「罪と罰」を読む(第6部第8章)

(190)

 

最後の最後に来てまだまだ謎の描写があります。

 

ラスコーリニコフが大地に口づけしている場面で、通りがかりの人々がひざまずく彼を見てあざわらいます。

その中の一人がこう言います。

 

みんな、こいつ、エルサレムへ行く気だぜ、子供や故郷とお別れしてるんだ。

この世のみんなにお辞儀してるんだ。

おれたちの都サンクトペテルブルグと、その土にキスしてるってわけよ

 

おおっ、何と的確な説明でしょう!

 

 

まるで「キャプテン翼」の実況アナウンサーなみです。

台詞の主は「ほろ酔いかげんの町人らしい男」とのことですが、ただ者ではなさそうです。

 

それから火薬中尉の一連の台詞もよく分かりません。

彼は「運よくお妹さんにもお目にかかれました」と言います。

ドゥーニャはそんなこと言っていませんし、そんな機会があったとも思えません。

 

さらに火薬中尉はザメートフが転属になったとも言います。

新人類で扱いにくかったとも。

しかしこのあたりの顛末も本編では語られずじまいです。

 

ドストエフスキーの中では「地道に、しかし見当違いの捜査を続ける火薬中尉」という裏ストーリーがあったのでしょうか。

その捜査の一環でドゥーニャと会い、ラズミーヒンには一目置いたけれど、ザメートフとは衝突し……。

もしかすると第四部のあとあたりに幻の章があったのかもしれません。

 

頭の中は疑問符でいっぱいですが、とにもかくにもこれで「罪と罰」本編は終了です!

下部消化器外科専門用語でいうところの「残便感」が著しいですが、いよいよ次回からはエピローグです。

今年中に終わるのでしょうか?


「罪と罰」を読む(第6部第8章)

(189)

 

全然関係ない話ですが、大昔、小学校の給食で出てくるレーズンパンが大好きでした。

そのまま食べても美味しいし、時にはレーズンだけくり抜いて、最後にまとめて食べるのも楽しみでした。

その話を祖母にすると袋入りのレーズンを買ってくれました。

ところがレーズンだけ食べても全然美味しくないんですね。

レーズンはレーズンパンにあってこそ美味しいんだなあ、と人生の真理を悟った瞬間でした。

 

「意識の流れ」です。

 

ドストエフスキーは細かな心理描写がわずらわしいタイプの作家ですが、第6部で二度、客観的心理描写を廃した「意識の流れ」という技巧を見せます。

一つはスヴィドリガイロフの死の場面、もう一つがラスコーリニコフの自首の場面です。

小うるさい地の文章の中にあって「意識の流れ」は異様で強烈な迫力を見せます。

 

一方この「意識の流れ」という手法を全面的に取り入れたのがジョイスの「ユリシーズ」でした。

「ユリシーズ」は全編ほぼ「意識の流れ」によって書かれているといってもいいほどです。

ちなみに「罪と罰」が1866年、「ユリシーズ」が1922年。

 

そしてこの二つを並べると、私はついついレーズンパンを思い出してしまうのですが、どうしてなのでしょう。


「罪と罰」を読む(第6部第8章)

(188)

 

続く部分は全編のクライマックスなのでごちゃごちゃ言わずに読んでもらうしかありません。

 

でも、ごちゃごちゃ言います。

 

まず戸惑うのはラスコーリニコフの優柔不断さです。

せっかく十字路で大地に口づけしたのに、結局「わたしは人殺しです」とは言えませんでした。

そのあとせっかく警察署に行きましたが、火薬中尉と世間話だけしていったんは帰ってしまいそうになりました。

前回も書いたようにラスコーリニコフは当社比75%程度の決意力で自首したのでした。

 

最後の最後くらいすっきり感動させてくれよ、と思わず言いたくなります。

 

ところでこのあたりは「意識の流れ」という手法で書かれています。

スヴィドリガイロフの最後の場面もそうでした。

「意識の流れ」で描かれるスヴィドリガイロフの最期。

その時点で「罪と罰」の主役をラスコーリニコフから奪い取っていたスヴィドリガイロフが、ラスコーリニコフとの存在感の違いを決定づけたかと思われた場面でした。

ところが最後の最後でドストエフスキーはやってくれました。

ラスコーリニコフはちゃんと主役を奪い返してみせました。

ドストエフスキーの筆は冴えに冴えます。

 

何度読んでも、いや、読めば読むほど痛切で哀れでもどかしく、感動的です。

 

ですが、このすさまじい文章力であれば、ラスコーリニコフが普通に「人殺しです」と叫んで、普通に自首しても、私たちに感動を与えてくれたのではないかと思うのです。

 

私たちは知っておくべきです。

ドストエフスキーがここで手放しの感動噺を提供するつもりではなかったということを。


「罪と罰」を読む(第6部第8章)

(187)

 

このあたりまだまだ訳の分からないことだらけです。

404ページ。

 

「十字を切って、一度でいいから祈ってください」臆病そうに声をふるわせながらソーニャは哀願した。

「ああ、いいとも、何度でも気のすむまでね! それも本心から、ソーニャ、素直な気持ちから……」

しかし、彼が言おうとしていたのは、べつのことだった。

 

この「べつのこと」とは何でしょうか?

 

答えらしきものは406ページの最後にあります。

 

おれは彼女の涙がほしかった、あの怯えが見たかった、彼女の心が痛み、切りきざまれる様子を見たかった!

 

しかしここに至るまでにラスコーリニコフは何度も新しい感情に襲われています。

 

まず404ページ、

 

そう言いながら、ひとつの新しい感情が彼のなかに生まれた。

ソーニャを見つめているうちに、胸がしめつけられた。

(中略)

《おれの乳母にでもなるって気か?》

 

次のページ、

 

ふいに、ソーニャがいま自分といっしょに行こうとしているのにも驚いた。

 

つまりラスコーリニコフは、自首する自分に付き添おうとしているソーニャを見て二回も新鮮に驚いています。

 

そして三回目に先ほどの406ページの台詞の直前の文章に至るわけです。

ラスコーリニコフは本心では彼女にすがりたかったのです。

 

でも「すがりつくわけにはいかない」と強がっていました。

それが401ページの「こけおどし」でした。

405ページの精一杯の強がりでした。

 

「自首したい、ソーニャに付き添われて」というのが彼の心の奥底の願望です。

しかし自首に関してもまだまだ迷っています。

付き添われたいという気持ちも口に出せませんでした。

素直さ指数でいうと75%程度の気持ちで、ラスコーリニコフは広場に向かいます。


「罪と罰」を読む(第6部第8章)

(186)

 

老婆の十字架が、現実とラスコーリニコフの記憶とで食い違っています。

現実にかけていたのが糸杉と銅、彼の記憶では銀と聖像。

そして、糸杉と銅、というのはソーニャが持っている組み合わせと同じです。

 

無理にこじつけられないことはありません。

 

ソーニャが彼に見せた十字架は糸杉と銅で、老婆がかけていたものと同じ組み合わせだった。

ラスコーリニコフはその偶然の一致を無意識に封じ込めようとして自分の記憶の方を書き換えた。

 

フロイトもびっくりの「記憶の改竄」です。

 

ですがこの仮説にはやっぱり無理があります。

第3巻157ページでソーニャがラスコーリニコフに十字架を差し出した時に、

 

十字架を受け取ろうとしてラスコーリニコフはぎょっとしてあわてて手を引っ込めた

 

みたいな描写があればよかったのですが、動揺らしきものを読み取るのは難しいです。

ここはドストエフスキーの勘違いと解釈するのが妥当だと思います。

 


「罪と罰」を読む(第6部第8章)

(185)

 

実はここまで解釈しても分からないところがあります。

ラスコーリニコフの台詞のちょっと前、ソーニャが感じた違和感です(401ページ)。

 

ソーニャは驚いて相手を見やった。

その口ぶりが妙に感じられたのだ。

つめたい戦慄が、体を走った。

だが一分ほどすると、彼女はすぐにさとった。

この口ぶりも、この言葉もーーみんなこけおどしにすぎない。

彼はなぜか隅のほうばかり向いて話し、まともにこちらを見ないようにしているらしかった。

 

ラスコーリニコフはソーニャに十字架をもらいに来ました。

ソーニャの言葉に従って自首すると言いに来たわけです。

なのにこれ以上何を強がって見せることがあるでしょうか?

 

しかしこの謎はひとまず置いておきましょう。

 

さて、403ページには四つの十字架が登場します。

まず、ソーニャの糸杉の十字架。これをソーニャはラスコーリニコフに与えます。

もう一つは銅の十字架。これはもともとリザヴェータがかけていたものです。

ソーニャの聖像と取りかえっこして今はソーニャの手元にあります。(157ページ)

 

あとの二つはラスコーリニコフの記憶の中に登場します。

老婆がかけていたものです。

「同じような十字架、ほかにもふたつおぼえているよ、銀のと、聖像のやつ」

 

ところが第1巻の186ページの殺人シーンではこうなっています。

 

紐には、二つの十字架がついていた。

糸杉のと銅製の十字架で、そのほかにもエナメル細工の小さな聖像がついていた。

 

あらあら、謎を一つスルーしたと思ったら、すぐまた新しい謎が出てきてしまいました。


「罪と罰」を読む(第6部第8章)

(184)

 

同じページの

「じつはね、ぼくはさっき、げんこつで妹を脅かそうとしたんだよ。

それもね、最後にもういちど、こっちを見ようとふり返ったというだけでさ」

も変です。

 

実際のラスコーリニコフの行動はこうでした(397ページ)。

 

ふたりは最後に目を見かわした。

だが、妹がこちらを見つめているのに気づくと、いらいらして、むしろいまいましげに早く行けと手で合図をし、そのままさっさと角を曲がってしまった。

 

げんこつで脅そうとはしていません。

げんこつかどうかでずいぶんニュアンスが変わります。

ヒジョーに乱暴に意訳するなら、

げんこつでなければ「心配するな、ちゃんと自首するから」です。

げんこつなら「自首だと? とっとと帰りやがれ」です。

 

この捏造も、前の部分を「火薬中尉のところには行くが、自首はしない」と解釈すると理解しやすいです。

 

「自首しなかったらポルフィーリーは驚くだろうな、実際、自首を勧めてきた妹も脅かして追い返したことだし」

 

ラスコーリニコフの中では「自首しない」という選択肢がまだまだくすぶっているようです。

 

 


「罪と罰」を読む(第6部第8章)

 

(183)

 

だとしても後半部分の「ポルフィーリーではなく火薬中尉に自首して驚かせてやろう」という台詞がますます意味不明です。

 

そもそもポリフィーリーは247ページでラスコーリニコフにこう言って自首を勧めています。

 

「わたしは『あちらでは』、あなたの自首がまったく想定外だったようにつくろってさしあげます。

(中略)

あなたの嫌疑もすべてゼロにしてしまいます」

 

つまりこう言っているわけです。

 

ラスコーリニコフのことを疑っていない火薬中将のもとに自首しなさい。

そうすれば私も減刑を約束するから。

 

火薬中尉に自首しろというのはポルフィーリーの言葉なのです。

それなのにどうして火薬中尉のところに出向くのが驚かせることになるのでしょうか?

 

これは「火薬中尉のところに行く」イコール「自首」と解釈するから生じる食い違いです。

「火薬中尉のところに行くには行くが、自首はしない」という意味だとすれば何となくすじは通ります。

 

「自首すれば見ず知らずの連中によってたかって叩かれるに違いない、それは耐えられない。

そうだ、火薬中尉のところに行くだけ行って、世間話をして帰ってくるというのはどうだろう。

きっとポルフィーリーは驚くだろうなあ」

 


「罪と罰」を読む(第6部第8章)

(182)

 

それではもっと幅広く「町人たち」のことでしょうか。

しかし彼らが重要な役を演じる第1巻410ページを見ても、特に外見についての描写はありません。

 

マルメラードフも、レベジャートニコフも、ミコールカも、その他の通りすがりの人々も「野蛮な面」と描写されたことはありません。

 

いや、一か所だけありました。第1巻です。

 

「酒場のまわりにはいつも、ひどく酔っぱらって、怖ろしい人相をした男たちがうろついていた……」(133ページ)

 

「たいそう首が太い、人参のように赤く、脂ぎった顔をした、まだ若いひとりの百姓が叫んだ」(135ページ)

 

「馬殺しの夢」の場面です。

ラスコーリニコフが抱いた「さらし者にされるという恐怖」。

その対象はおそらく一般市民でしょう。

しかしこの場面、ラスコーリニコフにとっては一般市民の姿が、老いた馬をよってたかって殺した連中のように見えていたのだと思います。

 


「罪と罰」を読む(第6部第8章)

(181)

 

このあたりからだんだん難しくなってきます。

 

402ページ

何がしゃくにさわるっていって、ああいうばかで野蛮な面をした連中が、さっそくぼくを取りまいてじろじろのぞき、くだらん質問を浴びせてくる、そしてそれにいちいち答えなくちゃならないってことさ、つまり、後ろ指さされてさらし者にされることさ……くそっ!

いいか、ぼくはポルフィーリーのところへなんか行かない。

もう、ほんとうにうんざりしてるんだ。

友人のポーロフ君、そう《火薬中尉》のところに出向いていって驚かしてやるのさ。

 

この部分、分かったようで分からないところです。

 

野蛮な面をした連中とは、火薬中尉たち警察職員たちのことでしょう。

自首すると彼らの取り調べを受けて根掘り葉掘り聞かれる。

それがいやだからポルフィーリーにではなく、火薬中尉に自首したい、と言っているのです。

火薬中尉の取り調べがいやなくせに火薬中尉に自首したいとはどういうことでしょう?

 

私はこれまでこの台詞を、ラスコーリニコフの錯乱を表すものだと解釈していました。

 

もしかすると違うかもしれません。

 

読み直してみると、火薬中尉はかっとなりやすい、ある意味「野蛮な」性格であるかもしれませんが、外見はこうです。

 

赤みがかった口ひげを左右にぴんとはねあげ、目鼻立ちのやけにちんまりした顔をしていたが、といって、いくぶん厚かましい感じがする以外、特別これという表情もなかった(第1巻226ページ)。

 

決して「野蛮な面」ではありません。

事務官は流行りの服をいきに着こなしていますし、署長はみごとな頬ひげの持ち主です。

警察職員たちを「野蛮な面をした連中」と表現するのは無理です。

 


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