組曲を現代に蘇らせた人です。

ジョルジュ・クレマンソー
初めて聞く名前です。第一次大戦中のフランスの政治家だそうです。

フレデリック・ディリアス
作曲家です。大学時代の友人が好きでしたが、私はよく知りません。

マレシャル・フェルディナンド・フォッシュ
全く聞いたことがありません。第一次大戦で連合国を勝利に導いた軍人らしいです。

モウハンダース・ガンジー
マハトマ・ガンジーのことですね。非暴力主義で知られるインド独立の立役者です。

サー・ダグラス・ヘイグ元帥
第一次大戦中のイギリスの軍人だそうです。

ジェイムズ・ジョイス
アイルランドの小説家。「ユリシーズ」が代表作でしょうか。
20世紀の小説家ベスト10を選ぶと必ず上位に入ってくる人です。

 

(2012年4月11日)

ワシリー・カンディンスキー
画家です。一時期クリニックの待合室にもポスターを貼ってました。


デイヴィッド・ロイド・ジョージ
多分政治家でしたね、調べてみると第一次大戦中のイギリス首相でした。

ヴァツラフ・ニジンスキー
バレエダンサー、振付家。前回登場した「春の祭典」の初演時の振り付けを担当したそうです。

ジョージ・パーシング将軍
軍人関係は疎いです。第一次大戦中のアメリカの軍人だそうです。

パブロ・ピカソ
説明は不要ですね。


モーリス・ラベル
作曲家。一番有名なのは「ボレロ」でしょう。

バートランド・ラッセル
哲学者だったような気がしますが、どういう考え方の人かはWikipediaを読んでもよく分かりません。

アーノルド・シェーンベルク
作曲家。いわゆる前衛の人です。代表作といって人に薦められる曲があるのかどうか……。

ラピーンドラナート・タゴール
全く知りませんでした。インドの詩人、思想家だそうです。

レヴ・ダヴィダヴィッチ・トロツキー
ロシア革命に関係した活動家だと思います。
調べてみると革命時にはレーニンの右腕的存在として活躍、レーニンの死後は失脚して亡命したそうです。

ルドルフ・ヴァレンチノ
初代イケメン俳優。

若くして死んだ時にはファンの後追い自殺もあったとのことですが、真偽のほどは定かではありません。

ウッドロー・ウィルソン
1919年の時点のアメリカ大統領だそうです。
アメリカ大統領なら名前くらい聞いたことがあるかと思いましたが、印象の薄い人もいたようです。

100年前の有名人48人を取り上げたわけですが、芸術家はほぼ今も名声を保ち続けています。
軍人はネームバリューの賞味期限が短め、政治家、思想家は「革命」や「独立」に絡むと名前が残りやすいようです。
名前を残したければまず芸術家を目指せ、という結論でした。

 

(2012年4月13日)

1919年の有名人を見て何となく感じることがあります。

社会の硬直度の問題です。

金持ちの子どもしか金持ちになれない、というのが硬直した社会です。
その問題についてはこの欄でも何度も取り上げてきました。
福祉の仕組みは進歩しているはずなのに、なぜか格差が進み、今や学力にも健康にも所得による格差が進んでいます。
そしてこれまでであれば親の所得には関係なかったはずの種類の職業選択にも格差が生まれつつあります。

たとえばスポーツです。
私と同世代であればまだ一発大逆転はありました。
近所の空き地で野球ごっこをしていたそこらへんの子どもが、何となく受かった高校で野球を始めて、甲子園で大活躍してプロ野球の選手になる、などということがまだ普通だった時代です。
ところが今や小学生の頃から毎週のように試合をして、中学になれば遠征試合をして、高校は野球留学です。
お母さんも休日のたびにユニフォームを整えて、チームの食事の手配をして、応援をして、これはもうある程度裕福で生活にゆとりがないとできないことだと思うのです。

サッカーでもゴルフでもフィギュアスケートでもそうです。
本来は格差逆転の定番コースであったはずのスポーツでも、最近は「成り上がる」ことが難しくなってきました。

 

(2012年4月18日)

そしてまさかまさか、芸能界にも経済格差の波が押し寄せてくると思うのです。

スポーツ選手と同じく、芸能人を目指すには小さい頃から歌やダンスのトレーニングや全国股にかけてのオーディションが必要という事情もあります。それとは別に今後予想されるのが、容姿格差です。
親の所得と子どもの容姿とは関係がない、というのがこれまでの常識でした。
ところが所得の違いが3世代に渡って広がり続けるとそうも言っておられなくなってきます。
傾向として、他の条件が同一であれば、女性は所得の高い男性を選び、男性は見栄えのいい女性を選びます。
もちろん中には金銭的なことに興味のない女性もいますし、容貌に関心のない男性もいます。
しかし仮に適齢期人口の55%にその傾向があるとすれば、3回分積み重なると歴然とした差を生んできます。

この仮説に従えば、そのうち偏差値の高い大学の学生は美男美女ばかりになるでしょうし、アイドルグループの親の所得が平均値をかなり上回る時代になるでしょう。

 

(2012年4月20日)

ここで話題が1919年の有名人リストに戻ってきます。

革命が身近にあった時代であれば、政治家も「成り上がり」の可能性の高い職業でした。
しかし今(少なくともマスコミに)求められているのは、クリーンで失言の少ない政治家です。
激しい自己主張よりも党内融和が第一とされます。
また、本来政治家とは最大多数の幸福のために自分と自分の支持者の主義主張を微調整していく存在だと思うのですが、「ブレない」ことが求められます。
それはつまり「最初から何も主張しない」ということです。
マスコミによると、どうやら私たちが求めているのは官僚的政治家らしいです。
とすれば所得の低い人が政治家になるのもかなり困難そうです。

軍人として成り上がるということ自体が日本では憲法違反ですから、軍人と言う選択肢は問題外です。
とすると日本で所得格差が挽回できるのは格闘技系のスポーツと芸術だけということになります。
自由競争主義をベースに、結果的に落ちこぼれた貧困層を福祉で助けるという仕組みは、理想的で合理的に思えます。
しかし現実には格差は広がる一方です。
この考え方にはどこか間違っている部分があるということなのでしょう。

いずれにせよ間違いないのは、日本が「自由主義」という旗を掲げているにも関わらず、平安貴族社会よりも江戸武士社会よりも硬直した社会に向かっているということです。

 

(2012年4月23日)

発展途上国を援助するにはいくつかの段階があります。

手っ取り早いのは食料品や医薬品を直接届けることです。
物資が人々に届いてからの効果は最も確実ですが、貧困の構造を変えることはできません。
ODA利権商社や現地特権階級による中間搾取も問題です。
次のステップは産業を輸出することです。時間はかかりますがその国の経済的自立を助けるにはいい方法です。
劣悪な労働条件や公害が問題となります。

人々の自立を促すには教育が必要です。
第2のステップよりもさらに時間がかかりますが、ここで獲得された自立こそが真の自立です。
全ての人々が分け隔てなく教育を受けられるようにすること、これは援助の方法でもあり、最終目標でもあるわけです。

ここで日本のセーフティーネットについて考えてみると、生活保護は上記の第1段階に当たります。
ハローワークなどの就業支援は第2段階に相当します。
問題は第3段階です。

 

(2012年4月25日)

建前では日本は中学まで義務教育です。
実際には多くの子どもたちが中学卒業程度のレベルに達しないまま社会に放り出されます。

学力をカバーできる特殊能力がある人ならいいと思うのです。
しかしこれまで考察してきたように、その能力のジャンルははなはだ限られています。
ほとんどの人は、基礎学力抜きに現場の技能だけを教え込まれて社会に出ることになります。
こうした上っ面の技術には応用力などありません。
歯車になって単純作業に甘んじるしかありません。

単純作業に耐えられない人もいます。
そうした人は社会の仕組みからこぼれ落ちるしかありません。
労働の意欲も技能もないまま福祉に頼り続けるか、犯罪の道に進むか、です。

こう考えると最低限の学力を与えないまま中学を卒業させることが、どれだけその人の可能性を損なっているかよく分かります。
橋下大阪市長が小中学の留年制度について言及して、一部の反発を受けていました。
しかし人生は中学を卒業してからの方がはるかに長いのです。
留年させるとプライドが傷つくから、などという感傷的発想で子どもの未来を奪ってはいけないと思います。

格差を拡大させないためには新しい学力補填システムが必要です。
子どもの気持ちが気になる人は、そこで子どものプライドを傷つけないような方法をいくらでも考えればいい。
しかし何らかの強制力は絶対に必要です。
強制力のない学力のばらまきは格差を広げる一方です。

子どもの人権について声高に叫んでいる人が、私には「子どもが嫌がるからチャイルドシートに乗せない親」や「子どもが泣くから予防接種を打たせない親」に重なって見えてしまうのです。

 

(2012年4月27日)

橋下改革によって大阪市音楽団が廃止の危機に瀕しているそうです。

実は私もこのニュースに接するまで大阪音楽団というものの存在を知らなかったのですが、調べてみても大阪市音楽団が一体どういうものなのかよく分からなくて困っています。
歴史と実力を兼ね備えたプロの吹奏楽団らしいのですが、公務員という身分でもあるらしいです。
36人のメンバーが年に100回近くコンサートを開いて、それに対して大阪市が4億3千万円の補助をおこなっている……、どうもそれ以上の情報が伝わってきません。

メンバーが公務員であれば4億3千万にはメンバーの人件費が含まれないことになりますが、そんな根本的な大前提も与えられないまま私たちは情報砂漠に放り出されているわけです。
橋下サイドから与えられた情報だけを垂れ流して、追加取材を全くしていないマスコミも最低ですが、楽団員から必要経費についての説明がないのも不思議なところです。

 

(2012年5月7日)

一連のニュースに接してまず強烈に感じたのは、芸術家に公務員という身分はそぐわないのではないか? という違和感です。

教師として雇用して、教育活動以外に自主的な演奏活動も認める、というやり方なら理解できます。
しかし演奏者としての雇用となると話は別です。
スポーツ選手にありえないのと同様に芸術家にも終身雇用などありえないと思います。
自治体が演奏団体を運営するなら、メンバーは数年契約での採用として、契約更新時にはオーディションを行うべきでしょう。
メンバーは一方的な解雇に抵抗するためにユニオンを組織しなくてはなりません。
この「厳しいオーディション」VS「ユニオン」という対立構造が、芸術団体における最も真っ当なシステムだと思います。
実のところ、大阪市音楽団がどういう雇用形態を取っているのか分かりませんが、それ以外にも事務方のトップにどこかの訳の分からない天下りが就いていないか、とか、4億3千万は一体何に使われているのか、とか大切な情報が全く出てきていません。
意外と大阪人はお金に無頓着のようです。

ここで思いついたのですが、共産主義の下での芸術家、スポーツ選手の雇用はどうなっているのでしょう。
いかに共産主義とはいえ、ムラヴィンスキーがレニングラードフィルのメンバーの安定雇用を容認したはずがないし、キューバの野球選手でも終身雇用など絶対にありえないでしょう。
共産主義国家でも取らなかったような雇用形態は、日本でも採用しない方がいいと思います。

 

(2012年5月9日)

今年から広島カープを応援することにしたのですが、ひいきの福井投手は四球連発で2軍落ち。
打線も振るわず、好投を見せる投手陣を何度も見殺しにして現在5位と低迷中です。

しかし考えてみれば当たり前の話です。戦力が全く違うのですから。
チーム打率を見るとドラゴンズとの差は3分。
打率がこれだけ違うと1試合当たりの得点も1点近く変わってきます。
勝つためにはチーム防御率でそれ以上の差をつけなければなりませんが、逆に1点差をつけられているのが現実です。
打率も防御率も気合いや根性でどうなるものでないし、貧乏球団ですから補強もままなりません。

伸びる余地があるのはピッチャーの打率だけだと思います。
ピッチャーはもともと運動神経がいいはずです。
真剣に打撃練習をすれば打率を1割台に乗せられるのではないでしょうか。
もし1割台の後半までアップできればチーム打率で上位3チームに食い込むことも可能です。

144試合も戦うのですから最終順位はデータを忠実に反映するはずです。
データ的には今のカープに監督の采配や打順変更でどうにかなるようなチーム力はありません。
せめてピッチャーの打率を1割台にしてチーム打率を1分アップしてから出直して欲しいと思います。

 

(2012年5月11日)

ヴェーベルンという作曲家がいます。

作品番号1番の曲が書かれたのが1908年。ドイツを占領していたアメリカ兵に誤って射殺されたのが1945年。
この38年の間に書かれた番号付きの作品が31曲という、超寡作の作曲家です。

ヴェーベルンの特徴を3つの言葉で表すとすれば「無調」「静寂」「短い」だと思いますが、作品番号1の「パッサカリア」はまだ後期ロマン派の香りを残した、長さも10分程度の「普通」の曲です。
ブラームスの交響曲第4番の終楽章を枝から腐り落ちる直前まで熟成させたという感じでしょうか。
初めて聴いた時には容赦のない不協和音に耳を覆いたくなりましたが、よく聴くと複雑に絡み合ったメロディーが重なって刺激的な響きを作り上げているのでした。
阿鼻叫喚の中で、ある者は笑い、ある者は嘆き、ある者は歌い、ある者は叫んでいるような。

技術的な話になりますが、こうした曲の場合全ての音形を旋律として弾かなくてはなりません。
しかしヴェーベルンの楽譜はエキセントリックな跳躍やハイポジションでのアルペジオだらけで、メロディーとして弾きこなすのはかなり難しいです。
美しさへの共感でもって技術的な難度をどれだけ乗り越えられるか、というのがこの曲を演奏するポイントになると思います。

そんな「痛いほど美しい」曲の実演がこちら。5月19日大阪シンフォニーホールで19時からです。

 

(2012年5月14日)

19日のコンサートのプログラム2曲目はリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン〜23の独奏弦楽器のための習作」です。

「習作」とありますが、書かれたのは作曲家が81歳の時です。
オーケストレーションの天才リヒャルト・シュトラウスが自らの作曲技術の進化、深化を待って、満を持してモノカラーの楽器編成に挑んだ「習作」と考えるべきなのでしょう。

23段のスコアは壮観ですが、見ているとリヒャルト・シュトラウスがそれぞれのパートを特定のプレーヤーにあて書きしていることが分かります。
どのオーケストラの誰を思い浮かべて書いたのか気になるところですが、間違いなく言えるのは23人のプレーヤー全てに高い技術が要求されるということです。
メンバー間の力量の差が大きいアマチュアオーケストラ向きの曲ではありません。
スリリングな演奏になるのは確実ですが、曲の最後、20分頃からの静かな部分は心落ち着けて味わってほしいと思います。
チェロのシンコペーションの、はるか上空を舞うヴァイオリンのメロディ。

滅びていく何か巨大なるものを悼む、あまりに切ない鎮魂曲です。

 

(2012年5月16日)

19日のコンサートのメインプログラムはショスタコーヴィチの交響曲第5番です。

これは文句なしにかっこいい曲です。
第1楽章の血沸き肉踊る展開、第2楽章のエスプリに満ちたユーモア、第3楽章の厳しい抒情、そして終楽章の怒涛の迫力。
クラシックを聴き始めの頃は、この曲がこの世の中で一番かっこいい曲だと思っていました。

昨年の佐渡裕のベルリンフィルデビューでの演目でもあります。
佐渡裕のダイナミックな指揮に応えて、ベルリンフィル奏者たちがゴリゴリに弾きまくっていました。
世界ナンバー1のプレーヤーたちが世界一激しく弾いているのです、それだけで号泣モノでした。
私を含めてアマチュア音楽家が「情熱ではプロに負けない」などとうそぶくこともありますが、ウソです。
世界一のプロはやっぱり世界一の情熱を持っているということがよく分かる演奏でした。

おっと、これでは演奏会の宣伝になりません。
ショスタコーヴィチの第5番、とことんかっこいい曲です。

 

(2012年5月18日)

日食を見ると思うのですが、どうして太陽と月の見た目の大きさは同じなのでしょう。

いろいろ調べてみましたが、月の質量や地球と太陽の重力の釣り合いなどから導かれる物理的必然、というわけではなさそうです。
答えは「たまたま」ということのようですが、地球に最も大きく関係する二つの天体の見た目がほとんど同じという偶然が、私にはものすごく気持ち悪いです。
気持ち悪いことはもう一つあって、日食が終わっても月は太陽のすぐそばにいます。でもそれが全く見えないのです。
太陽がまぶしすぎるから、という理由で自分を納得させようとするのですが、どうしても上手く説得し切れません。
昼間に星が見えないのはまだぼんやりと理解できます。でも月は太陽の手前にあります。
太陽がまぶしければまぶしいほど逆光で真っ黒になりそうにも思うのですが、そこに浮かんでいるはずの直径3,500キロの巨大な物体が全然見えないという現実が、これまた気持ち悪くて仕方ありません。

 

(2012年5月21日)

いろいろ考えてみると何となく分かってきたことがあります。

私たちがてっきり宇宙だと思って眺めている「青空」は、地表30キロをおおっている大気の色なのだと思います。
夜、部屋の中から外を見ているつもりなのに、実は見えているのは窓にかかっているカーテンだった、というのと同じです。
太陽は明るさが強力なのでカーテン越しに見えますが、星や月の陰の部分は見えません。
部屋を暗くして外の方が明るくなるとカーテンの向こう側の景色が見えてきます。
それと同じ現象が「夜空」です。

ただ、これですっきりするかと言うとそうでもありません。
まず、部屋の例えに従えば、部屋を明るく照らしているのは室内の照明です。
しかし昼間、地球を照らしているのは大気の外側の太陽です。
光源がカーテンの外側にあるのに、部屋の外よりも中の方が明るいという現象が起きているわけです。
大気が光を散乱しやすく、大気中に光が満ち溢れている状態だとすれば少しは納得できるかもしれません。
しかしそうなると今度は、そんなカーテンをどうして微弱な星の光が透過できるのか? という疑問が湧いてきます。

 

(2012年5月23日)

光源が部屋の外にあるのにどうして部屋の中の方が明るいのか? という疑問に対しては「太陽が超絶的に明るい」というのが答えになりそうです。
日光が30キロの大気の層を通過する時にどれくらい減弱するかというのは、光の波長によって減衰率が極端に違うために、一概には言えないようです。
減弱したものの一部は宇宙空間にはじき出され、一部は空気の分子に熱を与え、また一部は散乱します。
仮に1%が散乱すると仮定しましょう。
日光の1%が空気分子に当たって向きを変えます。
さらにその1%が進路上の空気分子に当たって向きを変えます。
この反射を3、4回も繰り返せば光は「最初とは全然違う方向から飛んでくる」状態になると思います。4軒もはしごするとどの店で飲み始めたか分からなくなるのと同じです(?)。
つまり「昼」というのは、「直射日光の100万分の1から1億分の1の明るさが空のあちこちから降り注いでいる状態」と言えると思います。

月は太陽の40万分の1の明るさだそうです。星は1000億分の1だそうです。
とすると昼間、星が見えないのは当たり前です。散乱している日光の方がはるかにまぶしいですから。
しかし月は散乱光よりやや明るいので昼間でも見ることができるわけです。

物体が逆光で黒く見えるのは、背景が明るいからです。
宇宙空間から新月を見ると、満天の星を遮る丸い陰として見えるはずです。
しかし地球上から見ると、散乱光のまぶしさのせいで「満天の星」自体が見えません。逆光の月は全く見えなくなるわけです。

 

(2012年5月25日)

ふと思い出しました。

高校の頃、物理の先生が「はるかかなたの星が見えるのは、光が波ではなく粒子だから」というのを数式を使って説明してくれました。
今となってはどんな数式だったのか全く思い出せません。
普段は怖い先生でしたが、その証明の時だけ嬉しそうだったのを憶えています。
物理や数学の授業は、今だったらもっと面白く受講できそうな気がします。

国語もそうです。
担任の先生は教科書は無視して、自分が最高だと認める文章だけ選りすぐって教材として与えてくれました。
「銀の匙」の橋本先生はもちろんすごいですが、授業のたびに最高の作品を見せてくれた、その先生の引き出しの多さにもびっくりです。
しかしそのすごさは高校生の私には分からなかったのでした。 
仮に今、私が高校生に国語を教えるとすれば、どの作品を教材に採用するでしょうか。
1年間に30回授業があるとして、評論、短詩形文学、戯曲、小説というジャンルから何をどういう風に選ぶでしょうか。 
これはいい暇つぶしになりそうです。

 

(2012年5月28日)

具体的に考え始めると、自分の文学の知識が偏っていることに気づかされます。

小説は多少分かりますが、それ以外のジャンルについてほとんど知識がないことに自分でびっくりしています。 
詩はいっさい分かりません。
戯曲は日本人では三島しか読んだことがありません。
評論も多少でもコメントできるのは小林秀雄と吉田秀和くらいでしょうか。

と思っていると吉田氏死去のニュースが飛び込んできました。
氏の「LP300選」はクラシック初心者にとってはバイブルのような存在でした。
私も最初のうちはディスクを買う時はこの本を読み返して曲や演奏者を選んだものです。
この本をいちいち開かなくなった時が、一人前のクラシックファンになった時だったような気がします。
とは言え、いまだに吉田氏の演奏評は気になります。他の評論家のレビューは全く気にしませんが、やはり氏は別格です。

しかし思うのです。
それでは吉田秀和の文章を教材として取り上げる時に、彼の著作の中から、氏に特徴的で、しかも最高級の文章で、論理的にも面白い、そういう箇所をプリント1枚に収まる分量で取り出せる力量があるかと自問すると、私にはありません。
優れた文学者を30人リストアップするのは比較的簡単です。
しかし教材として文章をピックアップするには、それとは全く別次元で別水準の能力が必要です。

国語教師とはとんでもなく大変な仕事のようです。

 

(2012年5月30日)

毎年読んだ本の数を一応数えています。

1か月に1冊しか読めないこともあったりするのに、1年を通すと毎年ほぼ110冊です。 
20年間ずっとこの値ですから、今後もずっとこのペースなのでしょう。 
そこでふと思いました。あと何年本が読めるのか分かりませんが、今後私が読めるのはせいぜい3、4千冊なのです。
ペースが決まっているというのは、読める本の数も決まっているということなんですね。
もしかするとペースなんか知らない方がよかったのかも知れません。

 

(2012年6月8日)

小さい頃、近所に駄菓子屋があって、そこでよくくじを引いていました。
1回5円で、当たると大きくて美味しそうなお菓子がもらえて、はずれると小さな飴玉しかもらえない、そんな仕組みでした。
当時お小遣いが1日10円で、くじを2回引くのが毎日の楽しみでした。

ある日、その店に行ってみると、一等賞のお菓子が残っているのに、くじも10枚くらいしか残っていません。
あわてて家に戻って小遣いを1週間分前借りしてまた店に戻りました。
わくわくしながらくじを1枚ずつ引きました。
ところが最後の1枚を引いても一等くじが出てきません。 
呆然としていると、駄菓子屋のお婆さんが「これを引いてごらん」と、引き出しからくじを1枚出してくれました。
めくってみると「1等賞」です。 
とっても嬉しくなった私は「ありがとう!」と素直に感謝して家に帰ったのでした。

この45年でいろいろ素直な気持ちを失ってしまったものよ、というお話でした。

 

(2012年6月13日)

生レバーが食べられなくなってしまいます。

実は小学生のころはレバーが苦手で、給食に出るとずっと居残りでレバーとにらめっこさせられていました。
それがある時ふっと美味しいと思うようになり、焼肉屋では欠かせないメニューとなりました。
生レバーを美味しいと思うようになった時には、大人になったような気がしたものです。

ところで今回のニュースを聞いて誰もが思う疑問は、牛肉「生産」「卸」「小売」「飲食店」」というかなり大きな規模を持つ業界が、どうして政治的影響を及ぼすことができなかったのか、という点だと思います。

製造業の鍵を握る電力会社に政治がひきずられるのは分かります。
現実に多くの健康被害者を出しているタバコだって、税収によって財務省を取りこみ、広告費によってマスコミを取りこみ、事実上放置状態です。 
放射線やタバコに比べてリスクが高いとは思えない生レバーを規制することに対して、どうして業界として反論しないのでしょうか? 
と、ここまで書いて思い到りました。
食肉に関して、規制と業界からの反発という構図がもう一つありました。

そう、BSE問題で厳しくなった牛肉輸入条件を緩和しようとするアメリカからの圧力です。 
もし、日本の業界がその気になれば生レバーのリスクなど「自己責任の範囲内」で封じ込めることは可能だったと思います。
ところがそうなると今やリスクがほぼ0となっているアメリカ牛と正面から戦わなくてはなりません。
それならば生レバー程度はあきらめよう、と考えたとすれば今回の業界の沈黙は理解できます。
仮にそうだとすれば、我々から生レバーを奪ったのは「リスクを恐れる国」ではなく「アメリカを恐れる業界」だったということになってしまいます。

肉食人種としてはちょっぴり悲しい事態です。

 

(2012年6月15日)

ずいぶん久しぶりにシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を読み返してみました。 

ジュリエットがものすごく若いとか、展開がジェットコースター並みとか、何となく印象としては残っていたのですが、今回はその部分をもっと具体的に把握したかったのです。 
まずジュリエットは「あと2週間余りで14歳」です。
父親が「花嫁となるには2年ほど早い」と言うシーンもありますので、当時としてもかなり若い設定だったようです。
二人の死にいたるまでの時系列はどうでしょうか。

日曜日の夜:舞踏会で出会う。深夜には有名なバルコニーの場面。
月曜の午後:ロレンス修道士の立ち合いで結婚。その直後ロミオはティボルトを殺してしまう。
動揺する二人だが、その夜を共にする。
火曜の早朝:ヴェローナから追放されたロミオはマンチュアに逃亡。
ロレンスから偽装自殺の計画と仮死薬を授かったジュリエットは、深夜に服薬。
その効果は42時間。
水曜の朝:ジュリエットの葬儀。偽装自殺の計画を伝えるはずの伝令はアクシデントでロミオに会えず。
木曜の夜:ジュリエットの死を聞いたロミオはヴェローナに駆けつけ、自殺。
夜、仮死から冷めたジュリエットもあとを追う。

最初の3日間のドストエフスキー的凝縮ストーリーに比べると、水、木はやや間延び(!)していますが、それでも出会ってから5日目での心中なのでした。

 

(2012年6月18日)

このタイムテーブルも不思議です。

第5幕第1場、ロミオがジュリエットの死を知らされる場面は、普通に読めば水曜日の出来事のように思えます。
しかしロミオがそこから毒薬を手に入れて早馬でジュリエットの墓に駆けつけたのが木曜の夜。
マンチュア(今のマントヴァ)からヴェローナまで馬だとせいぜい数時間です。
そう考えるとこの場面は木曜日でないと辻褄が合いません。
火曜の未明から木曜の昼まで、丸々二日間、ロミオについての描写がないことになります。 
ジュリエットは水曜の朝から木曜の夜まで「死んでいた」わけですから描写がないのは当然としても、「ロミオとジュリエット」には水曜の午後から木曜の午後にかけての描写がすっぽりと抜け落ちています。

ジュリエットとパリスの結婚式を最初から水曜日に、薬の効果を24時間に設定しておけばいろいろなことがすっきりしたと思うのです。
そんなことはシェイクスピアも分かっていたはずです。
ところが彼はそうしなかった。 
その作劇意図がよく分かりません。

 

(2012年6月20日)

作劇上の意味が分からないと言えば、もっとも分からないのはロミオの惚れっぽさです。

第1幕第1場。ロミオは恋に悩みながら登場します。
お相手はキャピレットの姪、ロザライン。
実はロミオがキャピレット家の舞踏会に忍び込んだのは、ロザラインが目当てだったのでした。
ところがそこでジュリエットと出会い、たちまち乗り換えてしまいます。 
翌朝ロミオから結婚の相談を受けた修道士ロレンスは呆れます。 
「驚いたものだ、なんという気の変りようだ、かわいいロザラインをあれほど思いつめていたに、もう忘れたか」

私はロミオとジュリエットの純愛に疑いを差し挟むつもりはありませんが、もしかするとシェイクスピア自身はロミオの恋を冷めた目で見ていたかもしれません。

 

(2012年6月22日)

最近街を歩いていて困るのが、人の流れに乗らず、左右にふらふらと揺れながら歩いている人々です。

そう、スマホを操作しながら歩いている人たちです。 
ゆっくり歩くこと自体はいいのですが、追い越すのが難しいのが困りものです。
たとえば道路の右寄りを歩いている人を追い越そうとする場合、当然左からアプローチします。
ところがこういう人たちは画面に専念するために、無意識に自分の左右のスペースを同程度に広めに取ろうとします。
右よりも左の方がスペースが空いていると感じると、その人は無意識に左に寄ってくるのです。
こうして「ゆっくり歩いているのになぜか追い越しにくい」という現象が発生してしまうわけです。

スマホは便利だと思うのですが、スマホウォーカーのせいで経済の0.5%くらいは損しているのではないかと思ったりします。

 

(2012年6月25日)

その言葉を使ったらその専門家は信用できない、そんな言葉があります。

前回のコラムで使おうと思ってあやうく思いとどまった「経済効果」という言葉も、そうです。 
1985年のタイガース優勝の頃から使われ始めたと思うのですが、実態を伴わないにもかかわらずワイドショーなどでは扱いやすいのでしょう。なかなか消滅してくれない言葉です。

「ここは大事な場面です」という野球評論家も信用できませんが、野球評論家については話し始めると切りがないのでやめておきましょう。

闘病記などでは「余命○か月と言われた」というくだりをよく目にしますが、現実にそういうことを言う医者がいるとは信じられません。
同業者としては、病状を丁寧に説明しようとして用いた表現が誤って伝わった、と信じたいところです。
もし無思慮に「余命」などと言う言葉を使う医者がいるとすれば、即刻主治医を替えた方がいいと思います。

 

(2012年6月27日)

消費税アップの法案が衆議院を通過した日、TVや新聞が第一に報道したのは小沢氏と造反議員の動向でした。

「国民の生活をほったらかしで権力争いに興じる政治家たち」を批判する論調だったと思います。 
しかし消費税増税に関して私がまず知りたいのは「いつから、どれだけ上がるのか」と「どれだけ生活に影響があるのか」の2点です。
ところが肝心の法案の内容の説明は「小沢氏関連」の報道のあとでした。
「国民の生活をほったらかしで権力争いに興じる政治家たち」を国民の生活をほったらかして追いかけるマスコミ、という図式のようです。

私は民主党の分裂を「政局ではない、政策による政界再編」への一過程として歓迎します。
しかしマスコミが政局大好き族によって操られているのに、政治家にだけ「政策重視」を求めるのは難しいかもしれません。

 

(2012年6月29日)

神戸元町ダイアリー2012年(1)吹き替えにタレントを使う理由<main>神戸元町ダイアリー2012年(3)日本国憲法を読む


神戸元町ダイアリー2012年(1)

明けましておめでとうございます。
みなさま年末年始はゆっくり過ごせましたでしょうか?

私は年末に久しぶりに六甲山に登ってみました。
久しぶりに行ってみると山道を走っている人が多くてびっくりしました。
「トレイルランナー」と呼ぶらしいですが、走るのは平らな道でもしんどいし、山道はただ歩くのだってしんどいのに、一体何を考えているのか「山道を走る」のが趣味の人たちです。
しかしこちらがぜーぜー言いながら坂を登っている横をぴゅーっと追い抜いて行くその姿は想像を絶するほどかっこいいです。
山を下りて思わずトレイルランニング用シューズを買ってしまいました。
靴を買っただけですっかりトレイルランナーになったような気になっているところです。
実際にこの靴の出番が来るのかどうかは疑問ですが……。

 

(2012年1月4日)

山崎豊子の「運命の人」を読みました。
なかなか興味深かったです。
 
ずっと前にこの欄で、森鴎外と司馬遼太郎は小説家として歴史に降参した人だと(いうようなことを)書きました。
ものすごく大雑把に言うと、二人は小説としての枠組みを構築する努力よりも、歴史をそのままに描くことを優先した、ということです。
鴎外に小説家としての創作力が欠如していたのは明らかですし、司馬遼太郎の作品でも、主人公の存在感はたいていの場合巻を追うにつれて時代の渦に巻き込まれて希薄になっていきます。
実は山崎豊子の作品でも同様の肌触りを感じていました。
最初は強烈な個性を持って登場した主人公が、物語の流れの中でどんどん存在感を失い、それとともに小説としてのカタルシスも忘れ去られていきます。
彼女の小説はあくまでフィクションですので歴史に降参したというわけではありませんが、勝手に物語が進み始めて、小説としての構造が軽んじられている、そういう風に感じられて仕方がないのです。
最初は道なりに動き始めた巨大ブルドーザーがやがて道筋を無視し始めたような、そういう破格を感じてしまうのです。
 
ところが「運命の人」で山崎豊子は物語を小説の枠組みに強引に押しこもうと試みます。
そのためのひずみが、もしかすると彼女の固定ファンには許せないかもしれません。
後半で存在感を失いかけた主人公を、最後で再び主人公たらしめようとする展開には、実際無理があります。
しかしこの無理をも厭わない力強い表現欲を、私はとても興味深いと思いました。
 
「運命の人」、私はこれを山崎豊子の第二の処女作と呼びたいと思うのです。

 

(2012年1月11日)

先日湿布メーカーのMRさんが商品説明にやってきました。
 
彼女は手袋をした手で湿布を貼ってみせてくれました。
手袋をすると湿布に限らず何でも扱いにくいですが、うちの製品なら大丈夫、これならお年寄りの方でも簡単に湿布できますよ、というアピール。
なるほど、面白い宣伝でした。
 
考えてみれば、私たちの周りにある道具の多くは普通の人が普通の力で普通の器用さで使うことを想定して作られています。
これからのシルバー時代、そういう発想の商品は通用しません。
手袋をして服の脱ぎ着をしてみたり、乱視メガネをかけて家事をしてみたり、車いすに乗って町に出てみたり、そういう直接体験が理屈よりも役立ちそうな気がします。

 

(2012年1月13日)

そんなことを考えていたら、気になるニュースが飛び込んできました。
名門プロオーケストラの演奏が聴衆の携帯電話着信音によって中断させられたというニュースです。
 
記事自体はマナーのなさを嘆く趣旨だったのですが、よく読んでみると携帯の持ち主はお年寄りでした。
それなら事情が違ってきます。
お年寄りの方は高い音が聞こえにくいのです。
最近電車の中でヘッドホンをしゃかしゃか鳴らしている若者は少なくなりました。
その替わりに耳障りなのがお年寄りの方の携帯操作音です。
彼らの場合マナーに欠けるのではなく、単に自分が出している音に気づいていないだけです。
さきほどのオーケストラの客も自分の携帯が鳴っていることにおそらく最後まで気づかなかったのでしょう。
 
携帯電話はサイズ的に高い音しか出せません、振動だって限度があります。
画面もボタンも小さいので電源が入っているかどうかも分かりにくい。
そもそも機能が複雑すぎて操作方法を理解するのも一苦労です。
 
つまり携帯電話はシルバー世代にとっては欠陥商品なのです。
そして今回の一件は、欠陥商品が起こすべくして起こした事故だと考えるべきだと思います。

 

(2012年1月16日)
 
シルバー仕様の携帯電話は腕時計型、あるいはセパレートタイプにしてバイブ機能だけ腕時計に内蔵するべきでしょう。
 
湿布は何とかならないでしょうか。
普通程度に器用なつもりの私でも、湿布を上手く貼るのは結構難しいです。
 
湿布が使いにくいのはふにゃふにゃだからです。
これがしっかりとした板状だとシールも剥がしやすいと思います。
シールを剥がして患部に当てると体温で柔らかくなって数十秒で密着する、そういう製品があれば便利だと思います。
ユートク薬品さん、いかがでしょうか。

 

(2012年1月18日)

映画の吹き替えで有名なタレントが使われることがあります。
今までその理由が分かりませんでした。
人気タレントが吹き替えを担当したからといって、売り上げがどれだけ伸びるでしょうか。
顔も見えない、声だけの出演のDVDなんて、よほどのファンでも買わないと思うのです。
 
最近になって気がつきました。
人気タレントを使うと芸能ワイドショーで扱ってくれるから、だったのですね。
全国ネットでがんがん予告編を流せる大作ならともかく、普通の広告費ではTVに何回も予告編を流すのは無理です。
ところが人気タレントを何らかの形で使えば、ワイドショーで勝手に宣伝してくれます。
 
ファン心理など最初から勘定に入れていない広告戦略だったわけです。

 

(2012年1月20日)
 
声優に人気タレントを使って映画をワイドショーで宣伝してもらうというやり方は、よく考えてみればなかなか巧妙です。
TVのコマーシャルはもともと非効率的です。
TV局は効率を少しでも上げるために、番組の視聴者層に応じた商品の広告を流します。
子ども向けアニメならスナック菓子、マニア向けアニメならセルDVD、恋愛ドラマなら化粧品、夜の報道バラエティなら車や不動産。
昼間のバラエティを見ているのはどういう層の人たちでしょうか。
昼間、家にいて、何となくTVのスイッチを入れている人たちだと思うのです。
そこで人気タレントやレポーターたちがわいわい騒いで「この映画、面白そう」と印象づけることができれば、「暇だし行ってみようかな」と思ってくれないでもありません。
これはゴールデンタイムで不特定多数の視聴者に予告編を流すよりも効果が高いと思うのです。
 
タレント商法侮りがたし、です。

 

(2012年1月23日)
 
せっかく原作を読んだのでドラマ版「運命の人」も見てみました。
 
小説版ではよく分からなかった三木昭子(真木よう子)の心境が、TVでは細かく描写されていて、面白いと思いました。
それぞれの役者のそっくりさんぶりも見ていて楽しいです。
 
気になるのは、番組中に化粧品のCMが流れることです。
硬派のドラマですから金融商品や高級車、ハウスメーカーのCMばかりかと思っていたので意外でした。
しかしこの番組で化粧品を宣伝して、広告効果はあるのでしょうか?
とても丁寧に番組を作ってくれているのに、スポンサーさんのお役に立てず、何だか見ていて申し訳ない気持ちにさせられるのが居ずまいの悪いところです。

 

(2012年1月25日)

TVのCMはどうなっていくのでしょう。
不特定多数を相手の絨毯爆撃的宣伝よりも、特定のキーワードを検索した人に対してピンポイントでぶつける単発個別広告の方が圧倒的に効率がいいに決まっています。
TVではブランドイメージだけを強調、商品のアピールはWEB上で、という役割分担になっていくのでしょう。
当然広告費の中でCMが占める割合は低下します。
 
よく、最近のTVは同じような顔触れを並べた同じようなバラエティばかりで面白くない、と文句を言う人がいます。
しかし考えてみれば番組の制作費は今後低下の一途をたどるのです。
今のTVがつまらないと言っている人もきっと10年後には「10年前のTVはいろんなタレントがわいわい騒いで楽しかった」と振り返るに違いありません。

 

(2012年1月27日)

今年もオペラの季節がやってきました。
私がお手伝いしている芦屋市民オペラです。 
今回取り上げるのはプッチーニ作曲の「トスカ」です。
プッチーニのオペラとしては「蝶々夫人」の方が有名かもしれません。
音楽の凝縮度は「トスカ」の方が素晴らしいと思います。
 
フルオーケストラと大合唱を伴奏に奏でられる壮大な悲劇。
これが3500円という金額で楽しんでいただけます。
ぜひお越しください。

 

(2012年1月30日)

ドラマの「運命の人」が面白かったと先日書きましたが、第2話以降の録画を忘れてしまって続きが見られないでいます。

しかし最近のケーブルTVは「見逃しドラマ」を放送してくれているのですね。 
有料なのですが、これを利用すれば録画が失敗してもそれほど悔しい思いをしなくてすみそうです。
そこで思ったのですがテクノロジーの進歩によって、TV番組に対する姿勢にいろんなバリエーションが生まれてきた、と言えるかもしれません。
1)何としてもオンタイムで見たい、万一用事があっても録画忘れなどありえない
2)うっかり録画を忘れるかもしれないレベルの興味、しかし有料であっても機会があれば見逃し分を見たい 
3)話題になっているので、シリーズがレンタルDVD化されれば見てみよう
4)話題になっているので一応録画はしている、しかしいつ見るかは決まっていない
選択肢が増えることによって今後視聴者の主体的な判断力が培われるはず、という見方は楽観的すぎるでしょうか。

ところでテクノロジーの進歩と言えば、驚かされるのは検索システムの発達です。
昔に見た、タイトルも思い出せないようなドラマや、どこかの何かでちらっと 聞いたメロディーなども、今では上手く検索すれば調べることができます。
たとえば、プッチーニなのですが……、長くなってきたのでこの話は次回に回しましょう。

 

(2012年2月1日)

プッチーニは不遇な作曲家だとずっと思っていました。
決してヴェルディに引けを取らないオペラ作曲家にも関わらず、ヴェルディよりも低く評価されるからです。
と言いながら、実は「プッチーニがヴェルディより低く評価されている」という部分に根拠があるわけではありませんでした。
唯一根拠となったのが、ずーっと昔にどこかの雑誌でちらっと見かけた「プッチーニはヴェルディほどではないがいい作曲家」という文章でした。
ふと思いついてこの文章の出典を調べてみました。
ありました。
日本版月刊PLAYBOY1980年6月号に掲載されたロアルド・ダールの短編小説でした。
ハヤカワ・ミステリ文庫「オズワルド叔父さん」に収載されています。
その文章とは

《マノン・レスコー》、《ラ・ボエーム》、《トスカ》、《蝶々夫人》、《西部の娘》をかいている。
みんな最高水準の傑作だ。
モーツァルトやワーグナー、あるいはヴェルディとはちがうけど、天才で、巨匠であることに変わりはない。

何と、「ヴェルディほどではない」という文章ではありませんでした。
不遇な作曲家という私の思い込みは全くのデタラメだったようです。
すみませんでした、プッチーニさん。

 

(2012年2月3日)

「3D」という文字を見るといまだに「未来」や「21世紀」というハイカラなイメージが頭に浮かんできます。
映画館に行く時も、内容よりも、3D効果が期待できるかどうかを基準に作品を選んでしまいます。
しかしわくわくしながら映画館に行ったものの、実際に映画が始まるとがっかりすることが多いです。
あんまり飛び出してくれないのです。
昔、3D映画と言えばたいていB級ホラーで、内容などありません。
しかしよく飛び出してきました。
矢が飛んでくれば思わず顔をそむけたし、硬貨が差し出されればついつい手を伸ばしてしまったものです。
最近の3D映画が飛び出してくれないのはこちらの視力が落ちたせいなのだろう、と諦めかけていたら先日新聞に解説記事が載っていました。
気分が悪くなる人もいるので、映画会社は飛び出し効果を制限しているということでした。
びっくりです。
映画会社はわざわざ飛び出さない3D映画を作っているのでした。
辛くないカレーや速くないロックミュージックがあるのと同様に、怖くない絶叫マシンや飛び出さない3D映画があってもいいと思います。
ただ、その場合はきちんと表示して欲しいです。
「この映画は3D効果を抑えてありますので小さなお子さんでも楽しんでいただけます」とか「この映画は過激な3Dシーンがありますので心臓の弱い方はお気をつけください」というように。

 

(2012年2月6日)

3D映画が珍しくなくってきた今、オーディオビジュアルマニアが憧れるのは自宅での3D映画再生だと思います。

その場合再生装置には、高画質大画面からさらに一歩進んだ技術が必要です。
まさに日本の家電メーカーの得意とする分野です。
ところが彼らが「気分が悪くなる人がいるので映画の3D効果を抑える」などという事態を黙って見ているのが理解しがたいところです。
特にSONYやパナソニックはハリウッドの映画製作事業にも食い込んでいるはずです。
彼らは「もっと3Dを生かしてくれないとTVが売れない」と主張することもできないのでしょうか。
日本の家電メーカーが軒並み売上ダウンという記事をよく見かけますが、うなずけます。
自社の超高度なテクノロジーを活かすコンテンツを開発できない以上、TVは安売り競争になるに決まっています。

飛び出さない3D映画を見ると、日本の家電メーカーの行く末も見えてくるような気がして仕方ありません。

 

(2012年2月8日)

映画で3Dと相性がいいジャンルはSFアクションとホラー。
映画以外だとスポーツだと思います。

見てみたいのは球審目線で見る野球中継です。
大昔の野球中継はバックネット裏から撮られていましたが、いつの間にかセンター方向からの撮影に変わりました。
小型の3Dカメラを球審のヘルメットに内蔵する時代が来れば、野球中継の視点は再び180度変わることになるでしょう。
審判視線からのダルビッシュのストレートやイチローのバックホームをぜひ見てみたいものです。
日本プロ野球だと広島の福井投手、と言いたいところですが彼の場合はまずローテーション入りを確定させてからの話ですね。
サッカーも、ゴールのすぐ後ろから見るシュートシーンは迫力ありそうです。
3Dが最も効果を発揮しそうなのはアメリカン・フットボールだと思います。
特にNFLで採用されているクォーター・バックの背中からの空中カメラが3D対応になれば、目の前のラインの攻防と、はるかかなたでのレシーバーとディフェンスとの駆け引きが同時に視認できるわけです。

考えただけでもわくわくする話ですが、もっとよく考えてみれば野球の球審目線とNFLの空中カメラが3Dになるまではまだ専用再生機は必要ない、ということでもあります。
今はわくわくしつつお金を貯めておくことにしましょう。

 

(2012年2月10日)

演奏会のお知らせです。

ジョン・ウィリアムス&スティーヴン・スピルバーグ
3月17日(土)尼崎アルカイックホール17時30分開演

「ET」や「ジョーズ」など映画音楽満載の、ダンスあり恐竜あり爆発ありのエンターテインメント・ショーです。
絶対に楽しいです。
ぜひぜひどうぞ。

 

(2012年3月12日)

神戸元町ダイアリー2011年(3)芦屋と宝塚の違い<main>神戸元町ダイアリー2012年(2)100年前の有名人


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