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谷崎潤一郎全集、ついに全巻終了しました。
19巻と20巻は少し変則的で、19巻に「細雪」の「上」と「中」および雑纂。20巻に「細雪」の「下」と雑纂が収録されています。
どういう風に読み終えるのがいいかちょっと考えましたが、
20巻の雑纂→19巻の雑纂→「細雪」の「上」「中」「下」
と読み進めるのがベストだと結論しました。
割とどうでもいいことですが。
そんなことよりも問題はあらすじです。
(2021年8月20日)
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ちまたでは「何も起こらない小説」と言われたりしますが、「細雪」では結構大事件が起こっています。
阪神大水害も発生していますし、その直後の板倉のエピソードも衝撃的です。
そもそも主要登場人物だけでも絞りに絞って3人。
背景の説明だけでも200文字に収まるわけがありません。
でも、やります。
恒例の200文字あらすじ。
あれも、あれも、それにあれも、ばっさりカットしてのあらすじです。
船場の富商蒔岡は先代で没落し店も人手に渡っていた。長女夫婦は本家を名乗っていたが実体はない。三女雪子と四女妙子は本家と肌が合わず次女幸子の芦屋の家によく出入りした。連れだって歩く三人の姿は人目を引いた。雪子は縁遠かった。縁談があっても本家の見栄と本人の内気のせいでまとまらなかった。やっと結婚が決まった。式は東京でおこなわれる。雪子は支度を整えて汽車に乗った。数日前からの下痢はまだ治まらなかった。
(2021年8月23日)
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いろいろ大事件が起きているのに「細雪」が「何も起きない小説」と言われるにはわけがあると思います。
最大の大事件「阪神大水害」の場面があんまり面白くないのです。
私も、知っている地名がたくさん出てくるので何とか読み通せましたが、そうでなければ斜め読みしていたと思います。
あと板倉の病気も、職業的な興味で読みましたが、面白かったかと言われれば素直にうなずけません。
読んでいる時はすっごくいらいらするのですが、雪子が電話口でおろおろしてしまって縁談をぶち壊してしまう、そんなところが何だかんだ言って面白かったのだと思います。
ところで板倉の病気ですが、中耳炎をこじらせて乳様突起炎を起こし、それがさらに悪化して菌が全身に回ったものと思われます。
乳様突起というのは耳のすぐ後ろの少し出っ張った部分で、この部分の骨は空洞だらけになっています。
そこに菌が入ると膿の逃げ場がなくなって急激に悪化するのです。
抗生剤の登場とドレナージ術の確立で最近は減ってきましたが、まだ稀に発生するようです。
(2021年8月25日)
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身体の中に溜まった膿を外に逃がしてやる処置を「ドレナージ」といいます。
乳様突起に限らず、体内の閉じられた空間に膿が溜まった時には抗生物質をどんなに使ってもよくなりません。
膿を外に出す処置が必要となります
頭でも胸でもお尻でも同じです。
逆に、上手に膿を外に逃がしてやれば抗生物質など必要ないほどです。
ところがこのドレナージがなかなか難しいです。
膿を速やかに外に出すためには大きく切開すればいい、というのは誰でも分かっています。
ですが「大きく切る」というのができそうでできません。治療のためと分かっていても人の身体に傷を入れるのには本能的な抵抗感を感じてしまうのです。
私もそうです。ドレナージ処置のたびに思います。「切開すべき大きさの九割しか切れなかった」と。
特に最近、外科医は「いかに傷を小さくするか」ばかり考えています。
「大きく切れ」なんて言われようものなら頭がおかしくなるのではないでしょうか。
医学がどんなに進歩しても身体の中に膿が溜まるケースは一定頻度であります。
しかし大きく切れる外科医は減る一方です。
近い将来、再び乳様突起炎が命にかかわる病気になる時代が来そうな気がしてなりません。
(2021年8月27日)
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そういえばずいぶん前に書いたことがあります。
今は何でも内視鏡でおこなうのが大流行りです。
お腹を切って胆嚢を取る病院なんてもう存在しません。
ですがその技術は開腹手術の達人たちが確立させたものです。
術中に何かアクシデントが発生してもすぐに開腹手術に切り替えて対処できる外科医によっておこなわれてきたのです。
その世代の外科医はそろそろ引退していきます。
残るのはお腹に大きくメスを入れたことのない外科医ばかりになります。
その時代に、たとえば術中に胆嚢動脈に傷をつけてしまった時、彼らが対処できるのか、不安だったりします。
まあ、そういう旧世代の不安を飛び越えて新技術は確立されていくものですが。
私が内視鏡手術を受ける時には、スタッフに一人は私と同世代の医師が加わっていてほしいものです。
(2021年8月30日)
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「細雪」に戻ります。
幸子の家は芦屋にあるという設定なのでいろいろ見知った場所が出てくるのが楽しいです。
家のモデルは住吉川沿いにある倚松庵(いしょうあん)と言われています。
実際には今の魚崎駅の近くにあったらしいですが六甲ライナーの建設にともない現在の場所に移設されたそうです。
いずれにしても風情のある場所だと思うのですが、谷崎がどうしてこれを芦屋に設定しなおしたのかはよく分かりません。
先日の納涼夕涼み会に行ってきました。
雨のため窓が閉め切られていたために、夕は涼めませんでしたが面白かったです。
リビングです。
当時の状況をどれだけ再現したレイアウトなのかよく分かりませんが、外見からは想像できないハイカラな家です。
窓の隙間から見える庭です。
(2021年9月1日)
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なぜか芦屋に設定された幸子の家ですが、それが芦屋のどのあたりにあるのか興味深いです。
一番参考になるのがこの部分です。
幸子の家から蘆屋川の停留所までは七八丁と云うところなので、今日のように急ぐ時は自動車を走らせることもあり、又散歩がてらぶらぶら歩いて行くこともあった。そして、此の三人の姉妹が、たまたま天気の好い日などに、土地の人が水道路(すいどうみち)と呼んでいる、阪急の線路に並行した山側の路を、余所行きの衣裳を着飾って連れ立って歩いて行く姿は、さすがに人の目を惹かずにはいなかったので〜(第19巻44ページ)
その他にも参考になる文があちこちにあって、それを総合すると清水町あたりではないかと推測されるそうです。
げんこつラーメンのすぐ北側ですね。
そのあたりの推論はこちらの文学探求サイト「 東京紅団」で詳しいです。
(2021年9月3日)
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雪子の眼のふちにはシミがあります。
日によって濃くなったり薄くなったりするそうです。
本人はさほど気にしていないようですが、姉の幸子はお見合いの日が近づいてくると気になって仕方ありません。
ついにある日皮膚科で診察を受けさせます。
その結果は「結婚すれば薄くなるから気にしなくていい」というものでした。
これは「肝斑」っぽいです。
女性ホルモンと関係したシミで、三十代から出現して五十代になると薄くなっていきます(微妙に谷崎の記述とは食い違いますが)。
現代でも根本的な治療は難しいようで、トラネキサム酸の服用が中心となります。
当院だとトランサミンですね。
1か月分3割負担で千円程度の薬です。
(2021年9月6日)
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「細雪」を特集するにあたって雪子のお見合い戦歴をまとめようと思ったのですが、詳しくまとめてくれている人がちゃんといました。
その名もずばり「雪姉ちゃんは目のふちが気になる」。
私が考えたよりも詳しく、分かりやすく、しかもきれいな文章でまとめられています。
こういうのを見ると自分が「細雪」について語るのが恥ずかしくなります。
でも、語るのですが。
(2021年9月8日)
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谷崎についてはプロの研究者からアマチュア愛好家までありとあらゆる本読みによって研究や叙述がなされているので、今更私の出る幕はありません。
せめて神戸元町界隈の描写だけでもまとめておきましょう。
「МB化学工業云うたら、仏蘭西系の会社やねんなあ」
「そうやわ。ーよう知ってるなあ、こいさん」
(中略)
「日本にかて、神戸の海岸通に大きなビルディングあるやないか」
(第19巻10ページ)
このМB化学工業は当時の帝国酸素(現・日本エア・リキード株式会社)がモデルだったそうです。
これもこちらのサイトに詳しいです「阪急・阪神沿線文学散歩」。
建物も残っていて、今は大丸別館のHERMESが入っているビルですね。
気軽には入れない、すごーく敷居の高い建物です。
(2021年9月10日)
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続いて第19巻13ページ。
井谷と云うのは、神戸のオリエンタルホテルの近くの、幸子たちが行きつけの美容院の女主人なのであるが、(後略)
オリエンタルホテルは今回の雪子のお見合い会場で、このあとも何度となく登場します。
結婚式でもお見合いでも会食でも、「ハイソが使うならここ」のような場所だったようです。
ただ、調べてみると谷崎の時代の建物は神戸大空襲で被害を受けて取り壊されたそうです(3代目)。
私が覚えている旧オリエンタルホテルはそのあと再建された建物(4代目)なんですね。
井谷はホテルの専属美容師みたいな感じでしょうか。
世話焼きでもありますが、実際に顔も広いようです。
で、特筆すべきは井谷の人のよさ。
プライドだけ高くて優柔不断でわがままな蒔岡家のために実に根気よく骨折ってくれます。
「しょーもない人」ばかり出てくる「細雪」を救ってくれているのは幸子の夫貞之助と、この井谷の常識人ぶりだと思います。
(2021年9月13日)
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さらに第19巻104ページから、
妙子の個展は今度は神戸の鯉川筋の画廊を借りて三日間開催され、阪神間に顔のひろい幸子の蔭の運動もあって、第一日で大部分の作品が売約済になると云う成績を挙げた。
この画廊は大塚銀次郎によって開かれた「画廊」という名の画廊だそうです。
それについてはこの「兵庫県立美術館季刊誌ARTRAMBLE」に詳しいです。
元町一丁目で鯉川筋の東側、というのがピンと来ませんが、まあ、あのあたりですね。
当時からお洒落な一帯だったようです。
ところで私が神戸に来た平成元年、鯉川筋では工事がおこなわれていました。
長〜いこと工事が続いていた印象があります。
私はてっきり地上を流れていた鯉川を地下に埋める工事なのかと思っていました。
つまり、妙子が個展を開催した当時、その画廊は鯉川のほとりにあったのだろう、と。
しかし調べてみると平成元年の工事は、もともと地下河川だった鯉川の改修のための工事だったそうです。
明治時代に鯉川は暗渠化されていたのでした。
ですから妙子の個展の時には鯉川は既に地面の下だったことになります。
(2021年9月15日)
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そうそう!
三宮から大丸の北側までまで続く地下道がありますが(サンポチカという名前に決まったそうです)、どうして元町商店街までつなげないんだろう? と疑問に思っている人は多いと思います。
ほんの数メートル掘るだけなのに、私もそう思っていました。
でも、ここには川が流れているんですね。
何も考えずに穴を開けたら地下道が水浸しになるところでした。
そうは言いつつ、何かいい方法があるような気もしますが。
(2021年9月17日)
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そして同じページの最後の方です。
「そんなら、東雅楼にしてんか、彼処が一番安いよってに」
「ケチやなあ、こいさんは。オリエンタルのグリル奮発しんかいな」
東雅楼と云うのは南京町にある、表の店で牛豚肉の切売もしている広東料理の一膳めし屋なのであったが、四人が奥へ這入って行くと、
「今晩は」
と、登録器の所に立って勘定を払っていた若い西洋人の女が云った。
ネットで調べても「東雅楼」についてはよく分かりません。
南京町の古い地図をあたるか、お年寄りの方に話を聞くしかないと思います。
今度南京町の人に会ったら聞いてみますね。
(2021年9月22日)