海外の長編小説ベスト100〜第7位

ハーマン・メルヴィル「白鯨」(岩波文庫)

 

 

読んだのは3年前です。

わざわざどうして順番を入れ替えて3年前に読んだのかというと、こんな映画があったのでした。

 

 

 

2015年のアメリカ映画です。

 

これは「白鯨」を実写化したものではなく、小説「白鯨」の元ネタである海難事故を描いた映画です。

 

なので「白鯨」的な部分はごく一部です。

 

「どれどれ「白鯨」をどんな風に映像化してるのかな」、などと思って観ると完全に肩透かしを食らいます。

 

結果的にはこの映画を観るためにあわてて「白鯨」を読む必要はありませんでしたし、ついでに言うと映画自体も、わざわざ観るほどのものでもありませんでした。

(2019年2月22日)

 

さて、メルヴィルの「白鯨」です。

 

これもずいぶん変わった小説です。

この世にはいろんな「変わった小説」がありますから、

 

1)最初は若者イシュメールの一人称語りで始まったのに、いつ間にかイシュメールは消えて三人称語りになってしまう

 

のを見ても腰を抜かしたりはしません。

WEB上にあふれている小説のほとんどはそんな感じですし。

 

2)1300ページのうちの半分は「クジラ学」とも言うべきクジラにまつわる蘊蓄に占められている

 

のにもびっくりしません。

「レ・ミゼラブル」もそれに近い感じでした。

 

3)モービィ・ディックが登場するのは残り100ページを切ってから

 

というのにも驚きません。

カフカに比べると何らかの結末があるだけでもましな方です。

(2019年2月25日)

 

腰を抜かして驚いたのは、各巻の頭に置かれている参考地図と人物紹介です(岩波文庫)。

 

人物紹介欄では誰がいつどうやって死ぬか詳しく書かれています。

地図はご丁寧にもピークオッド号がどこでどういう運命をたどるか図示してくれています。

 

人が小説のページをめくるのは何のためか、という根源的理由を理解しない愚行です。

岩波文庫は小説の面白さや楽しさを知らない人が作っているようです。

 

今回「白鯨」の感想を書くにあたってもう一度読み直すべきか迷いました。

本を手に取って地図と人物紹介を見て、読み直すのをやめました。

だってこんな連中と同じ船で旅をしたくないですから。

(2019年2月27日)

 


海外の長篇小説ベスト100〜第9位

フランツ・カフカ「審判」(新潮文庫)

 

 

第9位にカフカの不条理ものがランクインです。

 

私はカフカが嫌いで、もしかすると好きになるかもしれないと思って

 

 

こういうのも読みましたが、結局もっと嫌いになっただけでした。

カフカを面白いと感じるためには、高い知能、豊かな想像力、鋭い批評意識が必要だという人もいます。

 

「不条理な現実に苦しめられているのに、何を好き好んで不条理な物語を読まないといけないのか」

 

みたいな考え方の人には理解できない小説ということです。

(2018年5月14日)

 

カフカが好きな人が存在すること自体は、全然OKです。

ものすごくいやな気分になるのは、若い人たちの感想文の中にこういう文章をちょくちょく見かけることです。

 

「私の読解力が足りないせいか、面白さが分からなかった」

 

若いあなた、カフカが面白くないのはあなたのせいではありません。

100%カフカが悪いです。それプラス900%悪いのは、カフカが分からないと一人前じゃないみたいな雰囲気を漂わせている大人たちです。

カフカがつまらないと感じるあなたの読解力は10000%正しいです。

 

感想を書いている若者の中には、一生懸命に考えてカフカのよさを見出そうとしている人もいます。

しかし! せっかくの素直な感受性をカフカなんかでゆがめて欲しくないです。

不条理ものが流行ったのは大昔です。

私もその時には「不条理、かっこいい!」と心の底から思っていました。

今思い返せばロンドンブーツとラッパズボンみたいなもので、死ぬほど恥ずかしいです。

カフカを持ち上げるのは、恥ずかしかった自分を覆い隠したい大人だけです。

恥ずかしそうに「カフカなんかにはまったこともあったよなあ」とつぶやくのが、真っ当な大人の態度です。

 

この時代、わざわざカフカを読むくらいならサラリーマン山崎シゲルを読んだ方がましだと思います。

(2018年5月16日)


海外の長篇小説ベスト100〜第10位

海外の長篇小説、ようやくベスト10に突入です。

2010年に始めたこの企画、元号が変わるまでに完結するのでしょうか?

 

ヒョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー「悪霊」(光文社古典新訳文庫)

 

 

(1)

 

何となく難しそうなドストエフスキーの小説の中でも、この「悪霊」は断トツで謎めいています。

まずおどろおどろしいのが巻頭に置かれたこのエピグラフです。

ルカ福音書からの一節です。

 

そこに、山に、かなり多くの豚の群れが飼われていた。

そこで悪霊どもは彼に、その豚の中に入るのを許してくれるように、と頼んだ。

イエスが彼らに許すと、悪霊どもはその人から出て行って、豚の中に入った。

そして豚の群れは走り出した。崖から湖へと。そして溺れた。

飼う者たちは起こったことを見て、逃げ、町や農家などで話を告げた。

そして、起こったことを見に、出て来た。

そしてイエスのもとに来て、その人から悪霊がすでに出て行って、衣を着て正気になってイエスの足もとに座っているのを見た。

そして恐れた。(田川健三訳)

(2018年2月7日)

 

(2)

 

こんなものが置かれている以上、私たちは「悪霊」の物語をこれに沿って読まなくてはなりません。

 

「悪霊」はドストエフスキーが書いた中で最も大勢の人が死ぬ小説です。

革命家たちの話ですから彼らが死んでいくのはある程度予測できるとしても、その本筋とは離れたところに身を置いているあの人も死んでしまうし、牧歌的存在のあの人まで死んでしまいます。

 

みんなが死んで、小説は終わります。

 

不思議です。

前回書き写していて思ったのですが、それならエピグラフは前半部分だけでもいいのです。

いや、むしろ後半は邪魔です。

だって物語には「悪霊に取りつかれていた人が正気に戻る」シーンなんて出てきませんから。

あるいは小説で前半部分だけ描いて、現実社会で起こるべき後半部分を予言したのでしょうか。

 

そうだとすればドストエフスキーの予言は大ハズレだったとしか言いようがありません。

「悪霊」が書かれてそろそろ150年が経とうとしていますが、ロシアはもちろん、世界も一瞬たりとも正気に戻ったことはありませんから。

(2018年2月9日)

 

(3)

 

しかしドストエフスキーの予言がはずれるのは、ある意味当然です。

 

この小説では革命家たちが描かれますが、革命については一切語られません。

ロシアとは何か、とか、神はいるのか、については語られても「何のためにどうやって革命を起こすのか」については誰も話しません。

ほんのちょっとくらい、雑談程度にでも触れてくれないかな、と思いましたが、誰一人としてしゃべってくれません。

ここまでかたくなに口を鎖(とざ)すとなると、やっぱり思ってしまいます。

 

ドストエフスキーは革命に興味なんてなかったんだ

 

と。

革命に興味を持たずしてロシアを、世界を予言するのは不可能です。

 

もちろんこのエピグラフが予言でなかった可能性もあります。

構想段階ではエピグラフに従って進行するはずだったのに、執筆中に気が変わってしまった……、ドストエフスキーに限らず、長篇小説ではよくあることです。

 

「ドストエフスキーは聖書のあの部分に強い感銘を受けたらしい……」

くらいに思っておくのがちょうどいいと思います。

(2018年2月14日)

 

(4)

 

解説書を見ると難解だと書いてあるし、巻頭言もおどろおどろしい。

どんな奇書だろうと思って読み始めると、さえない中年男の話がだらだら続きます。

 

だらだら続く、って10ページや20ページじゃないんです。

これといって取り柄のない、自意識過剰のおっさんの話が延々と、いつまでも、果てしなく続くのです。

 

何と75ページ!

 

「悪霊」にチャレンジする人はたいていこの部分でつまづいてしまいます。

だって全然面白くないんですから。

「悪霊」は、実は、「難解」というよりも「不親切な」小説です。

回収されない伏線は多数。

説明されない裏設定も山のよう。

一回読んだだけではどんな物語か把握するのは不可能です。

 

ですから冒頭の75ページなんかすっ飛ばかして、ピョートルが登場するところから読み始めるのがお勧めです。

これで十分「悪霊」っぽい雰囲気は味わえます。

(2018年2月16日)

 

(5)

 

ですが、試しに今回は違った読み方をしてみました。

 

「悪霊」を、中年男女の不器用な恋の物語として読むことは可能か?

 

それが今回の読み直しのテーマでした。

 

あり得ます。

若者たちはうじうじ悩んでばかりで、ストーリー展開には一切寄与しません。

物語を動かすのは一人、ピョートルだけです。

それならば「悪霊」という言葉のイメージやエピグラフのおどろおどろしさから解放された読み方も可能ではないか、そう考えたのです。

 

この読み方に従えば「悪霊」はこういうお話になります。

 

ワルワーラに養われているステパン。

当初は知的お飾りとして雇われた彼ですが、空気を読まなかったり、分をわきまえないことをしでかすたびに手厳しくしつけられて、今ではすっかりペットのような扱いです。

そんな彼がワルワーラに持ち掛けられた縁談をぶち壊し、さらにチャリティのお祭りで舞い上がって会を混乱に陥れてしまいます。

ワルワーラは激怒し、それを恐れたステパンは家出をして、その旅先で病に倒れます。

ステパンの元にワルワーラが駆けつけてきます。

さあ、ステパンはワルワーラに許してもらえるのでしょうか?

(2018年2月19日)

 

(6)

 

三分の一ほどまではこの読み方でも面白いです。

むしろ「この読み方の方が面白い」とさえ言ってもいいくらいです。

 

ところが中間部に突入すると、ステパンがすっかり色あせてしまいます。

 

原因は息子ピョートルです。

彼は持って生まれた「人たらし」の能力で、目をつけた人には取り入って、味方につけ、自由に操ります。

逆に旧世代の人間は徹底的に馬鹿にします。

父親を、知事を、大作家を、あざけってさんざんになぶりものにします。

そのおちょくり方が、小憎たらしくて残酷で、その悪辣さの前には好々爺ステパンなんてあっという間にかすんでしまうのです。

 

実は彼には目標などありません。

彼が望むのはただ、混沌、です。

彼が革命家たちとつるんでいるのは、革命が新社会を作るからではありません、社会を混沌に陥れるからです。

とにかくあらゆるものを引っ掻き回してぐちゃぐちゃにしたい、彼はその欲求のために人に近づき、人をおちょくります。

 

シャートフとスタヴローギンの間で哲学的会話が交わされたりもしますが、正直言ってどうでもいいです。

中間部の面白さを担っているのは「混沌の猿」ピョートルのバイタリティです。

(2018年2月21日)

 

(7)

 

さて問題の終盤です。

 

個人的にはピョートルくんがこのままいろんなものをぶち壊し続けてくれると最高でした。

あるいはステパンにもう一度スポットライトが当たっても面白かったと思います。

いや、スポットライトは当たったのですが、別の登場人物のおかげでまたまた全てがかすんでしまいました。

 

言うまでもなく、スタヴローギンです。

 

「悪霊」の謎めき度の99%はこのスタヴローギンが担っています。

まず過去がよく分からない。

それから今も、何がしたいのかよく分からない。

大ヒントとして「告白」も読者に提示されますが、あんまり理解に役立ちません。

「告白」では彼が過去に犯した大きな罪が明らかになります。

 

この罪のせいで俺は常に死を望むようになった……、

 

という告白であれば非常に分かりやすいです。

しかしそうではありません。

この事件の前からスヴローギンは捨て鉢でしたし、この事件のあとも一ミリも変わらず捨て鉢です。

(2018年2月23日)

 

(8)

 

スタヴローギンは闇を抱えているとよく言われます。

 

これは間違いです。

彼は空っぽなやつです。

何にも抱えていません。

闇すら抱えていません。

 

スタヴローギンの「告白」が謎めいているとよく言われますが、何が謎かといって、何のためにこんなものを書いたのかがさっぱり謎です。

これを書くことによって赦しを得たい、そんな意味の言葉を、確かに彼は言います。

言葉は立派ですが、しかし肝心の行動が無茶苦茶です。

この時点で彼は妻殺しに加担しています、さらに別に二人の女性に二股をかけています。

赦される片っ端から罪を犯す気満々です。

新たな罪を犯したいから過去の罪を一つ帳消しにしておきたい、まるでタンスがいっぱいになったから着なくなった服を捨てよう、みたいなノリです。

 

チーホンもご立派です。

普通なら「赦されたいなら行いを改めなさい」と一喝するところです。

ところが彼はこう言います。

「そんな無茶な願いを聞き届けてくれるほど神様が寛大で偉大だと信じているのか、信心深いやつじゃ」

 

親鸞上人も赤面する大らかさです。

(2018年2月26日)

 

(9)

 

結局「悪霊」で一番謎なのは「スタヴローギンばかりなぜモテる?」というところだと思います。

 

若い女性の登場人物で、スタヴローギンにたぶらかされなかったのはソフィア(スタヴローギンと会っていないから当たり前ですが)だけです。

イケメンなので女性が惚れてしまうのは仕方がないとして、解せないのは「混沌の猿」ピョートルまで心酔しきっていることです。

ニヒルさと寂しさの危ういバランスが、女性の母性本能をくすぐり、ピョートルには得体のしれないカリスマ性に見えたのでしょう。

 

スタヴローギンを一言で表すなら「小説を書かない太宰治」です。

最後、自分一人で人生に決着をつけた点は太宰よりちょっとだけ立派だったと思います。

(2018年2月28日)

 

(10)

 

ところで2月7日のこの欄を読んで、違和感を覚えた方がおられると思います。

ルカ福音書からの引用です。

 

何というごつごつとした文章でしょう。

とっつきにくく、武骨で、洗練とは対極にある、日本語として成立しているかどうかも微妙な文章です。

田川健三氏による翻訳です。

 

 

「悪霊」について書き始めた時、ちょうど読んでいたのが田川氏の「新約聖書 訳と註〜ルカ福音書」でした。

タイミングがぴったりだったので引用しました。

 

これはものすごい本です。

(2018年3月2日)

 

(11)

 

新約聖書はギリシャ語で書かれています。

 

古い書物ですし、欠落もあります。

そもそも現存しているもの自体が、ルカが書いた文章を信者たちが書き写し、さらにそれを別の教徒が写し、さらに別の信徒が書写し、つまり手書きコピーを何代も経たものです。

 

田川氏は文字通り「一語ずつ」調べて、ルカがどう書いたのか、明らかにしようとします。

想像を絶する作業です。

様々なバージョンの写本を比べ、同時代のギリシャの文献から言葉の意味や用法を推測し、大勢の聖書学者の学説を参考にして、真実のルカに近づこうとします。

基本的な姿勢としては、ルカが書いたように訳す、です。

 

ルカがごつごつとした文章を書いたならごつごつと訳す。

ルカの文章が意味不明なら意味不明なまま読者に提示する。

 

あの文章はその結果の翻訳なのでした。

(2018年3月5日)

 

(12)

 

その結果「ルカ福音書」は500ページの大著となりました。

 

本文は80ページ。

それに対して注釈は400ページ超。

 

学術的で無味乾燥で退屈な本かと思われるかもしれません。

しかしこれがむっちゃくっちゃに面白いのです。

プロレスでいうと、ルール無用のマスク剥ぎデスマッチです。

 

田川氏はまず岩波訳を切り捨てます。

「こんな拙い訳を今さら相手にする必要はないのだが」

と言いつつうしろからばっさり切りつけます。しかも何度も何度も。

日本語の文語訳、口語訳、新共同訳も「何も考えずに英語訳を丸写しするんじゃなく、ちゃんとギリシャ語から翻訳しろよ」と一刀両断。

特に新共同訳については「読者をなめた訳語をつけるよりもまず自分たちの日本語能力を反省しろ」とこてんぱんです。

 

もちろん海外の翻訳についてもボロクソです。

そしてその悪口はルカ本人にもぶつけられます。

「知ったかぶりするな、思いついたことをテキトーに書くな、書きっぱなしじゃなくてもっと推敲しろ!」

 

まさに「悪口の聖書」。

意地の悪い人必読の書です。

(2018年3月7日)

 


海外の長篇小説第11位、12位

第11位

 

エミリー・ブロンテ「嵐が丘」(光文社古典新訳文庫)

 

 

昔読んだ時にはその荒々しさに圧倒されたものです。

ヒースクリフとキャサリンとの関係は「魂の結びつき」とでも表現する以外に説明のつかないものです。

「愛」とか「恋」とか、尋常な恋愛関係とは全く別次元の感情ベクトルです。

その激情によって生み出されるドラマに翻弄されて、かつての私は「業(ごう)」とか「執念」とか、言葉にならないイメージに激しく揺さぶられたのでした。

 

今読んでみると、ヒースクリフの感情はいっさい描写されていません。これには驚きました。

彼に感情移入するにはかなりの脳内補完が必要です。

その努力をなしとげた人だけに与えられる、愛を越えた魂のドラマなのだと思います。

(2017年7月19日)

 

しかし脳内補完が苦手な人にとっては、物足りないところもあります。

「嵐が丘」とはどんな話かというと、

 

捨て子ヒースクリフは育ての親の元で娘キャサリンと恋に落ちます。

しかし身分の違いのためにキャサリンは他の男と結婚してしまいます。

恋に破れたヒースクリフは姿を消し、数年後大金持ちになって現れます。

まず育ての親一家を乗っ取り、次にキャサリンの嫁ぎ先にも接近します。

ヒースクリフの、二代に渡る壮大な復讐劇が始まったのです。

 

このあらすじを読んで、一番気になるのは「ヒースクリフはどうやって金持ちになったのか」という点だと思います。

家柄も財産もない失恋男が、見知らぬ土地で一念発起して、あるいは犯罪に手を染めて、大金持ちになる。

普通の小説であれば、一番ワクワクする部分です。

ところがそこは一切描かれません。

 

次に気になるのは「育ての親一家をどうやって乗っ取ったのか」という点です。

乗っ取りについては、一家の当主をギャンブルに引きずり込んで全財産を巻き上げたらしいです。

しかし一家の当主はヒースクリフを毛嫌いしていました。

毛嫌いしていた人物に怪しい賭け事に誘われて、ほいほい乗る人がいるでしょうか?

どうやって信頼を勝ち得て、どうやって賭けに引きずり込んで、どうやって全財産を騙し取ったのでしょうか。

本来なら一番ドキドキする部分です。

ところがそこは一切描かれません。

 

「嵐が丘」を楽しむには、他の小説の三十倍くらい脳内補完する覚悟が必要だと思います。

(2017年7月21日)

 

第12位

 

レフ・トルストイ「戦争と平和」(岩波文庫)

 

 

(1)

 

今「長篇小説」の代名詞といえば、何でしょう。

20世紀にはこれでした。

長篇小説と言えば100人中100人が「戦争と平和」と答えたものです。

 

今でも思い出します。

高校の国語の先生が遠い目をしながら「『戦争と平和』という小説があってね」とつぶやいたことがあります。

 

「ニヒルなアンドレイ、熱血漢のピョートル、彼らがトルストイの手にかかると、生き生きと動くんだよ……」


授業の合間にふと漏らした感想というか、雑談というか、そんな感じの言葉でした。

ところが学生にはそんな言葉の方が心にしみたりして、友人と帰り道、さっそく本屋で買いました。


結果としては二人とも100ページのはるか手前で投げ出してしまったのですが。

今でもやっぱり「そうたやすくは読めない」「読破できれば結構自慢できる」挑戦しがいのある長篇小説であることは間違いありません。

 

そうそう、「戦争と平和」にチャレンジした有名人がいました。

(2017年1月18日)

 

(2)

 

スヌーピーです。

 

1972年の3月27日、スヌーピーは「戦争と平和」を読み始めました。

ただし、一日に一語ずつ、です。

記念すべき読み始めの日は「Well」次の日に読んだのは「Prince」、三日目に読んだのは「so」でした。

三日目にはルーシーがやってきて「頭おかしいんじゃないの?」とあきれます。

スヌーピーはめげません。「そうかな、思ったより早く読めそうだけど」とつぶやきます。

中々意志が固そうです。

 

ところがそんなスヌーピーも四日目の闖入者には腹を立てます。

(2017年1月20日)

 

(3)

 

ウッドストックがやってきてスヌーピーに「『戦争と平和』を読んで欲しい」と頼みます。

そこでスヌーピーが怒ります。

「僕はもう四語目まで読んだんだよ、今さら振り出しに戻れるわけないじゃないか!」

 

ここはウッドストックの方が譲ったようです。

 

五日目には二人そろって「戦争と平和」を読みます。

この日読んだのは「and」でした。

そこでウッドストックが何かスヌーピーに言いました。

 

 

スヌーピーファンはご存知だと思いますが、ウッドストックの台詞は全部「・・・」です。

何を言ったかはっきりは分かりませんが、かなり根本的かつ辛辣なことを言ったと思われます。

 

スヌーピーは「僕に『戦争と平和』の読み方のお説教なんかするな!」と逆ギレします。

こうして二人は絶交してしまうのです。

(2017年1月23日)

 

(4)

 

このあとスヌーピーとウッドストックの意地の張り合いが続きます。

ライナスが仲直りを勧めますがスヌーピーは頑として拒否します。

 

そうしたある日ウッドストックが隣のバカ猫(スヌーピー談)に捕まってしまいました。

スヌーピーは20キロ以上もある(スヌーピー談:一週間後には「体重百キロ近くの猫」と戦ったことになってますが)巨大猫に戦いを挑んで見事ウッドストックを取り返します!

 

 

結果的に、それはライナスの勘違いで、ウッドストックのように見えたのは黄色い手袋でした。

でもこれをきっかけに二人(?)は仲直りするのでした。

 

「スヌーピー」は新聞コミックなので基本的に一話完結です。

 

ですが時々話が何日にも渡って展開することがあります。

このエピソードは「戦争と平和」が題材のせいかどうか、三週間以上も続いた、おそらくスヌーピー史上最長の大長篇でした。

(2017年1月25日)

 

(5)

 

ずいぶん寄り道してしまいました。

 

いよいよ「戦争と平和」の本題に入ろうと思うのですが、ここで白状しなくてはなりません。

私が「戦争と平和」を読んでいるちょうど同じタイミングでドラマ版「戦争と平和」が放送されました。

「戦争と平和」の感想が、小説を読んで抱いたものなのか、ドラマを見て感じたものなのか、実は自分でも判然としなかったりします。

 

 

それくらい今回のBBC制作ドラマがよくできていたということでもありますが。

(2017年1月27日)

 

(6)

 

まず冒頭です。

 

「戦争と平和」にチャレンジする人の八割くらいの人がここで挫折するのではないでしょうか。

いきなり膨大な人物が登場します。

これって困るんですよね。

誰が重要人物なのか、誰がチョイ役なのか分からないので、全員を覚える勢いで読むしかありませんから。

 

会話もなかなか難しいです。

このタイミングでは、ナポレオンはヨーロッパにはびこる旧体制を打破せんとする英雄候補です。

今この場に集まっているのはロシアの貴族たち。本来ならナポレオンに打破される立場の連中です。

しかしロシアの貴族にとってフランスは憧れの国です。パリっ子が熱狂的に支持するものは気になって仕方がありません。

したがってここでの会話も「ナポレオンをやっつけよう!」などという単純なものにはなりません。

小説の時代背景をずばりとは説明してくれないのです。

 

それがドラマだとかなり分かりやすくなります。

重要でないセリフは端折られますし、カメラは重要キャラクターに焦点を当ててくれます。

冒頭シーンだけでもドラマを先に見た方が、理解と読破の助けになると思います。

(2017年1月30日)

 

(7)

 

それに何と言っても今回のドラマは役者陣が見事です。

 

神経質でニヒルなアンドレイ。

勝気でおしゃまなナターシャ。

ピエールは原作の印象ではもっと大男かと思っていましたが、木偶の坊的な感じはよく出ていました。

あとはいかにも悪そうなドーロホフとか、幸(さち)薄そうなマリヤとか、分かりやすさにこだわったキャスティングだと思いました。

 

DVDも発売されるようです。

 

私は「原作を読んでから映画を観る」派ですが、かつて小説「戦争と平和」に挫折して、再チャレンジしようと思っている人にはこの映画をお勧めします。

(2017年2月1日)

 

(8)

 

どの小説でも読み直すと毎回印象が変わるものですが、今回「戦争と平和」を読んでかなり衝撃的でした。

 

小説の最後でトルストイの歴史観が長々と語られます。

壮大な物語が終わりに向かっている、ある意味大団円的なところで、何の脈絡もなく作者のご高説が始まります。

始まるだけならいいのですが、物語に戻ることなく終わってしまいます。

 

ものすごく高級なフランス料理を食べ終わり、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる時にシェフが出てくるとします。

そこでシェフが料理についての高邁な思想を熱く語ってくれます。

ありがたいお話が延々と続いて、あまりにも話が長いのでこちらも「もしやこのあと至高の逸品がサービスされるのでは?」と期待すると「というわけで今日のお会計はこちらとなります」と何事もなかったかのように伝票を差し出して終わり……、みたいな感じです。

 

毎回ここでずっこけましたし、今回もかなり覚悟して読みましたがやっぱりずっこけました。

ですから、この「ずっこけ感」自体は意外でも何でもなかったのですが、今回ようやくこの「ご高説」の意味が分かりました。

(2017年2月3日)

 

(9)

 

ここで語られるトルストイの歴史観は、単純に言うと「個人の行動で歴史は動かない」というものです。

 

その歴史観が正しいのかどうか結論付けるのは難しいです。

トランプ大統領は馬鹿なのか、それともものすごく馬鹿なのか判定するのと同様に非常に難しいです。

しかし確かなことがあります。

この歴史観で歴史小説を書くのが非常に難しい、ということです。

そもそもそんな歴史観をもって歴史小説に挑むこと自体がナンセンスです。

 

だってアンドレイの英雄的な自己犠牲も、ナポレオンの決断も、クトゥーゾフの不断も何ら歴史の動きに関与しないんですよ。

作者があらかじめ「この人たちの言動はいっさい歴史に影響を与えません」と宣言しているんですよ。

そこに小説の面白さを構築することははたして可能でしょうか?

 

ところがトルストイはそれをやっちゃったのです。

結果的に歴史の流れに負けてしまう主人公はいっぱいいます。

歴史上の人物の、歴史的でない側面に注目した小説もいっぱいあります。

しかしトルストイがこの小説でやってみせたのは、まったく新しい物理原則ですべての事象を説明するような、とんでもないアクロバティックな奇跡だったと思うのです。

(2017年2月6日)

 


海外の長篇小説ベスト100(第13位〜第15位)

第13位

ウラジーミル・ナボコフ「ロリータ」(新潮文庫)

「それまで」と「それから」と「そのあと」の三部からなる小説。
ドキドキの「それまで」、すべてが過ぎ去ってしまった寂寞の「そのあと」。
ところがそれに比べると、何度読んでも「それから」が面白くなさすぎます。

今回はっきりと分かりました。
「それから」で辻褄が合わなさすぎるのです。
「それから」で積み上げられた謎や伏線が「そのあと」で全然回収されないのです。
精緻な言語遊びを見せるナボコフが「それから」ではどこか歪んで、杜撰です。

ナボコフにミステリ的発想が欠如しているからとしか考えようがありません。
ナボコフはジョイスやプルーストはかなり読みこんでいたようですが、本当はチャンドラーをしっかり読むべきだったと思います。
(2016年12月12日)

何と半年ぶりの更新です。

第14位

ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」(集英社文庫ヘリテージシリーズ)

まずは第1巻の感想。

めくるめく「意識の流れ」、フラッシュバックする固有名詞、曖昧化する話者。
これが以降すべての作家に影響を与えた革命的手法のすべてだ!

全然面白くないけど。
(2016年11月16日)

続いて第2巻の感想。

第二巻になると文章は意味よりも音律を担いたがり、物語はプロットよりも旋律を奏でたがる。

ちっとも面白くないけど。
(2016年11月18日)

そしてそして第3巻です。

あまりにも有名な第十四挿話。
古文から始まって現代のスラングまで文体がカメレオンのように変化(へんげ)する。

まったく面白くないけど。
(2016年11月21日)

読了した自分をほめてやりたい、いよいよ最終巻。

そしてついに三人の主人公が出会う第十八挿話は100ページの間、句読点わずかに1個。
これが現代文学の粋、ジョイスの大傑作。
小説の、面白さ以外のすべての要素がここにある。

でも小説というものに含まれるいろんな要素の中で、私は「面白さ」が一番大切だと思うんだけどなあ。
(2016年11月25日)

第15位

スタンダール「赤と黒」(光文社古典新約文庫)

この本の評価は難しいです。つまり何と比べるかによって大きく変わるので。

その昔「赤と黒」の紹介文を見ると、「野心にあふれた美貌の若者ジュリヤン・ソレルが破滅するまでを描いた小説」と書いてありました。
そのあらすじから勝手に想像して創り上げた「マイ赤と黒」と比べるのか、あるいは同じ作者の「パルムの僧院」と比べるのか。

実際のジュリヤンはそれほど野心的ではありません。「マイ赤と黒」と比べるとちょっとがっかり。でも「パルム」のファブリスよりはずいぶんまし。
実際のジュリヤンはむしろ女性に振り回されます。「マイ赤と黒」のジュリヤンは当然もてもて。「パルム」では主人公を助けてくれるのはいつも、ママ。
実際のジュリヤンは最後は無抵抗です。「マイ赤と黒」は脱獄もしかねない。「パルム」では女性たちが勝手に脱獄させてくれます。

つまりは、あらすじを読んでから読むとがっかりするお話。
(2016年3月14日)

 

「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<第16位〜第20位<main>第12位


海外の長篇小説ベスト100(第16位〜第20位)

第16位

 

トーマス・マン「魔の山」(新潮文庫)

 

 

この小説のことを考えると胸が苦しくなります。
実は9年ぶりの再再読なのですが、9年前の感想が無茶苦茶なのです。
何か分かったようなことを偉そうに書いていますが、書いてあるほとんど全てが間違っているのです。

このコラムの9年前あたりを探せばその記事が出てきます。
あまりに恥ずかしいのでリンクはしません。
どうか探さないでください。

 

ところで今回読んで、後半の方が面白いということに初めて気がつきました。
特にセテムブリーニとナフタの論争。
二人の会話はぞくぞくするほど刺激的です。

 

しかし、しかしです。
ものすごく正直に言うと、トーマス・マンはこの会話において自分で自分が何を書いているかほとんど分かってなかったのではないかと思いました。全体の流れは面白い。でも言葉一つ一つの使い方はとっても不正確ではないか、と。

 

こんなことを書くとまた9年後の自分に突っこまれそうですが。
(2016年3月11日)


第17位

 

アルベール・カミュ「異邦人」(新潮文庫)

 

 

「きょう、ママンが死んだ」から「それは太陽のせいだ」そしてエンディングの一文。
薄っぺらい本なのにヤング(死語)のハートをがっつりつかむ言葉に満ちた一冊。

 

なるほど50年代のヤングアダルト、それから70年代の中高生に受けそうな小説……、と今までは思ってました。
ニヒル病をこじらせた自己愛小説だと簡単に片づけていました。

 

ところが今読み直すとちょっと違います。
書評の多くはカトリックとの関係を重視していますが、それも違うと思います。

 

これが書かれたのは1942年。
パリがナチスドイツに占領されていた、まさにその時。
敵国に蹂躙されているフランスで、何となく人を殺し、あらがわず弁明せず反省しないという小説を書く。これは一体どういうことなのでしょう。
太陽がまぶしい南国で自分を見失っちゃいました、なんて話であるわけがありません。
宗教に抑圧された自分を解放させるのは死のみ、なんて話であるわけがありません。

 

分かりにくいのはカミュが自分でも危険すぎると思ったせいだと思います。
(2016年2月22日)


第18位

 

ドストエフスキー「白痴」(新潮文庫)

 

 

14年ぶり、何度目かの読了。

 

これも作者自身の言葉に騙されてしまった作品です。
巻末の解説に書いてあります、ドストエフスキーはこの小説で「無条件に美しい人間」が書きたかった、と。
私もこれまでこの言葉を信じて読んできました。

確かにその解釈に従って読めば大変面白いのです。
第1編は。

 

第1編。
普通の長篇小説の分量に匹敵する300ページ。
しかしそこに描かれているのはムイシュキンとロゴージンが汽車の中で出会う場面から、ナスターシャの家でのドタバタまでの、たった一日の出来事です。
そしてこの凝縮したドラマの推進力となるのが「無条件に美しい人間」ムイシュキンでした。

私はこの第1編こそドストエフスキーが書いた最も完璧な作品だと思っていました。
(2016年1月22日)

 

しかしその読み方では第2編以降で壁にぶち当たります。

ムイシュキンはナスターシャとアグラーヤの二人に結婚を申し込みます。

きっと純粋な愛情や哀れみや同情に基づいての求愛ではあるのでしょうが、二股は二股です。
やってることは盛りのついたサルと同じです(盛りのついたサルがどんなのか知りませんが)。
これを「無条件に美しい人間」の所業と自分を納得させるのはとっても難しいです。
 
ドストエフスキーの恋愛倫理観がおかしいのでしょうか?
 
「虐げられた人々」にも同じような登場人物がいます。

アリョーシャです。
彼のエピソードを読むと、ドストエフスキーは彼のやってることをいいとは思っていません。
倫理観に縛られてはいないけれども、屁とも思っていないわけでもなさそうです。

ドストエフスキーがムイシュキンを「無条件に美しい人間」と構想したのは、せいぜい第一編までだったのではないでしょうか。
(2016年1月25日)

 

それからムイシュキンが「無条件に美しい人間」だとすると、イヴォルギン将軍がどうもうまく枠組みに収まってくれません。

イヴォルギンの果てしなく続く与太話にムイシュキンは気長に付き合います。
彼は忍耐強く優しい。
しかしその態度は決して「無条件に美しい人間」のものではありません。
あくまでも寛容なだけです。

むしろ将軍の方が「無条件に美しい人間」に近いのではないかと思ってしまうほどです。

 

そこでようやく気づくのです。
「ムイシュキンを通して無条件に美しい人間を描きたい」という言葉がそもそも与太話ではないか、と。

大都会ペテルブルグに現れたムイシュキンは、当初「無条件に美しい人間」第一候補でした。
そして確かに一日目はみんな(作者も読者も含めて)の期待に答えてみせます。
でも神通力が通用したのもたった一日でした。

次に現れた時彼は、純粋かもしれないけれども美しい人間ではありませんでした。
二人の美しい女性の尻を見境もなく追い掛け回すだけのサルでした。
優しい、確かに優しい。
そのためにみんなが彼にすがろうとする。
しかし彼はそれに答えることはできません。

なぜなら彼は「無条件に美しい人間」ではないから。
(2016年1月27日)

 

じゃあ一体誰が「無条件に美しい人間」なのか?

イヴォルギン? イポリート?
ナスターシャ? ロゴージン?

最後のどんでん返しでアグラーヤ?

あるいは大穴でリザヴェータ?

……、実はそれこそが第2編以降の推進力ではないかと思ったりもします。

 

ムイシュキンを「無条件で美しい人間」と思い込んで読むと第2編以降は全く面白くありません。
ですがムイシュキンを優勝候補のくせに二回戦で早々と敗退した選手と考えると、俄然面白くなってきます。
これまでドストエフスキーが書いた最も完璧な作品と信じていた第1編が、頭でっかちの単なる状況説明の章に思えてくるほどです。

 

というわけでこれが海外の長編第18位。
ただし新潮文庫のあとがきを真に受けなければ、という条件でということにはなりますが。

 

ところでエヴゲーニイ・パーヴロヴィチという登場人物がいます。
あんまり目立たない人ですが、名前は頻繁に出てきます。
重要な鍵を握りそうで、いや、握っているのですがなぜか表面上はその鍵は明らかにされません。
本当は「無条件に美しい人間」の最も意外な候補として挙げたいくらいです。

今までこの人物の存在意義が分からず、それも第2編以降の「白痴」が面白くない理由の一つでした。
今回やっと気がつきました。

エヴゲーニイがこの物語の語り手だったのですね。
(2016年1月29日)

 

第19位

 

ヴィクトル・ユーゴー「レ・ミゼラブル」(岩波文庫)



9年ぶりの再読。

再読なので精神的に楽に読めるかと思ったら、ファンティーヌを襲う不幸はいよいよつらく、テナルディエはいよいよ悪辣で、ジャヴェールはいよいよしつこい。
​​最初に読んだ時よりも数倍厳しかったです。
​その分エンディングのカタルシスもすさまじくて。

私はうっかり最終巻の最後を電車の中で読んでしまいました。
あわててマスクをして季節外れの花粉症ということにしま​した(まあ、そもそも誰も私のことなんか見てないのですが)。

「レ・ミゼラブル」をこれから読む人は、「このあと1時間は誰にも会わない」という状況で読み終えましょう。
(2015年11月20日)

 

「レ・ミゼラブル」を振り返ってみるとよく分かります。
最初から最後まで完璧に構想してからユーゴーが書き始めたということが。
冒頭の一文字を書き記した瞬間、彼の頭の中には最後の一文字まで揺るぎなく組み上がっていたのでしょう。

一見当たり前のようなことですが、これまで海外の名作を80作読んできて、それがとんでもないことだとやっと気がつきました。
最初から最後まできっちりと構成されていたことが明らかに分かる大長篇は、実はそれほど多くありません。
きっちりと構成された作品が、そうでない作品よりも文学的価値が高いとは、必ずしも思いません。
ユーゴーのジャン・ヴァルジャン並みの精神的強固さにただただ驚くだけです。

 

海外の長篇小説ベスト100も残すところ18作です。
ここまで来ると「小説とは何か」ということをついつい考えてしまいます。

ベスト100の中には「千夜一夜物語」や「人間喜劇」のように中・長篇小説の集合体のような体裁のものも含まれていますし、「冷血」のような実録風のものもあります。
不条理なものもあれば、どうひいき目に見ても行き当たりばったりに書かれたとしか思われない作品もあります。

その中で自分が「これぞ小説だ」と思うものとは何か考えてみると、答えははっきりしています。
「レ・ミゼラブル」こそが私が思う「小説」だと。
(2015年11月25日)

 

たとえばがっちりとした構成力を誇る小説はいろいろあります。
「風と共に去りぬ」とか「大地」とか。
 
登場人物の描写を通して作者の意志の強さが感じられる作品もいろいろあります。
「灯台へ」とか「存在の耐えられない軽さ」とか。
 
すさまじいアクションシーンで読む者を震え上がらせる小説もあります。
「悪童日記」とか「ブリキの太鼓」とか。
 
しかしその三つがそろった作品はそうそうありません。
「オデュッセイア」か「モンテ・クリスト伯」あたりでしょうか。
その二つと比べても「レ・ミゼラブル」の巨大さは際立っています。
 
……と、そこまで書いてようやく自分で気がつきます。
やっぱり私は小説を「ミステリ」として読んでいるのでした。
(2015年11月27日)

 

ここでまたもやミステリの定義の話になるのですが、ずいぶん以前にこのコラムで書いたことがあります。
 
……ある人が定義付けるには、「ミステリ」とは絶対に言えないもの以外の全てを「ミステリ」と呼ぶ、のだそうです……、
 
私の考えも大体そんな感じですが、今はもう少しだけ定義が狭まっています。
「ミステリ的要素が物語の推進力に寄与している小説」
 
「フョードルを殺したのは誰か?」「ラスコーリーニコフは逮捕されるのか?」
ドストエフスキーの物語推進力はかなりの部分、ミステリ的要素に負っています。
ところが純文学と言われるジャンルの中にはそういう部分にまったく関心のないものもあって、そういうのは「海外の長篇小説ベスト100」の企画が終わったら二度と読まずにすませたいと思っているところです。
 
「レ・ミゼラブル」の場合、物語後半の鍵はマリユスにかかっています。
 
「マリユスはいつテナルディエの本性に気づくのか」「マリユスは命の恩人の正体をどうやって知るのか」
 
これは心憎い仕掛けです。
大長篇小説の中盤から突然現れた男主人公。
彼はこの二つの謎に苛まれます。しかしそうすることによって読者のシンパシーをぐっとつかみ寄せるのです。
 
そしてその二つの謎が物語の最後の最後に快刀乱麻に解き明かされます。
ボンクラな推理小説は謎解き篇がもたつくものですが、ユーゴーは見事です。
ばさっとばさっと秒殺です。
(2015年11月30日)

 

第20位

マーク・トゥエイン「ハックルベリー・フィンの冒険」(岩波文庫)

今、この瞬間、夏休みの読書感想文の宿題で困っている全国数十万人の小学生、中学生の諸君。
私もまったく同じ悩みを抱えております。

ハックは時々悪いこともするけど、黒人のジムには優しいし、勇気もあるし、よかったと思います。

冗談抜きでこれくらいの感想しか思い浮かびません。

これをどう水増しして格好をつけましょうか。

とりあえずこの小説が書かれた時代背景を調べて黒人差別についてもっともらしいことを書けばある程度の分量にはなるでしょう。
しかし国語の先生は同じような感想文を何百も読まされてきたはずです。
「この小説の舞台となった1940年ごろアメリカは〜」という文章が出てきた瞬間に先生はおそらく作文用紙を3ページはめくってしまうでしょう。

グーグルマップでハックがたどった道筋を図示すれば「斬新な感想文」と先生は喜んでくれるかもしれません。
現代の倫理観や科学的知識を持った自分が突然ハックと入れ替わったとしたら? という想定で書くのも面白いかもしれません。
ただ、感想文の最後に「もう一度読んでみたいです」と書くのはやめた方がいいです。

「もう一度読んでみたい」と書く人がもう一度読んだためしがないのを先生はよく知っているからです。
 (2015年8月7日)

 

「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<第21位〜第25位<main>第13位〜第15位


海外の長篇小説ベスト100(第21位〜第25位)

第21位

トルーマン・カポーティ「冷血」(新潮文庫)

ニュージャーナリズムの原点。
物語を緻密にたどり、同情を排して人物を描写する。
そこに浮かび上がってくる存在の根源的な哀しみ。
叙述のスタンスは「ボヴァリー夫人」に近い。

違いは亜流を生まなかった「ボヴァリー夫人」に対して、カポーティは特にスポーツドキュメンタリーの分野で多くの亜流を生み出したところかな。
(2015年7月1日)

第22位

ジャン=ポール・サルトル「嘔吐」(人文書院)

プルーストとの決別宣言とも取れるし、マロニエの根っこから実存主義が芽生えてくる瞬間を捉えた哲学的ドキュメンタリーとも取れるし、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」みたいなごくつぶしの愚痴小説の原点とも取れるし。
でも一番腑に落ちたのは訳者解説の「冒険小説」という言葉だったりして。
(2015年6月29日)


第23位

ギュスターヴ・フローベール「ボヴァリー夫人」(岩波文庫)

フローベールの作品としては80位の「感情教育」に続くランクイン。
主人公の甘えが鼻について読むのが辛かった前作に比べると、「ボヴァリー夫人」は別人の作品のように冷酷で客観的。
そしてその冷たい文章が帯びさせる登場人物たちの体温。

フローベールも遠くに来たなあ、としみじみ。
(2015年6月26日)

第24位

ルイ=フェルディナン・セリーヌ「夜の果てへの旅」(国書刊行会)

高級化粧品みたいな名前の作家だけど中身はハードボイルド?
だって一人称が「おれ」だもん。

「おれ」が戦争に行ったりアフリカに行ったり医者になったりするけど、何かするたびに暗くどよよんと落ち込むというお話。
(2015年5月29日)

第25位

ジョン・アーヴィング「ガープの世界」(サンリオ文庫)

「ホテル・ニューハンプシャー」に続く2作目のランクイン。
この人の文章には独特のエグみというかぬめりがあって、時々出てくるエログロ描写よりもその感触が読み手の感性を苛む。
語り口は上手い。

軽快なメロディーにずっとスクラッチノイズがかぶさっている古いレコードみたいな感じ。
(2015年5月27日)


「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<第26位〜第30位<main>第16位〜第20位


海外の長篇小説ベスト100(第26位〜第30位)

第26位 

F.スコット フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」(光文社古典新訳文庫) 

去年野崎版を読んで、かなり原作に忠実なディカプリオ版映画も見た上での再読なのに、やっぱり相当読みにくい。 

ブツ切れで衝動的な文章。「で、今何をしてるの?」的不親切な描写の数々。話がどこに向かっているかさっぱり分からないモヤモヤ感。意味不明の会話に無駄に多い登場人物。 
よく分からないから半分読んだところでもう一度最初から読み直したけれども、やっぱりよく分からない。 

結局はフィッツジェラルドがわざと分かりにくく書いてるわけだから分かりにくく読むのが正解なんでしょう。 

後半、というか物語が終わってから、というか300ページ中の250ページ以降の文章はとっても素敵。
初読の人は「目指せ250ページ!」です。(2014年12月24日)

第27位

ミハイル・A・ブルガーコフ「巨匠とマルガリータ」
(河出書房新社池澤夏樹個人編集世界文学全集第5巻)

6年ぶりの再読です。初読の時にはスケールの大きさと残酷描写の切れの良さや得体のしれない登場人物たち(人間以外も含まれる)にただひたすら圧倒されて、わけの分からないまま「すごい!」と思わされました。
二回目読むとそれほど難解ではなく、むしろ軽い感じのファンタジーのように思えてきました。
「軽い」というのは文字通り「軽く」て、「まるでライトノベルのような」と言ってもいいかもしれません。
深夜時間帯でアニメ化でもすればヒットしそうなお話しでした。
(2014年12月22日)


第28位

スタンダール「パルムの僧院」(新潮文庫)

主人公の若者がナポレオンにあこがれて戦場に向かったり、怪我したり、女優に恋をしたり、その愛人を殺してしまったり、その罪で牢屋に入れられたりするお話。
波乱万丈でどきどきわくわくしてもよさそうなものだけれど、この主人公がたんまりお金を持っている上に一切努力をしないと来てる。こういう主人公にどう共感しろって言うんだろう?
19世紀のヨーロッパは数多くの大作家を生み出したけれど、実は当たりハズレが多いような気も。
当たりはユゴー。
ハズレはバルザック、スタンダール、オースティン、ディケンズ、ホーソーンとか。
ぎゃっ、ハズレばっかり。(2014年10月29日)

第29位

「千夜一夜物語」(ちくま文庫)

この果てしない企画もいよいよゴールが見えてきたような気がします。
しかしここに立ちはだかるのがあの超・超・長篇。
さすがにこれはズルして9年前の感想を再掲させてもらいます。

「ウィットの利いた2、3ページのショートショートから600ページにも及ぶ親子三代の超大河ドラマまで、
信仰の尊さを訴えるありがたいお話からイソップ物語を彷彿とさせる動物寓話まで、
描写も赤裸々なエロティックコメディーから、感涙必至の純愛悲恋ものまで、何でもありのおもちゃ箱のようなお話です。
登場する男はどいつもこいつも意気地がなくて嘘つきで怠け者。
それに比べて女性はみな美しく賢くて、ちょっとH。
イスラム教やアラブ人のイメージが大きく変わりそうです」

私が読んだのはちくま文庫のバートン版です。
他の版との違いはよく分かりませんが、バートン版でのお薦めは第1巻。
「ドン・キホーテ」や「トリストラム・シャンディ」も裸足で逃げ出すメタメタ小説です。(2014年8月4日)

第30位

ジェーン・オースティン「高慢と偏見」

前半は「どうしてこんな女子中学生の恋愛相談みたいな話を読まされないといけないんだろう?」と思いながら読みましたが、後半は少しましになって「女性週刊誌の人生相談コーナー」レベルにはなったでしょうか。
いずれにしても「どうしてこんな話を読まないといけないんだ?」というイライラ感はこの間読んだ「紅楼夢」に通じます。
あちらは全7冊、こちらは全2冊。さあ、選ぶのは貴方です!(2014年7月30日)



「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<第31位〜第35位<main>第21位〜第25位

海外の長篇小説ベスト100(第31位〜第35位)

第31位

ロレンス・スターン「トリストラム・シャンディ」(岩波文庫)

この小説を紹介するのはとても難しいです。

できれば一切の紹介文やレビューを読まず、第1巻の冒頭についている訳者の解説も読まないで読み始めた方が楽しめると思います。
しかしそういうのが難しいんですよね。
解説だけでなく表紙裏にもそれっぽいことが書かれているし、amazonで注文しようと思えばどうしても読者レビューが目に入ってきます。
ない方がいい情報が入ってきてしまうのが現代社会の困ったところ。
金曜日朝のサッカーの試合も、録画をしておいて情報をシャットアウトして夜ゆっくりと見る、ということができればいいのですが、それが不可能なのが現代日本です。

もしあなたが「トリストラム・シャンディ」について何も知らなければ、あなたにはユニークな読書を体験するチャンスがあります。
ただし、表紙裏のコピーを読まず、巻頭の解説を読まず、amazonその他の説明・感想欄を見ないという条件付きですが。(2014年6月18日)

第32位

J・D・サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(白水社)

ありとあらゆることに不平不満をこぼしつつ全てから逃げまくっている、ダメ青年のお話。
ところがそんなクズみたいな話でも文体のリズム感が合えばぐっと来るから不思議。
私は線香花火のようなストーリーだと解釈しました。

単なる化学反応が、人によっては美しい火花に見え、人によっては硫黄の臭いだけが鼻につく。
最後には誰の目にも美しい火の玉を形作るんだけれども、それは燃え尽きる直前の最後のきらめきにしか過ぎない。
燃えかすがぽとりと落ちるように、語り手も精神を崩壊させる……。

もちろんこんな理屈っぽい解釈を必要とする文章ではないし、発狂へのプロセスという解釈も強引すぎるかもしれません。
語り手のダメっぷりを笑い飛ばすだけで十分なような気もします。(2014年6月16日)

第33位

ジョナサン・スウィフト「ガリバー旅行記」(角川文庫)

初読です。
今まで読まなかったのには理由があります。
紹介文に必ずついてくる「優れた風刺」という言葉がいやだったのです。
そうなんです。私は「風刺」という言葉が大嫌いなのです。

読んでみると確かに「優れた風刺」と言いたくなるような内容でした。
しかし意外と面白かったです。
正直言うと、最も有名な「小人の国」が一番つまらない。
ラピュタの次に行った「発明の国」が一番面白い。
そうそう、「ラピュタ」とか「ヤフー」という言葉はこの小説が起源のようです。
それにガリヴァーは日本にも来てるんですね。

「風刺」とか関係なく普通に面白い、紹介文としてはこれでいいのではないでしょうか。(2014年5月21日)

第34位

チャールズ・ディケンズ「デイヴィッド・コパフィールド」(岩波文庫)

8年ぶりの再読です。その時の感想は

ディケンズを読むのは全く初めてだったのですがこういう作風の人だったのですね。
一言で言うと「軽い」です。
「レ・ミゼラブル」のようながっちりとした構成があるわけでもなく、思いついたように次々と奇妙な登場人物が現れ次々と事件を起こしていきます。 
そう、まさに「思いついたように」というのが正直な感想です。
もとは新聞小説だったらしいのですが、毎日毎日読者の反応をうかがってはそれに応えて書き進めていく、そんなディケンズの姿が思い浮かぶようです。(2006年6月9日)

この時はディケンズそのものが初めてだったのでこういう感想でした。
このあと「大いなる遺産」と「二都物語」を読んでディケンズの作風が分かった今となっては、

ディケンズにしては行き当たりばったり感がまだまし

という印象です。
二匹目にすっごくワルいネコがやってきたので、最初はおてんばに思えた一匹目のネコがおしとやかに思えてきた、
それと同じ感じでしょうか。(2014年5月19日)

第35位

ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」(河出書房新社池澤夏樹個人編集世界文学全集第24巻)

4年ぶり3度目の紐解き。

馬の首の鰻、喉に突き刺さる党員章の針、ライ麦畑の女の薬指。
執拗に繰り返される残酷で畸形なイメージ。
呪われたニオベ像、水のないプール、イエス像の奇跡。
容赦なく襲ってくる攻撃的な美しさ。

どうして3歳児なのか、いろいろ語られるけれど、3歳児ゆえの感受性のためではなく、3歳児ゆえの鈍感さが必要だったからなのだろうと今では思う。
(2014年3月31日)

「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<第36位〜第40位<main>第26位〜第30位

海外の長篇小説ベスト100(第36位〜第40位)

第36位

ロマン・ローラン「ジャン・クリストフ」(岩波文庫)

中学生の頃、確か2年くらいかけて読んだ。
大学生の頃もう一度読んで、そして三回目の紐解き。

意外と展開が早いのに驚く。
最初読んだ時にはオットーとの友交は何年も続いたかのように感じたけれど、実際には数か月のこと。
アントワネットともすれ違ってばかりでかなりやきもきした覚えがあるけれど、二人のニアミスはほんの二、三回だった。
それにしても豊島与志雄の文章の格調高いこと!
「これ、絶対に原文よりも格調高いだろ」と勝手に思いながら読みました。

それから今回驚いたことがもう一つ。

明るいところでは縦書きの文庫本、暗いところではタブレットで横書きの「青空文庫」で読んだのだけれど、横書きの方が圧倒的に早く読めるのにびっくり。
「縦書き紙媒体」原理主義者としては困った事態です。(2014年3月28日)

第37位

ウィリアム・フォークナー「響きと怒り」(岩波文庫)

時制が激しく入り乱れる、いかにもフォークナー的な作風。

しかし語り手が第1部では知的障害者、第2部では自殺を決意した若者と、語り口が乱れる「言い訳」が示されているのでそれほど難解ではない。

海外の長編小説にはフォークナーが3作ランクイン。
61位に「アブサロム、アブサロム!」、47位に「八月の光」、そして「響きと怒り」が37位。
個人的には逆の順番で面白かったりする。(2014年3月26日)

第38位

曹 雪芹「紅楼夢」(岩波文庫)

これも文庫全12冊の大長編です。
中国文学と言われて「三国志」や「水滸伝」しか思い浮かばない私は、「どの時代の戦乱物語だろう?」と思って読み始めたのですが、想像とは全く異なるお話でした。
大富豪一族のぼんぼんと、彼を取り巻く美少女達のお話。
しかも彼らはほとんど十代です。恋愛絵巻というほどの大人の愛が語られるわけでもなく、一族の日常が淡々とつづられます。
金銭のトラブルや、正妻と妾のいざこざや、使用人同士の喧嘩などなど。

もしかすると漢詩が理解できると面白かったのかもしれません。
第5巻(第48回)で、ある登場人物が漢詩の勉強の仕方を教えてくれます。

「王維の全集から五言律百首をじっくり味わい、その上で杜甫の七言律を一、二百首読み、さらに李白の七言絶句を一、二百首読みなさい。この三人の詩が入って根底ができたところでさらに陶淵明、応とう(王へんに場のつくり)、謝(しゃ)、阮(げん)、庚(ゆ)、鮑(ほう)といった人々の詩を読みなさい」
なのだそうです。(2013年11月27日)

第39位

ロジェ・マルタン・デュ・ガール「チボー家の人々」  (白水Uブックス)

大長編が続きます。これも新書版全13冊の大著です。

この小説の特徴は執筆に二十年近くを要したという点です。
その二十年とは、第一次大戦の復興期から、第二次大戦勃発にかけて。
小説の雰囲気も時代の雰囲気をなぞります。
少年期の無鉄砲な冒険譚の第1巻、恋や人の死や革命思想との出会いを描く中盤。
この時点では主人公はヨーロッパの恒久平和を確信していました。

そしておそらく、作者も。

このあと主人公は革命運動に身を投じますが、作者もコミューンによって世界平和が確立されることを信じていたと思うのです。

その後世界の状況は急激に変化します。
個人の英雄的な活動では戦争への流れは食い止められないところまで来てしまいました。
その世相が作品の展開にも大きく影響します。
主人公も、当初の思惑とは180度違った運命をたどることになります。

物語そのものよりも、物語がねじ曲がっていく過程の方がドラマティックで悲劇的、そんな小説だったと思うのです。(2013年11月25日)

第40位

ロレンス・ダレル「アレクサンドリア四重奏」 1〜4 (河出書房新社)

第1巻「ジュスティーヌ」は、謎めいた描写が続く恋愛叙情詩。
第2巻「バルタザール」で明かされる真実の数々。
第3巻「マウントオリーブ」に至って、その「真実」すらまやかしであったことが分かり、
第4巻「クレア」で「ぼく」はアレクサンドリアに別れを告げる。

トリッキーな構造をもつ、1000ページ超の大河恋愛ロマンです。
問題は小説として美しいかどうかという点で、残念ながら私にはそれが分かりませんでした。
物語の話者に主体性など必要ありませんが、女性に恋をするのなら話は別です。
読みながら「どうしてこの人は恋をしなくてはならなかったのか、どうしてこの人はこの物語を書かなくてはならなかったのか」が、どうしてもよく分からなかったのです。(2013年8月7日)

「考える人」08年春季号「海外の長篇小説ベスト100」<第41位〜第45位<main>第31位〜第35位

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