プルチネッラの元ネタをたどる

ストラヴィンスキーの「プルチネッラ」という曲があります。

 

どういう経緯で作られたどういう曲かはWikiでもYoutubeでも簡単に検索できるので、そういう

事はぜーんぶすっ飛ばかして、元ネタの曲をUPしていきます。

 

これまで「『罪と罰』を読む」とか「バルザックを読破する」とか誰も興味がなさそうなマニア

ックな特集を組んできましたが、またまた超マイナー企画です。
(記事掲載当初はYoutubeにリンクさせていましたが、今回は曲名表示のみです))

 

000:1曲目(OUVERTURE/Allegro moderato)
ガロ:トリオソナタ第1番第1楽章

001:2曲目(SERENATA)
ペルゴレージ:Il Flaminio(歌劇「イル・フラミーニオ」)第2幕
(2015年12月2日)

 

009:3曲目(SCHERZINO/Allegro)
ガロ:トリオソナタ第2番第1楽章

020:3曲目(piu vivo)
​ペルゴレージ:Il Flaminio(歌劇「イル・フラミーニオ」)第3幕

023:3曲目(Allegro)
ガロ:トリオソナタ第2番第3楽章

035:3曲目(Andantino)
​ガロ:トリオソナタ第8番第1楽章

046:3曲目(Allegro)
ペルゴレージ:Lo frate 'nnamorato(歌劇「妹に恋した兄」)第1幕
(2015年12月4日)

 

061:4曲目(Ancora poco meno)
​ペルゴレージ:L'addio
  (ソプラノと弦楽器と通奏低音のための室内カンタータ「別れ」) の4曲目

068:5曲目(Allegro assai)
ガロ:トリオソナタ第3番第3楽章

091:6曲目(Allegro(alla breve))
ペルゴレージ:Il Flaminio(歌劇「イル・フラミーニオ」)第1幕
(2015年12月7日)

 

104:7曲目(Andante)
ペルゴレージ:Lo frate 'nnamorato(歌劇「妹に恋した兄」)第3幕

108:7曲目続き
同曲 第3幕

112:7曲目続き
ペルゴレージ:Il Flaminio(歌劇「イル・フラミーニオ」)第1幕

114:7曲目続き
ペルゴレージ:Lo frate 'nnamorato(歌劇「妹に恋した兄」)第2幕
(2015年12月9日)

 

117:8曲目(Presto)
ペルゴレージ:Lo frate 'nnamorato(歌劇「妹に恋した兄」)第2幕

122:8曲目(Larghetto)
ペルゴレージ:Lo frate 'nnamorato(歌劇「妹に恋した兄」)第2幕

123:9曲目(Allegro-alla breve)
ガロ:トリオソナタ第7番第3楽章

132:10曲目(TARANTELLA)
ファン・ヴァッセナール:コンチェルト・アルモニコ第2番第4楽章
(2015年12月11日)

 

144:11曲目(Andantino)
​ペルゴレージ:Se tu m'ami(アリア「もしあなたがわたしを愛してくれるのなら」
パリゾッティ編「古典イタリアアリア集」より)

150:12曲目(Allegro)
モンツァ:組曲第1番第3楽章Rondo

158:13曲目(GAVOTTA con due variazioni / Allegro moderato)
モンツァ:組曲第3番第3楽章Gavotta con variazioniよりGavotta

162:(Variazione Ia. / Allegretto)
同:第1変奏

166:(Varazione IIa. / Allegro piu moderato)
同:第4変奏
(2015年12月14日)

170:16曲目(Vivo)
ペルゴレージ:チェロと通奏低音のためのシンフォニアより第4楽章

179:17曲目(Tempo di minuetto)
ペルゴレージ:Lo frate 'nnamorato(歌劇「妹に恋した兄」)第1幕

187:18曲目(Allegro assai)
ガロ:トリオソナタ第12番第3楽章
(2015年12月16日)

 

神戸元町ダイアリー2015年(4)国益つれづれ<main>特別企画「子どもと魔法」


神戸元町ダイアリー2015年(4)

この欄で何度も書きましたが「安保関連法案が守ろうとしている国益とは何か」がさっぱり分かりません。
先日新聞の投書欄で、かなり年配の人が「国のために国民がある程度の犠牲を払うのは当然」と、法案に賛成しているのを見かけました。
なるほど、「国益とは何か」さっぱり分からないはずです。
そもそも「国とは何か」が私には分かっていないのでした。

たとえば私はオリンピックやワールドカップでは何の疑問も抱かず日本チームを応援します。
世界で最高の文学作品は「源氏物語」だと確信しています。
尖閣諸島は日本のものだと信じたいです。
南京大虐殺の被害者数はなるべく少なくあってほしいです。
日本人のマナーが誉められれば素直に誇らしく思います。

そこであらためて「国とは何か」と自分に問いかけてみても、やっぱりよく分からないのでした。
(2015年9月25日)

しかしこれだけは分かります。
私が守りたくない「日本」。

家長封建的な「家」という考え方。
そこには「男らしさ」とか「女らしさ」という押しつけも含まれます。
女は家で家事を、という決めつけも、女は子どもを産む機械という発想も含まれます。

この発想が「土建国家」の基盤にもなっているように思います。
日本には優れたグローバル企業がたくさんあるのにも関わらず、政治が建設業主導で動くのは地方経済が土木工事と箱モノ建設に頼り切っているからなのでしょう。
政治家が時代錯誤な発想に基づく失言を繰り返すのもうなずけます。

私が守りたい「日本」はとても漠然としています。
一方、守りたくない「日本」ははっきりしています。
封建的排他的男尊女卑的「日本」、「愛国心」という言葉を振りかざす政治家の「日本」、彼らがしがみつきたいと考えている「日本」、です。
(2015年9月28日)

「国」のあり方に対する考えは違っても「国益」について共通の認識を作り上げることは可能だと思います。
たとえば領土問題。
保守派でも穏健派でも国土を守りたい気持ちは一つのはずです。

今現実的に侵害されていると日本が訴えているのは竹島と北方領土です。
ところがこれがよく分かりません。
何が分からないと言って、実効支配権を取り戻そうという働きかけの経緯がよく分からないのです。
かつて竹島が韓国によって軍事的に占領された時、日本は抗議しました。
しかし国際紛争において抗議など何の意味もないことは誰でも分かることです。

当時、世界の共産化を食い止めようとしていたアメリカは、日本にソ連に対する防波堤の役割を担わせようと考えました。
それで浮いた軍事力を朝鮮半島に注入しようと思ったわけです。
平和憲法を押しつけたアメリカがそのつい数年後、手のひらを反すように日本に軍隊を持たせたのはそのためです。
つまりそれだけアメリカはなりふりかまわない状態だったのです。
韓国だって朝鮮戦争の混乱期にありました。

領有権はあとでゆっくり相談するとして、とりあえず竹島を占拠している部隊はいったん引っ込めろとアメリカに韓国を説得するように持っていけなかったのでしょうか。
(2015年9月30日)

北方領土もよく分かりません。

確かソ連側から二島返還論が持ち掛けられたこともあったはずです。
今から思えば絶好の機会を、どういう思惑ではねつけたかよく分かりません。

竹島にしても北方領土にしても、もちろんその当時のやむにやまれぬ事情があったのでしょう。
高度な政治判断が働いて「今領土奪還に動くのは得策ではない」と結論付けられたのでしょう。
しかしそれは逆に言えば「その時には領土奪還よりも大切なものがあった」ということです。

そこで引っかかるのが二つ。
一つは、その判断に至る経過が、現在まで検証されていないこと。
二つ目は、その判断を最終的に下したであろう吉田茂が、政治家や政治記者から名宰相と呼ばれていること。

これらをもとに考えると、日本人はそれほど領土を大切に思ってないのではないか、と考えた方がよさそうな気もするのです。
(2015年10月2日)

ここであらためて「国益」を考えてみます。
安保条約によって日本が国際貢献を担えるようになる、という主張があります。
これはとんでもない嘘っぱちです。

新聞紙面から想像するに、いま世界でもっとも問題になっているのはシリア難民とアメリカによる病院誤爆です。
そしてそのどちらにも日本人は興味がありません。
シリア難民を日本でも受け入れようと思っている人は、見渡したところ国内に10人もいなさそうです。
アメリカの空爆による病院関係者の虐殺に対しても誰も抗議しようとはしません。

私を含めた日本人は、国際貢献などにまったく関心がないのです。
(2015年10月5日)

それでは何のために安保関連法案があるかと言うと、ただただアメリカのためです。
そこに期待されるのは中国に対する抑止力です。

中国のやり方は常軌を逸しています。
いつ、誰に噛みつくか分からない狂犬です。
しかもその傍若無人ぶりに拍車がかかっています。
アメリカに今まで以上にしっかり見張ってもらわなくてはなりません。
これまでもじゃぶじゃぶと貢いできた「思いやり予算」に加えてさらに人的支援によってアメリカをサポートしようと考えるのは、すじが通っています。

しかし、いざという時に日本の政治家はちゃんとアメリカと交渉してくれるのでしょうか?

またもや政治家が「尖閣諸島よりも大切なものがあるから」と弱腰にならないか、心配です。
というか、名宰相吉田茂だって「竹島よりも、北方領土よりも大切なものがある」と判断したのです。
評論家によると吉田茂よりも劣っている今の政治家たちは間違いなくこう考えると思うのです。
「今、ことを荒立てるのはよくない、しばらく静観しよう」
(2015年10月7日)

そもそもアメリカは日本のために動いてくれるのでしょうか?

アメリカ人には共産主義に対するアレルギーがあります。
人権侵害という言葉にも敏感です。

しかし、アメリカ人に限りませんが、私たちにはイデオロギーや人権よりも好きなものがあって、それはお金です。
東シナ海ガス田でも採算が見込まれれば、国の意向など関係なく、ましてや日本のことなどまったく考慮することなく、アメリカ資本は中国に愛想を振りまくのではないでしょうか。

最近のハリウッド映画を見ると、アメリカの中国にすり寄る姿勢が露骨です。
中国の役者を使い、中国で大規模なロケをおこない、映画の中では最大の友好国のようです。
いざという時にはアメリカが中国に立ち向かってくれると無邪気に信じるのはなかなか難しいです。
 
そのアメリカを動かすのに人的支援が有効とはとても思えません。
かつて湾岸戦争で日本は多額の金銭的援助をおこなったのにクウェートから感謝されなかったという話がありました。
やはり金だけでは解決できないのだと日本人全てが恥じ入ったものです。

それから四半世紀経って醒めた目で見てみると、思います。
ほかの国はともかく、アメリカを動かすのは、結局は「お金」だと。
(2015年10月9日)

私個人はいざという時には、アメリカがからだを張って中国から同盟国日本を守ってくれると信じています。
しかしそんな淡い希望的観測に頼って外交戦略を進めるのは愚の骨頂です。
アメリカの意図とは関係なく、中国に対する抑止力を無理やり担わせるようなやり方が必要です。

ただ金銭的な支援をしても有効とは思えません。

軍事素人としては、東シナ海での日米軍事演習をグレードアップするくらいしか思い浮かびません。
演習の舞台を用意して、弾薬も負担して、部隊駐留のための施設も建設します。
日米共同軍事演習がアメリカ本国での演習よりも高度で実戦的で贅沢であると内外に印象づけます。
常に東シナ海にアメリカの最先端兵器と血気盛んな精鋭部隊が集まっている状態にします。

これならば狂犬国家でも遠吠えしかできないと思います。
逆に、これくらいしないとアメリカ軍は抑止力として全然あてにできないと思います。
(2015年10月14日)

軍事演習に莫大な資金を投入することのメリットは、そのかなりの部分が沖縄に落ちるという点です。

金に物を言わせるやり方は間違っていると思いますが、翁長知事でも在沖縄米軍基地の抑止力効果を認めている現在、沖縄の方々に私たちの誠意を伝える方法はお金しか思い浮かびません。
そして日本の財務省が一国一制度しか認めない現状では、沖縄振興策は自然破壊か軍事演習しかありえないのです。

アメリカにちゃんと働いてもらうためには在沖縄米軍にじゃぶじゃぶ資金を投入するしかないと言っておいて、それと矛盾する話をしますが、沖縄の自律的発展のためには通商立国、観光立国しかないと思います。
そのために日本が見せることのできる最大の誠意は沖縄に独自税制を認めることではないでしょうか。
つまり関税と消費税の免除。

国が一国一制度にこだわるのは法の下の平等を謳った憲法第14条に基づいてのことだと思います。
しかし沖縄は地政学的にも歴史的にも特殊です。
その特殊さに配慮した制度こそが平等だと私には思えます。
(2015年10月16日)

気の進まない飲み会を欠席する言い訳にもいろいろあります。

体調が悪いとか、家族の都合で、とかがもっともポピュラーな理由です。
犬の散歩に行かないといけないから、という理由で欠席する人もいました。
門限が8時だから、と言って断る人もいます。

で、つくづく思います。
「日本国憲法もおんなじだなあ」と。

ドラフト制度が憲法違反だという人もいました。
世襲議員の同一選挙区立候補禁止も憲法違反と訴える人がいます。
参議院の定数配分も憲法違反だとか。
しかしその同じ人が安保法案を合憲と考えたり、非嫡子を差別したり、相続制度を認めたりするわけです。
日本の骨抜きの司法の前では、憲法とは誰もがお手軽に使う「方便」に過ぎません。
それならそんなものに縛られないで、沖縄の独自法制を認めてもいいのではないかと思ったりもするのです。
(2015年10月19日)

9月18日のこの欄を見ると、こんなことを書いてます。
「明日から5連休です。私の皮算用では連休明けまでに福井くんが念願の10勝目を挙げ、カープは首位に1.5ゲーム差
まで迫っているはず……」

皮算用は皮算用のままに終わってしまった感じですが、ペナントレースが終わり、冷静に振り返ってみれば、分かります。
いろいろ誤算もあったし、よくない采配もありましたが、結局は選手層の問題だった、と。
このオフ、特にセ・リーグはどのチームも大規模補強を図ってくるはずです。
その中でカープだけが突出した成果をとげられるとは考えにくい。
とするとどうすればいいかと考えると、そう、まず福井くんはバントの練習をしましょう。
(2015年10月21日)

カープの選手層がこのオフで劇的に改善しないとすれば、コーチングスタッフを劇的に変えるしかないと思います。

ところでWBSCのU18野球ワールドカップを、試合も見ず、結果だけ見て、
1)日本の選手の基礎体力や運動能力はアメリカに劣っていない(根拠なし)にも関わらず、
2)さらに練習量はアメリカを大きく上回っている(これも根拠はないけれど、きっとそうですよね?)にも関わらず、
3)アメリカに勝てないのは指導法が間違っているから

と勝手に結論付けてみました。
というわけでカープのコーチ陣は海外から招くべきだと、私は思っています。
しかし古くからのファンはOB中心で組んでほしいようです。
その気持ちも分かります。

そこで間を取って、コーチングスタッフをオフの間アメリカに留学させる、というプランはどうでしょうか。

さしあたって来年はバッファローズの田口二軍監督に注目しようと思っている私でした。
(2015年10月23日)

さてカープの福井くんですが、去年から登板試合を全て録画観戦して、勝ち試合だけディスクに記録しています。
で、暇な時に見直したりしているのですが、あらためて感じます。

不思議の好投あり、不思議の炎上なし
 
本当は負け試合こそ録画して何度も見直した方が参考になるような気がします。
来年は負け試合をディスクにまとめて、シーズン終了後に福井投手にプレゼントしようかと思ったりしますが、どう考えても単なる嫌がらせですね。
やめておきます。
(2015年10月26日)

ベートーヴェンの「エグモント」序曲という曲があります。

序曲とは本来オペラの前奏部分ですが、中には本篇が存在しない序曲詐欺みたいな曲もあります。
先日演奏したベルリオーズの「リア王」序曲もそうでした。
「その物語にインスピレーションを得て、その物語のあらすじや空気感を体感できるように書かれた」曲というくらいの意味です。

ベートーヴェンも「序曲」をいろいろ書いていて、
フィデリオ序曲とか、コリオラン序曲とか、レオノーレ序曲第1番とか、レオノーレ序曲第2番とか、レオノーレ序曲第3番とか……。
(もういいって)
フィデリオ序曲にはオペラ「フィデリオ」という本篇があります。
コリオラン序曲には本篇がありません。
(レオノーレについては面倒くさいので省略)

私はてっきり「エグモント序曲」も序曲詐欺の方かと思っていました。

実際は本篇がありました。
ゲーテの全5幕の戯曲「エグモント」のために、ベートーヴェンは9つの曲をつけていました。
序曲と、5幕それぞれの後奏曲と、劇中に挿入される曲。
「オペラ」ではなく、「劇音楽」と呼ばれる手法です。

これが、音楽だけ聴くとあんまり面白くありません。
「普段序曲しか演奏されないのも仕方ない」と納得してしまうようなつまらなさ。
ところがゲーテの戯曲を読みながら、挿入すべきところでベートーヴェンの曲を聴いてみると驚くほど面白いです。
ベートーヴェンはちゃんとゲーテの戯曲に寄り添って作曲していたのでした。
つまり勝手に盛り上げたりせず、捻じ曲げたりせず。

問題はゲーテの方です。
大体私がバルザックとディケンズとゲーテの話をすると悪口にしかならないのですが、「エグモント」もまあ、ピントはずれてるわ、カタルシスはないわ、そもそも全然面白くないわ、で最低の作品です。
気難しそうなベートーヴェンですが、こんなつまらない作品にも丁寧に曲をつけて、案外お人好しだったのかもしれません。
(2015年11月4日)

「下町ロケット」が面白いです。ビデオに撮って(娘が出るシーンは早送りして)毎週見ています。
こんなCMが流れていました。


曲はラフマニノフ作曲の「パガニーニの主題による狂詩曲」です。
ラフマニノフが書いた名曲の中でもとびっきりの一曲です。
ところで素敵な曲をたくさん書いたラフマニノフですが、関連小説や映画には恵まれていません。
 
有名なところでは、これ。

1995年公開の映画「シャイン」。
心の病でリタイヤを余儀なくされたピアニストが奇跡の復活を遂げるまでの感動作。
作中で主人公が得意としていたのがラフマニノフのピアノ協奏曲第3番でした。
これも名曲です。

映画は散漫な内容で、しかもカムバック映像がまさかの本人演奏。
で、その演奏が素直にカムバックを喜べない出来で、残念な一作でした。



ラフマニノフ自身の生涯を描いた「ラフマニノフ〜ある愛の調べ」という映画もありました。

ラフマニノフの生涯を、わざわざ時系列をずたずたに切り刻んで分かりにくく紹介してくれます。
ラフマニノフの曲も部分的には流れます。
が、基本的にBGMはオリジナルのムード音楽(多少ラフマニノフっぽくないこともない)。
監督が、ラフマニノフ自身も、音楽も好きではないことがよく伝わってくる映画でした。
 
どうやらラフマニノフを楽しむには彼の音楽そのものを味わうしかないようです。
それで十分なのですが。
(2015年11月6日)

マーラーの交響曲第1番は「巨人」という副題で有名です。
のちに作曲者自身によってこの副題は削除されたらしいのですが、タイトルがあった方がかっこいいし、CDの売り上げも3倍くらい違うので(当社比)、今なお「巨人」というタイトルは現役活躍中です。

この副題のもとになったのがジョン・パウルの小説「巨人」です。

……と、そこまでは有名な話なのですが、パウルの「巨人」がどのようにマーラーに影響を与えたのかについては、WEB上でいろいろ渉猟してもよく分かりません。

その理由はたった一つ。
パウルの「巨人」が非常に長くて、とてつもなく難解なのです。

かつて「海文堂」には置いてありました。
しかし手に取った瞬間購入をあきらめました。
まず、見た人を威嚇するような分厚さ。手に取ると「とても家まで持って帰れない」重さ、そして裏表紙に燦然と輝く8,800円という値段。
見なかったことにしてしまいました。

それから十数年を経て、ふと調べてみると図書館に所蔵されていることが分かりました。
借りてみると記憶通りの分厚さ、重さ。
あらあら、表紙が一部破れています。
これ以上損傷がひどくならないように厚紙で丁寧にカバーをつけてから読み始めました。

ですから神戸市立図書館にある「巨人」の表紙の破れは私のせいではありません!
(2015年11月9日)

重量、2キロ超。
こうなると仰向けで読むことは不可能です。
新聞でも仰向けでないと読んだ気がしない、私のような仰向け読書派にとってはいきなり厳しい状況です。

しかも中身がとてつもなく難しいです。
あまりにちんぷんかんぷんなので半分ほど読んだところで巻末のあらすじに助けを求めてしまいました。
あらすじはとても詳しく分かりやすいです。
「ははあ、なるほどこういうことだったのか」
と感心して、せめて後半はストーリー展開についていこうと思いましたが、やっぱりちんぷんかんぷんでした。
 
読みながら何となくゲーテの「親和力」を思い出しました。
もしかしたらパウルは「親和力」に影響されたのかもしれない、と思いましたが調べてみると、「巨人」の方が「親和力」より先の作品で、しかもパウルはゲーテと対立していたそうです。
私の読書力を根こそぎ全否定してくれた一冊でした。
(2015年11月11日)

これらの曲を取り上げた演奏会があります。


ベートーヴェン:「エグモント」序曲
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲
マーラー:交響曲第1番「巨人」

2015年11月15日15時兵庫県立芸術文化センター

指揮は黒岩英臣、ピアノは黒岩悠。親子共演です。
練習を聴きましたがピアノの切れ味はすさまじいです。
普段使っている練習場のピアノからあんな輝かしい音が出るとは夢にも思いませんでした。

下手なのを楽器のせいにしている私、要猛反省、です。
(2015年11月13日)

神戸元町ダイアリー2015年(3)昔はよかった<main>特別企画「プルチネッラの元ネタをたどる」
 


神戸元町ダイアリー2015年(3)

安全保障関連法案についての質疑を見ていて思うのは、「まあよくここまで話が噛み合わないものだ」ということです。
そもそも対立し合っている者同士が、そもそもお互いに経験したことのない事態について、そもそも用語の定義づけすら共有されていない状況で、議論が噛み合うわけがないとは思っていましたが、それにしてもここまでとは思っていませんでした。

こういう噛み合わない事への歯がゆさを一番味わわせてくれるのはカフカの小説です。
カフカの登場人物は主人公の問いに対して普通には答えてくれません。
真剣に答えようとしてくれてはいるのですが、ちょっとずれています。
起点が同じで角度が違うのでもなく、平行に走っているのでもなく、ねじれの位置にあるのです。
単語一つ一つの意味は分かるのに、文章として頭に入ってきません。

私は(「変身」以外の)カフカを読むと、だからすごーく嫌な気持ちになります。

ところがこのカフカをもてはやす人がいるのもまた事実です。
分からないなりに勝手に想像するに、噛み合わなさとか、もどかしさとか、先行きの不透明感がカフカファンには魅惑的なのでしょう。
私には今の国会の議論はものすごく「カフカ的」に思えます。
同時通訳をつけて全世界に発信すれば世界中のカフカファンが熱狂してくれるに違いありません。
(2015年7月3日)

政治に対する理念が違う、支持母体や支援者の階層も違う、理想とする国のあり方も違う。
そういった人たちが議論をすり合わせるのは大変です。

せめて現場となる地域の空気感でも共有できないでしょうか。

安保法制特別委員会はホルムズ海峡の掃海艇の甲板でおこなうべきだと思います。
海峡の地形や、そこを航行する巨大タンカーのスケール感や、イランとの距離感などは実際にそこに行かないと絶対に分からないと思います。
せめてその空気感くらいは共通認識した上で、つまり、そこで機雷を撤去するとはどういうことなのか皮膚感覚で感じた上でいろんな議論をしてもらいたいです。
(2015年7月6日)

憲法審査会で3人の憲法学者が安保法制を違憲と決めつけたというニュースが流れました。
3人とも自民党に招致された学者たちです。
これを自民党のチョンボと捉えるか、開き直りと受け取るか、それとももっと深い策略と勘繰るべきなのかよく分かりませんが、もっとよく分からないのは「憲法学者とは何をする人か」という問題です。

川に古びた橋がかかっていて「渡るな危険」という立札が立っています。
看板の文言をまったく無視するのは論外として、文言を尊重するのにもいろんなレベルがあります。

1)渡るなと書いてあるんだから渡らない
2)「この橋は危険だから渡るな」という意味だから他の橋は通ってもよいと解釈して他の橋を探す
3)危険でないように橋を補強して立て看板を撤去する

憲法学者とは憲法についてどういうスタンスで研究している人たちなのでしょうか。
(2015年7月8日)

そういう意味では国会の場で参考人として招致すべきなのは憲法学者ではなく、アメリカ大統領か国防長官だったと思います。

全然話は変わりますが、アイドルの人気投票のために、熱心なファンはCDを何十枚、何百枚と買って投票券を手に入れるらしいです(間違いだったらごめんなさい)。
すごいですね。
握手をしてくれるわけでもなく、「あなたのために歌います」と言ってくれるわけでもない。
それなのにそんな遠くの存在のアイドルに無償の愛を捧げるのです。

自分のために何をしてくれるか言明したことがなく、おそらく何もしてくれなさそうな人に対して、多額のお金(と、もしかしたら命までも)を貢ぐわけです。
私にはできないことだし、本当に素晴らしいことだと思います。

アイドルの世界でなら、ですが。
(2015年7月10日)

この欄でも繰り返し書いてきましたが、昔の方がよかったものなんて一つもないと思います。

「最近のTVは面白くない」と言う人がいますが、昔の名作ドラマの再放送を見るとあまりの退屈さに愕然とします。
お笑い番組もそうです。
時々お笑いの大御所が最近の芸人のつまらなさに苦言を呈したりしていますが、はっきり言って30年前の大御所の漫才よりも10年前の若手漫才の方が面白いし、それよりも今の新人芸人の方がもっと面白いです。

政治家もそうです。
昔の政治家の方がスケールが大きくてよかったなどという話を聞くと耳を疑ってしまいます。
金や権力に物を言わせてゴリ押しをする今の中国のようなやり方をよしとする人にはかつての政治家が「スケールが大きくてよかった」ように見えるかもしれません。
今の日本はそんな国ではないし、今の日本人はそんな国民ではありません(と信じたいです)。
安倍首相や岡田代表が殊更いい政治家とも思いませんが、昔の政治家の方がよかったかと聞かれれば、答えは「断じてNO」です。

昔からイジメはあったけれど今の方が陰湿だと言う人もいます。
大嘘もいい加減にして欲しいです。
今のイジメが陰湿なら昔のイジメは陰湿プラス暴力的プラス差別的でした。

政治にしても教育にしても生活にしても娯楽にしても今の方が絶対いいです。
一つだけ例外があります。

この暑さ。

これは昔の方がよかったと思います。
(2015年7月13日)

昔のアイドルの方が歌が上手かった、などと知ったげに言う人もいます。

20年経っても30年経っても名前が残っている人はその時代の100人のアイドルのうちのたった一人です。
その時代のアイドル100人と今のアイドル100人を比べると、今の方が歌もダンスも上手です。

今の若者には冒険心がないと嘆く年寄りもいます。

自分の年金を1年分若者に託してみてはどうでしょうか。
「これで1年間好きに冒険してみろ」と。
若者はちゃんと冒険します。
若者が冒険しないのは年寄りが若者の可能性よりも自分の既得権を優先したせいです。

新入社員の質が年々落ちていると愚痴る人も多いです。

もしかするとそうかもしれません。
しかし、もし本当にそうだとするとそれは、新入社員の質が落ちているというよりもむしろ社会の中でのあなたの職業の価値が低下していると考えるべきかもしれません。
優秀な新入社員は他に行っていると考えるべきなのでしょう。
(2015年7月15日)

自分のことを振り返ってもつくづくそう思います。

私が医者を目指していた時代、インターネットもなく、携帯電話もなく、TVゲームもありませんでした。
(インベーダーゲームはあった!)
つまり他に誘惑がない状況での受験勉強でした。

今の若者は違います。
ありとあらゆる誘惑があり、それをはねつけたりスルーしたりつまみ食いしたりしての受験勉強です。

もし今から30数年前に「バイオハザード」があったら私は間違いなく医者にはなれなかったと思います。
それに対して今の若手の医者は「バイオハザード」など簡単に(きっと攻略本にも頼らず!)軽くクリアした上で医学部に合格しているわけです。

自分のことを振り返ると言えば、もう一つ世代的に恥ずかしいことがあります。

たとえばコンビニで従業員に対して無礼な態度を取っている客、店で理不尽なクレームをつけている客、くわえタバコや吸殻をポイ捨てする人、スーパーで買い物かごを片付けない客、電車で割り込みする人、そのほとんどが私と同世代かそれ以上です。

選挙権を18歳以上に繰り上げよう、という主張に対して「自分たちはそれほど成熟していない」と謙遜する若者がいます。

君たちは1週間でもコンビニでバイトしてみるといい。

日本をダメにしているのは君たちではないということが実感できると思います。
(2015年7月17日)

どうして突然若者の弁護を始めたかと言うと、先日こういうコンサートで学生コーラスのお手伝いをしたのでした。

神戸大学、大阪大学、奈良女子大学の合唱団によるジョイントコンサートです。
学生たちは真剣で向上心があって礼儀正しくて賢くて本当に感心しました。

問題は、一緒に話しているとこちらの未熟さや無知さがばれてしまうところです。
まあそれは今さら隠しても仕方がないのですが。
(2015年7月22日)

彼らが合唱団のメンバーであったというのが好印象の大きな要因だったかもしれません。

合唱で一番大切なのはハーモニーだと思います。
いいハーモニーを作るためには一体感が必要ですが、個性のないものがどんなにたくさん束なってもいいハーモニーにはなりません。
それぞれ主張がある者たちが一体となって初めてハーモニーが生まれます。

そういう意味では合唱団には、個性もなく人と溶け合いたくもない人や、個性がないゆえに徒党を組みたい人や、個性はあるけれど協調心がない人は基本的に含まれていないわけです。
これは大きいです。
(2015年7月24日)

それでは若者たちをみんな合唱団に放り込めばみんなが個性と強調心を併せ持つようになるんじゃないか、とついつい思ってしまうのが私たち大人のダメなところです。

大人が陥りがちな「十把一絡げ(じっぱひとからげ)」現象です。

小学生から英語を教えるべきか、という問題に対してお偉い先生方がいろいろ発言していますがこれなどその典型です。
好奇心が旺盛でコミュニケーションに興味がある子どもは早い段階で外国語に接した方がいいでしょう。
日本語での挨拶すら満足にできない子に英語教育なんてもっての外です。
ところが偉い先生に限ってそんな当たり前のことが分からなかったりします。

理由は簡単です。
現場で子どもを見ていないからです。
大学の先生が相手をするのはある程度賢い学生たちだけです。
高校生になっても日本語すらまともにしゃべることができない生徒の存在なんて想像もしたことがないのでしょう。
(2015年7月27日)

これと同じ現象は医療でも見られます。

患者さんの仕事内容やライフスタイルや人生観をまったく考慮せず、検査値だけで判断する医師は多いです。
しかし検査の標準値とは標準的な生活をしている標準的な体質の人にとっての標準です。
場合によってはその人だけの標準値だってあります。
「他の人はどうあれあなたはこの値を目指しましょう」という値があっても全然おかしくありません。

しかし糖尿病などは目標値が数字で示せるのでまだましかもしれません。
便秘については決まった目標すらありません。
1日4、5回の便通が身体に合っている人もいれば1週間に1回がベストの人もいます。
その人が目指すべき方向を数字で表すことができないのです。

ところが大学の偉い先生は得てして「朝食をしっかり食べて1日1回のお通じを!」などと簡単に言います。
自前の便秘解消レシピを本にしたりする人もいます。
そういう医者やそれに振り回される人を見ると「ああ、十把一絡げ現象だ」とため息をつきたくなります。
(2015年7月29日)

そんなこんなをまとめてお話ししたいと思います。

神戸新聞文化センター「暮らしいきいき講座」
8月17日(月)14:00〜15:30
ミント神戸17階神戸新聞文化センター

予約は締め切られていますがクリニック経由で申し込めば入れるかもしれません。
お問い合わせください。
(2015年8月3日)

少し前ですがTV特別企画で「水戸黄門スペシャル」というのを放送していました。

怖いもの見たさで少しだけチャンネルを合わせたのですが、まあひどいこと、ひどいこと。

新しいものを生み出そうという気概がまったく見られない凡庸なシナリオ。
見る者を馬鹿にした底の浅い人物設定、おざなりのプロット。
そして旧態依然の古臭い殺陣。

視聴者は時代劇に飢えているはずだからやっつけ仕事の時代劇でも飛びついてくるはずだ、という視聴者を舐めまくった姿勢が丸見えの最悪のドラマでした。

彼らは藤沢周平原作の数々の映画のヒットの原因を「飢餓感」と解釈しました。
考えてみればこれは藤沢映画と観客、両方を馬鹿にした話です。
きっと彼らはジブリやディズニーのヒットも「ガキ相手だから」としか理解していないのでしょう。
実写版「るろうに剣心」の成功も、「人気漫画が原作だから頭の悪いファンが飛びついた」くらいにしか思っていないのでしょう。

そんな風に考えられるためには二つの条件が必要です。

一つは、いい映画を見て「いい」と思えない。
二つ目は、観客を馬鹿だと思っている。

こんな人種がTV時代劇を作っているということです。
(2015年9月11日)

旧態依然の殺陣と書きましたが、昔だって凄まじい殺陣はありました。
「七人の侍」とか「椿三十郎」とか。

その流れを受け継ぐのが藤沢時代劇です。
物語の中心は人間ドラマですから殺陣もリアルで不器用だったり人間臭かったりします。
殺陣師が自分の仕事内容を理解しているわけです。

一方で新感覚派の監督はちゃんと新しい殺陣を見せてくれます。
「座頭市」とか「あずみ」がそうでした。
そしてその最先端が「るろうに剣心」でしょう。
スピーディーでスリリングで、目を見張る新時代の殺陣でした。

ところがそのせっかくの前向きの流れに背を向けた守旧派がいるようです。

たとえば「切られ役」福本清三を主役に抜擢した「太秦ライムライト」という映画がありました。

これは古き良き時代の時代劇を懐かしむという趣向の映画なので仕方ないかもしれませんが、殺陣があまりにも古臭くてあきれ返ってしまいます。
シナリオも凡庸で、これでは「時代劇は滅び去ってもやむなし」と思われても仕方ありません。
狙い自体はよかったのに実にもったいない映画でした。
(2015年9月14日)

時代劇そのものが基本的に懐古的なものですから、そこに新風を求めるのは自己矛盾かもしれません。
新しい感覚の監督やスタッフを単純にほめるべきなのでしょう。

クラシックの世界もそうです。
何せ「クラシック」です。
新風? 何それ? みたいな世界です。

でもそんな世界にも異端児はいて、



ピアノのHJリムもその一人です。
先日ベートーヴェンのソナタを4曲並べたコンサートを聴きに行きましたが、黒髪を振り乱してペダルを踏み鳴らして爆音で突き進む、破壊力満点のベートーヴェンでした。

少々体勢が乱れていても果敢に四回転ジャンプにチャレンジするフィギュアスケーターや、ノーガードで打ちまくるボクサーの姿を思い浮かべながら、スリリングなひと時を楽しませてもらいました。

実演に比べるとインパクトは落ちますがソナタ全集の録音も出ています。
次の来日まで待てない人はそちらをどうぞ。
(2015年9月16日)

明日から5連休です。

私の皮算用では連休明けまでに福井くんが念願の10勝目を挙げ、カープは首位に1.5ゲーム差まで迫っているはずなのですが、実際はどうでしょうか。

朝晩はかなり肌寒くなってきました。
体調に気をつけて連休をお楽しみください。
(2015年9月18日)

(ちなみにその5連休、カープは1勝4敗で逆に首位戦線から完全に脱落、福井くんも1試合に登板、6回2失点で試合を作ったものの中継ぎ陣が崩れて勝ち星つかず、結局シーズン9勝止まりであった)

神戸元町ダイアリー2015年(2)待合室雑誌事情<main>神戸元町ダイアリー2015年(4)国益つれづれ

神戸元町ダイアリー2015年(2)

CARPがなかなか勝てません。

昨日は福井投手が粘りのある投球を見せて、うちのネコも全力で応援してくれたのですが、



最後には逆転されて泥沼の6連敗となってしまいました。


「打てないと勝てないにゃー」とうちのネコもお手上げのようです。
(2015年4月6日)

待合室にどんな雑誌を置くか悩ましいところです。

「Richer(リシェ)」が廃刊してしまったので似たような地域情報系雑誌を探していたのですが、なかなかいいものがありません。
雑誌の種類はいろいろあるのですが、どの雑誌もグルメ情報欄がダメダメなのです。
臭くないところで食事をしたいと思っても、喫煙可か禁煙かをきっちり書いているのは「あまから手帖」だけです。
分煙度を書いていないグルメ情報なんて、現在位置表示のない案内図のようなものです。

そういうわけで地域情報誌を置くのはあきらめました。
替わりに置くことになったのがこれです。



映画ファンというよりも映画俳優ファンの雑誌という趣で、読むところが少ないのが難ですが。
しばらく付き合ってみます。
(2015年6月22日)


それから「芸術新潮」もあまり待合室向けではありませんでした。
自分が読む分にはいいのですが、時々表紙がエロだったりグロだったりするのです。
そういうわけで雑誌ラックから引退です。

その替わりがこれです。



「広島アスリートマガジン」。
福井優也投手が表紙を飾る日が来ることを信じて、しばらくお付き合いの予定です。
 (2015年6月24日)

神戸元町ダイアリー2015年(1)イジメ、ダメ、ゼッタイ<main>神戸元町ダイアリー2015年(3)昔はよかった

神戸元町ダイアリー2015年(1)

あけましてめでとうございます。

年末年始はゆっくり過ごせましたでしょうか?
私はお正月に近所の山に登ってきました。
昨年はゴミが目立ったので今年はゴミ袋持参での清掃ハイクです。

ところが強風のせいで登山客が少なく、そのため今年はゴミをほとんど見かけませんでした。
山頂のネコたちも「天気がいい時もゴミが少ないといいんだけどにゃー」と言ってました。(2015年1月5日)

大晦日に県北の病院で当直して、正月の朝は山に登ってそのあと紅白歌合戦の録画を見る、というのがここ数年の年越パターンです。
自分の中では、紅白はお正月にゆっくり見るもの、というイメージがすっかり定着してしまいました。

基本的にぼーっと見ていたのですが、今回はテロップなしで歌詞が理解できるかどうかに何となく注目してみました。

圧倒的に聞き取りやすかったのは長渕剛と中島みゆきでした。
意外だったのはサザン・オールスターズ。
桑田佳祐の歌い方で歌詞が聞き取れるはずがないと思い込んでいたのですが、非常に分かりやすくてびっくりした吹雪の元旦でした。
(2015年1月7日)

はなはだしく時機を逸した話なのですが、選挙のたびに不思議に思う事があります。

マスコミや自治体を挙げての投票率アップキャンペーンです。

投票率が低い方が自分の一票の価値が上がります。
裁判に訴えてまでも一票の格差にこだわる人もいるのに、「投票に行こう」って言える人はものすごく立派だと思います。
裁判に訴えている人がみみっちいという意味ではありません。
投票キャンペーンを目にするたびに「余計な事はやめてくれよ」とついつい思ってしまう自分がみみっちいというお話でした。
(2015年1月9日)

そもそも自分が何を考えて投票しているかよく分かりません。

地元に大きな公共工事を引っ張ってくる代議士がいい代議士だと言われた時代がありました。
地元から総理大臣が出れば選挙区内の道路が立派になる、と言われた頃です。
今では、そういう投票の仕方はあまり品がよくない、という風潮です。

その風潮は正しいのでしょうか。
自分の中で「利益誘導優先の政治はよくない」という考えと現実の「小選挙区制」と、衆院の劣化コピーとしか思えない参院の存在がうまく折り合ってくれません。

もしかするとこう割り切ると現実の制度を生かすことができるかもしれません。
衆院小選挙区では地元への利益を、衆院全国区では業界や階層への利便を図ってくれる候補者を選ぶ。
参院では国策で選ぶ。
つまり「衆院ではみんな思いっきりわがままを主張し合いましょう、参院で調整しますから」というやり方です。

これはこれで参院選挙区が浮いてしまうのですが……。(2015年1月14日)

選挙制度と民主主義理念がそぐわないような違和感、これは生殖医療の猛烈な進化に生命倫理がついていけてない状況に似ています。
あるいはオンラインショッピングやSNSが圧倒的に便利な一方で「何がどう危険かすらよく分からない」怖さを併せ持っている状況にも。

もしかすると私たち(私?)はまだ完全普通選挙制度を持て余している段階なのかもしれません。
(2015年1月16日)

震災から20年が過ぎました。

憶えていることがあります。
直後は大勢の取材陣が神戸を訪れ、悲劇も美談もたくさん掘り起こして報道していました。
やがて震災関連の話題がネタ切れになった頃サリン事件が起きてオウム真理教が世間の関心を一気にかっさらってしまいました。
ライフラインの回復も途上で、多くの神戸市民がまだまだ辛い生活を続けていたのに、マスコミに取り上げられるのはオウム関連のニュースばかりで、うらめしいような寂しいような複雑な感情を抱いてしまったことを思い出します。
どうしてこんなタイミングでオウムの人たちはサリンをばらまいたんだろう、と。

しかし今になってみると何となく分かります。

サリン散布自体は前々から計画されていたことだったのでしょうが、実行犯たちを最終的に踏み切らせたのは震災だったのだと思います。
都市が一瞬にして瓦礫と化してしまった映像を見て、彼らは末世の到来を実感したのではないでしょうか。

二つの出来事の関連が「何となく、ものすごく漠然と」分かったような20年後の1月17日でした。
(2015年1月19日)

オペラのシーズンがやってきました。
今年の芦屋市民オペラはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」です。

芦屋ルナホールで2月22日日曜日の11:30と16:30の2回公演です。
ぜひぜひご来場ください!(2015年2月2日)

普通ならここで「ドン・ジョヴァンニ」についてうんちくめいたものを書くところですが、今回は難しいです。

公演のお手伝いをするにあたって稽古を見せてもらうことも多いのですが、とにかく驚かされるのは演出家の読みの深さです。
すべての音楽に意味があり、すべての台詞に必然性がある……と頭では理解しているつもりですが、稽古の場でのレクチャーを聞くと演出家の理解の細かさ、深さ、広さ、高さには毎回圧倒されます。
こういうレベルの分析を聞いた上で、今さらどんな顔をして素人くさい感想が書けるでしょう。

ただ、「ドン・ジョヴァンニ」についてはいくつか分からないところがあります。
時間に余裕がある時に演出家に直接訊ねたいと思っています。
解決したら報告しますのでもう少しお待ちください。(2015年2月4日)

今聴いているのはこんな曲です。

ヴェッセリン・ストヤノフというブルガリアの作曲家のピアノ協奏曲です。
キャッチコピーが「聴いただけで恋をしたような気にさせてくれる曲」!
 聴いてみると甘くて切なくて、確かに初恋のようです。
クラシックを好きな人でしたら「ラフマニノフのピアノ協奏曲の2.5番みたい」と言えば分かりやすいかもしれません。

あまりに素敵なのでクリニックの待合のBGMとして流しています。
どうぞ聞きに来てください(?)。(2015年2月6日)

それからもう1枚紹介したいのは、これ。


ロシアの作曲家ガヴリール・ポポフの交響曲第2番。
これについては松本大輔「どっこいクラシックは死なない!」以上の紹介文はないと思うのでちゃっかり引用。

 *****

その後彼は、体制賞賛の映画音楽を中心に作曲していくことになる。それ自体はそれほど苦痛ではなく、いつかそこでためたお金で自作のオペラ上演を、というような夢も描いていたらしい。しかし才能ある作曲家が体制側の言うままにコマーシャル音楽を作っていたというのはあまりにも残念な話である。もちろんそうしないと殺されるのだからそれはそれで仕方がないのだが。

そうして時がたち、それから8年、彼はようやく交響曲第2番を発表する。タイトルは「マザーランド」・・・「母国」。もちろんベタベタ体制側の作品である。イケイケドンドンチンドンドン、ソビエト連邦素敵ですー、みんなで敵をやっつけよー、という作品で、晴れてスターリン賞も受賞した・・・。
しかし時代の先端を行き、近代ロシアの最高傑作といわれる画期的な交響曲第1番に比べてこの交響曲第2番のなんと情けない存在価値。そこには作曲家の意思も希望もなく、ただの職業的な細工があるに過ぎない。そんな作品、聴く価値があるのか。
そう思って聴いていなかった。

ところが・・・・これが・・・すごい曲だった。

親に言われていやいや描いた宿題の絵が金賞を取ることもある。苦手科目のテストで100点取ることもある。
動機がどうであれ、過程がどうであれ、よい成果が生まれることがあるのである。
バードがイギリス国教会のために書いた作品で感動することもある。ベートーヴェンが金目当てで書いた作品に感動することもある。伊福部昭が1回限りのコンサートのためにしぶしぶつなぎあわせたメドレー作品に感動することもある。
動機や背景や過程とは関係なく、傑作が生まれることがあるのだ。作者が天才だけになおさら。
そう、このポポフの交響曲第2番、おそるべき傑作、すさまじい傑作、愛すべき傑作だった。

 *****

聴いてみると「体制にすり寄って作った」などという代物ではありません。
ここには間違いなく本物の苦悩があります。
スターリンに媚びを売って作曲したというよりは、GPUに銃を突きつけられて作らされた、というのが現実ではないでしょうか?
(2015年2月9日)

このCDの後半に入っているのが同じ作曲家の交響的ポスター「赤軍運動(Red Cavalry Campaign)」。

こっちの曲は体制にすり寄った感じ満載です。
これも「どっこい!」からそのまま引用。

 *****

合唱つきのマーチなのだが、むちゃくちゃカッコいい。頭が空っぽになるほどカッコいい。あまりにカッコよくて、勇ましくて、下手に鉄砲でも持たされたらそのまま敵陣に突っ込んでいきそうな、おそろしいほどの扇情音楽。

 *****

まさにそんな感じ。
通勤途中に聞くととりあえず頑張ろうかな、という気になれます。
人によってはジャイアント馬場の入場シーンを思い出すかもしれません。
(2015年2月13日)

それから最近聴いているのが、これです。

ヘヴィーメタルとアニメソングの相性はもともといいのですが、そのマッチングを限界まで推し進めたのがこのユニットです。
リズム部隊の本気度が結構ヤバいです。

ライヴ映像が見事なのも特徴です。
これは彼女たちのパフォーマンスを邪魔していないカメラをほめるべきかもしれません。

概してロックのライヴ映像はピントがずれていて、見たいところを上手に見せてくれないことが多いです。
ひどいのになるとアップテンポの時に画面を激しく揺らしたりします。
見る方からすればそういう時こそプレイヤーの指先をじっくり見たいものなのに。

彼女たちの武道館ライヴの映像はそういう意味で真っ当です。
これと比べると彼女たちのPVはインスピレーション不足で哀しくなります。

動画サイトでBABY METALをチェックする時はPVではなく、くれぐれもライヴ映像を選びましょう。
(2015年2月16日)

ところで(ごくごく限られた一部の層では)すっかり一般的になったデスヴォイスですが、いつ誰が始めたのかよく思い出せません。

80年代半ばまではアクセプトのウド・ダークシュナイダーのハイトーンシャウトこそがベストメタリックヴォーカルだと思っていた記憶があります。
それから10年後の90年代の半ば、ライヴハウスで贔屓のイエロー・マシンガンが叫んでいたのは既にデスヴォイスでした。

衝撃的な出会いであれば憶えていると思うのです。
メタルファンの耳にいつの間にか入りこんできたような印象です。

アルバムをいろいろ聴き返してみるとナパーム・デスの87年の「Scum」は完全にデスヴォイスです。
それでは彼らが影響を受けたハードコア・パンクがデスヴォイスの源流かと思って聴いてみると、ディスチャージやGBHは声自体は普通の発声です。
むしろ86年、ゴリゴリのブラックメタルだった頃のソドムの方がデスヴォイスっぽいです。

おそらくはインディーズのイベントでブラックメタルバンドとハードコアパンクバンドが互いに影響を受け合って生まれ出たものなのでしょうが、同時多発的に自然発生した可能性も否定できません。
それくらい「出現するべくして出現した」デスヴォイスということなのでしょう。
(2015年2月18日)

スラッシュメタルにしてもデスメタルにしても新しいムーヴメントが次々と発生してくるのには理由があります。

音楽シーンはなぜか放っておくとどんどんぬるくなっていくのです。
大衆に迎合するためにぬるくなっていくのではないと思います。
パンクロックのように、むしろメジャー路線に背を向けたジャンルですらあっという間にぬるくなっていくのですから。

メタリカでもスレイヤーでも速さを売りにしていたのはデビュー直後の一時期だけでした。
スレイヤーの95年来日公演では速い曲を1曲演奏したと思ったら2曲スローチューンを演奏し、しかも曲間の長いこと長いこと。
「そんなに休みたいならアメリカで寝とけ!」と思ったものです。

遅いロックミュージックは飛び出さない3D映画と並ぶ二大「存在価値のない物」だと勝手に思っています。
若い皆さん、ゆっくりなロックを聴くくらいならブルックナーを聴きましょう。
(2015年2月20日)

存在価値が分からないと言えば、プロレスのタッグマッチもそうです。

2×2で、シングルマッチの4倍面白いという人もいますが、私にはまったく逆で4倍希釈されたように思えます。
あと全然面白くないのが選手のマイクパフォーマンス。それから派閥抗争。

そういうのがいやならストロングスタイルのプロレスを見ればいいのですが、基本的にルチャ系なので困ります。
なぜかルチャとタッグマッチとマイクパフォーマンスは親和性が高いのです。
せっかくドラゴンゲートのおひざ元にいるのにもったいないことです。

もしドラゴンゲートがマイクパフォーマンスを封印した「私語厳禁大会」を開いてくれたら絶対行くのですが。
その時にはタッグマッチでも1試合くらいは我慢して観ます。
(2015年2月23日)

さて、ぬるくなったシーンに飽き足りなくなった若手がより過激なシーンを生み出す、音楽界はその繰り返しです。
そんな中でベテランが過激であり続けるのは大変なことです。

「こいつは死ぬまでぬるくならないだろう」と、私が最も信頼を寄せていたのがSODOMのトム・エンジェルリッパーです。
こっ恥ずかしい名前を未だに名乗り続けているのがその証拠です。
ところがそのSODOMもここ数作のアルバムではミドルテンポの曲が増えてきました。
Youtubeで最新ライヴ映像を見ましたが、残念ながらこれではモッシュはできません。
50歳を過ぎても激速ナンバーだけを演奏し続けるのはプロ野球でピッチャーを続ける以上に厳しい事なのかもしれません。

となると期待をかけたいのは元Brutal Truthのダン・リルカです。
50歳の誕生日を機に引退中ですが。
彼の場合多ジャンルに軸足を置いているので激速ナンバー一辺倒ということはありませんが、十分な休息期間のあと激速率80%以上のニューアルバムで復活してくれると信じています。
(2015年2月25日)

「ドン・ジョヴァンニ」の話がいつの間にかデスメタルの話になってしまいましたが、ここで中途半端に話が戻ります。

BABYMETALに「イジメ、ダメ、ゼッタイ」というタイトルの曲があります。
いじめっ子をたしなめる歌なのか、いじめられっ子を慰める歌なのか、傍観者の勇気を奮い立たせる歌なのか判然としませんがこの歌の存在自体はとても面白いと思います。

傍観者に向かって「見て見ぬふりをするな」と言う人がいます。

果たして現実的な提案でしょうか?

中学生の頃の自分を思い出すのですが、いじめっ子を注意する事ができたとはとても思えません。
誰に、どんな言葉で背中を押されても絶対に無理だったと思います。
大人になった今を考えるとよく分かります。
電車の中で迷惑行為を見かけて注意できる人がどれだけいるでしょう?
街宣車や暴走族に抗議できる人がどれだけいるでしょう?

私はヘッドホンの音漏れは基本的に注意する事にしていますが、もちろん相手を選びます。
それ以外の迷惑行為については、白状しますが、見て見ぬふりをします。

大人の私も持っていないような勇気を中学生に強いる事が現実的とは、私にはとても思えません。
(2015年2月27日)

同様に、いじめっ子にいじめがよくない事を教え諭すというのも意味があるとは思えません。

イエス様の時代からありとあらゆる人が「イジメ、ダメ、ゼッタイ」と言い続けてきて、そして現状がこうです。
ヒトとは基本的にいじめたくてうずうずしている生物であると認めるべきでしょう。
とすればいじめっ子に「イジメはダメ」と教えるのは、うちのネコたちに「ドアを開けたら閉める」と躾けるのと同様に困難だと思うのです。
 不可能ではありません。
しかしとてつもなく難しいです。

大人でもそうです。
社長の立派な訓示では社員のモチベーションは上がりませんし、官房長官が綱紀粛正を訴えても政治家の金銭トラブルはなくなりません。
何かを変えようとすれば個人の良心や勇気に頼らないシステムが必要です。
(2015年3月2日)

じゃあどういうシステムが有効か、その具体案については現場の先生からの提案を待ちたいと思います。
教育評論家や管理職ではない、現場の先生のアイデアを。
欲を言えば、いじめは教師の資質や熱意によってなくすことができると信じている熱血タイプではない先生方の発想を。

それにしても熱意や勇気でいじめが撲滅できるという幻想のためにどれだけ多くのいじめが放置され、どれだけ多くの子どもたちが犠牲になった事でしょうか。

最近ではネット上でのいじめも問題になっています。
重大犯罪の加害者のプライバシーを過剰にあばき立てて加害者や家族を追いつめたり、面白半分でおこなわれた不法行為を見つけ出して告発したり。
こうした一連の行動を見ていると、前回書いた「人は人をいじめたくてうずうずしている」論が確信されます。
その一方で、「いじめたくてうずうずしているにもかかわらず普通の人はよっぽどの理由がなければいじめない」という事実も表していると思います。
さらに言えばこうも結論づけられると思います。

人々はいじめる対象と理由を常に探し求めている。
(2015年3月4日)

理由も分別もなくいじめに走る中学生と、いじめる対象と理由を探しまわっている普通の人々と。
その二つの負のエネルギーを干渉させる方法はないものでしょうか?

素人考えですが学校にWEBカメラをたくさん設置して公開するのはどうでしょう?
WEBカメラによるプライバシー侵害を問題視する昨今の風潮に逆行する考えです。

教室で中学生たちがプロレスごっこをしているところを想像してみてください。
たとえば一方的に技をかけられている生徒がいて教師がその生徒に「いじめられているのか?」と訊ねたとします。
そこで笑顔で「ただのプロレスごっこだ」と答えられたら教師にそれ以上何ができるでしょうか。
いじめの場合、被害者がいじめられている事をぎりぎりまで認めない事が多いです。
そして被害者に否定されたら教師としては「怪我しないように気をつけろよ」と言うのがせいぜいだと思います。

しかしネット上で不正行為を探し回っている人たちはそれでは終わらないと思います。
技をかけている側の生徒の行動を追跡して、いじめの決定的瞬間を見つけてくれるかもしれません。
そして「外部からはいじめのように見える」と指摘されれば学校も正式に対応せざるをえなくなるでしょう。
被害者側の生徒がいじめを否定しても「被害者が否定しても第三者からいじめに見えたらいじめ」という理屈で加害者をいさめる事ができます。
(2015年3月6日)

それに校内の様子が外部に公開されれば、被害者や周囲の子どもたちが部外者を装っていじめを告発する事も可能になります。
被害者たちが一番心配するのは「誰が告発したか加害者にばれるのではないか」という点です。
その心配から解放されればいじめの告発も増えるのではないでしょうか。

被害者や傍観者に「勇気を出せ」と言うのは現実を無視した無責任なやり方です。
いじめを見かけた子供が、勇気などなくても加害者を糾弾できる仕組みこそが必要です。

とは言いながらWEBカメラによる学校映像の公開は難しそうです。
社会にはいじめ被害者の人権よりも守らなくてはならないものがあるらしいからです。
(それが何なのか、私にはよく分からないのですが)

というわけで、この世の中からはしばらくの間いじめがなくなることはありません。

私たちにいじめに立ち向かう勇気はありません。
教師に密告するのも怖いです。
しかしいじめを見かけた時に「イジメ、ダメ、ゼッタイ」のサビのフレーズを口ずさむことくらいはできるのではないでしょうか。
口ずさんだからといってどうなるわけでもありませんが、「自分は何もしなかったわけではない」という精神的アリバイにはなります。

何よりもキャッチーでノリがよくていい曲ですし。
(2015年3月9日)

神戸元町ダイアリー2014年(4)台湾のコスプレ写真<main>神戸元町ダイアリー2015年(2)待合室雑誌事情

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