「罪と罰」を読む(エピローグ第1章)

「罪と罰」を読む〜エピローグ第1章(第3巻427〜443ページ)

 

(191)

 

いよいよエピローグです。

その第1章は非常に分かりやすい文章で書かれています。

 

かつてドストエフスキーがこれほど平明な文章を書いたことがあったでしょうか?

この章の特徴は、17ページの間に会話文がまったく含まれていないことです。

会話文さえなければドストエフスキーの文章はこんなに分かりやすいんですね。

 

とはいえこの章にもいくつか気になるところがあります。

まずラズミーヒンがどこからか掘り出してきたラスコーリニコフの美談が二つ。

 

(2019年2月6日)

 

(192)

 

一つは、ラスコーリニコフが在学中に別の貧しい学友を助けたという話です。

 

***

 

元大学生のラズミーヒンが、どこから掘り出してきたのか、犯人のラスコーリニコフは、大学在籍中、なけなしの金をはたいて肺病にかかったひとりの貧しい学友を助け、半年間にわたってほとんどその面倒をみてやった証拠を提出した。 学友が亡くなると、こんどは残された病身の年老いた父の面倒も見てやり(死んだ友人は十三のときから働いてこの父親を養っていたのだった)、ついにこの老人を病院に入れてやった。 そして老人が死ぬと、葬式までだしてやったというのである。

 

***

 

自分もぎりぎりの生活なのに学友まで援助していたというのですから大変なことです。

苦学生同士がパンを分け合うのならまだ理解はできます。

しかし父親の入院代まで賄ったというのですから「苦学生の助け合い」のレベルを超えています。

 

そもそもラスコーリニコフにそんなお金があったでしょうか?

 

(2019年2月8日)

 

(193)

 

いや、金ならあったかもしれません。

下宿のおかみが上京したばかりのラスコーリニコフに金を貸してくれたのです。

 

***

 

そのころ、おかみさん、ずいぶん金を貸してくれたので、ぼくもまあ、いくらかはましな暮らしをしていたってわけです……本当に浅はかでした……(第1巻239ページ)。

 

***

 

「ずいぶん」なお金があれば友人とその父親を援助することもできたかもしれません。

しかしそれは決して「浅はか」なお金の使い方ではありません。

ラスコーリニコフが「浅はか」というからには、彼は他人のためではなく、自分のためだけにその金を使ったのだと思います。

それでは友人と父親を助けたという話は、ドストエフスキーがよく考えずに気まぐれで付け足したエピソードなのでしょうか。

 

(2019年2月13日)

 

(194)

 

私はこのエピソードをいかにもとってつけたような話だと思っていました。 

でも、もしかするとラスコーリニコフが知らない間に誰かが友人と父親を援助していたとしたらどうでしょうか。

 

かつての婚約者、つまり下宿のおかみの娘について彼はこう語っています。

 

***

 

乞食にものを恵んでやるのが好きで、ずうっと修道院ぐらしにあこがれてたんだ……あるときなんか、ぼくにその話をして、おんおん泣きだしたことがあったよ(第2巻92ページ)。

 

***

 

おかみからもらったお金のいくらかを、娘がラスコーリニコフ名義で渡していたという可能性はあると思います。

 

(2019年2月15日)

 

(195)

 

裁判で紹介された美談はもう一つあります。

 

***

 

下宿のおかみで、ラスコーリニコフの死んだ婚約者の母親プラスコーヴィヤ・ザルニーツィナ未亡人も、ピャチ・ウグロフ通りの別のアパートに住んでいた当時、夜ふけに火事があって、ラスコーリニコフはすでに火の手があがった部屋のひとつから、ちいさな子供ふたりを救いだし、そのために自分はやけどまで負ったと証言した(432ページ)。

 

***

 

ちなみにラスコーリニコフはこの火事のあったアパートに住んでいたわけではありません。 

ラスコーリニコフはペテルブルクに来てからずっと今の部屋に住んでいます。

ピャチ・ウグロフ通りのアパートに住んでいたのはおかみとその娘だけでした。

ラスコーリニコフが夜ふけにそのアパートにいた理由はただ一つ、婚約者と会うためです。

 

つまり火事の現場にはおかみの娘もいたのです。

 

ラスコーリニコフは友人とその父親を助け、燃え盛る部屋から子供を救い出しました。

そして善行をなした時、彼のそばにはいつもおかみの娘がいました。

 

(2019年2月18日)

 

(196)

 

これまでラスコーリニコフのことを「頭でっかちの引きこもり」とかさんざんに悪く言ってきた私としては、裁判で明らかになった彼の善行を認めたくないです。

 

学友への援助は実はおかみの娘が彼の知らない間にやったことだし、火事の件も実際に助けたのは娘で、ラスコーリニコフはちょっと手助けしただけ、と思いたいです。

しかし裁判で善行が公になった時にラスコーリニコフは否定しませんでした。

火事の時には火傷も負っています。

彼は自らの意思で学友と子供たちを助けたのでしょう。

 

かつてはラスコーリニコフはいいやつだったのです。

それなのにどうして彼は「偏屈なコンプレックス男」になってしまったのでしょうか。

 

もちろんそれはおかみの娘が死んでしまったからです。

とすると物語の枠組みが大きく変わります。

「罪と罰」は、婚約者を失っておかしくなったラスコーリニコフがその女性の身代わりと出会う、お話になってしまうのです。

 

ゴール目前で、ドストエフスキーは実にややこしいエピソードを放り込んでくれたものです。

(2019年2月20日)


「罪と罰」を読む(第6部第8章)

「罪と罰」を読む〜第6部第8章(第3巻399〜423ページ)

 

(179)

 

さあ、いよいよ最後のクライマックスです!

 

と言ったものの、こうゆっくりゆっくり読んでいると、これまでのあらすじを思い出すだけでも一苦労です。

退屈な確認作業がしばらく続きますがどうぞ読み飛ばしてください。

 

399ページ

《ソーニャがこのことを知っている》というスヴィドリガイロフの昨日の言葉を思いだし……

 

その言葉は326ページにあります。

「これはすべて、彼が自分の口からソフィアさんにお話しになったことです、つまり、彼女だけが秘密を知っているということです」

 

400ページ

ラスコーリニコフの部屋ではじめて顔を合わせたとき、あれほどの心づかいと敬意をこめて会釈してくれたドゥーニャの絵姿は、彼女がこれまで見たなかでもっとも美しい、およそ手の届かない光景となっていつまでも心に刻みつけられることになった。

 

その場面とは第2巻の113ページに描かれています。

 

プリヘーリヤはソーニャにも会釈しようとしたが、なんとなくしそびれたままあわてて部屋から出て行った。

ところがアヴドーチャは、まるで自分の番を待っていたように、母のあとからソーニャのそばを通りすぎるとき、心をこめ、深くていねいに頭をさげた。

 

(2018年9月5日)

 

(180)

 

400ページ

ソーニャは、昨日スヴィドリガイロフが口にした言葉を思いだした。

ラスコーリニコフに残された道はふたつしかない、囚人街道下りか、さもなければ……

 

スヴィドリガイロフの台詞は正確にはこうです。

350ページです。

 

ラスコーリニコフさんに残っているのは、ふたつの道だけです。

額にピストルの弾丸(たま)を撃ちこむか、でなければウラジーミル囚人街道を下っていくか、そのどちらかなんです。

 

つまり400ページでソーニャが思った「さもなければ……」というのは「自殺」です。

 

401ページ

「きみの十字架をもらいに来たんだ、ソーニャ。

街の十字路へ行かせようとしたのはきみだよ、そのくせ、いざとなったら急に怖気づいたのかい?」

 

ソーニャがラスコーリニコフを十字路に行かせようとしたのは152ページです。

「どうしたらいいって!」彼女はそう叫ぶなり、いきなり立ち上がった。

涙をいっぱいにためていたその目が、ふいに火のように輝きだした。

「さあ、立って!(ラスコーリニコフの肩をつかんだ。

おどろいた彼は、相手の顔をじっと見ながら立ち上がった)

いますぐ、いますぐ、十字路に行って、そこに立つの。

そこにまずひざまずいて、あなたが汚した大地にキスをするの。

それから、世界じゅうに向かって、四方にお辞儀して、みんなに聞こえるように、『わたしは人殺しです!』って、こう言うの。

そうすれば、神さまがもういちどあなたに命を授けてくださる。

行くわね? 行くわね?」

 

ラスコーリニコフならずともうなずいてしまいそうになる場面ですね。

 

(2018年9月7日)

 

(181)

 

このあたりからだんだん難しくなってきます。

 

402ページ

何がしゃくにさわるっていって、ああいうばかで野蛮な面をした連中が、さっそくぼくを取りまいてじろじろのぞき、くだらん質問を浴びせてくる、そしてそれにいちいち答えなくちゃならないってことさ、つまり、後ろ指さされてさらし者にされることさ……くそっ!

いいか、ぼくはポルフィーリーのところへなんか行かない。

もう、ほんとうにうんざりしてるんだ。

友人のポーロフ君、そう《火薬中尉》のところに出向いていって驚かしてやるのさ。

 

この部分、分かったようで分からないところです。

 

野蛮な面をした連中とは、火薬中尉たち警察職員たちのことでしょう。

自首すると彼らの取り調べを受けて根掘り葉掘り聞かれる。

それがいやだからポルフィーリーにではなく、火薬中尉に自首したい、と言っているのです。

火薬中尉の取り調べがいやなくせに火薬中尉に自首したいとはどういうことでしょう?

 

私はこれまでこの台詞を、ラスコーリニコフの錯乱を表すものだと解釈していました。

 

もしかすると違うかもしれません。

 

読み直してみると、火薬中尉はかっとなりやすい、ある意味「野蛮な」性格であるかもしれませんが、外見はこうです。

 

赤みがかった口ひげを左右にぴんとはねあげ、目鼻立ちのやけにちんまりした顔をしていたが、といって、いくぶん厚かましい感じがする以外、特別これという表情もなかった(第1巻226ページ)。

 

決して「野蛮な面」ではありません。

事務官は流行りの服をいきに着こなしていますし、署長はみごとな頬ひげの持ち主です。

警察職員たちを「野蛮な面をした連中」と表現するのは無理です。

 

(2018年9月10日)

 

(182)

 

それではもっと幅広く「町人たち」のことでしょうか。

しかし彼らが重要な役を演じる第1巻410ページを見ても、特に外見についての描写はありません。

 

マルメラードフも、レベジャートニコフも、ミコールカも、その他の通りすがりの人々も「野蛮な面」と描写されたことはありません。

 

いや、一か所だけありました。第1巻です。

 

「酒場のまわりにはいつも、ひどく酔っぱらって、怖ろしい人相をした男たちがうろついていた……」(133ページ)

 

「たいそう首が太い、人参のように赤く、脂ぎった顔をした、まだ若いひとりの百姓が叫んだ」(135ページ)

 

「馬殺しの夢」の場面です。

ラスコーリニコフが抱いた「さらし者にされるという恐怖」。

その対象はおそらく一般市民でしょう。

しかしこの場面、ラスコーリニコフにとっては一般市民の姿が、老いた馬をよってたかって殺した連中のように見えていたのだと思います。

 

(2018年9月12日)

 

(183)

 

だとしても後半部分の「ポルフィーリーではなく火薬中尉に自首して驚かせてやろう」という台詞がますます意味不明です。

 

そもそもポリフィーリーは247ページでラスコーリニコフにこう言って自首を勧めています。

 

「わたしは『あちらでは』、あなたの自首がまったく想定外だったようにつくろってさしあげます。

(中略)

あなたの嫌疑もすべてゼロにしてしまいます」

 

つまりこう言っているわけです。

 

ラスコーリニコフのことを疑っていない火薬中将のもとに自首しなさい。

そうすれば私も減刑を約束するから。

 

火薬中尉に自首しろというのはポルフィーリーの言葉なのです。

それなのにどうして火薬中尉のところに出向くのが驚かせることになるのでしょうか?

 

これは「火薬中尉のところに行く」イコール「自首」と解釈するから生じる食い違いです。

「火薬中尉のところに行くには行くが、自首はしない」という意味だとすれば何となくすじは通ります。

 

「自首すれば見ず知らずの連中によってたかって叩かれるに違いない、それは耐えられない。

そうだ、火薬中尉のところに行くだけ行って、世間話をして帰ってくるというのはどうだろう。

きっとポルフィーリーは驚くだろうなあ」

 

(2018年9月14日)

 

(184)

 

同じページの

「じつはね、ぼくはさっき、げんこつで妹を脅かそうとしたんだよ。

それもね、最後にもういちど、こっちを見ようとふり返ったというだけでさ」

も変です。

 

実際のラスコーリニコフの行動はこうでした(397ページ)。

 

ふたりは最後に目を見かわした。

だが、妹がこちらを見つめているのに気づくと、いらいらして、むしろいまいましげに早く行けと手で合図をし、そのままさっさと角を曲がってしまった。

 

げんこつで脅そうとはしていません。

げんこつかどうかでずいぶんニュアンスが変わります。

ヒジョーに乱暴に意訳するなら、

げんこつでなければ「心配するな、ちゃんと自首するから」です。

げんこつなら「自首だと? とっとと帰りやがれ」です。

 

この捏造も、前の部分を「火薬中尉のところには行くが、自首はしない」と解釈すると理解しやすいです。

 

「自首しなかったらポルフィーリーは驚くだろうな、実際、自首を勧めてきた妹も脅かして追い返したことだし」

 

ラスコーリニコフの中では「自首しない」という選択肢がまだまだくすぶっているのです。

 

(2018年9月19日)

 

(185)

 

実はここまで解釈しても分からないところがあります。

ラスコーリニコフの台詞のちょっと前、ソーニャが感じた違和感です(401ページ)。

 

ソーニャは驚いて相手を見やった。

その口ぶりが妙に感じられたのだ。

つめたい戦慄が、体を走った。

だが一分ほどすると、彼女はすぐにさとった。

この口ぶりも、この言葉も――みんなこけおどしにすぎない。

彼はなぜか隅のほうばかり向いて話し、まともにこちらを見ないようにしているらしかった。

 

ラスコーリニコフはソーニャに十字架をもらいに来ました。

ソーニャの言葉に従って自首すると言いに来たわけです。

なのにこれ以上何を強がって見せることがあるでしょうか?

 

しかしこの謎はひとまず置いておきましょう。

 

さて、403ページには四つの十字架が登場します。

まず、ソーニャの糸杉の十字架。これをソーニャはラスコーリニコフに与えます。

もう一つは銅の十字架。これはもともとリザヴェータがかけていたものです。

ソーニャの聖像と取りかえっこして今はソーニャの手元にあります。(157ページ)

 

あとの二つはラスコーリニコフの記憶の中に登場します。

老婆がかけていたものです。

「同じような十字架、ほかにもふたつおぼえているよ、銀のと、聖像のやつ」

 

ところが第1巻の186ページの殺人シーンではこうなっています。

 

紐には、二つの十字架がついていた。

糸杉のと銅製の十字架で、そのほかにもエナメル細工の小さな聖像がついていた。

 

あらあら、謎を一つスルーしたと思ったら、すぐまた新しい謎が出てきてしまいました。

 

(2018年9月21日)

 

(186)

 

老婆の十字架が、現実とラスコーリニコフの記憶とで食い違っています。

現実にかけていたのが糸杉と銅、彼の記憶では銀と聖像。

そして、糸杉と銅、というのはソーニャが持っている組み合わせと同じです。

 

無理にこじつけられないことはありません。

 

ソーニャが彼に見せた十字架は糸杉と銅で、老婆がかけていたものと同じ組み合わせだった。

ラスコーリニコフはその偶然の一致を無意識に封じ込めようとして自分の記憶の方を書き換えた。

 

フロイトもびっくりの「記憶の改竄」です。

 

ですがこの仮説にはやっぱり無理があります。

第3巻157ページでソーニャがラスコーリニコフに十字架を差し出した時に、

 

十字架を受け取ろうとしてラスコーリニコフはぎょっとしてあわてて手を引っ込めた

 

みたいな描写があればよかったのですが、動揺らしきものを読み取るのは難しいです。

ここはドストエフスキーの勘違いと解釈するのが妥当だと思います。

 

(2018年9月26日)

 

(187)

 

このあたりまだまだ訳の分からないことだらけです。

404ページ。

 

「十字を切って、一度でいいから祈ってください」臆病そうに声をふるわせながらソーニャは哀願した。

「ああ、いいとも、何度でも気のすむまでね! それも本心から、ソーニャ、素直な気持ちから……」

しかし、彼が言おうとしていたのは、べつのことだった。

 

この「べつのこと」とは何でしょうか?

 

答えらしきものは406ページの最後にあります。

 

おれは彼女の涙がほしかった、あの怯えが見たかった、彼女の心が痛み、切りきざまれる様子を見たかった!

 

しかしここに至るまでにラスコーリニコフは何度も新しい感情に襲われています。

 

まず404ページ、

 

そう言いながら、ひとつの新しい感情が彼のなかに生まれた。

ソーニャを見つめているうちに、胸がしめつけられた。

(中略)

《おれの乳母にでもなるって気か?》

 

次のページ、

 

ふいに、ソーニャがいま自分といっしょに行こうとしているのにも驚いた。

 

つまりラスコーリニコフは、自首する自分に付き添おうとしているソーニャを見て二回も新鮮に驚いています。

 

そして三回目に先ほどの406ページの台詞の直前の文章に至るわけです。

ラスコーリニコフは本心では彼女にすがりたかったのです。

 

でも「すがりつくわけにはいかない」と強がっていました。

それが401ページの「こけおどし」でした。

405ページの精一杯の強がりでした。

 

「自首したい、ソーニャに付き添われて」というのが彼の心の奥底の願望です。

しかし自首に関してもまだまだ迷っています。

付き添われたいという気持ちも口に出せませんでした。

素直さ指数でいうと75%程度の気持ちで、ラスコーリニコフは広場に向かいます。

 

(2018年9月28日)

 

(188)

 

続く部分は全編のクライマックスなのでごちゃごちゃ言わずに読んでもらうしかありません。

 

でも、ごちゃごちゃ言います。

 

まず戸惑うのはラスコーリニコフの優柔不断さです。

せっかく十字路で大地に口づけしたのに、結局「わたしは人殺しです」とは言えませんでした。

そのあとせっかく警察署に行きましたが、火薬中尉と世間話だけしていったんは帰ってしまいそうになりました。

前回も書いたようにラスコーリニコフは当社比75%程度の決意力で自首したのでした。

 

最後の最後くらいすっきり感動させてくれよ、と思わず言いたくなります。

 

ところでこのあたりは「意識の流れ」という手法で書かれています。

スヴィドリガイロフの最後の場面もそうでした。

「意識の流れ」で描かれるスヴィドリガイロフの最期。

その時点で「罪と罰」の主役をラスコーリニコフから奪い取っていたスヴィドリガイロフが、ラスコーリニコフとの存在感の違いを決定づけたかと思われた場面でした。

ところが最後の最後でドストエフスキーはやってくれました。

ラスコーリニコフはちゃんと主役を奪い返してみせました。

ドストエフスキーの筆は冴えに冴えます。

 

何度読んでも、いや、読めば読むほど痛切で哀れでもどかしく、感動的です。

 

ですが、このすさまじい文章力であれば、ラスコーリニコフが普通に「人殺しです」と叫んで、普通に自首しても、私たちに感動を与えてくれたのではないかと思うのです。

 

私たちは知っておくべきです。

ドストエフスキーがここで手放しの感動噺(ばなし)を提供するつもりではなかったということを。

 

(2018年10月1日)

 

(189)

 

全然関係ない話ですが、大昔、小学校の給食で出てくるレーズンパンが大好きでした。

そのまま食べても美味しいし、時にはレーズンだけくり抜いて、最後にまとめて食べるのも楽しみでした。

その話を祖母にすると袋入りのレーズンを買ってくれました。

ところがレーズンだけ食べても全然美味しくないんですね。

レーズンはレーズンパンにあってこそ美味しいんだなあ、と人生の真理を悟った瞬間でした。

 

「意識の流れ」です。

 

ドストエフスキーは細かな心理描写がわずらわしいタイプの作家ですが、第6部で二度、客観的心理描写を廃した「意識の流れ」という技巧を見せます。

一つはスヴィドリガイロフの死の場面、もう一つがラスコーリニコフの自首の場面です。

小うるさい地の文章の中にあって「意識の流れ」は異様で強烈な迫力を見せます。

 

一方この「意識の流れ」という手法を全面的に取り入れたのがジョイスの「ユリシーズ」でした。

「ユリシーズ」は全編ほぼ「意識の流れ」によって書かれているといってもいいほどです。

ちなみに「罪と罰」が1866年、「ユリシーズ」が1922年。

 

そしてこの二つを並べると、私はついついレーズンパンを思い出してしまうのですが、どうしてなのでしょう。

 

(2018年10月3日)

 

(190)

 

最後の最後に来てまだまだ謎の描写があります。

 

ラスコーリニコフが大地に口づけしている場面で、通りがかりの人々がひざまずく彼を見てあざわらいます。

その中の一人がこう言います。

 

みんな、こいつ、エルサレムへ行く気だぜ、子供や故郷とお別れしてるんだ。

この世のみんなにお辞儀してるんだ。

おれたちの都サンクトペテルブルグと、その土にキスしてるってわけよ

 

おおっ、何と的確な説明でしょう!

 

 

まるで「キャプテン翼」の実況アナウンサーなみです。

台詞の主は「ほろ酔いかげんの町人らしい男」とのことですが、ただ者ではなさそうです。

 

それから火薬中尉の一連の台詞もよく分かりません。

彼は「運よくお妹さんにもお目にかかれました」と言います。

ドゥーニャはそんなこと言っていませんし、そんな機会があったとも思えません。

 

さらに火薬中尉はザメートフが転属になったとも言います。

新人類で扱いにくかったとも。

しかしこのあたりの顛末も本編では語られずじまいです。

 

ドストエフスキーの中では「地道に、しかし見当違いの捜査を続ける火薬中尉」という裏ストーリーがあったのでしょうか。

その捜査の一環でドゥーニャと会い、ラズミーヒンには一目置いたけれど、ザメートフとは衝突し……。

もしかすると第四部のあとあたりに幻の章があったのかもしれません。

 

頭の中は疑問符でいっぱいですが、とにもかくにもこれで「罪と罰」本編は終了です!

下部消化器外科専門用語でいうところの「残便感」が著しいですが、いよいよ次回からはエピローグです。

今年中に終わるのでしょうか?

 

(2018年10月5日)

 

プロローグ<第6部第7章<main>


「罪と罰」を読む(第6部第7章)

「罪と罰」を読む〜第6部第7章(第3巻376〜398ページ)

 

(175)

 

第4部第4章で「もう、あのふたりのところには行かない。あそこで、全部の縁を切ってきた」と宣言したラスコーリニコフが、母妹にのこのこと会いに行くところから始まります。

 

我ながら悪意のこもった書き方ですが、悪意があるのはドストエフスキーも同じです。

続く母親の台詞など、相当ひどいです。

ただしこの悪意には仕掛けがあります。

 

ドストエフスキーが母親の台詞に込めた「母親というのは愚かな生き物である」というニュアンスを、我らがラスコーリニコフも当然感じています。

それなのにラスコーリニコフは彼女の台詞を真摯に、素直に受け止めます。

同じレベルに立って会話を続けようとは、決してしませんが、母親に対する態度は立派です。

 

作者の悪意ある描写があるからこそ、このシーンはものすごく感動的なものになったと思うのです。

 

(2018年4月9日)

 

(176)

 

ラスコーリニコフが部屋に戻るとドゥーニャが待っていました。

 

ドゥーニャはスヴィドリガイロフとの一件のあと、自室に戻り、眠れない夜を過ごし、朝になってから兄を探しに外出しました。

向かったのがソーニャの部屋です。

おそらく兄の部屋を一度訪ねてからなのでしょうが、とにかく朝のうちにはドゥーニャはソーニャの部屋を訪れています。

そこで彼女はソーニャと一緒に夕方まで兄を待ちました。

 

ソーニャもドゥーニャも、兄の部屋よりもソーニャの部屋の方が、兄に会える可能性が高いと判断したのでしょう。

 

兄を待ちながらの半日間、二人の間でどういう会話がなされたのか興味深いところですが、次の章を読むとあまり建設的な会話はされなかったようです。

ただ、「ラスコーリニコフが現れるならここだ」、と確信させる何かを二人の女性は感じていたのでしょう。

 

夕方になり、ドゥーニャは兄の部屋に戻ります。

待ち疲れて考えが変わったようです。

「もしかすると兄はここよりも先に自分の部屋に戻るかもしれない」と。

 

「罪と罰」を読んでいて、分かったようで分からないのがドゥーニャのキャラクターです。

母親とは異なり、自立しているし、知的でもある。

ところがスヴィドリガイロフやルージンとの絡みにおいて、どこかこう、合理的でない行動を取ることも多いです。

この日の彼女もそうです。

 

ドゥーニャは、見た目ほどは合理的ではない、むしろ直感的、そういうキャラクター設定のようです。

 

(2018年4月11日)

 

(177)

 

ドゥーニャの勘は当たります。

兄の部屋で待っていると、どろどろになったラスコーリニコフが戻ってきました。

 

ラスコーリニコフは妹にいろいろ素直に告白します。

殺人のことも。

それを罪だとは全然思っていないことも。

金貸しばあさんなんか殺されて当然だと思っていることも。

ただ、自分はばあさんを殺す器でなかった、ということも。

そして自分がその器でなかったという事実のために、罰を受けるのだ、と。

 

最後に彼は妹に一枚のポートレートを手渡します。

それは病気で死んだ婚約者のものでした。

 

なかなか感動的な場面です。

それと同時に、私たちはその娘の存在がラスコーリニコフの心に深く刻み込まれていたことに強く驚かされます。

だって、基本的情緒に欠けた、あのラスコーリニコフですよ。

それがこの章では突然母親に素直になり、妹に告解し、死んだ婚約者の思い出を語ります。

 

ここまで書いて一つ思いつきました。

 

婚約者の死とともにラスコーリニコフは人間らしい感情も喪(うしな)ったのではないか。

 

仮説としては面白いです。

でも正しくはありません。

この章にいたるまでの筆致が、そうではないことを語っています。

 

ドストエフスキーがここに来て、使えるものは何でも使え、と考えたというのが正解でしょう。

 

(2018年4月13日)

 

(178)

 

今回(と言っても9年前ですが)、「罪と罰」を読み直そうと思ったのには理由があります。

その前に読んだ時に、深く脳裏に刻まれた場面があります。

そのシーンが、自分が勝手にでっちあげたものなのか、それともドストエフスキーがちゃんと書いたものなのか、確かめたかったのです。

 

その場面とは、

 

ドゥーニャに拒絶されて生きる意味を見失ってしまったスヴィドリガイロフ。

ポルフィーリーによって、自首か自殺かというところまで追い詰められたラスコーリニコフ。

この二人が夜遅く、すさまじい豪雨の中、川を挟んで向き合います。

二人はしばらく見つめ合い、やがて言葉を交わすことなく別の道を進みます。

そしてスヴィドリガイロフは自殺し、ラスコーリニコフは自首をします。

 

実際の文章ではどうなっているでしょうか。

 

389ページです。

妹に一晩中どこに行っていたのか訊かれたラスコーリニコフはこう答えます。

 

ちゃんとは覚えていない。そう、ドゥーニャ、ぼくはね、最後の決断を下そうと思って、何度もネヴァ川のほとりを歩きまわっていたんだ。そのことは覚えている。あそこで、けりをつけちまおうって思ってたんだ

 

396ページではこう言っています。

 

今日、明け方にネヴァの川岸に立っていたとき、ぼくはね、自分が卑怯者だってことがよくわかったんだ!

 

次にスヴィドリガイロフです。

356ページです。

 

いっぽうスヴィドリガイロフは、ちょうど夜中の十二時に**橋をペテルブルグ区に向かって渡っていった。雨はやんでいたが、風が鳴っていた。がくがくと震えにおそわれ、何か特別な好奇心と、何かいぶかしい思いをいだきながら、少しのあいだ小ネヴァ川の黒い水面に見入った。しかしやがて、こうして川の上に立っていると体がひどく冷えてくることに気づいた。そこで彼は向きを変え、**通りのほうに歩きだした。

 

うーん、こうしてみると、私が抱いたイメージは完全に私が作り上げたものだったようです。

まず、雨は上がっています。

川の名前も、時間帯も微妙に違います。

ただ、ラスコーリニコフは一晩中あてもなくうろついていました。

明け方にはネヴァ川のほとりに立っていましたが、十二時ちょうどには小ネヴァ川にいた可能性も否定はできません。

 

しかしドストエフスキーは、意識して準備した伏線はそれと分かるようにはっきり書く人です。

 

二人は同じ日の夜中、それぞれ暗く重い気持ちで川面を眺めていた……。

 

文章によって描かれているのはこれだけでした。

 

(2018年4月16日)

 

プロローグ<第6部第6章<main>第6部第8章


「罪と罰」を読む(第6部第6章)

 

「罪と罰」を読む〜第6部第6章(第3巻346〜375ページ)

 

(171)

 

スヴィドリガイロフが料理屋でラスコーリニコフと会ったのは四時半です。
その時に彼は「一時間ぐらいお相手できそうですよ」と言っています(274ページ)。
それから25ページ後、「こりゃたいへん! もう十分しかない」という台詞があって、さらに18ページしゃべってから二人の会話はお開きとなります。

 

そのあとスヴィドリガイロフはドゥーニャと会います。
切りのいい時間に約束したとすれば、待ち合わせの時間は午後六時だったのでしょう。
ですが、六時に間に合ったとはとても思えません。
それからスヴィドリガイロフはドゥーニャを自室に連れ込んで、いろいろありました(!)。

 

この章の始まりは八時頃ではないかと思われます。

 

まず彼は、あちこちの安酒屋やいかがわしい魔窟をうろつきまわりました。
面識のない二人組と遊園地に行ったりもしました。
そこにある酒場で喧嘩に巻きこまれたりもしました。
やがて彼は遊園地をあとにします。

 

ちょうど激しい雷雨となりました。
夜十時のことです。


(2017年10月30日)

 

(172)

 

スヴィドリガイロフは土砂降りの中、家に戻ります。
そこであり金すべてをかき集めて部屋を出ます。
行き先は隣のソーニャの部屋です。
彼はソーニャに三千ルーブル分の債権を無理矢理押しつけると、再び雨の中に飛び出していきます。

 

十時二十分。

彼が訪れたのは婚約者の家でした。
婚約者は、ラスコーリニコフを煙に巻くためにでっち上げた出まかせかと思ったら、実在していたようです。
婚約者の両親に大金を託し、幼い婚約者にキスをして、彼はまたまた飛び出していきます。

 

十二時ちょうど。
スヴィドリガイロフはネヴァ川沿いをあてもなく歩いています。

雨はやんでいます。
しばらく立ち止まって川の水面を見つめます。
三十分ほど歩いて、そこにあったアドリアノーポリ・ホテルに入ります。

 

不潔で粗末な部屋です。
壁板の隙間から隣の部屋が覗けたりします。

注文したお茶と料理が届きますが悪寒に襲われたスヴィドリガイロフは手をつけることができません。
彼は高熱に襲われ昏迷状態に陥ります。


(2017年11月1日)

 

(173)

 

そこで彼は夢を見ます。

 

私は「罪と罰」のクライマックスはこの章だと思っています。
特に365ページから371ページにかけての夢の場面はすさまじいです。

 

ドストエフスキーの小説では時に登場人物が熱にうなされて夢を見ます。
第1巻132ページでラスコーリニコフが見た夢も壮絶でした。
「カラマーゾフ」でも終盤、イワンが狂気に満ちた夢を見ます。
夢のシーンこそドストエフスキーがもっとも真価を発揮する場面と言えるかもしれません。

 

しかしこの場面でスヴィドリガイロフが見た夢は、あらゆる夢のシーンの中で、つまりドストエフスキーが書いたあらゆるシーンの中でももっとも激しく、もっとも暗く、もっとも絶望的です。

 

五時前。
夢から覚めた彼は、部屋を出ました。

 

そして……、この章は終わります。


(2017年11月6日)

 

(174)

 

読んでいてしっくりこないところが一つあります。

 

かつてスヴィドリガイロフに凌辱された少女は、首を吊って自殺しました。
しかし夢に出てくる少女は川に身を投げて命を絶ちました。

 

強引に説明できなくもありません。
少女の死因について語られたのは第2巻256ページです。

 

「ある日、屋根裏部屋で、その娘が首を吊って死んでいるのが発見されました」

 

これはルージンの言葉です。

その次のページではフィーリカの自殺についても語られています。
おそらくルージンの中で、少女とフィーリカの自殺がごっちゃになったのでしょう。

 

とすると第3巻298ページで語られる「冬のさなか、水に身を投げた」というレースリフの娘が、当該の少女ということになります。

 

……と、ルージンの勘違いのせいにすることも可能ですが、本当はドストエフスキーの初期設定ミスでしょう。

土砂降りの雨、黒い川面……と来れば、その延長線上にあるのは、ぐっしょり濡れた少女のむくろの方がふさわしいです。

 

第5部と第6部の間のインターバルで、ドストエフスキーも最終調整を図ったものと思われます。


(2017年11月8日)

 

プロローグ<第6部第5章<main>第6部第7章


「罪と罰」を読む(第6部第5章)

「罪と罰」を読む〜第6部第5章(第3巻310〜345ページ)

 

(167)

 

ドストエフスキーは静的クライマックスと動的クライマックスの配置が上手い人だなあと、つくづく思います。
この章は動的クライマックスの章です。

 

本来なら。

 

中年男が美少女を密室に閉じ込めます。
中年男は少女の兄が犯した殺人をネタに彼女を脅迫します。
少女は隠し持っていた拳銃を持ち出します。
実際に引き金を引いてしまいます。
二度も。

 

ハラハラドキドキ間違いなしの章です。

 

ところがこれが全然盛り上がりません。
この章のスヴィドリガイロフは全然面白くありません、ドゥーニャも全然魅力的じゃないです。
この章だけ別人が書いたという説があれば、私は信じます。


(2017年8月2日)

 

(168)

 

かつてスヴィドリガイロフはドゥーニャに駆け落ちを持ちかけて、拒絶されました。
この章でも全く同じ失敗をやらかしてしまいます。

 

彼が拒絶されたのは、彼の考え違いのためです。
スヴィドリガイロフは致命的な間違いを犯していました、しかも二つ。

 

一つは、心の闇を背負った人を救いたくなる「伝道熱」に浮かされたドゥーニャを見て、てっきり彼女が自分に惚れていると勘違いしたことです。
「伝道熱」とは、「殉教フェチ」とも、あるいは「女神体質」と言い換えてもいいかもしれません。
彼女は誰かのために犠牲になりたかったのです。
男性としてのスヴィドリガイロフには何の興味もありません。
数か月前、スヴィドリガイロフはそれを理解できず、敗れ去りました。
そして今もまだ理解できていません。

 

彼は、ドゥーニャのラスコーリニコフに対する思いも、間違って解釈していました。
彼女がルージンとの結婚を認めたのは兄に対する家族愛ゆえだと考えたのです。
微妙に違います。
ドゥーニャがルージンと婚約したのは、そうすることによって自分が兄の犠牲になれるからです。
ルージンがモラハラ男だと分かってもその決心は揺らぎません。
何故ならルージンがクズであればあるほど、彼女の犠牲は際立つから。

 

ラスコーリニコフの暮らしぶりや家族や友人たちに対する態度を見ると、彼に社会適応力がないことはすぐ分かります。
仮にルージンに雇ってもらえたとしても、まともに仕事ができるとは思えません。
でもドゥーニャにはその方がいいのです。
何故ならラスコーリニコフが役立たずであればあるほど彼女の殉教フェチがくすぐられるから。
だからソーニャが現れると、つまり、ラスコーリニコフのために犠牲になる第三者が出現すると、その「伝道熱」は急に醒めたのでした。
ドゥーニャは兄思いの妹だから脅迫すれば簡単に屈するだろうと、スヴィドリガイロフは考えたのですが、その時点でドゥーニャの「兄のために犠牲になりたい」という気持ちは醒めていました。


(2017年8月4日)

 

(169)

 

ドゥーニャの気持ちを勘違いしていたのはスヴィドリガイロフだけではありません。

 

彼女自身も完全に勘違いしています。
かつて、一瞬ですが、彼女はスヴィドリガイロフになびきかけました。
その理由を彼女自身は分かっていません。自分の内にある「伝道熱」に気づいていません。
彼女はそれを、一時の心の迷いのせいだと、無理矢理自分に納得させています。
この章で彼女が見せる過度に激しい拒絶は、過去の自分に対する否定でもあるのです。

 

それではスヴィドリガイロフに勝算はなかったのでしょうか?
一発大逆転の裏技はあったと思います。

 

つまり、「脅迫」ではなく「懺悔」。

 

あの場面、スヴィドリガイロフは「老婆を殺したのは自分だ」と叫びながらドゥーニャにひずまずくべきでした。
鍵のかかった密室で、殺人者と二人きり、想像を絶するような危険な状況です。
そして「伝道熱」は危険であればあるほど激しく燃え上がります。それまでの反発や嫌悪感が強ければ強いほど盛り上がります。
ドゥーニャの激しい拒絶が180度反転した可能性もあったと思うのです。


(2017年8月7日)

 

(170)

 

「罪と罰」とは、ソーニャが現れたラスコーリニコフと、ドゥーニャが現れなかったスヴィドリガイロフの話である、とこれまで思っていました。
そしてその二人の違いは、神に選ばれた者と選ばれなかった者の違いであると。
この「『罪と罰』を読む」も、その仮説に従って読み続けてきました(8年間も!)。

 

ところが今、この章を読むと、「神」は関係ありませんでした。
スヴィドリガイロフは単純に、やり方を間違っただけなのでした。
単に状況判断を誤っただけなのでした。

 

「罪と罰」、読めば読むほど神の世界から遠ざかります。


(2017年8月9日) 

 

プロローグ<第6部第4章<main>第6部第6章


「罪と罰」を読む(第6部第4章)

「罪と罰」を読む〜第6部第4章(第3巻282〜309ページ)

 

(157)

 

スヴィドリガイロフによる自分語りの章です。

 

謎だらけの彼の人生ですが、これまでに与えられた断片的な情報をまとめてみましょう。

 

生まれは貴族ですよ、騎兵隊に二年勤めました、それから、このペテルブルグでしばらくぶらぶらし(第3巻274ページ)

 

「じゃ、いかさま師だったことはあるんですか?」「ええ、いかさま師はね」「というと、ふくろだたきにあったこともはるはずですよね?」「ありますよ。それが?」(第3巻275ページ)

 

あるときこのペテルブルグでとんでもない借金をかかえ込みまして、返済のあてもなく、監獄にぶちこまれたことがあるんですよ。(中略)当時このわたしを身請けしてくれたのがマルファだったわけです。(第3巻282ページ)

 

彼女がなんとか相手とかけあってくれたうえ、身柄を三万で引き受けてくれました(わたしの借金は全部で七万ルーブルあったんです)。そこでわれわれ、正式に結婚しました。彼女はすぐさま、わたしを宝物かなんかみたいに、自分の田舎に連れていきました。(中略)で、七年間、わたしは村から一歩も出ませんでしたね。(第2巻223ページ)

 

マルファさんは、八年前、不幸にも彼を愛するあまり、借金の肩代わりをなさったばかりか、別の点でもあの男に尽くしておられるんです。ひとえにあの方の努力と犠牲によって、ある刑事事件が、ごく初期の段階でもみ消された経緯があるんですね(第2巻255ページ)

 

スヴィドリガイロフ氏は、昔からこのレースリフという女性とひどくねんごろな、あやしい関係にありましてね。その女性の家には、遠い親戚で、どうやら姪御さんらしいんですが、これが耳を聴こえなければ口もきけない、十五、いや、十四歳になるかならないかの娘がおりまして、レースリフは、この娘のことを。どうしようもなく目の敵にし、ことあるごとに穀つぶしと言っては責めたて、残酷になぐりつけたりまでしていたんです。ある日、屋根裏部屋で、その娘が首を吊って死んでいるのが発見されましてね。自殺と認定されたわけです。で、所定の手続きを踏んで一件落着とあいなったわけですが、後になってその子どもは……スヴィドリガイロフによって残酷に辱められていた、という密告があったのです。(中略)で、最後はマルファさんが奔走し、金を積んで、密告はなかったということになり、すべて噂の段階で事なきをえたわけです(第2巻256ページ)

 

(2017年6月16日)

 

(158)

 

こうしてスヴィドリガイロフは田舎に七年間こもることになったわけです。

 

ここで彼が自嘲気味に語るのが、マルファと交わした六か条の契約です。

その内容はそれなりに興味深いのですが、どうしてわざわざこんなことをラスコーリニコフにしゃべって聞かせたのでしょうか。

これはスヴィドリガイロフの照れ隠しだと思うのです。

「自分は契約のために田舎にこもった」と大げさに語って見せることによって、隠遁の本当の理由をごまかしたのではないでしょうか。

 

本当の理由とは罪の意識だと思います。

少女を死に追い込んだ事に対する良心の呵責。

 

いや、良心の呵責とは言えませんね。

スヴィドリガイロフの言動からは「良心」っぽいものも「呵責」っぽいものも感じられませんから。

もっともやもやした「自分がしでかしてしまったことへの恐怖感」とか「全てを放り出して逃げ出したい気持ち」のような感じでしょうか。

そしてこのもやもやした感情は、ラスコーリニコフの気持ちと完全に重なります。

ラスコーリニコフからも良心の呵責は感じられません。ただ、びくびくしてます、いらいらしてます、自暴自棄です。

 

二人がそっくりなのはこのもやもや感だけではありません。

 

(2017年6月19日)

 

(159)

 

どこからともなく救いの女神が現れるのも二人に共通します。

 

ラスコーリニコフの場合はソーニャ。そしてスヴィドリガイロフの場合はドゥーニャです。

違いがあるとすれば、ソーニャに比べるとドゥーニャの方が積極的なところでしょうか。


ドゥーニャはスヴィドリガイロフの様子を見て、それからマルファの言葉を聞いて、彼が深い闇を背負っている事に勘付きます。

彼のふざけた言い回しに従えば、

 

あげくのはては、もう何がなんでも「救いたい」、目を覚まさせ、立ち直らせ、もっと高尚な目的に向かわせて、新しい生き方や活動のために更生させよう、って気持ちになるわけです

 

彼女が心から望み、求めているのはただひとつ、だれか人のため、何かすぐにでも苦しみを受けたいってことだけなんです

 

数多くの評論家やドストエフスキーマニアが様々な「ソーニャ論」を語ってきましたが、この文章は最も端的で最も鋭い「ソーニャ論」だと思います。

しかし、これはあくまでもスヴィドリガイロフによる「ドゥーニャ論」です。

数百回目の繰り返しになりますが、「ラスコーリニコフにとってのソーニャ」=「スヴィドリガイロフにとってのドゥーニャ」ということです。

 

それはともかく、かくしてドゥーニャは積極的にスヴィドリガイロフに関わります。

 

(2017年6月21日)

 

(160)

 

ただし具体的に何があったかはよく分かりません。

例によってドストエフスキーの文章は分かりにくいです。

要領を得ないスヴィドリガイロフの長広舌を、かなりの憶測をもって解釈するならば、おおよそこんな感じではなかったかと思われます。

 

スヴィドリガイロフの館には、パラーシャという、美人だけれど切れやすい小間使いがいました。

ある日、ヒステリー発作を起こしたパラーシャを見て、ドゥーニャはスヴィドリガイロフに抗議します。

スヴィドリガイロフはパラーシャのことなど見たこともありませんでしたが、ドゥーニャに反省の色を見せてしまいます。

彼女のクソ真面目な態度を見て、ついついからかいたくなってしまったのではないでしょうか。

ついでに自分の罪深さや、背負った闇の深さなども告白してしまったかもしれません。

たちまちドゥーニャは食いついてきました。

 

ドゥーニャがせっかく餌に食らいついてきたのに、スヴィドリガイロフはことを急いで失敗してしまいます。

ある意味当然かもしれません、彼はまだドゥーニャの伝道熱をはっきりとは認識していませんでしたから。

彼は、お得意の「お世辞戦法」が奏功したと思ったのでしょう。

彼はドゥーニャにぎらぎらした欲望をぶつけてしまい、彼女に避けられてしまいました。

 

彼は復讐のためにドゥーニャの伝道熱を馬鹿にします。

彼女の「人の犠牲になりたい」という気持ちをあざ笑います。

同じような状況下で彼は下男を自殺に追い込んだことがあります。

スヴィドリガイロフは、ただドゥーニャを辱めるために彼女を侮辱したのだと思います。

彼はパラーシャをかどわかして、ドゥーニャをとことんコケにしようとしました。

 

ところがドゥーニャはまたまたスヴィドリガイロフの想像とは違った反応を見せます。

侮辱しようとしたスヴィドリガイロフにすり寄ってきたのです。

しかも、目を「あやしく」光らせて。

 

そこでスヴィドリガイロフは駆け落ちを持ちかけました。

 

その誘いは当然のごとくはねつけられます。

 

(2017年6月23日)

 

(161)

 

スヴィドリガイロフの誘いはドゥーニャに「当然」はねつけられます、

 

……と思っていました。

しかし本当にそうでしょうか。

 

その顛末については第1巻の79ページあたりに描かれています。

プリヘーリヤの手紙の一節です。

「とつぜん仕事を辞めたりすることなど、たんに前借りしているお金のことばかりでなく、何よりマルファさんのお気持ちを考えてもできない相談でした。(中略)ほかにもいろんな理由がありましたから、およそ六週間、ドゥーニャはこの恐ろしい屋敷を逃げだすことができなかったのです」

物事を表面的にしかとらえられないプリヘーリアによる説明です。


駆け落ちを持ち掛けられたドゥーニャをその後六週間も引き留めたのは、様々な真っ当な理由だけではなく、「ほかにもいろんな理由が」あったせいです。

「ほかの理由」とは一体何なのでしょうか。

さらにスヴィドリガイロフはラスコーリニコフにこんな思わせぶりなことを言います。

 

ただですよ、夫婦間のできごととか、恋人同士のあいだで起こったことっていうのは、けっして他人に断言できる性質のものじゃないんです。どんなときもそこには、世界のだれひとり知らず、当事者のふたりだけが知っている、ちいさな真実ってものがあるんですから

 

六週間の間、二人がどういう関係にあったのかはいっさい書かれていません。

しかし「ドゥーニャはいやいやでひたすら拒み続けていた」というな単純な状況ではなさそうです。

 

(2017年6月26日)

 

(162)

 

あとで分かることですが、スヴィドリガイロフはこの直後にドゥーニャと会うことになっています。

本当はラスコーリニコフ相手にこんな長話をする時間はありませんでした。

しかしスヴィドリガイロフはよっぽどドゥーニャとのことを誰かに聞いて欲しかったのでしょう。

ですが、スヴィドリガイロフにはそんなのろけ話を聞いてくれるような知り合いはいません。

 

さんざん迷った末にスヴィドリガイロフはラスコーリニコフについついドゥーニャの話をしてしまいます。

一番聞かせてはいけない相手にしゃべってしまったわけです。

 

当然、ラスコーリニコフはやきもきします。

「いまもドゥーニャに、何かとくにさしせまった計画を持っている」んじゃないかと疑ります。

スヴィドリガイロフもあわてて(でもないですが)ごまかそうとします。

そこでラスコーリニコフに聞かせたのが、十六歳の娘と結婚の予定があるという話でした。

かつてねんごろな関係にあったレースリフから紹介された娘です。

マルファが死んでまだ十日も経っていません。

それからもう一人、カンカン踊りの店で出会った十三歳の少女の話。

ペテルブルグにやってきたその日のうちに知り合って、今後も付き合い続けようと思っているようです。

 

スヴィドリガイロフはなかなか行動が素早いです。

 

(2017年6月28日)

 

(163)

 

前の章から続く二人の会話ですが、いっぱい分からないところがあります。

基本的に分からないことだらけなのですが、その中でも特に分からない点が二つ。

 

278ページ

マルファの幽霊がまだ出るのか? という問いにスヴィドリガイロフは「ペテルブルグに来てからはまだ出ていません」と答えています。

これは違います。

第2巻の226ページで彼は、今から二時間前、泊まっているアパートの部屋に現れた、と語っています。

ペテルブルグにやってきて三日目のことです。

マルファの幽霊に「結婚しようと思っている」と伝えると、「みっともないことはやめなさい」と諫められました。


彼は嘘をついたのではなく、幽霊の出現を忘れてしまった可能性があります。

普通に解釈すると、マルファの死への負い目がスヴィドリガイロフに幽霊を見させているのだと思います。

ペテルブルグに来て三日目までは感じていた負い目を、今現在では感じなくなっているとすれば、幽霊が出たことを忘れてしまうかもしれません。

そのつもりで第2巻を読み直してみると、幽霊の台詞はこうです。

「それに、よい人にめぐり会えたならともかく。わたし、わかってるんですよ、相手の娘さんのためにも、ご自分のためにもならない、人さまの物笑いの種にしかならないってことがね」

そのあとにスヴィドリガイロフはこう言っています。

「近々ある若い子と結婚するかもしれませんし、そうなれば結果的に、アヴドーチヤさんになにか下心をいだいているという疑いは、雲散霧消するはずです」

今までは、マルファが「物笑いの種」になると考えた結婚相手はてっきり「ある若い子」のことなのだと思っていました。


違いました。これはドゥーニャです。

三日目まではまだスヴィドリガイロフはドゥーニャをあきらめきれていなかったということです。

 

(2017年7月3日)

 

(164)

 

今、ドゥーニャをあきらめきれたのかどうかは分かりません。

ただ、十六歳の少女との結婚話が具体的に進行しているので、マルファに文句を言われる筋合いはないとスヴィドリガイロフは思っているのでしょう。

 

ちなみに、スヴィドリガイロフの前にマルファの幽霊が出た同じ時刻、ラスコーリニコフの前にも幽霊が現れていました。

第2巻の189ページです。

謎の人物に「おまえが人殺しだ」と言われ、その男は通りに消えていきます。

 

そのあとラスコーリニコフは昏倒します。

半時間後に部屋にラズミーヒンが来ます。

彼が帰ったあと半時間してラスコーリニコフは悪夢に苛まれます。

いつ果てるともなく続く悪夢でしたが、彼がやっと目が覚めた時、まだ日は暮れていませんでした。


そこに現れたのがスヴィドリガイロフで、彼が言うには、二時間前にマルファの幽霊が出たのでした。

 

(2017年7月5日)

 

(165)

 

もう一つ分からないところがあります。

278ページ。

ラスコーリニコフとは積もる話があるけれど、時間がなくって、とスヴィドリガイロフが言います。

「なんです、さっきの女性と会う話ですか?」

ラスコーリニコフが問いただします。

 

「さっきの女性」とは誰か、はっきりしませんが、スヴィドリガイロフが275ページで「どちらかというと女性の問題がからんでたからなんですよ」と触れた女性ならば、これはドゥーニャです。

一方、ラスコーリニコフはこれを「女遊びの相手」という風に広く解釈したようです。

スヴィドリガイロフはその勘違いを都合よく利用しました。

女遊び論について一席ぶったりもします。

 

そして先ほどのラスコーリニコフの質問に対してこう答えます。

「ええ、女性とね、それも、ちょっと思いがけないことで……いえ、あの話じゃありませんからね」

「あの話」とは何かはさっぱり分かりません。

しかしラスコーリニコフはその言葉に突然激高します。

 

「てことは、ああいうけがれた環境を、なんとも思わなくなってるんだ? 自分を抑える力もなくしてしまった?」

 

ラスコーリニコフは何に怒っているのでしょう?

 

(2017年7月7日)

 

(166)

 

私は今までラスコーリニコフの台詞を、何かの間違いだと思っていました。

306ページか307ページのどこかに挿入されるはずの台詞が、違うところに紛れ込んでしまったのだと思っていました。


だってそれまでの二人の会話には、「ああいうけがらわしい環境」に相当する箇所がないのです。

ただ一つあるとすれば、この台詞の26ページあとに登場するカンカン踊りの店だけです。

これは編集ミスに違いない、私はそう思っていました。

 

しかしよく考えてみると、ラスコーリニコフにはこの日の前の二、三日間の記憶がないのでした。

その間、スヴィドリガイロフともいろいろ会話を交わしたはずなのに全然覚えていません。

いや、覚えていないのではありません。

意識の下にしまわれて、意識の表に出てこない状態、つまり記憶の引き出しがぐちゃぐちゃになっているわけです。

 

第6部の3、4章で交わされた会話は、前日にも交わされていた可能性が高いです。

この二、三日、毎日繰り返されていた可能性もあります。

そうするとラスコーリニコフが26ページ後の台詞を先取りしたかのようにかっとなっても不思議ではありません。

 

それでもあと二つ分からないところがあります。


278ページのスヴィドリガイロフの台詞の中の「あの話」とは何か。

何か思いがけないことだったようです。

今の時点で分かっている、ペテルブルグでスヴィドリガイロフが遭遇した思いがけない出来事とは、少女を死なせたことだけです。

彼は286ページで「そういうばかな話、どうしてもお知りになりたいっていうのなら、いつかお話もしますがね」とも言っています。

少女が自殺した理由は謎のままですが、自殺したこと自体は、記憶のあやふやな二、三日の間に話題に上った可能性があります。

 

二つ目は298ページに触れられる、レースリフの娘です。

「ほら、例の噂の当人ですよ、娘が冬のさなか、水に身を投げたとかいう噂の」

しかしこんなエピソードは本編には登場していません。

でもスヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフも確かに知ってるはずだと言っています。

二人の間で交わされて、私たちにつまびらかにされていないのは前日までの二、三日の会話だけです。

レースリフの娘の話題はそこで出てきたのでしょう。

冬のさなかに入水自殺を図ったという話であれば、そこそこ「思いがけない」出来事です。

 

どうやら「あの話」イコール「レースリフの娘の話」のようです。

 

(2017年7月10日)

 

プロローグ<第6部第3章<main>第6部第5章


「罪と罰」を読む(第6部第3章)

「罪と罰」を読む〜第6部第3章(第3巻257〜281ページ)

 

(155)

 

ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフに会いに行きます。

二つ用件があります。

 

一つ目は、老婆殺しの犯人である事をポルフィーリーには言うなと伝える件。

二つ目は、ドゥーニャに関わらないで欲しいと頼む件。

 

どれだけ身勝手な依頼でしょう。

人を二人も殺しておいて警察には黙っておいてくれ。

自分では働く気は一切ないくせに、姉が経済力のある男性と結婚するのはいや。

さすがにばつが悪くなったラスコーリニコフはスヴィドリガイロフにこう言います。

 

「いやあ、ぶらぶら歩いてたらたまたま出くわしちゃって〜。僕たち何かの縁でしょうかねえ」

ラスコーリニコフはこの「奇跡」を本気で不思議がっているようです。

しかしスヴィドリガイロフにこう切り返されてしまいます。

「たいていここで酒を飲んでるから、ここに来れば会えるって言ったはずですよ」

 

単にラスコーリニコフがぼんやりしていただけなのでした。

ドストエフスキーは完全にこのお坊ちゃんを見捨てたようです。

 

(2017年5月19日)

 

(156)

 

ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフの会話がじっくり描かれるのは、実は二度目です。

もっとたくさんしゃべったような気がしますが、二度目です。

前回は第2巻の211ページ、今から4日ほど前のことです。

 

前回も今回も、二人の会話は噛み合いません(そもそも「罪と罰」自体、噛み合っている会話の少ない小説ですが)。

前回は、訳の分からないことを並べ立てるスヴィドリガイロフに、ラスコーリニコフが振り回されているような印象でした。

今回、スヴィドリガイロフは比較的まともで普通です。

彼の言葉の端々に、ラスコーリニコフが脊髄反射的に噛みつきます。

今回会話を邪魔しているのはラスコーリニコフの方です。

 

ラスコーリニコフ、ソーニャ一家、ドゥーニャ、全ての人々の運命はスヴィドリガイロフに握られています。

ラスコーリニコフに与えられた選択肢はスヴィドリガイロフを殺すか、自首するか、です。

しかし前回の殺人で発狂寸前まで追い込まれたラスコーリニコフに「殺人力」など残っているはずがありません。

選択肢は、殺すか、自首するか、ではありません。

いつ自首するか、だけです。

 

この小説で、ラスコーリニコフの役割は、スヴィドリガイロフの相槌を打つくらいしか残されていないのです。

 

(2017年5月22日)

 

プロローグ<第6部第2章<main>第6部第4章


「罪と罰」を読む(第6部第2章)

「罪と罰」を読む〜第6部第2章(第3巻221〜256ページ)

(146)

前回、「ここからしばらくはドラマティックなイベントも発生」しない退屈な部分だと書きました。
大間違いでした。
この章は大迫力です。

ポルフィーリーがラスコーリニコフをじわじわ追い詰めて、いよいよ犯人だと名指しする場面。
実にすさまじい破壊力です。
しかもほとんどがポルフィーリーの台詞によって成り立っていて、この迫力なのです。

考えてみればドストエフスキーはこういう文章を他では書いていません。
知的なキャラクターは登場しても知的な台詞はあまりしゃべりません。
ポルフィーリーはおそらくドストエフスキー作品の中でただ一人知的な台詞をしゃべる知的キャラクターです。
逆に言うとこの作品のこの部分のために、ドストエフスキーはとっておきの人物を持ってきたわけです。


(2016年12月14日)

(147)

ポルフィーリーは第2巻の138ページによると三十五、六歳です。

「顔の色は病人のようにくすんだ黄色味がかっていたが、じゅうぶんに元気そう」だそうです。
今読んでいる章では「咳はでる、喉がむずがゆい」「肺が拡張している」とも書いてあります。
まだ若いのに、肝臓も肺も調子がよくないようです。
第2巻の349ページには「痔もちなもんですから」という自身の言葉もありました。
全身ぼろぼろみたいです。

一つ気になることがあります。
「タバコがいけません」と言っておいて、「そもそも酒が飲めない、まさにそこが問題なんです」と続けています。
酒が飲めないからせめてタバコでストレスを解消するしかない、ということのようです。

しかし第2巻の151ページで彼は「昨日きみのとこで飲んでから、どうも頭が……、それに何か、体じゅうのねじがゆるんでしまったみたいで」と言っています。
飲めないと言ったかと思えば、二日酔いになるほど飲んだと言ってみたり、一体どういうことでしょう。


(2016年12月16日)

(148)

これはおそらく「飲んだ」という発言の方が嘘です。

第2巻で「ねじがゆるんだ」と言ったあと、ポルフィーリーは前日の飲み会で議論になった「犯罪論」を蒸し返します。
それに巻き込まれてラスコーリニコフは自分の「犯罪論」を自慢げに語ってしまったのでした。

今にして分かります。
ラスコーリニコフに「犯罪論」を語らせるために、ポルフィーリーは「いやあ、昨日は飲み過ぎてねえ」などと言ったのでしょう。
そして今「飲み過ぎたなんて言ったのは嘘だったんです」と舌を出しているわけです。

もちろん深読みしすぎだと思います。
ここまで気にする必要はないと思います。
何しろラスコーリニコフだって気がつかなかったくらいですから。


(2016年12月19日)

(149)

ドストエフスキーマニアでも中には頭の悪い人がいて、分かってないのに分かったような気になっているのが、はたから見ると滑稽だったりします。

第1巻の370ページを読んでその人は「何度読んでも分からなかったのに、今回読んでやっと意味が分かった」などと感動しています。
以下、その人の文章の引用です。

*****

「なんていう名だ?」
「親にもらった名前さ」
「なに、きみはザライスクの出身なのか?何県だ?」

これなど文面だけ読んでいてもちんぷんかんぷんです。
しかしこういう文章だと違ってくると思うのです。

「なんていう名だ?」
「それを訊いてどうするつもりぞなもし」
「なに、きみは伊予の出身なのか?どこだ?」

赤いシャツの若者に特徴的な訛りがあったという事なのでしょう。

*****

おお、すっかり分かったような気になっています!


(2016年12月21日)

(150)

しかしこの文章には前後があります。

「この角で商売をしている商人がいるだろう、女づれで、女房と、え?」
「いろんな連中が商売してるんでね」若者は、相手を値踏みするように、ラスコーリニコフをじろじろ見やりながら答えた。
「なんていう名だ?」
「親にもらった名前さ」
「なに、きみはザライスクの出身なのか? 何県だ?」
若者は、あらためてラスコーリニコフを見やった。
「うちらはね、旦那、県じゃなくて、郡なんです。兄貴はあちこち回ったが、おいらはうちにばっかりいたんで、なんにもわからんです」

若者の訛りで出身地を推測した……というのはそれでいいと思うのですが、その前後がやっぱりちんぷんかんぷんです。

たとえばラスコーリニコフの言葉
「ザライスク出身なのか? 何県だ?」
です。もしこれが
「きみは関西人か、何県だ?」
だったら分かります。関西にはいくつか府県がありますから。
しかしザライスク市はwikiによるとリャザン県の一部です。
「神戸市なのか? 何県だ?」
という意味不明な問いかけをラスコーリニコフはしていることになります。

若者の次の言葉も分かりません。


(2016年12月26日)

(151)

「おいらはうちにばっかりいたんで、なんにもわからんです」
この若者は、ずっと家にいたのでどこの出身か分からない、と言っているのです。
しかし引きこもりの若者でも家の住所くらいは知っているでしょう。(知っていますよね?)

このやり取りが成立するためには「ザライスク」に特別な意味を持たせるしかないと思うのです。

訛りや、地理的な位置ではない、何かの象徴のような、特別なニュアンス。

「その赤い帽子、もしかして広島出身?」
みたいな。

ドストエフスキーは不親切です。
「ザライスク」にどういう意味が込められているのか、いっさい説明してくれません。
噛み合ってるような噛み合ってないような、すっきりしないまま若者との会話は打ち切られます。

そして何と、その会話の600ページあとに「ザライスク」が再登場します。


(2016年12月28日)

(152)

で、ご存じですかね、やつが分離派(ラスコーリニキ)の出だってこと?
いや、分離派なんてもんじゃなく、異端派ですよ。
やつの一族には逃亡派が何人かいて、やつもつい最近まで、とある村の長老のもとでまる二年、教えをうけていたらしいんです。
この話は、ミコールカと、やつの同郷のザライスクから来た連中に聞きましてね。
とにかくあきれましたよ!
ただもう隠遁することばかり考えていたんですって!
すっかり狂信的になって、毎晩神さまに祈り、古い『真理の』書を読んで読んで、読みふけっていたらしいです。
そこにもってきて、ペテルブルグがやつに強烈に作用した、とくに女と、酒ですがね。
なんといっても感受性たっぷりですから、長老のことも、みんな忘れてしまった。
この町の画家がやつにすっかり入れあげて、ちょくちょく足を運ぶようになったとかいうことまで判明しています。

*****

分離派をロシア語では「ラスコーリニキ」と呼ぶらしいです。
分離派と言われてもよく分かりませんが、苦行や受難や自己犠牲に重きを置く宗派のようです。
当然われらが主人公「ラスコーリニコフ」との関連が気になるところですが、どこをどう読んでもラスコーリニコフから「ラスコーリニキ」的要素を見つけることはできません。

普通に「罪と罰」を読んで、彼と分離派的な何かを結びつけるのは無理です。


(2017年1月4日)

(153)

「ザライスク」にも引っかかります。

ラスコーリニコフはどうやらザライスク出身のようですが、何とミコールカもザライスク出身です。
しかも分離派(ラスコーリニキ)のようです。
これは一体どういうことなのでしょう。

主人公の名前に付けられた「ラスコーリニキ」。
第1巻で暗示された「ザライスク」的なもの。

これらがここに来てわざとらしく持ち出されたのには理由があるはずです。
(何がわざとらしいと言って、最初に登場した時、ミコールカはこんなやつじゃなかったですよね?)

読者にラスコーリニコフの内面にある苦行僧的キャラクターを気づかせるためでしょうか?
逆だと思います。
構想段階で主人公に付与されていた裏設定を、完全に拭い去るためだと思います。
ザライスク出身で、ラスコーリニキでもあったという設定を、ミコールカに憑依させて、彼もろとも物語から消し去るためだったと思います。

だって、我らがラスコーリニコフに、苦行僧的な部分なんてどこにもないですから。
ドストエフスキーもそれに気づいて、誤読のもとになりそうな要素を取り除いたのでしょう。

今以降、ラスコーリニコフが採る選択肢は、自分自身による自分自身だけのためのものだということです。


(2017年1月6日)

(154)

先ほど引用した中に、もう一つわけの分からない文章があります。

この町の画家がやつにすっかり入れあげて、ちょくちょく足を運ぶようになった……

この部分がさっぱり分かりません。
「罪と罰」には、少なくとも今の時点で、「画家」は一人も登場していません。
突然、「ザライスク」出身で「ラスコーリニキ」だったというキャラクター付けをされてしまったミコールカですが、ポルフィーリーの言葉によるとさほど魅力を感じさせる人物ではなさそうです。
ところがそのミコールカにどこかの画家が入れあげたらしいです。

この文章の意味がまったく分からないのです。
ドストエフスキーの頭の中にはどんな裏設定がうごめいていたのでしょうか?


(2017年1月11日)
 

プロローグ<第6部第1章<main>第6部第3章


「罪と罰」を読む(第6部第1章)

「罪と罰」を読む〜第6部第1章(第3巻197〜220ページ)

 

(144)

 

短い時間に劇的な出来事をぎゅーぎゅーに詰め込むのはドストエフスキーの得意技です。  

何と、第2巻の336ページから第3巻の194ページまで、260ページがたった一日のできごとなのでした。

そりゃあラスコーリニコフも疲れます。  

 

続く第6部は曖昧模糊とした語りから始まります。

ここからしばらくはドラマティックなイベントも発生しませんし、ソーニャも登場しません。

読了まであとちょっとというところまで来た読み手を眠くさせる、「難所」と言えるでしょう。  

でもそれはハチャメチャな前章で、ドストエフスキーも疲れてしまったからです。

疲れるのは登場人物だけではなく作者も疲れるのです。

読者が疲れても仕方がないと思います。

 

(2016年11月11日)

 

(145)  

 

ラスコーリニコフがルージンの悪だくみを打ち破り、ソーニャに告白し、カテリーナが発狂したのが物語の何日目であるかは議論が分かれるところです。

四日目に昏倒したラスコーリニコフが意識を取り戻したのが六日目なのか、七日目なのか決定的な手掛かりがないからです。

 

同じように、この章のできごとがカテリーナ発狂の何日後なのか、よく分かりません。  

199ページには「カテリーナの死後この二、三日で」とあります。

その他の細々した描写が、何となく「48時間よりは長い時間経過」を感じさせるようなタッチです。  

しかし200ページには「カテリーナの亡骸はまだ棺におさめられたいた」とあります。

夏の真っ盛りです。三日間も部屋に安置しておくことは可能でしょうか?  

一方、204ページには「この三日間とくらべて、頭の中もすっきりし」とあります。

頭がすっきりしていなくてはルージンをやっつけることはできなかったと思います。

とすると二日目ではありえないと思えます。  

ところが209ページではラスコーリニコフが「一昨日だったか、妹ときみの話をしたよ」と言っています。  

この章の冒頭ではドストエフスキーがラスコーリニコフの記憶の曖昧さについて語っています。

ラスコーリニコフの言葉は決定的な手掛かりにはならない、と作者自身が言っているわけです。

 

これらを総合すると、「おそらくは二日後、しかし三日後という説も完全に否定できない……」、そんな風に作者がわざとぼかして書いたという結論になりそうです。

 

(2016年11月14日)

 

プロローグ<第5部第5章<main>第6部第2章


「罪と罰」を読む(第5部第5章)

「罪と罰」を読む〜第5部第5章(第3巻160〜194ページ)

(139)

さあ、ドストエフスキー最もお気に入りのキャラクター、カテリーナが大活躍(?)する章です。

エピソードがぎゅうぎゅうに凝縮されているので実感がないかもしれませんが、実はマルメラードフが死んでからまだ四十八時間も経っていません。
マルメラードフの法事の日に、カテリーナは発狂するわけです。

ちなみにここで歌われる「埴生の家」はおそらく、これです。

(2016年10月5日)

(140)

「軽騎兵はサーベルにもたれて」はたぶんこれです。

歌ではなく原詩(Batyushkov作)の朗読ですが。

(2016年10月7日)

(141)

こういう当時の流行歌を小道具として使い、ドストエフスキーの筆は自由自在に走ります。
もともと大好きなカテリーナというキャラクター。
それから傍観者も入り乱れての大騒動も、ドストエフスキーが好んで描く情景です。
章の頭から最後までドタバタのまま一気に突っ走ることもできたはずです。

ところがここでまさかの中断です。

カテリーナ発狂の知らせを聞いたラスコーリニコフは、なぜか真っ直ぐ駆けつけることをしないでいったん自室に戻ってしまいます。
ソーニャへの告白のために生命力を消耗してしまったというのが一番もっともらしい理由ですが、はっきり言って無理があります。
さらにそこにドゥーニャが現れる不自然さ。
しかもそこにドラマ上の必然性がまったくないのです。

このドゥーニャのシーンが昔から謎でした。


(2016年10月12日)

(142)

第2巻の291ページからラスコーリニコフは家族に別れを告げ、そのあとラズミーヒンに顔芸で重大な事実を伝えます。
事実上の自白といっていいシーンです。

ポルフィーリーとはまだ戦うつもりのようです。
しかし家族には告白し、親友にも告白しているのです。
ソーニャにも近々告白する予定です。

中学生のころ、試験の日の朝に友達と「いやあ、全然勉強してなくってさあ」などとよく言い合ったものです。
今思えば幼稚で安っぽい予防線でした。
第2巻でのラスコーリニコフの告白にも、私は同様の幼稚さを感じてしまうのです。


(2016年10月14日)

(143)

さらには、ポルフィーリーとの対決の場にミコライが「自分が犯人だ!」と言って乱入してきます。

完全にラスコーリニコフの告白は宙に浮いてしまいます。
告白を受けていたラズミーヒンも、真犯人逮捕の知らせに頭が混乱したに違いありません。

ラスコーリニコフの告白をなかったことにするのが一番都合のいいやり方だと誰もが思いました。
ラズミーヒンも。

それからドストエフスキーも。

ラスコーリニコフが第2巻で告白していなければソーニャへの告白の重みが増します。
ドラマ的にもその方がうまくストーリーが展開します。
そこでドストエフスキーは以前の告白をなかったことにするために、ここでドゥーニャを登場させたのだと思います。
第2巻で筆が滑ったのを取り戻すために、こんな余計なシーンを挿入させざるを得なかったのだと思います。

「沖田艦長は生きていた!」「ユリアは生きていた!」に匹敵するぐだぐだ辻褄わせのように私は感じるのですが、そんなことを思ってしまうほど、不自然なシーンであることは間違いないと思います。


(2016年10月17日)

 

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