神戸元町ダイアリー2011年(3)

六甲道駅と住吉駅の違い、宝塚駅と芦屋駅の違いをよく考えます。
どちらも住んでいる人の雰囲気は似ているのに駅前の雰囲気は全く違います。

この違いはどこから来るのでしょうか。

 

(2011年7月1日)

前回のコラムで触れた「違い」、その正体は「パチンコ屋」でした。
街自体にはハイソなイメージがあるのに宝塚市民はもったいないことをしていると思います。

さてパチンコのことを考えるとどうしても「逆進性」という言葉を連想してしまいます。

消費税が話題になるたびに出てくる言葉です。

根拠はよく分からないのですが現代民主主義では「逆進性」はよくないこととされています。
憲法に規定されているのは「納税の義務」と「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の項目だけで、所得の再分配の理念については触れられていません。
つまり「逆進性がよくない」というのは「憲法」より次元が上の「自然法」に基づく共通認識なのでしょう。
あとは弱者を守るために逆進性を国家がどれだけ規制するか、そのコントロールの仕方こそが国のあり方なのだと思います。

たとえば今の日本。
フォアグラの品薄のために全国の高級フランス料理が値上げをしてもそれには国家は介入しない。
しかしコメ不足による物価上昇には国家が直ちに対策を講じる。
日本という国はこれくらいのさじ加減で動いています。

そして「弱者の生活に大きく影響する基本的食材の値段は国家がコントロールする」という考え方があるならば「弱者向けのギャンブルは国家が管理する」という考え方もありえるのではないかと思ったりするわけです。

 

(2011年7月4日) 

節電のためにエスカレーターやエレベーターが止められていることがあります。

素人的には、上りと下りのエスカレーターを歯車で連動させて一つのモーターで動かせば、上下方向の重さが釣り合って電力を実質的に消費しないような気がします。
下りエスカレーターを止めるのはもったいないように思えて仕方ありません。

エレベーターも定員の半分程度の人数で釣り合うように重りを設定してあります。
ですから少ない人数で上りエレベーターに乗ったり、あるいは満員で下りエレベーターに乗ると、節電どころか逆に電気を溜めることも可能のはずです。
オフィスビルのように時間帯によって上り下りの人数が極端に偏る場合、重りの重量を変えるというのは技術的に無理なのでしょうか。
出勤時は重りを最大にして、帰宅時には重りをはずせば、その時間帯にかなりの電力が蓄えられそうな気がします。

これくらいのことは専門家は当然考えているのでしょう。
利用者としてはエレベーターごとにどういう条件で使えば節電効果が高いのか表示してあると使いやすいと思います。

 

(2011年7月6日) 

これだけ科学が進んだのに発電の仕組みが全く変わっていないのが不思議です。
火力や原子力では発生した熱によってタービンを回して、その回転エネルギーを電気エネルギーに変換しています。
風力や水力の場合は自然エネルギーから直接回転エネルギーを取り出しますが、運動エネルギーを電気エネルギーに変換させないといけない点では同じです。
太陽光発電には「回転エネルギー→電気エネルギー」という経路が含まれません。

「回転エネルギー→電気エネルギー」は今や完成された技術と言ってもいいでしょう。
太陽光発電に比べて非常に高い変換効率を持っています。
しかし完成しているだけにこれ以上の効率化は見込めないのではないでしょうか。
歴史的な流れから想像するといずれ「光エネルギー→電気エネルギー」変換効率の方が上回り、一般的になる時代が来るはずです。

「昔の人は無尽蔵にある太陽の光を使わないで、わざわざ限りある化石燃料や危険な原子力を使って発電していたんだよ」
子どもたちがそう驚く時代がすぐ近くに迫っていると、私は思うのです。

 

(2011年7月8日)

喫煙者はどうして嫌われるのか?

駅のホームや路上、いたるところが禁煙になり、完全禁煙のレストランも増え、愛煙家のみなさんはどんどん肩身が狭くなっていることでしょう。
しかしその一方で不条理さも感じているのではないでしょうか。
普通なら誰かに何かを譲れば、譲られた人は満足し感謝するはずです。
しかし愛煙家側があらゆることを譲って譲って譲りまくっているのにタバコバッシングは強まる一方です。
感謝こそされることはあってもどうしてここまで文句を言われ続けるんだ? そう疑問に思われていることだと思います。

それには理由があるのです。

社会の分煙化が進んだために非喫煙者はタバコの煙からある程度隔離されることになりました。
自宅でも職場でも外出先でも飲食店でも、タバコをすぐ隣で吸われることがなくなってきました。
マナーのいい人が喫煙する場面を、非喫煙者が見ることがなくなったわけです。
たとえば私が所属するグループは食事の席では禁煙です。
個人的にも私はなるべく禁煙の店にしか行かないことにしています。
そんな私が見かける喫煙者とはどういう人たちでしょう。
禁煙エリアでタバコを吸い、くわえ煙草をして、ポイ捨てをする。
つまり私が目にする喫煙者は100%マナー違反者なのです。

喫煙者からすると嫌煙派の主張はヒステリックに聞こえるかもしれません。
しかし原因は単純です。
嫌煙派が目にする喫煙者は全員が低モラルでマナー不足の条例違反者なのです。

この状況を打破する方法はたった一つです。
マナーのいい喫煙者がマナーの悪い喫煙者を啓蒙することです。
禁煙エリアで吸っている人を見かけたら「その先に喫煙所があるからそこで一緒に吸おうぜ」と声をかけることです。

このままではヒステリックなタバコバッシングはどんどん加速します。
それはマナーのいい喫煙者が被害者意識に閉じこもって何の行動も起こさないからなのです。

 

(2011年7月11日)

美味しい野菜を売りにしたお店が最近増えてきました。
無農薬で育てられた野菜を産地から直接仕入れることによって自然の恵みを損なうことなく味わえるというのがセールスポイントのようです。
「自然そのまま」と言われると大変素晴らしく思えます。
しかしよく考えてみると無農薬農法は、害虫や病気に対する品種改良作業の賜物です。
産地直送もPOSシステムと輸送力の進歩によって初めて可能になりました。
そもそも野生の野菜を食べても全く美味しくありません。生で食べて美味しい野菜そのものが科学の進歩によって作り出された物です。
そう考えれば農薬漬けの野菜や見た目はいいけれども味わいに乏しい野菜なども「科学が自然を損なった例」ではなく、「科学の力が不十分だった例」と受け止めるべきではないでしょうか。
農薬という科学が悪いのではなく品種改良という科学が未熟なために農薬の使用を余儀なくされるわけです。
そこで結論として

悪い科学があるのではなく、不十分な科学があるだけだ。

と大きな声で主張したいのですが、ここではたと筆が止まってしまいます。

 

(2011年7月20日)

私を躊躇させるのは、言うまでもなくフクシマです。
科学の明るい未来を信じたい、しかし今回の事故をどう考えるべきか。
夢の核エネルギーを屈服させるために必要な試行錯誤とそれに伴う犠牲と解釈すべきなのか、それとも核エネルギーだけは人類には手に負えないものとして封印すべきなのか、私には判断できないでいます。

一つの拠り所として、人類がすでに屈服させた科学技術について考えてみましょうか。
たとえば「火」です。
100円ライターがあれば3歳の子どもでも簡単に火を点けられます。
コンロでは弱火から強火まで自由自在に火力をコントロールできます。
日本の発電量の7割は火力が担っています。
今や人類は火力を完全に制圧させた、……と言ってもいいのでしょうか? 

何となくコントロールしているつもりになっている「火」ですが、毎年日本では住宅火災で1000人以上の人が亡くなっています。
毎年のように化学工場の大規模な爆発があり、ひとたび山火事が起きれば散水や放水など全く役に立ちません。
実は人類は「火」を全く制圧できていないのです。
「燃焼」という化学反応を原理的に理解し、管理する方策についても分かっている。
それでもしばしば「火」の反撃を食らってしまいます。
その原因の多くは人為的なものです。
「無知」だったり「無思慮」だったり「慢心」だったり……。

こう考えてみると私たちの核エネルギーに対する態度もおのずとはっきりしてきます。
人類は理論的には核エネルギーをコントロールできます。しかし人類自身をコントロールできません。
これでは現実的にはコントロールできていないのも同然です。

くわえ煙草や寝煙草をやめて、ゴミを完璧に分別し、電車で迷惑行為を注意されれば心から素直に謝罪する、人類がそんな風にバージョンアップするまでは原子力には手を出すべきではないということです。

 

(2011年7月22日)

節電目標値が15%。
15%というと、大雑把に6分の1です。
六つあるものを一つ減らすと考えれば分かりやすいです。
えーと、たとえば六つあるものと言えば……。

ちょうど民放が6局ありますね、ここは時間を決めて1局ずつ停波してもらいましょう。
1時間も60分です。毎時50分から10分間、どうせ場つなぎ番組しか流していない時間帯ですから放送を中止しましょう。
CMの音量もこの機会に15%下げて欲しいです。
節電とは関係ないですが、ヒナ壇芸人も6人から5人に減らしてはどうでしょうか。
よくテロップで流れる「衝撃の展開まで30秒」という引っ張りタイムも「25秒」にカットしましょう。

 

(2011年7月25日)

JRは今こそきっちりとした安全点検をするべきだと思います。

思えばスリーマイル島の時もチェルノブイリの時も「日本は大丈夫」と原発関係者は言っていました。
阪神大震災のちょうど1年前のLA大地震で高速道路が倒壊した時も「日本は大丈夫」と道路関係者は言っていました。

私も日本の新幹線は絶対大丈夫だと信じています。
しかし、だからこそもう一度再点検をしてさらなる安全神話を築いて欲しいと思うのです。

 

(2011年7月26日)

「想定外」であれば許されるのではなく、想定しなかった方が悪い、こと原発に関してはそういう論調のようです。
おそらく今回の大災害で地震や津波に対しては想定レベルが引き上げられたと思うのですが、テロに対してはどうなのでしょうか。

ダイナマイトを身体に巻きつけた反・原発活動家が敷地に侵入してくる程度のことは想定しているはずです(よね?)。
テロリストの自動車爆弾は想定してあるのでしょうか?
北朝鮮や中国軍部の急進派が航空機で突っ込んでくる可能性は考えてあるのでしょうか?

ナショナリズムに鼓舞されて漁船で巡視船に体当たりしてくる人も現実にいるのです。
航空機テロは震度9の地震や高さ20メートルの津波よりも蓋然性が高いように思えます。
「防衛機密のために詳しくは言えないが航空機テロに対してだけは100%大丈夫」と、信用できる誰かが言ってくれれば安心できます。
問題は誰が信用できるか、ですが。

 

(2011年7月29日)

20年前にタイガースファンをやめて以来、セ・リーグでは応援するチームがないままでした。
斉美高校の優勝投手・福井優也選手が入団したので今年からカープを応援することにしました。
先発ローテーションには加わっていながらこれまでもう一つぴりっとしない投球内容でしたが、昨日ようやく完投で勝利しました。
おめでとう!

 

(2011年8月26日)

ちょうど受付スタッフも広島出身なので、今年の当クリニックはカープの話題で持ちきりです。
と言いながら私が知っている選手は福井くんだけなのですが。

スタッフが帰省の時には広島土産を持って帰ってくれます。
誰もが想像するモミジ饅頭ではなく、私も全然知らなかった広島名物です。

「せんじ肉」

豚の胃を揚げたて干したものです。
ビーフジャーキーに似ていますが、肉がホルモンだけに歯ごたえが一段違います。
酒のつまみにぴったりです。
広島旅行を予定しているみなさん、酒飲みさんへのお土産はモミジ饅頭よりも「せんじ肉」の方が喜ばれると思います。

 

(2011年8月29日)

大物芸能人の突然の引退の話題が週刊誌をにぎわせています。
私は「芸能人が突然引退を発表した」と「暴力団幹部とやり取りしたメールが流出した」という二つの事実しか知りません。
その二つから誰もが想像する最もシンプルな筋書きは、

芸能人が何らかのトラブルの仲裁を暴力団に依頼した

暴力団は見返りを要求することなくトラブルを上手く解決した

芸能人はさまざまなトラブルの解決を暴力団に依頼するようになった

暴力団はそれらのトラブルを解決していき、やがて徐々に見返りを要求するようになった

そのうちに見返りが大きくなり、芸能人が拒むと暴力団はこれまでの関係をネタに脅迫に転じてきた

いったんは暴力団の要求を飲んだ芸能人だったが脅迫はさらにエスカレートした

ついに進退きわまった芸能人は暴力団の要求を拒まざるを得なくなった

暴力団は他の金づるへの見せしめにこれまでの関係を暴露して芸能界への復帰の道を完全に絶った

暴露されたメールがいつからのものなのかは知りません。
しかし暴力団側としてはかなり早い時期からいずれは脅迫のネタに使うつもりで関係を積み重ねていたことが想像されます。

 

(2011年9月7日)

とするとマスコミとしては「芸能人がいかに悪人であったか」を追求するよりも「芸能人がこの罠にどうはまっていったか」を検証するべきだと思うのです。
この芸能人は番組で見ていても頭がとてもいいです。損得勘定も上手だし世渡りも上手そうです。
政治家にも弁護士にも知り合いが多い。
その彼をして何をもって「ここは暴力団の力を借りた方が得だ」と思わせたのか、その部分こそが鍵だと思うのです。
彼の振る舞いなどはどうでもいいです。
そもそも芸能人に品位とか人格とか求める方が野暮です。

しかし彼がどうしてこんな破滅スパイラルに陥ってしまったかは私たちにとって大きな教訓になると思うのです。

 

(2011年9月9日)

元町駅の周辺を掃除している人たちをよく見かけます。
ユニフォームを見ると多くはJRAの関係者のようです。
これはいい考えだと思います。
競馬収益のいくらかをこういう形で地域に還元しているわけです。

JTもやってみてはどうでしょうか?

人を雇って駅周辺の掃除をしてもらうのです。
吸殻を拾うだけではなく、くわえ煙草の人を見かけたら注意してもらいましょう。
マナー違反の人に注意するのは難しいことです。
しかし嫌煙者に注意されれば逆切れする喫煙者も、JT、つまり喫煙者サイドの人に注意されればおとなしく従ってくれるのではないでしょうか。
「マナーを守らないとやり玉に挙げられて、またたばこ税を上げられます」と泣きつけば、くわえ煙草の人も火を消してくれるはずです。
マナーのない人を注意するJTの人を見かければ、嫌煙者のJTに対する風当たりも変わると思います。

街もきれいになるし、喫煙者のモラルも上がり、喫煙嫌煙の対立も緩和される、いいことだらけのアイデアだと思います。

 

(2011年11月7日)

「政治家の器が小さくなったと嘆いている人がいるがすじ違いだ」というのは以前からここで繰り返し書いてきたことです。
とにかく上り調子だった30年前までと今とでは政治家に求められる資質が全く違います。
政治家から金や裁量権を奪い取っておいて「器が小さい」とののしるのは言いがかりもいいところです。

……と主張してきた私ですが、外交に関してはもう少し器量のでかさがあってもいいと思います。
騒がれているTPPです。
農家の人がTPP反対を訴えるのは当然です。
しかし政治家たるものが「交渉に参加すべきではない」と叫ぶのはいかがなものでしょうか。
仮にも政治家であれば「交渉するなら俺を行かせろ、俺がアメリカにがつんと言ってやる」くらいの啖呵を切って欲しいものです。

 

(2011年11月9日)

生活保護受給者は200万人を超え、財源もないまま子ども手当がスタート、年金の受給者は増える一方。
お金がないのに支払先は増加の一途です。
一方TPP参加のあかつきには国産米は激しい価格競争の渦に巻き込まれることになります。

生活保護、子ども手当、年金の一部をお米で現物支給してはどうでしょうか。
農家には自由流通米生産か支給米生産かを選んでもらいます。
自由米生産農家には高品質の米で輸入米と競争してもらいましょう。
そして支給米は食料品ではなく配給券ということにしてしまいます。
支給米作りは一種の通貨の発行業務となってTPPの枠からはずれます。

……と、そんなに簡単に物事は運びませんよね。
国会議員のみなさん、がんばってください。

 

(2011年11月10日)

神戸元町ダイアリー2011年(2)元町映画館<main>神戸元町ダイアリー2012年(1)吹き替えにタレントを使う理由


神戸元町ダイアリー2011年(2)

超大規模災害に巻き込まれた時、自分が行方不明になったことすら気づいてもらえないのではないか、という不安感があります。
それを思うと国民共通番号制にでもすがりたくなります。
住所がここで誕生日がいつで、親兄弟はこういう人で、こういう職種で何年間年金を納めて、時々病院にかかって……みたいな情報がどこかの巨大サーバーの片隅にでも残されるとすれば、まだ何かの心の支えになるような気がします。

私の個人的な不安感とは別に、共通番号があれば公的な書類が役所ごと流されても被災後の復元が容易だと思います。
共通番号を利用した電子掲示板を国が用意すれば知人の安否も確認しやすいと思います。

番号で管理されるのがいやという人もいるかもしれません。
しかし自分の身体が消滅した時に番号しか残らない状態と、番号すら残らない状態と、どちらが心細いだろうか?という疑問を突き付けられた今回の災害だったと思うのです。


(2011年4月1日)

とてつもなく突拍子もないことを考えています。

近い将来東北地方が復興を遂げた時、国が追悼施設を造るとします。
震災で亡くなった人は当然そこに祀られます。
原発の処置や救難活動や物資輸送の途中の事故で亡くなった人もそこに名前が刻まれるでしょう。
震災によるストレスで自ら命を絶った人も、私はそこで悼みたいと思います。
遠く離れた避難所に送り込まれ、近くには誰も知った人がいなくて、そこで孤独死を迎えた人も祀られる権利があると思います。

で、もし、あくまでも「仮に」の話ですが、政府の上層部の人や東京電力のトップの人が心労のために心筋梗塞で倒れたとします。
現地視察中ではなく、東京の執務室、あるいは自宅で、です。
この人たちを震災犠牲者に含めていいものでしょうか?

つまり、靖国の問題なのですが。

 

(2011年4月4日)

神戸がいつ復興したかと訊かれると非常に難しいです。

個人的に復旧を感じたのは震災の年の4月1日です。
この日JR最後の不通区間だった住吉・灘間が復旧して電車通勤が可能になりました。
同じ日に自宅のガスと水道が復旧しました。
ようやく日常生活に戻れた日でした。

復興となるといつでしょう。
職業によって当然感じ方は違うと思います。
「いまだ復興ならず」と感じている業種もあるかもしれません。
住宅について言えば、六甲道駅南側の再開発が終了したのが2004年。
新長田駅の南側は一部まだ工事中ですが数年前にほぼ今の形が現れていました。
JR芦屋駅南側地区はいまだに再開発するかどうかも宙ぶらりんで低層プレハブと駐車場だらけだったりしますが、これは置いておいて、阪神大震災規模の災害の復興には10年かかったと考えていいと思います。

規模が桁違いの今回の災害の復興にはおそらく倍の年月が必要でしょう。
おそろしく先の長い道のりです。
現地の人に無理をするな、あせるな、と言ってもそれこそ無理でしょう。
支援する私たちにこそ息の長い、地道できめの細やかなサポートの覚悟が必要だと思います。

 

(2011年4月6日)

前回の記事は抽象的できれいごとばかりで意味不明でした。
言いたかったのは二つです。

1)20年間という想像を絶する復興期間、神戸の人こそが支援をする人たちを支援し続けなくてはならない。
2)2028年まで仙台以外の日本の都市はオリンピック開催国に立候補しない。

 

(2011年4月8日)

デアゴスティーニ・ジャパンから「週刊ロボゼロ」というのが発売されています。
毎週少しずつ届けられるパーツを組み立てれば70週間後に最先端ロボットが完成するという謳い文句です。
とても魅力的ですが、70週間後にはもっと技術が進歩していますよね、きっと。
そう思って躊躇してしまいます。
でもいずれはこういう二本足歩行ロボットを買ってうちの悪ネコどもと戦わせたいものです。
買うタイミングはいつでしょうか?

そうです、やはりガンダム型ロボットが発売された時でしょう。
勝手に2年後と推測しています。

 

(2011年4月11日)

皆様、花見には行かれましたでしょうか?
私は趣味の仲間たちと先週行きました。
とっても寒い日でしたし、そもそも花も三分咲き程度でしたし、花見と言うよりは耐寒我慢比べみたいな集まりでした。

しかし散会の時に誇らしく思ったことがあります。
ゴミを残さないのは当然ですが、ゴミを公園に設置してあるゴミ箱にも捨てず、各自がそれぞれ持ち帰ったのです。
特に誰から指示されることもなく。

今回の震災に関して、日本人の節度ある行動が海外のメディアにも多く取り上げられました。
日本人は大災害に際しても略奪をおこなわない。
日本人は届いた援助物資が限られていても奪いあわない。

これからの日本が世界に向けてアピールするべきなのはこういうことだと思うのです。

日本人はゴミを残さない。
日本人は文句を言わない。
日本人は親切。

日本人といると気持ちがいい。

 

(2011年4月13日)

こんなところに映画館がありました!

http://www.motoei.com/

その名もずばり「元町映画館」。
上映時間の設定がいい感じです。
暇を見つけて通いたいと思います。
と言いながらもう既に日参中ですが……。

 

(2011年4月15日)

元町映画館は先週までゴダール特集でした。
日替わりでゴダール作品9本が上映されていたので(短編2本を含む)、日参してそのうちの8本を見たわけです。
ゴダールの映画と言えば訳の分からない作品の代表みたいに言われますが、8本を集中的に見て「確かに訳が分からない」ということがしっかり確認できました。

「訳が分からない」というのは「観客に不親切」と言い替えることができると思うのですが、「不親切」にも二通りあると思います。
ダイエット中と知らずにチョコレートをおすそわけしてしまった、そんなうっかり不親切と、知っていてわざとプレゼントする意地悪な不親切です。
私はゴダールの不親切さには「意地悪さ」が感じられて仕方がないのですが、ファンの方はいかがでしょうか。

 

(2011年4月18日)

ゴダールの「気狂いピエロ」はビデオやDVDで何度か観ましたが、劇場で観るのは初めてでした。
スクリーンで見るとあらゆるシーンの映像がとても細やかで色彩豊かです。
この海の色であれば何となく分かるような気がします。
破滅の場所を捜し求めての二人の逃避行だったのだなあ、と。
裏切る場所、殺される場所、殺す場所、自爆する場所。
そんな青でした。

一方、ゴダールのやかましさにも驚かされました。
全体的に強い音は高音が強調されていて、叫び声でも銃声でも他の映画より数段耳障りです。
特に「ウィークエンド」はすさまじいです。
有名な渋滞シーンでは数十分間クラクションが鳴り続けます。
それに金切り声、怒鳴り声、サイレン、銃声が重なり、これでもかこれでもかと鼓膜を痛めつけてくれます。

本来静かなはずのシーンでも時々意味もなく電話がなったりホラーチックな音楽が鳴り響いたりしてぎょっとさせます。
でもこれも劇場で体験して理解できました。
これは「目覚まし時計」なんですよね。
ゴダールも自分のやっていることがそうそう面白くはないと自覚しているのでしょう。
だから時々大きな音を立てて眠気を覚ましてやろうとする。

とすると前回書いた「ゴダールの不親切は意地悪な不親切だ」という考えは撤回すべきかもしれません。
一応客のことも考えてくれているみたいです。

ただ、ゴダールさん、人の眠気を覚ます方法は大きな音を立てる以外にもあるんですよ、ということだけは言っておきたいです、はい。

 

(2011年4月22日)

訳の分からない映画でもラース・フォン・トリアー監督の作品は群を抜いています。
今回上映された「アンチクライスト」もすさまじいものでした。

幼い子供を死なせてしまった夫婦が魂の救済を求めて「エデン」という名の森にこもります。
カウンセラーでもある夫は妻のためにさまざまなセラピーを施します。
ところが妻のためのはずのセラピーが彼女自身と彼女の過去から「悪魔的なるもの」を引きずり出してしまいます。
「エデン」に住むのは神と天使だけではなかったのです。
夫はその「悪魔的なるもの」に翻弄され、後には導かれ、ついには「負」の解脱に至り、最後は「アンチクライスト」の伝道者として下界に降臨する……というのが最も素直な解釈でしょう。
ところがドラマのシリアスさに比べて夫のキャラクターが薄っぺらに善良でアンバランスすぎます。
本当は、ラストの行動に至るまでの夫の自己弁明に満ちた妄想、と解釈すべきかもしれません。

いずれにしても、映画の後半では徹底的に過激で容赦のない残酷描写が続きます。
しかもこれらの暴力には一切の理由付けがなされません。
これは結構厳しいです。

不親切とか意地悪とかというレベルを超えて、観客への憎悪や殺意すら感じてしまうのです。

 

(2011年4月25日)

覚書です。

http://jech.bmj.com/content/early/2010/10/18/jech.2009.095802.short?rss=1
妊娠中に多量に喫煙していた母親から生まれた子どもは犯罪常習者となる可能性が高い。

http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa1002861
公共の場の喫煙を禁ずる禁煙法施行後、増加傾向にあった小児喘息の入院件数が減少に転じた。

 

(2011年4月26日)

今年は作曲家マーラーの没後100年に当たり、あちこちでマーラーの曲が演奏されます。
そんな中の一つ。

■ 公演日:2011年5月8日(日)
■ 時間:開場15:00/開演16:00
■ 会場:兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール
■ 指揮:黒岩 英臣
■ トロンボーン独奏:呉 信一
■ 曲目:
L.グレンダール: 
トロンボーン協奏曲 
G.マーラー: 
交響曲第6番イ短調「悲劇的」

マーラーの6番は演奏時間80分を超える長大な曲ですが、ありとあらゆる「音」が詰め込まれた新世紀の音楽だと思います。
実験であり、革命であり、進化であり、熟成であり、腐敗であり。
お暇ならどうぞ。
ただし満席の場合は当日券は発売されません、ご注意ください。

 

(2011年5月6日)

数年前に細菌学者が新聞に寄稿していました。

日本には生食肉の基準はあるが、申請された実績は0である。
だから焼肉店などで出される生肉は「あるはずがないもの」であって、それを食べるのは細菌学者的には自殺行為に思える。

とのことでした。
記事を読んだ当時は「また学者先生が浮世離れしたことを書いているなあ」と思いましたが、今になってみると先生が正しかったようです。
私は最近生肉が美味しいと思わなくなってすっかり食べなくなってしまいましたが、ユッケファンのみなさんは今後は基準を満たしたものを注意深く選択する必要がありそうです。

 

(2011年5月9日)

マーラーの交響曲第6番ですが、第1楽章の途中に曲が静かになってカウベルがころりんころりんと響く場面があります。
ここでのマーラーの注意書きです。
「ある時は一つとなって、ある時はばらばらになって遠くから(高く、また低く)響きわたってくる、放牧牛の音をリアルに模倣して」
カウベルの音だけではなく角笛風のフレーズも重なり合って、誰が聞いてものどかな草原の風景が浮かんでくるのではないでしょうか。

ところがマーラーの注意書きはまだ続きます。
「だが、この技術上の指示は描写的な解釈を許すものではないということを、はっきりと述べておく」

牧歌的な雰囲気は醸し出さなくてはならないが、牧歌的風景を描写しているわけではない。
安易に牧歌的情景を想像して欲しくないと釘を刺しているわけです。
音楽は純粋に音楽だけで成立するべきであるという正統派交響曲作家としての信念がうかがえるコメントかもしれません。
しかしここまで牧歌風パーツ音を詰め込んでおいて、具体的な田園を思い浮かべるなというのもまた無理な話ですが。

ここまで考えてふと宗教との類似性に思い至りました。
キリスト教も本来は偶像崇拝を認めていないはずですが、現状は全くそうではありません。
どんなに偶像を禁じられても、人は何か形あるものを思い浮かべてそれにすがりたくなるのです。

音楽でも信仰でも、完全なる抽象に身をゆだねるのはなかなか難しいです。

 

(2011年5月11日)

アメリカのオサマ・ビン・ラディン氏暗殺について否定的な論評をあまり目にしません。
「暗殺」はあまりよくないことだと思い込んでいたのに、突然価値観がひっくり返されたような気分です。

これまで「抑止力」という名目で核という大量破壊兵器を公然と所持していたアメリカが、今度は暗殺という手段も公然と行使すると宣言したわけです。
暗殺を公然と認めた国家なんて世界史上初めてではないでしょうか。
しかもそれに対してどの国も強い批判を見せません。
自衛手段の一つとして暗殺という手法が公に認められたと考えるべきなのでしょう。

冷戦下、ののしり合っていた米ソでも国連などでは一応大義名分を振りかざしていました。
しかしこれからは大国の振る舞いには大義名分すら必要なくなったわけです。
冷戦時代の緊張感すら突然ノスタルジックでのどかな情景に見えてくるような、今回の歴史的大事件だと思うのです。

 

(2011年5月16日)

以前から分からなかったことがあります。

冷戦時代(もそれ以降も)、どうして核が抑止力たりえたかという疑問です。
粛清という名のもとに数百万人の自国民の命を奪ったソビエトがどうして核爆弾を恐れる必要があったのでしょう。
ソビエトからすると、アメリカに向けて大量の核ミサイルを配備すればアメリカに対しては抑止力が成立します。
しかしソビエトに向かってミサイルをいくら並べてみても、国民の命の価値も低く、土地もいくらでもあるソビエトが恐れをなしたとは思えません。
抑止力が成立するとすれば、どこを爆撃すればソビエトの国体が維持できなくなるかという情報をアメリカが握っていて、そしてそれをソビエトも知っている、その条件が満たされた場合だけだと思うのです。
つまり抑止力の本質は核兵器にあるのではなく諜報力にあると考えた方が理解しやすいです。

今回の暗殺もその流れに沿っていると思います。
アメリカがおおっぴらに他国在住の政治的要人を殺した。
当然反アメリカ勢力は同じ手法で報復を試みます。
しかし「いつ誰をどのように暗殺すれば相手に対して最大のダメージを与えうるか」を判断する戦略能力と「標的がどこにいるか」探り出す情報能力と「どうやって暗殺するか」という作戦を企画して遂行する実戦能力と、その三つがなくては効率のよい反撃は行えません。
つまりアメリカは今回、反アメリカ勢力との諜報力の圧倒的な差を確信したからこそ行動に踏み切ったということなのでしょう。

軍事力ではなく情報力こそが国家間のトラブルを終結させるというのが時代の流れなのであれば、日本の国防費の使い方も兵器などのハードから諜報活動などのソフトにシフトするべきかもしれません。

 

(2011年5月18日)

日本赤十字社に集められた募金はそっくりそのまま義援金として使われるらしいです。
てっきり人件費や経費は差し引かれるものと思っていましたが、全くの思い違いでした。
人件費などは赤十字社本体への寄付金からまかなわれているそうです。

ところでそろそろ「募金」や「チャリティー」の定義付けをしっかりした方がいいと思います。
集められた金額を全額被災者に渡す「募金」と、経費を差し引く「募金」と、区別できる気の利いた名称があるといいのですが。
「チャリティー」もそうです。
私は出演者が謝礼を受け取ったからといって偽善などとは全く思いません。
しかし出演者が交通費を含めて一切金銭を受け取らない「チャリティー」と、謝礼を受け取る「チャリティー」と、さらに主催団体がある程度収益を上げる「チャリティー」と、呼び名だけははっきり区別しておくべきだと思います。

 

(2011年5月23日)

ジョゼフ・コンラッドの「ロード・ジム」を読みました。

ジョゼフ・コンラッドと言えば「地獄の黙示録」の原作「闇の奥」の作者です。
あの映画の原作者が面白い小説を書くわけがないし、しかも海洋物だし、自分からは決して手に取る事はなかったであろう小説でした。
が、読んでみると二重三重の入れ子構造が妙に心地よくて。

ただカバーの宣伝文句には「名誉を回復するために夢を追い続ける男の話」のように書いてありますが、受けた印象では「何かから逃げ続けている男の話」でした。
何かを追いかけるというのはもしかすると何かから逃げるというのと同義語なのかもしれません。

ところでこの1冊をもって河出書房の世界文学全集30巻が完結しました。
第1巻を読み始めたのが2007年の11月ですから三年半の充実した読書体験でした。
池澤夏樹さん、ありがとう。

 

(2011年5月25日)

河出世界文学全集と並行して読んできた「フロイト全集」もそろそろゴールが見えてきました。

今回読んだ第3巻には興味深い論考がいくつか含まれています。
たとえば、繰り返し見る夢についての分析。
「小さい頃から繰り返し夢に見る光景があるのだけれど、どういう意味があるのでしょう?」
フロイトはある被験者から相談を受けて分析を始めます。
すると意外な事実が浮かんできました。
小さい頃から見ているはずの夢に、その頃に見知っているはずのない風景や状況や人物が登場しているのです。

夢ではさまざまなことが変形されます。
登場人物が入れ替わったり、出来事がデフォルメされたり、因果関係が入れ替わったり。
フロイトはこう結論します。
「その夢は小さい頃から見ているわけではない。小さい頃から見ているように記憶を捏造されているのだ」と。

私にも小さい頃から時々見る夢があります。
しかしそれはフロイトによると、実際に小さい頃から見ているわけではなくて小さい頃から見ているような気がしているだけ、という事のようです。
記憶の捏造。
まるでフィリップ・K・ディックのSFに出てくるような現象が私の心の中でも起きているのだそうです。

 

(2011年5月27日)

不思議な夢と言えば、よくあるのがこういうパターン。

以前お世話になった人の夢を見ていたら電話が鳴って目が覚めた。
電話はその人が亡くなったことを告げる内容だった……。

これもフロイトが調べてみると面白いことが分かりました。
夢の内容を詳しく問いただすと、夢の舞台は確かに実在するけれどもそこに一緒に行ったのは亡くなった人ではない。
亡くなった人の言動もその人らしくない。
よくよく考えてみると夢に出ていたのはどうやら全くの別人だったようなのです。
それがお世話になった人の訃報を聞いた瞬間に記憶が変造されます。
おそらくは連絡を怠っていた不義理を悔やむ気持ちを「そんなことはない、夢に見るくらい常に心に留めていた」と打ち消すためなのでしょう。

無意識の自己弁護による記憶の捏造がこのオカルティックな現象の原因なのだそうです。

 

(2011年5月30日)

フロイトくらいならまだいいのですが、最近の精神科用語を見ていると頭が痛くなります。
「統合失調症」とか「解離」とか、理解してもらおうというスタンスのネーミングなのか、それとも理解されたくない故のネーミングなのか疑わしい場合もあります。
おっと精神科だけではありません、内科でも同じでした。

たとえば「機能性ディスペプシア」。
こんな病名を宣告されれば誰だって「余命3カ月か?」と焦ってしまうのではないでしょうか。
実はこれは「原因のよく分からない胃腸の不調状態」に付けられた病名です。
以前なら「慢性胃炎」と呼ばれていたものですが、胃カメラで検査をしても炎症が認められないので胃炎と呼ぶには差しさわりがある、という理由で新しく命名されたようです。
それはまあよく分かるのですが、「胃カメラでは正常だけれど何か調子が悪い」という症状にこんな大仰な名前を付けなくってもと思ってしまいます。

それから病名によく付けられている「特発性」、これも非常にスペシャルな語感がありますが、実は「原因がよく分からない」という意味です。
「特発性眩暈」と言われればものすごい難病のように聞こえますが、単に「原因がよく分からないのに目が回る」状態です。
で、「目まい」は原因が分からない場合がほとんどですので、大抵の目まいは「特発性眩暈」という事になって、実情と語感と、かなり印象が異なってきます。

総じて言えるのは「人間は訳の分からないものに大げさな名前を付けたがる」ということでしょうか。(6月1日)

好き嫌いの激しい男は嫌がられますが、ここまでになるとあきれるしかありません。

男「お待たせ、今日は何を食べに行こうか」
女「焼肉が食べたいな」
男「ユッケがあれだけ大問題になったこの時期に焼肉だって? 僕を殺す気か?」
女「焼肉じゃなくてもいいわよ、あなたは何が食べたいの?」
男「焼肉屋に行くと髪の毛や服が臭くなるからいやなんだ」
女「だから何が食べたいの?」
男「考えてみれば焼肉屋って生肉を客の前に出すだけで、実際に作るのは客だぞ。食べ物屋ならちゃんと料理してから出せよ」 
女「はいはい、じゃあ何が食べたいか教えてちょうだい。中華料理? イタリア料理?」
男「ビビンバもそうだ、ちゃんと混ぜてから出して欲しいよな」
女「あなたが焼肉を嫌いなのは分かったから何が食べたいかだけ教えて」
男「大体焼肉屋って、タンはネギを巻いてさっと炙れ、とか講釈もうるさいんだよ」
女「食べたいものがないんなら家でTVゲームでもやってろ」

お粗末なコントでしたー。
タイトルは「内閣不信任案」です。

 

(2011年6月3日)

官邸や東電の「言った言わない」の話題がしばらく新聞紙面を騒がせていました。
「あなた、今日はまっすぐ帰るって言ったでしょ」
「帰れたら帰るって言っただけだよ、急な接待が入ったんだ」
つまり政治や原子力発電所を担うトップが、こういう夫婦の口喧嘩みたいなことをしているわけです。

しかしよく考えてみれば「責任ある決断は自分では下したくない」「不都合な過去はなかったことにしたい」というのは人類に共通する特質で、断言しますが、私もそうです。
問題は政治のリーダーも大企業のトップもそうだという点です。
私たちはこれまで何故か政治家や社長には高邁な道徳性を求めてきました。
何の根拠もなく彼らは清廉であるはずだと思いこんできたわけです。
しかしそろそろ考え方を改めるべきではないでしょうか。

政治、原子力、防衛、司法などについては「上層部が嘘つきでも大きな被害に結び付かない」仕組みを作り上げるべきだと思います。
政治家に「正直さ」という必要でもなければ現実性もないものを求めるよりも、嘘をついたらすぐバレるシステムを早く導入した方がいいと思うのです。

 

(2011年6月6日)

神戸元町ダイアリー2011年(1)東日本大震災<main>神戸元町ダイアリー2011年(3)芦屋と宝塚の違い


神戸元町ダイアリー2011年(1)

あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします。
さて電子ブックですが、全ての機種がまだ1ページ表示を基本とした仕様のようです。
以前から何度も書いていますが、日本の誇るべきコミックという、自由な表現性と高い技術力を共に活かした「片面A4判の見開きタイプ」をいち早く開発して欲しいものです。
そしてその時にはぜひ譜面台に置ける軽さを達成して欲しい。
そうなれば楽譜の電子化も実現します。
すでに楽譜の表示や書き込みが可能なソフトは存在しているようです。
しかし表示されるのがA4判1ページでは普段の練習には全く使えません。
楽器の練習のためには2ページ同時表示が絶対的に必要です。
コミックと楽譜、両方に活用可能な端末が少しでも早く発売されますように。
これが私の今年の初夢です。

 

(2011年1月5日)

やっぱりラーメンとお笑いだと思うのです。
他のジャンルだと人と語り合おうと思った時に、知識の蓄積量や技術レベルの判定力が同等な相手でないと話がかみ合いません。

「あのピッチャーすごいね」
「インコースのストレートの切れ味が抜群だろ」
「一球投げるごとに帽子が落ちるから拾うのが大変そう」
「スライダーのコントロールが今イチなのが難点かな」
「自分にあったサイズの帽子をかぶればいいのに、きっと何でもワンサイズ上のものを買っちゃう人なんだろうね」

とか

「これいい歌だね」
「イントロはLAメタルのパクリすれすれだけど、サビへの持って行き方は懐かしのアイドルポップの定型通りって感じだ」
「切ない歌詞がいいでしょ」
「ひとりぼっちの「ひと」のあとでブレスするのはどうかなあ」
「この人の歌を聞くとホントに元気が出るよ」
「最高音のBの音程が定まればもっと安心して聴けるのに」

でも漫才コンビについて話す時に
「昔いとしこいしがやっていたネタをダウンタウン風にシュールにアレンジした感じだ」
なんて言っても「おっさん引っ込め」と言われるだけですし、ラーメンを食べながら
「豚骨と魚のダブルスープまではまだ普通の発想だけれど、魚系スープから敢えて煮干しを外した試みがいい方向に生きている」
なんて言おうものなら「黙って食え」と言われるのがオチです。

しゃべりの技術が分かっても分からなくても、ラーメンを何百軒も食べ歩きしようとしてなかろうと、お笑いとラーメンだけは老若男女、年齢も肩書も一切関係なく同じ土俵で話できるからすごいと思います。
M1グランプリが終わってちょっと残念だな、というお話でした。

 

(2011年1月7日)

あれから16年が経ちました。
ついさっきまではこの欄で震災にまつわるいろいろな思い出を書こうと思っていたのですが、実際にキーボードに向かうとあの時の記憶が自分の中でまだ客観化されていないことに気づかされました。
いつか客観化される日が来るのでしょうか。

 

(2011年1月17日)

百田尚樹の「ボックス!」を読みました。この人の作品はストレートで熱くて好きです。

読みながら感じさせられたのは、いかに自分が恵まれた立場にいるかということでした。
私たちは小さい頃から「努力すれば必ず報われる」と教わってきました。
しかし現実は違います。
徹夜で試験勉強をしたのに、遊んでばかりいた友だちにテストで負けてしまう。
必死でドリブルの練習をしたのに、レギュラーに選ばれない。
私たちは努力の無力さを実感させられ続けて大人になってきました。

しかし今、大人になって初めて、努力が正当に報われる状況にいます。
簡単な内視鏡手術だと、ベテランの医師よりも小さい頃からTVゲームをやり慣れている若い医師の方が操作が上手だったりします。
しかし診断力については20年の経験を積んだ医師が5年目の医師に負けることは絶対にありません。
音楽でもそうです。ものを言うのは努力の蓄積量だけです。
私もかつては、音楽では努力よりも才能が大切かもしれないと思っていましたが、今ではそれが完全に間違いだと分かっています。
音楽でもおそらくスポーツでも、努力する才能はある。でも努力しないで済む才能というのはあり得ない。

努力が実らず無力感に沈んでいる若い人たちに言いたいです。
早くこっちの世界に来い。努力が正当に認められる世界はちゃんとある。
真っすぐ前だけ見ていればその世界がすぐ目の前に広がっているのが分かるはずだ!

とまあ、そんな風についつい熱くなってしまう、それが「ボックス!」の魅力です。

 

(2011年1月19日)

意外なことに、オーケストラ奏者で声楽曲が好きな人は少数派です。
声楽曲というのは人の声が入った曲全般で、ピアノ伴奏でしっとりと歌われるシューベルトの歌曲も、教会で歌われる讃美歌も、ド派手な演出で上演されるオペラも全てこの範疇に入ります。
そして声楽が好きな少数派がさらに二種類に分かれるような気がします。

オペラが好きな人と、歌曲が好きな人。
なぜかこの両者は相いれないようです。

私がそのどちらに属するかは置いておいて、この週末にこんな演奏会があります。
プログラム2曲目に演奏されるのが、大オペラ作曲家ワーグナーによる歌曲。
なかなか演奏されることのない珍しい曲です。
ワーグナーはちゃんとした歌曲を書いたのでしょうか、それとも小型のオペラを書いたのでしょうか。

 

(2011年2月2日)

歌曲派は「オペラはうるさい」とよく言います。
オペラ派は「歌曲には物語性がないので面白くない」と言います。

実は私はオペラ派なのですが、たとえば本来ならCD3枚組くらいの長さのオペラを1枚に収録した「抜粋版」ならぎりぎり許せます。
しかし「トスカ」から2曲、「ラ・ボエーム」から1曲、などのようなアリア集だと全然聴く気になりません。
詩よりも小説が好きだからなのかな、と勝手に自己解釈していますが本当はどうなのでしょうか。

 

(2011年2月4日)

メモリーカードには容量が明記してあるので進化ぶりがよく分かります。
大体1年で倍になっているような感じです。
スマートフォンを操っている人を見ていると、携帯機器の通信速度の進化具合もよく分かります。

よく分からないのは電池の容量です。
最近では単1とか単2の電池を見ることが少なくなりました。
きっと大抵の電気製品が単3や単4で十分動くようになってきたからでしょうが、それが機械自体の電気効率がよくなったからなのか、電池の容量が増えてきたからなのかよく分からないところです。

よく分からないながらも進化に驚かされるものがあります。
キャリーバッグです。
20年前だったらバッグを3メートルもゴロゴロすれば、あんな小さな車輪はすぐ弾け飛んでいたと思うのです。
いつの間にか金属は硬くしなやかに丈夫になったんだなあ、そう感心させられるのです。

 

(2011年2月16日)

電池の容量の進歩について前回書きましたが、もう一つ進歩して欲しいものがあります。
パソコンや携帯電子機器などのACアダプタです。
交流を直流に変えるために必要と言われて何となく我慢してきましたが、メーカーの人たちはあれをもっと小型にしようという努力はしているのでしょうか。
これだけ技術が進歩しているのにちょっと旅行に行こうと思ったら電子機器の数だけACアダプタを持ち運ばなくてはなりません。
かさばるし重いし互換性もないし、メーカーの人たちは旅行したことがないのかと疑ってしまいます。
機械の必要電圧を自動的に読み取って変圧する汎用型アダプターを開発して、日本の電機メーカーはコネクタを統一してはどうでしょうか。
パソコンだろうと携帯電話だろうとデジカメだろうと音楽プレイヤーだろうと携帯ゲーム機であろうと、日本製であればACアダプタはこれ一つで大丈夫、そういう規格があれば世界市場でも大きなセールスポイントになると思うのですが。

 

(2011年2月18日)

試験問題漏洩(?)事件で京都大学が警察に届け出たことを聞いて驚いた人は多いのではないでしょうか。
東京の大学ならともかく、あの京大ですよ。
カンニングを当局に訴えるなどという無粋なことはしないと思い込んでいたのですが、私の勝手なイメージだったのでしょうか。
京大ならてっきりカンニング犯に挑戦状を叩きつけるものと思っていました。

受験生は電子機器を持ち込んでもいいが試験時間中は電源を切ってカバンに入れる、という前提のもとで、

1)大学側は在学生と教官共同でハイパーカンニング対策チームを作る。
2)対策チームは教室内には立ち入らないでカンニング犯の座標特定を行う。
3)特定された受験生が電子機器を身に着けていた場合、もしくはカバンに入れていても電源を切っていなかった場合、その時点でカンニングと見なし失格とする。
4)金属探知機の使用や監視員による無差別的な持ち物検査は行わない、あくまでも摘発は教室外からの座標特定のみによるものとする。
5)この条件でなお学外と情報をやり取りし得た場合は正当な受験と見なす。

工学系レベルに自信のある大学ならこう取り決めた方がかっこいいと思います。

 

(2011年3月2日)

携帯電子機器はどんどん小型高性能化し、通信システムもどんどん進化しています。
検索エンジンを使えば日常のちょっとした疑問はすぐ解決します。
こうした状況ではカンニングに対する抵抗感が小さくなるのも当然かもしれません。

しかし受験生に言いたいのは、カンニングしてまでしがみつくような試験はないということです。
前にも書いたことがありますが、努力を続けていればちゃんと報われるような時代がやってきます。
若い頃には理不尽な選別に苦しむこともありますが、真っ当な努力こそが実を結び……、

などと書きながらふと思いつきました。

医師国家試験は大丈夫でしょうか。

 

(2011年3月4日)

毎年恒例の芦屋市民オペラですが、終演後歌手のみなさんと一緒に募金をよびかけることになりました。
芦屋市民オペラも阪神・淡路大震災からの復興を願って企画された催しです。
音楽の力を信じる多くの人の協力のおかげで第10回まで続けることができました。
被害に遭われた方々にまだ音楽を楽しむ余裕はないでしょう。
実際芦屋市民オペラが動き出したのも震災6年目のことでした。
しかし私たちは信じています。
いつか音楽の喜びを分かち合える日が来ることを。

ご協力をお願いします。

 

(2011年3月14日)

あちこちで募金の呼びかけが行われています。
16年前には全国の人たちの善意に本当に助けられました。
精いっぱいの恩返しをしたいと思います。

と言いながら、我ながら浅ましいのですが、街頭募金の真正さを疑う自分がいて恥ずかしい限りです。
集まったお金を間違いなく100%被災地に届けてくれる、そういう団体を選びたいと思ってしまうのです。

21日の公演では募金の場に 芦屋市職員に立ち会ってもらって、集まったお金はそのまま芦屋市経由で被災地に届けられます。
安心してご協力ください。

 

(2011年3月16日)

献血を通じて被災地の人を支えようという考え方もあります。
実際に神戸の献血ルームにも大勢の方が来られているそうです。
ところが輸血用の血液には使用期限があります。
また一度献血すると献血の種類によって異なりますが一定期間献血できなくなります。
今献血する人が集中してしまうと、今度は4月、5月に輸血用の血液が不足することになります。
献血を考えている人は2週間から2か月我慢して、その間しっかり栄養を取っていい血液を作ることに専念した方がいいと思います。

 

(2011年3月18日)

3月21日は大勢の方が募金に協力してくださいました。
本当にありがとうございました。

驚いたのは「信用できる募金の場を与えてくれてありがとう」と逆に感謝されたことです。
やはりみなさん、募金はしたいけれどどこを信用していいか分からなくて困っていたようです。

さて集まったお金ですが、今はとにかく行方不明の方々の捜索を第一優先に使って欲しい。
次の段階では被災者が必要とする物資に使って欲しい。
そしてさらに次の段階では復興のために使って欲しい。

それぞれのタイミングで最も有効な協力ができるように今のうちにベストな募金先を探しておくのも私たちの役割かもしれません。

 

(2011年3月23日)

オペラの打ち上げのあと、歌手の方々とカラオケに行きました。
プロの歌手にカラオケを歌ってもらおうなどと大それたことを企んだわけではありません。
公演の録画をカラオケ店のモニターに映して早速の上映会を行おうと思ったのです。
ところが端子の関係でビデオカメラが店のモニターに接続できず、上映会が行えなくなってしまいました。
本業の方に「歌ってくれ」と頼むわけにもいかず、さあ困ってしまいした。

困り果てる私を助けるかのように歌手のみなさんが曲を予約し始めました。

いえ、私の困惑など関係なかったようです。
がんがん予約を入れてマイクを奪いあうようにがんがん歌っていきます。
クラシックの声楽家がカラオケなど歌うはずがない、というのは私の単なる思い込みだったようです。
結局歌手のみなさんは4時間歌い続けました。

ちなみに全曲アニメソングでした。
それにしてもいいものを聴かせてもらいました。

 

(2011年3月25日)

整形外科ほどではありませんが、胃腸科も検査や治療のために放射線を浴びる機会が多い科です。
ですから「シーベルト」という単位は分かるのですが、「ベクレル」という単位には耳馴染みがありませんでした。
「シーベルト」がその場に飛び交っている放射線の強さを表す単位とするなら、ある物質がどれだけ放射線を発するかを表すのが「ベクレル」です。
「ベクレル」は主に水や食物への付着物質に関して使われていますから、ものすごく簡略化するならば、人体を外から蝕むのが「シーベルト」で中から傷つけるのが「ベクレル」という理解でいいと思います。

原発関連のニュースで難しいのは「シーベルト」と「ベクレル」の単位の互換が簡単でないところだと思います。
「ベクレル」値が同じでも元素によって発する放射線の種類が違うし、半減期も違います。
野菜によって元素の取り込み方も違えば、人の身体でも年齢や性別によって危険度が大きく異なります。
「シーベルト」なら単純に数字が大きい方が危険と考えて間違いないですが、「ベクレル」の場合はそうとは限らないのです。

本当は専門家がフローチャートを作ってくれるといいと思います。
指示に従って性別、年齢、居住地、その場への居住予定期間、食生活などなどを入力していけば、目の前にある水を飲んでもいいかどうかを判定してくれるのです。
と言いながら、一番重要な変数「原発がいつまで放射性物質を放射し続けるのか」という項目が分からないのでした。

なるほど「当面は大丈夫」みたいな言い方しかできないわけですね。

 

(2011年3月28日)

スーパーに行ってもコンビニに行っても様々な商品が棚から消えています。
買い占めの影響もありますが、多くは製造業が大打撃を受けているのが原因です。
医薬品も例外ではありませんでした。
一部の薬が手に入りにくくなっています。
かかりつけの方の最低限の薬は確保しておりますが、長期処方の希望に添えない場合があります。
ご了承ください。

 

(2011年3月30日)

神戸元町ダイアリー2010年(4)尖閣諸島問題<main>神戸元町ダイアリー2011年(2)元町映画館


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