海外の長篇小説、ようやくベスト10に突入です。
2010年に始めたこの企画、元号が変わるまでに完結するのでしょうか?
ヒョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー「悪霊」(光文社古典新訳文庫)

(1)
何となく難しそうなドストエフスキーの小説の中でも、この「悪霊」は断トツで謎めいています。
まずおどろおどろしいのが巻頭に置かれたこのエピグラフです。
ルカ福音書からの一節です。
そこに、山に、かなり多くの豚の群れが飼われていた。
そこで悪霊どもは彼に、その豚の中に入るのを許してくれるように、と頼んだ。
イエスが彼らに許すと、悪霊どもはその人から出て行って、豚の中に入った。
そして豚の群れは走り出した。崖から湖へと。そして溺れた。
飼う者たちは起こったことを見て、逃げ、町や農家などで話を告げた。
そして、起こったことを見に、出て来た。
そしてイエスのもとに来て、その人から悪霊がすでに出て行って、衣を着て正気になってイエスの足もとに座っているのを見た。
そして恐れた。(田川健三訳)
(2018年2月7日)
(2)
こんなものが置かれている以上、私たちは「悪霊」の物語をこれに沿って読まなくてはなりません。
「悪霊」はドストエフスキーが書いた中で最も大勢の人が死ぬ小説です。
革命家たちの話ですから彼らが死んでいくのはある程度予測できるとしても、その本筋とは離れたところに身を置いているあの人も死んでしまうし、牧歌的存在のあの人まで死んでしまいます。
みんなが死んで、小説は終わります。
不思議です。
前回書き写していて思ったのですが、それならエピグラフは前半部分だけでもいいのです。
いや、むしろ後半は邪魔です。
だって物語には「悪霊に取りつかれていた人が正気に戻る」シーンなんて出てきませんから。
あるいは小説で前半部分だけ描いて、現実社会で起こるべき後半部分を予言したのでしょうか。
そうだとすればドストエフスキーの予言は大ハズレだったとしか言いようがありません。
「悪霊」が書かれてそろそろ150年が経とうとしていますが、ロシアはもちろん、世界も一瞬たりとも正気に戻ったことはありませんから。
(2018年2月9日)
(3)
しかしドストエフスキーの予言がはずれるのは、ある意味当然です。
この小説では革命家たちが描かれますが、革命については一切語られません。
ロシアとは何か、とか、神はいるのか、については語られても「何のためにどうやって革命を起こすのか」については誰も話しません。
ほんのちょっとくらい、雑談程度にでも触れてくれないかな、と思いましたが、誰一人としてしゃべってくれません。
ここまでかたくなに口を鎖(とざ)すとなると、やっぱり思ってしまいます。
ドストエフスキーは革命に興味なんてなかったんだ
と。
革命に興味を持たずしてロシアを、世界を予言するのは不可能です。
もちろんこのエピグラフが予言でなかった可能性もあります。
構想段階ではエピグラフに従って進行するはずだったのに、執筆中に気が変わってしまった……、ドストエフスキーに限らず、長篇小説ではよくあることです。
「ドストエフスキーは聖書のあの部分に強い感銘を受けたらしい……」
くらいに思っておくのがちょうどいいと思います。
(2018年2月14日)
(4)
解説書を見ると難解だと書いてあるし、巻頭言もおどろおどろしい。
どんな奇書だろうと思って読み始めると、さえない中年男の話がだらだら続きます。
だらだら続く、って10ページや20ページじゃないんです。
これといって取り柄のない、自意識過剰のおっさんの話が延々と、いつまでも、果てしなく続くのです。
何と75ページ!
「悪霊」にチャレンジする人はたいていこの部分でつまづいてしまいます。
だって全然面白くないんですから。
「悪霊」は、実は、「難解」というよりも「不親切な」小説です。
回収されない伏線は多数。
説明されない裏設定も山のよう。
一回読んだだけではどんな物語か把握するのは不可能です。
ですから冒頭の75ページなんかすっ飛ばかして、ピョートルが登場するところから読み始めるのがお勧めです。
これで十分「悪霊」っぽい雰囲気は味わえます。
(2018年2月16日)
(5)
ですが、試しに今回は違った読み方をしてみました。
「悪霊」を、中年男女の不器用な恋の物語として読むことは可能か?
それが今回の読み直しのテーマでした。
あり得ます。
若者たちはうじうじ悩んでばかりで、ストーリー展開には一切寄与しません。
物語を動かすのは一人、ピョートルだけです。
それならば「悪霊」という言葉のイメージやエピグラフのおどろおどろしさから解放された読み方も可能ではないか、そう考えたのです。
この読み方に従えば「悪霊」はこういうお話になります。
ワルワーラに養われているステパン。
当初は知的お飾りとして雇われた彼ですが、空気を読まなかったり、分をわきまえないことをしでかすたびに手厳しくしつけられて、今ではすっかりペットのような扱いです。
そんな彼がワルワーラに持ち掛けられた縁談をぶち壊し、さらにチャリティのお祭りで舞い上がって会を混乱に陥れてしまいます。
ワルワーラは激怒し、それを恐れたステパンは家出をして、その旅先で病に倒れます。
ステパンの元にワルワーラが駆けつけてきます。
さあ、ステパンはワルワーラに許してもらえるのでしょうか?
(2018年2月19日)
(6)
三分の一ほどまではこの読み方でも面白いです。
むしろ「この読み方の方が面白い」とさえ言ってもいいくらいです。
ところが中間部に突入すると、ステパンがすっかり色あせてしまいます。
原因は息子ピョートルです。
彼は持って生まれた「人たらし」の能力で、目をつけた人には取り入って、味方につけ、自由に操ります。
逆に旧世代の人間は徹底的に馬鹿にします。
父親を、知事を、大作家を、あざけってさんざんになぶりものにします。
そのおちょくり方が、小憎たらしくて残酷で、その悪辣さの前には好々爺ステパンなんてあっという間にかすんでしまうのです。
実は彼には目標などありません。
彼が望むのはただ、混沌、です。
彼が革命家たちとつるんでいるのは、革命が新社会を作るからではありません、社会を混沌に陥れるからです。
とにかくあらゆるものを引っ掻き回してぐちゃぐちゃにしたい、彼はその欲求のために人に近づき、人をおちょくります。
シャートフとスタヴローギンの間で哲学的会話が交わされたりもしますが、正直言ってどうでもいいです。
中間部の面白さを担っているのは「混沌の猿」ピョートルのバイタリティです。
(2018年2月21日)
(7)
さて問題の終盤です。
個人的にはピョートルくんがこのままいろんなものをぶち壊し続けてくれると最高でした。
あるいはステパンにもう一度スポットライトが当たっても面白かったと思います。
いや、スポットライトは当たったのですが、別の登場人物のおかげでまたまた全てがかすんでしまいました。
言うまでもなく、スタヴローギンです。
「悪霊」の謎めき度の99%はこのスタヴローギンが担っています。
まず過去がよく分からない。
それから今も、何がしたいのかよく分からない。
大ヒントとして「告白」も読者に提示されますが、あんまり理解に役立ちません。
「告白」では彼が過去に犯した大きな罪が明らかになります。
この罪のせいで俺は常に死を望むようになった……、
という告白であれば非常に分かりやすいです。
しかしそうではありません。
この事件の前からスヴローギンは捨て鉢でしたし、この事件のあとも一ミリも変わらず捨て鉢です。
(2018年2月23日)
(8)
スタヴローギンは闇を抱えているとよく言われます。
これは間違いです。
彼は空っぽなやつです。
何にも抱えていません。
闇すら抱えていません。
スタヴローギンの「告白」が謎めいているとよく言われますが、何が謎かといって、何のためにこんなものを書いたのかがさっぱり謎です。
これを書くことによって赦しを得たい、そんな意味の言葉を、確かに彼は言います。
言葉は立派ですが、しかし肝心の行動が無茶苦茶です。
この時点で彼は妻殺しに加担しています、さらに別に二人の女性に二股をかけています。
赦される片っ端から罪を犯す気満々です。
新たな罪を犯したいから過去の罪を一つ帳消しにしておきたい、まるでタンスがいっぱいになったから着なくなった服を捨てよう、みたいなノリです。
チーホンもご立派です。
普通なら「赦されたいなら行いを改めなさい」と一喝するところです。
ところが彼はこう言います。
「そんな無茶な願いを聞き届けてくれるほど神様が寛大で偉大だと信じているのか、信心深いやつじゃ」
親鸞上人も赤面する大らかさです。
(2018年2月26日)
(9)
結局「悪霊」で一番謎なのは「スタヴローギンばかりなぜモテる?」というところだと思います。
若い女性の登場人物で、スタヴローギンにたぶらかされなかったのはソフィア(スタヴローギンと会っていないから当たり前ですが)だけです。
イケメンなので女性が惚れてしまうのは仕方がないとして、解せないのは「混沌の猿」ピョートルまで心酔しきっていることです。
ニヒルさと寂しさの危ういバランスが、女性の母性本能をくすぐり、ピョートルには得体のしれないカリスマ性に見えたのでしょう。
スタヴローギンを一言で表すなら「小説を書かない太宰治」です。
最後、自分一人で人生に決着をつけた点は太宰よりちょっとだけ立派だったと思います。
(2018年2月28日)
(10)
ところで2月7日のこの欄を読んで、違和感を覚えた方がおられると思います。
ルカ福音書からの引用です。
何というごつごつとした文章でしょう。
とっつきにくく、武骨で、洗練とは対極にある、日本語として成立しているかどうかも微妙な文章です。
田川健三氏による翻訳です。

「悪霊」について書き始めた時、ちょうど読んでいたのが田川氏の「新約聖書 訳と註〜ルカ福音書」でした。
タイミングがぴったりだったので引用しました。
これはものすごい本です。
(2018年3月2日)
(11)
新約聖書はギリシャ語で書かれています。
古い書物ですし、欠落もあります。
そもそも現存しているもの自体が、ルカが書いた文章を信者たちが書き写し、さらにそれを別の教徒が写し、さらに別の信徒が書写し、つまり手書きコピーを何代も経たものです。
田川氏は文字通り「一語ずつ」調べて、ルカがどう書いたのか、明らかにしようとします。
想像を絶する作業です。
様々なバージョンの写本を比べ、同時代のギリシャの文献から言葉の意味や用法を推測し、大勢の聖書学者の学説を参考にして、真実のルカに近づこうとします。
基本的な姿勢としては、ルカが書いたように訳す、です。
ルカがごつごつとした文章を書いたならごつごつと訳す。
ルカの文章が意味不明なら意味不明なまま読者に提示する。
あの文章はその結果の翻訳なのでした。
(2018年3月5日)
(12)
その結果「ルカ福音書」は500ページの大著となりました。
本文は80ページ。
それに対して注釈は400ページ超。
学術的で無味乾燥で退屈な本かと思われるかもしれません。
しかしこれがむっちゃくっちゃに面白いのです。
プロレスでいうと、ルール無用のマスク剥ぎデスマッチです。
田川氏はまず岩波訳を切り捨てます。
「こんな拙い訳を今さら相手にする必要はないのだが」
と言いつつうしろからばっさり切りつけます。しかも何度も何度も。
日本語の文語訳、口語訳、新共同訳も「何も考えずに英語訳を丸写しするんじゃなく、ちゃんとギリシャ語から翻訳しろよ」と一刀両断。
特に新共同訳については「読者をなめた訳語をつけるよりもまず自分たちの日本語能力を反省しろ」とこてんぱんです。
もちろん海外の翻訳についてもボロクソです。
そしてその悪口はルカ本人にもぶつけられます。
「知ったかぶりするな、思いついたことをテキトーに書くな、書きっぱなしじゃなくてもっと推敲しろ!」
まさに「悪口の聖書」。
意地の悪い人必読の書です。
(2018年3月7日)